商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
ラシュリーは視界を閉ざした状態でありながら真っすぐと城壁の上にいるイヴを見つめる。当然ながら見えないが不思議なことにその存在はハッキリと感じることができていた。
魅了の影響もない。瞼の裏にすら焼き付くようなイヴの美貌も感じられない。見えなければ美しさもあまり意味が無いと考えて実行した目隠しであったが、思いのほか上手くいっていることに彼女は満足そうである。
普通はそうはならないのだが、躓くことも転ぶこともなく進んで行けるのは、きっと神々の加護の成せる技なのだろう。
「ダーボ!! アイツを落として!!」
ラシュリーが乗っかる大きな獣であるダーボはその命令を聞いて長く強靭な鼻を力強く振り回す。
大きな体躯に相応しい圧倒的な膂力は、そこに神獣としての力や権能も加わって凄まじい破壊を生み出す。
万の軍勢すら阻むことのできる城壁は、まるで積み木細工の如く崩壊していくのだった。
「きゃッ!?」
自分が乗っていた足場が崩れたことにイヴは妙に可愛らしい声を上げていた。それだけ聞けば少女のように思えるが、やっていることは国を亡ぼす毒婦そのものであるので、どうにも苛立ちを与えてしまうものである。
少なくとも本性を知って魅了に抗えるラシュリーやミカエラには、欠片も好意的な感情が向けられることはない。
崩れた城壁から滑り落ちるようにラシュリー達の下へとやって来たイブは、結構な高さから落ちたというのにやはり無傷であった。
忌々しそうに、そして面倒くさそうに尻に着いた埃を払う仕草を見せると、鋭い視線が向けられる。
ただそれだけで心臓を握りつぶされてしまいそうな動悸を感じてしまうが、ダーボの頭の上にいるラシュリーとミカエラは何食わぬ顔で受け流す。
「ふんッ……お前たちみたいな馬鹿な不細工にはもう何も期待しない!!」
自分に惚れこまない二人は最早彼女にとって呪いとなっていた。己の全てを否定して、存在を認めない鋭い刃である。
殺さねばならないだろう。それを成せずになにが魔王かと憤っていく。
ただしこれは泥仕合であり、どちらも決定打が無い不毛な殺し合いである。
どちらも何とかして致命傷に手を伸ばそうとする戦いだ。
「貴女は違うでしょう? 今も私に甘えたくて仕方がないのよね?」
魅了の効かない二人には何をした所で意味はない。そう考えたのか自然と毒婦の視線は城壁の上で待機していたキララへと向かった。背後からの一撃で暗殺を実行しようとした瞬間から、もっと言えば彼女の存在を認識した瞬間から、キララはもう魅了に陥っていた。
距離を詰めず城壁の上で動かないのもそれが原因だろう。歯を食いしばり、高まる動悸を必死に抑えようとしているのは間違いない。
それでも十分すぎるほどに我慢強いと言えるのだ。理性を失ってイヴの傀儡になるのが自然なことなのだから。
「そうね、今すぐこの子たちを片付けるのなら……ふふ、愛してあげなくもないわよ」
キララが歯ぎしりする音がこちらにまで聞こえてきそうであった。どれだけ強い精神を持った者であっても甘い囁きには抗いがたく、キララが完全に洗脳されるのも時間の問題である。
そうはさせまいとラシュリーとミカエラは攻勢を強める。ダーボの頭から飛び降りると同時に刃を振り下ろすのだが、どうしたことかその剣が届くことはない。
イヴもまた同様だ。戦士ではない彼女は迫るラシュリーに咄嗟に手を振りかざして弱弱しい攻撃をしようとするのだが。悪意を持って触れそうになると途端に世界が守ろうとする。
なんとも不毛な争いだ、終わりが見えない。
欲しいのは必殺、世界も幸運も直感も運命も介入することができない、完全にして完璧な一撃、或いは状況を作り出すことだろう。
少なくとも戦士としては平凡にも手が届かないイヴにはどうしたって不可能なことであり、だからこそ毒婦らしく他者を欺き従えさせるのだ。数は力であり、可能性である。
殺せないではない。殺せる状況を作るのだ。
その為の手駒の一つとしてキララを選び、その次は大通りで暴れている連中だと目を付けているらしい。
それだけの戦力を揃えられれば、ラシュリーはともかくミカエラは殺しきれるだろうという判断なのだろう。
間違ってはいない。戦いは殺せるべき者から殺すべきだ。ただし、それができるのならばの話である。
