※この作品はR-18です。

夕暮れ時の世界にて   作:H117147

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 カナカナカナカナ......

 ──前に広がる雑木林から、今日も、寒蝉の鳴き声が聴こえます。
 悲しげで寂しげな声。消え入りそうな音色は、だけど玲瓏として美しく、私の心を落ち着かせてくれます。

 記録に残る、観測史上最も暑かった今年の夏。
 今日の日中の気温は25度にも届かず、夕方になって風も出てきて、此れ迄の猛暑を過ごした身体には、幾分過ごしやすく感じるものです。

 北から吹く爽やかな風は涼を含み、苛烈な季節が過ぎた安堵と、往く秋の寂寥を想起させます。

 眼下には棚田が幾重にも連なり、黄金色に実った稲穂が風に揺れています。ざわざわと、乾いた波のような音。遠くの山裾から立ち上る夕餉の煙は、茜色の空にゆっくりと溶けていきます。
 何処かの家の味噌汁の匂いがしました。あったかくて、少しだけ、胸が痛い匂い。


 ──あの珊瑚の島からは、随分と、遠いところまで来たなあと、思う。

 畦道の脇にある古い石積みの上に、二人で腰かけて。
 司令官の袖口から覗く腕に、淡い西日が落ちています。私はその光の加減を眺めるのが好きでした。けれど最近の司令官の肌は、白蝋みたいに血の気が引いていて。それでもこうして隣に居てくれることが、ただ、嬉しい。

 「司令官」
 「...うん?」

 何も起きない平穏な日常。
 ──いいえ。もう、そう呼べるものでは、ないのかもしれません。
 日常は、とうに終わっていた。あの島を発った時に。
 でも、この一時は。そう、こんなにも穏やかで。

 時間は無限に、幽玄に、私の感情を叩く。
 遠くで鴉が鳴いて、棚田を渡る風に、稲穂が一斉に頭を揺らしました。
 あの潮騒はもう聴こえない。代わりに此処には、虫の声と、風の音と、里の息遣いがある。

 「どうした?三日月」
 「司令官。今日は、寒露ですね」
 「ん...? かんろ?何だそりゃ」

 移ろう自然に耳を傾け、その繊細さや風情を捉える。
 隣に座る彼は、何を藪から棒にと言いたそう。

 「二十四節気です、司令官。晩秋の起こりでもありますよ」
 「ぁあ、秋の季語か。メジャーじゃねえんだもんよ。立秋とか秋分なら分かるのに」

 フイとそっぽを向いて、司令官は照れた様に言い訳をする。
 指先で煙草の箱を弄ぶ癖が出ています。困った時や居心地が悪い時の、彼の無意識。もう随分と、中身は減っていないのでしょうけれど。

 「ふふっ」

 その些細な子供っぽさに、私は思わず笑ってしまった。

 「あ、馬鹿にしたろ、今」
 「ううん、司令官。やっぱり司令官は可愛いなって」

 素直な感想を述べる。
 司令官は一瞬だけ瞠目した様な表情を見せた後、頬を掻きながら苦笑して言った。

 「嗚呼、はは...敵わんな、本当に」
 「うふふふふ...あは、あははは」
 「...笑いすぎだっつーに」

 ええ。司令官。私の大好きな司令官。
 楽しい。楽しいですね。嬉しいですね、素敵です。
 何でもないんです。何でもない、この一時が、どうしようもなく楽しくて、愉しくて。

 隣に貴方が居るだけで、私は満たされる。
 私が見ている司令官が、私を見てくれている。

 訪れる秋の寒さも、寂しさも、忘れさせてくれる。

 空虚に消え入る私を、貴方が離さないでいてくれるから。

 「司令官」
 「ん」
 「お手を」
 「...はいはい」

 差し出した掌を、大きな手が包む。
 いつも思うのです。司令官の手は私と同じくらい冷たくて、だけど確かにそこに脈が打っていて。この体温の無い手と手が触れ合う時だけ、不思議と、温かいものが通っている気がするの。

 ……ねえ、司令官。
 もう、私の身体から貴方に差し上げられるものは、何も無いのです。
 この私の傷も、もう増えることはありませんね。
 貴方がそれを選んだのだと、知っています。
 貴方の葛藤と覚悟を。


