目を開けると優しい笑顔があった。ぼんやりとした意識。
ふっと、体が浮かび柔らかいベットに身が沈む。
ああ、これは。
懐かしい気持ち。
昔を、ぼんやり、ぼんやりと思い出す。
うとうとする私の頭を優しく撫でるこの手。大きくなるまでは、ずっとしてくれていた、この手。いつからかな、この手を感じれなくなったのは……――
3、化け物と怪物
街外れの丘上の森には怪物がいる。その怪物は水の中に住んでいて森に来た人間が水を飲もうと水辺に近付くと引きずり込んでしまうそうだ。
*
明るい晴天の空。目に痛い程の強く照りつける日差し虫の鳴き声が頭の中を揺らす程、鳴り響く。
裸足の少女が、あちらこちら、長さの違う髪の毛を揺らめかせて、トボトボと道を歩いていた。ヨレヨレの切り傷がついた服には土と赤黒い染みが付いていて、まるで乞食といった風体で俯いて明るい道に揺らめく影を作っている。
少女は痛々しい足を止めた。ボンヤリと顔を上げる。虚ろな薄茶色の片瞳には生気がなく、もう片目は腫れて瞼が開けれないようだ。痣が付いた頬と擦れて血が滲む唇。カサカサな、その唇を開いて少女は小さく息を吸った。
「……どっちかな」
少女は首を傾げて道の先を交互に見る。どちらかが噂の水辺に繋がっている筈だ。汗が目に見えて、ポタリッポタリッと垂れる。
「怪物さんは、どっちかな……」
虚ろな様子で、もう一度呟いて、クンッと鼻で空気を吸う。熱と湿気、乾いた土が混じった臭い。その先の片一方から水の匂いが。そんな気がする。
ユルリッと、その匂う方に顔を向けると足先を動かす。プルプルッと脚が震える。この震えは何だろか。
少女は俯きがちに脚を見ながら、一歩、一歩と進んでく。
お腹が空いているからか。
確か三日食べていない。
ああ、それとも水分が流れてしまったからか。
泣きに泣いて血も出て汗もかいている。
それか、体力の限界が近いのか。
『化け物』と呼ばれるぐらいだ。体力は、あるような気がしていたけれど勘違いだったか。
ボサボサの赤銅色の髪を揺らして少女は首を傾げた。過去に五日間ほとんど食べれなかった時もある。冬の雪の日に薄着で木に縛り付けられて一晩過ごしても生きていた。あの、毒を飲んだ後も、苦しくたって、生きていたから。やっぱり頑丈な気がした。
「だって、私は化け物だもの」
***
仕事場の机には乱雑な資料の束。
どうもこうも手が進まない。
「流行りねー……」
高そうな椅子を軋ます青年は数日前、編集者に言われた言葉を思い出す。
『先生、最近の流行りは、ラブロマンスなんですよ。騎士モノとかどうですか』
案に今の時代に合わないと却下された原稿の束。唸って、見つめて、ため息を一つ。日を射し込ますカーテンから風が流れ込み資料の一部を浮かび上がせる。
フラフラ、フワフワ。
「ふむ」
浮かんだ資料をほっといて適当な紙を一枚。机の上で折り曲げて、折り曲げて、作り上げたのは大きめの紙飛行機。窓に身を乗り出して飛ばしてみる。文字列の模様をつけたそれは斜め上にあがり。風に乗って、なかなか気持ち良さそうに飛んでいく。
青年は空をあおいだ。
――……泳ごう……
照りつける太陽、生まれる深い影。こんな暑い日は水場に行くにかぎる。大きな麦わら帽子をかぶって簡単なサンダルを履いて、ラフな服装で仕事をほっぽりだして自宅の鍵も閉めずに歩きだそうとした青年だったが、ふっと首を傾げる。
「あー……煙草、もうすぐ切れるんだったね」
夏に相応しくない白い肌が風に吹かれ気持ち良さそうに瞼をつぶった。つぶったまま、しばらく佇む。
さて、編集が次に来るのは一週間後。ついでに買ってきてと頼むのはいいが、ソレまでが、もつ気がしない。遠い街に買いに行くべきか。うーんっと唸って青年は、また空を見上げる。相も変わらず見事な晴天だ。
「とりあえず、別れ道まで行こうかな」
一度部屋に戻り買い物用にと簡単な腰ベルトに着けれるポーチを下げて結局鍵は閉めずに細い森林の道を軽い足取りで、テッテッと進む。あっという間に着いた別れ道。
さわさわ、さわさわ。風が木々を揺らす。
鼻をひくつかす青年。青年の片眉が上がった。
珍しい。珍しい。
編集者以外で、ここまで他者が来るのは久しぶりだ。
青年は血の臭いと薄い人ならざる者の気配を感じた方に顔を向ける。街とは反対方向の水場の道から漂っている。少しばかり考える素振りをすると歌を口ずさむように呟く青年。
「行きはヨイヨイ、帰りはコワイ」
クルッと青年は漂う先に足先を向けると、テッテッと進んで行った。
***
父のことは、よく覚えていない。でも、母のことは確りと覚えている。
母は、いつも悲しそうだった。緩く二つに編み込まれた栗色の髪。優しげな薄茶色の瞳。私を見る度に生まれる悲しそうな微笑み。その微笑みを見る度に、ザワザワとノイズのように蠢く私の心臓。その度に私は嫌でも、その母の顔を覚えた。
なぜ、なぜかは、わからないけれど、私はそのノイズが大きくなると、きっとそのうち胸に穴が空いてしまうと思っていた。
――……ママ、ママ、ごめんなさい……ママ……
ある夜。肌寒い夜、母の後ろ姿。一体、どこに連れて行ってくれるのだろう?
