商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
黒い影が聖都の上空へと落下している……それは地上ではなく空へと落ちているというあり得ない光景であった。
しかしそうとしか表現できない光景であったのだ、黒い影の正体であるキララは羽ばたくでもなく跳躍するでもなく、体を浮かせて空へと落ちているのだ。
それを追いかけるのは黒い触手群であった、地上から空へ落ちる彼女を捕まえようと触手が伸びるのだが、それを彼女は死神の力を込めた刺突剣で薙ぎ払う。
切り裂いた訳ではない、突き殺した訳でもない、だが刺突剣が触手群に触れた瞬間にそれらは力を無くしたかのように解けて地上へと落ちていった。
上空五十メートル、そこから都市を見下ろすキララは視界に広がった触手の海に舌を打つ。
これで触手の集合体を殺すこと十六体目、ラシュリーが捕らわれている可能性があるので目につく相手を次々に排除しているのだが、そんな彼女を脅威と判断したのか都市に広がる魔獣が彼女の下へと集っているようだ。
いや、魔獣だけではない、風に流れる木ノ葉のようにユラユラと降りてくる彼女に近づく影がある。
「初めましてかしら?」
「そうねぇ、貴女とは初めましてかしら?」
空中からフワフワと落ちてくるキララに左手の触腕を伸ばしたのはエキドナであった、タコの足のように肘から先が触手になっており、それを振るいまわしながら彼女とぶつかった。
風に流されるほどに軽いキララの体は空中であることも手伝って、まともに踏ん張ることもできないまま吹き飛んだ、そのまま民家の屋根に落下するが突き破ることなくその場で跳ねる。
まるで柔らかく弾力のある何かを地面に叩きつけたかのような光景だ、ゴム毬ならばともかく人間の体でそんなことは起こらないだろう。
だが実際に起こってしまった、重さを知らないキララの体は無傷のままだ。
地上と上空で睨み合うキララとエキドナ……お互いに気に食わないのか眉間に皺ができている。
「初めましてではあるけど……少し既視感があるわね」
そんなことをキララは思った、エキドナとは間違いなく初見であるのだが脳裏に過った奇妙な感覚が気になってしまう……思い出す、という表現が正しいのかわからないが、彼女はかつてエキドナとあったことがあるらしい。
「それは貴女の前の半神が持つ記憶ね……見たところ死神の寵愛を深く受けているようだけど、その継承された経験が受け継がれているのよ」
「なるほど……貴女は以前に私と同じ力を持った者と戦ったことがあるということか」
その記憶が、死神の加護を宿す彼女にも受け継がれているということだろう、かなり薄まっているが納得できる説明であった。
しかし問題がある、それはつまりキララと同じ死の力を振るう者と戦って、今も生きているという点だ。
つまり、目の前の悪魔はその種族の中にあっても最上位の力を持つということに他ならない、そこら辺にいる一握り幾らの雑兵とは違う、確かな格があるのだろう。
実際に、見た目は幼い少女のそれだが、放たれる気配は濃密で重たい、こうして相対するだけで冷や汗が流れて来た。
勝てるだろうか? そんな疑問に意味はない、立ちふさがるのならば押し通るだけなのだから。
踏み込みは力強く、だが跳躍は緩やかに、上空で漂っていたエキドナと視線が対等になるまでキララは跳ね上がる。
お互いの視線が絡み合った、そして一呼吸後に両者は触手と刺突剣を空中でぶつけ合う。
時間にして数秒、無数の火花と大きな金属音を響かせてキララとエキドナは同時に吹き飛んだ。
「……あ~やだやだ、半神ってやつはこれだから困るのよ、扱いずらいし殺しにくい、おまけに神の加護が強くてやたらと運命を捻じ曲げてくる、ほんと嫌になるわねぇ」
愚痴を零しながら唇を割って人よりも長い舌でぺろりと頬を舐めるエキドナ、そこに流れていた自らの黒い血だ。
