商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
共に大海原を駆けていた筈の船が予定にない進路を突き進み、友軍である船へと突撃を敢行したのだ、それが衝撃の原因だったらしい。
大きな龍を模した船首が船の横腹に衝突する瞬間は、さながら龍が獲物に食い掛らんとするかのような迫力があった、風と波の力を合わせた巨大な船体はまさにドラゴンと評しても問題はないのかもしれない。
衝撃が全てをひっくり返す、状況も戦力も優位も、全てをだ。
「いったい何事だ!?」
海に落ちそうになっていた仲間の手を引っ張りながら一人の海兵がそう叫ぶ、彼だけでなく共に戦っている海兵の多くが同じことを思ったのだろう、目に見えてわかるほどのざわつきと混乱が乱戦の中を走り抜けていく。
そこで周囲を更に混沌へと落とすように、突如として突進してきた友軍だったはずの船から大きな勝鬨が膨らんだ。
まるで既に勝敗が決したかのような歓声が、鋼の輝きと共に吐き出されたのだ。
「てめえら何のつもりだ!」
肉薄の距離にまで詰め寄った友軍の船から白い布を巻いた海兵や傭兵が現れたのだ、彼らは味方である筈の海兵ではなく海賊たちと肩を並べて鋼を振るって見せる。
海賊たちを囲んでいた状況が、いつの間にか自分たちが囲まれている状況となってしまったのだ。
槍と矢、サーベルが海兵たちを囲んで逃がしはしないと突き立てられる、戦力差はそのままひっくり返って流れる血の量は明らかに海兵たちの方が大きくなった。
「あの爺の船の連中か……他はどうなっている!?」
「もう遅いっての、これは最初から決まっていたことだからな」
答えは海賊たちから帰って来た、その言葉が意味するのは他の船も同じ状況であるということだ。
「裏切ったのか! 街を焼いて、友やその仲間を焼いたゴミどもに与すると、貴様らはそう言うのか!?」
「何を言っている、最初から我々は仲間であったことなど一度も無い、これは裏切りではなくただの奇襲なのだよ。お前たちは間抜けにも隣に敵がいるとも知らずにはしゃいでいたんだ」
その声を海兵たちは知っていた、記憶が確かなら商人会の議長を務めている老人の腹心であった男だ、それほどの地位にいる男が海賊たちに与している事実にいよいよ誤魔化すことが出来なくなっている。
いや、最初からそんなつもりはなかったのだろう、この連中は酔っている訳でもなく脅されている事実も無く、裏切ったという考えさえ持ち合わせていない。
ただ大真面目に、素面で、恥も無く、海賊たちと肩を並べているのだ、その事実を海兵たちは怒りを持って受け入れるのだった。
「あのクソ爺め、いよいよボケたみたいだな」
「口を慎め、小汚い海賊よ。あの方は王の血を受け継ぐお方だぞ」
「はん! 商人の国で何を言ってやがる、今更大昔の……いや、まて、俺たちが海賊だと?」
「そうとも、お前たちは街を焼いて住人を誘拐した海賊であり、我々はその下郎を討ち取りに出陣した海兵なのだよ……そう、つまりはそういうことなのだ」
「おうおう、そうかいそうかい……それならば、これ以上の言葉は不要だ、ここで死ね」
「お前たちは海の戦士の誇りを踏みにじった……その血と肉でもって償え」
「ただでさえ汚い血だ、海神へ捧げることすら不敬になっちまうな、クラーケンかサハギンの餌にしてやるから覚悟しておけ」
敵に囲まれようとも、有利が覆ろうとも、海の戦士である彼らは微塵も揺らぐことはない。
眼前に広がる無数の鋼も、自分たちの倍の戦力であったとしても、その程度のことで臆するような心構えで海に出ていないのだ。
自分たちはここで死ぬことになるだろう、だがそれが何だというのか……戦士が誇りを失って輝きを濁らせることなどあってはならない。
目の前にいる連中はまさに邪悪そのものだ、誇りを手放して戦いと祈りを汚すその存在は畜生そのもの、そんな相手に怯えてしまえば、死んだ後に家族や仲間に顔向けすることができないだろう。
