商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
塩の海賊が姿を消した船内へ踏み込むとすぐに発見することができた、彼は聞き取りにくい唸り声を上げながら壁に頭を打ち付けているようだ。
一目見て錯乱していることが伝わったがそれで躊躇できるような相手ではない、最初の一歩を踏み込んだ時点で不退転の覚悟が決まっているのだから刃の動きは淀みなく、そして何より鋭さを秘めている。
暗殺者故の癖なのだろう、足音を消して床を滑るように肉薄したキララの持つ二本の刺突剣が、塩の海賊の胸と喉元へと突き立てられるが……予想通りそこに心臓も動脈も存在しない。
わかっていたことだ、そのままあばら骨へ膝を打ち付けると鉄の鎧を蹴りつけたかのような感触が広がった。
固い、人間の骨くらいは簡単にへし折れる勢いだったのだが、死から解き放たれた相手は人の領域にはいないらしい。
キララが最も得意とする鋭さや速さが軽さが意味をなさない相手だ、もっと巨大な何かでぶん殴ればあるいは粉砕できるのかもしれないが、彼女は武神の半神であるカムラーンではない。
既に死んでいる相手は暗殺者にとって天敵ということだろう、ここまでやりにくい相手は死山血河を渡り歩いて来た彼女にとっても初めてだった。
幸いなのは、戦士としての技量がそこまで高くないことだろう、そこら辺の海賊よりはずっと強いのだがキララには遠く及ばない。
錆びついたサーベルを刺突剣で受け流しながらまた蹴りつける、今度は肋骨ではなく足首へのつま先蹴りだったが……やはり固い、キララの足指が鈍い痛みを訴えた。
「お前からもミーシャの匂いと気配を感じる……あぁぁ、ここに彼女が来ているのか」
まるで痛痒を感じていない骸骨はキララへ白い骨の手を伸ばすが、そんな彼を背後からキグナスが刃を振り下ろす。
しかしそれもあまり意味がない、服の機能を果たしていない上着は切り裂いたが彼の骨を断つことができないのだ、何もかもを両断する気合を込めた一撃だったのだが彼の骨に触れた瞬間に火花を散らしてサーベルが刃こぼれするだけで意味がない。
「キグナス、合わせなさい!」
塩の海賊の前後から二人の猛攻が始まった、どれだけ切りつけて貫こうとも傷一つ付けられないのだがそれで問題はない、狙うのは彼が懐に隠した契約書なのだから。
肋骨の向こう、本来なら心臓がある位置、大量の海藻と魚の死骸や貝殻などが詰まったそこに契約書は押し込まれているようだ。
幸いにも戦士としては二人は優れている、特にキララの動きに塩の海賊は翻弄されるだけでまともに反撃することすらできないので、為されるまま火花を散らしている。
前後から雨のように打ち付けられる鋼の刃は無数の火花を散らして彼の動きをその場に縫い付けた、その猛攻の中、無数の刃に隠した一撃こそが本命なのだろう。
塩の海賊を間に挟んでキララとキグナスの視線が交じり合う、言葉を介さない阿吽の呼吸でまずはキグナスが背後から飛びつくように塩の海賊の両脇へと手を伸ばして羽交い絞めにした。
次はキララの番だ、キグナスが踏み込んだ瞬間に大きく肺を膨らまして祈りと聖句を唱える。
祈りが強ければ強い程、彼女の世界は粘度を増していく。
何もかもがゆっくりと動く中で、彼女だけが普段と変わらない速度で踏み込んで塩の海賊へと刺突剣を食い込ませた。
ただ刺す、言葉にすればそれだけだが、半神である彼女の刃は常識と理屈を超えることが多々ある、カムラーンの槍に神格が宿るようにキララの刺突剣にも神の力が宿っているのだ。
調子の良い時はかすり傷で相手が絶命することもある、毒を塗っていないのにも関わらずに相手が死ぬのだ、まるで彼女の刺突剣が穿つのは肉体ではなく魂であるかのようにそんな現象を巻き起こす。
今回も感覚としてはそれに近い、刺突剣に込められた死神の力は例え触れただけでも相手を冥府へ運ぶだろう。
その一撃が塩の海賊の胸へと吸い込まれる、死の力を宿した必殺の一撃は海の神に愛された男の肋骨を火花を散らして確かに穿つ。
その鋼鉄を思わせる固い骨にひびが入って刺突剣の侵入を許す、しかし僅か一センチほどで止まってしまう。
神の力は同じ神に通じるようだ、その向こうにある契約書には届かなかったが、蹴りつけるよりはずっと効果的だった。
「あああああぁ……ミーシャ、君の気配がここにある、どこにいるんだ」
塩の海賊は自分を害する二人をまるで意識していない、彼が感じているのは二人から漂うほんの僅かな気配だけらしい。
骨だけなのに匂いを感じ取る、腐り落ちて魚に食い滅ばされた肉体は存在しないというのに、五感は生前よりも鋭くなっているくらいだ。
