商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
「お、俺たちは武器を持っていない!」
そんな風に叫んだのは戦意を無くして捕虜となった海賊の一人だ、両手を背中で縛られて命乞いをするかのように甲板に這いつくばりながら海兵たちを見上げていた。
彼だけではない、その場には他にも捕虜となった海賊たちが同じように拘束されており、誰もが勝者に媚びるかのように卑屈な笑みを浮かべている。
それを恥だと彼らは思っていない、強い者に従って弱い者から奪うのが彼らの生き方なのだ、情勢や戦力差を読み違えるようなことはしない。
そもそも誇りが一握りでも残っているのならば、こんな生き方を選ぶまで転げ落ちていなかったのだろう。
だから媚びる、必要なら相手の靴だって舐める、少しでも生存の確率が高くなるのなら何だってする、それが賊としての薄汚い生き方なのだから。
「降伏した者を殺すのならばこの戦いが汚れることになるぞ、神々が見ている戦いに不名誉を飾るつもりか!」
「ここぞとばかりに都合の良いことばかり言いやがって……どうしやすか姉さん?」
そんな海賊たちに唾を吐きかけたい衝動にかられながらも指示を仰ぐ冷静さはあったらしい、海兵はキグナスにそう問いかけた。
慈悲ではない、ただそれが海の戦士である彼らの在り方なのだ、一度戦士として生きることを決めたのならば死ぬまで輝きを曇らせることはない、そこが海賊と彼らの違いなのだろう。
勝敗は決して彼らは勝者となった、その権利の行使を行うのはキグナスだ。
人狼と暗殺者と吟遊詩人が暴れて、怒りを携えた海兵たちが決死の覚悟で戦ったことにより海賊船は大半が占拠されて接収されており、運が良いのか悪いのか生き残った海賊たちの今後を決めるのは勝者の特権である。
しかし海賊の末路など絞首台が殆どだ、奴隷として鉱山に送られることもあるがそれは労働力が求められる状況であった場合に限る、今回に関しては一切の議論無く死罪となるだろう。
キグナスや海兵たちは勿論、港の住人たちがそれを許さない、命乞いは無駄でしかなかった。
「殺すよ」
海兵の問いかけにキグナスは短く返す、彼女は手に持ったサーベルも衣服も海賊帽子も全てが返り血で汚れており、空いている方の手には戦闘中に切り落としたであろう海賊の首が握られていた。
それを雑に海賊たちへ放り投げる、甲板を転がりながらその首は生きている海賊たちの下へと転がっていく、それがお前たちの末路だと教えているかのようだ。
「た、戦いを汚すつもりか!? これは神々への奉納ーーガッぴいい!」
怯えながらもキグナスの判断を批判しようとした海賊の一人は、最後まで言い終わる前にキグナスに股間を踏み砕かれて形容しがたい悲鳴を上げると、口から大量の泡を吹き出しながら絶命してしまう。
「この戦いは神々に捧げちゃいない、言ったはずだよね、苦しんで死んでいけってさ」
「お、お前、お前は! 海の戦士としての誇りはないのか! 武器を持たぬ者を殺すなんざ戦士の風上にもおけねえよ!」
「……本当にどうしようもない連中だね」
自分勝手な理屈ばかりを述べる海賊たちに心底呆れながら、キグナスは海兵たちにこう言った。
「とりあえず半分はここでアンタらが処理しな、残りの半分は生かしたまま足の健を切って船底に押し込んでおくんだ、港に帰ったら煮て焼いて晒すから」
それが自分たちの末路だと聞かされて海賊たちは泣き崩れてしまった、最後の最後まで哀れな彼らを海兵たちが取り囲んで血による名誉の回復を行っていく。
キグナスはその場を後にして操舵を握った、まだ彼女の戦いは終わっていない、寧ろここからが本番だと言えるだろう。
「キララ、あの三人は発見できたかい?」