彼らは海の戦士なのだ、一度誇りを掲げたのならば、神の下へ行くまで離すことは絶対にない。
故に、こんな状況であろうともやることは変わらないのだった。
「海の神よ、生命の源よ、そして戦の神よ……いざご覧あれ、我らが誇りと生き様を!」
海兵たちは一斉に裏切り者へと刃を突き立てる、ここで死ぬことになろうともそれだけは為さねばならない。
「こ、殺せ! そいつらをこちらに近づけるな!」
囲み、不利を突きつけ、現実を知らしめれば士気が挫けてまとまな戦いにならなくなる、そう考えていた裏切り者たちは、まさか決死の覚悟で抵抗されるとは思っていなかったらしい。
狼狽えながらも狂戦士と化した海兵を迎え撃つ、当初の予定通りとはいかないのはこちらも同じなのだろう。
想定した絵図には程遠い、敵も味方も多くの血を流すことになった、それでも現実というのは残酷なものであり、誇り高く戦った海兵たちを数の力で殺し尽くすことになる。
怒りと誇りだけで勝てるのならば苦労はしない、そういうことだった。
海兵たちの奮闘の中、シャルルは帆柱の上から衝撃をまともに受け取って、跳ね上がるようにその身を大海原へ叩きつけられていた。
予期せぬ衝突とただでさえ不安定な足場も合わさり、体幹を崩した上でまともな受け身も取れないままに海面に落ちてしまったのだ。
頭か足、そのどちらかで綺麗に着水すれば結果は異なったのかもしれないが、不幸にも背中から落水してしまったので体中に広がった鈍痛はすさまじいものであり、彼女が意識を手放してしまったのも無理はない。
「シャルル!?」
船から落下した友人の名をエミリーが叫ぶ、すぐに救助しようと海の中にいる人魚たちへ声をかけようとするのだが、状況がそれを許さないようだ。
雄たけびを上げて海賊たちがこちらの船に向かてくる、つい先ほどこちらが優勢であったにもかかわらず、既に勝鬨を上げているかのような勢いだった。
よく見れば船上から海へ向けてモリを投げつけている者も確認できる、その狙いは海面にいる人魚たちであり、こちらの救助に気を使っている状況ではないだろう。
それもこれも突然に衝突してきた船から溢れるように出て来た相手の責任だ、これが最悪の裏切りであると想像することができてしまう。
ここは海の上、限られた足場しかない、つまり不利になったとしても逃げ場がどこにも無いのだ。
陸で兵隊を運用するように船は軽々と動けない、船員の数と経験と波と風が噛み合わなければ巨大な棺のような物だ、優勢な時はそれでも良いのかもしれないが、不利になればとことん逃げ場がない。
ここまで接近されて縄付きの固定弓で互いを結び合えば、殿という考えが意味をなさなくなってしまう。
戦うか、死ぬか、降参するか、その選択肢しか残されていない。
「……一か八か、海に逃げる?」
帆柱の上から縄梯子を伝って降りて来たキャロルの提案に、エミリーは数秒だけ考え込んだ。
上手く言葉にならない、それが正しい判断だと胸を張って言葉にできないのだ、仮に船に備え付けられたボートに乗って海に逃れたとしても逃げることは難しいことだけはよくわかってしまう。
それはキャロルも理解している、だからこその一か八かなのだろう、乱戦を掻い潜ってシャルルを拾い上げて、幸運を祈りながらこの混沌とした戦線を潜り抜けられる可能性はいかほどか……どう計算しても簡単なことでないことだけは察することができる。
それでもそこにしか活路が無い、どれだけ厳しく難しい状況であったとしても、可能性が指の先ほどでもあればそこに賭けるしかないのだ。
「お前さんたちはそれでいい、少しでも時間を稼ぐからボートで逃げろ。運が良ければ人魚に引っ張ってもらえる」
そう言い放ったのは魔術の詠唱をしている間、完全に無防備になってしまうエミリーの護衛役であった海兵の一人だ、彼が指さす方向には幾つかのボートが船に固定されている。
