商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
窮地である。
暗殺者をしていれば危険な状況や追い詰められた状況など幾らでも経験するものではあるので、キララは慣れているものではあるが、それでも積極的に味わいたいものでもない。
かつてカムラーンと戦った時も追い詰められたものではあるが、最終的には逃亡して事なきを得たが、今も似たような状況であった。
キララの肩、鎖骨付近から大量の出血が確認できる。彼女がイヴの魅了の呪いから脱出する為に自ら傷つけたものであり、歩行も困難なほどの激痛を訴えているのだろう。
都市に数え切れないほどに広がる建築物の屋根を伝って逃走するキララの足は僅かに揺らいでいた。いつもならば意識することもなく行える身軽な歩行は躓くような箇所も見られる。
鎖骨から流れる血も多くキララの半身は血に染まっており、それだけに留まらず流れる血は彼女が進んだ場所に血の道標を作っているのが伺えた。
「はぁ、はぁ……うッ、ぐッ」
出血と激痛、それだけの代価を払わなければ抜け出せない程にイヴの力は強力だった。ほんの少しでも判断が遅れていればそのまま底なしの沼に沈んでいくような感覚もあり、これは必要な犠牲でもあったことは間違いない。
代償は大きいが、キララはなんとか生きている、仕切り直しであった。
「仕事を失敗するなんて……武神以来ね」
キララは屋根の上から飛び降りて薄暗い路地裏へと身を隠す。
そして彼女は血に染まったマントを脱ぎ去り黒い装いを破り去ると、広く深い傷がある鎖骨を付近を露出さして最低限の応急処置を行い始める。
応急処置と言っても彼女はどんな時でも傷を癒せる生命神の神官ではないので、本当に最低限のものであった。
腰付近にある鞄の中から清潔な布を取り出すと、それを肩や脇などに回して鎖骨付近を布で固く締めあげるだけであり、当然ながらそれだけで血が完全に止まるはずもなくすぐに包帯は赤く滲んでいく。
それでも多少は出血が防げるだろう、気休めであってもやらないよりはマシであった。
じんわりと赤く染まっていく包帯に舌打ちしたい気分になりながらも、キララはそこで小休止を挟むこともなく、再び立ち上がって逃走を開始していく。
シャーシャとローレライ、この二人と合流して一時撤退するしかないだろう。
「……追手が来たわね」
暗殺者の耳が離れた位置から広がって来る多くの足音を拾い上げた。蜘蛛の糸のように複雑に広がる街並みにある様々な隙間の一つも見逃さないとばかりに捜索しているらしい。
ここで休憩していれば遠くない内に追いつかれるだろう。激痛と出血を引きずって動くしかなかった。
ローレライと合流できれば一先ず傷は癒せるだろう。シャーシャと合流できれば前衛も足りる。
だから彼女は何よりも合流を急ぐ、そしてそんな考えは敵対しているイヴにも容易にわかることであった。
キララが痛む体でそれでも王都を見下ろせる高さまで跳躍し、そこから仲間たちの位置を確認すれば、シャーシャとローレライの場所はすぐにわかる。
特に人狼と化したシャーシャはよく目立つ、殺到する兵士たちは次々と投げ飛ばしているので存在感も盛大である。
まずあそちらに合流しよう、そんなことを思ったキララは綿毛のようにフワフワと落下していくのだが、そうはさせまいと太陽のような圧倒的な存在感を持つ声が王都に響く。
キララからしてみれば背中に氷柱を突き立てられたかのような感触であり、シャーシャーにとっては極上の美酒を浴びせられたかのような甘美な甘みとなって耳に届いたことだろう。
「私に従いなさい」
大きな声ではなかった、ともすれば囁きにも近い声量である。
