※この作品はR-18です。

夕暮れ時の世界にて   作:H117147

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 数字は嘘を吐かない
 数字は感情を持たない
 数字は、ただ在るべき姿を示す

 ならば何故、この手は震える
 報告書に記す数値の一つ一つが
 彼女の残り時間を削り取っていく様で

 査定する者が、査定される者に生かされている
 この矛盾を、誰が裁くのだろう

 ──風が変わった
 この島に、新しい足音が近付いている


 『三日月と司令官⑨』




Inspection.

 

 

 4日目の朝。

 

 医務室に差し込む朝陽で目が覚めた。首が凝り固まっている。今日も椅子に座ったまま眠っていた所為だ。背中を伸ばすと、節々が軋むように鳴った。

 

 三日月を見る。寝息は穏やかだ。額に触れると──昨夜までの焼ける様な熱が引いている。体温計を当てると、38度2分。まだ微熱ではあるが、一時の40度超えを思えば劇的な改善だった。包帯の染みも薄くなっている。

 まだ油断は出来ないが、峠は越えた様に見えた。

 

 点滴の残量を確認し、輸液バッグを交換する。針の刺入部に発赤が無いか確かめ、テープを張り直す。三日月は薄く目を開けたが、俺を認めると安心した様にまた目を閉じた。もう4日、この繰り返しだ。

 

 枕元に水差しを置き、タオルを替え、部屋を出る。

 

 廊下は静かだった。4日振りに、足取りに多少の余裕がある。三日月が死ぬかもしれないという恐怖が、ようやく一段階遠退いた。──代わりに、別の思考が頭を擡げてくる。

 

 この4日間、俺は三日月の看病以外の全てを後回しにしていた。本来ならば提出期限を過ぎた報告書が2通。補給物資の受領確認が1件。那覇本部への定例連絡も、通り一遍の"異状なし"で済ませていた。──異状しか無いというのに。

 

 執務室に戻り、溜まった書類に目を通しながら珈琲を淹れる。普段は三日月が淹れてくれるダージリンの紅茶だが、今朝はインスタントの珈琲で妥協した。粉っぽい味が舌に残る。窓の外では、蝉がまだ鳴き始める前の、朝特有の静けさが漂う。

 

 書類に向かう。報告書の文面を推敲する余裕は無い。事実のみを書き連ね、判を押す。三日月の病状については『軽微な体調不良、快方に向かっている』とだけ記した。嘘は書いていない。だが、真実の全てを書いてもいない。

 

 そうして書類を片付けていた矢先──唐突に、無線に通信が入った。

 

 定時連絡の周波数ではない。暗号化された軍用回線。

 応答すると、本土の司令部付きの通信士官だった。

 

 『大東基地、聞こえるか。本日一四○○、貴基地に査察が入る。迎接準備を整えられたし』

 

 「......査察?事前通達も無しに?」

 

 『中将直々の御指示だ。詳細は到着後に伝達される』

 

 通信が切れた。

 

 ──中将。

 

 彼について、語るべき事は多くない。

 海軍の高級将校であり、此の海域を含む広域の統括責任者。

 俺と三日月を北大東島に配置したのも、この人物の決裁だ。

 

 老齢だが、背筋は鉄骨の様に真っ直ぐで、声は枯れていながら一語たりとも聞き漏らす事を許さない重さがある。

 目は常に険しく細められており、威圧感を醸し出す。実際、当初その目に捉えられた時、これが命の現場を超えてきた者の眼光かと戦慄したのを記憶している。

 

 艦娘に対する態度は徹底して合理的且つ即物的だった。

 個体の状態を数値で把握し、運用効率で判断し、情を挟まない。国土防衛という大義の為に、一切の不確定要素を排除するという信念に基づいている。

 

 三日月に対しては、特に慎重だった。

 三日月の戦闘能力と、その"特異性"の双方を正確に把握している数少ない人間の一人。俺の出自と三日月との関係性も当然理解しており、故にその管理者として据えた。

 

 ──つまり、俺は此の人に飼われている。三日月を管理する為の、飼い犬だ。

 その自覚は、とうの昔からあった。

 

 査察まで凡そ5時間。

 やるべき事は多い。執務室の書類を整理し、見られてはまずいものを鍵付きの引き出しに仕舞う。三日月の病状に関する詳細な記録──傷の写真、投薬量の推移、体温のグラフ──それらは見せる必要がある。寧ろ見せなければ不自然だ。隠す事と開示する事の線引きを、短時間で決めなければならない。

 

 医務室に寄り、三日月に伝えた。

 

 「三日月。今日の午後、中将が来る」

 

 三日月は薄く目を開けたまま、暫く黙っていた。

 

 「......そう、ですか」

 

 それだけだった。驚きも動揺も無い。──いや、体力が無いだけかもしれない。だが、その目の奥に、微かな緊張が走った様には見えた。三日月にとっても中将は特別な存在だ。自分の運命を握る者の一人だから。

 

 「お前は寝ていろ。俺が対応する」

 

 「......はい。──司令官、お気をつけて」

 

 お気をつけて。──その言葉の含みが、静かに胸に刺さった。

 