「……ですが、よろしいのでしょうか」
「嬢ちゃん、つまらんことを聞くな……俺たちは海の戦士だぞ、いつ死んでもいいように覚悟など常に決めている……今日がその時であったという、ただそれだけだ」
「そうとも、海で死ねるのならば我々の本望だ、この血と肉と魂を海神の下へと奉納できることは名誉にほかならない……海の戦士の最後としては上等だろう」
「確かにな、ベッドの上で老いて死ぬよりはずっとマシさね……だが嬢ちゃんたちは違う、ここで死なれるとどうも嫌な気分になっちまう」
「だな、それにあんたらみたいな若い娘さんは、海賊どもに捕まったらひどい目にあっちまう、だから早くにげな……そんで姉さんをよろしく頼むよ」
「ああ……あの裏切り者どもを粛正するためには姉御の力が必要だ」
そこで海兵たちは二人の背中を押すように送り出す。
「行きな、君たちに神が微笑まんことを願う」
「……ありがとうございます、皆さんにも神の御加護があらんことを」
簡略した祈りを海兵たちに送った瞬間に、目の前にいた海兵の一人が矢を受けて倒れ込む。
「チッ! もうここまで来やがったか!」
既に橋頭保を奪い返されて、船尾にまで海賊たちが迫っていた、それはつまり前線の海兵たちが全滅したことを意味にしており、この場での戦いが敗北で決定したということだ。
「エミリー……行くよ」
せめてもの援護にと、キャロルはこちらに迫って来た海賊に向けて矢を放つ、迎え撃とうとした海兵の隙間を抜けて相手の胸を打ち抜くと、それによって生まれた隙間に海兵が切り込んでいく。
そこから先の状況はわからない、キャロルとエミリーは同時にボートに飛び込んで固定していた縄を切り落とすと、そのまま海へとボートごと落下したのだ。
着水と同時に体が跳ね上がる、だが衝撃が来るとわかっていたのでしっかりと踏ん張った、そしてオールを使って戦いの場であった船から距離を取っていく。
「キャロル、シャルルの位置はわかりますか!?」
「船の反対がーーッ!」
シャルルを拾い上げようとオールを漕ごうとした瞬間に、海面が波打ってボートが大きく流される、どうやら船と船がぶつかり合う衝撃に巻き込まれてしまったらしい。
新しい船がこの戦いに参戦してきたようだ、それが友軍か裏切り者かここからではわからなかったが、野蛮な歓声が上がっているとだけは耳に届く。
「シャルルを拾ってすぐに離れましょう」
それしかできることがない、せめてもの幸運は場が裏切り者たちの予想以上に混沌と化していることだろう、ならば多少の隙も生まれる筈だった。
ボートを漕ぎながらもこれからのことを考える、ここでの戦いは敗北だ、受け入れるしかない。
ならばどうする? 生き延びて、それでどうすべきなのか……キャラバンでは常に考えてどんな状況であっても最善をつかみ取るように教えられている。
敗北のその先、そこからどうすべきか、エミリーの頭に浮かんだのはキグナスの顔だった。
彼女の存在なくしてここからの活路はあり得ない、この敗北を完全な敗北で終わらせない為にはキグナスが必要だ。
彼女の名前と存在感と力があれば、母港に残された船と戦力をまとめ上げて再び戦いを挑むことも可能になる。
シャルルを海から拾い上げ、そしてキグナスと合流して彼女を生存させる、それが現状で思いつくエミリーの最善であり理想だった。
しかし理想は理想、事前に描いた絵図が必ずしもその通りになることは少なく、エミリーの理想は船の反対側へ向かったことであっさりと砕け散る。
「おら、しっかり引き上げろ! せっかく女がわざわざ向こうから来てんだから、しっかり楽しませてもらおうや」
そこでは海面に叩きつけられて意識を失っていたシャルルが、漁で魚を引き上げるかのように網に絡まって船へと引き込まれようとしていた。
意識はなんとか取り戻しているのだろう、網の中でジタバタと蠢いているが、抵抗空しくそのまま船の上へと姿を消していく。
「シャ、シャルーーーんむッ!」
