商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
そこは方向の概念が存在しない空間であった、右も無ければ左も無い、当然ながら上も下もないので無重力の空間を漂うかのように揺らめくだけだった。
そもそも体すらも存在しない、そこにあるのはただの概念だけであり肉体を始めとする物質というものがどこにも見当たらない、故に漂うという表現は海に浮かぶかのようなものではなく、あくまでシャルル自身がそう感じているだけのものでしかないのだ。
もっと上手く表現するのならば彼女の精神だけがその場にあり、肉体は物質が存在する世界で今も眠っている状態……つまりは夢のようなものだろう。
そう、夢だ、だが頭の中にある幻ではなく確かな現実としてそこに彼女は存在している。
小さな灯が闇の中を彷徨うかのように揺らめいて、視線というものがそれに存在するのならばきっと右往左往していることだろう。
ここはどこなんだろうか? シャルルは物質の無い虚無の世界で静かにそう思う、不思議なことに恐れや不安は感じられず穏やかな温もりに包まれているかのような安心感があった。
流されるかのような、或いは自らが動いているのか、虚無の空間が揺れ動く。
シャルルの魂が次に認識したのは、夜空を剣の形に切り取ったかのような恐ろしくも美しい刃で、黒い刀身に星々の輝きを宿したかのような姿は物語に歌われる天剣の姿そのものであった。
剣士であれば誰もが一度はその剣を握ることを夢見るものでありシャルルもまた同様だ、なんだったら起きている時でも妄想したりもする、そんな剣が彼女の目の前にたたずんでいるのだ、手を伸ばさずにいられようか。
シャルルは夜色の剣に手を伸ばす、魂と精神だけの状態で手を伸ばすという表現はどこかおかしいのだが、シャルルの感覚としてはまさに手を伸ばすだった。
指先が剣へと触れる、その瞬間に刀身に散りばめられた星々の輝きがより大きく光を放ったかと思うと、シャルルの中へと膨大な情報が流れ込んでくる。
それは歴史だ、この剣が積み上げて来た戦いの経験が情報となって彼女へと流れて溢れていく。
この剣を握って悪魔と戦う勇者の視点だろうか? シャルルの瞳に映るのは眼前に広がる無数の邪悪であり少しだけ振り返ればそこには勇者の仲間が存在していた、呪いを打ち破り世界に魔術を広げた始まりの魔術師、曇天をその黄金の弓で打ち払った狩猟王、あらゆる傷と病を癒す聖女、どこかの国の兵士と思われる軍勢も広がっている、そして彼らを守る為に誰よりも勇敢に戦った騎士の姿もあった。
勇者と聖騎士は背中を預け合いながら悪魔と戦い、互いを守りながら突き進む。
そこでシャルルへと思いが流れ込んでくる、それは天剣の主である勇者が聖騎士へ向ける感情なのだろう。
強い信頼と、揺るぎない友情、決して折れることのない思いが二人の間には存在していた。
そんな二人の絆が最高潮に高まった時、勇者の持つ夜色の剣が輝いて、その刀身に宿った星々の一つが剣から離れて勇者と並び立つ騎士へと吸い込まれていくのだった。
なるほど、とシャルルは思う、アントニウスが聖騎士は簡単に増やせないと言った理由に納得することができた、聖騎士とはすなわち天剣の力の一部を宿した存在ということなのだろう。
剣に認められなければ、勇者に認められなければ、聖騎士は生まれない。
流れ込んできた情報が、かつての勇者の記憶がそう教えてくれた。
シャルルは視線を落として自らの両手を見つめて水を掬い取るかのように手で器を作ると、そこに小さな星の一つがどこかから零れ落ちてきて彼女の中へと吸い込まれていく。
次に流れ込んできた情報は聖騎士の思いであった、勇者と共に戦いながら同じだけの血を流して傷を体に残す聖騎士は、自らのことを棚に上げて勇者の心配ばかりしているようだ。
