商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
帝国皇帝ランポッサは重たい瞼を静かに閉じる、いつも通り帝城の執務室で仕事を行い、その合間にできた僅かな時間を使って酷使した瞳を休めているのだ。
背もたれにぐっと体を預け、ぼんやりと天井を眺めていれば自然と瞼は落ちて来る、秘書官が気を利かせてくれているのか、次の仕事までにはまだ僅かな猶予があり、その貴重な隙間を利用しない手はない。
ここ最近は寝不足気味であったので瞼を閉じればすぐに睡魔が手招きしてくる、その誘惑に逆らうこともなくランポッサは静かに眠りに落ちていく。
どれだけ帝国皇帝と持ち上げられようとも寝なければ死んでしまうのだ、彼だってそこは変わらないということだろう。
睡魔の手招きが近づいてきて、それが彼の肩にかかった瞬間に、あっさりと彼は眠りに落ちていく。
こういう時、夢見るのはいつだって彼ではない誰かの夢であった。
はて、これは誰の記憶だろうか? そんな疑問を抱きながらも彼は睡魔に身を任せるのだった。
「……」
穏やかな寝息が執務室に広がる、そして彼は過去を覗くのだ。
帝国皇族、特に皇帝には特殊な契約が結ばれているらしい。
らしいという表現を使うのは、その契約が明確に残っている訳ではないからだ、契約神の力がこもった契約書でもあればわかりやすいのだが、帝城の保管室をどれだけひっくり返しても見つかることはない。
そもそも契約を結んだのは彼ではなく初代皇帝である、ランポッサの先祖であり今から遥か昔に生きていた人であった、その初代皇帝が神々と結んだ契約がこの時代に至るまで残っているそうだ。
故に皇族は、その中でも特に皇帝は、その契約に従って行動することが多い、かつて初代皇帝が神の膝元で神々と対話を行い魂と血に刻まれたそれが今も生きている。
神々と結んだ契約を果たす為に初代皇帝は行動して周辺国家を次々と従え、今の帝国の原型を作ったのが帝国の始まりであった。
初代皇帝は己が統治する領域の繁栄を望み、神々は人類の繁栄を命じたらしい、それが皇族の魂や血に刻まれた契約となっている。
長い時間が過ぎ去り、血も随分と薄まっただろう、それでも契約は現在も有効であり受け継がれているのだろう。
ランポッサがそうであり、彼の父や祖父がそうだったようにだ、不思議なことに皇帝になるとより一層その契約を尊重する傾向にありランポッサもまた同様であった。
だからなのか彼は常に考える、人類にとって何が必要なのか、どうすれば良いのかと。
それがつまり帝国の繁栄に繋がることになるのだと確信しており、現に帝国はかつてない程の繁栄を誇っていた。
これはつまり皇族が人類の繁栄に貢献している間は、帝国は神々の加護を得て繁栄することができるのだと皇帝は考えたのだろう。
彼もそうだが歴代皇帝はその契約によって繋がっており、魂を共有しているとも考えられていた。
例えその契約を履行するつもりがない者が皇帝になったとしても、皇帝になった瞬間に意識が変わることもあり、性格が急に変わったと言われた皇帝も過去にはいたらしい。
だからこの契約を研究している帝国魔術院の魔術師たちは、その現象を魂の同化と表現したそうだ。
皇帝になった者は例外なく初代皇帝に近づくことになる、その意思を、考えも、理想を、共有するのだ。
それが理由であるかどうかは定かではないが、不意に自分ではない誰かの記憶が流れ込んで来ることがあった、今のランポッサがまさにそれである。
彼は夢を介して大昔に生きていた初代皇帝の記憶を見るのだ、結局の所それは夢でしかなく実際にあったことなのかどうか証明のしようがないのだが、ランポッサは漠然とそれが初代皇帝の記憶なのだと受け入れていた。
劇場で初代皇帝の人生を題材にした物語を鑑賞するかのように、その生まれから最後を追体験していく、ほんの僅かな時間に濁流の如く押し寄せるそれに身を任せるのは、思いのほか嫌いではない。
