商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
海が何かの力に引っ張られるかのように盛り上がって渦を巻き、そのまま空高く舞い上がって巨大な水の竜巻と化す。
「……まるで神話の存在だな」
そんな光景を見せつけられて海兵の一人がそう言った、渦巻く竜巻はそのまま空中で向きを変えて蛇のように蛇行しながら港へと突き刺さり、それは巨大な龍の咢が獲物を食い破るかのような勢いがあった。
濁流は防御壁を容易く貫通するとそのまま後方の櫓の一つを押し流して街まで流れていく、ぼっかりと空いた壁の穴は戦士たちの心すらも穿ったかのようだ。
サハギンの群れやクラーケンを相手にするのならばこんな恐怖を感じることは無いだろう、斬って刺せば生物らしい反応が返ってくるのだから。
しかしこれは違う、戦いという領域になく、鋼を振り回してどうこうできる存在ではない。
あまりにも一方通行で徹底的な力の本流だ、台風や津波や地震といった自然災害を人が止めることのできないように、塩の海賊が振るう力はそれに近いものがあるのだろう。
先程、防御壁を貫通した濁流の槍が今度は五つも形成されたことで嫌でも理解できてしまう。
あれには勝てない、と。
迫る濁流から逃れようと呆気にとられていた戦士たちが動き出すのだが、塩の海賊が放つ力の方が強く早い、それは悉くを押し流すかのように彼らを押し流す。
本来ならばそうなるはずだった、しかし形容しがたい音程と言語で紡がれる戦場に似つかわしくない歌がそれを阻んで見せた。
巨大な力の行使を同じように巨大な力で打ち消したのだろう、濁流は不可視の壁に衝突したかのように霧散して海へと帰っていく。
「あぁ……私の歌姫」
幽霊船の船尾近くにある操舵を握りながらその光景を見ていた塩の海賊が、感嘆したかのように溜息を吐いてその不可視の壁の向こうにいるローレライを視界に捉える。
なんと美しい女だろうか、なんと美しい声だろうか、なんと巨大な力だろうか、彼の骨の体にこびり付いた人であった頃の記憶がかつてローレライに向けていた思いを燃え上がらせていく、ほんの僅かに残った人間性が彼の手を動かすのだ。
彼が船の操舵を動かすとボロボロの船は風や波を無視したかのように動き出す、その先にいる彼の栄光へ向かって真っすぐと。
彼は既に人間ではなくアンデットの怪物だ、骨の体に海神が魂を括り付けてなんとか世界に存在していられる、そんな歪なあり方は魂を極限まですり減らしており、そこに残った僅かな思いだけが彼の原動力となっているのだ。
ローレライと、そして復讐、この二つだけが彼の世界の全てだった。
「愛しい女よ……共に行こう……この世の全てを海に沈めるんだ」
「……変わってしまったわね、前は共に沈もうとした私を突き飛ばしたのに」
体がアンデットと化したのだ、魂もまたそこに引っ張られているのだろう、理屈も理由も遥か遠くに流れて今や全ての生者の敵となっている。
アンデットになったばかりの頃は復讐に身を焦がしながらもまだ人間性が垣間見えたのだが、ローレライの目の前にいるのは完全な怪物だった。
幽霊船は海に浮かんだ残骸で船底をガリガリと削りながらも構うことなく進み続けていく、既にボロボロなので多少の損害は誤差のようなものだと考えているのか、それとも気にするだけの理性がないのか……おそらく後者だろう。
そのまま突き進んで穴が開いた防御壁に突っ込んでくる、しかし穴の規模が船に対して小さかったので二つの壁の間に挟まれるように船は停止した。
塩の海賊が骨の手を伸ばす、彼の人差し指と中指の間にローレライの姿があった、彼女は防御壁の後ろにある櫓の上にいる。
二人の距離はまだ遠い、触れ合うには絶望的な距離だろう。
誰も知らない言葉で歌が紡がれた、すると塩の海賊を中心とした空間が突然粘度を増して重くなる、まるで沼の中に沈んだかのように体が絡めとられて動きが鈍くなってしまった。
