商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
周囲に甘い香りが漂っている、それは獣が嫌う香りだ。
それも一カ所からではない、キャロルたちが潜む山々に置かれた獣除けの香は、山全体に広がるかのように無数に配置されている。
大量に置かれてはいるが、しかし無秩序ではない、山を俯瞰して香りに色を付けて観測すれば、それがある種の檻のように広がっていることがわかるだろう。
こんなことをすれば周囲の獣は一斉に逃げ出してしまうが、元々、呪い付きの牡鹿の存在もあって獣たちが姿を消して久しく、この香りの結界はまさにその牡鹿を封じ込めるだけの罠であった。
触手を束ねる眼球が操作する牡鹿に獣除けの香が効くのかどうか怪しい所ではあったが、いかに体を支配しようともその本質は牡鹿……獣でしかないので効果は抜群であった。
牡鹿の足で駆け、牡鹿の鼻で匂いを捕らえ、牡鹿の耳で音を拾っているのだ、ならば牡鹿の鼻で匂いを吸い寄せてもおかしくはない、実際に呪い付きの牡鹿は香りの結界に阻まれて普段通りに動くことができないらしい。
無数に配置された獣除けの香は檻であり、罠でもある。
この日の為にガルグが用意した大量の蝋燭が煙と匂いを放ち、それが山を縦横無尽に駆け回る牡鹿の行動に大きな制限をかけているのだ。
獣が獲れないことで困っているのは何も猟師だけではない、肉や毛皮の供給が細くなって困惑している宿場町の男たちが、事前の打ち合わせ通りに蝋燭を配置して香りの結界とでもいうべき状況を作る。
ただ彼らの仕事はそれだけだ、普段は農作業や宿場町で働いている彼らに戦う力はない、なのでここからはガルグとアラン、そしてキャロルの出番であった。
甘い香りが山に立ち籠る、それが風に乗って徐々に牡鹿に迫ることで、更に相手は動きにくくなる。
そうやって相手を追い詰めて、自分たちが待ち構えている場所に誘導する、これが今回の作戦であった。
「それじゃあキャロル、こっちも気を付けてね」
「ん……アランも気を付けて」
ガチャン、と音を立ててアランが大きな罠を仕掛け終わった、まるでサメが大きく口を開いているかのような凶悪な罠が周囲に置かれている、キャロルは木影に隠れながらそれらを見渡した。
少し離れた位置にガルグの姿もある、キャロルと並び立つような場所ではなく、少し位置がずれているのは牡鹿を十字に挟む形にする為である。
どちらか片方が牽制であり、もう片方が本命だ、その辺のことは牡鹿の動きにも左右されるので決まってはいない、臨機応変に対応しようとの方針であった。
アランは罠を設置すると、風の流れを感じながら風下を探して足音もなく姿を消していく、その手にはキャロルと同様に弓が握られており、彼もまた自らの配置に付いた。
三人がそれぞれの場所で姿を隠しながら身を潜め、僅かな身じろぎもすることなく静止しているようだ、呼吸すら最小限であり、風の流れや太陽の動きによって位置を変える影に注意しながら山に溶け込んでいることがよくわかる。
獲物を待ち構えることも仕事である猟師の二人は慣れたものだ、ガルグは勿論のこと新米のアランですら身に着けている技術であり、キャロルもまた上手くできていた。
そのまま数分が過ぎる、ただ静かな風の流れを感じるだけの時間が過ぎていく、あまりにも静謐な空間であったことだろう。
獣もいない、なんだったら虫すらいない、三人の人間は極限まで存在感を山に重ねており認識が難しい。
そんな静かな時間の中、アランの視線が少しずれた位置にいるキャロルに向いた、油断している訳ではないが思わず目で追ってしまったのだ。
キャロルもまたそんなアランの視線に気が付いて瞳を向ける、すると彼は気恥ずかしそうに顔を赤くしてしまう。
昨日、あれだけ交わったというのに、まだ恥ずかしいらしい。
キスもした、舌を絡めた、そしてセックスもした、二人は恋人でも夫婦でもないが、男女関係においてとても重要な意味を持つ交わりを済ませてしまっている。
女の体を知って一つ成長したかと思うのだが、アランは未だに初心さを失っていない。
可愛らしい少年だ、キャロルはそんなことを思う。
