商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
「肉だッ!! 肉が足りねえよ!! これで戦えるか!!」
貧血気味の、それこそ意識を保つことさえ難しい状態の彼女ではあるが、不思議なことに食を進めれば進めるほど顔色が良くなっていくのがわかった。
揺れる車内では食事担当の団員が素早く料理を作り、それをラシュリーがすぐさまシャーシャの下へと運んでいけば、皿の上にある肉は一瞬で消えていく。
普通の人間ならば腹に収めたからと言ってすぐさま消化される訳でも、血に変わる訳でもないのだが、どうした訳かシャーシャの顔色は良くなっている。
大量の食料を食べているにもかかわらず、腹が膨れる様子もなく、そのことにラシュリーが不思議そうな顔をしながらも配膳は進んで行く。
次々空になる皿がラシュリーの目線の位置にまで届いた頃、ようやくシャーシャは食事を止めて一息ついた。
普通の人間が一回で行う食事の数十倍は食べただろうか、明らかに成人女性が食べられる量ではないのだが、シャーシャの腹は僅かに膨れる程度に落ち着いている。
どうやら獣人の体はかなり都合が良くできているらしい。強靱極まる胃袋の成せる技なのだろう。
「はぁ~……食った食った」
「凄いねシャーシャ、お腹痛くならないの?」
ラシュリーの尤もな疑問に顔色の良くなったシャーシャが笑って答える。
「獣人の体は人間ほど繊細じゃないのさ、頑丈で大雑把だからこれくらいなんともないよ」
「おぉ~」
何に感心したかはわからないが、感嘆の声をラシュリーは上げている。
「まッ、これでお礼参りもできそうだな……あのクソ女、ワタシを魅了しやがって」
腹が膨れ、幾分か血も戻ったことでシャーシャは苛立ちを露わにできるだけの余裕を取り戻していた。思い出すのは耳朶から理性を溶かした甘い囁きであり、心臓を鷲掴みにするかのっような恐ろしい声色であった。
自分が自分で無くなる感覚はそう何度も味わいたいものでもない。それでも一度コケにされたからには報復をしなければ、彼女の戦士としての矜持が許さないだろう。
とりあえずぶん殴るか、そんな雑な方針と覚悟を固めた彼女は、苛立ちを露わにするかのように拳を握りしめる。
食後の酒が入っていたコップをその勢いで粉々に砕いてから、シャーシャはその場を立ち上がった。
彼女たちがいるのはキャラバンの車内である、大きくガタゴトと揺れているのはダーボが走っているからであり、戦いの音も耳に届く。
「シャーシャ、調子が戻ったのなら手伝ってちょうだい」
クロスボウの先端を窓の隙間から外に出している団員の一人が背中越しにそう言うと、思い出したとばかりにシャーシャは肩を回して車両のドアを開けた。
走行中にやってはいけないことではあるのだが、ガチャガチャとドアノブが揺れていたので、自ら鍵を開けて侵入しようとしていた誰かを弾き飛ばした形である。
車両の後方へ視線を向けてみると、突然アイタ車両の扉に弾かれてゴロゴロと地面に転がされた兵士の姿があった。
どうやら彼は無謀にも走行中の車両に取り付いて侵入しようとしていたらしい。危険極まる行為であるのだが、そんな理性はとうに溶けきってしまっているのだろう。
危険か安全かではないのだ、それがイヴの命令かそうでないかが彼らにとって重要なのだった。
「……最悪な女に惚れたもんだ、哀れだな」
シャーシャとしてはそう思うしかなかった。
「体調は戻ったようね?」
外に体を出し、車両の屋上に身を乗り出すと、すぐにキララから声がかかる。
「あぁ、悪い、迷惑かけちった」
「いいえ、私のミスよ」
「ならこっから挽回しないとな」
「……えぇ」
責任を責め合うようなことはしない、そんな関係はとうの昔に過ぎ去ってしまっているからだ。
「こっからの方針はどうするんだよ?」
