ヒュプシュブリューメン ~可憐なる花たち~ 作:ろっくLWK
ちっとも分かってくれない。そんな憤懣の念を抱きながら、カティアは群衆行き交う
事の発端はついぞ先刻。年明け前に無事出産を終えたファムが家に戻ってきたことで、エーベルバッハ家は久方ぶりの賑わいに包まれていた。生まれた女児の名はハンナ。ファムのような優しくて温かい女性に育って欲しいという願いを込め、テオドールは柔らかい響きを持つその名をこの子に与えたのだった。
「ファム姉さんもハンナちゃんも母子共に健康で、ホント良かったですよ。うちの子とも同い年だし、一緒にすくすく育つといいなぁ。ほーらヘンディも、ハンナちゃんにご挨拶っ」
「あう、あう。ばぶぅ!」
二階ホールの談話スペースにて、リィズの腕に抱かれた男児・ヘンドリックが赤ちゃん語でハンナとの初対面を果たした。刹那、リィズの表情がこれ以上無いほどにデレっと緩む。幾多の苦難を経て義兄・テオドールと結ばれ子を授かることが叶ったリィズ。彼女はその結晶たる長男ヘンドリックのことを、控えめに言って溺愛していた。
「んも~、ちゃんと挨拶出来てえらいでちゅねぇヘンディ。大っきくなったらパパみたいにカッコよくて素敵な男子になるんだよ~」
「うふふ、気が早いわよリィズちゃん。でもヘンディ君って顔立ちがテオドール君にそっくりよね。きっとパパに似て精悍な子になるんだろうなー」
「それを言ったらハンナちゃんだって、目元がファム姉さんソックリですよ~。ほっぺたももうホントぷにっぷにで、ファム姉さんのもち肌ばっちり受け継いでるし」
「お肌の色はパパ譲りだけどね。でも美白女子って意味では、これはこれでアリなのかも」
「姉さんの小麦色のお肌もセクシーでいいと思うんですけどねー。どっちの形質がどうなるって、どうやって決まってるんだろ。遺伝子ってホント不思議」
そんなファムたちの楽しげな様子が、少し離れたところで成り行きを見守っていたカティアの胸に突き刺さる。ヘンドリックとハンナ、二人とも本当にかわいい。そのことを素直に認めつつ、けれどこうした心温まる筈の光景を目にする度、カティアはどうしても理屈では解き明かせぬ複雑な感情を抱いてしまう。
「――どうしたカティア?」
背後からの声に振り返る。そこにはアイリスディーナがいた。さっきまで下でアネットと一緒にユルゲンの積み木遊びを手伝っていたと思ったのだが、いつの間に。思いがけぬ人物の登場に狼狽したカティアは、ひとまず場を取り繕おうと努める。
「あ、いえ、何でもないです。お二人の赤ちゃんかわいいなーって思ってただけで、その」
「嘘は良くないぞ。青い顔をして何か物思いに耽っているように、傍からは見受けられたのだが?」
「そ、そうですか? 別にそんな事は、」
「感心しないな。何でも喋れとまでは言わんが、
「ですからその、悩みと言うほどのものではなくてですね、」
「まあいいから。ここで話すのも何だろうし、こっちへ来い」
アイリスディーナの口調は至って柔らかかったが、その雰囲気には有無を言わせぬ凄みがあった。誘われるがまま、カティアはアイリスディーナと共に階下のティールームへと赴く。喧騒から離れた静謐な空間。何か飲むかと尋ねられ、カティアは遠慮がちにコーヒーを所望した。
「あの、いいんですか? ユルゲン君」
「心配無い、今はアネットがついてくれている。元々他人の面倒見が良い方だとは思っていたが、あれはどちらかと言うと子煩悩の気質と呼ぶべきだな。ひと頃のような保護対象に抱く依存心もすっかり抜けたみたいだし、今のアネットになら安心して子守りを任せられる」
「は、はあ……」
「子の面倒を見るというのは、ただ甘やかすばかりではいけないからな。危ないことがあれば叱らなければいけない時もあるし、何故そうなったのかを懇々と諭さなくてはならない事もある。特に目離しならない時期というのは、くたびれたとか眠たいなんて理由で投げ出すことも許されない。それはいずれも、対象への依存心に凝り固まった人間にはどうあがいたって出来やしないものだ。――尤も、そのことを私に教えてくれたのも
やがて湯気と共に、ほわりと芳しい香気がドリッパーから漂ってくる。アイリスディーナの淹れてくれるコーヒーはいつも絶品だ。取り寄せ品とは言え合成豆を使っているので本来味など知れたものの筈なのだが、彼女曰くは淹れ方にコツがあるのだという。いつもならその香りと酸味を存分に満喫といきたいところだが、今日は妙な窮屈さも相まって、とてもリラックスできるような気分では無かった。
「さあ、召し上がれ」
「えっと、いただきます」
手に取ったカップをおずおずと口に運ぶ。やはりと言うべきか、緊張のせいで味が良く分からない。とりあえず「美味しいです」と告げたカティアの煮え切らなさを汲んだのか、アイリスディーナは口の端をむず痒そうな形に歪めた。
「アイルランドでも合成品ばかりなのは変わらんが、
アイリスディーナが優雅にコーヒーカップを傾ける。その様子を視界の端に捉えつつ、カティアはキツネにつままれたような心地になっていた。事前の想定に反し、彼女の口は時折カップに付けてはぴったりと閉じてを繰り返すばかりで、そこから質疑や勧告が出てくる兆候は一向に見られない。『こんなところに連れ込まれて何を言われることか』と初めは緊張していたのだが、もしかしてそれはただの杞憂に過ぎず、単に元気の無い自分を和ませようとしてくれているだけなのかも。そう思い直しつつ、再びコーヒーに口を付ける。
「羨ましいなあ、私も早く子供が欲しいのに。――考えていたのは大方そんなところか?」
ぶふう、とカティアはコーヒーを噴き出してしまう。完全に油断していたタイミングを突かれ「かは、かは、」と噎せる自分を、アイリスディーナはくすくすと可笑しがった。
