商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
一度捨てた力をもう一度寄こせ。
神でなくとも眉を顰めて怒りを露わにしても仕方がない愚かな願いだと、何よりもミカエラこそが思う。
自己中心的でこの場で神の雷を落とされても文句が言えないほどに愚劣極まり、再び欲するのならばそもそも捨てなければ良いと言われてしまえば何一つとして反論もできない。
神も呆れているだろうと、怒りを露わにしているだろうと、震えて反応を待つミカエラの頭上に、言葉にするのも苦労するほどの重圧が突如として生まれた。
神殿は神の領土であり距離が他の場所より近いのは間違いないが、神の膝元のように簡単に謁見が叶う訳ではない。
だというのにミカエラの祈りに呼応するように神の存在がそこにあった。まるでこの時を待ってましたと言わんばかりに。
「……」
そしてミカエラは祈りの体勢を維持したまま言葉を無くす。
頭上に存在する圧倒的な存在感によって体は縫い付けられてしまっており、顔は青く染まり冷や汗が止まらない様子である。
これから怒りを露わにされるのか、それとも圧倒的な存在感にねじ伏せられるのか、どちらにせ神が相手ならば今更どうすることもできないだろう。
ミカエラにできるのは、ただ震えて神の意思を待つだけである。
体は震えている、心は折れかけている、それでも胸に秘めた覚悟だけは揺るぎはしない。
仲間を助けたいという思いだけは嘘偽りがない、そこだけは例え神を前にしたとしても濁りはなかった。
「 」
頭上に存在する神が語り掛けて来る。何故、一度捨てた力を欲するのかと。
神に嘘は通じない、偽った所で意味もない、そしてミカエラの覚悟すら見透かしていながらも、それでも言葉にせよと意思を伝えて来る。
ならばミカエラは答えねばならないだろう、身を押しつぶそうとする重圧の中であっても、縫い付けられたかのように固くなった唇であっても、胸に秘めた覚悟だけは錆びさせてはならないのだ。
「ボ、ボクはッ……うッ……仲間を助けたいッ」
重たい不可視の重圧の中で絞り出すように言葉を発すると、心臓を握られたかのような感覚を覚える。少しでも言葉や覚悟を誤ればそのまま握りつぶされてしまうのではと不安になるほどの存在感である。
キャラバンの仲間を助けたい、守りたい。そこに嘘偽りがない。だからこそミカエラの心臓は今もしっかりと動いているのだろう。
彼女はキャラバンに入る前のことを思い出す、ただ巨大な力に翻弄されて大勢の人々の道を狂わせた頃の幼い自分を。
色々な思惑に流されてそのままキャラバンに入団してからの今日までの時間は何事にも代えがたい思い出であった。
「皆を守りたいッ……」
仲間を守りたいと、助力になりたいと、こんな自分を受け入れてくれたキャラバンに恩を返したい。
例え神を前にしたとしても、そこだけはもう揺るがないのだろう。
そう言い切れるだけの思いでは、もう積み上がっているのだから。
「皆が、笑っていて欲しい!!」
不可視の力に掴まれた心臓が破裂することはなかった。胸を締め付け頭上から押さえつけて来た圧倒的な神の存在感は消え去って、最後にミカエラの頭を撫でるかのような感触があった。
次の瞬間に、ミカエラの中で鍵が開くかのような感触が生まれる。
かつては当たり前のようにあった万能感、命令一つで国を亡ぼすことのできる超常の権能、娼婦神の力がそこにはあった。
「……ずっと、ここにあったんだ」
捨てたと思っていた力はずっと彼女の中にあった。ただ奥底に漏れ出ないように封印されていただけなのだろう。
神は鍵を開けてくれた、好きにしろとばかりに。
以前は持て余し制御もできないまま恐ろしさに震えることしかできなかった。だが今の彼女は違う。
覚悟と信念、決定的なまでにそれらが不足していたあの時とは異なる。力は恐れるものではなく、従えるものであり、垂れ流すものでもない。
体中に広がる万能感は燃料を得た炎のように燃え盛るようなことはなかった。ミカエラの呼吸に合わせて徐々に穏やかになっていき、強力ながらも穏やかな呪いが形成されていく。
あれほど恐ろしかった力が、今では寄り添うように傍らにある。
覚悟一つでこれだけ変わるのかと驚きながらも、以前の自分はどれだけ愚かで情けなかったのか自己嫌悪にも陥っているらしい。
しかし今は驚きも自分への失望も後である。ミカエラには戦士としてやらなければならないことがあるのだから。
ミカエラは祈りの姿勢を解いて振り返った。今いる場所は娼婦神の神殿にある広い祈祷室であるのだが、視線を向けた先には自分が吹き飛んだ時に粉砕した玄関の扉が散らばっており、その更に向こう側には神殿が面している大通りが広がっている。