どれだけ強くとも、どれだけ勇敢であっても、勇者と呼ばれるような存在であったとしても、一人の人間であるのだから必ずどこかに弱さを持っている、聖騎士はそんな弱さを補うかのように勇者と寄り添っているのだろう。
そんな人物だからこそ、天剣に宿った星々の輝きの一つをその身に宿すことができたのだ。
シャルルの魂に宿った星は彼女の中でかつての聖騎士と同じように曇ることなく輝いている、神代から今日まで様々な者に受け継がれてきた星は無数の聖騎士の歴史を彼女へと受け渡す。
無数の戦いの歴史が、流れた血が、体に残した傷が、聖騎士という存在の大きさを教えてくれる。
その歴史の中に自分もいるのだと気が付いた時、シャルルは静かに瞼を開くのだった。
「……」
最初に視界に飛び込んできたのは大神殿の天井に描かれた壁画であった、芸術のことなどさっぱりわからないシャルルでも思わず凄いと呟いてしまうような迫力のある光景だ。
次に体を起こして周囲を見渡す、そこは不思議な魔力で満たされた大きな空間であり、扉から始まり床一面に伸びて壁の端にいたるまで奇妙な幾何学模様が描かれている部屋であり、彼女はどうやらそこに寝かされているらしい。
深い眠りから目覚めたかのように眠気を引きずっているのだが、なんとか立ち上がって体をほぐすと共に気怠さもどこかへ消えていく。
身体が軽い、房中術を知ってからというもののそれが基本となっていたのだが、今は特に体が軽く感じられた。
そして異変にも気が付く、シャルルの体を満たす魔力とは別の力が宿っていることに。
それは祝福の力だ、邪悪を打ち払い闇を照らす輝きであった、その力を振るうことができるからこそ聖騎士と呼ばれることになる。
「あぁ、シャルル君、起きたかね」
アントニウスを始めとする聖騎士たちが幾何学模様に満ちた部屋の隅でシャルルの目覚めを待っていた、誰も入って来ないように入口を固めて周囲を注意深く観察していたのだ。
「……あぁ、うん、なんていうか」
「混乱していることはわかるよ、私も最初はそうだったからね……まぁ、分かりやすく説明するのならば、君は聖騎士になったということだ」
「それはなんとなくわかるよ、なんかこの剣から小さな光みたいなものを貰ったからさ」
シャルルの視線が部屋の中央に突き刺さったままの天剣へと向かう、歌にある通りに星々の輝きを夜空ごと閉じ込めたかのような剣が淡い輝きを今も放っていた。
その輝きの一つがシャルルに、そして聖騎士たちに宿っているのだろう。
「……聖騎士になったって言われてもな、ワタシが望んだわけじゃないんだけど」
「うむ、そこが妙なのだ、本来ならば聖騎士の洗礼はこの最奥の扉が開く祝祭にしかできないのだが、不思議なことに君との契約がこうして為されてしまった……ううむ、どうしたものかな?」
「それをワタシに聞かれてもな……やっぱ契約の破棄とかって難しいのかな」
「それは難しい」
アントニウスはハッキリと断言した。
「単純に書面に書き残した契約ではなく、天剣との間に魂で繋がりあった契約だからな、契約神の力が込められた最上位の縁とまではいかないだろうが……それでも神との契約であることには変わらない、これを破棄するのは上位存在との契約違反と解釈できるだろう」
「うぉ、マジか、契約を破ったりしたら雷とか落ちてくる?」
塩の海賊の最期を思い出してシャルルは背筋を震わせる、自分の意思を無視してそんな強力な契約が結ばれたかと思えば不安になったとしても無理はない。
「う~む……それは本当に強力な力の下に結ばれた契約を破棄した場合には起こるだろうが、聖騎士契約はそこまで強いものではないさ」
