商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
「……ぁ」
小さな呻き声を拾い上げた瞬間に、イヴは自らの勝利を確信した。
誇張抜きで世界一美しい彼女が、鏡に理想を描いたのだから、それは古今東西で比類なき美しさを持った存在であるということに他ならない。
美しさというものが彼女で完成して完結したのだ、それ以上はなくて発展や洗練というものが無くなってしまった。
誰もが思う、これほど美しい存在を傷つけたくないと。
誰だって跪く、この美しさを前にしたならば。
世界の中心に座ることができるのだ、ただ美しいというだけで。
「つまらない結末ね……最初から私に傅いていれば良かったのに」
ただ声をかけただけでは足りない相手に驚きと怒りを抱いたものだが、イヴは焦ることなく罠と武器を用意して待ち構えていた。
鏡に映る自分の理想、こうあって欲しいと言う姿を相手に見せることで、どれだけ鈍い相手でも彼女の虜になってしまう、彼女にとっての奥の手でもある手段はしっかりと突き刺さったらしい。
フラフラと体幹を揺らして倒れそうになっているラシュリーとミカエラを眺めながら、次は外で暴れている連中をこの場に誘い出す算段を考えるイヴは、目の前にいる二人から興味を無くして視線を反らすのだが、その瞬間に彼女に群がるような力が殺到した。
「ッ!?」
数多くいる魔王の中でお世辞にも強いとは言えない彼女にとって、体中に広がった力の流れは無視できないものである。
単純な殴り合いではそこら辺にいる兵士にすら及ばない魔王だ。そんな脆い肉体でまともに電撃を押し付けられれば、例え完全に当たった訳でなくとも情けない声を出してしまう位には衝撃的であった。
視線が興味を失った筈の二人へと帰って来る。魅了に落ちた筈の二人が抵抗することなど出来る筈がないというのに、どうしてかミカエラが持つ短杖からは雷光が漏れ出ているのが確認できてしまう。
どうやら自分を傷つけようとした存在はミカエラのようだ。それを理解した瞬間に美の魔王は歯を食いしばって怒りを露わにした。
自分に支配されない愚か者への怒り、この世で最も美しい者を傷つけようとしたことへの怒り、そんな無数の苛立ちと怒りを磨り潰すかのように歯ぎしりの音が響き、下手人を何が何でも殺してやると意気込んで睨みつけ――イヴは言葉を失うことになる。
侵入者に対して強い興味が無かったので姿や顔つきにそこまで関心が向かず、この玉座の間に入って来た時も鏡ばかりを見ていた為に、ミカエラとラシュリーの顔をハッキリと確認していない。
イヴが、ミカエラとラシュリーをしっかりと確認したのはこの瞬間ということだ。
だからこその驚きである。イヴはこの瞬間、己と匹敵する美しさを持つ存在を認識したのだから。
「なんだ……お前?」
短杖に雷光を宿すミカエラの瞳には今なお強い力が宿っていた。隣にいるラシュリーはフラフラと頭を揺らしており夢見心地な様子だというのに、魔術を使う余裕さえ見て取れてしまう。
ただイヴの驚きはそこではなく、ミカエラの容姿であった。
生まれた時から娼婦神の寵愛が深かった彼女の容姿はとても美しく出来ており、美の魔王であるイヴからしてみても美しいと思えるほどである。
己より美しい者など存在しないと本気で思っている女が、他人を美しいと思うなどありえないことではあるが、ミカエラはそう考えさせるだけの美を持っていた。
男から見れば美しい少女と認識され、女から見れば美しい少年と認識されるだろう容姿であり。娼婦神が男娼からも信仰されることから中性の神であると考えられていることから、ミカエラは正しくそんな神の化身と言えるのだろう。