 ───私はどうにでもなって良かった。
 私の全てが溶け込んで、誰をも私を忘れても、貴方こそが私の全てなのだから。

 でも、そうはならなかった。
 貴方は違う選択をした。

 ああ、それでも。私は良いのです。
 結局、理由なんて、何でも。
 最後にこうして手を繋いでいられるなら。
 この冷たい手と手の間に、嘘でも温もりがあると信じられるなら。

 ───ザアザア。

 少し強い風が雑木林に吹き入れて、楢や櫟が一斉にその身を震わせる。

 さっき降った夕立の雫が葉先から滴り、輝き、虹を作る。
 棚田の水面にも、七色の光が淡く映りました。

 ああ、綺麗。
 見上げた虹は、里の東から西へと弧を描いて、山の向こうに消えていく。
 まるで何処かへ架かる橋の様。

 何処か──とても遠い、此処ではない何処かへ。

 その考えが過った途端、少しだけ、胸の奥が軋みました。
 だから、繋いだ手を、ほんの少しだけ、強く握る。

 今際の際に最期の願いを。
 今夜が明けるまでは、どうか。


 秋立つ風は、白かった。





今このひとときは遠い夢の様に

 

 

 

 ──ヒグラシが鳴いている。

 

 鳴き始めは何時ぐらいからだったろうか? 夏の名残がまだ肌に残る昼間の陰で、時々の何処かしらに深まる秋の気配が漂っているのだと、今になって気付く。

 

 暑さはとうに過ぎ去り、秋も盛りを越えようとしている。

 不意に吹く涼風の至りに、去り行く季節の哀愁を想わせる。

 

 随分と遠くまで来たものだ。

 嘗て俺が墜ちた南の海も、二人で過ごした珊瑚の島も、今はもう遥か彼方にある。

 

 あの島を発って、どれくらい経っただろう。

 北へ、北へと、二人で歩いた。沖縄の透き通った海を背にして、九州の山脈を越え、瀬戸の島々を渡り、陰陽の峠を辿って。三日月がまだ歩ける内にと、急くでもなく、止まるでもなく。

 

 漸く辿り着いたのが、此の場所だった。

 

 眼前に広がるのは、刈り入れ前の棚田。

 幾重にも連なる畦道が、山裾から里へと、緩やかな弧を描いて下っている。稲穂は重く頭を垂れ、黄金の波が風に揺れる度、ざわざわと乾いた音を立てた。

 その奥に見える雑木林の楢や櫟は未だ緑を留めているが、処々の梢が、気の早い紅に色付き始めている。

 

 更にその向こう、遠景には山々が霞んで連なり、夕暮れの空に溶けかかっていた。幾層にも重なる山影の稜線は墨絵の様で、手前から奥へと薄まる色彩が、奥行きと言うよりも、時間の積層を想わせた。

 何十年と変わらぬ景色。人が田を耕し、山に入り、海に出て、そうやって此の土地は巡ってきたのだろう。

 

 風に乗って、何処かの家の夕飯の匂いがした。

 味噌汁か、煮物か。煙突から細く上がる煙が、茜色の空にたなびいている。

 

 日本の、原風景だった。

 何処にでもある様で、何処にも無い、美しい秋の里。

 ──きっと、何処でだって同じ景色が在ったのだろう。

 

 

 「遠いところまで、来ましたね」

 

 隣に座る彼女の柔い眼差しが、俺を捉える。

 円らな紅い瞳は、とく妖艶さを孕み、神秘的な美しさを醸し出す。

 

 三日月。

 彼女を言葉で表現するならば、それは偏に赤だろう。

 焔の様に熱く、躑躅の様に甘く、葡萄の様に深く、血の様に暗い。

 

 桜でもなく、秋桜でもない。チューリップとも、薔薇とも違う。

 彼女の赤は、もっと古く、もっと根深い。

 地の底から茎を伸ばし、一面を鮮血で染め上げる──彼岸花の赤だ。

 

 美しいが、触れ難い。

 惹かれるのに、手を伸ばすと、何処か遠くに在る気がする。

 そして、咲くのも散るのも、あまりに一瞬だ。

 

 

 「そうだな」

 

 棚田の向こう、鎮守の杜だろうか、鬱蒼とした森の際の楓が、燃え立つ様に紅く色付いている。

 移ろい行く時に。去り行く秋に。まるで名残を留めるかの様に紅を風に戦がせて、乾いた葉音を鳴らす。

 