「でも弱くもないよな、聖騎士って天剣の力の一部を宿す訳なんだから安い契約なんてことはないだろうし」
「まぁ雷が落ちてくるようなものではないさ……そもそもシャルル君は聖騎士になるのが嫌なのかい?」
「嫌ってわけじゃないけど……ワタシはもうキャラバンと契約を結んでるから、ここで働くことはできそうにないんだよ」
「そうか、そうだろうな……ふむ、難しいか」
「そもそも聖騎士になるつもりもなかったんだけどな……なんでこうなっちゃったんだよ」
「ガハハ、なってしまったものはどうしようもないさ……色々と納得できない部分もわかるが、一つだけ確かなことがある」
「……なにさ?」
アントニウスの力強い視線がシャルルに突き刺さる、思わず一歩引いてしまいそうな迫力があった。
「君は選ばれた、他の誰でもない、君がだ……それには必ず意味がある、天剣が君に与えた星の一つは決して無意味なものではないだろう」
「……」
「聖騎士はかつて勇者を守る為に生まれたとされる、その使命は勇者が亡くなった後に天剣の守護へと変化した……そんな歴史の中で只の一人たりとも意味のない聖騎士はいなかったのだ、君にも何か使命があると思う」
「……使命」
「まぁ、それが何かはわからないがね、もしかしたら君にもどこかで啓示があるやもしれん……神々は気まぐれなのでいつかはわからんがな」
「……ワタシはどうすれば良いんだ?」
「わからん、こちらとしては新たな同胞を歓迎したい気持ちがあるのだが、君は少々特殊な状況での契約なのでこれからのことがどうも想像できん……そちらの都合や意思もわからないからね、だが重要なのは君がどうありたいかだ」
「……」
「聖騎士として働きたいならば歓迎しよう、なにせ常に人手不足だからね!! だが、答えは焦らずとも構わない、一先ずはキャラバンの方々と話し合ってみたらどうかね」
ここで悩んでも仕方がないということだろう、シャルルも混乱していて上手く舌が回らない自覚があった。
知らぬうちに結んでしまった上位存在との契約は決して簡単に扱えるものではない、口約束の軽い契約とは次元が違う力が関わっているので慎重にならざるをえないのだ。
シャルルの進退に大きく関わることは間違いないので、聖騎士団と春風のキャラバンとの間で話し合いも行われるだろう。
聖騎士になるつもりが欠片も無かった彼女からしてみれば、頭を抱えてしまいたい状況であった。
どうしたものかと悩んでいると大神殿全体へ響くかのような鐘を打ち叩くかのような音が届く。
「来たか、やれやれ、ゆっくり話す時間もないな」
「そっか、なら仕事しなきゃな」
「シャルル君は休んでいて構わないよ、まだ目覚めたばかりで本調子ではないだろう?」
「冗談よしてくれ、ワタシは金を貰ってここに来てんだからその分は働かなきゃ団長に怒られるっての」
そう言ってシャルルは鞘から剣を抜いて最奥の部屋から外へと出ていく、アントニウスも強く止めるつもりはないのか彼女の後に続いて外へと向かう。
全員が外に出ると最奥の扉は誰の手も借りずに閉まっていった、そして決して開くことはないかとばかりに強く鍵がかけられる。
新たなる聖騎士の門出を祝った最奥の扉は、またその時を待ちわびるかのように静かに立ちふさがるのだった。
「アンデット相手に鋼の武器は効果が薄い!! 各員、目の前の相手には足止めに徹してくれ!! 我々聖騎士が確実に処理していきますから」
その為に集められた傭兵たちは隊列を組みながら壁となり、大神殿に現れた相手へと足止めに徹していた。
しかしわかってはいたことだが鋼をぶつけるだけでは効果が薄い、彼らの前に立ちふさがる無数の幽鬼は剣で裂かれて突かれようともまるで粘度の高い沼を通り抜けるかのように奇妙な感覚が手に伝わるだけだ。