王城の最も高い部屋から放たれたその言葉は、水面に波紋が広がるかのように本来ならば届かない筈の距離にいるキララとシャーシャを襲ったのだ。
反応は二つに分かれる。キララは一度魅了の呪いを受けたことに加えて、今も激痛が体中に走っていたことで何とか耐えることに成功する。
そんな彼女ですらギリギリで意識を保つことができたのだ、キララよりずっと魅了に対する耐性が低いシャーシャであればどうなるのか、答えは簡単であった。
「アオオオォォォオオオオンンンンッ!!」
「シャーシャッ!?」
それは理性を無くした獣の遠吠えだ、あまりにも大きな叫びであったことから近くにいた兵士たちは衝撃で体幹を崩し、周囲にある家屋の窓ガラスが粉々に砕けていく。
例えその身を獣に変えようとも、理性だけは手放さなかった獣人は、その瞳を深紅に血走らせながら上空を見据え、綿毛のように落ちて来ていたキララを真っすぐ睨む。
その瞳の中には、汚れた意思が垣間見えた。
理性を失ったシャーシャがやるべきことは一つ、自分が最も敬愛する主の願いを叶えることだけである。
鋼の糸を束ねたかのような体毛に包まれた腕と拳を、文字通り人間離れした膂力で固めれば確かな凶器となり、それが上空から迫って来るキララへと向けられたのだ。
完全に理性を失い、今のシャーシャは完全にイヴの支配下にあるのだろう。同胞であるキララに攻撃することに何の迷いもないらしい。
「……」
自分に迫る大きな拳を見てキララは静かに己のミスを恥じた。シャーシャがこうなってしまったのはイヴの暗殺に失敗したからであり、それはつまり未熟であったからだと。
だがキララはそこで考えを止めない。動揺を心の奥へ引っ込めてただただ冷静に暗殺者としてその場の最適解を導き出すだけである。
魅了に毒された同胞を救う為に、キララは健在な腕を動かして刺突剣を握りしめた。
自分が痛みで目が覚めたように、シャーシャもまたある程度の痛みで正気を取り戻させようと考えているのだろう。
周囲にいる兵士たちは完全にその魂を掌握されてしまっているが、シャーシャはまだ浅い、帰って来れる筈だと信じて彼女は刃を振るう。
落下するキララ、迎え撃つシャーシャ、両者の交差は一瞬であり、その刹那の瞬間に勝敗は決まった。
「ぐッ!!」
吹き飛ばされたのはキララであった。流石に重傷を負った上で片腕では人狼となったシャーシャの攻撃を捌けなかったらしい。
羽のように軽い体は巨腕に殴り飛ばされてきりもみしながら落下してきた空へと戻っていく。咄嗟に盾にした刺突剣はへの字に曲がってしまっており、その衝撃を物語っていた。
人狼の膂力など人を遥かに超えるものなのだ、半神であるキララを吹き飛ばすことになんの問題もない。
「おおおおおおおおおおッ!!」
正気を失ったシャーシャが大きく吠えながら跳躍すると、その脚力に物を言わせて空中にいたキララへ一瞬で迫り、そのマントを掴み取る。
次の瞬間にシャーシャはキララの体を小枝のように振り回して、勢いよく地上へと叩き落とす。
「ッ……会ったばかりの頃を思い出すわね」
キララが叩き落とされたのは大通りに並ぶ商家であった。屋根を突き破り、二階の床を粉砕して、最後に彼女を迎え入れたのはどうやら台所らしい。
樽に詰まっていた生活水、長らく放置されたことで腐った水をぶちまけながら、キララは過日を思い出す。
シャーシャと初めて会った時も今と同じように投げ飛ばされたのだ、骨を幾つも折ったことをよく覚えている。
キララは手に持っていた刺突剣を持ち上げようとすると、思っていたほど力が入らないことに気が付いた。
視線を向けてみると健在だった腕があらぬ方向に曲がっており、それに気が付いた瞬間に追いかけるように痛みが広がってしまう。
