ヒュプシュブリューメン ~可憐なる花たち~ 作:ろっくLWK
――ぼんやりとしていた景色が次第にその輪郭を露わにしていく。その只中で、テオドールはひたすらに憔悴しきっていた。
『テオドール君! あなたとリィズちゃんは、絶対に――!』
『――邪魔を、するなァーーーッ!!!』
その光景には確かに見覚えがあった。これは、ああ、そうだ。かつての東ドイツ解放戦のさなか、
その照準を間一髪で自分が逸らしたことにより直撃こそ免れたものの、至近弾のもたらした衝撃はファムの体躯を吹き飛ばしてコンクリートの壁へと叩きつけた。そのため全身骨折に加えて意識不明の重体にまで陥った彼女はしかし、その後の迅速な救助と手厚い治療の甲斐あって、まさしく九死に一生を得ることが叶ったのだった。
……そう、その筈だ。なのに今目の前で起きたことはその全く逆。砲門から放たれた
『――遺体の確認は出来ないが、状況から言って生存の可能性は絶望的と言わざるを得ないだろう。よってここに、ファム・ティ・ラン中尉を
違う。頼む。嘘だと言ってくれ。義妹が、リィズがファムを殺す筈が無いだろう。ファムはまだ生きている。きっとあそこで俺たちを待っている。だから嘘だと言ってくれ。そう叫びたかったのに、テオドールの喉からは何らの声も出やしなかった。
『
『……私を忘れて。思い出さないで。絶対に――』
これも覚えがあった。革命軍諸氏の信を得るため、捕虜となったリィズを自らの手で銃殺しなければならなくなった自分。その最後の最後で彼女を抱き留めた際、リィズは涙ながらにこう告げたのだった。あの一言は身も心も
だが、そうと気付いたところでもはや後戻りなど出来なかった。自分たちは行き止まり。だからもう、こうするより他に無い。リィズのこめかみに銃口を向け、震える手で引鉄を引く……その寸前カティアが飛び込んで来てくれなければ、自分はあのまま最愛の妹をこの手に掛けてしまっていた事だろう。そうだ、間違いない。あの時自分はリィズを撃たずに済んだのだ。
『……国家人民の敵、リィズ・ホーエンシュタインの死亡を確認した。良くやってくれた、同志テオドール・エーベルバッハ。これをもって貴様の忠誠と体制打倒への信念が示されたことを、ここに宣言しよう』
次の瞬間、そこには倒れ込んだリィズの姿があった。ピクリとも動かぬリィズのこめかみからは止めどもなく血が溢れ、銃口からは噎せるような匂いを放つ硝煙が漂う。指に残る引鉄の感触は不気味なほどにクッキリとしていて、からからになった喉と目頭は一切を受け付けぬ程に干上がっていた。そのまま弔いの祈りも無く無造作に死体袋へ詰められる義妹の亡骸を、テオドールはただ茫然と見つめるばかりだった。
『テオドール……私に、ベルリンの街を見せてくれないか……』
次の場面は打倒
――だがこんなものは自分の記憶には無い。当たり前だ。確かに伏兵に撃たれはしたものの、当たりどころが良かったお陰で大した怪我を負わずに済んだアイリスは後にきちんと懐妊して腹の子を産み、今も『妻』として自分たちと一緒に暮らしている。だからアイリスがあそこで死んだ筈が無い。なのにどうして、こんなに生々しい?