「仕切り直しよ、一旦引いて体勢を立て直すわ」
キララが車両に取り付いた兵士の一人を蹴り落としながらそう言うと、シャーシャもまた同じように反対側に取り付いた兵士を落とす。
「ローレライ、そっちは任せるわよ!!」
車両群の前方はこの二人と他の団員たちで問題はないだろう。
最後尾の車両に陣取るのはローレライだ。そして彼女に魔術の手ほどきを受けた団員たちが配置されている。
更にその後方、ダーボ率いるキャラバンを追いかけるかのように軍馬の嘶きが聞こえて来た。
馬に乗って車両群を追いかける集団はやはりイブの手先である。軍馬とダーボの足を比べるとどうしても前者に軍配が上がるので追いつかれるのは時間の問題である。
どれだけダーボが力強くとも、多くの車両群を率いて風のようにとはいかないのだ。寧ろ速度で言えば鈍重と言えるだろう。馬一匹と荷馬車で移動するほうがずっと早く、こればかりは小回りの利かない大型キャラバンである為に仕方がないと言えた。
だがそれでいいのだ、元より彼女たちは敵から逃げ切るのではなく、全てを排除して悠々と離脱することを良しとしている集団だ、足の遅さなど何一つとして気にする必要はない。
「皆、行くわよ」
「「はい!!」」
兵士たちは馬に乗りながらも器用に石弓を放ってくる。狙いすましたようなものではなく、一斉に放つことで面制圧を行うものである。
正気を失いながらも速度と角度を計算するだけの余裕は残っていたのか、一斉に放たれた鏃は大きな山なりの軌道を描きながらキャラバンに殺到していく。
それを防ぐのがローレライを筆頭とした魔術師隊であった。
まずはローレライが魔術の盾を作り出す、半透明の六角形の小さな盾が無数に連なると、それは壁と言う規模になって空を遮る。
傘のように広げられたそれはまさに鏃の雨をしっかりと遮り、一つとして車両へと近づけることはなかった。
シャーシャの岩すら砕く拳を受け止めてまだ余裕があった守りなのだ、どれだけ数が多くとも一つ一つは小さな鏃では貫くには至らない。
上空の守りはそれでいいだろう、矢の雨程度ならばローレライ一人でどうにでもできる。そして車両側面もまた守りが固い。
ローレライの教えを受けた魔術師――正確にはその卵たちがそれぞれ魔術を行使している。彼女たちの大半が魔術師として本格的な訓練を受けた訳ではないが、それでも基礎的なものは使えるのだ。
エミリーのように幼少期から魔術師として育った訳でもなく、技術や知識の継承を受けている訳でもないので強力無比な力は振るえないが、護身程度の魔術ならば行使も容易い。
そもそも魔術師と言うのはそういうものだ。結局は物理法則の延長線上にあるものであり、超常の力ではなく、エミリーのような炎を柱とする魔術師たちのように圧倒的な破壊を齎す方が稀である。
戦いに特化した魔術師の方がずっと稀と言えた。春風のキャラバンに所属する魔術師の卵たちは主に護身や治療などを主な魔術としており、そちらの方が日常生活ではよほど実用的で現実的とも言えた。
炎の魔術師が戦いに特化しすぎている為に、他の魔術師たちから頭がおかしいと思われる程度には無駄な発展をしているとも表現できるのかもしれない。
何もかもを焼き尽くすよりも、日常的に使えて実用的な魔術の方がずっと便利なのだ。そしてだからこそそういった魔術師の方が大多数でもある。
「ミカエラ、そっちにも張り付いてるよ。叩き落として」
「は、はい!!」
キャラバンの魔術師たちが使うのはちょっとした衝撃を起こす魔術である。極めて基礎的な魔術であるそれは、まさに護身程度の力であった。
長じれば人を粉砕することもできるのかもしれないが、護身用の魔術というだけあってせいぜい男の体を揺れ動かして転がす程度のものである。