「船底で捕らわれていた女性たちの中にはいなかったわ……早々に戦線離脱した船の中でしょうね」
戦闘が終わってから拉致された住人の保護を行っていたキャラバンの面々は、そこに仲間の姿が無いことを既に確認していた、海賊たちをローレライが魔法で情報を吐き出させている中でそれらしき少女が捕らわれていることは確認できている。
「……すまない」
「謝らないで、貴女に謝られると変な気分になるの……心配もわかるけどあの子たちは見た目よりずっと強い子よ、隙を伺って脱出の算段を整えるくらいはやっていると思うの」
「そうだね……まぁ、名誉の回復をさせる機会は用意しとかないとさ、アタイにはそれくらいしかできないから」
「名誉の回復も大事だけどボーナスもあげてちょうだい、あの三人はお金が大好きだから」
「そりゃ商人らしくて良いことだ。ああ、ちゃんと用意しておくよ、謝罪金も必要だろうからね」
港の住人の為ということもあるが、幾人かの海賊を生かして連れていくのは三人の為である、そんなことでしかキグナスは謝罪することができなかった。
だがそれで良かったのだろう、頭を下げるだけでは返しきれない負担を与えてしまったのだ、血を流すことでしか為せないこともある。
その為にはまず勝つことが大前提だ、キグナスは船の進路を太陽が昇った方向へ向けながら人魚たちが起こした波に乗る。
それだけでなく風も味方した、気まぐれな神々はキグナスの味方をしているらしい、少なくとも今は間違いなく。
風と、波と、神々の気まぐれが合わされば追いつくことは容易いだろう、実際に先行している三隻の軍船の姿を捕らえるのにそう時間は必要としなかった。
徒歩で進むのと走るくらいの速度差が両者にはある、ジリジリと距離を詰めて矢と怒号が届く距離になれば相手の顔もしっかりと認識できた。
このまま衝突するつもりでいたが相手の軍船は徐々に速度を緩めて最後には完全に停止してしまう、そして海賊と海兵が矢の射程内で睨み合う。
「……キグナスよ、一足遅かったな」
「お前はもう何も喋るんじゃない、ただただ不快だ……さっさと死ね」
会話をする気など少しも存在しない、老人の言葉を一方的に拒絶してキグナスはそのまま船首を相手の軍船へと突きつける。
しかし軍船と間に合わせの船ではそもそも耐久力が違う、船首はバキバキと音を立てながら砕けてしまい、軍船の側面を削るだけに留まった。
体格差があっても下っ端の海賊たちは排除したので数では既に上回っている
それは矢だけではなく剣やモリが届く位置だ、雨のように互いの矢が降り注ぐ中でキグナスは先駆けとなってこう叫ぶ。
「血を流せ! 我らが名誉の為に!」
「野蛮な、卑しい生まれはこれだから困る」
枯れ木のような老人はこちらに突っ込んでくるキグナスを見下ろしながら部下に指示を出す、その手にはカビの跡が目立つ羊皮紙で作られた契約書が握られており、その目はもう敵を見てはいない。
周囲を敵船に囲まれて身動きが取れなくても、敵が全方位から乗り移っていようとも、彼に焦りはないようだ。
自分が追い詰められているという認識がない、部下も船も失うことは理解できるのだが、そこまで執着を持てないのだろう。
彼が望む物はただ一つ、埋め尽くすほどの部下でもなければ、大海を支配できる海軍でもない、幼いころから手を伸ばしても決して届かなかった黄金の玉座だけだった。
それを手に入れる為ならば部下が何人死のうとも、船がどれだけ沈もうとも価値が無い、その玉座に座ることさえできれば全てを手に入れられるのだから。
商人的な考えをするのならば、部下や船を失うのは投資だと言えるだろう、そんな滅茶苦茶な言い訳が出てくるほどに彼は冷静であるつもりらしい。
