商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
黄金の城、黄金の宮殿を中心に広がった重苦しい重圧の影響を真っ先に受けるのは最前線で戦う騎士や魔術師たちだろう。
途端に呼吸が乱れて体が重たくなってしまう、今はまだその程度で済んでいるようだがこのまま闇神殿の侵略が進めば歩行や呼吸すらままならなくなるだろう。
悪魔が神々の神殿や領域を侵せないように、人もまた魔神の領域で自由に行動などできないのだ。
魚は地上には上がれないし、人は水の中で呼吸などできない、神殿とは明確に一線が引かれた異世界である、闇神殿が作った領域もまた同様だ。
兵士や騎士たちはまるで酸素の薄い山々の頂上にいるかのように顔を青くして呼吸を乱していた、まだ闇神殿の影響が始まったばかりでさえそれなのだから、完全に制圧されてしまえばおそらく生存は困難だろう。
聖騎士に代表される神々から強い加護を与えられた者や、高位の神官や鍛え上げられた騎士であるならば多少は耐えられるだろうが、それでも体は重く感じる位の重圧である。
そして最前線にいる戦士や魔術師たちと同様に大きな息苦しさを感じているのはランポッサも同様である、だが彼は苦痛よりも先に大きな苛立ちを感じているらしい。
「帝国領土を侵すか……良い度胸だ」
ほんの一部、それこそ領土とさえ言えない程に狭い距離ではあるが、それでも闇神殿の周辺は間違いなくパレスに占拠されて彼女の支配領域となってしまっているのは間違いない。
彼にとってそれは己の指先を噛み千切られたようなものである、苛立ちも当然であった。
「陛下!! どうやら帝都で大きな暴動が発生した模様です、正気を失った住民が暴れているとのこと!!」
そして伝令役の兵士から伝えられた報告に更に苛立ちが大きくなった、目の前にそびえ立つ黄金の建築物を前にして、背後ではパレスに操られた住民たちの暴動が起こってしまった。
眼前の脅威と、背後の混乱、それらを同時に対処するつもりは彼にはない、魔王を前にしてそんな余裕が無いというのが正しい。
だが心配はしていない、これからに必要な全ての対処は兄に押し付けて来たからだ。
「細かな対処や方針は兄上が指揮を執っている、我々は目の前の悪魔に集中するぞ!!」
何も心配はしていなかった、もし力及ばず倒れてしまったとしても、アスラがこれからの帝国は動かしていくという確信がランポッサにはある、揺るがぬ信頼がそこにあるのだ。
避難誘導も、周辺各国への説明や受け入れ態勢も、戦いに必要な後方支援も、全て滞りなく進ませてくれるだろう、そしてもしこの戦いに敗北したとしても帝国の民や文化や歴史は必ず次へと継続されていく。
ならば何の心配が必要だと言うのだ、ランポッサは全力で黄金の悪魔に挑むことができる。
おそらく帝国中で広がっているだろう暴動や混乱を気にすることもない。
何故と問われたならば彼は自信を持ってこう答える筈だ。
「この程度で帝国の臣下が挫けるものかッ!!」
混乱も暴動も悪魔の思惑も、それら全てを帝国の臣下は乗り越えていけると確信があるのだから、彼が立ち止まる理由などありはしない。
信頼でも信用でもない、これは確信であった。
「各方面に伝令を走らせろ!! これより攻城戦を開始する!! 第一城壁より外へ出させないように包囲しろ!!」
帝城と並び立つ黄金の城は帝都中央部に建築されている、なので帝城をぐるりと囲む城壁より外にはまだその触手は及んでいない。
ランポッサは一先ずそこを戦いの境界線としたらしい、外敵を跳ね除ける為の城壁が敵を留める為の壁と化していることは何の皮肉かと嘆きたくはある。
何であれそこは境界だ、超えられれば闇神殿と化した黄金の領域はそれこそ帝都全域まで広がるだろう、それだけは避けなければならなかった。
帝都に集まった膨大な数の騎士や戦士たちは、その忠誠心を持って黄金の魅力を跳ね除けると、城壁に陣を引いて東西南北を埋め尽くす。
ネズミ一匹すら通さぬと言わんばかりの包囲である、もしこれが人間同士の戦争であればその分厚さと戦力差を見ただけで白旗を上げてしまうだろう。