この時点でテオドールは薄々気付き始めていた。これはただの夢だ。だから醒めさえすれば、何もかもは霧のように掻き消える。それなのにこの夢は妙に現実感が強くて、身体に覚える痛みや流した涙の熱さまでもが、あたかも本当にあったことのようにすら感じられた。
『振り向いてくれなくてもいい。答えてくれなくてもいい。ただ……それでも……』
『君を守りたい――そう思ったんだ』
その言葉を、夢の中の自分はハッキリと口にした。腕の中のアイリスディーナはそれに応える事も無く、燃えるようなベルリンの朝焼けを浴びながら永き眠りに就いた。次第に冷たくなってゆく彼女の温度を、彼女という存在そのものの喪失を、テオドールの皮膚は残酷なほど克明に感じ取っていた。
『――先日発生しました列車爆破事件の続報です。本日未明行われた警察の公式発表によりますと、実行犯として指名手配されていた容疑者数名の遺体がベルリン市内にて発見されたとのことです。なお直接の証拠となるものや犯行の声明文などは見つかっておらず、警察は引き続き事件の捜査を進めています。また今回犠牲となった同志ウルスラ・シュトラハヴィッツ氏の所属会派である協調派の議員らは今後、氏の功績と栄誉を称え会派名称をシュトラハヴィッツ派とし、その名と共に氏の遺志を継ぐことを表明しており――』
……これは本当に夢なのか? テオドールはどんどん混迷の淵へと迷い込む。爆炎と共に横転し砕け散った車両。周囲に轟く乗客の呻き声。血みどろになりながらも隙間から這い出た自分が目にしたものは、車両の残骸に胸から下を押し潰されたカティアの無惨な姿だった。何としてでも彼女を救い出そうと必死に伸ばした自分の手を、カティアは息も絶え絶えに、けれど確かな力でもって掴んだ。
『……おねがいです、テオドールさん……だ、れも……恨まないで……。生きて下さい……生きて、私たちの分まで、この意志を……』
それがカティアの最期の言葉だった。救助が来るまでの間、テオドールはただ彼女の血まみれの手を握り締めたまま泣き叫び続けていた。本当に夢ならば早く醒めて欲しい。心の底からそう願えど、その夢はいつまでも終わることは無かった。
『――そう、全ては主の思し召しなのです。ある日突然この地球に異星起源種が飛来したことも、それによって数多の人々が犠牲となったのも、それにも関わらず人類同士の争いが一向に無くならないのも、全ては主がこの星とそこに生きる我らの運命をそのように造りたもうたが故のこと。それこそが崇高なる主の御心である以上、主の被造物たる我ら人類の為すべきは、その御心に従い滅びの
とある集会場の一角。抜け殻のようになったテオドールは悄然とうな垂れたまま、演壇に立つ男の演説をただぼうっと聞いていた。『キリスト教恭順派』を名乗る彼らが悠々と述べた眉唾物の主張は、かつての自分だったら一笑に付すか頭ごなしに唾棄していた類のものだ。だが今はそれが何らの疑いも無く、それどころか砂漠で干からびた者に与えられる水の如く、体の隅々にまで染み渡ってゆく。ふと気付いた時、演壇の男は自分自身へとすり替わっていた。
――そうだ。こんな悲劇ばかりが次々と目の前に起こるのが『主』とやらの定めた事でなければ、自分たちは何の為に戦い何の為に血を流し、何の為に散っていったというのか。BETAは何の為にこの地球へとやって来て、その目的も意図も告げることなく人類を好き放題に蹂躙し、飽くこともなく殺戮と破壊を繰り返しているのか。そして人類は、矮小で愚かな人類は何故、この期に及んでも手を取り合えぬどころか争いを絶やすことが出来ないというのか。……己の内に巻き起こる幾つもの疑念。それらを全て貫く答えを寄越してくれるものは、少なくともその時のテオドールには、他に存在しなかった。
『――アンタの気持ちだって分からなくはない。あたしだって悔しいよ。だけどアンタの、連中のやろうとしてることは、それだけは間違ってる。そんなことしたってアイリスディーナもカティアもファム姉も、アンタの義妹だって浮かばれやしない。そんなことに手を貸すだなんて、あたしには出来ない』
『もう一度よく考え直せエーベルバッハ。貴様は今や、アイリスディーナやカティアの遺志を本当の意味で受け継ぐ最後の一人なんだぞ。その貴様が連中のようなテロリスト紛いの思想家と手を結ぶとなれば、我々のみならず世界中を敵に回すことになる。そんなことをして彼女たちが喜ぶとでも思うか?』
アネットもグレーテルも最後まで、自分の考えに賛同を示してはくれなかった。だがそれでもテオドールの信念は変わらなかった。