「やれ、真珠を流すのだ」
海へ捨てられるのは大量の真珠だ、形も色も質も様々なそれらは同じ数の量の血を流すことで得られたものだ……いや、得たのではなく奪ったと言った方が良いだろう。
全ては玉座の為に、寝ても覚めても彼はそこだけを見つめている。
船の下、魔の海域は驚くほどの透明感を保っている、しかしそんな中にあって彼らの船の真下は深い群青色だった。
海底が確認できるほどに美しく澄んだ海域の中で、一部分だけ巨大で深いクレーターのような空間が存在しており、そこだけが引きずり込まれそうな存在感を放っている。
一度でもそこに落ちてしまえば二度と這いあがってはこれない、そう確信させる引力のようなものがあった、そしてそこに大量の真珠が吸い込まれていく。
老人は流れ落ちていく真珠を見送って手に持った狂ったコンパスを確認する、間違いはないとわかっていても何度も確認しなければ心が落ち着かなかった。
このコンパスは北も南も指さない、その針が指し示すのは強力な魔力の塊なのだ、その塊の真上に位置しているので針は絶え間なく回転しておりここが正解だと知らせてくれる。
「ようやくだ……ようやくここまで来れた」
思い描いた理想がここにある、手を伸ばしても届かず夢に見ることしかできなかった現実が広がっているのだ。
朽ちる寸前の体が興奮で熱を持つ、久しぶりと言える程に股間が固くなっていった。
世界は今、自分を中心に回っている、全てが自分に帰結して全てが自分から始まる。
まさに王の在り方だ、これこそが王の存在感だ、これほどの万能感を王は常に感じられるのだ。
彼は興奮していた、これ以上ない程に、海面が脈打つかのように振動すれはそれは自分を世界が祝福する音だと思い込み、背後から聞こえる怒号と鋼がぶつかり合う音は称賛の声なのだろう。
「あぁ……世界はこんなにも美しかったのだな」
酒も飲んでいないのに酩酊するかのように頭がぼーっとしているようだ、あと一歩の距離にまで近づいた剣戟の音すらもう届いていない。
「陛下!お逃げください!」
長年に渡って仕えていた腹心の切羽詰まった声が老人にようやく届くと、そのすぐ後にくぐもった唸り声が響き、最後には一人分の足跡だけが残った。
コツコツ、と規則正しく続くその足音の主へと老人は振り返る、そこにいたのはやはりこの世で最も憎らしい相手だ。
「……」
彼女は何の言葉も発さない、大量の返り血を浴びたまま淀みなく突き進み最後の護衛もサーベルで斬り沈めてしまった。
「よくぞ来た……私がこの国の王である」
「……」
「跪くがいい、そして靴を舐めるのだ」
「……」
「ふん、卑しい身分のお前に王威なぞ理解できぬか、まぁ期待などしてはおらん」
キグナスが握っている血だらけのサーベルが揺らめいた、僅かな残像を残して小細工も無く一直線に振るわれたそれは、老人の首を切り落とすことになんの邪魔もないだろう。
しかしそうはならなかった、ドクンと心臓のように脈打った海面が不自然な衝撃を船へと伝えたのだ。
老人と相対していたキグナスも、海賊たちを追い詰めていた海兵も、それを支援していたシャーシャやキララやローレライも、その揺れに嫌な何かを感じ取る。
それは生物としての本能的な恐怖だ、途方もない巨大な何かを見上げるかのように背筋を震わせる、それが海面を揺らしているのだと理解してしまえば剣戟の音は戦場から遠ざかった。
海賊たちもそれは同じだ、剣は相手ではなくただ手にぶら下がっており、視線をキョロキョロと周囲へ彷徨わせており落ち着きがない、脈打つ海面はそんな彼らをあざ笑うかのようにその振動を徐々に大きくさせており、どちらも戦いどころではなくなっているようだ。
得体の知れない何かが来る、そしてそれはすぐに姿を現すことになる。