「死神よ、冥府の番人よ、その地に贄を送る力を与えたまえ」
粘度を増した世界でキララが幽霊船に飛び移って塩の海賊とは真逆の軽やかな体捌きで肉薄していく、沼の中を鮮やかに泳ぐかのように接近すると死神の力を乗せた刺突剣を彼の肋骨の隙間へと刺し込む。
相変わらず骨とは思えない金属のような感触が伝わってきた、魂をも穿つ研ぎ澄まされた一撃は確かに塩の海賊の内部へと進入するのだが以前と同じように先端だけで止まってしまう。
半神の力は前の戦いよりも強い、それでも結果が同じということは塩の海賊の力も増しているということだろう。
「ふぅーーーッ!」
体中に酸素を取り込んでからの追撃、右手の刺突剣は眼窩の奥へ、左手の刺突剣は捩じるように動かして更に肋骨の奥へと押し込むように力を込める。
骨の体では痛覚など存在しないのでどれだけ攻撃しようとも塩の海賊は気にも留めていないようだ、実際に彼はキララの存在を完全に無視しておりその視線は櫓の上にいるローレライに釘付けとなっていた。
死神の力を込めた刺突剣でどれだけ攻撃されようともその体はビクともしない、ただ海の力を最大限に操って防御壁に挟まった幽霊船を突き動かしていく。
ガリガリ、ゴリゴリと嫌な摩擦音が断続的に続いて最後には波を起こして船を強引に陸へと押し込んだ。
幽霊船は陸に座礁する形となってしまい、バランスを崩してそのまま斜めに傾いて横転してしまうのだが、それすらも塩の海賊は気にすることなく五感の全てを前に向けているらしい。
身体は腐り落ちている、しかし存在しないはずの目は彼女を見ていて、その耳は彼女の歌を聴いている、鼻は彼女の匂いを求めて、指先はその柔肌に触れようと伸ばされて、口は噛みつかんばかりに開かれている。
横転した船から飛び降りて彼は大地へと着地する、その瞬間に全身に張り巡らされて血液のように流れていた海の神の力がすっと遠のく感覚があったのだが……それでも彼は止まらない。
一歩進んではローレライの為、二歩進んでは己の為に、三歩進んでは復讐の為に。
「うああああああああああああ!!」
四歩目でその横顔を獣の咆哮と共に人狼となったシャーシャの大きな掌が打ち付ける、鋼の武器を思わせる鋭い爪と重く固いメイスで殴られたかのような衝撃が首から全身に広がるが……それでも彼の足は止まらない。
「このッ! 止まれ、止まれよ!」
シャーシャもキララも無視して更に進もうとする塩の海賊を人狼の膂力で殴りつけて蹴り飛ばして最後には掴みかかるのだが、巨大な獣を腰に巻きつけながらも塩の海賊は五歩目を大地に刻む。
その後に続くのは骸骨船員の群れだ、かつて海で死んだ戦士の成れの果てが塩の海賊に捕まって服従した結果がこのアンデットの群れなのだろう。
恐怖故か、それとも本能がそうさせるのか、勇敢な海の戦士だった彼らは自らの王、或いは神とも言うべき塩の海賊の道を閉ざす敵に向けて錆びついた武器を振りかざす。
海から陸に上がった瞬間に自分たちを構成する重要な何かが零れ落ちてしまったかのような感覚があったのだが、先頭を行く主に引きずられるように彼らもまた進み続けるのだ。
沼のように粘度の高い世界であっても関係がなかった、塩の海賊から伝播した思いが彼らにもあるのだろう、全ての視線が櫓の上の女に向けられている。
そんな彼らの道を阻むかのように海兵たちが取り囲む、彼らの手にはアンデットの眼窩の奥にあるどす黒い明かりとは真逆の、どこか清浄な雰囲気を感じ取れる輝きを宿した武器が握られていた。
「二人とも下がりな! 教会印の祝福を食らわせてやる!」
海兵たちを引き連れているキグナスの手にも同じものが握られており、それを見たキララとシャーシャは塩の海賊たちから慌てて距離を取る。
次の瞬間、清浄な力を宿したクロスボウから凄まじい勢いで専用の矢が放たれた、通常の弓よりも鋭く重たいそれは薄い鉄板程度なら簡単に貫けるだけの破壊力を持ち、そこにアンデットを打ち貫かんという祈りが乗せられているので更に鋭い。