そう、かつてカティアが東と西とで手を取り合おうとしていたように、別たれたものを一つにしようとしていたように、自分もそれをするだけだ。その為にはこの地上にある全ての穢れを取り払わなければならない。西も東も大国も亡国も関係なく、愚かで醜い争いを続ける人類同士を一つにする。その唯一の方法、それは恭順派の唱えるお題目通り、主の思し召しの下に全ての人類を集わせる事。それ以外には無いのだ。
『誰も分かってくれなくていい。俺は一人ででもやる。やり遂げてみせる』
何のことは無い。かつてアイリスディーナがやってみせた事を、ただ鋼の遺志をもって最後まで完遂するだけだ。そうしていつまで経ってもバラバラな世界と人類を一つにする。自分のこの手で。その果てに、人類を苛む全ての悲劇は二度と起こらない。起こさせやしない。国家や体制といった得体の知れないものに全てを奪われ引き裂かれ、自分やリィズを行き止まりへと追い詰めたあのおぞましい悲劇はもう二度と、絶対に。
やってやる。もう何一つ失われることの無い世界の創造を。誰も奪われることの無い理想郷の実現を。皆の遺志を受け継ぐこの俺こそが、全てを果たすその時まで。必ず。記憶に浮かぶ彼女たちの笑顔にそう誓い、燃えるように真っ赤な涙を流しながら、テオドールはどこまでも広がる漆黒へと続く道にその歩みを進めていった。
――生きて、私たちの分まで、この意志を。
彼女の、カティアの最期の声だけを、この旅路の
「――さん、テオドールさん」
ゆさゆさ、と身体を揺すられ、テオドールはゆっくりと瞼を開く。――頭がひどく重い。とっくに開いた筈の瞳が全然光を捉えない。さっきまで眠っていた筈なのに、まるで何年も起き続けていたかのようなこの全身の倦怠感は、しばらく目を瞬かせても一向に晴れる気配が無かった。
「大丈夫ですか、テオドールさん」
「…………カティア……?」
ようやく視界が澄んできて、そこでテオドールはカティアがこちらをじっと覗き込んでいることに気が付いた。瞬間、全身からどっと汗が噴き出るような感覚。さっきのはやはり夢だったか。そういう安堵の念と同時に「この光景こそが夢なのではないか?」という恐怖感が、この身におびただしい量の冷や汗をかかせていた。
「テオドールさん、ずっとうなされてたんですよ。私が声を掛けても全然起きてくれなくて。意識はハッキリしてますか?」
「……あぁ、いや……ちょっと試しにつねってみてくれ」
「分かりました。えい!」
カティアが自分の頬をけっこうな力でつねった。痛い。それも物凄く。そのまま爪の先でぐいぐい揺すられるうちに、神経の通い始めた指先が僅かずつだが動き出す。良かった。間違いなくこっちが現実だ。そうと確信することが出来て、テオドールはほうと一息をつく。
「どうですか?」
「あぁ、おかげで目が覚めた。ここはカティアの部屋――だよな」
「はい。ゆうべは私の部屋で、あなたと、その」
口ごもるカティアを見て、ああそうだった、とテオドールは思い出す。昨夜初めてカティアを抱いて、今はその翌朝。本来なら情事の後の目覚めというのは二人でロマンチックに過ごしたいものなのだが、今回はあんな不気味な夢を見てしまったせいで全くそんな気分になれない。正直な話、目覚めた今でもあれが『ただの夢だった』なんて感触は皆無だ。一体あれは何だったのか。あんなものを夢に見るなんて、どう考えても尋常じゃない。もしかして自分は自分でも知らないうちに、どこかおかしくなってしまっているのでは無いのだろうか?
「テオドールさん、すごく顔色が悪いですよ。大丈夫ですか? お水飲みますか?」
「いや、いい。――それよりもカティア、」
「何でしょう?」
「抱き締めても、いいか?」
その問いに「勿論です」と、カティアは即答してくれた。テオドールは身を起こし、こちらへ手を伸ばした彼女の身体を両手できつく抱き締める。その感触も、匂いもぬくもりも、間違いなくカティアのものだ。良かった。ここに居てくれた。
「んふふ。テオドールさん、あったかいです」
嬉しそうなカティアの声が鼓膜をくすぐる。彼女の頭を胸に引き寄せて髪をさわさわと撫でると、カティアはくすぐったそうに身をよじった。
「――何か怖い夢を見てたんですね」
「……ああ、恐ろしい夢だった。恐ろし過ぎて、口にしたくないぐらいに」
あの夢の続きをはっきりとは憶えていない。ただ自分の歩く道の先には常に、血の生温かさと物の焦げる匂いとがまとわりついていた。あのまま歩き続けたとして、辿り着いた果てに広がる景色はきっと地獄と呼ぶべきものだったに違いない。だからこそテオドールは震え上がる。今こうして目の前にいる彼女たちがいなくなってしまう事。それ以上に、彼女たちの想いを無碍にする選択を自分が取ってしまう事。それは何よりも恐ろしく、何よりもあって欲しくない未来の在りようだった。