これも神の御業なのだろう、肉体が無いのに確かに機能しているのだからそうとしか言えない。
その骨は熱を、その鼻は匂いを、その瞳は世界を、確かに認識できる、だからこそ彼は遠い記憶の中で唯一の輝きを感じ取れるのだ。
最早、彼は自分がなぜこうなったのか忘れてしまった、燃え上がるような復讐心が原動力だった気もするがどうも曖昧だ、何が理由でどういう理屈でどんな結果を求めていたのか、彼にはわからない。
ただ魂を燃やす何かが彼を突き動かしていく、怒りなのか恨みなのか復讐なのか判別できないが、熱が魂を燃料にするかのように今も燃えている。
霞みがかった思考の中で何かが大きな声を上げている、奴らを許すなと。
それが生前の自分の声だと気が付かないまま、骸骨に縫い付けられた魂はただ突き進む、そこに意味など見出していないというのに。
ただそんな中で、どうしようもない熱と思考の中で、太陽のように輝く光が差し込んでいる。
鋭くなった五感がほんの僅かな匂いや気配を感じ取るのだ、記憶も感情もどこか朧気で既にここにいる骸骨はかつての彼とは大きくかけ離れているというのに、それでも忘れることのできない情熱が歪な体に残っているらしい。
覚えていることは、美しい容姿の女の顔、その匂いや息遣い、名前に抱き心地、何もかもが薄まっているというのにそれだけは正しく残っている。
曇天にさす太陽のように、闇を切り裂く光のように、彼は明かりを求める蛾のようにそこへ手を伸ばすのだ。
周囲の状況は見えていない、復讐の炎が魂を燃やしてそんな中で僅かに感じる光を追い求めているのだ、刺突剣の先端が肋骨に食い込もうとも背後から切りつけられようとも、そちらへ集中することができない。
身を守らなければ、撤退しなければ、契約書を守らなければ、そんな一握りだけ残った人間らしい防衛本能が骨の体を動かそうとするのだが、それを魂を燃やす炎が焼き払った。
僅かに残った人間性ではその炎に抗えない、だから彼は怪物側へと転がったのだ。
炎が、魂と骨の体を突き動かす、そして人間性が光を追い求める、その先にある栄光へ向かって。
「殺さなければ、裏切り者を……ミーシャを探さなければ、愛しい女よ」
ボッと、音を立てて眼窩の奥にある赤い輝きが強まった、その光に合わせて海が激震する。
すると巨大で頑丈な軍船が跳ね上がった、衝撃と共に膨れ上がった海面が船底を叩きあげて船が空中へと放り出されてしまう。
ほんの一瞬、彼らの世界は重力を無くして人も物も浮き上がる、キララもキグナスも塩の海賊すら体幹を崩してその世界に囚われてしまった。
「キグナス! 捕まって!」
「届きゃしないよ! 自分のことだけ考えな!」
伸ばした手は空を切った、体勢も整わない中でその一秒後に衝撃が広がる。
船は容赦なく海面に叩きつけられて嫌な音を立てると船内を滅茶苦茶にかき乱す、その衝撃たるや船内にいる者にとっては火山の噴火にも等しいだろう、どれだけ力強く覚悟しようともその衝撃に耐えきれずに床へ転がった、そのまま右へ左へと振り回されて最後には壁に叩きつけられてしまう。
ツンっと鼻の奥から熱い何かがこみ上げてそのまま零れだす、キララは鼻血を拭い去って周囲を見渡すと自分のすぐ隣でキグナスがボロ雑巾のように転がっていることを確認できた。
どうやら意識を失っているようだ、担ぎ起こそうと手を伸ばすが船内に響いた嫌な音がそれを阻止してしまう。
どこか形容しがたい、頑強な何かが軋むようなその音は彼女たちの足元から広がって、ついには船全体まで広がっていく。
そして頑丈な筈の軍船がひび割れて隙間が生まれてしまった、最初は僅かなヒビ程度のものだったが軋む音が大きくなるに連れて広がっていき光すら差し込んでくる有様だ。
船が真っ二つになった、そう理解した瞬間にキララはキグナスを担ぎ上げると空いた手で刺突剣を握ぎり、それを正面へと向けて塩の海賊を牽制する。
「団長! 無事ですか!!」
別の入口から船内へ侵入して誘拐された女性の救助を行っていたシャーシャの声が背後から届く。
正面に塩の海賊がいるので振り返ることはできないが、彼女の鋭敏な感覚が船内の気配が消えていることを拾い上げたのでどうやら救助は上手くいったようだ。
「シャーシャ、報告してちょうだい!」
「救助できました! 三人も無事です!」
「了解したわ、撤退するわよ!」
「どうやって!? 船真っ二つになってますよ!」
既に船は二つに分かれ波に流されて沈みかけている、このままでは数分も持たないだろう。
「こっちやこっち! そのまま海に飛び込むんやぁ!」