相手は人間ではない……それはキララは勿論だがエキドナにとってもそうなのだろう、撫でれば殺すことのできる脆弱な存在ではない、踏みつければ破裂するほど柔らかくない、蹴り飛ばせばへし折れるような脆さでもない。
半神なのだ、半分は神なのだ、ならば最早人ではない、人の形をしているだけの何かであった。
エキドナがこれまで戦ってきた半神はみんなそうであった、人間の形をしているだけの怪物であり、中でも戦いに特化した相手は簡単に最高位の悪魔である彼女に血を流させることもできてしまう、今回のように。
だから慢心はいらない、油断は命取りになる、相手は餌ではない、強者なのだという認識をエキドナは持つのだ。
弱者に足元をすくわれるのとは違う、強者が力を持って叩き伏せる、半神はそれができてしまうのだ、かつて戦った一人……武神カムラーンの時のように舐めてかかれば殺されかけて無様に敗走することになるだろう。
地面に落ちて、民家の屋根を突き破り、視界を遮るように大量の埃が立ち込める中で、エキドナはその瞳に火を宿したかのように燃え上がらせながら力を高めていく。
同時に埃の壁の向こうから鋼の輝きが彼女を襲う、エキドナとは対照的に静かに暗く存在感を高まらせていた彼女は、深い沼に周囲を落とすかのような濃密な……鋭さと鈍さを共存させるという暗殺者にしかできない矛盾を抱えた刃を振るった。
鋭い、重い、軽い、殺気がありながら、それを表に出さない、音も無く、重さも無く、美しさと雑さが混在して、無数の矛盾がそこにありながら、全てを染め上げるかのような死の力がそこにあった。
「邪魔よ」
その刃を八つに分かれた触腕で受け流す、触れれば劇毒のように体を侵食する死の力が込められているのだ、いくら彼女が悪魔であっても接触は一瞬しか許されない。
それでも蓄積するように死が触腕に流れてくるのだ、二十六度目の打ち合いでエキドナは自らの触腕を切り捨てる、壊死が始まっていたからだ。
だが腕の喪失は一瞬である、切り口から肉が膨れ上がると先程と同じように八つの触手が現れた。
「そちらこそ邪魔だ」
お互いにその場から一歩も引かない、触腕を腐らせながら剣を振るうキララと、触腕を再生しながら戦うエキドナは、体に無数の傷を残しながらそれでも戦い続けていく。
意地があるのかもしれない、いや……邪魔をしているというべきか、引くなり躱すなりすれば傷も避けられるだろうが、両者共に自重するつもりはないらしい。
人としての誇りと、悪魔としての……強者としての誇りがぶつかり合っているからなのか、血を流そうとも相手を捻じ伏せることを優先しているようだ。
ぞりっと、肉を抉る音が届く、無数の棘が備わった触腕の一つがキララの肩を撫でた結果、そこにあった衣服や肌や肉を削いだのだ。
当然ながら血が流れる、それなりに深かったのか噴き出るような勢いであったが、その痛みを受けてもキララは揺るがない。
寧ろ深い痛痒を受けたことで勝利を確信したエキドナを隙とみたのか、敢えて懐に入り込んで剣を突き立てる。
触腕が驚いたかのようにうねった、反射的な行動だったのだろう、それらはキララの体を削ぎ落すのだが致命傷には届かない。
「死神よ、そちらに贄を送ります」
死の力が込められた刺突剣は真っすぐエキドナを穿った、片方は心臓へ、もう片方は首へと食い込む。
「アッ……ぐ……かはぁ」
「私の勝ちだ」
急所を貫いたことで確信した勝利は、次の瞬間に霧散してしまう。
最初に感じたのは違和感だ、これまで様々な命を奪ってきた暗殺者の両手が決定的な何かを取りこぼしたかのような感覚を覚えてしまった。
その答えは内臓を引き裂くように刺突剣をグルっと回した瞬間にわかった、そこにあるはずの内臓がどこにも存在しないのだ、血は流れるし肉もあるのだがそれだけである。
驚愕している彼女を、ニヤリと笑ったエキドナが抱きしめるように拘束すると、触腕がまたうねる。
「残念でしたぁ、私は二人で一つなのよ……それぞれ役割を分担しているの」
意味の分からない言葉であったが、内臓が存在しない事実を受け入れるしかない、例え悪魔であってもそこに生きて肉の体を持っているのならば内臓があるはずなのだが……それでも無いのならば受け入れるしかない。
