商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
エミリーがやろうとしているのは、生み出そうとしているのは、この世界に新しい数字を作ることに等しい、数字の一を二に進めるように既存の魔術を発展させるのとは異なる、彼女が生み出すのはゼロである。
それは新しい概念であり法則だ、そんなものを作り出すのは人の身には余るだろう。
だからこうして神殿で祈願の儀式を行っているのだ、神との対話を無くして世界を変えられる筈もない。
神官がか細い悲鳴を上げたと同時に神殿の内部には神威が満ちる、神の発する気配とでも言うべきものに満たされたのだ、例えあちら側に害する意思が無かったとしても矮小な人間には耐えづらい圧力を感じてしまう。
心を強く持たねば神を前にすることはできない、巨大な存在感に押しつぶされそうになりながらそれでも心を挫けさせない思いの強さが必要であった。
儀式の中心はエミリーである、だから最も神に近い位置にいる彼女が神威の全てを向けられてしまう、その他の神官たちが感じるのは余波でしかないがそれでも押し付けられる迫力は膨大である。
エミリーの全身にも巨大な存在感が圧し掛かって来るのだが、彼女は動かない両足を放り出して体を祈るような体勢にしてはいるが、心は挫けていなかった。
「……こんなにも早く神々が現れるなんて」
感嘆の声をあげたのはマリーである、儀式全体を統括している聖女は本来ならば神と対話を成功させるまでに長丁場となることを知っている、始まって僅か数秒で神意を感じとれる位置にまでこれたことに驚くしかない。
それだけ、この祈願を神々が待っていたということでもある。
神殿に満ちた神威が最高潮にまで昂った時、周囲とは隔絶された領域へと変貌してしまう、ここは人の領域でありながら神々の世界に近い位置にまで来たということだ、それこそ神の膝元のように。
そして儀式の中心にいるエミリーに光が差す、神殿の天井など存在しないとばかりに光の柱が現れて、ここに儀式が完成した。
『 』
言葉が発せられる、実際に耳に届いた訳ではないが、確かにその場にいた者たちは神の声を魂で聞き取った。
「ッ……神託に、従い……ここに、灯の魔術の研究成果を、提示いたします!!」
神威に押しつぶされそうになりながらもエミリーはハッキリとそう言葉にする、神を前に畏怖しながらもしっかりと話せる姿を見た周囲の神官たちは感心したような視線を向けているようだ。
「この研究を完成させる許可を頂きたく思います……新しい火を……原初の明かりを……ここにッ!!」
エミリーが懐から取り出したのは数え切れないほどの数式が羅列された紙の束である、言ってしまえば紙とインクの塊でしかないのだが、それこそがエミリーの研究成果なのだ、山のような金貨よりも宝石の大地よりも魔術師にとっては価値がある物だろう。
だからこそ、神の前に晒すに相応しい。
「……この魔術は我々炎の魔術師が歩んだ歴史とは異なるものです、戦いと争いの歴史とは違う道を歩きます」
戦争運用に特化した炎の魔術は戦いの末に研鑽されて発展したと言える、それもまた必要なことでありその力を扱うエミリーには否定する資格はない、だが思う所が無かった訳でもないのだろう。
かつて獣を人へと変えた原初の火から今日に至るまで、炎の魔術師が歩んだ道が間違いであるとは言わない――しかし、別の道もあったのではないかと考えたのだ。
戦いの為ではない火、つまりは灯、それは暖炉のように温かで蝋燭の火のように頼りないもので構わない、人々に寄り添う文明の火のように掛け替えのないものである、そうあるべきだろう。
人を、都市を、大地を焼き尽くす炎の魔術とは正反対、かじかむ手を温め冷たい冬を越す為の温もりが必要だ。
小さなもので構わない、マッチ棒ほどの大きさで十分だ、戦いの役に立たなくても良い、寧ろそれが良い。
それが、エミリーと言う魔術師が出した灯の魔術に対する回答であった。
そして何よりも、彼女にとって必要なことがある。
「この魔術がッ、人類史に刻まれる新たな一歩となることを願います!!」
それは全ての魔術師の目標であり到達点だ、始まりの魔女の弟子たちからエミリーの世代に受け告げれた思想であるとも言えるだろう、或いは掟と呼ぶべきかもしれない。