契約も覚悟の上で帝位に付いたのだ、彼にとってそれは呪いではなく武器であった。
なにせ契約を守ってさえいれば神々からの加護を受けられるのだ、恩恵は様々ではあるが国を預かる者としてはこれ以上無いくらいに便利な力であると言えるのかもしれない。
「はい、誓います、私はこの血と魂の全てを人類の繁栄と神々への信仰、そして星の未来に捧げることを」
夢の中でランポッサとあまり似ていない男がそう誓いを立てている、神の膝元で対話を行ったときに初代皇帝はそうして契約を結んだのだ。
その誓いは血と魂に刻まれてランポッサにまで受け継がれている、きっと彼が死んだとしても次の皇帝へと受け継がれるのだろう。
それが帝国の歴史だ、それが帝国の歩んだ繁栄であった。
国家ではなく人類の繁栄と初代皇帝は言った、そして星の未来とも言った、その誓いは幾星霜の年月を超えても残っており今日も星の未来を願っているのだ。
はて、星とはなんだろうか、空に浮かぶ星のことではなく魔術師たちが言うこの大地のことなのだろうとランポッサは解釈しているのだが、少し神々の考えとは異なるのではと彼は考えているらしい。
人ではなく人類の未来、国家ではなく星の未来、その為に必要な物とはなにかという途方もない疑問や問題を前にして、足掻き続けることが神々から祝福と加護を賜った皇帝の仕事なのかもしれない。
彼にも答えは出せないものだ、いつだって思考の海に旅立とうとするとこうして声がかかるのだから。
「陛下、次の仕事が立て込んでおります」
「……あぁ、わかった」
気を使って少しの間だけ休憩時間を作ってくれていた秘書官が執務室に入って来てそう言う、どうやら優秀な秘書官であっても引き延ばせる時間には限界があるらしい。
眠気を振り払って重たい瞼を開く、すると彼の視界にはこちらを心配そうに伺う秘書官の顔があった。
「お疲れのようですね」
「そう思うのならば、もう少しばかりは仕事を遅らせて貰いたいものだ」
「それは不可能です、どれもこれも陛下が持つ帝印が必要ですので……帝国の政務を混乱させたいと言うのならば幾らでも休んで構いませんが」
「ちょっとした冗談に真面目に返すものではない」
「すいません、冗談に聞こえなかったものでして」
「言うようになったな、秘書官として働き始めたばかりの頃は緊張でよく舌を噛んでいたというのに、生意気になったものだ、エリン」
エリン、と呼ばれた秘書官の女性はそんな皇帝の言葉に鼻を鳴らして聞き流す。
ちょっとした言葉遊びをできる位には気安い関係なのだろう、エリンは貴族ではなく庶民であったが、皇帝相手に言い合える程度には度胸があるらしい。
そこら辺の貴族ならばまず畏まって皇帝と接するのだが、誰も彼もがそれではランポッサも仕事がやりにくい、だからなのか最低限の礼儀を守った上で気安く接してくるエリンを重宝しているのかもしれない。
「目の下に隈ができております」
「ここ最近は特に忙しかったのでな」
「少々お待ちを、最低限は整えますので」
そう言ってエリンは脇に抱えていた鞄の中から小ぶりな化粧箱を取り出す、大量の書類が入っていたが奥の方に眠っていたらしい。
そして彼女はランポッサの背後に回ると、慣れた手つきで化粧を施していった。
「……男が化粧というのもな」
「ただの書類仕事ならば必要ありませんが、これからは謁見の仕事がありますので絶対に必要ですよ。目の下に隈を作って疲れた様子の皇帝など印象があまりにも悪い、抵抗するのならば縛り付けますが、どうしますか?」
「……好きにすると良い」
抵抗はしないとばかりに背もたれに体を預けて力を抜く様子は皇帝としては少々不用心であった、もしエリンが暗殺者であったらこのまま首を切って終わりだろう。
勿論、そんなことはありえないと断言できる位にはランポッサはエリンを信頼している、だからこそこうして秘書官として扱っているのだ。
それにランポッサは開き直ってすらいた、もし万が一エリンが裏切って自分が危機に陥ったとしても、それはそれで良しと考えているのだろう。
