商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
体が酷く痛み重たい、喉も焼けて臓腑すらも火傷を負ってしまっているかのようだ、少なくともプリメーラを構成する悪魔の部分はあの灯が放った浄化の光に屈してしまったのだろう。
自らの体を泥へと変えて何とか逃走して、滑るように移動しながら彼女が進んだ先は聖都の中心にある大神殿であった。
その正面玄関までやってくると彼女の体は泥から肉へと変貌する、自らの体を液体から肉体へと変化させて作り直したのだが、その姿は完全にはあまりにも遠い様子である。
まず腕が無い、なんなら片目も存在しない、おそらく内臓も幾つかは復元できなかった、それらは灯の光に焼かれて消滅してしまったのだ。
なんとか健在だった細胞をかき集めて形にしたのが今の彼女である、しかし足りない部分が多すぎてギリギリの状態で生きているような状況なのだろう。
継ぎ接ぎだらけの体ではまともに歩くこともできないのか、フラフラとおぼつかない足取りで大神殿の中を進んでいく。
一歩がとても重たく感じられた、そして何とか歩を進めたとしてもその度に泥のような血を吐いてしまう。
いつしか彼女が進んだ後には幾つもの血だまりが残されており、それが道となって伸びていた。
「ごふッ……うッ……はぁ、はぁ」
ぐっと自らの手で血で汚れた口元を拭う、そして視線を上げればそこに待っていたのは天剣を守る最後の壁である強固な石門が広がっていた。
分厚く固いそれは人の手で動かすには重すぎる上に、魔術的な施錠がなされておりとてつもなく堅牢だ、またそれに加えて神秘的な守りすらも備わっており然るべき時にしか開くことはない。
この石門だけでなく天剣の間を覆う全てがそういった守りに囲まれている、粉砕するのは容易ではなく相応の手順が必要になるだろう。
今日は祝祭の日ではない、なのでその門は自動的に開くことはないのだが、プリメーラが近づくとゴリゴリと音を立てて僅かにだが開く気配を見せる。
彼女は天使だ、エキドナ曰く半端で、父親曰く不完全ではあるが、それでも勇者と呼ばれる存在に限りなく近い場所にいるのだ。
完璧な勇者でなくともそこに手が届こうとしている、地上に生きる全ての生命の誰よりも至高に近いのだろう。
だから門は僅かにだが開いた、その小さな隙間分だけは勇者であることを認めたかのように。
「はぁ~……はぁ~……もう少しです、お父様」
彼女を突き動かすのは父親からの命令だ、生まれた時から――いや、そのずっと前から彼女の細胞に刻まれた強い契約である。
彼女の魂を強く縛るそれが、それだけが、彼女を生かす全てであった。
「……」
だからここにいる、だから血を流している、だから戦っている、だから、だから、だから――。
「……なんで私、こんなことしてるんだろ?」
その発言は父親の為に生きてその為だけに死ぬ彼女の存在そのものを否定するようなものであった、呟いてから自分でも信じられないことだと思ったのだろう、咄嗟に手で口を覆い隠している。
そしてキョロキョロと周囲を見渡して、その言葉が誰にも聞かれていないことを確認して大きな溜息を吐く。
何を安心しているのか自分でもわかっていないのだろう、胸の中にある複雑な感情を説明できるほど彼女は大人ではないということだ。
だが言葉にしてしまったが最後、その感情は針となってプリメーラの胸に突き刺さってしまう、まるで己自身にかけた呪いのように。
思えば自身の感情をずっと理解してこなかった天使である――いや、少女である、細胞に刻まれた父親との契約が全てとして生きて来たのだ、肉体よりもずっと精神が幼く、その方があの男にとって都合が良かったのだろう。
ただ生物は成長するものだ、父親の命令に盲目的に従うことに疑問を抱き始めているプリメーラにとって、それは自我の始まりでもあった。
しかしそんな疑問を抱いたとしても全てが遅い、そして魂を縛る契約があるので意味もない。
「……うッ」
ズキリと眉間の奥が痛む、余計なことを考えるなと父親に叱られるかのようだ、その痛みによってプリメーラは迷いを振り払う。
やるべきことは迷うことでも疑うことでもない、父親への献身こそが重要だ。
荒い呼吸とおぼつかない足取りのまま僅かに開いた石門へと手を伸ばす、そのまま押し開こうと力を籠めるのだが、深く傷ついた体では上手く押せないのかズルズルと足が滑るだけである。
また血を吐いて口元が汚れてしまうが、意識を向けることもなく門を押し続けた。
