商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
逃げる海賊船団を追うキグナスの船団は矢を相手に放ちながら徐々に距離を詰めていく、本来ならば速度は軍船が主となっている海賊たちの方が有利なのだが、海面にいる人魚たちの祈りがキグナスの船を後押ししているのだ。
その結果、帆を広げていないというのに追いつかれてしまう、しかし相手も無法の世界で生きている上に船の性能でも数でも優位に立っているのだから恐れることなく迎え撃ってくる。
牽制にしかならないが互いに矢を放ち、盾でそれを防ぎながら近づいていき、ついに海賊の船団とキグナスの船団が並び立つ。
操舵を握っていたキグナスが一際大きな太鼓の音と共に、勢いよく操舵を右へと回して進路を変えたことでようやく両者は肉薄することになる。
巨大な、それも速度と耐久力に優れた軍船に、お世辞にも最新とは言い難い船がぶつかっても転覆には至らないだろう、予期していたように僅かに船の側面を擦って衝撃を起こしただけで海へ落下するような者もいない。
しかし距離は狭まった、衝突のダメージはキグナス側の方が大きかったがそれも分かりきっていたことなので海兵たちの動揺も少ないようだ。
剣が届く範囲になったことで海賊と海兵が武器を握って怒号をぶつけ合う、海賊側はどこか侮りを含んだ声を上げて、海兵側は怨嗟の思いが乗った叫びを放つ光景は今の両者の関係をよく表しているだろう。
周囲の船はどこも似たような状況だ、船体を擦らせながら睨み合って叫びあっている、だがそんな中にあって海賊たちの船団から抜け出るように三隻の軍船が太陽が昇る方角へと進んでいく。
それは海賊たちの旗艦であり、キグナスがこの世で最も醜いと評している老人が乗る船であり、その腹心や信頼する者だけを乗せているのだろう、戦いを尻目に目指す先は魔の海域の真ん中であり、ここで戦うことに拘ってはいないらしい。
「……あぁ、そうかい、アンタって奴は最後の最後までそうなんだね」
つまり目の前で盾とモリを構えて血を流している下っ端の海賊たちは時間稼ぎの捨て駒だ、海賊たちの多くが旗艦が抜け出したことで動揺しているようなので事前の打ち合わせと異なる動きなのだろう。
海賊たちを支援して、船まで与えて、不要になったらゴミのように切り捨てる、そんな老人の在り方に心の奥底が冷たく冷え込んでいった。
ここまで醜くあれるのか、どうしてそこまで美しくないのか、なぜああも醜態をさらすのか、思い浮かんでは消えていく思いを言葉にすることなくキグナスは海兵へと指示を出す。
「さっさと片づけて奴を追うよ!」
「はッ! そんだけの数でなにいきがってやがる! 船が三隻なくなったくらいで俺らに勝てるつもりなのか!? こっちにはまだこれだけ戦力が残ってるんだからよ!」
「あの爺さんがいなくなったのは予想外だが、逆に考えれば俺らは好きに暴れられるってことだ、こんなご立派な軍船まで用意してくれたんだ、これから仕事も捗るってもんさ」
「残念だけどそんな未来はない、アンタらはここで殺す……命乞いも聞かない一切の慈悲も与えない」
キグナスは目の前にいる海賊たちにサーベルの先端を突きつけて、その切っ先よりも鋭く冷たい眼差しで睨みつけた、思わず睾丸が縮み上がるかのようなそれは海賊たちを一歩後退させる。
「せいぜい無様に悲鳴を上げながら苦しんで死んでおくれ、アンタらの後悔と悲鳴が供養になって名誉の回復に繋がるんだ……どうしようもないくらいに屑でもそれくらいの役には立つだろう?」
この戦いに赴く上でキグナスは戦争の基本的な礼儀である祈りと誓いは捧げていない、これは奉納にすら値しないというキグナスの判断だ。
海賊たちの血と肉と魂は神の下へと送らない、全てを切り刻んで消滅させる、一握りの安息や救済さえ必要ない。
全てだ、海賊たちの全てを欠片の慈悲なく打ち砕く、それを為すと決めた時点で彼らの未来は決した。