帝国の強みは、どんな立場の者にも代わりが存在しているほどの人材量だ、それは皇帝であっても変わることは無い。
もし自分が死んでしまっても、必ず誰かが責任と契約を引き継ぐ、それはエヴァかもしれないしアスラかもしれない、何であれ代わりがいるという状態は安定国家に必要なことだろう。
ランポッサという男は部下に裏切られたとしても、まぁ良いいだろうで済ませてしまうのだ、それで死んでしまったとしても甘んじて受け入れる、例え自分が倒れても次に誰かが立って帝国を導いてくれると確信があるからだ。
欲の無い、そして執着の無い男であった、或いはそんな考えを持つこと自体が皇族にかけられた契約であり呪いなのかもしれない。
この血と魂は人類の繁栄の為に、初代皇帝が神々を前に立てた誓いはランポッサまで引き継がれて、今も残っている。
「陛下、終わりました」
「ご苦労、では仕事に移ろう。次は謁見だったな?」
「はい、まず商業組合の代表から、次に帝国銀行の代表、その次に青年貴族たちとの交流会となります、他にも細かな交流会が幾つか……後は、エヴァ様が仲介してくれた魔術師との謁見もありますね」
「ああ、そうだったな、では行くとしよう」
化粧を施して疲れた顔を消し去ったランポッサは椅子から立ち上がって次の仕事へ向かう、エリンの鞄から取り出された書類を受け取り謁見する上での注意事項や情報などを事前に頭に入れながら、彼はふと背後にいたエリンにこんなことを尋ねる。
「そうだ、エリン、お母上は元気にしているのか?」
「勿論です、今は生命神の神殿から退院して元気に働いております」
「それは良かった、大事な秘書官に暗い顔をされていては仕事もやり難いのでな」
「ご安心ください、二度とあんな醜態は晒しませんので」
「期待しておこう」
そんな会話を続けながら二人は執務室を出ていく、皇帝とその秘書官という立場を考えれば、かなり気安い関係であると言えるだろう。
エミリーは困惑していた、それはもう盛大に困惑していた、エヴァを介して何故か皇帝との謁見が用意されてしまっており、彼女のアトリエを訪れてモデルの仕事をしている時に、何気ない日常会話の延長で「今から皇帝と謁見してもらおう」と言われてしまえば、それも仕方がないだろう。
彼女は何も悪くはない、何の前触れも用意もなく皇帝と会えと言われれば多くの者が頭を抱えるからだ。
これがまだ準備期間が設けられるのならばまだ覚悟は整えられるのだが、エヴァにどれだけ確認を取ろうとも返答は変わることが無い。
どれだけ頭を抱えて唸ろうとも現実が変わることはないのだ、助けを求めるかのようにミューに視線を向けると、彼女は大きく頷いて期待に応えてくれた。
ここで唸っていても事態は好転しないのだから、いつまでも頭を抱えていないで行動すべきだとミューは無慈悲に断罪する。
まずはエミリーを風呂に入れる、別に不潔な訳ではないが国の重鎮と会うのだから必要なことだろう。
エヴァに許可をもらってアトリエの風呂を借りている間にミューは帝都の大通りへ出て必要な物を整えていく。
服装は普段使いをしている法衣で問題はないだろうが、それではあまりにも飾り気がないと考える辺り、ミューもまた末席ではあるが王族の血を引いているだけはある、最低限の身だしなみが必要だとわかっていた。
そんな彼女が用意したのは派手すぎないマントや髪留めであった、どれも一目で上質な物であるとわかるが、決して主張しすぎることはない。
あくまで主役はエミリーであり、装飾品以上の存在感は持たせない位の品を選んだのだろう。
エミリーの持つ華やかで清楚な雰囲気をより際立たせることに大いに役に立った、実際に身に纏ってみるとそれがよくわかる。
清潔な法衣の上に派手すぎないマントに髪飾り、どこか高位の神官のような装いはエミリーによく似合っていた。
そして髪をしっかり梳かして最後に香水を少しだけ吹きかければミューの考える皇帝と会う最低限の身だしなみが完成することになる、欲を言えばまだまだ足りない部分もあるのだが貴族の子女で無ければこれで合格点を与えられるだろう。