考え方や解釈の違いはあれど、どの魔術派閥であったとしても目指すべき考えである、歩むべき道は違えども目指すべき場所は同じということだ。
それを違えた者は魔術師とは呼べない、呼ばせわしない、始祖の魔女から続く願いでもあるのだろう。
様々な魔術師が、それぞれの方法で歩んだ道の全てが最後にはそこへ行き着く、エミリーの研究もまたそんな一つである。
嘘偽りのない考えであり願いでもあった、一欠けらの私心もなくそう思っており、一切の妥協無く神の前にエミリーは存在していた。
『是』
そんな彼女の姿に、神々が短く肯定ともとれる言葉を返す。
それは曖昧ではなくしっかり耳と魂に届いた声であった。
『不冷』
次の言葉をエミリーは炎を絶やすなという意味だと解釈した、これから生み出す灯を絶やすことなく変わることなく紡ぐことなのだと、そう受け取ったようだ。
既に原初の火は途絶えて久しい、失われてしまったのだ、文明と人類史の始まりを刻んだ火を今一度起こそうというのだから、二度と失ってはならないものだというのはよくわかる。
エミリーとしても、この灯を絶やすつもりはなかった、これは次代の魔術師へと受け継がれるものなのだから、かつて先人たちがそうしたようにだ。
「はい、誓います……この灯を消すことがないように、世界を照らし続けることをここに」
その誓いの言葉を放った瞬間に、彼女と神々の間に一つの繋がりが生まれる、契約神の力が大きく関わった強力な契約を結んだ時のように、何らかの契約が結ばれたのだろう。
そして神殿を満たしていた神威は徐々に薄くなっていった、神との交信が終わったようだ。
「……ぷはッ!! うッ、ごほッ!!」
完全に神威が消え去ると同時に、エミリーは長く息を止めていたかのように酸素を求めてせき込みながらも呼吸を繰り返す、それほど長い時間を交信していた訳ではないのだが、それでも華奢な体に押し付けられた重量は凄まじいものである、呼吸が正しく行えないくらいには緊張していたらしい。
「エミリー様、大丈夫ですか?」
足がまともにうごかないので上手く体幹を維持できず、その場に倒れこみそうになった体を支えたのはマリーであった。
「……はい、大丈夫です。ですがまだ終わりではありません」
まだ神々から許可が下りただけに過ぎない、本番はここからだと改めて決意を固めている。
体の奥底に感じるのは神々との契約であり、それこそが新しい魔術を完成させる為に必要だった最後の一つでもある。
ここに必要な物が全て揃ったのだ、後は形にするだけであった。
「マリー様、ご助力感謝いたします……ここから先は、危険もありますので、どうか避難を」
「エミリー様、そんなことを言われてはいそうですかと受け入れることは私の立場上不可能でございます。我ら生命神の神官の在り方をお忘れですか?」
「……寄り添うことを誇りとせよ、でしたか」
「はい、そんな状態の貴女を放置などできる筈がないのです」
二人の視線が動かない両足へと向けられる、あの泥に浸かっていたそこは本来の機能が失われておりピクリとも動かない、靴も靴下も溶けてしまったのか素肌が剥き出しになっており、美しかった素肌は壊死したかのようにどす黒く汚れてしまっている有様である。
おそらく、このまま放置すれば足から心臓まで届くことだろう、もしくは指先から腐り落ちるかだ、それもそう遠くない内に。
「私には炎の魔術はわかりません、ましてや灯の魔術も専門外です……何をしようとしているのか、どうなされたいのかも理解が及ばないことでしょう。ですがただ一つ、わかることはあります」
マリーの手がエミリーの手へと伸ばされて、掬い上げられるように持ち上げられた、そして二人は視線を結び合う。
「貴女と私は友人です、ならば寄り添うことになんの躊躇がありましょうか」
「ですが危険です……もし失敗すればどうなるか」
「構いません、それに奇妙な納得があるのです」
「……納得?」
「えぇ……私が生まれた理由を見つけたとでも言うべきでしょうか、きっと私は今日この瞬間に立ち会う為に生きて来たのだとそんな風に思うのです……不思議なことに」
だから、と言葉を区切り、繋ぎ合った両手に力を込められていく。
「お供いたしましょう、貴方の支えとなる為に」
「……マリー様」
少しだけ迷いがあった、しかしそれは指先から伝わる体温によって溶かされていく。