今は疑問よりも対応だ、抱きしめられたキララはエキドナに刺さったままの刺突剣を横に引き抜く、胸と首を大きく切り裂いて、その延長とばかりに触腕と鱗の生えた手を切り落とす。
そして腹部に勢いよく膝蹴りをすると、ようやく拘束から逃れることができた。
「痛いわねもう!!」
「……」
キララに言葉はない、より深く、より鋭く集中力を高めており、会話をする余裕さえなくなってしまっているようだ、全てを対象の抹殺へと向けている為に音も聞こえていないらしい。
極限まで高められた集中力が見せる世界は粘度が高い、そんな中で彼女だけが普段通りに動くことができた。
傍から見れば彼女が高速移動しているようにも見えただろう、実際にエキドナにはそう見えてしまう。
「面倒ね、本当に……」
殺し難し、ようやくそう判断したのか片翼の悪魔は意地ではなく実利を優先することにしたらしい。
二人が戦っていた民家の壁と床が大きく崩壊した、そこから溢れるように魔獣の触手が殺到すると瞬く間に周囲は触手の海に染まっていく。
「沈みなさい、水に落ちた虫のように」
無数の、視界を埋め尽くすかのような触手の群れの全てを迎え撃つかのように刺突剣を振るいまわす、それは剣という一本の線を重ね合わせて作る結界であった。
一つの線にすぎない剣を何十何百と振るって触手を叩き落としていく、群がる触手群は切っ先より先に進むことができないまま切り裂かれて死の力によって灰になっていくのだった。
「容赦がないのね……これならどうかしら」
何が来ようと全てを切り伏せる、そんな思いと共に剣を握りなおすのだが、彼女の視界に触手の海を割って姿を現したのは魔獣の黒色ではなく人間が持つ健康的な肌色である。
そこにいたのは人だ、老若男女問わず無数の人間が壁となって立ちふさがった。
「あら優しい、同族は切れないのね」
クスクスという笑い声が上空から聞こえてくる、そんなあざ笑いに苛立ちを覚えながらキララは刃を引っ込める。
そして高速化していた思考を打ち切った、暗殺者として判断して行動すると無意識の内に殺してしまうおそれがあったからだろう。
殺し屋からキャラバンの団長の顔に戻った彼女は苛立たしそうに舌打ちしてエキドナを見上げた。
「卑怯ね、悪魔らしいわ」
「心地いい評価をありがとう……でも貴女が悪いのよ、強いんだもの」
周囲を取り囲む人々の顔色は悪い、そして体中に奇妙な模様が記されており、誰もが苦しそうにうめき声を上げながら彷徨うようにキララに迫る。
「助け、助けてくれ……体が、あああ!!」
まるでゾンビだ、最初の近づいた一人がそんなことを言いながら迫ってくると、それを皮切りに周囲の人々は一斉に群がって来た。
「ごめんなさい」
身体に刻まれた模様を見るに悪魔の呪いに犯されているのだろう、神官でも魔術師でもない彼女にはその呪いを祓う力はない、なので彼らの顎先に拳を打ち込むことしかできなかった。
殺さないように、傷つけないように、動きを封じる、それは死なせてしまうよりもずっと難しいことなのだろう、彼女からしてみれば脆い人間と戦うよりもエキドナと殺し合う方がずっと楽なのかもしれない。
なんとか隙を見つけて高みの見物を決め込む悪魔を落とすしかない、呪いに支配された人々を無力化しながらキララは常に視界の片隅に悪魔の姿を映すかのような位置取りを意識していく。
そんな彼女を見下ろす悪魔は余裕の表情で空中を漂うのだが、次の瞬間に大きく表情を歪まして顔を青ざめさせる。
そこにあったのは焦りだ、これまで見ることのなかった悪魔らしくない顔が、彼女になしかしらの異常事態が起こったことを示しているようだ。
「えッ、うそ……あの子がやられたっていうの!?」
視線が揺れ動く、その先には聖都の大神殿があった。
「待ちなさい、逃げるつもり!!」
こちらに興味を無くしたのかエキドナは空中を滑るようにその場を後にする、呪いに支配された人々もキララも放置して向かう先は大神殿なのだろう。