 執務室に戻り、制服に着替え、身嗜みを整える。普段は着崩している軍服の襟を正し、ボタンを留めた。鏡に映る自分の顔は、4日間の看病で目の下に隈が出来ている。──此の程度は見咎められまい。或いは、見咎められた方が良いのかもしれない。三日月の看病に当たっていたという事実は、報告と整合する。

 

 昼を過ぎた頃、南の空から微かな重低音が聞こえた。島の周囲は遮るものが無い。風に乗れば、ヘリのローター音は遥か遠方から届く。

 窓から空を見上げる。まだ機影は無い。だが、この島に飛んでくるものなど補給便か軍用機しかない。──来たか。

 

 門前に出て、待つ。

 

 

 ◆

 

 

 一四○○。

 

 輸送ヘリが島の西側の仮設着陸帯に降りた。

 

 ローターの風が椰子の葉を叩き、砂埃が舞う。何片もの草花が風に千切れて飛んだ。乾いた土の匂いと、航空燃料の刺すような臭気が混ざり合って鼻腔を突く。着陸帯のコンクリートが陽炎で揺れている。

 

 ヘリの機体が完全に停止する前に、既に扉が開いていた。

 基地の門前で敬礼して迎えると、中将は随行の副官及び秘書艦と共に降機した。両名も馴染みの顔である。

 軍服は熱帯用の薄手のものだが、襟元まできっちりと留めている。この気温で、汗一つ掻いていない。白髪交じりの髪は短く刈り込まれ、日に灼けた肌に深い皺が刻まれている。そして軍帽の鍔から覗かせる眼光は、変わらず鋭い。

 

 「ご無沙汰しております、中将」

 

 「久しいな、特務大佐」

 

 特務大佐。俺に与えられた階級。

 正規の士官教育を受けていない人間が大佐の位を持つ事は、通常の軍制では有り得ない。ましてや、この世界における身元も経歴も、全て中将の裁量で作られたものだ。

 

 特務──その二文字が意味するところは明確だった。三日月の管理という特務。その為だけに、中将が用意した椅子。階級は俺の能力に対する評価ではなく、三日月の傍に据え置く為に必要な権限の最低条件に過ぎない。

 

 大佐であれば、基地の運営権限を持てる。人事に関する一定の裁量も与えられる。──そして、艦娘の最終評価を下す権限も。

 全ては三日月を此の島に繋ぎ止め、管理する為の、制度上の装置だった。

 

 「執務室を借りるぞ」

 

 「はい」

 

 先導して基地の門を潜る。中将は歩きながら、基地の外壁を一瞥した。塗装の剥げた壁、錆びた鉄扉、雑草の生えた中庭。海風に晒され続けた要塞は、至る所に劣化の痕を晒している。それらを一通り確認し、何も言わなかった。──言わない事が、この人の評価だ。問題があれば言う。言わないのは許容範囲であるという事である。

 

 廊下を歩く間も、中将は一言も発さなかった。随伴2名もまた同様で、4人の足音だけが建屋の中に反響する。この基地を訪れる人間は補給便を除き滅多に居ない。3人分の足音が加わるだけで、廊下の空気が別のものになった。

 

 医務室の前を通過する時、中将の視線が一瞬、閉ざされた扉に向いた。──気づいている。三日月が此処に居る事を。だが足を止めはしなかった。

 

 執務室に入り、窓を開ける。潮風が書類を揺らし、煙草の残り香を外へ追い出していく。

 その間に中将は椅子に腰を下ろした。秘書艦──妙高がその後ろに付け、副官が書類を机の上に展開する。俺は向かいに座る。

 

 「定例報告は確認している。基地の運営に問題は無い」

 

 「恐れ入ります」

 

 中将は書類に目を落としたまま、淡々と続けた。

 

 「本題は、4日前の...件の報告についてだ」

 

 「......」

 

 4日前──"食事"の報告。

 

 俺が送った簡潔な暗号電文。日時、所要時間、三日月の状態。感情を一切排した、定型のフォーマット。それが中将の手元に届き、今日の査察に繋がった。

 これは仕方がない。隠匿すべき内容でもないし、秘匿事項ではあるが関係者への報告は義務である。

 

 中将は静かに顔を上げた。

 細めた目の奥が、こちらを射る。

 

 「三日月は、今、どこに居る?」

 「......医務室です。依然体調を崩しておりまして」

 「ほう」

 「感染症と思われる症状が。現在、快方に向かっています」

 

 中将は数秒の間、何も言わなかった。

 その沈黙の中に、艦娘が感染症をという驚きと、やはりという予測の一致が、同時に存在している事が窺えた。

 

 後ろの妙高の様子を窺うも、微動だにしない。彼女がこの話の内容をどの程度知っているのかは分からない。だが、秘書艦として中将の傍に在る以上、知らないという事は有り得まい。

 

 「...見舞う必要は無い。聞きたい事は貴官に聞く」

 

 「はい」

 

 中将は手元の書類を捲った。俺が過去に提出した報告書の写しだった。日付と数値が整然と並んでいる。俺自身の字だ。

 

 「食事の頻度は」

 

 直截的な問い。

 この人は知っている。俺と三日月の関係──いや、関係などという曖昧な言葉ではない。俺が三日月によって長らえている事。三日月が俺に食べられている事。その一切を、最初から把握している。

 当然"食事"についても都度報告はしているのだが、こうして面と向かって口にすると、その言葉の重さが変わる。書面では数字でしかなかったものが、声に乗った途端、生々しい現実になる。

