商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
聖騎士たちとプリメーラの戦いが始まる少し前、正確には天使が聖都の上空を黒いヘドロで覆い尽くすよりも僅かに前、エミリーは疎開命令を無視して都市の片隅にある自分の工房で変わらず研究の総仕上げを行っていた。
彼女の工房には何十枚――いや、もしかしたら何百枚という規模の紙が床や机に踏み場もない程に散らばっており、エミリーはそれを気にすることもなく一心不乱に無数の数式を新たな紙に記している。
散らばる紙が物語るように既にかなりの時間が過ぎ去っており、疎開する住民の慌ただしさすらも気が付いていないのかもしれない。
彼女の集中力は今現在は全て研究に向けられている、眠ることもなく食事をすることもなく、炎症を起こしそうな手首の痛みすらも自覚していないようだ。
疲れはないようだ、言葉にすることが難しい奇妙な興奮によって体の奥底に封じ込められているらしい、おそらく自覚した瞬間に倒れこんでしまうだろう。
だが、それで良かった、優先すべきは休憩でも睡眠でもなく、この研究を完成させることだけである。
そしてそれも、手に届く場所にまで来ているようであった。
「……できた」
小さな呟きが工房に広がる、当然ながらエミリーの声だ。
「できた……できた……できたぁッ!!」
徐々に興奮したように声が大きくなっていき、最後には彼女にしては珍しく幼い子供のように興奮を体で示していた。
両手を大きく掲げて何度も上げ下げを繰り返す、それに合わせて両足もその場で地団駄を繰り返す、その姿は本当に感情を制御できない幼い子供のようである。
だが仕方がないだろう、彼女にとってこれは理性をかなぐり捨てても喜びを表したい状況なのだ、黄金の海に飛び込むよりも、宝石の大地を踏みしめるよりも、ずっと価値があった。
「……後は、形にしなければ」
ただ数式を羅列してそれで終わりではない、それでは結局は紙の上にある空論でしかないだろう。
ここから先は彼女だけでは難しい、既存の魔術とは異なる完全に新しい法則を生み出そうとしているのだ。
簡単なことではない、魔術を発展させるのではなく、これまで存在していなかった現象を起こそうというのだから、それこそ人の身に余るとさえ言っても良いだろう。
先人たちですら歩んでこなかった足跡一つもない雪原に最初の一歩を刻めるかもしれない、魔術師ならばそこに興奮しない筈がない。
「ヘステア、行きますよ」
「ぴ~」
だからこそエミリーは急いで工房を後にする、燻る暖炉で眠るヘステアに声をかけて自分の肩に止まらせると、そのまま工房の外へと駆けていく。
だが扉を開いた瞬間にその足は止まることになる、工房の外に出た瞬間に広がっていたのは黒いヘドロにより汚された聖都の街並みであったからだ。
美しく整えられた道や建物も、墨をぶちまけたかのように汚れており、それがどこまでも広がっている、エミリーの工房としてある借家の庭も既にヘドロに沈んでしまっているらしい。
空を見上げると黒い太陽とさえ思えるような大きな球体が浮かんでおり、どうやら聖都を沈めんばかりに存在するこの黒い液体はそこから注がれているようだ。
今もそれは続いており、都市の地下に広がる下水の処理能力が限界を超えれば一気に水かさが増えるだろうことは彼女にもよくわかった。
研究に集中するあまり周囲の状況がハッキリとわかっていなかったので、完全に逃げ遅れた形である。
「ぴ、ぴぴッ!!」
これやばい、とエミリーの肩に爪を立てるヘステアがそう伝えて来る、魔術的な契約関係にあるので会話が成立しなくても意思疎通ができるのだ、ざっくりとではあるが考えは共有できる。
感じ取れるのは焦りと僅かな恐れだ、輪廻転生を繰り返す何度でも炎から生まれ直す不死鳥であるヘステアからしてみても、聖都に広がる黒い粘液は恐怖を抱く対象ということだろう。
つまり、肉体的にはごく普通の性能しか持たないエミリーにとって、聖都に注がれる黒いヘドロは傍に置くことすらも避けなければならない劇物ということである。
実際に、触れた訳でもないのに既に気分が悪くなってしまっている、喉の奥から熱い吐き気が上昇してくるが、それを何とか抑え込む。
目の前に広がる昨日までは存在しなかった黒い沼をエミリーは越えなければならないのだ、引き返すという選択肢は最初から存在しない。
「はぁ~……行きます」