あの小屋での甘い一時からアランはどこか浮足立っているようにも思える、師匠にもそう感づかれておりなんだったら自分自身も落ち着きがないと理解している。
セックスの余韻が引いて山頂から山の地形をキャロルに説明している時も、下山中に俯瞰しただけではわからない山の構造を注意している時も、宿場町に戻って罠の工作をしている時も、やはり落ち着きがない。
仕事を終えて家に戻り、母親が用意してくれた食事を平らげて部屋に戻ってから……昼間の情事を思い出して彼は自慰をした。
十分足らずで四度も射精した自分の肉竿は、そんなことは知らんとばかりに聳え立ち、結局そのまま深夜になるまで慰めていたのだった。
キャロルが彼の体を活性化させたことも原因の一つではあるのだが、それ以上に若く生命力に満ちた体は初めての快感を忘れることが出来ずに更に求めようとしたのだろう、何度も何度も射精したが、満足できなかったのはこれもまたキャロルが原因だ、最早彼は一人では満足できない体になってしまったらしい。
作戦行動中だというのに寝不足と興奮が合わさって妙な気分になってしまっている、眠りこける心配はないのだが股間が熱くなるのを止めようと必死になっているようだ。
自分のミスは全体のミスになる、そう言い聞かせながらなんとか下半身に集まろうとした熱を振り払う、女にうつつを抜かして作戦を破綻させれば待っているのは師匠による制裁なのだから必死にもなる。
それでも視線はキャロルに向かうのだから、若さとは難しいものであった。
アランは自らの興奮と責任感に挟まれて葛藤しているようだが、キャロルはそんな彼を面白そうに眺めるだけであり、それでいて意識の大半は作戦に向けられている。
彼にとっては青天の霹靂とさえ言える衝撃であっても、彼女にとってはセックスなど日常なのだ、狼狽えようがない。
処女を失った時でさえアランのように動揺しなかった、幸いにも体の相性が良い上に行為にも慣れた相手だったので苦痛は最小限に済んで、後は溶けるような快楽に酔いしれた。
最初は小遣い稼ぎとしか考えていなかった娼婦の仕事を楽しむようになったのは、初体験の印象が良かったからだろう。
興味があったことも大きいが、何より楽しかったことが大きな影響になっており、房中術を知ってからは更に楽しんでいる、初心な少年の葛藤や興奮や若さゆえの熱量もよくわかるので、茂みで狼狽える彼の姿はとても面白いものであった。
もう少し眺めていたい気分であったが、彼女がここにいるのはアランをからかう為ではなく、戦力として期待されているのだから、浮ついた気持ちは静かに消えていく。
「……ーーッ!!」
ここ最近、魔力を知覚してからというものの、以前よりも鋭くなった聴力が僅かな異変を感じ取って、静謐な山の中で響いたその音にキャロルは意識の全てを引っ張られる。
彼女の鋭い聴覚が拾い上げたのは小枝を踏んだかのような音であった、まだ遠いがその音は今も断続的に続いているようだ……この獣も虫もいない山の中で。
キャロルがハンドサインをガルグとアランに送る、彼女が指し示した先は想定通り山頂方面であった。
ガルグの目が茂みの中で鋭く細められた、少し遅れてアランもようやく仕事に意識を持っていくと、それから数秒後には音が明確に感じ取れる距離にまで相手が近づいきた。
音の主はやはり呪い付きの牡鹿だ、煙の檻を嫌がってキャロルたちが潜伏している場所まで駆け下りて来たのだろう。
獣除けの香はただ牡鹿を逃がさない為だけの物ではない、囲むのではなく追い詰めるように配置されており、それによって牡鹿の行動範囲が制限されていく。
つまり、山を縦横無尽に駆け巡る牡鹿の行動を誘導しているのだ、三人が潜伏している場所へと偶々やって来たのではなく、これは想定通りの動きである。
相手の行動がわかればその進路上に待ち伏せることは容易い、そこに罠を配置することもまた簡単であった、いかに健脚を誇ろうとも香りという不可視の壁によって作られた道を進むことしかできないのならば意味がない。
その道は右へ左へ跳ね回るにはあまりにも狭かった、そして巧妙に隠された罠は牡鹿の前足を確かに挟み込む。