「す、すびばぜん」
「いや、こっちこそ笑ったりなどして済まなかった。しかしお前は分かりやす過ぎるぞ。隠すなら隠すで、もっと涼しい顔をしていられるようにならないと」
「はあ」
そうは言われても。床にぶち撒けたコーヒーの飛沫を拭き取りながら、カティアはちらりと頭上のアイリスディーナを窺う。この人のようになれたらどんなに良いことか。あらゆる意味で完璧超人と呼ぶべき存在である彼女を前にして、カティアはますます己のちっぽけさというものを感じ委縮してしまう。
「まあ、カティアの気持ちも分からないではない。今後に備えて仕事のヤマを片付けるため邁進中のグレーテルと違い、お前は自分の職務にも一区切りが付いて、そろそろ子を儲けるのにも良い頃合いだ。それなのに他の妻たちばかりが次々出産という状況をまざまざと見せつけられては、なかなか子の出来ないことに焦りもすれば羨みもするだろう」
「いえ。なかなか出来ないっていうかその前に、そのう」
「とは言え、こればかりは授かりものだからな。我が家に開放式の煙突は無いが、来るも来ないも
「あの! ですから、そうではなくて」
声を振り絞ってアイリスディーナの言葉を遮る。彼女の気持ちはとてもありがたかったが、その推察に関してだけは、自分を悩ませる実情から少しずれていた。
「……ないんです」
「え?」
「してもらってないんです。まだ、テオドールさんに」
――は? とアイリスディーナがその美しい目を丸くした。彼女のそんな表情を見たのはこれが初めてだったせいで、カティアもまた内心面食らってしまう。
「まだ、というのはつまりその、
「はい。その、
「だがテオドールはお前の部屋へも行っているだろう。それも私の憶えている限り、一度や二度では無かった筈だ。それでも?」
「あるにはあるんですけど、いつもお話しながら横で添い寝してもらうだけで、そういうことにならなくて。一応はネグリジェに気を遣ったり、ぺたぺたくっついてスキンシップしてみたりはしてるんですけど……その、キ、キスもして貰ったことなくて」
「……あ、……さすがに驚いた。いや、呆れたというか何というか……」
アイリスディーナが額に手を当て天を仰ぐ。正直に告げたカティアもまた恥ずかしくて情けなくて、いたたまれず視線を床に投げ落とした。この左手薬指に嵌まったシルバーリングはテオドールと交わした夫婦の証。本来なら眩いほどに輝いている筈のそれは、いかに便宜上とは言えその関係性に見合うだけの既成事実を何も築けていない現状のせいで、どんよりと鈍く曇っているみたいに見えた。
「やっぱり私、女性として魅力が無いんでしょうか」
「そんなことは無い。カティアは健気で可憐だし、ともすれば私などよりずっと女らしい気質を有しているぞ。テオドールだってそうと思ってはいる筈だ」
「でも、この家でまだしてないのって、きっと私だけですよね。グレーテルさんもアネットさんも、お部屋で一緒に過ごした回数と同じくらいの経験はあるって仰ってましたし……」
そのことは過日、それとなく個別に尋ねて知り得ていた。まだ子を授かっていないグレーテルやアネットは単にきちんと避妊をしているだけで、そもそも自分のように触れられもしないなんて状況にある訳では無いのだ。故にカティアはこのことを他の誰にも相談できぬまま、今の今までひっそりと胸の内に抱え込んでしまっていた。
「全く。近頃は大分マシになってきたと思っていたんだが、よもや肝心なところが未熟なままだったとは……」
「すみません、私なりに頑張ってきたつもりだったんですけど」
「ああいや違う、カティアのことじゃない。今のはどこぞの唐変木の話だ」
はあー、と長い嘆息をこぼし、アイリスディーナが腕を組む。
「ともあれ、カティアが望んでいるのなら何とかしなければな。テオドールもそろそろ帰ってくる頃合いだろうし、いっそ私が口添えをしようか?」
「あ、いえそれは。テオドールさんに無理にさせるみたいなのは気が引ける、と言いますか」
「ふむ。確かにそれではカティアの望むものとはならないか。さりとてこれは、どうしたものか……」
そのまましばし二人の沈思黙考が続く。いっそ本人に直接的に迫れば、それで事は簡単に解決するのかも知れない。恐らくはアイリスディーナも選択肢の一つとしてそれを考えてはいるだろう。だがそのことを自分に言わずにいてくれたのは、そしてそれを自分が実行していないのは、単純にカティアが恐れているからだった。誰よりも愛しているテオドールに、自分という存在を、拒絶されてしまうのが。
「……悩んでばかりいても答えは出ない、か。突き放すようで申し訳無いが、やはりカティアから本人に話をしてみるのが現状では最善策かも知れない」
「……はい」
「だが念のために言っておく。この家にカティアの味方でない者など一人としていない。誰も彼もがお前の優しさと勇気に救われ、お前に支えられたからこそ今があるんだ。その恩義と尊敬の念を、私たちは確かに抱いている。何かあれば皆相談に乗ってくれるし、協力が欲しい時には惜しみなく力を貸す。私もその一人だという事を、忘れないで欲しい」
「……ありがとうございます、アイリスさん」
しょんぼりしながらお礼を告げると、アイリスディーナは少し申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。テオドールに直接この話をする。それはカティアにとってはある意味、一世一代の賭けだった。
「ただいま。遅くなった」
それから小一時間もしないうちに、外出していたテオドールが家へ戻ってきた。
「お帰りお兄ちゃん。ほらヘンディ、パパにおかえりはー?」
「あきゃ、きゃぁ!」