海賊たちに囚われてしまった友人の名を呼ぶ前に、エミリーの口が塞がれた、キャロルが阻止たようだ。
「……ここから離れる」
「そんな! シャルルを見捨てる訳にはいきません!」
「ダメ……今は助けられない」
「でもッ!」
「……ダメ」
ボートを漕ぎながらもキャロルの目が船へと向けられる、姉の姿は確認できないが、そこで行われていることは想像に難くない。
海賊が女を捕らえたのだ、やるべきことなど決まっているのだ、そして現状では二人にシャルルを救出する術はなかった。
「……女だから……すぐに殺されたりしない」
「……キャロルは、それでいいのですか、私は……」
「……良いはずがない」
エミリー以上に、この状況を受け入れられないのはキャロルの方だろう。
種違いの姉妹であっても唯一の家族なのだ、それでも見捨てるような判断を下す為には断腸の思いがあったのだが、それを表に出さないようにボートを漕いでいる。
少なくともキャロル自身は努めて冷静であると思っていたのだが、その表情を見たエミリーが何も言わなくなってボートを漕ぎだすくらいには、沈んだ顔をしていたらしい。
救出は不可能、そして女は楽しむ為にすぐには殺されない、ならば奪還の為に準備を整える、その判断を下さなければこの状況で生き残れない。
現実に打ちのめされて泣こうと喚こうとも、時間は共に寄り添って泣いてはくれない、どんな時でも前に進んで選択しなければならないのだ。
行かなければならない、逃げなければならない、例え姉を見捨てることになろうとも、最善を選ばなければ。
その先に二人は進まなければならないのだ、完全な敗北にはまだ早い。
だがやはり神々は気まぐれなのだろう、今回はとことん海賊たちに微笑んでいるようだ。
もとより難しい逃走になることはわかっていたことなのだが、海賊たちの獲物を求める嗅覚は想像よりずっと広くめざといらしい。
「女だ! 女が逃げてるぞ!」
「あの舐めた真似してくれた魔術師だ! 帆柱の上にいたガキもいるぞ!」
「おい、モリを投げつけんな、ガキでも女なんだから楽しめんだろ、傷物にすんじゃねえよ」
幸運にも人魚に拾ってもらえることはなく、二人は戦いを終えた海賊船に囲まれる結果となってしまった。
ボートの速度で船に勝てる筈もなく、風も波もあちらの味方であるのならば、この状況も必然であるのだろう。
逃げ場はない、海賊たちは船からボートを降ろしてこちらに近づいてきて、下卑た笑みを浮かべながら二人の体を舐め回す。
「……キャ、キャロル」
「……」
震えるエミリーの手をキャロルは握りしめた、せめてそうすることでしか抵抗の意思を示すことが出来なかったのもあるが、彼女もエミリーの手に触れなければ心が挫けてしまいそうになっていたのだ。
女だから殺されることはない、希望的な観測ではあるがそうなる可能性は高い……しかしそれはこれから自分たちに向けられる凌辱を受け入れなければならない。
海賊たちに囲まれながら、溜息と共に強がりながらキャロルはこう言うしかなかった。
「……降参」
そしてせめて少しでも楽な状況に持っていこうと、自分たちを取り囲む海賊たちに媚びたような瞳を向ける。
「ん……優しく、して欲しい」
海賊たちには意味がない言葉だろう、それでもそこに縋るしかなかった。
状況は混沌と化している、当初の予定など藻屑となってしまった、横腹に噛みついて来た裏切り者たちの存在が全ての原因だった。
「姉さん、もう三隻やられました、ここも持ちません!」
「海の戦士が情けないこと言ってんじゃないよ!」
キグナスの憤怒を背中で感じ取って海兵たちは槍を持つ手に更なる力が籠められる、目の前にいる海賊と裏切り者たちを切り伏せてみせるがいつまでも終わりが見えない。
斬っても突いても後から湧き出てくるかのようだ、周囲の状況も似たような光景であり、友軍の船はどれも囲まれて追い込まれている。
