カナカナカナカナ......
──前に広がる雑木林から、今日も、寒蝉の鳴き声が聴こえます。
悲しげで寂しげな声。消え入りそうな音色は、だけど玲瓏として美しく、私の心を落ち着かせてくれます。
記録に残る、観測史上最も暑かった今年の夏。
今日の日中の気温は25度にも届かず、夕方になって風も出てきて、此れ迄の猛暑を過ごした身体には、幾分過ごしやすく感じるものです。
北から吹く爽やかな風は涼を含み、苛烈な季節が過ぎた安堵と、往く秋の寂寥を想起させます。
眼下には棚田が幾重にも連なり、黄金色に実った稲穂が風に揺れています。ざわざわと、乾いた波のような音。遠くの山裾から立ち上る夕餉の煙は、茜色の空にゆっくりと溶けていきます。
何処かの家の味噌汁の匂いがしました。あったかくて、少しだけ、胸が痛い匂い。
──あの珊瑚の島からは、随分と、遠いところまで来たなあと、思う。
畦道の脇にある古い石積みの上に、二人で腰かけて。
司令官の袖口から覗く腕に、淡い西日が落ちています。私はその光の加減を眺めるのが好きでした。けれど最近の司令官の肌は、白蝋みたいに血の気が引いていて。それでもこうして隣に居てくれることが、ただ、嬉しい。
「司令官」
「...うん?」
何も起きない平穏な日常。
──いいえ。もう、そう呼べるものでは、ないのかもしれません。
日常は、とうに終わっていた。あの島を発った時に。
でも、この一時は。そう、こんなにも穏やかで。
時間は無限に、幽玄に、私の感情を叩く。
遠くで鴉が鳴いて、棚田を渡る風に、稲穂が一斉に頭を揺らしました。
あの潮騒はもう聴こえない。代わりに此処には、虫の声と、風の音と、里の息遣いがある。
「どうした?三日月」
「司令官。今日は、寒露ですね」
「ん...? かんろ?何だそりゃ」
移ろう自然に耳を傾け、その繊細さや風情を捉える。
隣に座る彼は、何を藪から棒にと言いたそう。
「二十四節気です、司令官。晩秋の起こりでもありますよ」
「ぁあ、秋の季語か。メジャーじゃねえんだもんよ。立秋とか秋分なら分かるのに」
フイとそっぽを向いて、司令官は照れた様に言い訳をする。
指先で煙草の箱を弄ぶ癖が出ています。困った時や居心地が悪い時の、彼の無意識。もう随分と、中身は減っていないのでしょうけれど。
「ふふっ」
その些細な子供っぽさに、私は思わず笑ってしまった。
「あ、馬鹿にしたろ、今」
「ううん、司令官。やっぱり司令官は可愛いなって」
素直な感想を述べる。
司令官は一瞬だけ瞠目した様な表情を見せた後、頬を掻きながら苦笑して言った。
「嗚呼、はは...敵わんな、本当に」
「うふふふふ...あは、あははは」
「...笑いすぎだっつーに」
ええ。司令官。私の大好きな司令官。
楽しい。楽しいですね。嬉しいですね、素敵です。
何でもないんです。何でもない、この一時が、どうしようもなく楽しくて、愉しくて。
隣に貴方が居るだけで、私は満たされる。
私が見ている司令官が、私を見てくれている。
訪れる秋の寒さも、寂しさも、忘れさせてくれる。
空虚に消え入る私を、貴方が離さないでいてくれるから。
「司令官」
「ん」
「お手を」
「...はいはい」
差し出した掌を、大きな手が包む。
いつも思うのです。司令官の手は私と同じくらい冷たくて、だけど確かにそこに脈が打っていて。この体温の無い手と手が触れ合う時だけ、不思議と、温かいものが通っている気がするの。
……ねえ、司令官。
もう、私の身体から貴方に差し上げられるものは、何も無いのです。
この私の傷も、もう増えることはありませんね。