そこにいるのは彼女の妹であり、半身であるもう一人のエキドナなのだ……それはつまり彼女にとっての世界の全てである。
何を放置してでも、そこに行くしかなかった。
「やった、のか?」
そんな呟きを聖騎士の一人が零す、それぞれの視線の先には天剣によって真っ二つになったエキドナの死体ががあり、それはピクリとも動かないまま大神殿の床を黒く汚している。
決着はついた、巨大な力を持った悪魔だが天剣の……勇者の一撃を受けてまともに抵抗することもできないまま命を刈り取られたのだ。
まさに圧倒的な一撃であった、この世全ての理不尽を込めたかのような一閃であり、いかに最高位の悪魔といえど真っ二つである。
聖騎士の疑問を肯定するかのようにエキドナの二つに分かれた体は沈黙したままだ、そこから何も起こらずただ血が流れるだけなので、間違いなく彼女は死んだのだろう。
現場に安堵の雰囲気が流れる、巨大な力を持った悪魔であろうと一撃だ、最早敗北は存在しないと考えても不思議はないが、緩んだ空気を正すかのようにアントニウスの檄が飛ぶ。
「まだ油断するな!! エキドナは一対の悪魔であれはその半身にすぎない、もう片方がどこかにいるはずだ、警戒を怠るな!!」
その言葉に聖騎士たちは姿勢を正して周囲の警戒と捜索に力を入れていく、まだ危機が去った訳ではないので安心するのは早いだろう。
そんな彼らに囲まれるように三人娘もいた、部外者である彼女たちも周囲の様子を伺っているのだが、鍛えられた職業軍人ほどの成果が上げられるとは思えないので一カ所に固まって邪魔をしないようにしていた。
一応、警戒はしているのだがそれよりも好奇心が勝ったのか、シャルルの目が黄金の粒子を漂わせている勇者へと向けられる。
「なぁなぁ、あれって勇者なんだよな?」
そんな質問に答えたのはエミリーであった。
「ええ、おそらくは……降霊術による大儀式で勇者様の魂を降ろしたのかと」
「ん……凄い」
「凄いなんて言葉では足りませんよ、これは最早奇跡の領域です……あぁ、この光景に立ち会えるだなんて、これはとてつもない幸運です」
学術的な、魔術的な考えでそんなことを述べるエミリーの鼻息は荒い、頬は赤くなっており恍惚とした表情で勇者を眺めていた。
「わかります、確かにこれは奇跡の領域ですね」
聖女であるマリーもまたエミリーの言葉を肯定した、そして勇者に向けて両手を組んで祈りを捧げていく。
血走った眼をしたエミリーとは温度差が違うものの、シャルルとキャロルの姉妹も興味深そうに勇者を眺める、怖いもの知らずも手伝ってか手を伸ばして触れようともしているようだ。
エミリーやマリーのような、信仰の深い者ならばそんなことは絶対にできないのだが、この二人にはそういった遠慮が存在しないらしい。
「二人とも!! ダメですよ、絶対ダメです!! 勇者様に触れるだなんて恐れ多い」
「いや、勇者っていっても魂を降ろしたって奴だろ?」
「……体は聖騎士の人」
「それはそうですけど……だからといってそんな気安く」
「こんな機会なんて滅多にないんだからさ、天剣に触れるよりもずっと貴重だって……まぁ心配なら許可でも取れば良いじゃん。お~い、おっちゃん!! この人に触ってもいいかな?」
周囲の警戒をしていたアントニウスにそんなことを問いかけると、彼は特に深く考えることもなく許可を出した。
三人を信頼しているからなのか、それとも勇者を傷つけられるものなどいないと確信しているからなのか……おそらくその両方の理由があってのことだろう。
許可を貰ったシャルルとキャロルは、何をするでもなく静かに佇む勇者に手を伸ばした。
「普通の人間だな……キラキラ光ってるけど、翼とか生えてないし」
「ん……頭に輪っかもない」
シャルルの手が勇者の左手を掬い取るように伸びた、意識した行為ではなく何かに引き寄せられるようにそうなったのだ。
「お疲れ様です……貴女が守った世界は今も残っています、これからも私たちが必ず守ります」
「……シャル姉?」