帝国の全てを束ねて挑む意思に、何ら偽りはなかった。
「陛下、方針は?」
近くにいた近衛騎士の一人がそう尋ねて来ると、ランポッサは視線を黄金の城に向けたままこう答える。
「時間稼ぎだ」
「はい? 攻めないのですか?」
「本格的に攻めるのは三騎士たちが帰って来てからだな、おそらく帝都に集結しているだろうからそれまでは牽制しつつ包囲を蜜にするんだ」
「了解です、各方面にはそのように……しかし闇神殿はどのように?」
「あれはこちらで対処するさ、このまま拡大されて帝国領土を汚されてはかなわんのでな」
そう言ってランポッサは懐から掌サイズほどの袋を取り出す、中には行っていたのは宝石を加工したかのように鮮やかに輝く四角い物体であった。
キャロルが持つ黄金の弓がそうであるように、或いは聖都にある天剣がそうであるように、どこか神の気配がするそれを掌で転がしながら彼は黄金の宮殿を睨む。
「ここは帝国の領土だ……それを奪うなど許さん」
ランポッサが輝く四角い物体を持って勢いよく虚空を叩く、そこに見えない紙でも存在するかのように。
よく見ればその掌に握られているのは証明印であった、帝国の皇帝が使うならば帝印と呼ぶべきだろうか、つまりはハンコである。
だがただのハンコではなかった、それは神々の力が宿った証明印なのだから、神の意思を覗かせるものだ。
「神々の威光を持って、ここが帝国領土であることを証明する!!」
ランポッサが空中に帝印を押し付けると、そこから光の膜が広がって帝都を包む。
それだけに留まらず光は帝都を超えて遥か彼方まで広がっていく、もし空から帝国全土を俯瞰して見た場合、光の線が帝国の国境に描かれて見えただろう。
ここから先が帝国領土であることを、まるで神が証明しているかのように。
だから何だと言われてしまえばそれまでだが、いざ帝都を包もうとしていたパレスからしてみれば堪ったものではない、帝国の領土がまるで神殿のように触れがたい領域へと昇華してしまったのだから。
人間にとっては少しだけ神が身近に感じられる程度のものでも、悪魔にとっては海の底のような重圧感があるのだ、パレスが作った闇神殿の拡大を塞き止めるほどに力が強い。
闇神殿と神々が認めた帝国領土は、丁度城壁部分でぶつかり鬩ぎ合い、やがて一線を引いたように静止する。
「さて始めようか、帝国の全てをぶつけさせてもらう」
見上げるほどに巨大な黄金の建築物に挑むのは数十万の鍛え抜かれた軍勢である、その誰も彼もが雑兵には遠く、それは比喩ではなく間違いなく世界最強の軍隊だ。
「とりあえず戦線は帝城を中心に第一都市壁までとするよ。弟は無事? 無事なんだね? よし、なら可能な限り前線から遠ざけてね、西部方面軍は後詰として待機させておいて……後、生命神の神殿には後方に野戦病院を作るように伝えてくれ」
帝城は大忙しだ、特に皇帝の執務室は指令室となっており大勢の文官や伝令たちがひっきりなしに出入りを繰り返している。
そんな人々にアスラは次々と指示を出す、主に後方支援を目的としたものが多い。
「相手が宮殿を作った? 意味が分からないけど規模はどれくらい? あ~……はいはい、あれね、ん~……攻城戦の準備もしておこうか」
執務室の窓から身を乗り出してパレスが生み出した黄金の建築物を眺め、眉を顰めたアスラはそれでも迷うことなく指示を出す。
「長期戦になる可能性もあるから食料も必要になりそうだな」
次にアスラはペンを滑らして簡素な手紙を作り出す、そこに名前と自分の商印を刻んで近くにいた伝令に渡す。
「帝都南部のセニー商会にこれを、あそこの倉庫にある保存食を提供して貰おう。こちらの手紙は生命神の神殿に頼むよ、それと帝城の備蓄倉庫も開放するから何においてもまず物資を途切れさせないように」
そうしてアスラはこれからの戦いに必要な様々な物を用意していく、物資もそうだが色々な権利や許可も準皇族として押し通していった。
「状況次第では帝都の放棄も視野に入れなければならない、周辺の傘下国には今のうちに話を通しておこうかな」
また新しい手紙を作り始めるアスラに、秘書官の一人が少しだけ動揺した顔を見せる。