これでキララの両手はどちらも使い物にならなくなった、両腕が動かない暗殺者に何ができるのかと思わず苦笑いを浮かべてしまうキララを誰が責められようか。
全てが己の失態によるものである、両腕が仕えないこともシャーシャが正気を失ったこともだ。
イヴをあの場で殺せていればこうはならなかっただろう。誰よりもそれを自覚しているからこそ申し訳なさが溢れていた。
だがキララは暗殺者だ、そうあれと先代の団長に育てられてきた。だからどんな状況であっても立ち止まる訳にはいかない。
思考と体の停止はそのまま死地へと直行してしまう、だからキララは痛みを引きずりながらそれでも立ち上がった。
両腕が動かせなくなったことで体幹が上手く維持できなかったが、躓くように前に出ると、キララが先ほどまで沈んでいた場所にシャーシャが瓦礫と共に落下してくる。
もし数秒遅ければキララは剛腕に粉砕されて肉片になっていただろう。
「おおおおおおおおおッ」
深紅に染まった瞳でシャーシャがキララを睨む、その咆哮だけで二人がいる商家は地震にでも襲われたかのように細かく揺れ動く。
振動に耐え切れずガラス窓が割れる音が周囲に広がる中、キララとシャーシャは視線を結び合う。
互いの一挙手一投足に注意しながら、僅かな呼吸や重心の移動すら見逃すまいと向かい合い、両者は全く同時に動き出す。
シャーシャは圧倒的な脚力をもって愚直に突っ込み、キララはそれを重心の僅かな変化で察して上空へと飛び上がる。
大穴の空いた商家の屋根から飛び出て、背中に大きな咆哮を感じながらもそのまま屋根を伝って走っていった。
「おおおおおおおおおおッ!!」
当然ながらシャーシャもそれを追いかける。ただし彼女は屋根の上に飛ぶなどという無駄なことはしない、その圧倒的な身体能力を十全に使って真っすぐ進むだけである。
家屋の壁も、大黒柱も、ガラスの窓も関係がない、全てが彼女を止めるに至らない。
濡れた紙を貫くかのように容易く全てを破りさりながら、人狼はキララを追いかけるのだ。
シャーシャが走り去る度に王都を彩る美しい家屋が次々と崩壊して大きな土埃が舞い上がり、過ぎ去った後には瓦礫の道が出来上がっていく。
圧倒的な暴力を獣の形に留めたかのような行進は、屋根を伝って走り続けるキララにあっという間に追いついてしまった。
どれだけ暗殺者の足が優れていようと獣には敵わないということだ。ましてやキララは両腕が仕えない状態である。逃げ切るのは簡単ではない上に、ここでの完全な逃走はシャーシャを見捨てることになってしまう。
なんとしてでも一撃を与えて目を覚まさせる、それを目的にキララは動いているのだが、どうにも達成が困難であるらしい。
キャラバンの中でも身体能力という点では圧倒的なシャーシャが人狼になって正気を失っているのだ、両腕が動かないキララでは難しいだろう。
厄介な状況である。毒婦は遠くからこの状況を眺めるだけだというのに、彼女たちは追い詰められてしまっているのだ。
直接戦わないで次々と戦力を増やし自身は安全圏で常に敵と距離を取る。なかなかに厄介な相手である。
イヴは血の一滴も流さないで敵対者と戦うことができるのだ。
こんなにも面倒な相手はキララも経験がない。圧倒的な力で暴れまわる敵の方がまだ戦いやすくはあるだろう。
「うッ」
家屋を薙ぐ倒しながら自身に迫るシャーシャの拳を寸前の所で交わして、しかし体に走った痛みによってキララは体幹を揺らす。
そんなわかりやすい隙を見逃される筈もなく、人狼の大きな拳が顔面へと迫った。
回避もできない速度、防ぐこともできない膂力、止める手段もない。
キララは自分の頭が弾け飛ぶ未来を想像したが、圧倒的な暴力を宿した拳が彼女の顔面を砕くことはなかった。