リィズの腕の中でヘンドリックが元気にご挨拶をしている。彼を産んで後、リィズはトレードマークにしていたツーサイドアップの髪型をやめ、少し短くした髪を後ろで一本に束ねるようになった。その淑やかな姿も赤子を扱う手つきも、どれを取っても今のリィズは実に母親らしい。ホールの向こうでちょこちょこと楽しげに踊る彼女のポニーテールに目を奪われつつ、カティアはリビングからこっそりと二人のやり取りに耳を傾ける。
「よしよし、ヘンディも元気にしてたか。ファムとハンナはどうしてる?」
「お部屋にいるよ。呼んでくる?」
「いや、こっちから行く。すぐ戻るからリィズたちはゆっくりしててくれ」
「分かった。じゃあヘンディと
玄関から上がってきたテオドールが、そのままファムたちの部屋へと向かう。一部始終をソファに座りながら窺っていたカティアは、そこへ戻ってきたリィズとパッチリ目を合わせてしまった。
「どうしたのカティアちゃん? なんか元気無いっていうか、ソワソワしてる感じだけど」
「あ、いえ。何でも」
「ひょっとして何か心配事? ダメだよー溜め込んだら。何かあるなら言ってね。カティアちゃんのことなら私、何でも相談に乗るから!」
「……はい。もしかしたら、後でお願いするかもです」
「後で??」
リィズが訝しそうに首を捻る。出来ればそういう事態にはならないで欲しい。そう祈りつつも、カティアにはリィズのその気遣いがひたすらありがたかった。
「おぎゃ、ひくっ……ひく、えう、あああああ~~~~!」
「あらあら。どーしたのヘンディ、泣かない泣かない。んー、この感じだとおむつかなー」
母となって半年となるリィズはどうやら、泣き方一つで我が子が何を求めているのかをすっかり把握できているらしかった。それもまた羨ましい。ぎゃあぎゃあと泣き喚くヘンドリックを前にして、出産どころか赤子をまともに扱った経験の無い自分などは、ただひたすらオロオロとするばかりだ。
「ありゃ、リビングのおむつ切らしちゃってた。部屋に取りにいかないと」
「あ、私取ってきます」
「じゃあ悪いけどお願いしちゃうね。化粧台の脇に置いてあるから、袋ごと持ってきて」
「はい」
階段を上ってリィズの部屋へと直行したカティアは、言われた通りの場所に置かれてあった合成紙おむつの束に手を掛ける。ふと室内に視線を巡らせると、彼女が退院してきたほんの一年ちょっと前までには無かったものが、そこにいくつも置かれていた。アイリスからレンタルしたベビーベッド。吊り下げ式のメリーゴーラウンド。この紙おむつを含めた数々の育児用品。ほのかに漂うミルク臭。そのいずれもが、現状の自分には無縁のものばかりだ。
――いいなあ。胸の内から湧き出るそんな気持ちに無理やり封をして、カティアはリビングに戻る。
「ありがとカティアちゃん。さあヘンディ、気持ち悪いのふきふきしちゃうからねー」
紙おむつを受け取ったリィズが、ヘンドリックの履いていたおむつを手際良く捌いて後始末をする。さて新しいおむつを履かせよう、というタイミングで、カティアは半ば衝動的に口を開いた。
「あの、リィズさんっ!」
「うぇっ? ビックリしたぁ。何?」
「その、ヘンドリック君のおむつ交換、私にやらせてもらえないでしょうか」
「おむつ替え? ……うん、別にいいけど」
どこか呆気に取られた様子のリィズは、しかしほんの少し訝しがっただけですぐさまカティアに場を譲ってくれた。こっちをまっすぐ見るヘンドリックのあどけなさ過ぎる瞳。少し触れただけでもすぐに壊れてしまいそうなほど、小さな小さな命の柔らかさとぬくもり。それにカティアは恐る恐る手を添える。
「じゃあまずは新しいおむつを広げて、お尻の下に敷いてあげて」
「はいっ」
「そうそう。そしたら履いてた方のおむつを包んで取って、新しいおむつの前側を持ち上げて……」
リィズの手ほどきを受けながら、カティアは丁寧に一つひとつの作業をこなしていく。と、突然ヘンドリックが「おぎゃぁ~~」と叫びながら手足をバタバタさせ始めた。
「わ、わ、」
ヘンドリックがむずかるせいでどうにも上手く紙おむつを付けられない。どうしよう、とカティアが焦っていたその時、横から顔を覗かせたリィズがヘンドリックのおなかをポンポンと優しく叩きながら彼に声を掛けた。
「よーしよし、怖くないよー。カティアママがねぇ、ヘンディのおむつ交換してくれるんだって。キレイキレイしてもらえて良かったねぇ。ほらカティアちゃんも、今みたいな感じであやしてあげて」
「は、はい。よしよしヘンドリック君~、怖くないですよー。ほーらいい子いい子、ね~」
「……ぐず、うううう」
泣く子をあやすのもなかなかリィズみたく上手には出来ない。一体どうやれば赤ちゃんは喜ぶものなのだろう。しばらく試行錯誤を繰り返しながら、カティアは必死にヘンドリックと向き合い続ける。
「いないいなーい、ばぁー。ほら笑いましょ~、ヘンドリック君はとっても可愛いよ~」
「……あう、うぅ~~。きゃっきゃっ」
懇ろにあやされたことでようやっとご機嫌になったのか、ヘンドリックが再び落ち着きを取り戻してくれた。その隙におむつのギャザーを立てて前で留め、緩みが無いかを確認して。……うまくやれたかどうかは分からないが、指示通りの手順はどうにか無事にこなすことが出来た。
「どれどれ……うん、バッチリ。ほーらぁヘンディ、カティアママがキレイにしてくれたよー。お尻すっきりで気持ちいいでちゅねー」
「あぅまうっ、きゃはは」
リィズに頬をすりすりされ、ヘンドリックが愉快げな声を上げる。その様子を見てようやく、カティアは溜め込んでいた息を「どはあ、」と一斉に吐き出すことが許された。
「んーっ! すっかりご機嫌。カティアちゃんありがとね、上手だったよ」
「いえ。リィズさんが横で教えてくれたお陰ですよ」