城壁の上にいるキララは奥歯を鳴らしながら必死に耐えており、完全に支配するのはそれなりに苦労するだろう。
イヴの目の前にいる二人と一匹は論外、何をどうしようがイヴの魅了には落ちない。ラシュリーに関しては物理的に倒せるかどうかすら不安になるほどであった。
それでも成さねばならない。魔王の称号はそこまで軽くはないのだから。
「ミカエラ、どうすれば良いかな? どうすれば倒せるのかな?」
「ラシュリーさん、彼女はきっと幸運者です……普通の方法では勝てません。運命や幸運が介入できない状況や攻撃を行うしか」
「……た、例えば?」
「……きょ、巨大な大魔術とかでしょうか? 或いは最強の一撃とか」
一瞬の、ほんの僅かな隙間すら存在しないほどの大火力で、運命も幸運も偶然も無視して殺しきる、それしかないだろう。
それができれば苦労はしないと、きっとイヴも思っているのかもしれない。
「……最強の、一撃」
ただラシュリーだけは、そんな夢物語にも等しい手段であれば毒婦を倒せると聞かされて、何か思う所があったらしい。
右手に見えない何かを握るかのような動作を繰り返しており、そこに剣があるかのように僅かにだか体の重心が偏っているようにも見えた。そしてそれに気が付いた者はいない。
「最強の一撃ね……それができれば苦労はしないのよ!!」
余裕を無くして苛立ちを露わにしながらイヴは背中を見せてまたもや逃げ出す。魔王らしさを欠片も感じさせない姿ではあるが、それが彼女の生存戦略でもあるのだろう。
戦えない者がそれでも戦うなど、愚かだと笑うのが毒婦である。
「ラシュリー!! ミカエラ!! 追いなさい!!」
城壁の上で身を隠していたキララからそんな指示が飛んだ。先ほどは彼女が防いだが、イヴの狙いはキャラバンの団員たちであるとわかっているのだ。
団員たちの中で魅了に抗えるのはミカエラとラシュリーしかいない。つまり勝てるのはこの二人だけということである。
奥歯を鳴らして必死に込み上げて来る毒婦への好意を抑えることがキララの限界であり、それを情けなく思う。
「……ぐッ」
キララは毒婦を愛してやまない人格と戦いながら、自らの舌先を噛み千切るように力を込めて血を流す。相応の激痛を感じるが、痛みだけが彼女を救ってくれているのが現状である。
痛みが無ければラシュリー達に襲い掛かっていただろう。愛しい人を傷つけようとする敵なのだから。
彼女ですらそれなのだ、他の団員たちが魅了に抗える訳もないだろう。
「……頼むわよ、二人とも」
逃げ出す毒婦を追いかける仲間の姿を見送ることしかできない。やはり自分では正面からイヴを討つのは不可能だと改めて認識するのだった。
ほんの僅かな隙があったとしても運命的な何かが邪魔をする。暗殺者にとってこれほど厄介な相手もいないだろう。
後は最新の英雄に任せるしかない。
「まてこら逃げるなぁあああッ!!」
逃げる毒婦に、追いかけるラシュリーとミカエラとダーボ、第三者から見ればこの世の者とは思えないほどに美しい女性に襲い掛かる悪漢と獣に見えるのかもしれないが、実際は魔王と英雄の追いかけっこであった。
「しつこいのよ!!」
「そっちこそ!! 大人しくしろおおおッ!!」
「お、落ち着いて、ラシュリーさん!!」
剣をぶんぶんと大振りしながらイヴの背中に次々と攻撃をしかけるラシュリーではあるが、何をどうしようと刃は届かない。全て空振るだけである。
本当に不毛な戦いでしかない。きっと千回同じことを続けても結果は変わらないのだろう。
「ふんッ……調子に乗っていられるのもここまでよ!!」
イヴの中から大きな力の流れが膨れ上がっていく、目には見えないが確かに存在するそれは、風船のように弾けると彼女の声に乗って凶悪な力と化した。
「私を愛しなさい!! 代わりに愛してあげるわ!!」
「拙いッ!!」
波紋のように広がっていく毒婦の言葉を阻止しようとラシュリーは刃を振るい、ミカエラは電撃を浴びせるが、やはり結果は変わらず、不自然に逃れられてしまう。
彼女の行動を阻むこと自体がそもそも難しいのだ。
例え自分たちには微風程度の力しかなくても、そうでない者の方がこの場には多い。
「あおおおおおおおおおおおんんんッ!!」
最初に聞こえて来たのは大気を震わせるような巨大な咆哮、大きな獣の遠吠えだ。
