商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
口から血と怨嗟の交じった泡を吹きながらイヴが命令を下せば、世界が彼女の望みを再現しようとするかのように追いかける。
それはとても強い言葉だ。ただ命じただけで何もかもが思い通りに動く王や皇帝よりもずっと強い。それこそ神の言葉のように。
だがどれだけ強い言葉を吐き出そうともミカエラの美貌や権能が歪む訳でもない。寧ろイヴが叫んで醜態を晒せば晒すほどに、何かの差が開いていくようにも思えた。
それがますますイヴを苛立たせることになり、また呪詛を吐き出す悪循環になっていることに彼女は気が付いていないらしい。
あの美しさが憎い、あの光が眩しい、女としての嫉妬は留まる所を知らないまま強まっていった。
彼女は自分より美しい存在をこれまで見たことがなかったのだ。嫉妬という感情すらも初めてのことだろう。だからその感情に囚われ呑まれてしまっている。
これは証明の戦いでもある。己こそが最も美しいのだと、毒婦は証明しなければならないのだ。
それは彼女の全てで、存在理由で、何においても優先しなければならない絶対である。
また一人、また一人とミカエラに奪われていく自分の手下たちを見て、イヴは更に自らの奥歯を噛み砕く。
その度に彼女が吐き出す呪いの言葉は強く、そして悍ましくなっていった。
何もかもが憎らしい、己より美しい誰かが恐ろしい、イヴの中に生まれたとてつもない嫉妬はまさに呪いとなって放たれた。
肌に纏わりつきそこから毒となるかのような重みと粘つきがあり、そのまま魂を汚染する本当に強い言葉である。
それはミカエラに心を奪われて安寧の眠りについた兵士たちの体を再び震わせるほどに、重たいものであった。
ミカエラとイヴ、二人の女の間で揺れ動く魂を、多情だとは言い切れないだろう。
どちらも神の権能を宿した存在なのだ、惚れこむことは寧ろ自然なことである。
「私に従ええぇぇぇええッ!!」
「……」
激高しながら命令を放つ毒婦に対してミカエラは静かに娼婦神の力を膨れ上がらせる。両者の丁度中間地点で美しさの呪いはぶつかり合って世界を左右に分けるのだった。
片方は妄執と怨嗟で薄暗くなっており、もう片方は配慮と信念でどこか神殿に近い空間になっている。
ミカエラ側にいた兵士たちや団員たちに変化はない。彼女の思いをそのまま受け取っただけであり穏やかなものであった。しかしイヴ側にいた者たちはどこまでも強力な愛の呪いに晒されて、何もかもを捧げてしまう。
もはや魂はそこにない。妄執と嫉妬の呪いに全てを蝕まれて、ドロドロとした瘴気のような物を全身に纏わせながら血走った瞳を向けて来る。
ああなってしまえばもう帰って来ることはできないかもしれない、ミカエラの権能を持ってしてもだ。
魂が健在ならば惚れ直させれば良い、だがその魂すらも完全に手放してしまえばもう手遅れだろう。
イヴの憤怒を伴う命令を聞いた瞬間に、きっと彼らの魂は壊れてしまったのだ。巨大すぎる呪いに耐え切れずに、美しさに溺れてしまった。
残された肉体はただ魂の残滓にこびりついていた思いを元に動き出す。イヴに対するとても深い愛情だけが彼らの体を進ませていく。
ミシッ、と骨が軋むような音と共に走り出せば、それはシャーシャの疾走にも負けない程の踏み込みとなってあっという間に距離を詰められてしまうほどである。
逸る精神と肉体の速度や強度が一致していない。何もかもを引きずり回すかのように思いだけが先行した結果、兵士たちの肉体は限界を超えた動きを見せてその度に砕けていった。
血と骨を代償に、獣人にすら迫る運動能力を持ってミカエラに迫っていく。
「させないよ!!」
お世辞にも戦士として高みにはいないミカエラに、その自損するほどの鋭く力強い突進を止められる筈もなく、それをよく理解していたラシュリーとダーボが前に出たことは不思議なことでもないだろう。
ダーボはその巨体で壁となり、ラシュリーは幼いながらも確かな大器の片鱗を見せる剣技を持って迫る兵士の形をした砲弾を迎え撃つ。
自損するほどの勢いでの突進は、鎧を纏っていることから肉と鉄の砲弾とでも言うべきなのかもしれない。
あぁ、なんて悍ましい力だろうか。
そんなことを思ったのはミカエラか、それともラシュリーだろうか、或いは両方かもしれない。
剣先が翻り、肉と鉄の砲弾を弾き落とす度に、そう思う。