バキっと、キグナスの口内で奥歯が砕けるような音が響く、知らずと唇からは血が流れており、その瞳には視線だけで焼き殺さんとするかのような怒りが込められているかのようだ。
これほどの怒りを、これだけの感情を、この身から漏れ出たのは彼女の人生おいて初めての経験になるのだろう。
街を焼かれた時も行き場を無くしてしまうかのような熱を感じたのだが、これはそれ以上の憤怒になっている。
裏切りは許されない、等と綺麗ごとを今更言っても仕方がない、彼女は人間がどれだけ流されやすいか知っているのでそれ自体は世の常であると理解しているのだ。
それでも、生きているのならば、暮らしているのならば、人として押し通さなければならない一分と誇りがあると信じている……それが甘さであるとまだ気が付いていないくらいには彼女は若いということだろう。
誇りを失って生きることにどれほどの価値があるのか、輝きを曇らせて生きることにいかほどの意味があるのか、全ての誇りを失って生きる醜さときたら目も当てられない、早々に死んでしまった方がまだ美しい。
どんな悪党にも、どんな屑にも、例え海賊であったとしても、一握りの美学も持たずに生きるのならば、それは人ではなく獣も同然だ。
それは彼女が最も忌むべき存在だった、百歩譲って裏切りはまだ許せても、その一線を越えた者だけはどんな言葉をこねくり回しても救いようがない。
その救いようのない唾棄すべき存在が、数えきれないほどに眼前に広がっているのだ、奥歯だって噛み砕いてしまうだろう。
その憤怒を宿した瞳が大海原で一際目立つ豪華な船に向けられる、自分は偉大なのだと主張するかのように派手で実用性に欠けた船の主と視線が絡み合った。
必死に戦っている海兵や海賊たちとは一歩引いた距離にいるのは、死にたいとさえいえる枯れ木のような老人だ、内臓を悪くしているのか顔色は浅黒く、それでも立っていられるのは悍ましい執念の為せる技なのか。
生者に恋い焦がれて妬むアンデットのような存在だ、キグナスにとって最も醜い存在の筆頭とも評すべき男は、やはりいやらしい笑みをこちらに向けている。
この状況が楽しくてしかたない、彼の笑顔はそう主張していた。
キグナスは吠えた、そう、まさに吠えたのだ。
「クソ爺いいいいいいいいッッ!!」
あちらとこちらで百メートルほどの距離があるのだがこの叫びは間違いなく届いただろう、それほどの声量だった、老いた耳に間違いなく突き刺さっている。
それを証拠にニヤニヤとしていた枯れ木のような老人の笑顔が不快気に歪む、美酒に酔っていた所をこの世で最も忌まわしい声に邪魔されたかのように。
「やってくれたね! とうとうやっちまったね! 馬鹿だ馬鹿だと思っていたがこれほど救いがたいとは私が愚かだったよ!!」
それは老人の望んだ言葉ではない、彼が聞きたかったのは目障りな小娘が現実に泣き崩れて慈悲を縋る服従の言葉だったのだが、放たれた気配にはこの世の全てを焼き焦がすかのような憤怒が込められている。
その感情に煽られて枯れ木の老人は一歩下がるが、その事実に耐えがたい屈辱を感じたのか慌てて元の位置へと戻った。
「もっと早く殺しとくべきだった!! まさかここまで耄碌していたとは気が付かなかったさ!! いやはや年は取りたくないもんだ!!」
そしてキグナスは老人を射殺すかのように指さした、いつだったかキャラバンに属していた頃に、先輩であるエルフから人を指さすことが一部の地域では忌むされることであるのは、それが最も古く単純な呪いであるからだと教えられたからだ。
ああ、自分が魔術師であったならばと今日ほど願ったことはない、どれほど弱くてほぼ無意味な呪いであっても本当に力のある魔術師が使えば確かな意味を持つのだから。
頭の隅にとあるエルフの姿が思い浮かんだ、こんなことならば彼女に教えを乞うておくのだったと後悔しても既に遅い。
それでも彼女は指さした、枯れ木のような老人の脆弱な心臓の鼓動よ止まれと願いを込めて。
