商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
「ーーで、取り逃がしてしまったということですね?」
報告を聞いて疲れたかのようにそう聞いて来たのは、生命神の神殿の代表者であった。
「ええ、その通りです……情けないことに、逃げられてしまいました」
そして報告者であるアントニウスは居心地の悪さを感じてなのか、後頭部をボリボリと掻きながら円卓から視線を逸らす。
彼の前に広がるのは聖都の中心にある大神殿の一室だ、そこには大きな円卓が置かれており、席につくのは各神殿の代表者たちであった。
ここに集うのは神殿長に当たる地位の者たちであり、王のいない合議制の政治体制がおかれている聖都においては政治代表者でもある……つまりは国家の上層部であり、アントニウスの上司でもあるのだ。
円卓に集う神殿長たちは報告書に視線を落として一様に疲れたかのような表情を見せる、祝祭を目前にして飛び出て来た最大級の問題に誰もが頭を抱えている。
「魔獣母エキドナ……最悪の名前ですね」
「名を騙っているだけ……という訳ではないでしょうね、アントニウス殿が率いる聖騎士団からまんまと逃げおおせているのですから」
娼婦と男娼の神を祭る神殿の代表がそう言った、その言葉に周囲の者も頷く。
「問題の闇神殿はどうなされたのですか?」
「粉砕しました……我々ではなく双子の悪魔が、ですが」
「ふむ、証拠隠滅ですか……悪魔たちにとって調べられたら困る場所であったということでしょうね」
商売を司る神殿の代表者の言葉に、やはり周囲の神殿代表者は当然とばかりに頷いた。
「おかげで地下水道の一部が陥没して地上の家と道路の一部が崩落しました……大工組合に話を通しておかなければ」
「修繕は勿論ですが……それよりも今はエキドナです、かの魔獣母が姿を現したというのならば、捨ておくことなどできません」
「……祝祭を中止するしかないのでは?」
「ここに来て中止すると? 既に準備は終わって明日を待つばかりだというのにですか……各国の代表者も既に到着しているんですよ」
「確かに……今更、中止にしてしまえばせっかく集まってもらった各国の顔にも泥を塗ることにもなる、だが最優先すべきは彼らの安全であり民の生活だ……安全には変えられまい」
「だが、仮に中止したとしてもだ……エキドナを止められる訳でもない、そもそも目的はなんだというんだ」
「この時期に現れたのですから、やはり祝祭でしょう……もっと細かく言うのならば、天剣でしょうか」
「他のどの日でもない、祝祭を目前に姿を見せたのだからおかしくはないが……なぜ天剣なのだ? 悪魔には無用の代物だろう、触れた瞬間に灰になってしまうのがオチだ」
「そこまではわかりませんが……ふう、ここで話していても悪魔の目的はわかりませんね。我々がやるべきことは結論を出すことと方針を固めることです、悪魔の真意は定かではありませんが、わからないことをいつまでも議論しても時間の無駄でしょう」
「そうですね……決を取りましょうか」
円卓で今後の方針に関して語り合う神殿長たちを眺めながら、政治のことなどさっぱりわからないアントニウスは手持無沙汰になりながら部屋の隅であくびを噛み殺す。
隣でそんな弛んだ雰囲気を感じ取ったアンジェリーナが、彼の太い腰に肘を当てて姿勢を正そうと試みているようだ。
「……団長、姿勢を正してください」
「おう、すまんな……少し疲れがあるようだ」
「……その悪魔はそれほど強かったのですか?」
「うむ、強い……お互い様子見ではあったが、あのまま続けていれば危なかっただろう」
「ならば団長だけで戦わなければいいのです、個々の戦力で勝てぬのならば集団で、それでも足りぬのならば更に大勢で……どれだけ相手が強者であってもこちらは騎士団なのですから、数を生かすべきです」
至極真っ当な戦略を提示するアンジェリーナに、アントニウスは苦笑いを浮かべる。
「君はやはり若いな、真の強者とはそういったこざかしさが意味をなさないということをまだ理解できていないようだ」
「……」
納得できないのかアンジェリーナは眉間に皺を作る、彼女もまた聖騎士という強者に分類される存在なのだ、アントニウスの発言に誇りを傷つけられたのかもしれない。