 

 「...現在、概ね3か月に一度です」

 「間隔の推移は」

 「2年前までは半年に一度程度でした。爾来、凡そ3か月間隔で推移しております」

 

 具体的には此の世界に落ち、初めての"食事"が2043年9月19日で約77か月。次に2046年11月3日で約38か月、次が2048年12月20日で約25か月と加速度的に間隔が短縮され、年1回ペース、半年に1回ペースと安定期を経て、2055年4月13日の14回目を境に3ヶ月周期のプラトーに入り、以降は同じペースが続いている。

 全て記憶している。日付も、回数も、その夜の三日月の表情も。忘れる事は許されない。これは俺の罪の台帳だ。

 

 「ふむ、」

 

 中将は副官に目配せした。副官が淡々と書き留める。彼もまた、この内容の異常さに表情を動かさない。訓練された無表情。或いは、既にそういうものだと割り切っているのか。

 

 「食事の間隔は減衰すれど伸びた実績が無い。つまり三日月は貴官の損耗を補填出来なくなっているという事だな」

 

 「......はい」

 

 中将の分析は正確だった。"食事"の間隔は、三日月の再生力と俺の身体の劣化速度の均衡点で決まる。三日月の身体にはどんどん俺由来の傷跡が目立つようになってきており、今回とうとう倒れてしまった。これ以上"食事"の間隔が短くなれば、切り崩しが彼女の回復を上回り、均衡が保てなくなり、遠くない未来に三日月は────...

 

 「どのような薬も使い続ければ効能を落とすものだ。劇薬であれば猶更だ。三日月の再生能力の低下と、食事頻度の増加は、相関していると見て良いか」

 

 「......ご推察の通りかと。しかし相関というより、因果関係に近いと考えています。三日月の再生力が落ちれば、一回の"食事"で得られる栄養...と呼べるかは分かりませんが、それも減少する。結果として、次の"食事"までの猶予が短くなる」

 

 自分の口からこの言葉が出る度に、何かが磨り減っていくのを感じる。だが中将の前では、報告者としての役割を全うする他ない。

 

 「率直に聞く。此のまま推移した場合、三日月の戦闘能力はどの程度の期間、維持可能と見積もる」

 

 「それは......」

 

 俺は答えられなかった。

 答えたくなかったのではない。──分からないのだ。分からない事が、一番怖い。

 今後の再生能力の低下について、線形なのか、指数的なのか。ある閾値を下回った時に急激に崩壊するのか、それとも緩やかに衰退していくのか。前例が無い。三日月の様な存在は他に居ない。比較対象が無い以上、予測は推測の域を出ない。

 

 「......正直なところ、予測が立ちません。ただ...現在までの結果としては急激な曲線で頻度が増加していることから、明確に低下傾向にある事は間違いありません。今回の感染症は、その証左です。──これまで三日月が病に伏した事など一度も無かった」

 

 中将は返答せず、須臾の間に視線を落とした。

 感情の無い、事実を確認する為だけの頷き。

 副官のペンが紙の上を走る音だけが、暫く続いた。妙高が窓際に立ったまま、外を見ている。その横顔は凪いだ海の様に静かだった。

 

 一拍の間を置いてから、話題を転じた。

 

 

 「......戦況の話をしようか」

 

 中将の声の調子が変わった。先程までの詰問する様な鋭さが消え、代わりに、事態の深刻さを共有する者の口調になっている。

 副官が別の書類を広げた。海図だった。台湾海峡を中心とした、南西諸島から先島諸島にかけての広域図。幾つもの赤い印が、海峡の東西に点在している。赤い印の密度に、思わず息を呑んだ。

 

 「此処3ヶ月で、台湾海峡沖合における深海棲艦の出現頻度が急増している。従来の哨戒圏を大幅に逸脱した座標での接敵報告が相次いでおり、先月だけで17件。うち5件は護衛艦隊との交戦に発展した」

 

 「......17件」

 

 俺が此の島に着任してからの17年間、南西海域での深海棲艦の出現は年に数回程度だった。それが月17件。桁が違う。

 

 海図に目を凝らす。赤い印は台湾の東岸沿いに集中しているが、幾つかは与那国島の南方、更には宮古海峡にまで散在している。──大東諸島はその延長線上にある。そして丁度2カ月前に三日月が対応したのもまた、その流れ者だった筈だ。

 

 「交戦の結果は」

 

 「護衛艦隊の損害は軽微だが、対処に追われて哨戒の穴が広がっている。通商航路の安全確保が覚束ない状況だ。台湾側は墾丁沿岸から南方海域の変色と異常な雲の滞留を観測しており、共同対処の要請が来ている」

 

 「......何が変わったのですか。此の海域は長く静かだったというのに」

 

 「断定は出来ん。だが、観測データから一つ、気になる動きがある」

 

 中将は海図上の一点を指で示した。台湾南端沖、バシー海峡の南縁に当たる海域。

 

 「この海域で、此処数ヶ月、海底敷設型の広域聴音ソナーが通常の深海棲艦とは明らかに異なる音紋を捉えている。衛星画像でも当該海域の海水変色と上空の雲の異常な滞留が確認された。──会敵数の急増と合わせて考えれば、新たな湧出点が形成されたと見て間違いない」