こうなることを止める為にミカエラとラシュリーが戦っていたというのに、結局は仲間たちが魅了に陥ってしまっている状況に、二人は表情を歪めてしまう。
己の未熟と、それ以上に敵の力が想定を超えていたことで起こった事態である。仲間たちを魅了されるなど最悪も最悪だ。
「ミカエラ、急ごう、早く倒さないと!!」
「は、はい!! でもどうすれば……」
幸運も運命も偶然も介入できない状況を作るか、或いは全てを無視できる最強の一撃か、もしイヴを倒すのだとしたらその二つしかない。
そしてそのどちらも、そこら辺に落ちているようなものではなかった。つまり、逃げ回るイヴをどうすることもできないということだ。
おそらくはシャーシャのものと思われる遠吠えは今も聞こえており、それは徐々に近づいているようにも思えた。
イヴもそちらへと近づいているようにも見える。魅了で洗脳した団員たちをラシュリーとミカエラに擦りつけるつもりなのだろう。
だからこそ玉座を離れて魔王らしくないみっともない逃走を選んでいるのだ。ここに至ってはつまらない矜持など投げ捨てて無様であっても進むしかない。
豪奢な椅子に座って立ち向かってくる愚かな英雄たちを次々に惚れこませて従えていく、そんな彼女の予想や妄想はどこにもなく、今はどれだけ格好が悪くとも逃走一択であった。
イヴが大通りを走って逃げていき、その先には彼女が魅了した大勢の兵士に加えて春風のキャラバンの団員たちの姿も確認できてしまう。
つい先ほどまで争い合っていたというのに、今は自らが愛するイヴの為に団結している様子を見せられて、ミカエラとラシュリーは渋い顔となっていた。
合流されれば更に状況が悪くなるのは経験不足である彼女たちにもよくわかる。そうなれば最悪であり仲間たちとすら戦うことになってしまうだろう。
それもこれも毒婦を玉座の間で討てなかった自分たちが悪い、あそこで倒せていれば仲間たちが魅了されることもなかったのだと、自分自身に対する苛立ちや情けなさを背負いながらラシュリーとミカエラは毒婦を追いかけていく。
王都の大通り、しっかりと舗装された美しい石畳が広く伸びるそこは今、イヴを中心に遠西から大勢の人々が迫る形となっていた。
片方はラシュリーとミカエラだ、そしてダーボである。もう片方はイヴによって魅了された兵士たちとキャラバンの団員たちである。
誰よりも素早く動くのは人狼と化したシャーシャだ。何かに酔いしれ惚れこむ瞳は赤く充血しており、獲物を狙う獣のそれであった。
彼女の瞳に映るのは、この世で最も尊く愛しい存在を追い回す不届き者であり、悪漢であるのだろう。
その悪漢は見覚えがあるどころか自分の仲間である少女たちなのだが、母であり妹であり姉であり友であり恩人でもあるイヴよりも優先すべき存在ではない、ないのだが――。
不思議と後ろ髪を引く何かがあった。その答えがわからないままシャーシャは固く握りしめた獣の拳を大きく振りかぶる。
「逃げろ!!」
言葉と行動が一致していない。まるで二つの人格がその体に宿っているかのようであった。
イヴを愛するシャーシャと、仲間を守ろうとするシャーシャ、二つがせめぎ合って、それでも拳は固められてしまう。
そしてついにその時がやって来た。大通りのど真ん中でイヴを追う二つの勢力がぶつかり合ったのだ。
「あはッ!! あははッ!! 殺せ殺せ、殺し合いなさい!!」
数え切れないほどの兵士たちと、キャラバンの団員たちが作り出す人の波に呑まれるように毒婦の姿が消えていき。遮るものがなくなったことで愛しい人を守ろうとする無数の激情が二人にそのまま向けられてしまう。
「ラシュリーさん!?」
「止まっちゃ駄目だ!!」
思わず立ち止まってしまいそうになるミカエラではあるが、ラシュリーは走る勢いを抑えるどころか寧ろ力が入っているようにも思えた。
怒りがあるのかもしれない。仲間たちを洗脳して差し向けて来る最悪の敵への怒り、そしてこの状況になることを止められなかった自分の未熟さへの怒りをあるのだろう。
だから彼女は疾風の速度で走り抜けていく。眼前に迫る兵士たちの刃をすり抜けるように回避して、華奢な体を翻らせて人波の向こうに隠れてしまったイヴを追い回すのだ。
一切の躊躇も戸惑いもないその姿勢にミカエラも付いていこうとするのだが、幸運者ではない彼女ではこの人波を超えることはできないだろう。