「大丈夫ですよ」
そんなテオドールの頭をポンポンと、カティアの手のひらが優しく撫でる。
「大丈夫です。私は、私たちはずっと、あなたの傍に居ますから」
「……カティア、」
「私たちみんな、自分が幸せになりたいからっていうのもありますけど、何よりテオドールさんに幸せでいて欲しくてこの生き方を選んだんです。みんなテオドールさんのことがずっと大好きだったから。ですからあなたに愛してもらえて嬉しいし、私たちの愛を受け取る事であなたが幸せになってくれるなら、それはもっと嬉しく思うんです。そうやって幸せを与え合える関係こそが夫婦なんだって、ゆうべあなたから教わりました」
「ああ……そうだな」
「その幸せを私はずっとずっと、永遠に失くしません。例え死が私たちを別つ時が来たとしても、私は今この時感じる幸せを魂に刻み込んで、あなたの事をずうっと見ています。テオドールさんにも同じで居て欲しいです。ですからこのぬくもりを、私たちがここに居るということを、忘れないでいて下さい」
その温かな言葉に、テオドールは心の底から救われる思いがした。そうだ。今感じるこの想いを自分は忘れてはいけない。みんなで選びみんなで掴んだこの幸せは、個々の想いの結集。彼女たちの事を何より大事に思うのならば、何を措いても大事にすべきはその言葉や行動などではなく、彼女たちの想いそのものであるべきなのだ。
悪夢に囚われ黒く塗り潰されそうになっていた自分は、またしてもカティアに救われた。その想いを、この腕にあるぬくもりと共に、一生大事にしたい。そういう思いをテオドールは新たにする。
「あんっ、もう……どさくさに紛れて胸を吸っちゃだめです」
「悪い。でも、ちょっとだけこうさせてくれ」
「ん……しょうがないですね。これであなたが元気になってくれるなら目を瞑ります。よしよし……」
カティアにあやされながら、小ぶりではあるけれども確かに柔らかい彼女の胸へ顔を埋める。すぐ傍にカティアが居てくれて良かった。もしも一人きりでこの目覚めを迎えていたら、何もかもが怖くなって当分部屋から出られなかった事だろう。――十分に乳房を舐ってからカティアと見つめ合い、テオドールはキスを触れ合わせる。
「ふふ、テオドールさんって意外に甘えんぼさんですよね。さあ、もう朝です。一緒に下へおりて朝ごはんにしましょう。――とと、その前にこのタオルをどうにかしないと……」
足元のタオルに気付いたカティアがあたふたとしだす。そう言えば昨夜、カティアは行為中に『お漏らし』をしてしまっていた。とっさの機転で施した応急処置のお陰で二人とも寝つくまで気にすることも無かったのだが、裏を返せば行為の余韻に浸るあまり始末するのを忘れていた、とも言える。「う~~、え~~、」と苦々しく唸りながらタオルに手を伸ばそうとするカティアを制し、テオドールはタオルを拾い上げて吸収面をくるくると内側に巻き取る。
「こいつは俺がこっそり風呂場で水洗いしておく。さっきのことと合わせて、
「は、はい。アイリスさんたちにも誰にも言いません。約束ですよ、テオドールさん」
「その代わりまた見せてくれよ、カティアが
「あ……それはちょっと……。だったらタオルは自分で洗いますっ」
「ははっ、冗談だ。タオルはきちんと俺が洗う。これは――そうだな、お前への礼として」
「お礼、ですか?」
「ああ。悪夢を見てまた怯えそうになってた俺に勇気をくれた、そのお礼だ」
テオドールは決意を固めた。あんな夢を現実の物には絶対にしない。自分は今この時を、心から信頼し愛することのできる者たちと共に過ごしている。その事実を噛み締めることが何より大事なのだ。例えまかり間違ってあんな世界が現実のものになっていたとしたって、それともあれがこれから先に待ち受ける未来の光景なのだとして、それでも自分は忘れてはならない。今この幸せが確かなものであることを。そして、この幸せを礎に、これからの自分たちは生きてゆくのだという事を。
「じゃあ、みんなのところへ行くか」
「はいっ」
ベッドから立った二人はいそいそと着替えを済ませ――前言通り、こっそり風呂場へ赴いてタオルを流水にさらしてから洗濯機に放り込み――揃ってダイニングへと赴く。ふんわりと漂う朝餉のにおい。食卓には既に子供たちを含め、アイリスら『妻』全員の顔ぶれが揃っていた。
「おはよう、テオ」
「ああ、おはよう皆。――さあ、今日も一日を始めよう」
挨拶をしてテオドールは食卓に着く。何気ない日常の光景。それはテオドールが命を懸けてでも守り通したいと思える幸せのかたち、そのものだった。