地面に置かれたトラバサミが牡鹿に食らいついたのだ、海面から頭を出したサメの咢のようにしっかりと相手へ食い込んだ。
これで動けない、地面にしっかりと固定された罠が相手の自由を更に奪う……しかしそんな想像は数秒後に崩壊してしまう。
引きちぎれないようにと固定されていた罠を、牡鹿はあろうことか力ずくで引き抜いた、食い込んだ刃が当然ながら肉を抉るのだが、そんなことはお構いなしだった。
罠を破壊されてしまった、牡鹿は……いや、牡鹿を操っている触手を束ねる眼球は静かに視線を周囲にやって、巧妙に隠れている下手人を探し出す。
その眼球に赤い輝きが宿る、そして恐怖を増長させる波動を放とうとした瞬間に、アランが茂みから飛び出して相手の注意を誘い出す。
これもまた決まっていた流れだ、牡鹿と眼球の視線が彼へと集まると、同じように身を隠していたガルグとキャロルはアランとは対照的に音一つ立てることなく矢を放つ。
一射目はガルグだ、猟師として生活してきた経験による慣れた動作で、一切の淀みなく神殿で受け取った祝福の矢を放ち、それから一呼吸おいてキャロルが矢を放った。
牡鹿の正面にはアラン、その左右にガルグとキャロル、放たれた二つの矢は交差するような軌道で牡鹿へ迫る形になるだろう。
先駆けとなったガルグの矢を牡鹿は健脚を披露するかのように跳ねて回避を試みるのだが、足に罠をぶら下げた状態では難しいのか中途半端な姿勢で固まってしまう。
なので首を大きく振り回して立派な角で矢を迎え撃つ、しかしそれではキャロルの矢に対処することができない、その隙を埋めるのが触手を束ねる眼球だった。
以前と同じように群がる触手を剣山のように周囲へ突き出した、それは傍から見ればハリネズミのような形だ、その粘液を纏った触手がキャロルの矢を阻む。
「------!!」
そうなるはずだった、しかし触手に矢が触れた瞬間に、眼球は神経が焼き切れるかのような激痛に襲われることになる。
火に水をぶっかけるかのように、太陽が夜を消し去るかのように、マグマが全てを飲み込むかのように、触手を構成する細胞が掻き消えてしまった……いや、蒸発したと表現しても良い。
消滅の瞬間に感じ取ったのは強い祈りと祝福、呪いである眼球を消し潰す天敵の力だ。
痛い、怖い、嫌だ、もし言葉にするのならばそんな所か、そもそも言語かどうかすら怪しい不思議な声色と音程の咆哮は、まさに祝福の矢が効果覿面であることの証明だろう。
矢を阻む筈だった触手は蒸発してその勢いを削ぐことが出来なかった、矢は触手の壁などなかったかのように突き進み、その向こうにある大きな眼球へと突き刺さったのだ。
牡鹿の体が激痛にのた打ち回る、触手は更に激しく蠢いて闇雲に突き出されては引っ込んでを繰り返しているようだ。
祝福の矢は眼球を穿ったが牡鹿までは届いていない筈だ、それでも牡鹿が痛みで暴れまわるのはそれだけ両者の繋がりが深いということだろう。
「なんか……思ってたより呆気なかったですね」
「当たり前だ、どれだけ準備したと思っているんだお前は」
場を整え、装備を調達し、戦力を揃えて、状況を合わせて、作戦を考えて、罠で待ち構える、これだけ準備したのだから、この結果も必然だろう。
アランは余裕を残しての勝利を呆気ないと言ったが、これだけ有利な材料が揃っているのだから何も難しいことはない……逆に言えば、これだけ用意しなければ危険な相手でもあったという証明でもあった。
もしガルグだけで対処しようと思えばおそらく敗北していただろう、そこにアランが加わってもおそらく変わらない、手数と言うのはそのまま結果に結びつくのでここにキャロルの存在は外せないのだ。
相手の注意を誘うアランと、牽制する為のガルグ、そして絶対に外してはならない一撃を確実に決める切り札のキャロル、この三手が必要だった。
対処を一歩でも間違えれば結果は変わっていただろう、きっと触手を束ねる眼球は先程のアランと同様に「呆気ない」と思ったのかもしれない。
勝利の女神は、しっかりと準備した三人に微笑んだということだ。
「-------」
だが相手もこのまま息絶えるかと思えばそうでもない、祝福の力にその身を焼かれながらも、ただ敗北に潔く甘んじるような存在ではなく、冥府へ道連れにするかのように蠢く触手を伸ばした。