だから自然と、彼女は感謝の言葉を口にしていた。
「ありがとうございます……本当に、貴女に出会えてよかった」
「ふふ、私も同じ思いです」
絡まり合った手と指がほどけ合う、すると二人はまるでそうすることを示し合わせていたかのように、互いの掌でお杯を作り上げる。
四つの掌が裏返されて丸みを作り、天から零れ落ちる滴を救い上げるかのような形である、包み込むような掌は聖杯にも似ていた。
「それでは参ります……お覚悟は?」
「例え炎の中であっても、慈悲と豊穣の御方の眷属として……そして貴女の友として、寄り添いましょう」
そして二人は微笑み合う、それを合図にしたかのように、エミリーが膨大な術式をこの世界に生み出し、その体から炎を立ち上らせていく。
最初は小さな火であった、制御できているようにも見えた、しかし瞬きする度に立ち上る炎は大きくなっていき、一定の出力を超えた瞬間に堤防が決壊したかのように濁流と化した。
神殿の儀式場はさながら山の噴火に巻き込まれてしまったかのような状況になっている、エミリーを中心に巨大な火柱が吹き上がりそれは神殿の天井を容易く焼き払って蒸発させるとそのまま勢いよく外へと飛び出ていく。
まさに噴火である、凄まじい力の奔流だ。
「うッ、ぐぁッ……あぁあああああッ!!?」
その力の中心にいるエミリーは己が生み出した炎と熱によって苦しんでいるようだ、本来ならば炎の魔術師としての特性として暖炉に手を突っ込んでも火傷一つ負うこともないのだが、そんな彼女を持ってしても耐え切れない程の熱量ということだろう。
美しい髪は深紅に染まり炎を宿したかのように燃え盛り、膨大な火花と灰をまき散らしながらも衰える様子は見せない、寧ろ発せられる熱量は増すばかりである。
バキッ、と何かが割れるような音が響いたかと思えば、凄まじい熱量を内包するエミリーの体にひび割れのような亀裂が現れた。
まるで暖炉の中で炎を吸収して燃料となった薪のようである、炎の魔術師である彼女であっても耐え切れないほどの熱を帯びているのだろう。
やがて亀裂は全身に広がっていき、そのままエミリーの体が自壊するのではないかと思われるほどに深刻な状態となってしまう、苦しそうな声は続いており悲鳴になってしまっているようだ。
新しい魔術を行使する時に事故は付き物ではある、だから魔術師たちは万全な状況を整えて形にするのだが、今回はそんな余裕はなかった。
つまりエミリーは制御に失敗しているのだ、初めて使う魔術ならばよくあることではあるのだが、この状況では致命的でもある。
おそらくこのまま手綱を操れずに魔術を暴発させてしまえば、この熱量である、神殿ごと周囲を吹き飛ばしてしまうだろう。
だが、そうはさせないとばかりに、亀裂だらけのエミリーの手を伸ばす者がいる。
「生命神よ、慈悲と豊穣の御方、どうかこの方の支えとなる力をお与えください」
マリーだ、彼女はエミリーが生み出す炎の中で祈りを捧げていた、エミリーでさえ自壊しそうになっているのだから、炎の魔術師でもない彼女が耐えられる筈もない熱のなか、それでもそこに存在していた。
耐え切れないというのは間違いではない、実際にマリーは蒸発してもおかしくない状況なのだが、それでも死ぬことなく存在していられる理由は、マリーがその圧倒的な治療魔術で焼かれる筈の体を即座に癒し続けているからだろう。
簡単なことではない、一瞬で治しているとは言ってもとてつもない激痛が広がっている筈だ、それでも彼女は祈りを絶やすことなく治療魔術を行使して神々に祈りを捧げて加護を得ている。
そしてそれは目の前にいるエミリーにも届いていた、膨大な熱を宿した薪のように無数の亀裂が入っているエミリーが、それでも崩壊しないのは聖女の癒しがあるからだ。
この業火の中にあって、聖女は一切の怯えや躊躇もなく己と友を癒し続けている。
炎の中でも支え続けるという言葉に、何一つとして誇張はない。
当然だ、それこそが生命神に使える神官の在り方なのだ、足の無い者の支えとなり、手の無い者の手となり、目の見えない者の光となり、あまねく人々に寄り添い続けること、決して簡単ではないそんな生き方を誰よりも目指し続けるからこそ、マリーは聖女と呼ばれて生命神の寵愛も深いのだ。
だからきっと、この瞬間が訪れることは必然だったのだろう。
「……光の柱が」