「ではどうされますか? 聖アントニウスが勝てないのならば私も敵わないでしょう、つまり聖騎士の誰も勝てないということです」
「そうだな」
「……しっかりしてください」
「安心したまえ、切り札はちゃんと用意してある……言っただろ、様子見だと」
切り札、という言葉にアンジェリーナは更に眉間の皺を深くする。
「……嘘を言っている訳ではないようですね」
「いやいや、そんな怪しむような顔をされても困る……こちらの切り札とは君のことなんだぞ」
「私が? 何故でしょう……不本意ですが、本当に不本意ですが、私は聖アントニウスほどの力はないという自覚があります」
「ガハハ、聖騎士にはそれぞれ天剣から与えられた役目があるということさ。私には私の、君には君のね……その役目を全うする、それだけだ」
相手がどれだけ巨大であっても聖騎士である以上は必ず打ち砕く、アントニウスは聖騎士らしくないと隣の同僚からよく言われるのだが、その自覚もあるのだが……誇りが無い訳ではない。
悪魔だろうとドラゴンだろうと、聖都を脅かすのならば立ちふさがる百の理由になる。
この体に宿る祝福はその為にある、どれだけだらしない生活をしていてもそれくらいの自覚は彼にもあった。
エミリーがキャラバンの天幕で、娼婦の神殿で習った儀式再現の工程を友人に教えていた、舞と祝詞を繰り返して形を整える、彼女たちはそれぞれ舞台に立つことに慣れている芸人でもあるので、こういった動きは経験がなくてもある程度は様になっているようだ。
大まかな形は既にできている、公演が始まる前の朝練習時間が儀式再現の時間に充てられている為に反復運動のように体に刷り込まれているのだろう。
エミリーに続いて舞うシャルルとキャロルも、台本を確認せずとも淀みなく全ての工程を終えられるようだ、本番は今夜まで迫っており朝の練習はこれで最後になるので細部の調整にのみ気をつかう。
細部こそが大事なのだと神殿長から教わっているエミリーは、二人の指先や首の角度などを細かく調整していく。
そんなことを何度も繰り返して、ようやく納得できたのか大きく頷いて最後の朝練習は終わりとなった。
「なんかこうしてると役者みたいだな、もっと難しい儀式なのかと思ってたんだけどさ」
「ん……舞台で踊るのと変わらない」
舞と祝詞を終えてそんな感想をシャルルが伝えると、キャロルが納得したかのように頷いて同意した。
二人もまた夜の儀式再現に参加するようだ、単純に娼婦として楽しみたいという思いと、報酬目当てという考えがあって手を挙げたらしい。
「こういった舞とか歌とか何の意味があるんだろうな」
「一つ一つが大切なものなんですよ、舞も祝詞も繊細に積み上げることで一つの形になるんです……そうですねぇ、舞が壁で祝詞が屋根になってそれらが重なって家になるといいますか、一つの特殊な空間を形成するんです、それが儀式ですね」
「ん……魔術的なことはよくわからない」
「……疑似的な神殿を作ると言いますか、空気を生み出すと表現すべきなのか、積み木のように組み立てて、ええっと……」
「まぁ、舞も祝詞も必要なことだってのはわかったよ」
「本当ですか? 気持ちの在り方も重要なんですからね? 中途半端な思いで踊っては駄目ですよ」
「わかってるって、報酬を貰うんだから雑なことはしないっての」
「気持ちが重要……なんで?」
「儀式再現はつまり過去再現でもあるんですよ……その時代にあったことや存在した人物を模倣することで彼らや彼女たちが起こした奇跡や現象を再現するんです」
「ん……やっぱりわからない」
魔術師ではない二人にはエミリーの言葉は難しいらしい、エミリー自身も専門外の魔術でもあるので上手く説明できないようだ、そんな状況であってもなんとか噛み砕いて説明しようと言葉をひねり出す。
「う~ん、なんと説明すべきか……過去の人に完全になりきることでその人の力を得ると言いますか、乗り移らせると言いますか、これらは降霊術と呼ばれる魔術の一種なんです」
専門的に学んだ訳ではないのでエミリーの知識は教科書に載っている程度のものでしかない、それこそ調べれば誰でも触れることのできる知識であったが、シャルルとキャロルにはその基本となる知識もないので新鮮なものでもあった。