老人は眼中にない、若い男は薄い、だからこそ呪いの眼球がその触手を伸ばしたのは三人の中で最も多くの魔力を蓄えたキャロルであった。
三人にも油断があったのだろう、呆気ない勝利に緩みがあったことも否定できない、祝福の力を打ち込んだので呪いを打ち消すことができたと考えてしまい、そこで注意が散漫してしまっている。
「ーーッッ!?」
「キャロル!?」
伸びる触手にキャロルの腕が巻き込まれてしまった、突き出ては引っ込んでを繰り返す触手群からはある程度の距離を取っていたのだが、突然に触手を長く伸ばしてキャロルを……正確には彼女が貯め込む魔力を求めたのだろう。
或いは、痛みと消滅の恐怖から逃れたかったのかもしれない、どうであれキャロルの手を引きずり込んで触手を束ねる眼球はその魔力を奪おうとした。
牡鹿は今も激痛に暴れている、そこにキャロルと言う余分な重量が加わったことで、大きくバランスを崩してそのまま斜面を滑り落ちてしまう、体重差があるので当然ながらキャロルを引きずったままである。
「マズイ!! 手を伸ばすんだ嬢ちゃん!!」
アランとガルグが引きずられながら斜面を転がろうとしたキャロルに手を伸ばすのだが……届かない、爪先が引っかかっただけで引き寄せるには至らなかった。
牡鹿に寄生した触手と眼球は粘液を垂れ流しながら山の斜面を滑り落ちていく、キャロルを引きずったまま。
「ッ!! このッ!!」
昨日と同じようにキャロルは触手を断ち切ろうと腰にある鉈に手を伸ばすのだが、手ごたえを感じることなく空ぶってしまう、どうやら引きずり回されている間に失ってしまったらしい。
斜面を転げ落ちていく牡鹿は重い、一度勢いがついてしまえばそう簡単には止まらないだろう、牡鹿に比べて遥かに軽いキャロルが重しになったとしてもそれは変わらない。
つまり、止まることなく斜面を滑り落ちるしかないということだ。
キャロルは牡鹿と共に転げまわりながらもその手には祝福の矢を握っていた、鉈を空ぶった手はそのまま矢筒へと伸びていたらしい。
弓は触手に掴まれた時に落としてしまったので矢を放つことができない、そもそもあったとしても片手が塞がっているので意味がないだろう、なのでキャロルは祝福の矢を力強く握るとそれを刃として振るった。
牡鹿とキャロルの体が重力から解き放たれたかのように跳ね上がる、キャロルは自分が落下しているという認識を持てないまま矢を眼球へと突き刺す。
「これで……終わり!!」
「-----!!」
それがトドメとなった、残り火のような眼球の力は祝福の矢に吹き飛ばされて蒸発してしまった。
粘液も、触手も、それらを束ねる眼球も、不浄の力は祝福に押し流されて欠片も残っていない。
相手が確実に消滅した、そう確信すると同時に、キャロルと牡鹿の体は落下先にある川へと沈むのだった。
山と山の間にあるその川はそこまで深くはない、落下の高さも斜面の途中からだったのでそこまで勢いはなかった、それでも予期せぬ形での入水は大きな衝撃となってキャロルを襲う。
背中から落下したのも不味かった、いきなり背中を蹴り飛ばされたかのような衝撃は華奢な体には堪えるだろう、痛みで肺の空気を全て吐き出してしまい、更にそこへ大量の水が流れ込んでくる。
深さも流れも致命的には程遠い、だが態勢の悪さが致命的であった、意識を手放してしまう程に。
「……」
薄れゆく意識の中で、キャロルが最後に目にしたのは黄金の輝きを放つ牡鹿の姿であった。
意識が揺蕩う、力を抜いて海に漂うかのような感覚が心地よかった。
風も波もない、完全な凪となった空間で力なく横たわるのはキャロルだ、どこか夢見心地でここが現実なのかどうかの確信が持てない。
目覚める前の夢を見ているかのようだ、きっとこのまま目が覚めてしまえばあっさりと忘れてしまうかのような曖昧で薄く細い夢。
背中に感じるのは心を落ち着かせる温もりだ、今となっては記憶も朧気だが母親に抱かれているかのような感覚をキャロルは感じていた。
心地が良い、このまま目覚めることなく眠りに落ちてしまいたい、そんな彼女の思いを断ち切るかのように聞き慣れない声が届く。