ダーボの大きな体が、血まみれになり折れた骨が体の至る所から飛び出た状態でありながらも、逸る心に従って突進してくる兵士を受け止める度に、視線は冷たいものとなっていく。
毒婦は、ここで倒さなければならないと、ラシュリー達の瞳が剣呑な鋭さを増していく中で、その思いを最も大きくしたのはやはりミカエラだろう。
彼女はわかっている。イヴはもしかしたらどこかで道を誤ったかもしれない自分の姿なのだと。
彼女の体に宿る、どうしようもない万能感に酔いしれてしまった自分なのだと。
この力を、恐ろしいと思わなかった自分なのだと。
だから倒さなければならない、自分が幸運にもキャラバンに巡り合えたことを噛みしめながら、これが己の生まれて来た意味なのだという確信を抱きながら、ミカエラは強い祈りを捧げていくのだった。
「娼婦神様、博愛と公平の御方……どうか祈りにお答えください」
権能が膨れ上がり弾けて濁流となっていく。
不可視の力ではあるが、ここまで大きなものであるのならば特別な瞳が無くとも力の流れは観測できるだろう。
武神のような圧倒的な粉砕も、戦神のような戦士の魂を使役する権能ではない、圧倒的な破壊を齎すこともない、それでもその力は間違いなく地上で最高の出力を誇っている。
シャルルやキャロル、そしてエミリーのように後天的に神格を得た者たちとは異なり、生まれた時から圧倒的な神の寵愛を得ていたミカエラは、彼女が持つ神格は、恐ろしい程に強力だ。
そして娼婦神の寵愛が異様に深い、どうやらあの中性の神はミカエラに随分と甘いらしい、神々から見てもどこか異質な程に愛情が大きいようにも思える。
そんな彼女の祈りに、きっと娼婦神は答えたのだろう。
ミカエラとイヴの間で拮抗していた力の境界は、祈りに押されるように徐々にだが形成を変えていく。
「なッ、ぐッ……ふざけんじゃないわよッ!!」
出力を増した力の放出に負けじとイヴの呪いの放射も勢いを増すのだが、どれだけ魅了の呪いを強めようとも彼女の領土は削り取られていった。
何とか阻止しようとして兵士たちをけしかけるのだが、ミカエラとダーボに当然のように防がれてしまう。
力の相克はミカエラへと形勢を傾けていく、朝日が夜を駆逐するように、雪が大地を染めていくようにだ。
イヴからしてみれば巨大な壁が迫って来るような感覚なのかもしれない。それほどまでにミカエラから放たれる魅了の呪いは巨大である。だが、だがだ――。
「お前のようなブサイクにッ!!」
そのままズルズルと侵略を許すようでは魔王を名乗れないと、毒婦もまた神への祈りを捧げて大きな加護を賜る。
同じく膨れ上がった権能にこれならばと笑みを浮かべ、その自信が根拠のないものだと知らされたのは数秒後のことであった。
大人が子供を叩き伏せるように、抗いようのない力が強まった権能を押し戻していく。いっそ理不尽とさえ思えてしまうほどにミカエラの力は圧倒的だ。
壁に押されるようにイヴは下がっていく、一歩、二歩と、後退する度に、自分の中で何かが崩れていくのがわかってしまう。
積み上げて来た実績を、美しさへの矜持を、執着を、後ろに下がる度に失っていくような気さえした。
「……なんでッ」
いつしか彼女が放つ魅了の呪いは、ミカエラの権能に押され切って目の前にまで迫っており、ほんの数センチ先にまで迫ってしまっている。
「何でよッ!!」
この世で最も美しいのは、最も神に愛されているのは、世界に守られているのは自分なんだと疑うこともなかった毒婦にとって、迫る力はどんな刃よりも鋭いだろう。
自らを否定する、彼女にとっての呪いだ。
「私の方がずっと美しいじゃない!!」
ヒステリックな叫びと共に最後の領土が削り取られてしまい、毒婦はとうとうミカエラが放つ魅了の波動に呑まれてしまう。
矜持も自信も踏み砕くかのようなそれを全身で浴びて、まず感じとるのは敗北感だ。
自分よりも強い魅了を、魅力を、美しさを持つと肌で感じ取ってしまった。次の瞬間に湧き出て来るのはミカエラに対する好意的な感情や評価である。
「あ、うぁぁあッ……やめて、入ってこないでッ!!」
視界に霞がかかる。愛情に妄信するあまり都合の悪いことは全て見えなくなっていき、愛しいという思いだけで全てが完結してしまう。
ミカエラの姿が、声が、視線が、この世のどんなことよりも尊いものになっていき、魂が彼女に染め上げられて汚染されていく。
イヴが兵士たちにそうしていたように、美しさの呪いに沈んでいく感覚を覚えながら、地上で溺れるかのようにもがき苦しんでいた。