 

 湧出点。妖精が海底から湧き出す座標。

 

 妖精は思念集合体であり、物理的な実体を持たない。レーダーにも赤外線にも磁気探知にも映らず、いかなるセンサーも思念そのものを捉える事は出来ない。聴音ソナーが拾っているのも妖精ではなく、湧出に伴って活性化する深海棲艦の活動音紋に過ぎない。

 

 一方で、湧出点の周辺環境には明確な変化が現れる。海水の変質、異常潮流、上空を覆う暗雲──それらは衛星や偵察機からも観測出来る。台湾側が墾丁沖で捉えた変色域も、恐らくその兆候だ。だが、それらは湧出の結果であって発生源ではない。変色域は広範に拡散する為、湧出点の正確な座標を物理的観測のみで特定する事は極めて困難だ。

 

 ──ただ、三日月であれば、それが出来る。彼女の紅い霧──知覚領域の展開は、物理センサーでは捉えられない妖精の思念そのものを感知する。だが、北大東島からバシー海峡までは直線でも600km以上。三日月の知覚領域は広大だが、それでもこの距離を覆う事は出来ない。仮に展開するとしても、今の三日月にそれを求める事自体が論外だった。

 

 そして仮に座標が特定出来たとして、海域の正常化は容易ではない。

 

 通常の対処は、湧出に伴い出現する深海棲艦を、出現が止むまで撃滅し続けるという消耗戦だ。湧出点そのものに手を出す術は無い。悪性の妖精──その思念に触れた者は、人間であれ艦娘であれ、感情の奔流に呑まれて自我を喪う。待つのは死か、深海棲艦への転化。通常兵器は無論、艦娘ですら近付けば同じ末路を辿る。故に、湧出が自然に収まるまで艦隊を貼り付け、深海棲艦を叩き続ける他ない。

 唯一の例外が、浄化。湧出点そのものを根源から無力化する方法。──だが、それが出来るのは把握しうる限り三日月だけだ。あの闇を、軽々と飲み干してしまえる程の心の強さを、彼女は持っている。理屈ではない。説明もつかない。ただ三日月にはそれが出来る。それだけの事だ。

 

 今の戦況で求められているのは、前者の消耗戦を支える戦力だ。だが、もし湧出の規模が拡大し、撃滅が追いつかなくなれば──浄化という選択肢が、否応なく浮上する。

 その時、三日月を送り出せるのか。今の三日月を。

 

 

 「また、未確定だが、棲姫級の個体が複数、確認されたとの報告もある」

 

 棲姫級。──その単語が、別の意味で胸を抉った。

 "三日月の中"に居るもの。あれと同格か、それ以上の個体が、海の底から湧き出している。

 

 「戦力の再配置が急務だ。各鎮守府から前線への増派を進めている。佐世保、呉、横須賀から精鋭を引き抜き、先島諸島の防衛線を再構築する。──当然、後方の人員には余裕が無くなる」

 

 中将はそこで言葉を切り、俺の目を見た。

 

 「此処に話が繋がる」

 

 繋がる。──何処に。

 

 中将は、それ以上は言わなかった。此の人はいつもそうだ。結論を先に出さず、材料だけを並べて、相手に考えさせる。

 

 「......それと、もう一点」

 

 中将の声が、僅かに慎重さを帯びた。

 

 

 「妖精憑きについてだ」

 

 「......」

 

 その言葉が此の部屋で発される事に、緊張を覚える。

 

 妖精憑き。艦娘でありながら、深海棲艦の因子を併せ持つ個体。正式な軍事用語ではなく、研究機関や一部の上級将校の間でのみ用いられる呼称。公にはその存在すら認められていない。

 

 三日月は、その一人だ。

 離島棲姫──深海棲艦の上位個体との融合体。それが三日月の"特異性"の正体であり、彼女の異常な戦闘能力と再生力の源泉であった。──尤も、それとは別種の彼女だけが持つ特性もある。寧ろ、三日月を語る上ではそちらの方が余程重要ではあるが......

 

 「現在、妖精憑きとして確認されている個体は四。三日月の他に、武蔵、加賀、雷。武蔵については制御が効かん。加賀も似たようなものだ。雷については管理下に置かれている」

 

 「...1名増えたのですか」

 

 中将は淡々と述べた。まるで在庫管理の報告をする様な口調で。

 

 武蔵と加賀については把握している。三日月からも聞かされた事があるし、誰にも報告していない極秘事項として、武蔵とは実際に面識もある。雷は初耳だった。あの尋常ならざる存在が、知らぬ間に増えていた。

 

 

 「台湾海峡の戦況が悪化した事で、妖精憑きの運用に関する議論が本部で再燃している。強力な戦力として前線に投入すべきという意見と、制御不能のリスクを考慮し現状維持すべきという意見。──現時点では後者が優勢だが、戦況次第では覆る」

 

 「三日月を前線に...?!」

 

 俺は思わず声を荒げた。

 馬鹿な。三日月を艦隊運用に組み込むなど出来る訳が無い。

 話を聞くに、一応は軍の管理下にある三日月と雷を大本営は勘定に入れているのだろうが、現場に明るい眼前の人物が、彼女が隔離されている理由を過小評価する筈もない。

 