そうなる前に、両者を遮るように魔術によって作られた壁によって阻まれてしまったからだ。
「ローレライ……助かったわ」
半透明の六角形が無数に連なる壁は、家屋を用意に粉砕するシャーシャの拳を見事に弾き返してみせる。
キララが屋根の上から着地すると、その場には楽器を両手で持ったローレライがいた。
「団長、怪我を治療しますので、その場から動かないでください」
「えぇ、お願い」
ローレライは魔術の壁を維持しながらもキララに治療の魔術を施す。
生命神の神官がその寵愛を持って行う、あらゆる怪我と病魔を退け吹き飛ばす癒しの魔術にも匹敵するほどの力の渦巻きがそこに生まれる。
ローレライは生命神の神官ではない、治療を柱とする魔術師でもない、それでも積み上げた何百年という研鑽は本職すらも上回る力を有していた。
魔術の盾も同様なのだろう。治療の魔術を行使しながらも、どれだけシャーシャに殴られようとも一切の乱れが生じない。これもまた研鑽の賜物だった。
始まりの魔女曰く、突出した才能が無いらしい。
それでもローレライは、この時代に生きるどんな魔術師よりも大きな力を持っている。
天才ではないが、長い時間をかけて秀才を極限まで突き詰めた魔術師、それがローレライであった。
そもそも始まりの魔女にとって才能の有無などあまり価値を見出していなかったのだろう。重要なのは才ではなくその生き方なのだから、ローレライを弟子にすることに迷いなどなかったらしい。
期待に沿う為なのかわからないがローレライの研鑽は止まらず、この時代にまで続くことになる。だから彼女は治療も防衛も迎撃も全てを同時にこなせる。なんてことはない、何百年も生きていればどんな不器用な魔術師にだってできることなのだろう。
「ありがとう。助かったわ、本当にね」
キララが治療を終えるまで僅か数分、その間、シャーシャの拳はついぞ魔術の盾を破ることはできなかった。
「ローレライ、盾を消して、あの子を回収しましょう」
「一時撤退ですね?」
「業腹だけど、仕方がないわね」
キララは治ったばかりの両腕を揉み解すように揺り動かし、最後にくの字に折り曲げられていなかった刺突剣を握りしめる。
彼女がゆったりとした動作で刺突剣を構えると、それと同時にローレライは魔術の壁を消し去った。
当然ながら盾が無くなれば阻む者を消える、圧倒的な暴力の塊を防ぐことなどできないまま、シャーシャの拳は空を切る。
その瞬間だ、キララが踏み込んだのは。
痛みを引きずらない体は自由だ、風のように鋭く、誰にも捉えることなどできはしない。
眼前に迫ったシャーシャの拳はするりと空ぶった。そしてそこから瞬きする間に、シャーシャの体には鎖骨から脇腹へと走る深い傷が刻まれるのだった。
一瞬の出来事である、両腕が自由になった彼女の一閃は正気を失ったシャーシャには認識できず、大量の出血で膝を付く。
意識が吹き飛んだのだろう、人狼の体毛は引っ込んでいき隆起した筋肉も落ち着いて、数秒後にはいつものシャーシャがそこに倒れていた。
「回収するわ、ローレライ捕まって」
返事を聞く前にキララは倒れていたシャーシャと傍らにいたローレライを担ぎ上げると、そのまま重力を無視したかのような跳躍でその場を離れていく。
「仕切り直しね……本当に厄介な相手よ」
視線は毒婦がいるであろう王城である。
血を流さず戦う相手のなんと厄介なことか。
だがそれでも最後には勝たなくてはならない、あれは放置していては病魔のように広がって人々を犯していくのだから。
キララは自分たちを追って来る大量の兵士たちに背を向けながらその場を離れていく、いずれ毒婦に刃を届かせると誓いを立てて。