そのままミカエラが放つ魅了の呪いに溺死してしまうのではないかと思う程に、濃密に包まれていくイヴは、最後にはピクリとも動かなくなってしまう。
「……倒した、のかな?」
動かなくなった毒婦の姿を見てラシュリーがそう思ってしまったのも仕方がないだろう。彼女の瞳には膨大な魅了の力に包まれて本当に溺れているようにも見えたのだ。
あれだけの呪いに包まれてしまえば普通は魂が掌握されてしまう。そう考えるのが普通であり間違ってはいない。
ただしラシュリーは知らなかった。
この世で最も美しくあれと生み出された女の、この世で最も美しいと信じて疑わない女の、底なしとも言える妄執と嫉妬の力を。
ここで敗北を認めておめおめと膝を付くことができるのならば、イヴは魔王ではない。
兵士たちはミカエラに魅了され、残された者は砲弾代わりにしたので残っておらず、キャラバンの団員たちは最優先であちら側に持っていかれたので、今のイヴに戦わせることのできる力や戦力は存在しない。
身一つ、ただそれだけであり、戦士ではない彼女に古今独歩の英雄のような働きはできないだろう。
あるのは美しさだけ、それだけが彼女の力であり、全てで、結論だ。
例えどれだけミカエラの力が強くとも、どれだけ娼婦神の寵愛が強くとも、どれだけ劣勢だろうと、そこだけは譲れない、譲ってはならない。
「私は……」
そうだ、彼女は。
「この世で最も美しい……ただ一つの光なのよ」
ただ一人、唯一無二の輝きを放つ月なのだ。
ミカエラと同種の存在であり、空を飾る星々の中でも特別な光である。もし太陽と並び立てる者がいるのだとすれば、それはきっと彼女だけなのだろう。
極まった傲慢であろうとも、、その言葉で山のような亡骸を積み上げようとも、例えミカエラの力を認めてしまっていたとしても、彼女が彼女であることは変わらない。
空に月は二つと無し、ならば卑屈になる必要などないだろう。
今のイヴを言葉で表現するならば目が覚めただろうか、それとも吹っ切れただろうか、どちらにせよミカエラの魅了に圧倒されるだけだった少し前の彼女とは明らかに異なる。
覚悟を決めた女は、恐ろしいものだ。
「魔神よ、我らが父よ……この献身を、何より我が美しさを、称えたまえ!!」
彼女もまた祈りを捧げた。ただ娼婦神の権能に圧倒されるだけの存在ではないのだと奮起するかのように。
きっと魔神もそんな祈りに答えたのだろう。ラシュリーの瞳には迸る噴火のような力の流れが見えていた。
イヴを包み込み、今にも押し流さんとしていた力の流れが大きく変わっていく。ミカエラからイヴへの一方通行であったそれは、今や再び相克となり拮抗を形成している。
意地であり、矜持であり、嫉妬であり、祈りであり、それら全てを束ねた力がミカエラの魅了を押し返す。
ここだけは譲れないのだ、イヴは己に与えられた器以上の力をここで絞り出していた。
単純な神格で言えばミカエラの方が強い、間違いなく。
だがそんなことは知るかとばかりに徐々にだがイヴの魅了はミカエラ側へと進んで行っている。奪われた誇りと存在理由を取り戻す為に。
大人と子供が殴り合えばほぼ間違いなく大人が勝利するだろう。ミカエラとイヴの差はつまりそれほどである。その差を押し返そうとしているのがイヴということだろう。
英雄は時として明らかに格上との戦いに勝利する。本来勝てない筈の相手であっても何故か勝利をもぎ取るものだ。
それはもしかしたら英雄特有の幸運の成せる技なのかもしれないし、もしくは世界が導いたからなのかもしれない。
英雄はいつだって、そうやって魔王を殺す。
ならばだ、世界に愛され飛びぬけた幸運を持つ彼女に、同じことができないはずがない。
勝てない相手に勝利する、イヴならば魔王殺しならぬ英雄殺しといった所だろうか。
「……どうしてッ」
魅了の力では明らかに上回っている。だというのに押し切れない、それどころか徐々にイヴの魅了はこちら側へと進んできている。
ミカエラの背後には眠りに落ちた兵士たちとキャラバンの団員たちが存在しているのだ、そこまで押し切られる訳にはいかないと、より強い祈りと加護で押し返そうとするのだが――。
「そんな、押しきれない!?」
結果は変わらず、ミカエラとイヴの丁度中間地点でそれぞれの権能が押して引いてを繰り返すだけであった。
「はッ、あはッ!!」
己の身に余る力を行使しているからだろうか、イヴの鼻からはドロっとした血が流れており、その美貌を赤く染めている。
彼女は笑いながらそれを舌で舐めとり唇に塗りたくると、お世辞にも美しいとは言えない口紅にしてしまう。不格好ではあるが、不思議と妖艶に思えてしまうのはイヴだからか。