 「まさか、過去の運用を掘り返す訳ではないでしょうね」

 

 三日月の過去に於ける悍ましい運用法。

 則ち単艦での────

 

 「早計をするな。三日月の運用に注意を払うのは当然の事。そしてこれは可能性の話だ。今すぐではない。──だが、その可能性が浮上した時、判断材料になるのは貴官の報告だ。三日月の現在の状態。戦闘能力。再生能力。精神状態。そして──制御可能性」

 

 制御可能性。

 俺が三日月を"制御"出来ているかどうか。

 それが問われている。──制御。その言葉を此の関係に当て嵌める事の歪さを、中将は知っていて使っている。

 

 「中将」

 

 「何だ」

 

 「一つ、確認させて頂きたい事があります」

 

 中将が無言で続きを促した。

 

 「三日月を前線に出す議論が──仮に、そうなった場合。三日月の身体は、現在の状態でそれに耐え得ると、本部は判断しているのですか」

 

 質問ではなく、異議だった。その事は中将にも分かっている筈だ。

 

 「本部の判断は本部が下す。貴官の仕事は、正確な情報を上げる事だ」

 

 一刀両断だった。だが、その切り口はあまりにも鮮やか過ぎて、逆に何かを庇っている様にも聞こえた。

 

 「三日月の妖精憑きとしての性質が変化していないか、注意を怠るな。深海棲艦の因子は不安定だ。特にアレは人為的に建造した個体であり前例がない。則ち予測が立たん。再生能力の低下が因子の衰退によるものなのか、或いは──」

 

 中将は言葉を選ぶ様に、一瞬、間を置いた。

 

 その沈黙の中に、此の老人なりの慎重さを感じた。次に出る言葉が、何を意味するか。分かった上で、口にしている。

 

 「──因子が暴走の兆候を見せているのか。その見極めは、貴官にしか出来ん」

 

 暴走。

 その言葉が指すものは明確だ。妖精とは陰陽の性質を併せ持つ。その願いの成就が彼らの天寿となるが、そうならない場合、妖精そのものの願いの因子が宿主の意識を侵食し、艦娘としての自我の崩壊を招く。最悪の場合、深海棲艦そのものに転化する。これは妖精にルーツを持つ艦娘全てに当て嵌まる。それを事前に止める為に評価減制度があり、牽いては解体がある。即ち艦娘としての寿命である。その期間は十人十色ではあるが、解体までの期間の中央値を見る限り、艦娘の寿命とは驚く程に短い。

 

 ──そう言う意味で、三日月の43年という期間は突出点である。精神面に偏重する存在が、永きに渡る時間の経過の中で、その心を安定して維持させる事は基本的にない。

 だが三日月は俺と出会った20年間も、そう言った不穏な兆候は一度として見せなかった。三日月は常に三日月だった。しかし、再生能力が低下しているという事は、因子と宿主の均衡が変化しているという事でもある。

 

 「......了解しました」

 

 「よろしい。──では、本題に入る」

 

 中将は手元の書類を此方に向けて押し出した。

 

 「大東基地に、新たに三名の評価対象を配置する」

 

 書類の表題には『艦娘最終評価配置通達書』と記されている。

 その下に、三つの名前。

 

  駆逐艦 夕立

  正規空母 赤城

  駆逐艦 潮

 

 「......三名同時、ですか」

 

 複数名の同時配置は過去にもあったが、此処数年は間隔が空いていた。それが三名同時とは。

 

 三日月の世話だけでも手一杯の此の基地に、更に三名。──しかも三日月が病床に在る今。

 

 ──成る程。此処に繋がるのか。

 

 戦況の悪化が、大東基地への三名同時配置の背景にある。前線に戦力を集中させる為に、後方で持て余している艦を整理する必要がある。最終評価の速度を上げろ、という事だ。

 

 今までは年に1人か2人、此の島に送られてきた艦娘を時間を掛けて評価していた。だが、もうその悠長さは許されない。

 

 「いずれも、各方面で持て余された艦だ。簡潔に説明する」

 

 中将は書類の一枚目に目を落とした。

 

 「夕立。駆逐艦。佐世保第三水雷戦隊所属......だったが、2年前に所属解除。戦闘時の制御困難により、三度の指揮系統逸脱が報告されている。直近では味方艦との連携を無視して単独突撃し、作戦全体を瓦解させかけた」

 

 中将の声に抑揚は無い。ただ事実を述べている。

 

 「戦闘能力は極めて高い。夜戦における瞬間火力は駆逐艦の中でも屈指。──が、命令に従わない艦に戦場での居場所は無い。佐世保は匙を投げた」

 

 頁を捲る。

 

 「赤城。正規空母。──説明は不要だろう」

 

 赤城。──その名は、此の世界に来る前から知っていた。かつての連合艦隊の象徴。此の世界の赤城もまた、長らく第一線で戦い続けた主力の一角だった筈だ。俺が此の世界に来た時、既に彼女は名を馳せていた。三日月程の最古参ではないにせよ、歴戦の猛者であったと記憶している。

 

 「呉鎮守府を離れて以降、三つの基地を転々としている。いずれの基地でも運用上の問題が報告されているが、詳細は書面に譲る。──貴官の目で判断しろ」

 