鋼鉄よりもなお固い、そう思えるほどに頑丈な骸骨船員たちは、横殴りの雨のように自分たちに放たれる矢を受けて無数の火花を散らす。
教会で作られた祝福の武器は彼らを穿つことはできなかった、相手が生身の人間ならば今の攻勢で全滅していただろうが、彼らは骨で出来ているので肉も無ければ出血を起こらない、その骨の表面を削るかのように火花が出るだけだ。
しかし効果が無かったかと言えばそうでもない、矢そのものは大きな意味をなさなかったがそこに込められた祝福の力は確かにアンデットである彼らに届く。
血は流れない、だが彼らを構成する不浄の力は大きく削られた、それらは心臓を穿たれるよりもずっと意味のあるものだ。
骸骨船員の多くは不浄の力を失って関節ごとに崩壊し、その姿にふさわしい物言わぬ動くことのない只の骸骨へと戻っていく。
「はッ、死んだ人間がいつまでも未練がましくうろついてんじゃないよ!」
残った骸骨も祝福の武器で粉砕されていく、そんな様子を見届けてキグナスの視線は塩の海賊へと向けられた。
彼はまだ進もうとしている、自らの背後で骸骨船員たちが排除されようとも、やはり気にしていないようすだ。
「……待ちな」
そんな塩の海賊の背中に彼女は声を掛ける、やはり彼は振り向かない、ただ次の一歩を刻むだけで言葉は届かない。
「……もうアンタの負けだ」
「あぁぁ……ミーシャ」
会話が成立しない、彼は敵も仲間も世界すらも認識できていないのだ、キグナスの声が届くはずもない。
「……アンタはこの時代の人間じゃない、今を生きてる連中に迷惑をかけるもんじゃないよ」
それはどこか諭すような、聞き分けのない子供を窘めるかのような口調であった、或いは憐みなのかもしれない。
「迷うことなく冥府へ旅立てたらよかったのにね……かつての英雄がなんの因果かそんな姿に成り下がっちまって……馬鹿なもんだよ」
キグナスは塩の海賊が抱える怒りを知っている、裏切りという唾棄すべき行為の愚劣さを彼女はよく理解できる、実際にキグナスも同様の経験をしたのだから。
かつての塩の海賊もまた同様だ、信頼していた筈の同胞に毒を盛られて最後には骸骨のまま動くアンデットになってしまった……彼女はそれを憐れんでいる。
英雄の最後にしてはあまりにも残酷であり、これが憐れまずにいられようか。
「その怒りはわかる、その恨みも復讐も、アタイは否定できそうにない……だが私はこの国を守らなきゃいけないんだ、アンタがこの国の脅威だというのならばーーー」
そこで初めて、塩の海賊の足が止まった。
「打ち滅ぼす……この国の王として」
ギギギ、と錆びついた金属のようにぎこちなく塩の海賊は振り返った、その瞬間だけはローレライではなくキグナスを見つめている。
「あ、あぁ……ああぁ……お前が、王なのか……そうか……今もなお、この地は健在であるか……ああ、よきことだ……私の戦いは無駄ではなかったのだな」
塩の海賊は二百年前の戦いの日々を思い返す、感情や人間性と同時に零れ落ちてしまったので穴だらけの記憶であるのだが……ボロボロながらも僅かに残っている。
自らが忠誠を誓った王の下、愛する女と共に、国家に立ちふさがる脅威と戦う「英雄」であった頃の思い出を脳裏に浮かべて、彼は自らの手を見下ろした。
そこには骨の両手がある、国を守る為に武器や操舵を握る鍛えられた傷だらけの手ではない。
何もない、何も握っていない、ただフジツボがこびり付くだけでただただ空虚であった。
自分はこんな体になって何をしているのだろうか? 僅かに残った人間性がそんな疑問を自らに問いかける。
復讐を果たさなければならない、もう一度ミーシャに会いたい、もしかしたら死してなお王への忠誠を貫きたいのか……色々な理由が思い浮かぶのだが、それらにどれほどの意味があるのだろうか?