だが彼女は世界の理を改変する魔術師ではない、できたことと言えば老人を一歩だけ下がらせたことくらいだった。
「姉さん、それくらいにして逃げてください!」
「逃げろだと!? お前は私にここから逃げろと言うのか!」
「はい、貴女は生きなければなりません……港に帰って戦力を纏めて、あの連中を始末できるのは貴女だけだ」
またキグナスの歯が砕けるかのような音が響く、受け入れがたい提案だったがそれを受け入れなければならない立場に自分はいるのだと、彼女の冷静な部分が訴えている。
「生きてください、そして我らの無念を晴らすのです」
「…………」
静かに、だが深くキグナスは深呼吸をした、感情を抑えきれない時に行う儀式のようなものであり、すぐそこまで近寄った海賊と裏切り者の怒号が彼女の耳に届く。
「あぁ……わかったよ」
深く、深く、自分の奥底へと感情を逃がしていく、商会の代表となってからはそんな感情の操作も上手くなっていったように思えてくる……昔よりはずっとこうする回数事態は増えたのだが。
「今まで世話になったね……アンタたちの家族は私が面倒みることを約束する、だからここで少しでも時間を稼ぐんだ」
「約束なんて必要ありません、姉さんなら必ずそうしてくれますからね」
海兵たちは笑って見せた、そして背後から斬りかかって来た海賊たちを迎え撃つ。
キグナスは、そんな彼らの姿を見送って海に飛び込むのだった。
「ほい来た! さっさと逃げるで!」
事前に準備をしていたのだろう、海の中には人魚のグリーシャが待機しており、キグナスの体を引っ張ってその場から引きずるように泳いでいく。
「とりあえず距離とるでぇ、しばらくはこのままやけど我慢してなぁ……どっかで小舟でも見つけるさかいに少しの辛抱や」
春先の海水はまだ少し冷たい、それでも体を焼き焦がすような憤怒を抱えたままなら心地いいくらいだ。
「アンタはこれくらいで挫けるような女やあらえんやろ」
「はん! 当然じゃないか、私を誰だと思ってんのさ」
強がりに聞こえたかもしれない、それでも意思を示すことが出来ただろう。
人魚のグリーシャはそれが強がりだとわかっても安心する、その言葉が聞けただけでも満足だ。
この女はやると言ったならば必ずやる女だ、それなりの付き合いがあるのでその辺のことは理解できている。
「殺す……必ず殺す」
怨嗟の声が出るのならば心は折れていない、ここでキグナスが泣き言を発しようものならば最早どうしようもなくなってしまうのだから、その感情がグリーシャには前向きなものだと受け取れる。
挫折して蹲っている時間に価値などない、かつて自分にそういったのはキグナスなのだから、そんな彼女がこの程度で挫ける筈がなかった。
「おっと、しつこい連中やなぁ!」
キグナスを連れて逃げようとしていたグリーシャに向けて幾つかのモリや矢が放たれるが、彼女は海面を素早く動いてそれを回避すると、神への祈りを捧げていく。
願うのは力、母なる海を統べる力だった。
「海神さん、生命の源よ、ウチに力を貸しとくれ」
その祈りは人間が行った時とは桁違いの現象を巻き起こす、海神の寵愛を強く受ける人魚たちならば海流を操作することすらも可能なのだ。
海が盛り上がり、大波となって船を揺るがす、さすがに沈めることは難しいが逃走時間を作ることくらいは容易いだろう。
グリーシャは人魚にしか出せない速度で荒れる海を泳ぎ、キグナスの存在だけは最優先で確保する。
あの連中を好きに暴れさせれば自分たち人魚の生活や生命すら脅かされる、これは最早人間だけの争いでは無くなってしまったのだ。
人魚も援護だけでは足りない、戦力を集結して戦わなければならない、その為にもキグナスの力が必要になる。
そして何よりもキグナスは自分の友人なのだ、助ける理由などそれだけで十分。
燃え上がり、或いは抵抗しながらも沈められていく船を背後に、彼女たちは無事に逃げおおせることに成功するのだった。