即ち、これから行われるのは戦いではなく徹底的で一方的な殲滅となる、海は血に染まることになるだろう。
「髪の一本から、血の一滴、魂の一欠けらまで切り刻む、名誉ある死なんてアンタらには必要ない」
そして彼女は最後の通告をするかのように、冷たくこう言った。
「それでも、獣の末路としては……まぁ上出来さ」
双方の怒号がそこで交わった、鋼と鋼がぶつかり合って互いの肉を貪りあい、流れる血が甲板を汚していく。
「前座で疲弊するのも馬鹿らしいね……シャーシャ、頼めるかい?」
「了解、任せてください! いや~、こうして全力で戦うのなんて何時ぶりだろうなぁ、シャルルたちが入団してからは護衛役なんてまず無かったから久しぶりだ」
どこか気楽な、戦場に似つかわしくない足取りと表情で、獣人のシャーシャは一歩踏み出していく。
だがその気楽さも二歩目で姿を消した、どちらかといえば細身な彼女の体がビキビキと異様な音を立てて膨らみ始めたからだ。
内側に圧縮された何かを開放させるかのように骨が急激に変形して肉が盛り上がる、身にまとっていた衣服は体の膨張に耐えきれずにビリビリに破けてしまった、しかし女らしい細身の裸体は体中に生えた体毛によって隠されてしまう。
「うがあああああああああああああああああああ!!!」
彼女が変身を終えた時、そこには海に似つかわしくない大きな獣の姿があった。
全身を覆う銀色の体毛は鋼の如き輝きを放ち、その牙と顎は人間の頭など簡単に噛み砕いてしまうだろう、両手の先端には魔剣を思わせる鋭い爪も持ち合わせている。
身体は巨大な狼だ、しかし四足歩行ではなく僅かに前かがみになりながら二足歩行を維持していた。
その異形を、海賊は知っている。
「はぁ!? はぁぁ!? あれって人狼か!?」
「なにいってんだ、お前、ここは海の上だ……」
その男が言い終わる前に、首から上が消失した。
海兵たちの壁を軽く飛び越えて海賊船に着地したシャーシャは、振り返りざまにその巨大で鋭い爪が備わった腕を振り抜くと、それによって男の首が斬り落とされたのだ。
隣にいた男が絶命したことを理解して、シャーシャの存在に慌てふためいていた海賊が咄嗟に剣を突き立てるのだが、柔軟かつ頑丈な体毛によって肉を切り裂くまでは至らない。
いや、仮に肌へ届いたとしても血を流すことはなかったのだろう、今のシャーシャの体は体毛も筋肉も骨も人の領域にはないのだから。
もし彼女を傷つけたいのならば、強力な祝福の力を宿した武器を振るわなければならないだろう、教会ならば探せばあるかもしれないが海の上では高望みでしかない。
獣人の中でも獣に性質や魂が近い存在が、さらに獣側へ転がることによって人と獣との境界が崩れたのが人狼と呼ばれる存在だった。
度が過ぎれば戻って来ることなくそのまま完全に獣へ落ちてしまい魔獣と呼ばれるのだが、シャーシャの瞳には理性の輝きがあるようだ。
冷静に、迷うことなく、理性の名のもとに、海賊たちを殴殺していく、それならば獣とは呼べないだろう。
深い森の奥ならば人狼に襲われることも納得だが、船の上でそれを予期するのは難しい、サハギンやクラーケンといった海の魔物ならば予想と準備があったのかもしれないが目の前にいるのは人狼なのだ。
その爪を、その腕を、その牙を防げない。
その体毛を、その肌を、その筋肉を貫けない。
つまり、彼女と海賊たちとでは戦いにすらならないということだ。
「やだッ! やめ、やめろぉ!! 離しやがれ!」
シャーシャの手で足首を掴まれて情けない叫びを上げる海賊を、彼女は剣に見立てて振り抜いた。
ゴキリと関節や骨が砕けるような感触が掌から伝わって、海賊は更に苦悶の声を声を漏らすがそれも別の海賊にぶつかったことですぐに収まる。
彼はシャーシャの武器なのだ、鋼鉄のような固さは無いがそれなりに重いのでよく手に馴染む、人狼であるシャーシャが全力で振り回せば立派な凶器だろう。