「起きよ、人の子よ」
「……鹿?」
キャロルが微睡みから抜け出して瞼を開く、すると彼女の視界に広がったのは黄金の輝きであった。
「うむ、目覚めたか」
「ん……起きた」
「それは良かった、怪我は大したことはなかったが溺れる寸前であったので心配しておった、人は水の中では生きられるのだからな」
「……」
「どうしたのだ?」
キャロルは自らの頬を抓って夢か現実かを確かめていた、そんな彼女に黄金の牡鹿は首を傾げている。
「……喋ってる」
「当然であろう、私は神獣……生命神に認められて知性を得た獣だ」
そう聞いてキャロルは慌てて立ち上がった、体が鈍い痛みを訴えたがそれを無視して黄金の牡鹿の前に跪く。
神獣……それは牡鹿が説明したように、神に認められた存在だ。
その体は神格を宿しており、元々はただの獣であったのだがその生物としての根幹は大きく変化しており、言ってしまえば半神のような存在である。
この黄金の牡鹿も、鹿の形をしているが本質的には精霊に近いのだろう。
「神々に連なるお方……ご無礼を謝罪します」
「よいよい、お主は私を救ってくれた勇士なのだ、自らを卑下にするものではないぞ……それに神々に連なるといえど末端も末端だ、そう気を遣うな」
「ん……なら遠慮なく」
許可が下りたのでキャロルは先程と同じように、牡鹿の横腹を枕にするかのように横たわった。
鈍い痛みが広がる身体にはこの温もりがとにかく心地いい、こうして触れ合っているだけで癒されていくかのような感覚がある。
どうやら川で溺れる寸前だったキャロルを、川辺に引きずり出したのはこの黄金の牡鹿のようだ。
「うむ、私の方から言っておいてなんだが……お主、切り替えが早いのだな」
「……疲れてくるから、今は休みたい」
「あの呪いに魔力を奪われたようだからな、どれ私の魔力で補填しよう」
牡鹿に触れた肌から極めて良質な魔力が流れ込んでくる、末端とはいえ神の力を宿している魔力は体を活性化させていくようだ。
「お主は房中術を使えるようだから魔力が流しやすい……うむ、ついでに体も癒しておこう」
「ん……感謝します」
「礼のようなものだ、気にするでない」
身体が癒えていくことが手に取るようにわかる、黄金の牡鹿は神に連なる存在なので人間一人を癒すくらいは容易いだろう。
キャロルの器を満たして零れる程の魔力が注がれると、もう体の痛みは消えていた。
「鹿神様……あの呪いは何?」
「あれは悪魔どもの生み出した眷属のようなものだ、私の魔力を狙って寄生してきよった……魔神様も例にもれず気まぐれなお方だからな、気まぐれに生み出した自らの子も放任しておるのだろう」
「……悪魔の呪いが神様の魔力を食べていた?」
「そうなるな、私は鹿の形をしているが精霊のような存在……奴らからしてみれば魔力の塊のようなものだからな、さぞ美味そうに見えたことだろう」
「ん……鹿肉は確かに美味しい」
「魔力の話だからな?」
鹿の表情はキャロルにはわからないが、どこか呆れているかのような雰囲気があった。
「まぁ、お主には感謝しておるのだ、あのままでは食い殺されていただろうからな……うむ、やはり体を癒すだけではまだ礼が足りぬな」
視線が横たわるキャロルに向けられた、獣にはない知性が込められた瞳は何かを考えるかのように細められている。
「う~む……小さな勇士に何か贈ってやりたいのだが、人の喜ぶものがわからん。同胞の鹿には美しい女鹿一択なんだがなぁ」
「……鹿を貰っても食べることしかできない」
「そうであろう? う~む、人は難儀で複雑な生き物だから余計に悩む……ふむ、何か希望を申してみよ」
「ん……お礼、何でもいいの?」
「これでも神に連なる存在だ、多少の無理は押し通そう」
キャロルは考える、末席と言えど神に連なる存在がお礼をしてくれるというのだ、エミリー辺りの信心深い人間からしてみれば感激のあまり五体投地してしまう状況だろう。
だがキャロルには神から何かを貰うという、それが意味する状況をハッキリと自覚できていなかった。
なんかお礼をくれるらしいか貰っておこう、そんな軽い感覚で神々から受け取ろうとしているのだ。