容姿の美しい者など世の中には幾らでもいる。それこそ隣にいるラシュリーやキャラバンの団員たちはそれぞれ方向性こそ違うがそれぞれの美しさを持っており、後は好みで別れる所ではあった。
だがミカエラの美しさは凄みが備わっている。老若男女問わずに人類が思い描く理想を形にしたのならば、きっと彼女の姿になるのではないかと考えてしまう位には、凄みがある。
そしてそれは、イヴと全く同質の存在感であるのだろう。
共に美しく、そこに神格を宿していたのならば、この二人は同質の存在であると表現できるのかもしれない。
二人の視線が結び合った瞬間に、奇妙な親近感すら感じ取ったのだから。
同時に、耐え切れない程の同族嫌悪が溢れ出してもいた。
「お前はどうして……」
「貴女はどうして……」
お前は自分で、自分は貴方で、きっと同質で同格で、何かが違えば立場が逆転していたかもしれない、きっと二人はそんな存在なのだろう。
発した言葉も同じである。ただしそこに込められた感情は正反対であった。
「豚どもと同じ生き方を許容できるのよ!?」
「誰かを傷つけて平気でいられるんですか!?」
片方は怒り、自分と同じ存在が低次元で生きていることへの苛立ち。もう片方は自分と同じ存在が傲慢極まる生き方をしていることへの憐れみが交じっている。
彼女たちはとても近しい存在であるが、生き方も価値観も決定的に異なっているらしい。共感よりも同族嫌悪の方が圧倒的に大きいのだろう。
鏡合わせのように似ていても、この二人は決定的に異なっているのだから、衝突は避けられはしない。
ミカエラが握るお下がりの短杖に雷光が灯るのと、イヴが鏡を盾にするのは全くの同時であった。
床を舐めるように迸る電撃は鏡に接触した瞬間に跳ね返るように周囲に飛び散る。普通はそうならないのだが、鏡面が波紋のように広がったので何らかの魔術的な作用があったのかもしれない。
ミカエラはローレライから教えられた知識の中に魔術と鏡についての分野を引っ張り出す。
正確な知識と力を持つ魔術師ならば様々な魔術の引き金となりうるとされており、つまりはミカエラが持つ宝石付きの短杖と大きく変わらないと言うことだ。
鏡を使ってどんな魔術を行使するのか、幾つかある候補の全てを警戒しながら、集中を高めていく。
次に確認すべきは状況だ。イヴは大きな大鏡を盾にしながら身を隠しており、玉座の間には数え切れないほどの鏡が設置されている。そして隣にいるラシュリーは酔っぱらったかのように千鳥足になっていた。
「ふにゃぁぁぁあ」
目をグルグル回しながら猫のような声を上げるラシュリーはどう見ても意識がハッキリとしていない。ミカエラはそれを確認すると彼女の手を引いてイヴから距離を取っていく。
「ラシュリーさん!! 大丈夫ですか? しっかりしてください!!」
「うぅ~ん……おやつが一杯だぁ」
一体彼女はなんの夢を見ているのだろうか、どうしてか頬を緩ませている。
幸運者である彼女にも毒婦の魅了は突き刺さるほどに強力であったが、イヴに従うと言うよりは心地の酔い夢を見ているかのような状態になっている辺り、完全に虜になった訳ではないのだろう。
それならばまだ帰って来れる筈だと、ミカエラはまたもやローレライから教えて貰った知識を引っ張り出すのだった。
魅了された時の対処法、浅い状態ならば強い衝撃で目を覚ますことが多い。ある程度洗脳が深ければ房中術を使って精神に干渉するのが好ましい。
それでも戻ってこれない場合は手遅れである。そうなると神に祈るくらいしかできないので、ミカエラには何もすることができない。
見た所、ラシュリーはそこまで深い汚染には陥っていないように見える。一撃必殺の魅了を受けたにしては随分と軽い症状だ。