どんな大義名分……言い訳を述べようとも、意味がない。
彼は周囲を見渡した、ローレライではなく世界を認識したのだ。
彼を取り囲む無数の戦士たち、彼らは一様に武器を手にしてこちらに視線を向けており、誰もがどこか憐れむかのような表情を浮かべている。
これが英雄の末路かと絶望し、その怒りに同情して、その行為に怒りを覚えているのだ。
無数の憐みの視線の矢に晒されて、塩の海賊は自らの両手だけでなく胸元や腰や足へと目を向け、そして彼らと同じように自らを憐れむのだった。
これが俺の末路なのか、と。
船を操る逞しい両腕も、水平線を鋭く睨む両目も、甲板を駆ける両足も、ただの骨となっている。
「ああ、ああぁ……そうか、そうなのか……私は、死んでしまったんだな」
彼は振り返って櫓の上にいるローレライへと視線を向けた。
「……あれからどれくらい過ぎ去ったんだ?」
「……二百年よ」
「……それだけ経っても君は美しいままだな」
そしてその長い時間は、彼を怪物へと変えてしまった。
彼はもう一度、自らの体を見下ろしてその有様に溜息を吐く。
「私は……随分と、醜くなってしまった」
こんな化け物が堂々と暴れまわっていいはずがない、かつての自分ならば間違いなく排除したことだろう、彼は英雄だったのだから。
終わらせなければならない、それが彼に残された人間性が出した答えなのだが、それを許さないとばかりに彼の奥底から炎が燃え上がる。
「裏切りは許されない……いや、そうじゃない……でも、私は……違う、不義の清算は血を流して……復讐はもう……違うんだ、そうじゃないんだ……ただ、最後の別れを……私は、私は……あああぁぁ」
怪物と英雄が彼の中でせめぎ合い、最後に彼は周囲を取り囲み戦士たちにこういった。
「ああ、長い航海だった……英雄たちよ、終わらせてくれ」
それは英雄としての言葉なのだろう、そして怪物としての彼は錆びたサーベルを鞘から抜き放ち構えて見せる。
「あぁ、受けてたつともさ!!」
英雄を代表してキグナスがそう答えると、彼女に続くように戦士が駆け出す、怪物を倒すのはいつだって英雄なのだから誰よりも早く彼女は駆け出した。
塩の海賊はまずキグナスと切り結ぶ、二度、三度、そして一呼吸遅れてやって来た戦士たちの槍や剣をサーベルで受け止めて切り返す。
しかし無数の鋼をたった一本のサーベルで受け流すのは不可能なのだろう、骨の体は鋼の攻撃を受けて火花を散らして引っ掻いたかのような傷を残した。
美しくも恐ろしい、ローレライの歌が戦場に響くと戦士たちの力が増して塩の海賊の体は重くなる、そんな状態であっても彼はサーベルを振るうことを止めたりしない。
肋骨に強い衝撃、人狼の人間離れした一撃だ、次はキララの死神の力が込められた刺突剣が襲い掛かり、その次は祝福の武器が彼の力を削り取っていく。
無数の鋼を、そこに上乗せされた力を、それらを動かす意思を受け止めながらも、塩の海賊は倒れない。
サーベルを振り下ろす、槍に突かれる、サーベルを薙ぐ、剣に斬られる、サーベルで受け止める、刺突剣が眼窩に刺さる、サーベルを振り回す、人間離れした力で殴られる、それでもサーベルを振り回して、浄化の力に晒されて、なおサーベルを握る腕は動き続けていく。
何度も何度も何度もその身に英雄の攻撃を受け入れて、何度も何度も何度もサーベルで切り返す。
この戦いに終わりなど存在しないのかもしれない、全ての攻撃をその身に受けながら膝をつくこともなく戦い続ける塩の海賊を見せつけられて誰もがそう思った。
まさに不死身の怪物だ、鋼も魔術も祝福も致命傷には程遠い。
これを消滅させるには、まさに神の力がなければ不可能なのだろう、キグナスもキララもシャーシャもローレライも、そして海兵たちもそれを理解していた。