今もラシュリーが戦っているのだろう。怒号と喧噪が続いており鋼を打ち合う音も聞こえていた。
行かなければならない、その為の力はここにある。
「不思議だな……あんなに怖かったのに」
ミカエラは奇妙な万能感に包まれているのか、興奮と緊張が上手く絡み合い心臓の鼓動を穏やかにしている。
今ならば何でもできそうだ、それこそ命令一つで誰かの命を奪うこともできるのだろう。
改めて恐ろしい力を取り戻したと思い、万能感に抗うように自分を戒めた。
自覚はあるのだ、命令だけで誰かの人生を狂わせる力が異常だということを彼女は知っている。
「剣を離してください」
静かに、呟くようにそう言えば、ミカエラを追って娼婦神の神殿に踏み入ってきた兵士の一人が崩れるように倒れ伏す。
理性をイヴに捧げて何もかもを捨て去ったその男は、とても穏やかな顔で眠りに落ちたのだ。体中に、そして魂すらイヴに捧げていた男は、何日ぶりかもわからない安眠に沈むことになる。
穏やかな寝息を立てる男を神殿に置き去りにしてミカエラは大通りへと出た。そこではダーボとミカエラが魅了に落ちた兵士たちが争っており、怒号と喧噪が広がっている状況だ。
それだけ争っていれば一人の声など届くことなく消え去ってしまうのだが、イヴがそうであるようにミカエラの声は波紋のように広がって戦場を満たすことになる。
「争いをやめてください」
大きな声ではなかったが、全ての者がその声を聞いて視線を向けることになった。
引力、とでも言うべきなのだろうか、イヴと同じようにその姿や声に強い存在感が伺える。もし無言で都市の大通りを歩けばそれだけで多くの視線を集めて離さない、そんな引力が今のミカエラにはあるのだろう。
例えイヴに洗脳されていたとしても、その引力に逆らえるものではなかった。
兵士たちはミカエラに視線を引き寄せられて次々と戦いを止め、そしてその先にあった存在感に言葉を無くして、最後には限界まで達していた疲労によって折れるように倒れ伏していく。
イヴに惚れてからというもの、まともに眠ることすらできない程であった恋心と愛情が今度はミカエラに向けられ、彼女がそうあることを望んでいたので彼らは眠っていった。
とても穏やかな顔をしている。愛とは本来そういうものである。
「ミカエラ……わぁ、凄いね!!」
次々と兵士たちが倒れ伏していく中で、ラシュリーだけは驚きと興奮を混ぜ合わせたかのような声を上げており、兵士たちを飛び越えて急いで駆け寄ってきていた。
「ねぇねぇ、これどうなってるの? なんだかキラキラ光って見えるんだけど、魔術かなにか?」
その言葉にミカエラは少し戸惑ってしまう、ラシュリーの言うキラキラが彼女には見えないからだ。
自分には見えず、しかしラシュリーの瞳には見える何かがあるということだろう。そのキラキラがもしかしたら権能とでも言うべきものなのかもしれない。
「あ、いえ、これはその……」
「なんかね、凄いことになってるよ!! もうね、ミカエラから目が離せない感じでさ!!」
「ラ、ラシュリーさん……ボクのことは今は置いておきましょう、それよりも――」
ミカエラの言葉を遮るように不可視の力が二人を包むように駆け抜けていく。
それは魅了の言葉であり、洗脳の呪いであり、魂を汚す力であり、ミカエラがその身に宿す力と同種のものであった。
ただし、粘つくヘドロのような不快感と、悍ましい妄執が織り交ぜられた力だ。人を貶め汚す為に振るわれる呪いである。
力は同種でも、そこに込められた思いは正反対なのだろう。ラシュリーの瞳から見ても同じ力の筈なのに、彼女の言葉や表現を借りるのならばキラキラとドロドロと言った所だろうか。
魅了の呪いが流れ込んで来た方向に視線を向ければ、大通りの向こうに瞠目したイヴの姿を発見できた。
驚きと、絶望、そして強い怒り、それら全てがミカエラに向けられているらしい。
それも当然だろう、彼女は初めて見たのだ、己よりも美しい存在を。
「あッ、あッ、あぁ……」
絶望を感じるには容易く、怒りを燃え上がらせるには十分であり、世界で最も美しいと確信している自分にはそれ以上の美しさをねじ伏せなければならない義務すらあると考えていた。
色々な感情が渦巻き、それでもなお絶望が最も大きかったのか、イヴは絶世の美貌を歪めながら縋るかのように鏡にこう問いかける。
「か、鏡よ……鏡よッ……この世で最も美しいのはだぁれ?」
鏡はいつだって少しの嘘を付く。映し出す存在を少しだけ美しくするように、主の期待以上の光景を見せるものであった。