そんな彼女を助けたのはダーボであった。長い鼻でミカエラを巻き取るとそのまま頭の上に乗せて巨躯を進ませていった。
大岩が河の流れを分けるかのように人波がダーボに触れた瞬間に左右に流れて行く。流石の巨体、流石の怪力と言うべきなのだろう。
そして長い鼻を振り回せばそれだけで全身鎧の兵士たちが薙ぎ払われるのだから、戦車もかくやといった勢いである。
「ダーボッ!! ミカエラを守れ!!」
一騎当千ならぬ一頭当千の活躍を見せるダーボの頭上からシャーシャの声が届く。跳躍して拳を振りぬこうとする姿勢でそう叫んだらしい。
咄嗟に鼻を伸ばして頭上のミカエラを守ろうとするダーボではあるが、そんな彼の体に電撃が走り抜けてしまう。
「く……う……逃げなさいッ!!」
魔術を放った相手はローレライであった。彼女であってもイヴの魅了に完全に抗うことが出来なかったのか、ダーボとミカエラに攻撃を加えてしまったのだ。
それでもまだ多少の抵抗が出来ているのだろう。彼女が真の意味で魅了に落ちていたのならばダーボはおろか頭上にいるミカエラすら即死していたのだから。
電撃を浴びせられたのは、それで済まされたのはローレライの抵抗の証である。
そしてそれは上空から降って来るシャーシャにも同じことが言えた。彼女が全力で殴りつけたならば岩石すら粉砕できるというのに、殴り飛ばされたミカエラは肉片になることなくそのまま吹き飛んでいったからだ。
「~~~~ッ!!」
全身に広がる衝撃は凄まじく、言葉にならない苦悶の声を響かせるミカエラは、グルグルと回る視界と、突然背中にやって来た固い感覚によって、自分がダーボの頭上から弾かれるように吹き飛ばされたことを悟る。
痛い、痛い、痛い、と叫んで泣きわめければどれだけ楽だろうか。シャーシャに殴り飛ばされて痛いで済むことなど無いのだからかなりの手加減や戸惑いが拳に宿っていたのがわかってしまう。
それを理解した瞬間に、ミカエラは痛む体に鞭打って立ち上がる。泣き叫ぶことも絶望することも後回しだと言わんばかりに。
団長や教育係でありローレライ、そして自分を受け入れてくれた団員たち、彼女たちが窮地に陥っているのならば、それだけで立ち上がる百万の理由になる。
生まれた時から備わっていた巨大な娼婦神の加護に翻弄され、流されるままであった幼い少女はそこにいない。
そこに立っているのは、キャラバンを支えんとする一人の戦士であり、互助を掲げる確かな精神を有する一人の人間であった。
「戦わなきゃ、ダメなんだッ!!」
腹の底から競り上がるような吐き気を感じる、脇腹はあばら骨が折れてしまったのか激痛が広がっており、足は震えが止まらない。
だから何だと言うのか、仲間たちが受けている呪いに比べれば些末な問題である。
そんな風に己を叱咤激励するミカエラは、自分が弾き飛ばされて突っ込むことになった場所を見て唖然とするのだった。
「ここ、は……娼婦神の、神殿?」
一定の規模を持つ町や都市ならば必ずと言って良い程に存在しており、この王都にも当然の如く娼婦神の神殿はその威光を知らしめている。
そこに不思議はない、あって当然のものなのだから。
ただ、ミカエラはどこか運命的なものを感じてしまっていた。自分が弾き飛ばされて扉を粉砕しながら突っ込んだこの場所に、自分が立っている状況に。
「……ぁ」
何かが、カチッと、噛み合うような感覚があった。そしてミカエラは願ってしまう。
生まれた時から傍にあったあの力を。
巨大なそれを制御できないまま国を傾けた呪いを。
あれほど忌まわしく、そして恐ろしいと思っていた権能を。
なんとも都合の良い話だと思う、一度捨てたものをもう一度寄こせ等と傲慢極まることを神に伝えるなど。
だがそれでもだ、どれほど神の顰蹙を買おうとも、ミカエラには祈るしかないのだ。
仲間の危機に何もしないままならば、神の怒りを買う方がまだマシなのだから。
だから彼女は祈りを捧げる。娼婦神の神殿に置かれている男とも女とも思えるような中性的な美しさを極めた石像を前に、痛む体を折っていく。
一度捨てた権能を恥も知らずにもう一度寄こせ。何とも愚かで我儘な願いだとミカエラは思った。
それでもそこに縋るしかないのだろう。無力な人間にできることなどありはしない。
「神様……娼婦神様……ボクに、仲間を助ける力をお授けください」