そこへ至るにはこれだけの戦力を用意してもなお遠い、塩の海賊は彼ら彼女らが用意した数の全てを受け止めても戦い続けている。
故に、この戦いを終わらせるには塩の海賊を縛る契約を打ち切る必要があった、契約神の力が込められたそれはまさに神の力なのだから。
その一撃を放つのは誰か、それはキグナスでもキララでもシャーシャでもローレライでもない、まして海兵たちでもない、これらの戦力は塩の海賊の目の前にいて彼の警戒の中にいるのだ、その視線を、その武器を、彼はしっかりと見つめている。
ならば契約書へと届きうる一撃は、彼の警戒や認識の外から放つほかないだろう。
この一撃は、塩の海賊から最も離れた位置から、最も警戒されていない人物が行うことになる。
塩の海賊を中心とした戦場からおよそ三百メートルほど離れた位置、潮風が激しく打ち付ける港の灯台の上、そこに弓を構えたキャロルが静かに立っていた。
「……」
キャロルの位置からは戦場が一望できるようだ、弓兵特有の鋭い視力が細部に至るまで認識しているのだ、防御壁の上でサハギンを切り倒すシャルルや櫓の上で魔術を行使するエミリー、戦線を支える全ての戦力を見下ろしながらキャロルは風の流れを予測する。
頬にバサバサと髪が当たって邪魔をしている光景から、それだけ風が強いということが理解できてしまう、射手にとって風は味方にもなるが敵にもなるのだが……この状況ではおそらく後者だろう。
それでもだ、キャロルは弓に矢をつがえてそれを暴れまわる塩の海賊へと向けていた。
ふう、と深呼吸をしてから息を止めて体のブレを止める、そのまま矢を放とうと集中力を高めていくのだが、彼女はその途中で構えを解いてしまう。
おそらく命中しない、矢を放つ前からそれが理解できてしまったのだ、キャロルは吸い込んだ空気を吐き出して潮風に身を任せる。
彼女は弓を扱って戦う戦士だ、風と距離と周囲の状況から未来予測は容易く、これは当たらないとある程度はわかるのだ。
キャロルの技量が低いわけではない、そもそも位置が高いとはいえ三百メートル離れた場所から人間の胸元へ一センチの誤差もなく矢を放つなど不可能だろう、自分の実力はそこまで高くないと彼女は断言できてしまう。
この不意打ち作戦を聞かされてキャロルは不可能だと思ったのだが、キララは断言するかのように貴女ならできると言ってのけたのだ。
そんな無茶なと思わなくもなかったのだが、結果的に彼女は灯台の上にいるのだから最後には受け入れたのだろう。
期待に応えたい、その一心で弓を握っているのだが、これで構えを解くのは三度目である。
ふう、ふう、と浅い呼吸を繰り返して四度目の矢を弓に重ねるのだが……やはり未来予測の結果は悪い物だった。
「……だめ、もっと集中する」
今のままでは百回打っても当たらないだろう、言葉の通りもっと高い集中力が必要になってくる。
瞼を閉じて深呼吸、耳や肌から感じる風の流れを感じ取りながら集中力を高めていく、五感の全てを最大限に鋭くしてもまだ足りない。
もっと鋭く、より高く。
思い出すのは以前にカムラーンとぶつかった神殿での戦いだ、あの時のキャロルは一時的にだが半神と化しており、龍をも打ち落とせるかもしれない力を放っていた。
あれと同じ領域の力を求めるのは高望みなのかもしれないが、せめてその十分の一ほどの力があればこの矢を放つことができるだろう。
あの感覚を呼び覚ます、一度経験した道を再び歩むのだ。
集中力を高めていくと潮風の音がより近くなり、自らの内臓の音すらも感じ取れるようになっていく、血管を流れる血の流れは大河のように大きく、心臓の高鳴りは雷鳴であるかのようにうるさい。