覚悟を決めるように大きな溜息をしてから彼女は黒い粘液の中を進みだす。
エミリーの足首程までの深さに達したヘドロであるが、やはり聖騎士とは異なり常に祝福の力を宿していられる訳ではないので、被害は彼らよりもずっと大きい。
おそらく――いや、このまま触れていては確実に死ぬ、そう確信させるだけの呪いであった。
「うッ……あぁ」
とうとう我慢しきれなくなったのかエミリーはその場で嘔吐してしまう、視界がグルグルと回り始めて重度の酩酊状態となり体幹を崩す。
そのまま顔面から崩れ落ちそうになりながら、それでもそうならなかったのは彼女の体を温かな熱が広がったからだろう。
「ぴ~」
熱の発生源はヘステアであった、肩に爪を立ててしがみ付く不死鳥がその身に宿る熱をエミリーへと流したのだ。
その結果、呪いと病と毒に蝕まれていた彼女の体は何とかヘドロに沈む前に持ち直すことができたらしい、一時的な拮抗を作りだしたのだろう。
「……ありがとうございます」
助けてくれたことに礼を返すと、ヘステアはエミリーの頬へと自分の頬を擦りつける、その少しくすぐったい感触に微笑むと、一人と一羽は聖都を沈めんばかりに広がるヘドロの中を再び進みだした。
一歩泥の中を進む度に気分が悪くなり、その度に熱が病魔を押し戻す、そんな状態を行ったり来たりしながらエミリーが目指すのは聖騎士たちとプリメーラが戦う大神殿の正面玄関ではなく、そこから少し離れた位置にある生命神の神殿である。
普段ならば慣れた道のりであってもぬかるむ泥に満たされた状況では思うように進めない、女性らしい体力しか持たないエミリーは四苦八苦しながらも泥の中を歩む。
足を進めて泥に沈める、粘度の高いヘドロは彼女の足に巻き付くかのように糸を引くのだが、それを引きちぎりながら前身を繰り返していく。
ヘステアの加護があるとはいえこの泥の中に長時間はいられない、いたくもない、足首程の深さとはいえ劇毒に触れているのだ、ある程度は抵抗できても完璧とはいかなかった。
エミリーが生命神の神殿へ辿り着く頃には両足を中心に呪印が広がっており、毒と病もその体を蝕んでいた、神殿を包む結界に入った瞬間に限界が来たのか足をもつれさせて倒れこむ。
綺麗に剪定された芝生に顔から倒れこんだ形だ、ヘステアの熱を今も体に感じるのだが、それでも防ぎきれないほどの呪いと毒が蓄積しているのだろう、彼女の両足はピクリとも動かない。
「うッ……あ……まだ……進まないと」
それでも両手を使って這いずるように先へと進まなければならない、幸いなことに結界に守られた生命神の神殿内部まで黒い泥は侵入できていないので、これ以上は呪いに蝕まれることもなかった。
ズルズルと動かなくなった両足を引きずり、這いずりながら神殿の内部へ入ろうとする彼女に声がかかったのは、正面玄関を何とか開こうとしている時である。
「エミリー様!?」
指先が扉に触れるよりも先に分厚く重厚な音と共に開かれる、神殿の内部から顔を出したのはマリーであった。
エミリーが這いずりながらも進もうとしている姿に驚いていたのだが、それでもマリーは固まることはなく癒し手としての使命から即座に駆け寄って深い祈りと共に治療魔術を行使しようとしている。
だが、エミリーはそれを阻止するかのように祈りの手を握り返していた。
「マリー様、治療は不要ですッ!! 今はまだ力を温存していてください……生命神の眷属たちにやっていただきたいことがあります」
「い、いえ、しかし……エミリー様の体が」
「足が動かないことなど些末な問題かと……そんなことよりも、祈願の儀式を進めたいんです」
「祈願の儀式を? 一体何を願うというのですか?」
握られたエミリーの手にグッと力が入る、細い指から与えられるとは思えないほどに力が込められていた。
そしてエミリーはマリーの瞳を真っすぐ見つめてこう告げる。
「新しい魔術を生み出す許可を願います」
勝手に作ればいい、それは個人の自由なのだから、そんな風に割り切れるような性格を彼女はしていないらしい。
何より、新しい魔術を生み出すということは、つまり新しい数字を生み出すことにも等しいとエミリーは考えているのだろう。
そして新しい数字を生み出すのは新しい法則がこの世に誕生することと同義である、既存の魔術を発展させるのではなく完全に新しい魔術を作るということは、つまりそういうことである。
ならば神へ願い祈ることが必要だ、エミリーは神々が作りしこの世界に手を加えようとしているのだから、伺いをたてる必要があると彼女は考えた。
