商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
プロローグ 聖都リーグロンデルの最奥
神の膝元と呼ばれる空間は世界にいくつか存在するとされている、有名な所は神都にある大神殿や森深いエルフの国にある世界樹の根本だろう、その他にも世界一の標高を誇る山脈の頂上や海の中にポツンと浮かぶ島の中央、もしかしたら海の底や空の果てにすら存在するのかもしれない。
人々が神との対話を行う、或いは神々の世界の玄関と考えられているその場所は神々によって作られた空間であり人の領域にはないとされている、遠い遠い遥か昔、まだ神とそれ以外の距離が近かった頃に人知れず存在し、何千年という時間が過ぎ去ろうとも朽ちることなくそこにあり続けている。
神との対話を望む者や巡礼の旅を行う者はそこを目指していると言ってもいい、様々な苦難を乗り越えて徳を積み重ねて、その旅の報告をした結果神々に認めて貰えれば聖人と呼ばれることになるのだ。
そんな神聖で不可侵な神の膝元だが、最も有名で足を運びやすいのはやはり神都の中心にある大神殿だろう。
遥か昔、世界が生まれた時に神の膝元も生まれたのだが、この大神殿に限っては少しだけ経緯が違っている、そもそもこの聖都はかつて悪魔の軍勢と天剣の勇者が戦った生々しい傷跡が残る戦場に作られたのだ。
そんな血と魂が染み渡る場所に何故神の膝元が出来たのか、そしてそれが街となり聖都と呼ばれるようになったのか、それは天剣の存在が大きい。
聖都の中心にあるのは大神殿だ、しかしその大神殿は人の手によって作られた、そこに存在するある物を包み守るように。
この聖都はそして大神殿はそこを中心に作られて生まれたと言っても過言ではないのだった。
コツコツと大理石の床を叩く足音が神聖な空間に響く、早くもなく遅くもなく規則正しい足並みはよく鍛えて様々な経験を積み重ねた者特有の慣れがある、ただ歩いているだけと言えばそれまでだが確かな凄みがあった。
体幹は微塵も揺るがない、固い巌のように大きく鍛えられた体はどれだけの鍛錬を積み重ねて来たのかを言葉にせずとも雄弁に物語っている。
逞しい体に白銀の輝きを宿した美しい鎧、そして腰には祝福の光を封じた聖剣がぶら下げていれば誰もが頭に思い浮かべる聖騎士そのものと言えるだろう。
そう、彼はこの聖都と大神殿を守る聖騎士の一人である、秩序と法と正義の番人なのだ。
ただ残念なことに彼の顔は赤く吐き出す息は酒の香りを含んでおり、ほろ酔い気分で神殿の廊下を突き進む姿は人々の理想像にある聖騎士とは大きく乖離しているのは間違いないだろう。
年齢は四十歳を少し過ぎた辺りか、酸いも甘いも知って多くの喜びも悲しみも経験したであろう彼の顔つきは多くの皺と傷が残されており歴戦の気配を漂わせていた。
まぁそんな凄みのある顔つきもほろ酔い気分では台無しなのだが、酩酊状態であっても体幹はしっかりしているのだから日ごろの訓練の賜物なのかもしれない。
「聖アントニウス!! 貴方はまた酒の匂いを漂わせて!! 少しは聖騎士団の代表という立場とその影響力をご自覚なさってください!!」
アントニウス、そう呼ばれた男を怒鳴りつけたのは大神殿の最奥で待ち構えていた一人の女性だった、アントニウスと同様に白銀の鎧と聖剣を纏っているので彼女も聖騎士なのだろう。
「おお! 聖アンジェリーナ!! 相変わらずお堅いことで……いや、すまんすまん、そう睨みつけるな」
「しかも任務の引継ぎ時間も五分遅れです……私がこの五分の間に貴方を何度頭の中で叱りつけたかお分かりですか?」
「なら説教はもう必要ないな、任務ご苦労! すぐに引継ぎを行おう」
「……ぶっ飛ばしますよ?」
「まぁまぁ、そう凄むな、せっかくの休暇なんだから存分に楽しんで何が悪い。英気を養ってこそ日々の任務をしっかりと果たせる……君のように休日も訓練に費やしているといつか心がすり減って立てなくなるというものだ」
「聖騎士団長の休日まで口を挟むつもりなど毛頭ありません! 酒を飲もうとも歓楽街で娼婦と過ごそうとも自由です、ええ自由ですとも!! この大神殿にまで酒の匂いを漂わせて顔を赤くしたままやって来なければ五分程度でこうも怒ったりしません」
さらに続けて口を開こうとしたアンジェリーナはそこでスンッと鼻を鳴らす、そして眉間に皺を寄せてしまう。
「聖アントニウス……貴方まさか、歓楽街からここまで真っすぐ来たのですか?」
「ん? おお、今回の相手はなかなかに強敵でな、まだ若い娘たちだったが淫魔のように搾り取ってきて、成敗するのに朝までかかってしまったのだよ。いやぁ。祝祭が近くなるとキャラバンやら何やらが多く集まるから色々と目移りしてしまった」
ガハハと自慢するように笑ったアントニウスにアンジェリーナはがっくりと体を揺らした。
「酒の匂いだけでなく汗の匂いも酷い……せめて体を拭いて来るとか」
「言っただろ、強敵だったと……実は一睡もしてないんだなこれが」
そこでアンジェリーナの表情が鋭くなり射殺さんとばかりに睨みつけてくるのだが、ほろ酔いの男に何を言っても無駄だと悟ったのか大きく溜息を吐いて表情を解す。
「はぁ……任務の引継ぎはもう少し後にします。聖アントニウス、湯浴みを済ましてください……後、酒と汗の匂いを流すように」