一際大きく海面が揺れ動くと、爆発するかのように巨大な水柱が立ち上りその場にいた全員の視界を奪う。
その柱の中にそれはいた、海藻とフジツボがこびりついた服と海賊帽子、長い年月を感じさせるそれはもう衣服の体を為していない、そんな服を纏っているのは……いや、引っかけているのは相反する白さを放つ骨だった。
肌もない、筋肉はない、当然ながら内臓も見当たらない、ただ人の骸がそこにある、本来なら眼球が存在する筈の場所は空洞となっておりその奥は蝋燭のような明かりが宿っているようだ。
まさにアンデットらしい姿だ、死してなおその骸に魂が結び合った生者の成れの果てだろう。
人の領域から遠く逸脱したそれは水柱に乗ってそのまま軍船に着地する、それを笑いながら迎え入れるのは枯れ木の老人だ。
「素晴らしい、これぞ英雄! これぞ半神! これだけの力があれば全てを手に出来る!!」
あの双子の悪魔に匹敵する、いやそれ以上の存在感だと老人は年を忘れてはしゃぎだす、限界寸前だった彼の内臓は痛みと疲労を訴えるが脳がそれを拒否してしまう。
興奮せずにいられない、この力を自由自在に動かせるのだと考えるだけで彼は絶頂を迎えて射精をしてしまうのだった。
「これだ!これを見るのだ!! この契約書は二百年前に我が先祖である祖王と貴様が結んだ契約書だ、貴様の海賊としての罪を見逃し、代わりに身分と財産を保証することを認めており、その忠誠は王に捧げられるのだ! この契約書には契約神の力が込められており決して破ることはできない!」
カビの跡が目立つ契約書を広げてそれを塩の海賊へと突きつける、そこに記されている文言は老人には読めない古の言語であり神々の言葉であるとされており、だからこそ強い強制力が宿っているのだ。
文字通り神の力が込められているのだから、例え半神でありアンデットであってもおいそれと踏みにじることはできないだろう。
老人はそう思っていた、悪魔にもそう教えられていた、それがあまりにも薄い根拠でしかないことを理解しないままここに立っている。
確かに老人の契約書に対する認識は間違っていないだろう、神々の言語は確かに塩の海賊と海運王との間で結ばれた取引を記しており、忠誠と庇護を認める文言も存在するのは間違いない。
だが彼はこの契約書を読むことができないのだ、大筋の内容を知ることができても読めないのだから細かな部分まで理解できていなかった、そして契約書というのはどうしても曖昧であやふやな言葉が使われることが珍しくない。
所謂、解釈次第で、という表現ができることもあるのだ。
「さぁ跪け、私こそが祖王の血を引く正統な後継者であり、その血を継ぐッーーーえ?」
塩の海賊は錆びついたサーベルを老人の腹へ突き立てた、一切の躊躇も感情もなく虫でも払うかのように気だるげな動作であったことだろう。
老人の薄い筋肉は簡単に錆びついたサーベルを迎え入れてしまう、鈍い切れ味である筈のそれは滑るように腹部を通り過ぎて内臓をかき分けるのだった。
ドボッと大きな傷口から臓腑が零れ落ちていく、どこか呆けた顔でそれを見つめていた老人は思い出したかのように蹲って苦悶の表情を浮かべる。
「なッ、こ、こんな……なぜ、私には、王の血がッ!」
その血に忠誠を誓った塩の海賊は王に絶対服従であるはずだ、そんな前提で動いていたというのに錆びついた刃は間違いなく老人を傷つけた。
何が間違っていたのか、どこで躓いたのか、どれだけ記憶を遡ってもミスを発見できないまま彼の意識は徐々に薄れていく。
「王の、王の末裔なのだ……それなのに、どうしてこうなるのだ」
王とは神聖な存在、運命と神の意志によって選ばれる不可侵の領域なのだ、それ故に血の清さを知らず汚れを持った雑種には決して触れることはできない。