この研究が、この数字の羅列が、この魔術が、世界に必要な法則だと認めてもらう最後の工程であるのだろう。
「今の聖都の状況を打開する手立てになると考えます……ですが、私一人では儀式を行えません、それにきっと耐えられないでしょう……だから、どうか」
マリーは縋るように手を伸ばすエミリーの全身を観察する、医療魔術の担い手として、生命神の神官としての瞳で見た結果は言うまでもなく重症であった。
呪いと毒が広がった両足は呪印に埋め尽くされており放置すればすぐに壊死するだろう、それこそ足から腐り落ちるように体に広がっていくことは簡単に想像できてしまう。
聖騎士でもないのに聖都に注がれた泥に触れればそうなるものだ、寧ろ原型を留めていること自体が奇跡に等しいのかもしれない。
ヘステアという存在がなければ、生命神の神殿まで辿り着くことすらできなかったのは間違いないだろう。
今にも意識を失っても不思議はないのだが、エミリーの瞳には確固たる意志が宿っており、本当に己の状態など気にしていないかのようである。
「わかりました……すぐに準備いたします」
そんなエミリーの願いを、マリーは受け入れるのだった。
祈願はいわば神との交信である、数ある儀式の中でも高位に属するものであり、それこそ位の高い神官が行えば神託を賜る可能性すらもある、代わりに凄まじい疲労や衰弱状態になってしまう。
聖女と称えられるマリーであっても万全の体調で挑むことが前提だ、上位存在との交信など己の全てを持ってしても届かないことが普通だと言えた、ここでエミリーを治療する為に力を注ぐのは儀式の崩壊に繋がってしまう。
断腸の思いではあるが、這いつくばるエミリーに肩を貸すことしかできないでいた。
「今現在の状況をご説明しますと。聖アントニウス率いる騎士団と天使が接触して戦いに発展したとのことです」
「なら、時間はあまり残されていませんね……この泥の中では、人は長く戦えない、例え聖騎士であっても同様でしょう」
彼らを救う為にも新しい法則や概念が必要だと、彼女は言葉にする。
「灯の魔術、でしたか?」
「はい……人類史の始まりを刻んだあの日の炎を再現します」
既に獣を人へと変えた始まりの灯はこの世にない、炎の魔術へと進化してしまったからだ、その歴史を巻き戻し、あの灯をもう一度生み出すのがエミリーの魔術であった。
簡単である筈がない、それこそ神に祈願しなければならないほどに難しいだろう。
「皆さん!! 手を貸してください!! これより祈願の儀式を行います!!」
マリーの判断は早かった、エミリーがやろうとしていることは専門外なのでさっぱりわからず、それを成せば聖都や聖騎士たちが救われる確信も持てていない、だがエミリーのことだけは信じることができた。
ならば理由も説明もいらない、友人がそれを望むのならば手を貸すだけである、寄り添い支えることが彼女の、そして生命神の神官の在り方なのだから。
神殿に残っていた神官たちに声をかけて頭数を揃え、中央にある祭壇場へとエミリーを運んでいく動きに迷いも疑いもない。
「エミリー様、手順はいかに?」
「儀式の中心を私に……マリー様を筆頭に皆さまは寄り添ってください。贅沢を言えば神の膝元が好ましいのですが……いえ、疑うことは無意味です」
届かないのであれば、それまでのことである。
この魔術はこの世界に不要だと神が決めたということだ、場所によってその結果が覆るとは思えなかった。
祭壇場の中心に運ばれたエミリーはすぐに術式の構築を始める、他の全てが目に入っていないかのような集中力であり、実際に周囲の状況は一つもわかってはいない、全てをマリーに任せた形である。
「エミリー様を中心に北に聖杯を!! 南には宝石を置いて純潔の方は東西に立ってください!!」
魔術を完成させる為に祈るような姿勢になったエミリーを中心に、生命神の神官たちが周囲を儀式に相応しい場へと仕上げていく。
この場所を可能な限り神の膝元へと近づけようとしているようだ、神殿という環境も手伝って周囲が息を呑むほどに神秘的な力に満たされるまでそう時間はかからないだろう。
「……ひッ」
場が整い、祭壇場に言い知れぬ重圧が広がった時、儀式の一部を担っていた神官の一人がか細い悲鳴を漏らす。
それを合図にしたかのように神殿の内部は神威とでも呼ぶべきものに支配されて、彼女たちを取り囲む。
ここに、新しい法則を生み出す為に神との交信が始まるのだった。