これが炎の魔術師ならば熱線で蒸発させることになると考えれば、確かに極めて実用的な魔術であると評価できるだろう。
車両に追いつき、馬から勇敢にも車両へと飛びつき張り付いてくる正気を失った兵士たちは、不可視の衝撃に弾かれて次々と地面に転がっていった。
「え、えいッ!!」
ミカエラが掌を前に出して、そこに見えない壁があるかのように何かを押し出すかのような動作をすると、その動きに応じて兵士がまたも押し出されてしまう。
房中術の応用で相手に眠りを与える者もいれば、大きな光を発して目くらましをする者もいて、張り付いた兵士そのものを浮かして遠ざける者もいる。
激しく巨大で強力な力を振るっている訳ではないが、頭のおかしい炎の魔術師でもなければこんなものだろう。寧ろこれこそが魔術であるとも言えた。
なんでもかんでも焼いて解決とはいかないのだ、そんな魔術師はごく一部の者だけだろう。
「騎馬の足を止めますね」
団員の一人が魔術を行使する。物を浮かす極めて基本的な魔術で彼女は地面を持ち上げるのだ。
とはいえ始まりの魔女のように山を持ち上げるような規格外なものではない、せいぜい地面を少しだけ浮かして柔らかな畑のように耕す程度のものである。
騎馬が相手にはそうしろと教えられてきたのでその通りにすると、柔らかな大地が突如として現れた結果、足を踏み外したかのように馬が転がりその背中に乗っていた兵士たちも投げ出されていく。
普通ならばそんな迎撃が続けば追うことなど諦めるものなのだが、理性と正気を失った兵士たちは一向に諦める気配が無い。
恐れを忘れてしまった相手というのは恐ろしいものである。愛とは恐ろしいものだ。
例えそれがまやかしであったとしても、魂を縛るには余りあるものなのだろう。
また一人の兵士が車両の側面から取り付いて来る。走行中の車両に馬から飛びつくなど危険極まる行為であるが、そんなことに躊躇する理性は欠片も残ってはいない。
車両に取り付いた男はすぐさまよじ登ろうとするのだが、その途中でミカエラに見つかってすぐさま魔術の用意をされてしまう。
「え、ぁ……」
車両の天井で魔術を用意しながら待ち構えていたミカエラと、張り付いてよじ登って来た兵士の視線がぶつかった。
すると小さな驚きの声が彼女から漏れ出た、兵士の瞳を見た瞬間に思い出してしまったのだろう。
かつてのミカエラの中にあった神の権能、娼婦神の力と神威は彼女に関わる者全ての人生を惑わして縛り付けた、それこそ国が傾くほどに。
その時に見た人々の顔と、目の前にいる兵士の顔は全く一緒だ。何かに酔ったような、幸福な時間に蕩けきったような、そんな顔である。
あの時は誰も彼もが愛に酔っていた。溺れて足を捕らわれて底の無い沼へと落ちるように、理性を失っていたのだ。
ミカエラにとって大きすぎる力は様々な不幸を巻き起こして、それから逃げるように神格を手放したのだが、もしあのまま何を行動できず時間が過ぎ去ってしまったのならば、もしかしたら自分は毒婦と変わらない状況になっていたのかもしれない。
そんなことを思うと、途方もない恐怖がミカエラに広がった。
誰かの魂を縛り狂わせる、そこに恐怖を感じるのか、愉悦を感じるのかの違いが、毒婦とミカエラの立場の違いとなっているのかもしれない。
「ぅ、ぁ……あれ、俺は一体……なにを?」
以前の自分と環境を思い出し、一瞬の躊躇を抱いてしまったミカエラだが、そのわかりやすい隙を相手の兵士は見逃してしまう。あちらもそれどころではなかったからだ。
少しだけ、ほんの一瞬だが、ミカエラと視線をぶつけ合った兵士が夢から覚めたかのように正気を取り戻したようにも見える。
自分がどうしてここにいるのか、なぜこんなことをしているのか、驚いた様子であり、まさに酔いから覚めたかのように困惑しているのだ。
朝、覚めた時、自分が走行中の大型車両に必死で張り付いていれば、それは驚くだろう。