貴方がそれを選んだのだと、知っています。
貴方の葛藤と覚悟を。
───私はどうにでもなって良かった。
私の全てが溶け込んで、誰をも私を忘れても、貴方こそが私の全てなのだから。
でも、そうはならなかった。
貴方は違う選択をした。
ああ、それでも。私は良いのです。
結局、理由なんて、何でも。
最後にこうして手を繋いでいられるなら。
この冷たい手と手の間に、嘘でも温もりがあると信じられるなら。
───ザアザア。
少し強い風が雑木林に吹き入れて、楢や櫟が一斉にその身を震わせる。
さっき降った夕立の雫が葉先から滴り、輝き、虹を作る。
棚田の水面にも、七色の光が淡く映りました。
ああ、綺麗。
見上げた虹は、里の東から西へと弧を描いて、山の向こうに消えていく。
まるで何処かへ架かる橋の様。
何処か──とても遠い、此処ではない何処かへ。
その考えが過った途端、少しだけ、胸の奥が軋みました。
だから、繋いだ手を、ほんの少しだけ、強く握る。
今際の際に最期の願いを。
今夜が明けるまでは、どうか。
秋立つ風は、白かった。
──ヒグラシが鳴いている。
鳴き始めは何時ぐらいからだったろうか? 夏の名残がまだ肌に残る昼間の陰で、時々の何処かしらに深まる秋の気配が漂っているのだと、今になって気付く。
暑さはとうに過ぎ去り、秋も盛りを越えようとしている。
不意に吹く涼風の至りに、去り行く季節の哀愁を想わせる。
随分と遠くまで来たものだ。
嘗て俺が墜ちた南の海も、二人で過ごした珊瑚の島も、今はもう遥か彼方にある。
あの島を発って、どれくらい経っただろう。
北へ、北へと、二人で歩いた。沖縄の透き通った海を背にして、九州の山脈を越え、瀬戸の島々を渡り、陰陽の峠を辿って。三日月がまだ歩ける内にと、急くでもなく、止まるでもなく。
漸く辿り着いたのが、此の場所だった。
眼前に広がるのは、刈り入れ前の棚田。
幾重にも連なる畦道が、山裾から里へと、緩やかな弧を描いて下っている。稲穂は重く頭を垂れ、黄金の波が風に揺れる度、ざわざわと乾いた音を立てた。
その奥に見える雑木林の楢や櫟は未だ緑を留めているが、処々の梢が、気の早い紅に色付き始めている。
更にその向こう、遠景には山々が霞んで連なり、夕暮れの空に溶けかかっていた。幾層にも重なる山影の稜線は墨絵の様で、手前から奥へと薄まる色彩が、奥行きと言うよりも、時間の積層を想わせた。
何十年と変わらぬ景色。人が田を耕し、山に入り、海に出て、そうやって此の土地は巡ってきたのだろう。
風に乗って、何処かの家の夕飯の匂いがした。
味噌汁か、煮物か。煙突から細く上がる煙が、茜色の空にたなびいている。
日本の、原風景だった。
何処にでもある様で、何処にも無い、美しい秋の里。
──きっと、何処でだって同じ景色が在ったのだろう。
「遠いところまで、来ましたね」
隣に座る彼女の柔い眼差しが、俺を捉える。
円らな紅い瞳は、とく妖艶さを孕み、神秘的な美しさを醸し出す。
三日月。
彼女を言葉で表現するならば、それは偏に赤だろう。
焔の様に熱く、躑躅の様に甘く、葡萄の様に深く、血の様に暗い。
桜でもなく、秋桜でもない。チューリップとも、薔薇とも違う。
彼女の赤は、もっと古く、もっと根深い。
地の底から茎を伸ばし、一面を鮮血で染め上げる──彼岸花の赤だ。
美しいが、触れ難い。
惹かれるのに、手を伸ばすと、何処か遠くに在る気がする。
そして、咲くのも散るのも、あまりに一瞬だ。
「そうだな」
棚田の向こう、鎮守の杜だろうか、鬱蒼とした森の際の楓が、燃え立つ様に紅く色付いている。