何よりこれから魔術を学ぼうとしている二人には、どんな知識であっても有用だろうとエミリーは考える。
「降霊術は過去の人物の魂や記憶を自らに憑依させて、その力を再現できるんです。例えば大魔導士と呼ばれるような人を私に降ろすと、その力を振るうことができるようになります」
「へぇ、じゃぁ私が凄い戦士の魂をどこかで捕まえたりしたら」
「ええ、その力を扱えるでしょうね」
魂を捕まえるという表現にエミリーは苦笑いを浮かべながらも、そう間違った認識ではないので肯定する。
「でも、言葉で説明するほど簡単なことではありません。自らの器に他者の魂を組み合わせる訳ですから危険も伴います……あまりにも巨大な魂を降ろすと精神に大きな傷を残すとか。あぁ、そういえば降霊術を柱とする魔術師の派閥では修行で舞台に立ったりすることもあるそうですよ」
「それって過去の英雄になりきる為にか?」
「はい、その人になりきる為の練習ですね……そうやって精神を近づけて、口調や性格、趣味嗜好などを重ね合わせるんです、最後には自らを完全に過去の英雄に変換する、まぁそこまで完璧な降霊術を扱える人はそうそういませんけどね」
そんなことをできるのは魔術の最奥へ到達した者だけだ、降霊術を行う多くの魔術師がその領域を目指しては魂をすり減らして廃人となっていくらしい。
「今回の儀式再現もその降霊術の分野になりますね、過去の人物を真似てその人たちの力を模倣し、過去の現象を再現するんですから」
「ん……だから気持ちも大事、納得」
エミリーの説明になんとか納得することができたのか、キャロルは大きく頷いた。
「はい、中途半端な気持ちではその人たちになりきることはできません……まぁ、今回は本格的な降霊術ではなく、あくまで儀式という体の演目ですけどね」
だからといって雑な仕事をすることはできない、報酬を貰っていることもそうだがしっかりと契約を結んでいるのでそれを破ることはできないだろう、どんな些細な契約であったとしてもそこに契約神の力が宿るので、決して軽く扱うことはできない。
そして彼女たちの心情としても、雑な仕事はできなかった。
「ま、ちゃんと舞も祝詞も気持ちも整えるから大丈夫だよ」
エミリーはシャルルの言葉を信頼することにした、少しずぼらな所もある友人だが決して不義理という訳ではないのだ、一度結んだ契約は必ず果たす意思と誇りをもっていることは知っているのだから。
三人は公演の時間が迫って来たので朝練習を切り上げて舞台を整える、祝祭の日、祭りの日なので今日が最も多くの人が訪れることだろう。
それ故に今日の公演は鉄板であるローレライの演奏となった、なのでそれ用の舞台を整える必要がある。
昨日まで行われていたキャロル主演の狩猟王で使われていた小道具や大道具を片付けて客席の掃除も欠かさない、それらが終われば公演に向けた細かな打ち合わせがあるのだが、今回はローレライの演奏なので彼女たちの出番はなかった。
団長であるキララからも、本日の三人娘の仕事は儀式再現がある夜が本番なので午前中は好きにしても構わないと言われている。
夜まで休むか、という意見もあったが、せっかくの祝祭なので三人は街へ出ることになった。
「天剣を拝見したいです!!」
そんなエミリーの言葉が決め手になって、三人は聖都の真ん中にある大神殿へ向かうことになる。
「シャルルは天剣を見たんでしょう、どんな感じでしたか?」
聖騎士の力を得たシャルルの話はエミリーやキャロルも聞いていた、キャラバンと聖騎士団の間で話し合いが行われていることも知っている、そんなこともあってかシャルルの立場が少しだけ厄介な状況を生んでいることも理解しているのだ。
今後どうなるか不透明な中で二人もシャルルを心配しているのだが、当の本人がどこか他人事のように平然としているのが釈然としない。
聖騎士って言われてもなぁ……騎士って柄でもないし、それが本人の主張である。
彼女自身はこのままキャラバンに属して暮らしたいと考えているらしいが、やはりこれからのことはわからないだろう、キララとアントニウス、そして聖都の上層部である神殿長たちの話し合いの結果を待つしかない。