「おむつ交換したの初めてだよね? それであれだけ上手くやれたら大したもんだよ。私なんて最初の頃は全然上手く出来なくて、いっつもアイリスさんに泣きついてたもん」
「あはは……」
「でも毎日やってればすぐ慣れるし、一回経験しておけば『こんなもんだー』って分かるだろうから。これでカティアちゃんも、いつ赤ちゃん出来ても大丈夫だねっ」
極めて朗らかな彼女の一言が、カティアの心臓にずきりと刺さる。そうですね、と応えた自分の様子におかしなところは無かっただろうか。ん、と喉を鳴らしたリィズはしかし、そこで声を引っ込めるように一瞬押し黙った。
「ねぇカティアちゃん、赤ちゃん触るのって怖くなかった?」
「え? まぁ、はい、そうですね」
「この子はもう首も据わってるけど、それでも全身ふにゃふにゃで、ちょっとでも乱暴にしたらすぐ壊れちゃいそうだし。私も最初はすっごく怖くて、うっかり落としたりぶつけたりしたらどうしよう、ってすごくハラハラしてたよ。夜も眠れないくらいにね」
けどね、とリィズはヘンドリックに慈しみの目を向ける。
「毎日面倒見てるうちに、だんだん自分の中に責任感みたいなのが芽生えてきて。命を懸けて産んだお兄ちゃんとの子供なんだから、この子のこと絶対守んなくちゃって。偉くならなくたっていいから、元気で立派な子に育って欲しいって。自分がそんな風になる日が来るだなんて、
「……はい」
相槌を打ちながら、カティアもまた感慨に耽る。リィズは本当に母らしくなった。それを醸造するものは優しさだけではない。さっきのアイリスディーナの言を借りるなら、リィズは本当の意味での強さをも獲得したのだろう。それが子を産み育てる過程で得たものなのであれば、その強さも優しさも、今の自分には無いものだ。そういう思いが、カティアの胸の内にむず痒さをもたらす。
「あぁごめん、何かしんみりさせちゃった。とにかく私が言いたいのは、カティアちゃんなら絶対素敵なママになれるってこと! だからもっと自信持ってよ。もし何か困りごとがあったらママ同士、何でも話してくれていいんだから。もちろん、ママになる前だってね」
にっこりと笑ったリィズはきっと、彼女の目いっぱいでもって自分を慮ってくれていた。彼女の気持ちの大きさに、カティアの心もまたほんのちょっぴり安らぐ。ありがとうございます、と素直にお礼を述べたちょうどその時、テオドールがリビングへ戻ってきた。
「悪い、待たせた。……お、随分ご機嫌だなヘンドリック」
「あっ、ちょうどいいところに! 聞いて聞いてお兄ちゃん。今回ね、カティアちゃんがおむつ替えてくれたんだよ」
「カティアが?」
「うん、上手にやってもらってヘンディもすっかりご機嫌だよ。ねえカティアちゃん」
「あ、えとその、はい」
「そうか。ありがとうなカティア、ヘンドリックの面倒見てもらって」
「いえ、そんな……」
いざ面と向かうとなかなか話を切り出せない。しばらくもじもじとしていた間にテオドールはリィズと何やら会話をし始めてしまい、カティア一人がポツンと取り置かれる格好となってしまった。
「戻ったか、テオ」
そこにリビングの奥廊下からアイリスが姿を覗かせた。ただいま、と告げたテオドールにアイリスは一度頷き、それからこちらにチラリと視線を寄越した。
「済まないがさっきまでユルゲンの遊び相手をしていたもので、まだ夕飯の支度が整っていなくてな。リィズと二人で急ぎ用意するから、それまでの間カティアと部屋で過ごしていてくれないか」
「え、上で? 俺も手伝わなくていいのか?」
「ああ。カティアが何やら、テオに相談したいことがあるらしくてな」
そう告げたアイリスが、こちらに目配せをした。今のうちにテオドールと話をしろ。その助け舟に小さく感謝の会釈を返し、カティアは腹を括ってテオドールに向き直る。
「お、お願いしますテオドールさん」
「……? まあ分かった。それじゃこっちはよろしく頼む」
テオドールを伴って、カティアは自室へと向かう。アイリスの傍を通り過ぎるとき、彼女はただ一言「がんばれよ」と、その囁きだけを授けてくれた。
「で、何だ相談って」
ドアを閉めたテオドールが怪訝な顔つきでこちらを見ている。あのその、としばらく言葉を選んだ末に、カティアは重く軋んだ口を開いた。
「えっと、ですね。……子供の事、なんですけど」
「子供?」
オウム返しにそう尋ねつつ、テオドールがベッドへと腰を下ろす。その前に自分が立つと、ちょうど彼を見下ろすような目線の高さとなった。何だかテオドールを責めているみたいなその位置関係に、カティアは少々気後れしてしまう。
「私っ、テオドールさんの子供が欲しいんです」
思い切ってそう宣言すると、はっ!? とテオドールはその目を瞠った。
「き、急に何を、」
「急じゃないです。そのための準備も、ずっとして来ました」
なるべく一方的な物言いにならないように、慎重に慎重を重ねつつ、カティアは自分の気持ちをテオドールの前に並べてゆく。
「今までは私の年齢的なことがあったり、リィズさんとファムお姉さんの出産やキルケさんへの対応でテオドールさんも忙しかったと思いますし。でもそれもひと段落しましたから、私もそろそろかなって思ってて。ですからその、――いつならいいのかな、って」
「カティア……?」
「無理を言うつもりはありません。テオドールさんがお忙しいのは分かってますし、出来るときに言っていただければ。……でも私たち、ずっとそういうの、してきてませんでしたから。なので一度きちんとお話をした方がいいと思って、それでここに来ていただいたんです」
ひとしきり喋ってから一旦発言を区切り、テオドールの返答を待ってみる。固く口を結んだテオドールからはなかなか言葉が出てこなかった。苛立ちにも似た焦燥感から、カティアはつい追って口を開いてしまう。