 「もう少しで、冬だなぁ」

 「暦の上では、まだ秋なのですけれどもね」

 

 互いに破顔する。

 

 もう少し。時間が早かったのだ。

 毒々しい彼女の緋に対比する、枯れ紅の郷愁を込めた朱。その紅葉が散り果てる季節には、まだ早い。

 

 だから、もう少し。

 あと少しだけと想う。

 

 ふと、彼女の肩口に目が行った。

 暗色の生地の下に隠れてはいるが、其処に何が在るか、俺は知っている。幾つもの、薄紅色の痕。噛み千切った、牙の痕。再生しかかって、また啜って、それを繰り返した──あの、痕。

 もう、彼女の傷が、これ以上増えることはない。

 

 その事実が何を意味するのか、俺は分かっている。

 帰還不能点は、疾うに過ぎた。

 

 

 「なあ、三日月」

 「何でしょう、司令官」

 

 司令官。

 もう肩書きでも何でもない、ただの呼び名を、彼女はまだ使う。

 

 「あと、どれくらい持つ?」

 

 聞くべきでない事を、聞いた。

 だが今更、何を今更だろう。

 この問いが何を指しているか、三日月には分かっている。

 俺の命と、彼女の命と、この旅と──その全部だ。

 

 「そうですね。凡そ夜明けまでは」

 

 彼女はいつもの柔い声で、そう答えた。

 嘘でも誤魔化しでもない。

 今夜が、最後の夜だ。

 夜が明ければ、三日月は......そして俺も、遠からず。

 

 その声は余りに穏やかで、まるで明日の天気を告げるかのようで。

 

 

 「そう、か」

 

 「はい」

 

 だけど、何事も無限では無い。

 万象は有限で、俺も、三日月も、例に漏れる事は無い。

 

 名残惜しさは感じるが、もう少しで、その名残も消える。

 そう、それは冬の訪れを前に消え行く秋の名残の様に。

 ほんの僅かに残していたあの温もりを、晩秋の冷たい雨が綺麗さっぱりと流していく様に。

 

 「早かったもんだ」

 

 22年。

 三日月に拾われ、生かされ、共に在って、22年。

 毎日、新しい朝は来た。時は常に巡り、新しい季節が来た。

 季節毎に、去年を知らない、新しい花が咲いた。

 本来は短命のリコリス。長く永く咲いた花は、平穏には、きっと、似合わない。

 

 「ですが、楽しかったです」

 

 彼岸花が枯れるのは、一瞬だ。

 鮮血の紅は、その燃え盛る炎は、正にこの時期の野分の如く存分に咲き誇り、強く存在を示した後、それが嘘であったかの様に、みるみる内に萎え、色褪せる。

 

 「......そうか」

 

 そんな彼岸に咲く華の様に、俺達もまた、死んでいく。

 俺も、三日月も、死んでいく。

 足早に去る。日も暮れて、熱も冷め、月日は流れ、希望ばかりが大きくて。

 

 日が沈み、月も去る。

 過ぎた時は、二度と帰る事は無い。

 

 棚田を渡る風が、稲穂を一斉に撫でた。

 金色の波がざわめいて、里全体が一瞬だけ息を吸い込む様に静まり、また揺れた。

 遠くで、鴉が一声だけ鳴いた。

 

 もう直ぐ日が暮れる。

 この里にも、夜が来る。

 最後の、夜が。

 

 

 「なあ、三日月」

 「何でしょう、司令官───」

 

 秋は正直に深まっていく。

 昼間の温もりが嘘の様に。

 夕方になって風が出てきた。

 

 秋の宵へと落ちていく。

 

 今このひとときすら、遠い夢の様に。

 儚くて、悲しくて、優しい、夢の中に。

 

 互いに視線を同じくして。

 互いに同じ所を向いて。

 

 繋がれた手は、どちらも等しく冷たかった。

 あの海から俺を掬い上げた手。俺が彼女を啜った手。

 その手と手が重なっていて、けれどその間に温度は無くて。

 

 それでも──離す事だけは、しない。

 

 温もりの無い掌が、それでも確かに、此処に在る。

 

 日本の何処にでもある、何でもない秋の里で。

 何処にも帰れない二人が、最後に此処を選んだ。

 

 繋がれた手は、今も───

 

 

 

 

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