 中将の言い方に含みがあった。書面に書けない事がある、という意味だろう。正規空母──しかも赤城ほどの艦が、三つの基地を転々とするのは尋常ではない。余程の事情が無ければ、どの基地も正規空母の戦力を手放しはしない。

 

 つまり、手放さざるを得なかったということになる。

 

 「最後に、潮。駆逐艦。横須賀所属。戦闘能力に問題は無い。寧ろ適性評価は高い。だが──」

 

 中将は一瞬、言葉を選ぶ様に間を置いた。──この老人が言葉を選ぶ場面は、今日だけで二度目だ。

 

 「──精神面で、極めて脆弱な状態にある。過去に複数回の任務放棄が記録されている。最後の出撃で、海域に出た途端に動けなくなったそうだ。──前線での運用は不可と判断された」

 

 海域に出た途端に動けなくなる。それがどういう状態なのか、想像はつく。恐怖か、喪失か、それとも何か別の──。

 

 「......3名とも、重い案件ですね」

 

 「最終評価とは、そういう場所だ」

 

 中将は抑揚の無い声でそう断じた。其の通りだった。此の島に送られてくるのは、何処かで行き詰まった者ばかりだ。居場所を失い、引き受け手が居なくなった艦が辿り着く最後の場所。

 

 最終評価──それは要するに、此の先の使い道があるかないかを決める事に他ならない。使い道があると判断すれば、再配置の推薦書を書く。無いと判断すれば──その先は、俺の権限の外だ。だが、その判断が何を招くかは当然承知している。

 

 「到着は今月下旬を予定している。──受け入れ態勢を整えておけ」

 

 「了解しました」

 

 中将は椅子から立ち上がった。

 

 それだけで終わりかと思った矢先、窓の外に目を遣り、付け加える様に言った。

 

 「......一つ、言っておく」

 

 中将の声が、僅かに低くなった。

 

 「三日月は我が海軍にとって、極めて貴重な戦力だ。その身体的特異性、戦闘経験、いずれも替えが効かん。──だが、戦力として機能しなくなった艦を保有し続ける余裕は、この国には無い」

 

 「......」

 

 「感傷で判断を曇らせるな。貴官の仕事は、数字で評価を下す事だ。三日月に対しても、それは変わらん」

 

 中将は俺を見なかった。窓の外の、凪いだ海を見ていた。

 

 「......艦娘とは資産である。貸借対照表での減価償却を終え、耐用年数の過ぎた残存価値の無い資産を尚保有するのか、簿外とするか。与信と査定こそ君の専門であり、何れも軍の期待に応えてきたものと評価している。──この基地の存在価値は君によって担保されていると言える」

 

 そう言い残して、中将は執務室を出た。

 俺は立ち上がり、敬礼した。中将は振り返らなかった。副官と妙高がその背に続く。

 

 妙高が最後に振り返り、俺に一礼した。その表情からは何も読み取れなかった。秘書艦として中将に仕える艦娘。まるで主と同じ顔を身に着けている様に。──だが、一礼の角度が普段よりも深かった気がするのは、俺の思い過ごしだろうか。

 

 廊下を去っていく三つの足音を聴く。中将の軍靴が規則正しく、副官がそれに揃え、妙高の足音だけが微かに異なるリズムを刻んでいる。──艦娘の足音は、注意して聞けば人間のそれとは違う。もっと軽く、もっと正確で、機械じみた均等さがある。三日月もそうだ。

 

 門前まで見送った。中将はヘリのタラップに足を掛ける前に、一度だけ振り返って基地の全景を見た。何を見ているのか。劣化した建屋か、島の地形か、それとも──此処に居る者達の行く末か。

 

 何も言わず、機体に乗り込んだ。

 

 ヘリのローターが回り始める。

 

 次第に回転数が上がり、轟音が空気を震わせ、やがて機体が浮き上がる。ヘリの影が中庭を横切り、海の方へ遠ざかっていく。音が小さくなり、波の音に呑まれ、やがて完全に消えた。

 

 「はぁ...」

 

 基地に、再び静寂が戻った。

 執務室に戻り椅子に腰かけ短く嘆息を吐く。

 

 眼前を見遣ると中将が座っていた椅子だけが、僅かに位置をずらしたまま残っている。窓から入る風が、机の上の海図の端を捲っていた。

 

 暫くの間、動けなかった。

 椅子に座ったまま、机の上に広げられた書類を見つめる。配置通達書の三つの名前が、白い紙の上で静かに佇んでいる。

 

 夕立。赤城。潮。

 

 三つの名前。三つの経歴。三つの、何処かで行き詰まった艦娘達。

 

 配置通達書の裏には、各艦の略歴が添付されている。戦歴、適性評価、問題行動の記録。数字と簡潔な所見の羅列。──こういう書面を、俺はこの基地に配属されてから17年間読み続けてきた。書面の向こうに居る一人一人の顔を想像しながら、最終的に数字で結論を下す。

 

 その結論が何を意味するか。前線復帰か。後方支援への転換か。それとも──。

 

 "最終評価"。

 

 その言葉の意味は、全く、それ以上もそれ以下も無い。

 数字に基づいて評価を下す。それがどれだけ辛い宣告になろうとも。

 

 だが、今、中将の言葉が別の意味を帯びて響く。

 

 ──三日月に対しても、それは変わらない。

 