「……それとも何か、出来ない事情があるんでしょうか」
自分の思いつく限り、そんなものは一つも無かった。『革命の象徴』としての自身の職務には、昨年いっぱいまででひとまずの目処を付けてある。実務的なことは政府や関係者が実働する段階にまでシフトした。この家の状況についても先述の通り。年齢的な問題も、昨年十八歳の誕生日を迎えた折にグレーテルからようやくの容認を貰えてもいる。他に誰も何も、自分とテオドールが子作りをすることを咎めるものなど無い筈だ。
「私だって女の子です。テオドールさんの妻です。この家で一緒に暮らしてずっとテオドールさんの、大事な人の子供を授かりたいって、ずっとそう思ってました。今は無理でももう少ししたらきっと、って。……そう思ってたのは、私だけだったんでしょうか」
だめだ。これ以上何かを言おうとしたら全部愚痴になってしまう。そうと感じて口を噤んだカティアに、テオドールは何か迷うような仕草をしつつも「そうじゃない」と声を洩らした。
「カティアに問題があるとか、そういうんじゃない。お前は何も悪くないんだ。ただ……」
「ただ?」
「――いや。とにかく、この件に関しては俺の配慮が足りなかった。許してくれ」
「いえ……配慮だなんて。そんなこと」
謝って欲しい訳じゃなかった。そこで立ち上がって抱き締めてくれさえすれば、初めてのキスを優しく交わしてくれれば、それで何もかもおしまいに出来た。けれどテオドールはベッドに座ったままで指一本さえも動かさない。ここまで言ってるのにどうして。そんな刺々しい気持ちが、カティアの中で鎌首をもたげる。
「……テオドールさんは、私が子供を作ることについて、どう思ってますか?」
それはほとんど地雷を踏むのと同じ、と言っていいぐらい危うい質問だった。万が一爆発させてしまえば全てが壊れる。だがここで踏み出さなければ先も無い。その一歩手前でずっと留まってきたことが今までの、そしてこの事態を招いているのだから。
「……正直を言えば、お前にはまだ早いと思ってる」
「早、い?」
テオドールの言っていることの意味が分からない。己の声に苛立ちが混ざらぬよう、苦心しながらカティアは尋ねた。
「どういうことですか。私だってもう、法的に結婚が許されてる歳なんですよ。仮にもっと早くに妊娠してたとしても、こういう時代ですから悪く言う人なんて誰も居ません。国の保障だって申請すればちゃんと受けられます。テオドールさんだって、私たちと共同で暮らしてることは色々言われてるかもですけど、皆さんとの子供を作ること自体を咎められたりはしてない筈です。それでも早いって言うんですか?」
「みんなはまあ、大人だから……」
「私だってもう大人ですよ」
かあっと熱くなってしまい、カティアは即座に反論する。お前はまだ子供だ。今のテオドールの物言いは暗にそう言っているみたいに、自分には聞こえた。
「アイリスさんもファムさんも、あんなに反対してたグレーテルさんだって今はもう、私を大人扱いして下さってます。アネットさんもいつも応援してくれてますし、さっきヘンドリック君のオムツ替えをした時だって、いつ子供が出来ても大丈夫だねってリィズさんに言ってもらえました。決して遅くは無いですけど、今子供が出来たって早いワケじゃないと私は思います」
「カティア。だからそれは、」
「私、いつになったらテオドールさんに一人前の女として見てもらえるんでしょうか。リィズさんやアネットさんだって、初めてテオドールさんに抱かれたのは今の私より年下だった時ですよね。私はまだそういうことすらしてません。それで子供なんて、出来るわけないじゃないですか。――それともやっぱり私が原因ですか? テオドールさんがそうしてくれないのは何か、私に悪いところがあるからなんですよね、きっと」
「違う! いいから落ち着いて俺の話を聞いてくれ」
「分かりません。私、分からないです。自分なりに出来ることは全部やってきたんですよ。テオドールさんのこと沢山気遣ったり、お料理やおめかしも頑張って覚えたり。夜一緒に過ごす時だって、いつテオドールさんに求められてもいいようにって、服装やベッドにも気を遣ってました。今より少しでもテオドールさんに私を好きになってもらいたくて、皆さんみたいに抱いて欲しくて。……なのに、それなのに」
気付けば自分の声は震えていた。視界が歪んで彼の顔も良く見えない。気分はひどくみじめだった。カティア、と名を告げる声と共に伸ばされたテオドールの手から、カティアは反射的に逃げてしまう。本当はそこで追い掛けてきて欲しかった。無理やりにでも自分を繋ぎ止めて、そのまま引き戻して欲しかった。なのに、彼の手がその一歩手前でするすると退いてゆくのが、たまらなく悔しい。
「……傷付けたくなかったんだ」
「――え?」
「お前を、傷付けたくなかった。だから俺は……」
そんな。そんなの。頭の中でふつふつと煮え滾っていたものが、とうとう大きく弾ける。
「誰が傷付くっていうんですか! そんなのただの言い訳ですっ。私はずっと、待ってたのに……私だって……何で……!!」
もうそれ以上は言葉にならなかった。気付けば自分の足は部屋を飛び出し、玄関めがけて一直線に駆けていた。
「カティアっ!」
追いすがるテオドールの声にも耳を貸さない。着の身着のままで飛び出したカティアを出迎えてくれたのは、切れるように冷たい冬の空気だけだった。
――あれからどのくらい歩いただろう。いつの間にかすっかり日も暮れてしまい、それに伴って気温はどんどん下がっている。はあ、と吐いた息で手を温めながら、それでもカティアはどこに行くことも出来ぬまま、ぽつぽつと明かりの灯り始めた通りを彷徨し続けていた。