移ろい行く時に。去り行く秋に。まるで名残を留めるかの様に紅を風に戦がせて、乾いた葉音を鳴らす。
「もう少しで、冬だなぁ」
「暦の上では、まだ秋なのですけれどもね」
互いに破顔する。
もう少し。時間が早かったのだ。
毒々しい彼女の緋に対比する、枯れ紅の郷愁を込めた朱。その紅葉が散り果てる季節には、まだ早い。
だから、もう少し。
あと少しだけと想う。
ふと、彼女の肩口に目が行った。
暗色の生地の下に隠れてはいるが、其処に何が在るか、俺は知っている。幾つもの、薄紅色の痕。噛み千切った、牙の痕。再生しかかって、また啜って、それを繰り返した──あの、痕。
もう、彼女の傷が、これ以上増えることはない。
その事実が何を意味するのか、俺は分かっている。
帰還不能点は、疾うに過ぎた。
「なあ、三日月」
「何でしょう、司令官」
司令官。
もう肩書きでも何でもない、ただの呼び名を、彼女はまだ使う。
「あと、どれくらい持つ?」
聞くべきでない事を、聞いた。
だが今更、何を今更だろう。
この問いが何を指しているか、三日月には分かっている。
俺の命と、彼女の命と、この旅と──その全部だ。
「そうですね。凡そ夜明けまでは」
彼女はいつもの柔い声で、そう答えた。
嘘でも誤魔化しでもない。
今夜が、最後の夜だ。
夜が明ければ、三日月は......そして俺も、遠からず。
その声は余りに穏やかで、まるで明日の天気を告げるかのようで。
「そう、か」
「はい」
だけど、何事も無限では無い。
万象は有限で、俺も、三日月も、例に漏れる事は無い。
名残惜しさは感じるが、もう少しで、その名残も消える。
そう、それは冬の訪れを前に消え行く秋の名残の様に。
ほんの僅かに残していたあの温もりを、晩秋の冷たい雨が綺麗さっぱりと流していく様に。
「早かったもんだ」
22年。
三日月に拾われ、生かされ、共に在って、22年。
毎日、新しい朝は来た。時は常に巡り、新しい季節が来た。
季節毎に、去年を知らない、新しい花が咲いた。
本来は短命のリコリス。長く永く咲いた花は、平穏には、きっと、似合わない。
「ですが、楽しかったです」
彼岸花が枯れるのは、一瞬だ。
鮮血の紅は、その燃え盛る炎は、正にこの時期の野分の如く存分に咲き誇り、強く存在を示した後、それが嘘であったかの様に、みるみる内に萎え、色褪せる。
「......そうか」
そんな彼岸に咲く華の様に、俺達もまた、死んでいく。
俺も、三日月も、死んでいく。
足早に去る。日も暮れて、熱も冷め、月日は流れ、希望ばかりが大きくて。
日が沈み、月も去る。
過ぎた時は、二度と帰る事は無い。
棚田を渡る風が、稲穂を一斉に撫でた。
金色の波がざわめいて、里全体が一瞬だけ息を吸い込む様に静まり、また揺れた。
遠くで、鴉が一声だけ鳴いた。
もう直ぐ日が暮れる。
この里にも、夜が来る。
最後の、夜が。
「なあ、三日月」
「何でしょう、司令官───」
秋は正直に深まっていく。
昼間の温もりが嘘の様に。
夕方になって風が出てきた。
秋の宵へと落ちていく。
今このひとときすら、遠い夢の様に。
儚くて、悲しくて、優しい、夢の中に。
互いに視線を同じくして。
互いに同じ所を向いて。
繋がれた手は、どちらも等しく冷たかった。
あの海から俺を掬い上げた手。俺が彼女を啜った手。
その手と手が重なっていて、けれどその間に温度は無くて。
それでも──離す事だけは、しない。
温もりの無い掌が、それでも確かに、此処に在る。
日本の何処にでもある、何でもない秋の里で。
何処にも帰れない二人が、最後に此処を選んだ。
繋がれた手は、今も───