王が望めが世界が、運命がその方向へと捻じ曲がる、英雄の刃で殺されることはなく毒で朽ちることもない、前線で戦っても傷つくことなく雨や押し寄せる波も打ち消すのだ。
それが真の王者、運命に守られていかなる未来をも手にする存在であり、それは職業の名前ではなく運命を操る者こそがその座にいられるのだった。
自分がそうなのだ、その運命の中心にいるのが自分なのだ、だというのに臓腑を零しながら倒れ伏してしまっているのが彼の現実である。
「何を言っている」
生者の心を折るかのような威圧感のある声の主は塩の海賊だ、彼は老人を見下ろしながら残酷な現実を告げてしまう。
「お前は……王ではない」
「違うッ! 私は王だ!」
「……血を引く、ただそれだけだ、この身の忠誠は王にのみ捧げられる、そういう契約だ」
その言葉を最後に塩の海賊は錆びついたサーベルを振り下ろすが、その刃を止めたのはキグナスの持つサーベルだった。
「貴様……なぜ、助ける?」
「勘違いすんじゃないよ、私自身の名誉の為さ」
それが嘘偽りない言葉であった、実際にキグナスの刃は塩の海賊を弾いてから老人へと向けられてしまう。
そして言葉もなく、思いもなく、躊躇すらなく老人の首を刎ね飛ばす、それが彼と彼女の決着となった。
だがそれも今となってはどうでもよくなってしまっている、少しだけ気が晴れたような気がするがそれも予想していたほどではない……そんなものよりも優先しなければならない存在が生まれてしまったのだから。
キグナスはサーベルの切っ先を塩の海賊へ向けて睨みつけた、本音を言えば今すぐにでも逃げ出したかったのだがそれを簡単に許してくれるような相手ではないだろう。
本当に、最後の最後まで面倒ごとを残してくれたな、と悪態を吐きながら刃が煌めいた。
「戦神よ、我に力を与えたまえ!」
血にまみれたサーベルと錆びついたサーベルが打ち合わされた、お互いに一歩も引くことなく衝撃が周囲へまき散らされる。
拍子抜け、それがキグナスの塩の海賊に対する評価だといえるだろう、強いことは強いのだがサーベルから伝わる感触や存在感は自分と互角といった力量だ、少なくとも第一印象の恐ろしさに反して手も足もでないような感触ではない。
しかしその評価は間違いであった、塩の海賊が唸るような声を上げると船を振り動かす巨大な水柱が海面から立ち上ったからだ。
水柱は渦を巻きながら蛇のようにうねり、そのまま甲板にいるキグナスへ食らいつくかのように放たれた。
その衝撃によって軍船の頑丈な甲板に穴が開く、水も圧縮して高速で放てば立派な武器となるということだ、そして塩の海賊の攻勢はそれで終わりではない。
また海面の爆発と同時に水柱が生み出された、今度は十本だ、しかし空中へ上がった大量の海水は一瞬にして蒸発すると霧のように何かが広がった。
それは無数の塩だ、最初は霧のように無秩序だったがそれらが塩の海賊の意思の下で収束して無数の刃を形作る。
「総員、一時撤退! いったん距離を取るんだ!」
キグナスの判断は早かった、雨のように降り注ぐ塩の刃を打ち落としながら部下へと指示をだす。
目の前の小物など放置して構わない、海賊征伐がどうのという段階は過ぎ去った、まだ切ったら血を流す海賊の方がずっと可愛げがあるだろう。
降り注ぐ塩の刃が途切れても攻撃に転じられる隙が無い、呼吸をするかのように海を操る塩の海賊はまさに海の王者と言えるだろう。
自分たちの船へ撤退していく中で追撃を覚悟したのだが痛みはやって来ない、振り返って確認すると塩の海賊は老人の肢体を弄ってボロボロの契約書を奪い取っているようだ。
「あれが塩の海賊……なるほど、正しく怪物ね」