「了解しました聖アンジェリーナ! お言葉に甘えさせてもらいましょう! よければ君も一緒に如何かな? 任務で一睡もしていないだろうし不浄の輩の匂いも漂っているみたいだが」
「……私は任務の引継ぎを終えた後に済ませます、早く行ってください」
「君は真面目すぎるなぁ、いかんぞ、若いうちに遊んでおかなければよい大人にはなれん、人生などあっという間なのだからもっと有意義に過ごして徳と経験を重ねないとな」
「酒と汗の匂いを纏いながら仕事場に来るような大人にはなりたくありません」
「真面目な上につまらん返答だなぁ……まぁまぁ、戦いと訓練だけが人生ではないのだ、いっそ娼婦の神の神殿で奉仕活動に参加してみたらどうだい? それならばオジサンがお客の第一号になろうじゃないか!」
「ええい!! さっさと風呂に行きなさい!! それとも私が力づくで放り込みましょうか!?」
「つまり一緒に風呂に入るということか!? それは素晴らしい!! 昨晩は寝ずの交わりで少々疲れていたが君が相手ならば私はまだまだ元気だからどんと来るがいい!」
白刃が煌めいた、アンジェリーナの腰にぶら下がった聖剣が抜き放たれて敵を切り裂いたのだ。
眼前にいたアントニウスに向けた刃ではない、その背中の向こうに現れた黒い靄のような物を彼女は切り裂いた。
アントニウスもその動きを予期していたのか半身になってアンジェリーナの視界を広げると目の前を通り過ぎた聖剣を黙って見送っている。
「あぁ、もう……最近はやけに多いですね」
「あれで何体目だ?」
「八体目です、今夜だけでね……いえ、九体目ですかね」
二人は神殿の廊下の向こうから迫りくる気配に眉をひそめた、そこに現れたのは半透明の体を持つ幽鬼であり、悍ましい叫びと共にこちらへ進んでくるのが確認できてしまう。
「妙な事態だ、聖なる結界に守られた神の膝元に幽鬼が現れるとはな……」
「異常事態ですとも、だというのに貴方はほろ酔いで任務に就こうとしている……恥を知りなさい恥を」
「がはは、まぁそう怒るもんじゃない、すぐに風呂を済ませるからもうちょっと待ってくれ」
そう言ってアントニウスは聖剣を抜き放ち幽鬼を容易く切り裂いた、酩酊していてもその刃に曇りはなくブレもない、何千何万……きっと数えきれないほどに繰り返した動きだったのだろう、その一閃は剣士の完成形だった。
「んじゃぁ、悪いけどもう一時間くらい待っててくれ」
「随分と長風呂ですね……はぁ、十分で済ましてください」
「おう、まぁ努力しよう」
またガハハと笑ってアントニウスは神殿の奥へと歩いて行った、そんな彼の背中を見送ってからアンジェリーナは何度目かの溜息を吐き出した。
神聖なる大神殿に脅威が迫っているというのに酒に酔っている上司に憤っているのだが、感情を制御できない者は未熟だと言い聞かせながらなんとか落ち着きを取り戻していく。
彼女の背後には決して汚される訳にはいかない聖域があり、そこへ踏み込ませない為にアンジェリーナが守りについているのだ。
元々、この大神殿の警備は聖騎士の任務の一つなのだが、先の幽鬼を見てわかる通り今は普段とは大きく状況が異なっているのだろう、最低でも一人の聖騎士が不寝番についている。
昨日はアンジェリーナが、本日はアントニウスがその任務を果たすのだが、彼は優雅に風呂に入っていた。
また自然とため息が出てきてしまう、心のささくれを鎮めるかのようにアンジェリーナは背後に振り返ってその場に跪くと、頭を垂れて祈りを捧げていく。
彼女の前にあるのは神殿の最奥へと続く唯一の入口があり、そこは固くて分厚い上に強固な魔術が込められた大きな門がある。
「天剣の勇者様、そして天におられる神々よ、今日もまた朝日に照らされる一日を与えてくださり感謝します」
その門の向こうにある天剣は、人知れず輝きを放ったことを彼女は知らない。
ふぅーっと呼吸を整えてアンジェリーナは心を落ち着かせていく、決まった時間にしか拝むことしかできない聖都の中心にして心臓であるその場所には、かつて勇者が振るって悪魔と戦った神々の剣である天剣が今も変わらず大地に突き刺さっているのだ。
あれから何千年という時間が過ぎ去ったというのに朽ちることなくかつての姿を残しており、最後の一撃を放ったまま時が止まったかのように変わらずここにある。
それが神の膝元へと変化した、元々はただの草原でしかなかったこの場所が神聖な空間になった訳がそれなのだ。
つまり、大神殿にある神の膝元は世界と同時に生まれた訳ではなく、天剣が大地に突き刺さったことにより後天的に生まれた場所ということになる。
そして聖騎士とは聖都を守る為に存在している、それも間違いないのだが正確には最奥に突き刺さっている天剣の守護者であるという方が正しいだろう。
アンジェリーナも、アントニウスも、その他の聖騎士も、天剣を守る為にここにいる。
「……はぁ」
その使命と名誉を軽んじてほろ酔い気分で任務に就く上司がいるのだから、アンジェリーナから絶えることない溜息が出るのも無理はない。
だというのに聖騎士としての力は一流なのだから質が悪い、彼女の不満は溜まるばかりだった。
アンジェリーナの持つ聖剣が一際強く輝くと、彼女の足元に縋りつこうとしていた幽鬼の残り香と言うべきものが掻き消えていく。
だが、また新しい邪悪な気配を感じ取って、彼女は癖になりつつある溜息をもう一度吐き出した。
次の休暇は訓練ではなくのんびり過ごしてやる、そんな思いを込めて彼女は聖剣を振り下ろすのだった。