勇者の手を掬いあげてシャルルは祈りを捧げるかのように唇を近づけてキスをすると、そんなことを静かに呟く。
それもまた意識した言葉ではないのだろう、アンジェリーナが降霊術によって勇者の魂を宿して別人になったように、シャルルもまたその術の余波を受けているのかもしれない。
そこにいたのは勇者であり、共に戦った聖騎士であった……アンジェリーナとシャルルではない。
異変を感じ取ったキャロルの助けを求める視線を受けて、エミリーが何かに乗り移られたシャルルの背後へと回った。
そして背中を擦るようにしながら房中術による魂と肉体の繋がりを作る、そして引っ張り上げるようにシャルルの意識を覚醒させていく。
「んぁ!? あ、あれ、なんだ……もしかしてワタシ眠ってたか?」
「そういう訳ではありませんが……降霊術の余波を受けたのかと、おそらくは勇者様に縁のある魂がシャルルの器に入り込んだんだと思うんですが」
「あぁ、そうなのか……なんか夢でも見てた気分だ」
「危険な状態でしたよ、たまたま器に合う魂だったからよかったものの、もっと大きな魂であったのなら精神が耐えきれずに崩壊していたかもしれません」
「ん……ちょっと怖い、シャル姉なのに別人みたいになっていた」
「あぁ、まぁ大丈夫だと思うぞ……なんていうかさ、こう……胸が暖かいっていうかさ、夢見心地だったけど知らない記憶とか流れ込んできて……この人は多分勇者と一緒に戦った人だよ、凄く心配してるみたいでさ」
降ろした魂の記憶をシャルルが継承したということだろう、その魂と彼女の器はそれだけ相性が良かったということなのかもしれない。
「それでも危険は危険です、降霊術を柱とする魔術師はそうやって様々な魂を降ろして経験や知識を収めていくのですが、最後には自我を見失ってしまうんです……本当に危険なんですからね? やっぱりもう少し離れておきましょう」
「わかった、わかったから引っ張んなよ」
「さぁ、キャロルも乗り移られてしまう前に、ね?」
「ん……わかった」
神とは触れるものではなく平伏するくらいの距離が適切なのかもしれない、要らぬ現象に巻き込まれることも怒りに触れることも人は避けるべきだろう。
だが、それに気が付くことはなかったが、離れていく三人娘を眺める勇者の顔はどこか寂しそうではあった。
「総員警戒!! 近いぞ!!」
勇者様に祈りを捧げましょう、そんな説得をしているエミリーの背後からそんな声が響く、警戒していた聖騎士の一人が発した言葉に緩んだ空気が引き締まる。
そして大広間にいた全員がそれを感じ取る、近づいて来る巨大な何かが放つ圧力を。
「お怒りのようだな」
まぁそうだろうなとアントニウスは思った、自分の半分を殺されて怒らない理由がない。
そして聖騎士たちは彼の指示に従って勇者を中心に陣形を作る、激怒した悪魔など竜となにも変わらないので迎え撃つには相応の覚悟が必要だろう。
だが切り札はこちらにある、それも勝利を決定づける戦力である。
大神殿の正門が吹き飛ばされたかのように押し開かれてしまった、その先にいたのは予想通りエキドナであった。
そしてエキドナの深紅に燃える瞳が大神殿で彷徨い、聖騎士と三人娘、そして勇者へと移って最後に自らの片割れへと注視する。
「団長、どうしますか?」
「怒って我を忘れるならやりやすい、士気が挫けるならなおよし……どうであれ勇者様の盾となればいい」
勇者が天剣を振るえば問答無用で決着なのだ、ならば万が一にもエキドナの手がこちらに伸びないように盾となる、それだけで彼らは勝てる。
注意深くエキドナの次の行動を観察しながら彼らは祝福の光を宿す、そして勇者は悪魔を視界にいれた瞬間から天剣を力強く握りなおしていた。
「……ああ、死んじゃったのね」
反応は、アントニウスの予想したどれでもない、怒りを爆発させるでもなく、意志が揺らぐ訳でもない。
無だ、何も考えておらず……そこには余分な感情が一切存在しない、悲しみも怒りもだ。