かつて悪魔を打ち倒し世界を救っ天剣の勇者も、その剣は神から受け取ったのだ……規模や格は違っても今のキャロルはその勇者と同じ状況にある……本人にその自覚はないが。
キャロルの視線が黄金の牡鹿を舐め回す、それが黄金の体毛に釘付けになった瞬間に牡鹿は首を横に振る。
「いや、毛皮はやれぬぞ? せっかく呪いから助かったのに、また死んでしまう」
「……なんでもいいって言った」
「う、うむ……だが毛皮を寄こせと言われるとは思わなかったぞ!! お主とてお礼に自らの皮を渡すようなことはしないだろう? それと同じことだ」
「ん……ならその黄金の角は?」
「角? 角か……ふ~む、これは私の魅力の象徴でもあるからなぁ、これがあると女鹿によくモテるのだ」
「ん……また生え変わるから大丈夫」
「お主、なかなか遠慮がないな……最底辺とはいえ神の肉体の一部を寄こせとは剛毅なことだ」
牡鹿は悩むように唸る声をあげるのだが、やがて観念したのか頭を下げて自らの角を差し出した。
「うむ、まぁどうせ生え変わるからな、持っていくがいいだろう」
体毛と同様に、黄金の輝きを放つ角はきっとそうお目にかかれないだろう、かなりの価値があるだろうとキャロルは考えている。
「しかし人間と言うのはおかしなものだ、大昔の話だが今のお主と同じように私の角を求めた男がおったよ。なんとも強引な奴でな、無理矢理へし折って持っていきよったわ」
「……そんな人がいたの?」
「うむ、そやつは私の角で弓を作りおった」
「……弓」
差し出された黄金の角は無数に枝分かれしているが芯の部分は反りがある、邪魔な部分を加工すれば確かに弓になるだろう。
しかもこの角は神の肉体の一部である、そこに神格が宿ることは何も不自然ではない。
もしその弓が今も残っているのならば、それこそ神具として聖都の大神殿に奉納されていてもおかしくはないのだ。
どこにでもある弓とは比べようもない、世界中を探し回っても同格の武器は数えられる程度しか存在しないだろう。
それを自分が握れるという状況に、キャロルは少しだけ興奮していた。
「ん……ありがとう、じゃあ、角を貰うね」
「うむ、持って行け」
キャロルは腰のポーチを弄って予備の短剣を持ち出した、本当ならば鉈が好ましいのだが失ってしまったのでこれを使うしかない。
「あんまり……痛くしないようにするから」
「よいよい、気にするでない、あの呪いに食われることに比べたら蚊に刺されるようなものだ」
キャロルは短剣を勢いよく角の根元へ振り下ろす、鉈と違って重量のない短剣での作業なので一度で終わらせることができず、何度か振り下ろすことになってしまったが黄金の牡鹿は文句を言わなかった。
やがて両方の角が根元から落とされると、牡鹿は軽くなった首を何度か回してから立ち上がる。
「片方は、お主と一緒にいた者に礼として渡してやってくれ」
「ん……わかった」
「うむ、よき縁に恵まれて満足だ」
やはり鹿の表情はキャロルにはわからない、しかし最後に見せた表情は穏やかに笑っているようにも感じられた。
「では、私はもう行くとしよう……世話になったな」
「問題ない……お礼もしっかり貰ったから」
「ならばよい、後はお主の旅路が良い物であることも願おうぞ」
そう言って黄金の牡鹿はその場を後にするのだった、駆け出したのではなく光の粒子となってキャロルの前から消えていく。
風に流されて世界に溶け込んでいく粒子の全てを見送ってから、キャロルは地面に転がった二本の大きな角を持ち上げる。
すると、キャロルの体内を循環する魔力と、黄金の角の中を流れる魔力が繋がりあう感触があった、房中術で相手と魂を繋げあった時と似たような感覚だ。
これは良い物を手に入れられた、望んでも簡単には手に入れられない物であることは間違いないだろう。
どこかの誰かはこの角を弓にしたと教えられたので、キャロルもそうするつもりだ。
キャロルは気が付いていない、彼女が持っている二本の角は同じ重さの黄金よりも価値があるということを知らないままだ。
遠くから聞こえる自分を探すアランの声を聴きながら、キャロルは転げ落ちた山の斜面を歩き出す。
その身体は、かつてないほど軽かった。