それでもまだ足りないと判断したのか深呼吸をしてからキャロルは呼吸を止めた、その段階になるとあれほどうるさかった音はどこか遠くへ消えてしまう。
心臓は止まってしまったかのように無音、血の流れも同様だ、肌を撫でる潮風もまた遠く感じられた。
「弓神よ、射手の王よ……我は汝の化身なり、この体に、この弓に、悉くを撃墜する力を与えたまえ」
神への祈りと聖句が自然と口から出て言葉になっていく、そしてキャロルは矢を塩の海賊へと向けた。
「この身に降りたまえ」
残念なことに神殿で祈った時のように光の柱に包まれて半神と化すようなことはなかった、しかしキャロルの体はあの時の感覚にかなり近い、今ならば三百メートルという射手にとって絶望的な距離は目前に思えるだろう。
キャロルは瞼を開く、もう彼女の認識する世界は止まっていた。
風も、距離も、時間すらもそこには存在しない、ならばこの一撃は必中だろう。
彼女は確信をもって矢を放つ、予想通り一切の乱れなく矢は彼女の手元を離れていく。
それはさながら夜空を切り裂く流星のようだ、一本の線を引いたかのように戦場の中心へと突き進んでいった。
矢は光の尾を伸ばしながら一ミリの誤差もなく吸い込まれるように塩の海賊へと届く、ひび割れて欠けた肋骨の隙間、その奥にある海藻や小魚の更に向こう、本来ならば心臓のある位置に隠された契約書を穿って見せる。
その結果に驚きはない、当然だろう、その矢は構えた瞬間に当たることが確定していたのだから。
「……はぁ」
キャロルはたった一射で体力を使い切ったのか、汗だらけのまま灯台の床へとずり落ちるように体を預けて、そしてそのまま眠るように瞼を閉じる。
後のことは他の者に任せよう、キャロルは神の力が世界に広がるのを感じながら意識を失うのだった。
その一撃が穿ったのは一枚の契約書、契約神の力がこれでもかと注ぎ込まれたそれはこの世で最も破ってはいけない繋がりである。
神の力が契約に関わる全てに降り注ぎ、この世界と人に途方もないほど強く固い縁を結び合わせる、それは運命とさえ呼べるほどに強固なものであった。
神の力によって作られる縁、それを破るということは、つまり神に背くことに他ならない。
故にこの現象は何も不思議なことではないのだ、神の怒りに触れたのだから納得さえできてしまう。
塩の海賊の遥か上、晴天の空に突如として暗雲が立ち込めると戦場は太陽の光が差し込まない暗闇に覆われていく、そして先程まで止まることなく戦っていた戦士たちは一様に武器を投げ捨てて争いを中断することになる。
「……ひッ!?」
後方でケガ人の搬送を手伝っていたミカエラはその力の高まりを感じ取って悲鳴と共に頭を抱えて座り込む、彼女だけではなくその場にいた多くの者が何かから逃れるような動作をしていた。
「やばい、逃げるぞ!」
シャルルは目の前のサハギンを切り倒してその場を後にしたようだ、サハギンやクラーケンも同様に海の底へと逃げるように帰っていく。
「あぁ……神よ、お許しください」
信心深いエミリーは櫓の上で跪いて神への祈りを捧げていた、その力の高まりに震えながらもどこか高揚しているかのようだ。
「全員すぐに持ち場を離れるんだ!! 塩の海賊から距離を取れ! 全力で走るんだ!」
キグナスの指令を聞くまでもなく海兵や傭兵は全力で駆け出していたようだ、キララもシャーシャもローレライも全力で走っている。
神の意志が、その力が、戦場を埋め尽くして蹂躙していく、その中心にいるのは塩の海賊であった。
彼は逃げ惑う相手の背中を見送ると、その顔を上げて空を……いや、天を仰ぐ。
「あぁ……長い航海だった」
神の雷が降り注いだのは、それから一秒後のことであった。