儀式場で繰り広げられる炎の噴火を、少し離れていた位置から怯えるように眺めていた一人の神官がそんなことを呟く。
炎の中に一筋の光が差し込んだかと思えば、辺りに神威が広がっていき、それはマリーを中心に発せられているようだ。
「……マ、マリー様が、ついに神格をッ!!」
それは新しいの半神の誕生であった、慈悲と豊穣の女神である生命神が、全ての生物の母である神が、マリーと言う神官を認めて己の寵愛を注ぎ込み権能を分け与えることを決めたということである。
アントニウスと同様に、不死身とさえ呼べるほどの生命力を与えられたことだろう、そしてその力は目の前にいるエミリーへと送られることになった。
亀裂だらけの体が、熱に耐え切れないその器が、圧倒的な癒しの力をもって修復されていく、既に止まっていた心臓は再び動き出し、崩壊寸前だった体も動き出す。
今のマリーならば、燃え尽きた灰からもエミリーを蘇生できるのかもしれない。
「何も心配はいりません、焦る必要もありません……ただ己の道をお進みくださいませ」
その言葉が噴火の中心にいるエミリーに届いたかどうかはわからないが、少しだけ吹き上がる噴火が弱まったかのようにも思えた。
いや、間違いではない、明らかに勢いが弱まりエミリーへと集束していく、徐々にだがこの熱を制御できているらしい。
「あぁ、ああああぁッ……マ、リー、様ッ!!」
「私はここにいますよ、安心してください」
エミリーは喉が焼けただれてしまったのか濁った声をあげている、目も見えていないのか両手を彷徨わしており、それをマリーはしっかりと握りしめる。
更に安心させるようにエミリーの体を抱きしめた、燃え盛る炎の中でだ。
その抱擁を感じ取り、エミリーが思ったのはとても柔らかな温もりであった、孤児である彼女には記憶にないが、もし母親に抱きしめられたのならば、こんな温かな気分になったのかもしれないと思うくらいには優しさに満ちていた。
体を焼き続ける業火よりも、その温もりの方がずっと近く感じられる程である。
だから、その温もりを頼りにするかのように、エミリーは炎を従えるのだった。
灯の魔術に痛みはいらない、燃え盛る進撃とは正反対の、小さな揺らめきで構わない、それを形にするのが彼女の魔術ならば、こんな噴火と見間違うような熱はいらないだろう。
炎は集束していく、神殿の天井を蒸発させた熱量は消え去り、発生源であるエミリーへと戻っていくのだ。
近づくことさえできないほどの熱波もまた弱まり、いつものように静謐な空間が広がるまでそれから数秒ほどの時間がかかった。
「はぁ、はぁ……で、できました」
エミリーが肩を大きく揺らしながら荒い呼吸を繰り返す、だが言葉を発するだけの余裕があるのはあれだけの熱量を完全に支配下に置いて安心したからだろう。
もはや荒々しさはどこかへ消えた、天井を吹き飛ばした勢いも、肌を焼く熱波も存在しない、いっそ冷たさすらも感じられる神殿の静謐な空間に戻るのだった。
だが、火が消えた訳ではない、エミリーの支配下に置かれたのだ、ここに灯の魔術が生まれたということである。
エミリーとマリー、祭壇場で向かい合う二人の間にとても穏やかな光があった、両者の掌がその揺らめきを救い上げるかのように杯となり灯を支えている。
四つの掌で支えられるのは小さな炎だ――いや、とても小さな灯であった。
蝋燭のように頼りなく、マッチ棒の先にあるかのように弱弱しい、それこそ少し息を吹きかければ消えてしまうのではと思ってしまう程に、矮小である。
まさに灯だ、戦いの為にある炎の魔術とは正反対の、温もりを感じさせる熱だ。
獣を人に変え、人類史の始まりを齎した原初の光、文明の始まりとも言える明かり、この灯を手にした者が人類最初の王となった特別な揺らめき。
それこそが、エミリーとマリーの掌の上にある灯であった。
「……聖、火?」
一人の神官が小さな灯を見つめて畏怖しながらそんな言葉を漏らす、彼女はそのまま一歩二歩と後退していき、最後には腰を抜かしたかのようにその場に尻餅をついてしまう。
矮小な輝きの中に内包された巨大な力を感じ取り畏怖したのだろう、何故ならそこには神格が存在するからだ。
神の意思、その力、小さな灯からはそれが感じ取れる、取れてしまう。
人の手によって生み出されたのは、限りなく神の領域に近しい熱であった。