そんな彼女たちに手を差し伸べたのは海面から顔を出した人魚たちだ、その姿を確認した瞬間にキララはキグナスを抱えたまま海へ飛び込んでシャーシャもそれに続いた、塩の海賊の支配下にある海に飛び込むことは危険も伴うが、それを援護する歌が周囲に響く。
この時代に存在しない、神々の言葉に近いそれは塩の海賊の手足となっている海へ干渉して荒れ狂う波が一瞬で凪の海となる。
海へ、空へ、そして塩の海賊へ届いた声はローレライのものだ、真に力ある言葉は神々の意思であるかのように世界の法則を書き換える力があるのだろう。
戦場とは思えないような静謐の中で、ただひとりローレライだけが船の船首で光の柱のように存在感を放っているのだ、その場にいた全ての者の視線を引き付けている。
塩の海賊もまた同じだ、骨の体を震わせながらその輝きへと手を伸ばす。
「……ミーシャ、私の歌姫」
「久しぶりね、ジョン……そしてさようなら」
また神々に近い言語で歌が響く、海を鎮めた歌とは異なって今度はどこか激しく刺すような勢いがあった。
次の瞬間、凪の海は表情を変えて塩の海賊へと襲い掛かる、海面が勢いよく盛り上がると巨大な波となって沈みかけていた軍船へと向かいその残骸ごと彼を海の底へと押し込んだ。
水の城壁とさえ言える水量が全てを飲み込んでいく、少なくともそれを受けて生きていられる生物は存在しないだろう、人間は勿論のこと海に生きる人魚たちでさえ波に押しつぶされて屍を晒すことになる。
「やった?」
塩の海賊は波で押しつぶされて船ごと海の底へと押し戻されてしまう、そんな光景を見て海から引き揚げられたシャーシャがそんなことを言うが、ローレライはまさかと首を横に振るうのだった。
この程度で塩の海賊を消滅させられるはずがない、波に呑まれた程度でそんなことができるのならば二百年前の戦いでローレライはああも苦労はしなかったことだろう。
殺せないから、消滅させることができないから、封印という形に収まったのだ、だからこの程度で塩の海賊を死なせることができるのならばそれは神の意思でしかない。
神がここで死ねと言わなければ、アレは殺せない、それがローレライの評価だ。
「いいえ、一時的に引かせただけよ。そもそも彼は海の上では無敵なの……きっと、すぐに姿を現すわね」
封印から逃れたばかりでまだ力が弱い、しかし時間がある程度過ぎればまたかつての猛威を振るうだろう。
「なら……陸で戦う必要があるのかね」
そう言ったのは海に落とされたことで意識を取り戻したキグナスだ、忌々しそうに表情を歪めながら頭の中では商人らしく数字の足し引きをしているのだろう、何が必要でどう戦力を動かすのかどれだけの被害が発生するのか考えているのだ、たった一体の怪物を相手に動かす数は膨大なものとなる。
商会どころか国が傾くかもしれない、そんな数字をはじき出すと頭痛を感じてしまった。
「そうね、少なくとも海の上で戦うよりずっと現実的でしょう」
「はぁ……アタイたちは歌になるかもね」
「ふふ、そうなったら私が歌ってあげるわね」
怪物に挑んだ命知らずの愚か者としてか、それとも英雄譚となるのか、どちらにせよキグナスとしては面白い物ではない。
だがそれがどれだけ険しく困難な戦いであったとしても逃げることは出来ないのだ、身軽に動くには彼女の勢力はあまりにも大きくなりすぎた。
「まぁ、たかが怪物一匹だ……楽なもんさ」
そうやって敢えて強気な言葉で震える体と心を支えることによって立ち上がると、彼女は船の上にいる部下たちを見渡す。
誰もかれもが知った顔だ、キグナスの商会で働いて彼女が給料を与えてその家族すら腹を満たしているのだから生みの親よりも遥かに長い時間を共に過ごしている、彼らだけではなく港街の住人たちだって今や彼女の傘下にいる者が多い、その全ての命運を彼女が背負っているのだ、怯えているような状況や立場ではないだろう。
それに強気な言葉も決して嘘ではない、かつてこの国を作った先人たちが乗り越えて来た困難に比べれば怪物一匹程度という評価で十分だ。
他の誰よりも先に彼女がそう言わなければならないのだ、数百数千の部下を操り港を埋め尽くす船を保有して、それを運用できるだけの資金を持つ彼女だけがそれを許される。
人はそれを為せる者を王と呼ぶのだ。
かつての海運王がそうであったように、この時代においてそれが出来るのは彼女だけだ。
彼女はこの国の王なのだから、全てを率いる責任があった。
キグナスが目指す彼方の栄光を共に目指すのだ、怪物が邪魔をするのならば共に戦うのだろう、兵とは王に続くのだから。
「野郎ども港まで後退だ! 奴を迎え撃つよ!!」
どれだけ困難があろうともその先にしか未来が待っていないのならば突き進むしかない。
彼方にこそ栄光あり、キグナスは他の誰よりもその在り方を体現しているのだった。