「て、帝都の放棄も考えておられるのですか?」
「勿論、そうならない方が喜ばしい、負けるつもりなんて欠片も無いけど、だからといって備えない理由にはならない、あちらだっていきなりやって来られても準備が大変だろうからね」
あくまでそんな可能性もあるという話だ、当然ながら負けるつもりなど欠片も無いが、未来の予知などできないのだから備えが必要だろう。
勝てばそれで良し、もし負けたとしても混乱を可能な限り抑えて再起を図る、指導者とは様々な未来に備える者のことであるとは先代皇帝の言葉だ。
食料が無い未来など嫌で、治療ができない状況などごめんだ、武器が足りないなんて笑い話にもならないし、逃げ場がない戦いなんてそもそも避けなければならないだろう。
考えられる様々な状況に備えてその上で勝利を目指す、当然のことであった。
「それとおそらくだが帝都以外でも暴動が起きてると推測される、富が集まる大都市なんかは特にね、余剰戦力はそちらの対処に当たってもらおう」
その言葉に文官の一人が書類を提出する、帝都に集められた戦力を除いた帝国の運用部隊が記された書類らしい。
「うん、動かせる部隊は全て北部と南部の治安維持に当たってもらおうか」
「西部と東部は放置なされるのですか?」
「まさか、そっちは別に部隊を動かさなくても対処してくれるさ」
書類と報告書の山を見ただけでアスラは帝国中に存在している戦力の位置と動きを把握したのだろう、心配はいらないとばかりに柔和な笑みを浮かべた。
「帝国最強の騎士と最高の騎士が西部から帝都に向かっている、そして東部方面からは最優の騎士もお出ましだ……これだけ大きな戦いなんだ、帝国三騎士が揃わないと寂しいからね」
執務室の机に広げられた地図を彼の視線が舐める、帝都に集まろうとしている騎士たちの姿を思い浮かべながらだ。
「だから大丈夫、何も心配はいらない」
不安に駆られる文官たちを安心させるようにとても穏やかな笑顔を見せるアスラは、窓の外に広がる戦場を眺めながらこう思う。
エヴァがそうであったように、信頼を込めて皇族としての見栄を張るのだ。
「魔王一柱倒せなくて、何の為の帝国だ……なんて格好つけるのも悪くはないさ」
彼はまたもペンを走らせて命令書や手紙を製作していく、剣を握って戦う訳でもなければ魔術師のように業火を操る訳でもない、この場にいる文官たちもそうだが戦いとは前線に立つ者だけで成り立つわけでもないのだから。
不安もある、恐れもある、それでも帝国という巨大な社会を明日へ繋げる為に必要なことを成していく、その為に彼らは今日も行動するのだ。
「さてさて、次は聖都への手紙を書こうかな」
やるべきことは多い、負けるつもりなどさらさら無いが、いざという時の備えを怠る訳にもいかない。
やはり皇帝は大変だ、ほどほどが心情のアスラは弟に押し付けた判断を間違いではなかったと確信したらしい。
もしランポッサが死んでしまえば次は自分の番となってしまう、それだけは避けたいので彼としては神に祈るしかないだろう。
帝城を中心に光の膜が広がっていた、物理的な干渉を持たないそれは混乱渦巻く帝都の全てを飲み込むだけでなく、そのまま遥か地平線まで伸びていく。
もしその光の膜を遥か空高くから俯瞰したならば、きっと帝国の国境を正確に描いていることだろう。
あちらとこちらを分かつ光の線は、帝国の国土をある種の別世界と定義する。
神殿などがそうだが特定の空間は地上とは異なる環境なのだ、海と大地が異なるように帝国とそうでない土地に明確な違いを作り出したのだ。
正確にこの現象を表現するのならば、帝国国土の全てが神殿と化したと言えるだろう。
神々から齎された帝印はそれによって生み出される様々な契約や在り方に強制力を与える、それこそその印が押されているだけで契約神の力が最大まで込められた契約書と同義になるほどに強い力がある。
そんな帝印が法と秩序の下に、ここからここまでが帝国領土であると証明した。
他の誰でもない、神々がそれを認めたのだ。
だからなんだと言ってしまえばそれまでであり、神殿と同様の領域になったからといってどんな歴があるのかと問われれば、きっと大した意味はないと返答するのが正しいだろう。