 三日月を。

 俺が。評価する。

 

 ──ああ、そういう事か。

 

 中将が三名を同時に配置した理由が、今、分かった気がした。

 

 三日月の代替を、用意し始めているのだ。三日月が戦力として機能しなくなった時の為に。この島に、新しい駒を置く。或いは、三日月の評価を俺に迫っているのかもしれない。此の島に他の艦娘が居れば、三日月だけを特別扱いする事が難しくなる。比較対象が生まれる。──数字が、否応なしに突き付けられる。

 

 あの老人は、既にその先を見ている。

 碁盤の上で石を並べる様に、何手も先を読んで、駒を置く。俺も三日月も、その盤上の石に過ぎない。

 

 配置通達書に添付された略歴に改めて目を通した。

 

 夕立の戦闘記録には、異様な数値が並んでいる。夜戦における命中率と撃破数が突出して高い。だが同時に、友軍被害誘発、作戦逸脱の朱書きが繰り返し記されている。──強過ぎて制御出来ない。そういう艦は、実は珍しくない。

 赤城の記録は、一部が黒塗りされていた。閲覧権限が制限されている。大佐の俺ですら全てを見る事が出来ない。──何があったのか。中将が「貴官の目で判断しろ」と言ったのは、書面では判断出来ないから直接見ろ、という意味だろう。

 潮の記録は、逆に克明だった。出撃回数、任務完遂率、カウンセリング記録の要約。数字だけを見れば、能力に問題は無い。だが任務放棄の4文字が、全ての数字を台無しにしている。──いくら能力があっても、戦えなければ意味が無い。それが軍の論理だ。

 

 3人分の書類を読み終えた時、窓の外の影が長くなっていた。随分と時間が経っている。

 

 

 ──三日月に、伝えなければならない。

 

 3人が来る事。此の島の暮らしが変わる事。

 

 書類を閉じ、海図を折り畳んだ。煙草を一本だけ取り出し、火を点ける。

 煙を吐き出しながら、窓の外を見る。水平線に雲が幾筋か棚引いている。風向きが変わったのか、潮の匂いが濃くなっていた。ヘリが去った後の空は、何事も無かったかの様に青い。

 だが、その空の遥か向こうで、海は変わり始めている。台湾海峡の海底から、何かが湧き出ている。戦線が動き、駒が配置され、この島の二人きりの均衡が崩れようとしている。

 

 煙草を灰皿に押し消し、立ち上がった。

 

 三日月の顔が見たかった。理由は分からない。──いや、分かっている。あの老獪な中将と話した後は、いつもそうだ。数字と合理性の言葉で塗り潰された後、三日月の顔を見て、自分が人間である事を確認したくなる。

 

 廊下を歩いて医務室を過ぎ、三日月の部屋に向かう。

 

 途中、彼女がいつも磨いている廊下の手摺りが、西日を受けて鈍く光っていた。こういう細かい手入れを、三日月は黙ってやる。建屋の掃除も、花壇の手入れも、廊下のワックス掛けも。俺が気づいていない所で、この基地を生きた場所にしているのは、全て彼女だ。

 

 俺が数字で世界を切り刻んでいる間、三日月は手で世界を繕っている。

 

 

 医務室の扉の隙間から覗くと、三日月はまだ眠っていた。

 呼吸は穏やかで、寝息の間隔も安定している。

 

 音を立てない様に枕元に座る。

 額に手を当てると、まだ少し温かい。が、朝よりも更に引いている。このまま行けば、明日には平熱に戻るかもしれない。

 点滴の残量を確認し、額のタオルを替える。こうした動作が、もう手慣れたものになっている事に気づく。たった4日だ。4日で、看病の手順が身体に染みた。

 

 三日月が薄く目を開けた。

 

 「......司令官」

 

 「ああ、起こしたか。すまん」

 

 「いいえ......中将は」

 

 「帰ったよ」

 

 三日月はそれを聞いて、微かに安堵した様に見えた。或いは、落胆だったのかもしれない。此の状態を見られたくない気持ちと、此の状態を知って欲しい気持ちと、その両方があるのだろう。

 

 「三日月、一つ伝える事がある」

 

 「はい」

 

 「月末に、3人の艦娘が此の島に来る。──最終評価の為だ」

 

 三日月の目が、僅かに見開かれた。

 

 「......3人」

 

 「佐世保の夕立、呉の赤城、横須賀の潮。──知ってるか?」

 

 三日月は暫く天井を見つめていた。

 

 「......そちらに配属の夕立さんと赤城さんは、お名前だけ。潮さんは......存じあげません」

 

 「そうか」

 

 「......3人、同時に、ですか」

 

 その声に、微かな驚きがあった。此の島に評価対象が来る事自体は珍しくない。複数名を同時に受け入れた事もある。だが此処数年は配置の間隔が空いており、三名同時というのは久方ぶりだ。──しかも、三日月が病床にある今。

 

 「......賑やかに、なりますね。──久しぶりです」

 

 三日月は微かに笑った。

 その笑みが本心なのかどうか、俺には判断がつかなかった。

 

 「お前の身体が治るまで、まだ時間はある。焦る事は無い」

 

 「はい......ありがとうございます」

 

 少しの間、沈黙が流れた。障子の隙間から入る風が、三日月の前髪を揺らしている。

 