一薙ぎすれば海賊の束が吹き飛んだ、当然ながら手に持った男もぐしゃぐしゃに潰れてしまうが、そこで絶命することができたので彼は幸運だった。
最も不幸なのは肉の凶器をぶつけられる海賊たちだ、同胞に対する愛情など少しも存在しないが肉の棍棒を振り回すシャーシャにただ恐怖するしかない。
強く、固く、そして早い、文字通り人間離れした膂力で数十キロはあるだろう肉の塊を振り回しながら甲板を駆け巡る獣に立ち向かえるような勇敢な者などここにはいないらしい。
二度三度、海賊だった武器が振るわれてその倍の数の海賊が粉砕された、そして四度目五度目とそれが続き、六度目でブチっという音と共にシャーシャが武器にしていた男の足首が千切れてしまったようだ、丁度、振りかぶった瞬間だったので勢いそのままに海へと落ちていく。
ボロボロになった男は原型を留めていない、それが海賊の末路を物語っている。
「ありゃ、壊れちゃったな……まぁいいか」
獣には似つかわしくない女性の麗しい声は、不思議な不気味さとなって海賊たちへと届いた、まだ戦いは始まったばかりだというのに勝敗が決してしまったようだ。
海兵すらシャーシャの戦いに恐怖して後ずさっている、海賊たちは更に恐ろしいだろう。
鋼で斬られて貫かれる覚悟はあっても、巨大な何かにただ蹂躙されるような結末は覚悟していなかった、この戦いに名誉もなければ輝きも無く、あるのは怪物と対峙する恐怖だけだった。
「悪いね、可能な限り痛めつけて殺してくれって話だからさ……まあ海賊なんてやってんだからしょうがないよね」
そう言ってシャーシャは獣の如き速度で海賊たちに割り込むと、そのまま手近な男を二人捕まえてまた武器とする。
「代わりは沢山あるから、存分に苦しんでくれよ」
その言葉を最後に彼女は全力で駆けだした、その言葉を聞いて海賊たちは全力で逃げ出した、船の上の逃げ場など無いと理解していても、本能がそうさせたらしい。
逃げ惑う海賊たちの背中を追いかけながらシャーシャは満面の笑みを浮かべている、久しぶりの狩りに気分が高揚していることもあるのだが、人狼となったことで精神的な変化も起こっているのだろう。
今の彼女は人よりも獣寄りなのだ、理性はあっても人間らしい躊躇はない。
その船に乗る海賊を殺しきるまで止まることはないだろう、それはまさしくキグナスが望んだ結末だった。
この船の戦いはこれで終わりだろう、あと数分もすれば全てが片付く、そこでキグナスは視線を別の船へと向けて状況を確認すると……案の定、そこでも似たような状況になっているようだ。
さっきまで同じ船に乗っていたキララはここでの戦いをシャーシャに任せて海面へと飛び降りると、そのままアメンボのように沈むことなく海の上を走って他の船へと飛び移っている。
海賊も、重さなど存在しないかと言わんばかりに海を走るキララに驚愕しているようだ、そのまま海面を蹴って飛び上がった彼女は帆柱の頂上に緩やかに着地すると、甲板に武器を持って広がっている海賊たちを見下ろした。
「数は、三十、四十、五十……五十七」
まず確認するのは敵の数だ、そして手に持った武器、最後に味方の数。
突如、船の帆柱に着地したキララに、驚愕と共に呆けた視線を送る海賊たちの背後を突くように、海兵たちが敵船へと雪崩れ込む。
その瞬間に生まれる僅かな空白と、無数の視界の揺らめきに割り込むかのようにキララは甲板へと飛び降りる。
ゆらり、ふわり、そんな表現が相応しい着地だった、しかしそんな穏やかさは踏み込んだ瞬間に掻き消えてしまう。
何が起こったのか、正確に理解できた者は海賊にも海兵にも存在しない、ただ乱戦となった甲板に黒い風が吹き抜けたかと思うと、次々に海賊たちの喉元が切り裂かれて真っ赤な血を吹き出していた。
声も出せない、叫びもない、気が付けば喉を裂かれており、彼らは訳もわからないまま眠り落ちるように絶命していく。