そのまま門を開こうとするのだが今の彼女にはそれすらも達成できないほどに疲弊してしまっているようだ、どれだけ押しても石門の重さに押し返されてしまう。
体はボロボロで心は父親の呪いが占めている、それでも前に進もうとする血だらけで痛々しい彼女に声がかけられた。
「もうお止めください、プリメーラさん」
声の主はエミリーであった、他にも大神殿の最奥へと続く廊下には聖騎士たちの姿も見える、誰もが警戒しながら武器を構えており石門に苦戦している天使へと徐々に距離を詰めていた。
「エミリー……はぁ……邪魔を、しないで……私は、お父様に」
言い終わる前にプリメーラは自ら吐き出した血で足を滑らせてその場に転んでしまう、そこには魔王としての威厳も天使や勇者としての存在感もない。
傷つき、血を吐く少女にしか見えないだろう、それくらいには弱っている。
「……何故そこまでなされるのですか?」
「何故? そんなこと決まっている……お父様が、それを望むから……私は……私、は?」
血で滑って倒れてしまった体を起こそうとするのだが、プリメーラがどれだけ踏ん張ろうともその体が再び起き上がることはなかった。
体に力が入らない、つぎはぎだらけで誤魔化していた体がいよいよ限界を迎えようとしているのだろう。
「お父様……お父、様……おとうさま」
僅かに体を捩って石門を背もたれにする形となった、既に手足がマヒしているのかその体勢から動かなくなってしまう、ただ荒い呼吸を繰り返すだけであった。
もう長くはないと誰もが察していた、完璧であり限りなく完成に近い肉体を持つ彼女であっても、半分を灯の光に焼かれてそこに無数の聖剣を受ければこうもなるのだろう。
このままトドメを刺さずとも近いうちに彼女の体は崩壊する筈だ、満身創痍を通り越して既に致命傷になってしまっている。
「私の、全て……わたしの、生きる理由……わた、しの……創造主」
門を背もたれにしているプリメーラの視界がぼやける、すると指先から順に体温が消えていくような感覚さえあった。
「痛い……寒い……寂しいよ……おとうさま……助けて……あッ」
助けを求める声は当然ながら父親へ届くことはなかった、目の前にいる聖騎士たちにすら届かないほどに小さく頼りない声でもあった。
しかしそんな言葉を拾い上げた者がいた、それはエミリーである。
「エミリー殿ッ!? 近づくのは危険です!!」
門を背もたれにして静まるプリメーラにエミリーはゆっくりと近づいていく、それをアンジェリーナが静止しようとするのだが、それでも彼女は歩みを止めなかった。
今のプリメーラを見ていられなかったこともそうだが、共に灯の魔術を生み出したマリーの存在が彼女の背を押したこともある。
炎の中でも支えてくれたのだ、それを目の前で見せられたのだから、魔王の前に立つことに怯える必要はない、それにほんの僅かな時間であっても縁を結んだのだ、このまま惨めに滅びれば良いとエミリーは思えなかった。
「もう長くはないだろう……エミリー君に任せても問題はあるまい」
アントニウスもまた彼女のことを止めなかった、アンジェリーナの肩に手を置いて留めてもいる、それでも聖剣を握る手が緩まることはなく何かがあれば即座に天使を両断できる姿勢は維持されているようだ。
或いは彼自身もまた、今のプリメーラを哀れに思ったのかもしれない、そして自分にはどうしようもない問題であることにも気が付いたのだろう。
彼では斬る以外の選択肢がないが、エミリーなら違うと考えているのかもしれない。
「プリメーラさん……貴女のお父様は、どんな方ですか?」
「ど、んな?……わからない、お父様は……どんな人なんだろう」
エミリーは門を背もたれにして力なく体を揺らすプリメーラのすぐ近くまで来ていた、膝を曲げて同じ視線になると、ゆっくりと手を伸ばして天使の口元から流れる血を掬い取る。
それそのものが呪いの塊であったのか拭った瞬間に火傷を負ったかのような鈍い痛みが走るが、表情を変えることはなかった。
プリメーラからも反撃はない、そうするだけの余力がないのだろう。
「でも、きっと、優しい人だと、思う……うん、そうだと、良いなぁ」
それはこうあって欲しいという願望であった、彼女自身も父親がどういう存在であるかハッキリとわからないくらいの立ち位置のようだ、それとも親子の情が一方通行のままここまで来たが故の発言なのかもしれない。
「天剣があれば……きっと褒めてくれる……よくやったって」
「……それは、違います」