「天剣なぁ、確かに見たけど、状況が状況だったしそこまでじっくり見た訳じゃないんだよな……あぁ、でも綺麗だったていう印象がなんとなく残ってる」
「ん……夜色?」
「そうそう、夜空を固めたみたいな刀身でさ、星の輝きみたいにキラキラ光ってる感じだな」
「おぉ、やはり歌に聞く姿そのものなんですね、それは楽しみです」
三人娘は大神殿を囲む水堀の上にある橋で立ち止まる、そこには彼女たちと同じように祝祭の日にしか見学することの叶わない天剣を求めて、大勢が行列を作っているようだ。
そんな人々の需要を求めてか橋や道の至る所に露店が出来ている、それだけ見れば宗教的な儀式の行われる日と言うよりは賑やかな祭りの日に見えるだろう。
いや、実際にこの行列を作っている人々や露店を披露している者たちはまさに祭り日和なのだろう、本日が勇者を探す儀式の日だという自覚も、聖騎士を生み出す儀式だともしっかりと理解できていないのかもしれない。
知識自体はあるはずだ、しかし文字通りの意味でしかなく、この日に実際に勇者や聖騎士が新しく生まれていると実感できている者は少数だろう、大勢の者がいつもの日常よりも賑やかな祭りの日だと考えている。
普段は聞くことのない歌が耳に届く、露店が道に広がって、旅芸人もそこら中にいる、そんな楽しい日。
実際に三人娘の前にいる家族連れも露店で買い食いしながら火を噴く旅芸人を眺め、楽しそうに行列の一部になっていた。
その人の群れの先には大神殿がある、三人は露店に並ぶ小物やおみあげを眺め、甘味などを購入しながらゆっくりと人波を進んでいく。
水堀にかかる橋を越えて大きな城門も通り過ぎる、そこまで行くと表通りの賑やかさはどこかへ消えて大神殿の放つ荘厳な雰囲気に包まれることになる、思わず背筋が伸びて衣服や髪を整えたくなるような厳かな空気が満ちているのだ。
エミリーは両手を組んで静かに祈りを捧げている、さすがに人込みの中で五体投地まではしなかったがもし可能ならば躊躇しなかったかもしれない。
巡礼の旅の中にいる彼女にとって神の膝元であるこの大神殿は目的地の一つでもある、旅の成果と経験を報告する場所なので彼女は気合が入っているようだ……もし神に認められたのならばローレライのように聖人に認定されることになる、さすがにそれは高望みであることは承知しているが、そこがエミリーの目指すべき旅の終着点であった。
まだ旅の途中ではあるが、言ってしまえば本日は中間報告、気合も入るだろう。
少々舞い上がり気味な友人の背中をシャルルとキャロルは呆れたように眺めている、二人はエミリーのように巡礼者ではないのでそこまでこの場所に思い入れはないらしい。
ただ興味自体はある、天剣を握りたいと誰もが一度は思うことなのだから。
「次の方どうぞ」
大神殿の職員が順番待ちしていた三人に声を掛ける、祝祭の日にしか開かない最奥の扉の向こうには歌に聞く夜色の剣が静かに地面に突き刺さっていた。
前を歩いていた家族連れはその夜色の剣を感極まったかのように握りしめている、小さな男の子がなんとか引き抜こうと頑張っているようだがピクリとも動かず、そんな我が子の様子を両親は微笑みながら見守っているようだ。
少年は剣を抜けないことに不満そうにしていたが、帰りにおやつを買ってあげると母親に言われた途端に笑顔になって最奥の扉から出ていくのだった。
「……はぁ」
そんな家族とすれ違って三人娘は大神殿の最奥へと辿り着く、そして地面に突き刺さった夜色の剣を視界に捉えた瞬間にエミリーが感嘆の声を漏らす。
そのままフラフラと火に飛びいる虫のように吸い寄せられていくと、天剣に触れることなく跪くのだった。
「触んないのかよ?」
「そ、そんな恐れ多い!!」
「ん……思ってたよりも大きい」
「キャロル、そんな簡単に触れるなんて……ちゃんと聖水で手を清めてから握りましょう!!」
「失礼……朝にしっかりと身を清めた」
「はぁ、別にそんな決まりがある訳でもないだろ」
「そうでもしないと踏ん切りがつかないと言いますか……うぅ、いざ天剣を前にするとこうも体が動かなくなるとは予想外です」