「あ、あれ、正気に戻って?」
ミカエラもまた驚いた様子だ。視線が結ばれた瞬間にバチッと何かが噛み合うような感触があったことはわかったのだが、まさか理性を取り戻すとは思わなかったのだろう。ギラギラとした瞳が落ち着き、困惑しながらも確かな理性が見える兵士に、彼女は魔術を思わず引っ込めた。
どういう訳か見つめ合ったこの兵士は正気を取り戻して話が通じるようだ。ミカエラとこの男の間に視線を通じて奇妙な縁のようなものが出来上がり、何らかの影響を及ぼしたらしい。
房中術を使った時のように、魂と魂が繋がりあったような感覚は確かにあった。
だから彼は甘い酔いから覚めたのだろう、しかしそれはあくまで一瞬の出来事でしかない。
ミカエラが手を伸ばそうかどうか悩んだ僅かな時間に、理性を取り戻した瞳はどこかに消えて、再びギラギラと血走った瞳が現れてしまう。
そこにあるのは理性ではなく激情だ、ほんの僅かな間であっても、イヴのことを忘れてしまった己への怒りであった。
噛みしめる力が強すぎたのか、バキッと音を立てて奥歯が砕け、唇の端からは血が流れるほどの怒りである。
「お前は一瞬でも我が女神を忘れたのかッ!! この愚図がああああッ!!」
怒りの声を向けられたのはミカエラではない、その男自身に向けてのものであった。
彼は怒っていた。イヴを一瞬でも忘れてしまったことに。
それはあってはならないことだ、神に唾を吐く行為であり、神殿を汚泥で汚すことだ。
それほどまでに、彼にとってイヴは絶対の存在なのだろう。だというのに、瞬きする間であってもミカエラに見惚れてしまったことに、彼は己が許せない。
まるで彼の中に別の誰かがいるかのようであり、ミカエラには見えない何かに取り付けれたかのように凶行に走る男にしか見えなかっただろう。
彼女の認識は間違いではないのかもしれない。きっと二重人格のように男の中には二つの意思があるのだ。
イヴを愛する自分と、本来の自分、その二つが混在して前者だけが幅を利かせていると思われる。
だからこの凶行は、きっとイヴを愛する側の彼が行ったものだ。
「ま、待ってください!!」
ミカエラの静止の声は届かない。男は腰にあった剣を抜き放つと、迷うことなく自分の喉を切り裂いてしまう。
瞳には確かな恐れがあり、しかし体は恐怖に関係なく動く、イヴを愛する彼が本来の自分を攻めたてたのだ。
力を失った男は大量の血を喉から吹き出しながら地面に落ちて転がっていく、。後に残るのは彼が残した赤いシミだけである。
「……どうして、こんな」
少しの間だけ正気を取り戻したのだ、だというのにそれは彼の中にある別の人格に殺されてしまった。ミカエラにはどうしようもないやるせなさが広がったことだろう。
かつての自分は誰かれ構わず愛されることを恐れたというのに、毒婦はそれを力として扱う、あまりにも恐ろしい相手であった。
「ミカエラ……悩むのは後にしなさい」
横目でミカエラと男のやり取りを見ていたローレライは、ショックを受けた様子の後輩に、それでも厳しく指示を出す。
「貴女ならわかるでしょう? 愛は、とても恐ろしい力だと」
「……は、はい」
「それを忘れていないのなら、貴女が道を間違えることはもうないわ」
かつての過ち、国を傾けた力の残滓は今もミカエラの中にこびりついている。
愛と言う呪いで多くの者を巻き込む力であり、大きすぎるそれをかつては恐れて手放した。
だけど、今になってミカエラは少しだけこう思う。力を恐れて手放すのではなく、上手く制御して扱えていれば、イヴを愛する彼らを救えたのではないかと。
既に手放した力だ、無い物ねだりをした所で何も状況は変わりはしないが、そう思わざる負えない。
そんな後悔を与えて来るイヴと言う存在に、ミカエラは彼女にしては珍しく強い苛立ちと怒りを覚えるのだった。