幸運の成せる技だろうか、なんであれこの程度なら深刻に考えるほどでもなかった。
「も、戻って来てくださいッ!!」
大きく振りかぶって勢いを付けたビンタがラシュリーを襲う。何かが破裂したかのような鋭い音が響き、ラシュリーの視界には火花が散ったことだろう。
「ふぁ!? 一体何が!?」
どうやら目が覚めたらしい。夢見心地の様子がビンタで吹き飛んで慌てている様子に、ミカエラは安心したように息を吐く。
「良かった……目が覚めた」
「あ、あれ、私、魅了されてたの?」
「はい、夢見心地になってました」
「おおぉ……全然気が付かなかった」
愕然とする少女は、しかし挫けることも絶望することもなかった。すぐさま次へと思考を切り替えられるのは戦士としての才能があると言えるのかもしれない。
ラシュリーは何を思ったのか自分が身に纏っている厚手のマントの一部を千切ると、それを頭に巻いて自らの視界を覆い隠してしまった。
それでは戦えないだろうという尤もな思いをミカエラが伝える前に、ラシュリーは剣を握ってイヴへと突っ込んでいくことになる。
「ちょ!? ラシュリーさん!?」
すぐに足を引っ掛けるなり踏み外すなりして転げる未来を予想したのだが、不思議なことに彼女は軽やかに足を進めて何かにぶつかることもない。
視界が閉ざされているにも関わらず、まるでハッキリと見えているかのような足取りであった。
ミカエラには認識することのできない導きを辿っているのだろうか、少なくとも転んでしまう心配はしなくてもいいのだろう。
魅了の影響もそこまで大きくないらしい、瞼の裏にまで焼き付くような様子もみられなかった。
視界を閉ざしているのでイヴの姿を見ることもできない。鏡に映った究極の美も見えないのならば存在しないのと同じである。
なんとも単純な攻略方法であり、例え思いついても実行はしない策であると言えるが、それを大真面目にラシュリーは実行していた。
声だけならば加護と幸運豊かな彼女は耐えられることはわかっている。ならば視界を閉ざせば立ち向かえると考えたのかもしれないが、予想外にもそんな単純すぎる行動に面食らったのはイヴであった。
「何なのよアンタは!? 正真正銘の馬鹿なの!?」
目隠しの状態で躓くことも見失うこともなくこちらに迫って来るラシュリーに焦ったような声をだしており、その姿はとても魔王には見えない。
もしかして毒婦はそこまで強い存在ではないのかもしれない。押しつぶすような迫力もなければ圧倒的な力もない。噂に聞く首なし騎士の方がずっと強いのかもしれないとミカエラは考える。
ただ美しいだけの悪魔、そしてその一点だけで十分な存在ということなのだろう。
ならば自分たちにも勝機はある筈だと彼女たちは奮い立つ。まだまだ未熟な身ではあるが、相手が魅了に特化した存在ならば活路はある筈だと無茶は承知で突き進むしかない。
「ラシュリーさん、前方約十メートル先です!!」
「うん、大丈夫、見えてるよ!!」
視界を閉ざしている相棒に相手の位置を知らせると自信満々な返答があった。それを証明するかのようにラシュリーの爪先はしっかりとイヴへと向いており、それが乱れることはない。
「この能無しどもがッ……知性ありしと自称するなら私に従いなさい、惚れこみなさいよ!!」
大きな鏡を盾にするように身を隠すイヴには憤りと確かな怯えが見て取れる。それを好機とみて二人は距離を詰めていった。
「鏡よ!! 私を守りなさい!!」
玉座の間に数え切れないほど並んで飾られた鏡たちがその命令に従って無数のイヴを映し出す。どこに視線をやろうとも理想を映し出した絶世の美女の姿や視線があり、耐性の無い者がこの場に立てば一瞬で身も心も蕩けてしまうだろう。