軍船に置き去りにされた哀れな海賊たちを蹂躙していく様を眺めながら、キララが塩の海賊をそう評する。
「たくッ!伝説に挑まなきゃならないとはね、無茶苦茶だっての」
冷静に観察するキララに対してキグナスはイラつきを隠せていない、だがそれも仕方がないだろう。
本来ならば過去の存在なのだ、吟遊詩人の歌を聴いて笑うことはあっても、いざ現実に形となって目の前に現れたのならば少しも笑えない。
「キララ、あれの相手をできるかい?」
「どう、かしらね……そもそもあれは殺せるような存在なのかしら」
暗殺者としてはそこが疑問なのだろう、内臓も血も無い相手をどうすれば殺せるのか考えても答えは出ない。
人間は隙間と弱点の多い脆い存在なのだ、ちょっとした隙間に刺突剣を突き刺せば大半の相手を処理できる、その前提が通じない相手には暗殺者の半神であっても一歩を踏み出すきっかけを見つけられないらしい。
「本当に骨だけで動いてますね、とりあえず一発殴ってへし折ってみましょうよ」
短絡的な提案をしたのは人狼形態のシャーシャだ、そしてそれを否定したのはローレライだった。
「それは無意味よ……私も色々試したけど、海の底に封印するしかなかったわ」
「あれは不滅の存在だというの? だとしたら暗殺者の天敵ね」
「そうね……でも一つだけ手がある」
ローレライの瞳は海賊たちを切り刻んでいく塩の海賊が持つ契約書へ向けられた、そこに込められた力を感じ取る。
「あれには契約神の力が込められているわね、ならその契約を打ち砕きましょう」
殺せない相手を殺すにはどうすればいいのか? その答えは神の力を借りることだとローレライは説明した。
どこにでもある形だけの契約書ならばその契約を破ることに大した意味はないだろう、せいぜい信用を無くすくらいのものだ、しかし契約神の力と名が込められた契約書はそんな軽い物ではない。
神の契約書を破るということは上位存在との契約破棄に当たる、神はその不義理を許さないだろう。
それだけが彼女たちに残された唯一の光、死から解き放たれた存在を相手に希望があるだけまだマシだった。
「その前に、誘拐された人たちの救助を始めなきゃね」
「それには船底まで行かなきゃダメですよね……あ~、あれを相手にしながらかぁ」
「シャーシャ、救助はアンタに任せるよ、アタイの部下と一緒にやっておくれ……キララは一緒にアレの相手だ、ロー姉さんは援護を頼む」
「キグナス、海の上では彼に勝てないわ」
「わかってます、キララと一緒に救助の時間を稼ぐだけですから」
ここで迷っている時間はないだろう、甲板にいた男たちを殲滅した塩の海賊は船内へと既に姿を消している、残された時間は少ないだろう。
「行くよ、キララ」
「ええ……貴女と一緒に並んで戦うのも久しぶりね」
「ん? あぁ、そうだね……本当に、十年っていうのは長いもんだよ」
昔のことを思い出して二人は笑いあう、おかげで不滅の相手を前にして緊張が少しだけ和らいだ。
二人は同時に海賊船へ飛び移って着地すると、その瞬間に大きな揺れを感じ取って冥府の底へ引きずり込まれそうな叫びも届く。
「やれやれ、昔話の中で眠っておいて欲しかったね」
「無理よ、神々は気まぐれなのだから」
きっとこの戦いは神々の意思によるものなのだろう、自分たちがここにいるのも塩の海賊が復活したのも偶然ではなく必然という言葉がよく似合う。
天上の神がそうあれと願ったのだ、その運命の流れに人が逆らえるわけがない。
彼女たちにできるのはただ戦うだけだ、それを神が望んでいるのだから是非もない、超えるしかないだろう。
「海神よ、そして戦神よ、我らが輝きをご覧あれ」
「死神よ、冥府に贄を送る力をお与え下さい」
覚悟など既に決まっている、二人は息を合わせて踏み込む。