テオドールと喧嘩をしてしまった。それは今頃みんなにも伝わっている事だろう。あそこへ戻ればあの険悪な空気を蒸し返してしまいそうで、帰りたくなかった。さりとて他に家族もおらず、財布も持たずに家を出てしまった自分にはどこへ行く当てもない。さっきまではあんなに温かくて賑やかだったのに、今の自分は、ひとりぼっちだ。そうと実感するカティアをぴゅうと一筋の寒風が切り付ける。平素は冬場であっても温暖な気候を保つこの地も、今日は珍しく寒々としていた。それともこの寒さはひょっとして、他に寄りかかるべきぬくもりを持たない己の寂しさが生み出したものに過ぎないのかも知れない。
「テオドールさんと喧嘩、か。久々にしちゃったな……」
そう独り言ちてみても、言葉を返してくれる者は誰もいない。空白の時間に足音を刻みながらカティアは思い耽る。かつて旧首都ベルリンがまだ健在だった頃、そして自分が東ドイツに亡命して間も無い頃、テオドールとは頻繁にぶつかり合っていた。私の気持ちを少しも分かってくれない。テオドールさんは意気地が無い。そうとすら思ってしまったこともある。そんな自分の方こそ考えが甘かったのだという事を、あの時あの場で、カティアは嫌と言うほど思い知らされた。
「……クルトさん。ヴィヴィさん……」
ノィエンハーゲン要塞陣地。かつて東ドイツ防衛の要として存在していたその場所で、カティアは彼らを始めとした多くの存在に生かされ、そして彼らを救えなかった。西と東を一つにしたい、この国を変えたいなどと威勢の良いことを宣いながらも、変えるべきその国の実情など何一つとして分かっていなかったあの頃。己のせいで一つまた一つと人命が失われてゆく様を前にして、愚かで脆弱だった自分はただ怯え泣き叫ぶばかりだった。
『――あんたのここでの仕事は生き残ることだ! 分かったか!!』
そう叫んで自分の横面を張ったクルトの怒気と頬に感じた痛みは、今でも鮮明に覚えている。この身に浴びたヴィヴィの夥しい鮮血、まとわりつく臓物の感触、それらの生温かさと共に。それは命の痛みだった。あの地獄のような経験を経てカティアはこの国の何たるかを知り、何を守り何を変えるべきかを知り、その為に自分にしか出来ないことをすべきなのだと知った。だから今でもこう思う。自分が革命の象徴であると言うのなら、その自分をあそこで生き永らえさせてくれた彼らこそが、この国を変革した本当の勇士たちだったのだと。
「私、どうしたらいいんでしょう……」
多くの命が一夜にして散った。どこを向いても絶望ばかりだった。自分のちっぽけさをまざまざと思い知らされた。ちょうど今と同じように、あの時の自分はひとりぼっちだった。そんな暗闇の淵にいたカティアを救ってくれたのが、細々と灯る東ドイツの夜景を望む要塞観測所、その高台へと自分を連れ出してくれたクルトの言葉だった。
『……それは思い違いだ』
『本当に迷惑なら、あんたはこの国に来てすぐに逮捕されていた筈だ』
『ということは、あんたの仲間はそれを理解した上で守ってくれてた、って事だろ?』
それは本当にその通りだった。自分はテオドールに、アイリスに、守られていた。いつ追い出されたって、それどころか殺されたっておかしくない状況で、自分は彼らに守られながら生きていた。ともすれば自分と関わったせいで彼らの方こそが命を落としていたかも知れない、そんな極めて危うい状況の中で。そうして誰かに守られながら生きていたからこそ、誰かに庇われながら戦うことが出来たからこそ、自分は己にしか成せないことを成せたのだ。
「――そっか、そういう事なんだ」
その時はたとカティアは気付く。自分はいつの間にか、一人で何でもできる気になっていた。それでは愚かだったあの頃と大差無い。自分を苛むものがBETAや国家といった途方も無いものかそうでないか、ただそれだけの違いだ。
その時自分を救ってくれたものは何だ。増長していた自分を諫め、守り、共に戦ってくれたものは何だ。そうした存在をいつからか、自分は軽んじるようになっていたのではないか? 女として妻として構ってもらえないことに焦って苛立ってばかりで、彼が何故そうするのかを知ろうとしなくなっていたのではないか? そうして思い込みのままに突っ走って上手くいかないと喚いていたのでは、そんな子供じみた自分はあの頃と同じ、いやそれ以下だ。
「分かってないのは、やっぱり私だったんだ……」
すっかり途方に暮れたカティアは何かに縋るように周囲を見渡す。無意識のうちに動かしていた足はいつの間にか、自分を郊外の高台公園にまで運んでいた。夜風はますます冷たくなっていて、周囲にはほとんど灯りも無く真っ暗。ここで泣き叫んでもきっと誰も来てくれない。それに今から引き返そうにも、疲労と寒気のせいで消耗し切った体は思うように動かなくて、どうにか近くのベンチまで漕ぎつけるだけでも精いっぱいだった。
氷のように冷たい座面にその身を横たえ、カティアは浅く息をつく。どうして私はいっつもこうなんだろう。気付いた時にはいつも手遅れ。こぼれたものはもう取り戻せない。それで後悔したことは過去何度もあった。あと何回こんなことを繰り返せば、いい加減自分は学習できるのだろう。――そんなことをここで言っても始まらないか。温度の下がった四肢がぶるぶると震え、だんだん視界が霞んできた。
「――ごめんなさい……テオドール、さん……」
カティアは目を閉じて思考を放棄し、身体がゆっくりと沈んでいく感覚に、ただ全てを任せた。きっと朝までは保たない。ぐるぐると巻き付いてくるそんな予感に、ただ一人きりで怯えながら。
……ティア……カティア……
ああ、温かいあの人の声が聞こえる。一切の温度を感じない世界。体は相変わらず動かなかった。いや、もう肉体なんてとっくに無くなってしまったのかも知れない。やり残したこと、いっぱいあったのにな。ぼうっとする意識の中で、どこからか響くその声だけが、カティアをやんわりと包み込んでいた。