しかし今回だけは異なった。主を裏切るかのようにイヴが持っていた手鏡は鏡面を暫く揺らしたかと思えば、そこに目の前にいるイヴではなく角度的に映り込む筈もないミカエラの姿を浮かばせてしまう。
どうしたことか、鏡はこの時だけは嘘をつくことが出来なかったらしい。
或いは、嘘つきな鏡であっても、今のミカエラに惚れこんでしまったのだろうか。
「あああああああああああああッ!!」
美しい顔を歪ませ泡でも吹くのかという勢いでイヴは鏡を地面に叩きつけて割り砕く。飛び散った破片が地面から弾かれて小さな刃となり、その頬を傷つけた。
そう、傷つけたのだ。世界に愛され幸運に守られている筈の彼女であるというのに。
もしかしたら鏡と同じなのかもしれない。
世界はイヴよりも、ミカエラの方が失いたくないと思ったのだろうか。
それはつまり、ミカエラの方が美しいと世界が認めたという証明のように感じて、ますますイヴの顔は歪められていく。
バキッという何かを噛み砕いたかのような音がミカエラとラシュリーの耳にまで届くと、イヴの唇からは一筋の血が流れて行った。
どうやら表情を歪めて歯を食いしばったことで歯を割り砕いてしまったらしい。美しい顔はまたもや血で汚れることになってしまう。
怒りが限界に達した結果、毒婦はギョロッと瞳を動かして静かにミカエラを睨みつけた。
「……」
言葉は無い、無言である。
ただし決意と確信があった、ミカエラを絶対に殺さなければならないという思いもある。
ごちゃごちゃと言葉や恨み節は並べない、必ず殺すという絶対があるからだ。
彼女にしてみれば自分より美しい存在など許せる筈がない。己の存在理由を、価値を、そして矜持を取り戻さなくてはならない。
ミカエラはイヴにとってそういう存在となったのだ。戦士同士の因縁のように、悪と正義のように、英雄と魔王のように、断ち切れない縁がそこにある。
例えもしこの場で引いて仕切り直したとしても、必ずいつかは殺し合うことになるのだ。強く濃い縁が絶対に結び合わせるだろう。
ここで安全の為に逃走を選んだとしても、後々になってまた殺し合うことになる、因縁とはそういうものだ。
だから殺さねばならない、魔王としてあの美しい英雄を。
「……殺せ」
そして彼女は命令を下す。
ドロドロとした妄執と傲慢極まる意思が言葉を強くする。彼女が命じただけで世界がそれを追いかけるかのように、本当に強い言葉であった。
「殺せ殺せ殺せッ!! そのブサイクどもを殺せえええぇぇぇぇぇぇえッ!!」
まだイヴの支配下にある兵士たちやキャラバンの団員たちがその言葉に従って動き出す。例えミカエラを美しい存在だと認めていたとしても、彼女が同じように世界に愛されるほどの美女であることは変わらないのか、未だに魅了の力は強い。
自らが並び立つ者のいない美貌を持つという自負がある故の、強者の余裕をどこかに放り投げて激高するイヴは、美しくはあるのだが酷く醜い。
「さっさと殺せえええええええええええッ!!?」
その身体能力故に、誰よりも早く人狼となったシャーシャが駆ける。石畳を割り砕くほどの瞬発力を持って、それこそ気が付けば目の前にいたと表現できるような速度で肉薄した。
シャーシャの表情は苦い何かでも噛み潰したかのように歪んでおり、勝手に動く体を何とか制御しようとしているようにも見える。魅了の影響が強まったのか意識も朧気になっているらしい。
それでも別の人格が彼女の体を動かしているかのように駆け抜けて、巌のような拳は真っすぐミカエラへと振りぬかれた。
「シャーシャさん、ごめんなさい、ボクたちのせいで……」
そしてミカエラは、瞬きすることなくその拳を見つめて特に何かをすることなく立ち尽くすのだった。
すると拳が鼻先で急に止まってしまう。ただ前髪を揺らすだけに留まり、そこからどれだけ押しても動くことはない。
ミカエラを傷つけたくないというシャーシャの意思が勝ったのか、それともこの美しい存在を傷つけたくないと魅了されたのか、或いは世界が失いたくないと気を利かせたのか、おそらくは全てが拳を止めたのだろう。
「でも、大丈夫です……後は任せてください」
娼婦神の権能を宿したミカエラはその指先でシャーシャの拳を優しく撫でる、ただそれだけで魂を汚していたイヴの魅了は消え去ってしまう。
意識を失ってゆっくりと倒れこむシャーシャはとても穏やかな寝顔をしている。優しい母にでも抱かれている幼子のようである。
魂すら汚染する強力な魅了を、それ以上の力で押し流した、ミカエラのやったことはただそれだけであった。
そしてその事実はよりイヴを苛立たせたのだろう。呪詛と怨嗟をまき散らすかのように毒婦は叫ぶ。
「私の物を寝取ってんじゃないわよぉおおおおおッ!!」
決着は近い。