しかしだ、これがパレスからしてみれば堪ったものではない現象だ、自身の城、己の宮殿を中心に都合の良い環境を作り出していた彼女は周囲を神殿に囲まれたような状況に陥ってしまった。
帝都の全てを覆い尽くさんとしていた闇神殿は、しかし中央部の一部を制圧するだけに留まってしまうのだった。
「闇神殿は城壁の外までは広がらなかったか……どうやら帝印を使ったようだな」
帝都の大通りをエミリーとミューに護衛されながら進むエヴァは、帝都中に広がろうとしていた闇神殿の重圧が途中で阻まれたことを感じ取り、その理由に納得しているらしい。
彼女たちが向かっているのは帝国魔術院だ、戦場となっている帝都中央部から離れる形である。
「帝印とはなんだろうか?」
ミューは闇神殿が放つ息苦しい感覚を消し去った帝印に興味があるようだ、槍の石突でエヴァに近づこうとした暴徒を遠ざけながらそんなことを尋ねた。
「ただのハンコさ、神々が色々なことを証明してくれるだけのね。皇族のみが使うことのできる特別な証明印のようなものだ」
「ほう、ではこれはその印によって作られた環境ということか……まるで帝都全てが神殿のようになっているな」
「それは違うよ、帝印がこれを作った訳じゃない、あくまで神々が認めただけだ」
「そうなのですか? 帝印は初代皇帝が神々から授かった天剣にも匹敵する神器だとも聞きますが」
エミリーも興味があるらしい、彼女もまた近寄って来る暴徒を不可視の壁で妨げながらそんなことを言った。
「言っただろ、あれはただのハンコに過ぎないと……神が証明してくれるだけのね」
エヴァは二人に守られながら大通りを足早に進んで行き、ようやく学徒街と称される区画へと辿り着く。
普段ならば帝国の未来を担う学徒や師たちが、教室に入りきらない為に壁や石畳に無数の数式を書き込んでああだこうだと言い合う光景が広がっているのだが、さすがにこの混乱の中では呑気に青空授業とはいかないらしい。
たださすがと言うべきなのか、心理的な防衛術に長けた魔術やその見習いなども多いことから他の場所と異なりまだ秩序が残されている。
重要な研究や開発なども受け持っていることから、帝城にも負けない程に堅牢な作りになっているその区画は、大手門の付近に大量のバリケードが構築されており警戒するように監視員すら配置しているのが確認できる。
三人が近寄って来た時も注意している様子であったが、先頭にいたのがエヴァだったこともあり受け入れられるのは簡単だった。
「皇女殿下ッ……あッ、失礼しました、教授ッ!! ご無事で何よりです!!」
警戒に当たっていた学徒の一人が放った言葉に、エミリーとミューは首を傾げた。
「教授? エヴァさんは教鞭をとられているのですか?」
「主に美術のね、暇な時に手ほどきしてるのさ」
つまり学徒の中には裸婦画や裸婦像などの製作を真剣に学んでいる者もいるのだろう、芸術分野にそこまで造詣の深くないミューとしては、少しばかり帝国の未来が心配になってしまう。
需要があるから学ぶ者がいると理解はしているのだが、大勢が裸の像を作っている光景を想像して難しい顔をしていた。
「私の副業はどうでも良い、それより奥に行こう、魔術院に用があるんだ」
学徒街の中でも一際大きな建物が目的地である、正式名称は「帝国魔術院国家戦略研究機関」らしい、エヴァ曰くだが。
教育機関という側面も勿論あるが、それ以上に研究機関としての存在感が大きい、帝国の国家予算の一部がここに投入されていると考えれば重要施設と言えるだろう。
ちょっとした魔術の研究や開発から、極めて大規模な儀式や大魔術などの研究を行い、それをどう運用するかなどを試される場でもある。
単純に戦争運用だけでなく、例えば野菜の品種改良や大量生産などの研究もなされており、本当に様々な分野へと手を広げている魔術師にとっての天国のような場所なのかもしれない。
「私がここに来たのはね、帝国で運用できる大魔術を試そうと思ったからなんだ」
帝国魔術院の入口では、巨大な猫の守護像が彼女たちを待っていた。