斬っても切っても、半透明の体はヌルンとした感触だけで相手はまるで痛痒を感じていない、魂を揺さぶるかのような叫びを傭兵たちに浴びせるだけであり、その手が伸ばされれば真冬のような冷たさが肌に刺さってしまう。
幽鬼の数は二十体ほどだろうか、そのどれもが大神殿に隣接されている聖都の共同墓地から流れてきているようだ。
「おいおい、この聖都で幽鬼の軍勢と戦うことになるとはな!!」
傭兵の一人が聖水を目の前の幽鬼に投げつけてから剣を振り下ろすと、頭から股まで真っすぐに切り裂かれた半透明の体は二つに分かれるのだが、直ぐに繋がり合って魂を凍り付かせる叫びを放つ。
結果が分かっていただけに壁を作る傭兵たちに焦りはなかった、彼らの仕事はあくまで時間稼ぎなのでこれで十分なのだ。
傭兵たちが幽鬼の軍勢を塞き止めながら壁となっている間に、数少ない聖騎士たちが端から幽鬼へと切りかかっていく、祝福の力を宿した刃は相手を切り裂くというよりは蒸発させるかのような勢いで半透明の体を消し去る。
祝福は聖騎士や強い信仰心を持つ神職者などが振るうことのできる力であり、邪悪を打ち払う為にこれ以上の力はないだろう。
聖騎士は強い、戦士として訓練するだけでなく神々の力も振るえるのだからその技量は高みにある、だが決して無敵の存在ではないので傭兵たちの力が必要だった。
一流の騎士だろうと囲まれればそれでお終いだ、何もかもを捻じ伏せて蹴散らせることができるのはそれこそカムラーンくらいだろう。
傭兵が盾となり、聖騎士が剣となる、例え相手がこの世ならざる彷徨う者であったとしても、ただ群れるだけでは意味がない。
神々は気まぐれなので絶対の勝利などありはしない、だからこそ人々は準備や作戦を怠りはしないのだ……まあ、どれだけ準備をしようとも負ける時は負けることもあるので、やはり神々は気まぐれだということだ。
「せりゃ!!」
シャルルが剣を薙ぎ払う、淡い輝きを宿した刃は幽鬼の半透明の体を横に切り裂いた。
相手の体は再生しない、二つに分かれたまま徐々に崩壊するとそのまま存在を維持することが出来ずに消えていくのだった。
「初めてにしては上出来だ」
シャルルの隣でアントニウスも剣を振り抜く、その剣先が幽鬼に届いた瞬間に半透明の体は一瞬にして消滅してしまう。
単純な技量だけではない、その身に宿す祝福もまた強力だ、闇を打ち払うかのような強烈な光は簡単に邪悪を撃ち滅ぼしてしまった。
シャルルの力が蝋燭の火ならば、アントニウスの力は炎といった所だろうか、同じ星を体に刻もうとも練度ばかりはどうしようもない。
ただ単純に、その輝きを垣間見たシャルルは称賛する他にない、どれだけの訓練を積み重ねればその頂までたどり着けるのか、どれほどの祈りを捧げればこれほどの輝きを纏えるのか……きっと才能と言う簡単な言葉だけでは片づけられない時間を必要としたのだろう。
シャルルが生まれるよりも前から彼は聖騎士だったのだ、訓練は形となり祈りは力となって幾星霜、その力はもしかしたら人の身でありながら半神へと届きうるのかもしれない。
なんとも大きな背中だ、目指すにはあまりにも遠いが、シャルルは既に一歩を踏み出している。
より鋭く、より強く、そして思い出したかのように祈りを捧げ、剣を振り抜く。
さっきよりも半歩だけ、彼女はアントニウスに近づくのだった。
「……まだ遠いな」
あの背中は遥か遠く高みにある、聳え立つのは山脈と表現してもいい。
だがそれを見上げているだけの彼女ではない、ただ突き進むだけであり誰もが無理だと考えるような高みであろうと目指すのだ。
恐れ知らずということではない、恐れを理解しながらそれでもなお進む意思を示す。
それは、勇者の傍らで戦い続けた聖騎士の姿そのものであった。