 「......司令官」

 「ん?」

 

 「......3人を同時に、となると──今の私に、ちゃんと出来るでしょうか」

 

 ちゃんと出来る。その言葉の意味を、俺は考えた。

 

 三日月のもう一つの特性。──彼女の側に近付くもの、特に瞳を見たものは、等しく彼女に囚われる。程度の差はあるが、人も動物も艦娘も。深海棲艦ですら例外ではない。俺だけが、何故か、全くその影響を受けなかった。だから20年間、俺たちは離れずに居る事が出来た。

 

 過去に此の島に来た評価対象の中にも、三日月に近づけなかった者は居た。

 だが対策自体はある。

 酷く見た目が悪いが、包帯で目そのものを覆ってしまえば、艦娘への影響は幾分和らぐ。

 

 

 「出来るさ。──お前は、俺が知っている限り、一番丁寧に人と向き合える奴だ」

 

 本心だった。三日月は人から忌避される力を持ちながら、それでも人に向き合おうとする。その矛盾を、43年間抱え続けてきた。

 

 「......ふふ。司令官にそう言って頂けると、少し安心します」

 

 三日月はまた目を閉じた。

 掛け布団の端が少しずれていた。直してやると、三日月は小さく身じろぎして、布団の中に顎を埋めた。

 

 ──出来るさ、と言った。だが、本当にそうだろうか。

 包帯や物理的に距離を置くことで三日月の魅了を抑えられるのは確かだ。過去の評価対象にも、そうして対処してきた。だが、あれは三日月が万全の状態での話だ。今の彼女に、自分の特性を抑え込みながら他者と向き合う余力があるのか。

 考えても仕方がない。月末まで、まだ時間はある。三日月の身体が戻る事を──信じるしかない。

 

 暫く、そのまま枕元に座っていた。

 三日月の呼吸が次第に深くなり、寝息の間隔が緩やかに整っていく。起きている時の張り詰めた気配が、少しずつ解けていくのが分かる。

 障子の隙間から差し込む光が、畳の上をゆっくりと移動している。時間が経っている。どれくらい座っていたのか、自分でも分からなかった。

 

 ふと、三日月の口元が微かに動いた。

 寝言だろうか。

 

 「......しれいかん」

 

 もう眠りに落ちている。

 夢の中でも、俺を呼んでいる。

 

 何を夢見ているのだろう。昨日彼女が語った夢──暗い海の底に沈む夢。あの夢を、まだ見ているのだろうか。それとも今は、もう少し穏やかな夢の中に居るのだろうか。

 俺の名を呼ぶ声は苦しげではなかった。寧ろ、何かを確認する様な、穏やかな呼び掛けだった。──居るか、と問うている。此処に居るか、と。

 居るよ。と、声には出さず、心の中で応えた。

 

 窓の外では、風が出てきた。

 磯の匂いと、夕方の光。障子の隙間から差し込む西陽が、畳の上に細い線を引いている。今日も、この島は静かだ。蝉の声が遠くなり、代わりに秋の虫が鳴き始めている。季節が動いている。

 

 ──月末に、三名の評価減対象者が来る。

 

 夕立。赤城。潮。それぞれの事情を抱えた三人が、此の島に足を踏み入れる。

 

 この二人だけの世界に、外の風が入ってくる。

 それが何を齎すのか、俺にはまだ分からない。

 

 此処数年、此の島は静か過ぎた。評価対象が来ても一名ずつで、長くても数ヶ月で去った。三日月と深く関わる前に、結論が出た。だが、今度は三名が同時にこの島で暮らす。三日月と顔を合わせる機会も、頻度も、桁が変わる。あの穏やかな笑顔を、三人にも向けるのだろうか。それとも──包帯の奥で、目を伏せたまま、誰とも向き合えなくなるのだろうか。

 

 考えても、分からない。分からないが、何かが変わる予感だけは、潮の匂いの様に確かに漂っていた。

 

 窓の外で、日が沈みかけている。

 

 水平線が橙から深い紫へと移ろい、空の一番高いところから、夜の色が降りてくる。あの浴場の夜に見上げた空と、同じ空だ。あの夜は二人で湯に浸かっていた。今は、一人が布団に伏せ、もう一人が枕元に座っている。

 

 同じ空の下で、同じ島で、同じ二人。

 

 だが、何かが──確実に、変わり始めている。

 

 台湾海峡の海底から湧き出すもの。前線を押し上げる波。此の島に向かう三つの影。三日月の身体に残る消えない傷。俺の中で短くなっていく猶予。──全てが、同じ方向を指している。

 

 三日月の頬に掛かった髪を、指先で払った。

 額はまだ微かに熱を帯びている。だが、その表情は穏やかだった。此の世の全てを赦している様な、或いは、何も求めていない様な、静かな寝顔。

 

 この顔を守る為に、俺は何をすればいい。中将が求める数字と、俺が守りたいものの間で、どう立てばいい。

 

 ──答えは出ない。今日も出なかった。明日も、きっと出ない。

 

 ただ一つ、分かる事がある。

 彼女の手を取った時、あの冷たさの中に、まだ脈が打っていた事。

 

 それだけが、今の俺にとっての全てだった。

 

 

 

 肩口の傷痕は、まだ──消えていない。

 

 

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