プリメーラの言うお父様とはあの宿場町で突然襲い掛かって来たあの男のことだろうと推測はできた、あの男のことをエミリーはよく知らず好意的な感情も向けておらず縁遠い存在ではある、ただわかるのはまともな人間ではないということだけだ。
あの男は確実に悪性の人間だ、エミリーはその確信がある。
そして、悍ましいほどに強力な呪いを扱う存在でもあった。
「貴女のそれは、呪いです……この世で最も強力で、恐ろしい呪いなのです」
親子の情という契約であり、魔術であり、そして呪いだとエミリーは言い放つ、呪いの王であるプリメーラを縛る、彼女すらも従える呪いであると。
「……呪、い?」
「はい」
「……そう……そうなんだ……そっか」
「……納得なされてしまうのですね」
「うん……だって……私は、呪いの王だから」
「……」
「これは、私がお父様に向ける忠誠は……呪いなんだ」
弱弱しく力のない渇いた笑い声が僅かに漏れる、だがそれもすぐに吐血によって遮られてしまった。
「……はは、なんか、疲れちゃった……何も、見えないよ」
フラフラとプリメーラの指先が揺れ動く、ここにいない誰かを追い求めるかのように。
その指先をエミリーは導くように握り返す、やはり呪いの塊であるそれは激痛と壊死を齎すのだが、繋がり合った指先は離れることがない。
炎の中で支えるよりは、ずっと楽でもある。
「……私が貴女を送ります、どうか穏やかに」
「……う、ん」
プリメーラはやはり抵抗しない、そうするだけの余力がないこともそうだが、心が折れているのが最大の理由なのだろう。
そんな終わりも、こんな結末も、良いのかもしれない――プリメーラはそんなことを考えていた、相変わらず眉間の奥が痛み父親の声が幻聴となって届くのだが、彼女は全てに疲れてしまっているようだ。
それに、頭痛よりも指先に感じる温もりに身を委ねるほうが、ずっと心が安らかである。
「ヘステア、灯をお願いします……彼女に送り火を」
「ピィィィ~ッ!!」
その言葉を聞いてエミリーの肩に止まっていた不死鳥は、自らが取り込んだ灯の熱を高ぶらせていく。
既にヘステアの体の大部分が灯の魔術へと置換されているのか、彼女の存在そのものが聖炎とさえ言えるようになっているようだ。
不死鳥と、エミリーが生み出した灯の魔術の親和性はとてつもなく高い、二つが融合したことによってより高位の存在へと昇華したのだろう。
そんなヘステアが囀って翼をはためかせると、灯の揺らめきを宿した羽がふわりと舞い落ちた。
熱くはない、ただただ穏やかな温もりを宿すだけのそれは炎にはやはり遠い、暖炉の熱や春の木漏れ日のように心を落ち着かせるものである。
暖炉を枕にするヘステアに、これ以上似合う熱もないだろう、人類史を見守り人々を支え続けた熱こそが、灯の魔術の在り方なのだ。
だから灯の魔術を宿したその羽も誰かを傷つけることはない、文明を焼くこともなければ戦争に使われることもないだろう、不浄と悪性を祓うことはできてもただそれだけだ。
だからこそ、悪魔の部分を焼かれたプリメーラにとって、エミリーから渡された揺らめく羽はとても心地が良いものであった。
先程、己の半分を焼き潰した光と同種の力だとは思えない程に、安らぐ温もりを感じられる。
冬場に、冷気に晒された指先を暖炉へかざした時のように、プリメーラはこう呟く。
「……あったかい」
エミリーに導かれるように掌へ置かれた灯を宿した羽を彼女は握りしめる、するとその指先へと灯の熱が伝わり、氷を解かすかのように彼女の体は徐々に崩壊していった。
「憎しみでも恨みでもなく、ただ純粋に貴女を送ります……死に貴賤はありません、どのような者の最後も、せめて安らかであるべきです」
エミリーの思い通り、プリメーラを浸食する灯は痛みを与えない、寧ろ心地が良いとさえ思えるだろう。
「エミリー」
「はい」
「……ごめんね」
「……はい……私は貴女を許します」
「……ありがとう」
それがプリメーラの最後の言葉となった、穏やかな熱に包まれてその体は灰となっていく。
決着はあまりにも穏やかで静かなものであった、聖都に混乱を齎した天使の最後とは思えない程に、静謐な結末でもある。
ただそれで良かったのだとエミリーは考える、きっと炎の魔術ではこうはならなかったと思えるからだ。
プリメーラを救いたかった訳でも、助けたかった訳でもない、きっとそれは許されないことだとわかっていたから、しかしせめて安らかにと祈るくらいは許されるはずだ。
その祈りが伝わったかどうかはわからない、しかし灯の魔術は呪いの王である彼女を縛る、最も強力な呪いを浄化したことだろう。
それがエミリーとプリメーラの決着であった。