……カティア、カティアっ……
その声が好きだった。普段はナイフみたいに尖ってて、だけど本当はすごく優しくて。それは最初から分かっていた。きっとこの人も凍えていたんだ。だからこの人が温まる、この人を温めてあげられる、そんな国にしたい。色んな事に振り回されてすっかり冷え切ってしまったこの人の内に眠る、本当の温かさを解き放ってあげたい。ずっとそう思ってきた。そう。初めて出会ったその瞬間から、自分はこの人のことを、ずっと。
「――カティア! 目を覚ませカティアっ!!」
「…………テオ、ドール……さん……」
「カティア……っ!」
ゆるゆると開いた視界、その先にはテオドールの姿があった。どうして? 一度そう考えて、それからカティアは何か温かいものが全身を、まるで産着のように包み込んでいることに気が付く。凍えた体を動かすことは依然として叶わなかったが、それでも自分が命の危機に瀕しているわけではない、ということは何となくの感覚で分かった。
「馬鹿野郎ッッ!!」
「――あ」
「こんな寒い日にこんな薄着で長時間ほっつき歩いてっ! もし誰も見つけられなかったらどうするつもりだったんだよ!!」
「……す、みま、せん…………」
カティアはセーター姿のテオドールに膝枕されていた。この体を包んでいるものは、それまで彼が身につけていたであろう厚手のコートとマフラーだ。そこまで頭が回るようになってようやっと理解した。寒さに凍えて昏倒した自分のことを、彼が見つけて救ってくれたのだと。
「――――とにかく良かった、体が冷え切る前に見つけられて」
「……テオドール、さんは……? さむく、ありませんか……?」
「俺のことなんかどうでもいい。さっきまで走り回ってたから暑いぐらいだ。それより、どこか体におかしいところはないか? 意識はハッキリしてるか?」
「大丈夫、です。まだうまく、からだ、動きませんけど。今はすごく、あったかくて……」
「……そうか」
ふう、と安堵の吐息をこぼしたテオドールに優しい手つきで髪を撫でられる。彼のその手はくすぐったくて、じんわりと沁みる温かさがとても心地良かった。
「とにかく、このままじゃ風邪を通り越して低体温症になっちまう。すぐ体を温めないと。アイリスたちが湯を沸かしてくれてるから、家に帰るぞ」
「待って下さい」
寒さに震える唇を必死に動かして、カティアは自分を抱き運ぼうとしたテオドールをその場に留める。
「今は大丈夫ですから。……それよりこのまま、少し話をさせて下さい」
「だけどお前――」
「本当に平気です。それに、すぐ済みますから」
「……分かった。けど五分だけだぞ」
はい、と頷き、カティアは深呼吸をした。冷たい空気が肺の奥まで入ってきて、まだぼやけていた意識が段々と澄んでゆく。そんな自分を抱っこした姿勢のままで、テオドールは外気から自分を庇うようにギュウと強く抱き締めてくれた。よくよく近くで見てみれば、彼の頬には幾つもの涙の痕が走っていた。
「……ごめんなさい。私、自分勝手でした」
「何言ってんだよ、悪いのは俺だ。勝手な思い込みをしてたせいで、お前を傷付けたんだから」
テオドールの謝罪に、ううん、とカティアは首を振る。
「テオドールさんは何も悪くないです。私、テオドールさんの気持ち、何も考えてませんでした」
神妙な表情を浮かべるテオドールの寒気に冷えたその頬を、カティアは撫でてあげたかった。けれど凍え切った今の自分では彼を温めてあげることは出来ない。だから代わりにぽつぽつと、カティアは自分の想いを吐露していく。
「私、きっと焦ってたんです。皆さんが次々と子供を産んで、グレーテルさんもアネットさんもテオドールさんに沢山愛してもらってて、その中で私だけが……って。ひとりぼっちになりたくなくて、早く皆さんと同じところに立ちたくて。それで私、ワガママになってました」
「そんなこと無い。お前がこの事をどれだけ真剣に考えてたか、これっぽっちも分かってなかった俺のせいだ」
「いいえ……私が悪いんです。今までテオドールさんが、皆さんがどれだけ私のことを守って下さっていたか。自分がどれだけ皆さんに大事にされてきたか。それを忘れて、自分だけが除け者にされているみたいに感じてた私が、バカだったんです」
――ああ何だ、こんな簡単なことだったのか。いざ正直に白状してしまえば、さっきまでの重苦しい気分はあっという間に吹き飛んでしまった。その安堵感にカティアはほうと息をつく。焦って怯えて、意固地になって。そんな自分にあれこれ理屈をくっつけて正当化していくうちに、いつしか本音はずっと奥底にまで埋もれてしまっていた。今まで自分が苦しがっていたのはつまり、嫉妬や恐怖でぎゅうぎゅうに押し潰された己の心が、今にもパンクしそうになっていたからだったのだ。
「ほんと、バカですよね。もっと早くに皆さんに、テオドールさんに言ってたら良かった。皆さんが今でも私を守ってくれていたこと、もっと早くに思い出せてたら良かった。一人で何とかしようとしてばかりで、ずっと空回りしてました」
「バカなんかじゃない。俺はずっと、お前に甘えてた。お前を傷付けたくない。お前を守ってやりたい。そういう気持ちを盾にして、お前に手を出すことをずっと避けてたんだ。お前が我慢してることに気付かないまま、それでいいんだって思い込んで、それが却ってカティアを傷付けることになってるとも知らずに……俺の方こそバカだったよ」
「バカじゃないです。テオドールさんは優しいんです」
「優しさなんかじゃない。本当に優しいヤツは、自分を慕ってくれる女にこんな真似させるようなバカをしでかしたりしないさ」
「ふふふ。お互い自分のことをバカだバカだって言い合うの、何だかおかしいですね」