握る手は、とても温かく。私は滅多になくワクワクしていた。今日の母は、なんだか何時もと違う。悲しそうに微笑まない。足取りも軽い気がする。
「ママ」
母が振り向く。
「ここ、教会だね、おっきいね」
教会とは美しい天使や慈悲深い女神様に愛される場所と知っている。一度も来た事はなかったけれど絵本で見たことがあったので辺りを見回した。白い翼を生やした天使が空を飛んでいるはずなのだ。
「ママ、天使様は、女神様は、どこにいるの?」
でも、なかなか見付からず母に訊ね顔を上げると泣いていた。私は驚いて顔を振る。
「ご……ごめんなさい、わ……私、そんなつもりじゃ……」
ママも顔をゆっくりと横に振って微笑んだ。その微笑みは、とても綺麗な微笑みだった。
――……ママ、ママ、とっても綺麗……女神様みたい……
女神を見たことはなかったが私はその時そう確信して笑顔を返す。母が悲しそうに微笑まなかった。それが嬉しくて、嬉しくてたまらなかったからだ。
カサリ。
紙の音。母が胸元から飴玉の様なものを取り出す。二つあるソレを母は一つずつ。教会の出入口の階段元に座って渡してくる。
私は嬉しくて、ソレを口に放りこんだ。母も同じく。
でも、一瞬にして舌に変な味が広がり吐き出しそうになる。母が私の口をふさいで静かに促す。私は母に抱き締められながら、ソレを我慢して飲み込んだ。
我慢して、我慢して。
そしたら母が嬉しそうに、女神の微笑みを浮かべていた。私は頑張って我慢して良かったと思った。
***
僕は、あまり他者に干渉するのは好きではない。だからか、こんな独りになれる仕事をし人里離れた地に家も建てた。
別れ道もそうだ。コチラの水場に続く方はわかりやすいが僕が出てきた片方は、ぱっと見よくわからない。獣道のような見た目で人ならば大抵入りずらくて奥まで来ない。水場の方は、かなり昔なら冒険じみた子供が幾度か遊びに来たが。ソレを元に書いたホラーじみた本が売れ。世の中に定着した頃。一番近い街で噂が広がった。
『あの水場には怪物が住んでいる』と。まあ、なんというか。他者の数がそれで極端に減ったので僕としては弁解するつもりはない。どこまでもつか、わからないが、そう思い続けてくれればいい。それに、あながち間違いでもないし。
人間にとって僕は、『怪物』だろう。
サンダルを履く足をチラリと見る。
青白い足先。よく見ると、ひび割れのように細かい線がある。このひび割れ、能力を使えばより増える代物で今はそう使う機会が無いからどうというわけではないが、このひび割れの一部の鱗には昔、中々の需要があった。一番良い時で一枚金貨三枚分だったかな。今は、僕のような存在を認識する人間が極端に減った為、価値は無いだろうけど。遠い遠い昔は、認知している人間、共同意識をする人間もそれなりにいた。ただ、死んで新しい編集者に変わる度、理解を求めるのも面倒だ。能力を使わないかぎりこんなものだし『皮膚の病気』と一言ですましている。
「……」
この世界で衰退を続ける人ならざる者達。
反対に笑えるほど増える者達。
僕の仲間に純粋な者は、どれだけ残っているだろう?
僕が認識を最後にしたのは祖母だけだったが。多分、混ざった者なら少しはいると信じたい。
鼻をもう一度ひくつかす。僕の種族は守りが強い種族の分、相手を探ること自分達を隠すことに長けている。雄の僕は力が劣るわけじゃないから、まだいいが。メスは、とても弱いから、そうやって進化を遂げてきたんだ。
***
暑い暑い夏の日。種族によっては心地良く。種族によっては苦痛な日。
人魚系の血筋を引く者なら、なかなか強く、肌が焼けることなく毎日のように水浴びをするだろう。反対に冬の季節は随分動きが鈍くなるが。吸血鬼系の血筋を引く者なら日の下には出れるが、とくに苦手な者は本来の力は半減してしまう事だろう。反対に冬の季節は本領発揮といった様子で、ハツラツとしていた。(個体差によって差異はある)他に存在する妖精や獣人などは春や秋が普通に良いらしい。
そんなこんなで僕は虫の鳴き声を聴きながら麦わら帽子を傾ける。
先の先。気配がハッキリしてきた。予想どうり吸血鬼のようだ。
暑い真夏に吸血鬼とは珍しい。彼ら昼間動けないワケではないが、今は真夏の昼間だ。それも、もう少しで一番暑い時間帯。まさか、こんな時間帯を選んで動く吸血鬼がいるとは。
よっぽどの物好きなのか。他に理由があるのか。
さて。
さて、さて。
どうしたものか。
気配の弱さからして吸血鬼の中でも弱小の部類の者だろう。自分達の種族は、ほぼ守りの種族。他者の気配には鋭い。風向きも向こうからなので気づかれてはいないと思うけど。
「そっちは、渇きが潤うモノなんて無いよ」
能力で気配を消しながら、テッテッと進む。
「これは、牛乳とアンパンが必要かな」