まだこちらに向かってきた時の方が悍ましい雰囲気があったものだ、しかし半身が真っ二つになっているという状況を確認したエキドナは、途端に怒りを引っ込めて無表情になってしまう。
それは余裕の笑みを浮かべている時や、怒りに歪んだ顔よりも、恐ろしいと感じてしまうものだった。
「大丈夫よ、私たちは二人で一つ……比翼連理の縁がある……決して分かれたりはしない」
エキドナの手がエキドナに伸びる、そしてその手は無数の触手となって分裂する。
戦う時のように棘がついた触手とよく似ているが、その先端が人間の唇のように開いて唾液のようなものを垂らしていることが確認できる、そしてそれらがエキドナの死体を貪り始めた。
一瞬だ、一瞬で床に転がっていたエキドナが捕食されてしまう、一滴の血すらも舐めとってしまう。
「あ、あぁ、これでまた一つになれたわね」
触手が大きなげっぷをすると、次の瞬間に捕食を終えたエキドナの腹部が大きく膨らだ。
それはまるで、妊婦であるかのように。
「……悍ましい怪物め」
自らの腹部を愛おしそうに撫でながらエキドナは大広間を見下ろした、聖騎士を、三人娘を、聖女を……そして勇者を見てからそんなことを言い放つ。
そこにあるのは憎悪と恐れだ、理不尽を目の前にした弱者の瞳である。
だが毒を吐くだけでそれ以上は進まない、寧ろ勇者から距離を取るように空中を漂うと、そのまま大神殿から離れていくようだ。
「どこへ行くつもりだ!?」
「そんな化物とまともに戦う訳ないでしょう……悔しいけどここはソイツの、神の領域なんだから……塗りつぶさせて貰うわね」
羽ばたきながら外へと飛び出たエキドナは天を掴むかのように拳を作る、するとそれに連動するかのように周囲に衝撃が広まった。
「……な、なんだ?」
衝撃は揺れとなって聖都全域に広がっていく、断続的に続くそれは徐々に大きくなっていき、最後には大地を割り砕く何かによって収束する。
「団長、あれを見てください!! 地面から何かが飛び出ています!!」
聖騎士の一人が聖都の現状を確認してそう叫ぶ、確かに巨大な柱のようなものが聖都のあちらこちらに生えている光景が広がっていた。
大神殿を囲うように這えた巨大な柱は九本、そしてその頂上には怪しい輝きを宿す水晶が鎮座しているようだ……それをアントニウスは知っている。
「……闇神殿か」
地下水道を捜索している時に発見した空間によく似ていたのだ、ならば効果も同じだろう、神の領域を塗りつぶすかのように悪魔の領域を広げていると推測できてしまう。
「地下にあった闇神殿は囮だったか……」
「囮、ですか?」
「あぁ、わざと発見させてそれを敢えて破壊し、こちらの警戒を緩くしたんだ、これで大丈夫だとな……しかし本命は更に下にあったということなのだろう、今になって考えればね……我々は見事に騙されてしまったらしい、いやぁまいった」
「感心している場合ではありません、指示を!!」
「やるべきことは何も変わらない、全てを打ち砕き、前に進むだけだ」
彼は振り返って大広間で静かに佇む勇者を見つめた、無感情で無表情な彼女を心配してなのか、こんなことを尋ねる。
「勇者様、我々と共に戦って貰えますかな?」
「……」
勇者は何も答えない、ただその言葉を聞いて天剣を握りなおすと、足音もなく歩き出す……向かう先は闇神殿だ。
「感謝いたします……過去の人物である貴女に今を押し付けてしまった、不甲斐ないばかりですな」
「……」
やはり勇者に言葉はない、だがその顔は気にするなと言いたげであった。
彼女は悪魔と同様に飛翔して真っすぐに闇神殿を目指す、そんな勇者の瞳にある人物が映る。
ラシュリーだ、都市を徘徊する触手を避けるように進みながら大神殿を目指していた。
そんな彼女を見つめながら勇者は僅かに……本当に僅かにだが微笑む。
思い出し笑いのようなものなのかもしれない、少しだけ懐かしく、少しだけ羨ましくもあった。
そして彼女に祈りを捧げる、自分と同じ道を歩むであろう後輩に、少しでも幸あれと。
過去から未来へと送られるそれは、しっかりとラシュリーへと届くのだろう。