全ての海賊がそうなるまで、僅か十数秒の時間しかかからなかった。
「ここの後処理は任せるわね」
そう海兵に伝えてキララはまた海の上を走って別の船へと乗り移っていく、そんな彼女の姿を唖然としたまま見送った海兵はこんな言葉を呟いた。
「……春風のキャラバンってなんだよ」
かつてキグナスが所属していたキャラバンの一員だと聞かされていた、信頼する商会長がここに連れて来たということは戦力になると判断されてのことだろうと、彼らは納得していたのだがここまで認識にズレがあったとは思っていなかった。
女所帯のキャラバン、商人と旅芸人の集まりは海の上を走ったり人狼になったりしないだろう、そんな言葉を飲み込んで海兵たちはキララを見送るのだった。
そして同じ戦場、しかし異なる船でも同じような感想を持った海兵たちがいた、武器を持って血を流す戦いを覚悟していたのに美しい歌によってそれを阻まれた海兵たちだ。
その船で血は流れない、怒号や叫びも縁遠い、凪の海のように穏やかな状況が広がっている。
船の海賊たちは全員が甲板に倒れ込んで眠ってしまっているらしい、ついさっきまで目の前に海兵たちがいたというのに、警戒心の欠片も存在しないかのように眠り落ちている。
彼らを眠りに誘ったのはローレライの歌声だ、リュートを奏でながら放たれる理解の外にある言葉で紡がれる歌と旋律は、彼らの警戒心と心の隙間に入り込んでその内側を犯したようだ。
眠気と戦うような者などいない、例え海兵と睨み合っていようとも関係ないのだ、今ここで眠ることが神に定められた時間であるかのように疑いもなく瞼を下す。
そして彼らは戦うことなく制圧された、この船に一滴の血も流れていない。
彼らの知らない言葉で歌うローレライは、全員が眠りに落ちたことを確認すると、動揺している海兵たちに笑顔を向けた。
「ごめんなさい、私は殺生を好まないのでこれでお許しくださいな」
「は、はい、いえ……十分すぎる戦果ですので、謝られる必要は、ないかと」
「その言葉に甘えさせて貰いますね」
ニコリと笑う彼女に、海兵たちは冷や汗を流しながらぎこちなく笑顔を返す、自分たちが今見たものは恐ろしい何かだと理解したのだ。
酩酊するような色気を纏った美しいエルフの女だという評価は、どこか遠くへ消えてしまったらしい。
そんな彼らの思いを知ってか知らずか、海賊たちを縛っていく海兵にローレライは穏やかな微笑みを見せていた。
自分が恐れられているとは、少しも思っていないようだった。
「…………」
そんな彼女の笑顔が消えたのは、海賊たちを縛り上げて数分後のことだ、その瞳は太陽の方角へと向けられており、その先にある何かを捕らえている。
「……あれから二百年か」
かつての思い出が蘇る、この海で出会って友となり、そして愛し合った男の姿がハッキリと思い浮かんだ。
共に戦ったこと、歌ったこと、娼婦として抱かれたこと、娼婦ではなく一人の女として抱かれたこと。
彼女の長い長い人生のほんの一握りの時間でしかなかったが、それでも大量の記憶の中でも特別な重さがあるのは間違いない。
長く生きるコツは不要な記憶や思い出を忘れること、それが信条である彼女が忘れていないということは、その思い出に重要な何かがあるからだ。
「……ふふ」
自虐的な笑みを浮かべてローレライは感傷を誤魔化すようにリュートを奏でる、それがかつて愛して愛された男の好きな曲であったと思い出して、更に笑みは深くなった。
彼女はその男を愛していた、そしてそんな男を海の底へ沈めたのもローレライだった。
「だとしたら、この再会は必然でしょうね」
海の向こう、その先で何かが脈動するかのように蠢いた気がした。
待ち望んでいた、そして遠ざけていた再会がそこまで迫っている。
ローレライはその瞬間を待ちわびるかのように瞼を閉じて、愛しい思い人を脳裏に描く。
彼女の心臓は、痛い程に高鳴っているのだった。