「……はは、確かにそうだな」
テオドールの温かさに包まれて、カティアは彼と共にくすくすと笑い合う。
「でもこれって、似た者同士、ってことなんでしょうか」
「案外そうかも知れない。どっちも頑固で、偏屈で、だけど良くも悪くも自分の気持ちにまっすぐで――」
「――優しくて、意志が強くて、おかげで変なところに気を回し過ぎちゃって……あは。全部一緒じゃないですけど、やっぱり私たち、似てますね」
そうと認めたその瞬間、カティアの心にふわりと暖かいものが舞い降りる。なるほど確かに、それならぶつかり合って当然だ。思い合っているのにすれ違ってしまったのも頷ける。そのせいで寂しくて傷付いて、それでもこの人に惹かれてしまう、その
「だから、……だから私は、そんなテオドールさんが……」
「……カティア」
「……初めて会った時からずっと、私はテオドールさんの事が、好きだったんです」
改めて口にすると何とも気恥ずかしい。しばらくもじもじしていると、テオドールがやにわに「ふっ」と唇を緩めた。
「初めて言ってくれたな」
「初め、て……?」
「『好き』って言葉。カティアから直接、言われたことが無かった」
「――え?」
カティアは一瞬キョトンとしてしまう。あれ、言わなかったっけ? 少なくとも自分の認識として、テオドールには幾度となく好意を伝えてきたつもりだ。だから自分の想いはちゃんと伝わっていて、気持ちではお互いに愛し合っていて、だから今があるのだとばかり思っていた。だのに今のが初の告白だったと彼は言う。それは単にテオドールが忘れているだけなのか、それとも自分の方こそ何か思い違いをしていたという事なのか。
「何だ、自分で気付いてなかったか?」
「え、だって、私テオドールさんに沢山――」
「ああ、確かに言ってた。テオドールさんは優しい。一緒に居たい。私の大事な人。今考えてみればどれもこれも、カティアの言葉はお前の気持ちから出たものばかりだった。けど……はっきり『好き』って言ってもらえたのは、今のが初めてだ」
「あ……、」
カティアは息を呑む。言われてみればそうだ。今までの自分は確かに、そうした曖昧な言葉でしか想いを伝えていなかった。照れのせいもあっただろう。どこか自信の無さが言動に現れていたのかも知れない。けれどそのせいで一線を越えるかどうかの瀬戸際にテオドールが躊躇してしまっていたというのも、考えてみれば道理というものだ。
ただの呼び名でしかないというのに、『妻』にしてもらったというだけですっかり浮かれ慢心していた自分のことを見守りながら、テオドールはそれこそずっと待っていてくれたのだろう。自分が本当の意味で『妻』となってくれる、その日が来るのを。
「だから、まだ早いって、そう言ってたんですね」
カティアの投げ掛けた答え合わせに、テオドールは無言で首肯を返した。
「――でも、アイリスやアネットからは今まで何度も忠告されてたんだ。カティアの事、いい加減女として見てやれって。だけどそれでも、お前自身がその気になるまでは待ちたいって思ってた。家族というだけで、『妻』というだけでそういう扱いをするんじゃなくて、お前が本心から望んで自ら言い出すまで待とうって……それが結局、カティアに対する俺の甘えだったってことだ」
「そんな……甘えなんかじゃないです」
「いや、本当はもっと早い段階で俺から訊くべきだった。お前のこと、抱いてもいいのか、って」
「テオドール、さん……」
「悪い、今のはちょっと品が無かった。……やり直し、しようか」
そう言ってテオドールはコートに包んだままのカティアをゆっくりと抱き上げ、ゆっくりと立ち上がった。そのまま彼の腕に運ばれる間、カティアは彼の胸から伝わるぬくもりに浸る。そうしていられるだけで寒さはもう、微塵も感じなかった。
「――わあ」
小高い丘。その眺望の先に広がっていたのは、煌々と照らし出された
「見えるよなカティア、これが俺たちが守ったものだ。この景色も、そこにいる人たちも、その人生の在り方も。俺たちが命懸けで戦い幾つもの絶望を乗り越えて掴み取った、希望の結実だ」
「はい」
それはノィエンハーゲンで見たあの光景と同じ、いやそれよりも遥かに多い、人類の命の輝き。この輝きを自分はこの地で再び見ることが出来た。そしてこの光のどこかには、自分たちの最も大事な人たちも息づいている。それをここに宿したものは、この地に生きる全ての人間一人ひとりが心に抱く、最後の灯火という名の小さな種火だ。
「この景色、良く憶えておいてくれ。今日のこの景色に誓うよ。俺はカティアを、ウルスラ・シュトラハヴィッツを愛してる。『妻』として生涯――いや、この命尽きようとも、だ。だから俺と一緒に歩んで欲しい。お前の人生ある限り、俺を夫として」
「……はい」
病めるときも、健やかなる時も、死が二人を別つまで。ここでの暮らしを始めたその日、みんなで唱えたその言葉を、カティアは心の中でそっと噛み締める。
「私も誓います。カティア・ヴァルトハイム……ウルスラ・シュトラハヴィッツは、テオドール・エーベルバッハを
にっこりと微笑み、それからカティアは瞳を閉じて唇を差し出した。――テオドールの柔らかさがそこに重なる。テオドールとの初めての、そして永遠を誓い合う為のキス。それはあまりにも優しくて、あったかくて、嬉しくて。堪え切れないほどの高揚と安らぎを覚えたカティアの眦から、つう、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……えへ。やっとファーストキス、できました」
「ああ。俺たちようやく、夫婦になれたんだな」
「はい。……本当に、本当に心から愛してます。テオドールさん」
テオドールの頬へと伸ばした自分の左手。その薬指に嵌まったシルバーリングは、