最終的にエヴァに確認をとって問題ないと太鼓判を貰い、地を這うような気分のエミリーを引きずるように帝城へと向かうのだった。
「エミリー殿、これは仕方がないことだ、覚悟を決めるべきだろう」
「簡単に仰られますが、私の胃はつぶれてしまいそうです」
「大丈夫だ、そうなっても私が癒そう」
「うぅ、シャルルとキャロルがいてくれれば同情してくれるのに」
「それは残念だ、しかし私はあの二人ほど甘くはない」
「ミューさんはベッドの上では可愛いのですけど……」
「そ、それは今、関係がないだろうッ」
咳ばらいをして弛緩した空気を締め直す、そしてミューは安心させるようにこう言うのだった。
「安心してくれ、かの皇帝とは聖都で顔を合わしている、その経験を踏まえて言わせてもらえば面倒なことにはならない筈だ……仮に何か面倒事になったとしても私が貴方を守ろう」
別にエミリーとしても無理難題を押し付けられるとは思っておらず、あちら側も一介の魔術師に劇的な何かを期待している訳でもない、言ってしまえば好奇心の延長で少し話をする程度のものである。
ただ相手は皇帝である、ちょっとお茶でもという雰囲気で和やかに談笑とはいかないだろう、それがエミリーの気持ちを地に這わせているのだ。
「大丈夫さ、兄上はあれで気さくな人だ、穏やかに過ごせるだろう」
エヴァもまた援護するようにそう言った、聞き逃せない情報をさらりと添えている。
「兄? 兄上?……エヴァさん!?」
「すまないね、別に騙すつもりはなかったんだが……身分を明かすと色々と面倒なことになるから黙っていたんだ」
「ふむ、ではこれでエミリー殿の気分も軽くなるな。既に皇族と話をした経験があるのだから、皇帝とあっても緊張することはないだろう」
「ふむん、まさにそれだ、緊張する必要はないとも」
「……あぁ、頭が痛くなってきました」
そんなエミリーの細やかな抗議の声は無視されてしまい、彼女は泣く泣く帝城へと引きずられていく。
丁寧な根回しが済んでいたのだろう、城門を潜る時も廊下を歩いている時も近衛騎士に呼び止められることは無い、エヴァがいることもそうだがエミリーやミューの装いがしっかりと整っているので不審者と思われないのだ。
エミリーを発見した近衛騎士は、エヴァを見てから彼女を見て、どこかの高位な神官か何かだと認識して納得している、ミューもまたしっかりした装いをした上でエヴァに先導されているので呼び止められることもない。
「凄まじいものだな、とても堅牢だ」
帝城の中をエヴァに案内されて最初の印象がそれである、巨大な帝城の防備を見ての感想であった。
「そうですね、魔術的な守りが至る所に施されていて、城全体が魔術師の工房のようです」
「あぁ、近衛騎士たちもさすがに屈強だ」
すれ違う騎士たちを見てミューがそんな評価を下したのは、やはり彼女も戦士であるからだろう。
「私に魔術のことはわからないが、帝国の魔術院所属の者たちがよく守りを固めているよ」
エミリーたちも安全を確保する為にルールーの屋敷を魔術的に強化して要塞化したのだが、この帝城を同じように堅牢にしようと思えば年単位の時間がかかると予想された。
それだけの規模を誇る守りの魔術が施されているということだ、それこそ優秀な魔術師が数百人がかりで行わなければこうはならない。
帝城の中など一般人が見る機会などまず無いのだから二人の目には全てが物珍しく映る、エミリーもミューも魔術師であることから知的好奇心も刺激されているようだ。
それでも勝手に出歩くことなどできる筈もないので、大人しくエヴァに先導されるまま進んでいき、帝城の中庭に案内されるとそこに用意されていた茶会スペースで暫く待たされる。
予め置かれていたお茶と焼き菓子が無くなる頃になると、秘書官と思われる女性が先触れとして現れてこう伝えた。
「皇帝陛下が参られます」
それはエミリーの緊張が最大限に高まった瞬間でもあった。