最も毒婦の力が強まる場所、神殿にも似たこの空間を、無数の視線が殺到する魔境を、それでもなお彼女たちは踏破していく。
活路は前にしかない。経験に乏しい二人でもそれくらいのことはわかっていた。
ミカエラには何をどうしようが通じない。ラシュリーはもうイヴを見ることがない。どれだけの視線と美貌に睨まれようとも止まりはしない。
「鏡よ!!」
イヴの声に応じるように大きな鏡が動き出す。王侯貴族にしか持てないであろう豪華な意匠が目立つ鏡は、突然に罅割れて弾けるように破片をまき散らしていく。
砕けて弾けた破片はそれぞれが矢のように鋭く、どうした訳かその場に散らばるようなことはせず、勢いよく迫るラシュリーとミカエラへと殺到していった。
鏡の破片と言えど勢いを付けて放たれれば十分な凶器である。無数の破片が迫る光景は矢の雨に晒されているようにも見えただろう。
人が生きられる隙間などそこには存在しない――しない筈だった。
「なッ!?」
イヴが驚愕したかのような声を聞かせたのは、放たれた鏡の破片の全てがラシュリーをすり抜けるように外れてしまったからだろう。
大量の破片は細かく鋭く広範囲に広がっていたはずだ。どれだけ体を縮めようと避けられる筈がないのだが、なんの因果かラシュリーの肌を僅かでも傷つけることは叶わない。
矢の雨が降ろうとも不思議と傷つけない英雄のように、彼女は破片の刃を全て回避するのだった。
剣で撃ち落とし、僅かに身を捻り、頭を下げ、時には飛び跳ねるように破片をやり過ごす動きは見事であるが、それだけで無数の刃を完全には防げるはずがない。それこそ飛びぬけた幸運でもないかぎりは。
そして彼女は間違いなくその幸運を持つ者だ。鏡の破片が殺到しようとも、魅了の呪いにかかろうとも、何故か切り抜けられてしまう存在である。
本来ならば鏡に映ったイヴを見た瞬間にこの戦いは終わっていた筈なのだが、ミカエラがいたことによりこうして奮戦できた。それもまた幸運の成せる天命なのかもしれない。
全ては結果論に過ぎないが、幸運な者とはそういうものなのだろう。
「その首頂戴いたす!!」
握った刃の切っ先が毒婦の喉元に届くほどの距離まで近づいた時、ラシュリーはキャラバンでよく公演している英雄譚の主人公を真似たかのようなセリフを放った。
遥か昔、魔王を討った英雄の真似である。
白刃が喉元めがけて軌跡を描く。拙くも確かに鋭いそれは魔王の中では単純な力に乏しいイヴを殺しきるに十分足りるものだ。
例えラシュリーの刃をやり過ごしたとしても、後方に控えるミカエラが持つ短杖には雷光が瞬いている。
勝った。刃を振りぬくラシュリーも、後方から電撃を放つミカエラも、そんなことを思ったのかもしれない。
ただし、それはラシュリーが鏡の破片を幸運にもやり過ごしたように、イヴも同じように幸運にも刃と電撃をやり過ごしたことで、根拠の無いものだと知ることになった。
「……え?」
「……な?」
困惑と驚きの声を二人は漏らす。
当たると確信した刃も、避けようがない電撃も、まるでイヴの体をすり抜けるかのように回避されてしまったのだ。驚きも当然なのかもしれない。
「はんッ……幸運なのはアンタだけだとでも思っていたの?」
幸運にも避けられない筈の攻撃を避けたイヴは、確信が無かったが故の若干の焦りを伺わせながらも嘲笑って見せる。
自分を害せる存在などこれまでいなかった。だから彼女もハッキリと理解はしていなかったのだろう。だがこうして初めて天敵と言える存在を前にして確信へと変わったらしい。
ならばと、大仰な振る舞いで髪をかき上げ、世界の支配者であるかのように豪奢な玉座に腰かけると、当然とばかりにこう言い放った。
「こんなにも美しい私が……世界に愛されていない訳がないじゃない」