「この、ままじゃ……」
いつか押し切られてしまう。ミカエラが抱いたそれは弱気や弱音といったものであり、それは些細なものでありながらも確かな後退である。
理性も限界も投げ捨てて己の全てを賭しているイヴにとっては、突かずにはいられない揺らぎでもあった。
また魅了の濁流が勢いを増していき、それに押し流されるようにミカエラの力が押されていく。
拮抗は徐々に傾きつつあり、それが実戦経験の乏しいミカエラの焦りに繋がり、そしてまたイヴの勢いが増すのだ。
「あははッ!!」
押し合い引き合っていた魅了の力は今やミカエラたちを呑みこまんとしており、鼻や目尻から血を流しながらおかしくなったかのようにはしゃいだ笑い声をあげている。
眉間の奥の方でブチブチと何かが引きちぎれるような嫌な音が脳内に響いているが、今の毒婦はそんなことを気にするほど冷静ではない。
ここでミカエラを殺せるのならば、ミカエラよりも一秒でも長生きできるのならば、この世で最も美しい光よりも一瞬であろうと先に行けるならば、ここで死んでも良いのかもしれない。
これは証明だ、自分がミカエラより優れているという、最も美しいという証明である。その為の戦いだ。
意思を力に、想いを勢いに、矜持を刃にして押し切る。そんな毒婦にミカエラは押され気味であった。
脳裏に過る、敗北の予感。
このまま力の押し合いで良いのかと迷い、仲間たちを避難させて仕切り直すべきなのではという弱音、土壇場で何が最善なのかと判断に迷ってしまう経験不足、それら全てがイヴへと形勢をかたむけていく。
ただしイヴとミカエラでは決定的に異なる部分があった。それは一人ではないということだ。
「大丈夫」
迫るイヴの魅了を前にしても恐れることなく彼女は立つ。
言葉の通り大丈夫だと、何も恐れる必要はないのだと証明するかのように、そこに欠片の怯えもない。
まだまだ幼さの抜けきっていない少女の姿でありながら、不思議なことに絶対の柱のような頼もしさがある背中がミカエラの前にはあった。
決して折れず、その姿を見せるだけで多くの人々を奮い立たせることのできる、英雄の背中だ。
極まった為政者や戦士がその輝きをもって人を率いるように、ラシュリーにも確かな片鱗が見える。その背中についていくことが正しいことなのだと思えてしまう、毒婦やミカエラとはまた異なる方向性の引力を持つ。
「何も、心配はいらないよ!!」
もう一度、ラシュリーは背後にいるミカエラにそう言った。同時にそれは自分に言い聞かせる言葉でもあったのだろう。
彼女は見えない何かを握るように右手を動かす。重みも無く、実態も無く、煙でも握るかのような動作であった。
ラシュリーが何をしようとしているのかミカエラにはわからない。もう目の前にまで迫った悍ましい魅了の力の奔流の大きさに心配するばかりだ。
例えラシュリーがどれだけ幸運者であったとしても、あの劇毒とさえ言える力の流れを受ければタダでは済まないだろうとさえ思っていた。
あの力はもう幸運や運命や偶然が介入できるようなものではないと、そこまで高められた魅了であると、説明されずとも理解できてしまう。
またラシュリーは何かを掴もうと右手を動かす、しかしそこには何もない。
「皆は、私が守るんだ!!」
少女が掲げる確かな覚悟は刃になっていく。それをもっとも近い位置で見ているミカエラには、奇跡が渦巻いているようにも見えただろう。
ラシュリーの手から先が陽炎のように揺らめき何かを映し出す。そこに光の粒子が集ったかと思えば、周囲に神威とでも呼ぶべき存在感が広がった。
そして彼女はその奇跡の塊を再び握り直す。手放すことも空振ることもなく、その指はしっかりとした重みに触れていく。
「……ありがとう」
その例は誰に向けたものだろうか、ここではない誰かに、或いは神に向けられたものなのかもしれない。
覚悟と、信念、思いに矜持、そして神々からの溢れんほどの寵愛。色々なものを手にしてようやくそれを掴むことができる。掴むことを許されるそれは、夜空を切り取ったかのような星々が刃の中で輝く夜色の剣であった。
或いは勇者であったとしても、楽々に握ることは叶わないであろう奇跡の塊は、夢でも幻でもなくそこにある。
その剣を握れるのは世界でただ一人。
最も勇敢で、最も神に愛され、最も幸運な者だけがそれを持てるのだ。
「……勇、者?」
ミカエラは呻くように呟く、真に奇跡の体現を成す者の名を。