「難しく考えすぎだっての……はぁ、それでキャロル、どんな感じだよ? 勇者になれそうか?」
「ん、無理……ピクリともしない」
キャロルは体重を活用して天剣を引き抜こうと試みるが、先程の男の子のように微動だにしなかった。
「これって勇者にしか抜けないってやつなんだよな、よし、次は私だ」
「シャル姉……聖騎士だから抜けそう」
「いやいや、聖騎士と勇者は違うだろ……んんッ!! あぁ……駄目だな、全然動かない、本当に抜けんのかよこれ……実は地面の下で固定してんじゃないのか」
「地面に刺さっているだけのように見えますが、剣の形に空間が固定されているようですね……だから動かないんですよ」
「……空間が固定?」
「天剣は薄い膜のような結界に包まれていて、その内部は時間が止まっているんだと思います。これはとてつもなく高度な結界魔術ですね」
「ふ~ん、じゃあその結界を取り払えばこいつは抜ける訳だな」
魔術師ではないシャルルには、その難しさがいまいちわからないらしい。
「そんな簡単なことではありません……決して壊すことのできない錠のようなものなんですから、人がどうこうできる領域ではないかと」
その錠を開ける為の鍵が勇者ということなのだろう、そしてその鍵は神代から今日に至るまで発見されていないのだ。
「ほら、いつまでも座ってないでエミリーも触れてみろよ」
「うぅ……やはり恐れ多いかと」
「……はぁ、順番待ちしている人らもいるんだから早くしろよ」
そう言われてエミリーは振り返る、そこには天剣に触れようと集まった多くの人々がいて自分たちの番を待ちわびていた、確かにシャルルの言う通りあまり時間はかけられないだろう。
恐れと畏怖がある、しかしそれ以上に光栄だとも考えているので、エミリーは悩みながらも天剣に触れるのだった。
「あぁ……これが天剣、吸い込まれそうな美しさですね」
夜空を切り取って剣の形にしたかのような刀身は確かに全てを引き付けるかのような魅力がある、障害物の無い場所で夜空を見上げたかのような……底知れない不安と思わず手を伸ばしてしまうような深さがあるのだ。
星々の輝きと全てを飲み込む暗闇、その二つが併せ持つ重さを両手に感じ取ってエミリーは静かに祈りと感謝を捧げていく。
この剣を下界に落としてくださった神々に、この剣を振るって世界を守ってくれた勇者に、深く思いを届ける。
そしてエミリーは少しだけ期待しながら剣を動かそうとするが、予想通りピクリともしないのだった。
「あ~、エミリーでも動かないかぁ」
「当然です、この剣は勇者様しか抜けないんですから」
案の定の結果にエミリーは満足しているのか、微笑んで天剣から手を離す、そして三人は最奥の間を後にして次の人に場所を譲るのだった。
視界に広がるのは順番待ちの人々だ、もしかしたらこの中から勇者が生まれるのかもしれない、そうでなかったとしてもシャルルのように聖騎士に選ばれることも考えられる。
神代から今日まで勇者は現れなかったが、だからといってこれからも現れないという訳ではないのだ。
この中に勇者になる人がいるのかもしれない、そんなことを考えながらエミリーは人波を眺めていると、彼女の視線がとある一点に釘付けとなった。
違和感がそこにはある、言葉にすることが難しい何かがあった、エミリーの視線の先にいるのは大勢の人々であり、その中の一人に注視してしまう。
それは女性だ、どこにでもいる女性でありそれだけ見ればどこにも妙なところはない、腹部が膨らんでいるのは妊娠しているからだろう……やはりなにもおかしな人物ではない。
それでもエミリーが違和感を覚えたのは、そのどこにでもいる女性の表情であった。
この祝祭の日に、その女性は感情が死んだかのような顔で人波の中にいる……エミリーの違和感の正体はそこだろう。
周囲の人々はこの特別な時間を思い思いの形で過ごしているのだ、そんな中で彼女だけが酷く浮いている。
違和感の正体に気が付いてエミリーは納得した、そして特に理由はなかったのだが少しだけ視線を下げて妊娠しているであろう腹部を眺めていく。
それが合図となった訳ではないだろうが……女の腹部がぼこぼこと蠢いたのは、エミリーの視線を感じ取ったかのようなタイミングであった。