私の傍に居ると
皆、少しずつ自分を見失ってしまう
だから私は目を伏せる
誰の中にも入らないように
誰をも閉じ込めないように
──でも、本当は、
見てほしい
私を、私の目を、私の全部を
怖がらずに、真っ直ぐに
愛してほしい
この目を伏せたまま、それでも
──あなただけが、そうしてくれた
私の目の奥にあるものを、全部知った上で
それでも、手を離さなかった
その手の温もりだけが
私の全て
そしてその温もりを、私は、
少しずつ、少しずつ、
飲み込んでゆくのです
甘く、優しく
──そしていつか、あなたまでも
『三日月と司令官⑩』
私が倒れてから、5日目の朝。
目を開けると、司令官が椅子に座ったまま眠っていました。
首を不自然な角度に曲げて、腕を組んだまま、浅い呼吸を繰り返している。その姿勢では身体に悪いと、何度かお伝えしたけれど、聞いてくれません。
──いいえ。聞いてくれない、のではなく、聞けないのだと思います。私が目を覚ました時に傍に居なければ、という気持ちが、司令官の中にあるのでしょう。それは、とても、
......とても、うれしいこと。
心の奥の、薄暗い抽斗の中で、その言葉を幾度も転がして舐めてみる。うれしい、うれしい、うれしい...
「......」
司令官の寝顔を、そっと覗く。
目の下の隈が、日を追う毎に深くなっています。頬も少し痩せました。髭が薄く伸びていて、いつもの清潔さが少し崩れている。──私の所為。私が倒れた所為で、司令官は自分の事を後回しにしている。
食事も、ろくに摂っていないのではないでしょうか。あの人は、自分の為だけに料理をする人ではないから。
「...ふふ」
──そして、そうであることを、私はひそかに悦んでいる。
隈が一日分深くなった事を。頬が一日分痩けた事を。髭が一日分伸びた事を。
朝ごとに、布団の中から、この人の"普通"が壊れていく速度を測っています。それを、こっそりと数えています。数える度に、お腹の底で、小さな灯がひとつずつ、点ってゆく。
......こうして少しずつ、この人を蝕んでいく。私が傍に居るだけで。それを知っていて、離れられない。離れたくない。私たちは堕ちていく、それすらもが嬉しくて、楽しくて。
──ああ。私は、なんて醜く業の深い生き物なのでしょう。
司令官。私のためにあなたがやつれていく姿すら、私は愛おしいと思ってしまうのです。私の為に削れていくあなたを見て、胸の奥が熱くなるのです。
お分かりですか、司令官?
削れてしまえばいいと。いっそ私以外の全部を削ぎ落としてほしいと。食事も、睡眠も、職務も、矜持も、過去も今もこれからも──全部、私を看る為だけに擦り減らして、最後に残るのは、私を視るふたつの眼だけでいい。その残骸を、私が胸に抱えて眠りたい。
...そういう未来を、朝の光の中で、一瞬、夢想する。夢想して、自分で自分を嗤う。生々しく腐敗した、この感情を。
静かな部屋に、この人の呼吸だけが満ちています。
規則正しい、深い吸気。長い呼気。──5日間、この音を聴いて眠りました。点滴の雫が落ちる音と、この人の呼吸と。その二つだけが、私とこの世界にあった。
永い私の時間の中で、これほど静かに満たされた日々があったでしょうか。──穏やかで、緩やかな、長閑な時間。
...このような時に、私はどうしようもなく飢えていた。何に? それは愛に。彼からの関心に。より深く、より強い興味に。
私は"看られる者"の心地良さを覚えてしまった。病人として、この人の視線の真ん中に在り続ける心地良さを。点滴の雫が落ちる間隔も、額に当てられる掌の温度も、夜半にタオルを替える足音も、あなたの心配、関心が私に注がれる感覚。それは全部、私の為だけのもの。
「病気になって、良かったなぁ......」
そっと、独り言つ。
口に出してみて、それが本心であると確信する。
......病気になって、本当に良かった。この5日間、あなたの時間を一滴残らず私の為に流してもらえたから。
「ん...っ」
布団の中で身体を起こしてみる。
......起きられました。昨日までは上体を起こすだけで目眩がしたのに、今朝は、少しだけ安定しています。
腕に刺さった点滴の管が、動きに合わせて微かに引っ張られる。針の周りが少し赤くなっていた。司令官が毎日確認してくれていた場所。テープの貼り方が、日を追うごとに丁寧になっていく事に、気づいていた。最初は少し不器用だったのに。
このテープの下の皮膚を、何度、この人の指先がなぞったのでしょう。針の周りの赤み。それも、この人だけが触れた皮膚の印。──ささやかな占有が腕にうっすら浮き上がっている様で、胸の奥が、ざわ、と鳴る。
──所謂、普遍的な病気に伏すという経験は、初めてだった。
肩口の傷が、自分のものではない脈で、じくじくと熱を打っている。息を吸うたび、胸の奥で何かが擦れる様な痛み。額の奥では、鈍い鐘が絶えず鳴っていて、瞼を閉じても音が止まない。身を起こそうとしても、身体の下に湿った鉛を敷き詰められた様で、指一本、思うようには動いてくれない。
でもこれは、遠い昔の数々の実験の日々よりも、深海棲艦の軍勢の飽和砲撃に晒された時よりも、私に囚われた人達に嬲られ犯された時よりも、仲間であるはずの艦娘から罵詈雑言を浴びせられた時よりも、脳裏に浮かぶ私の記憶──そのどれよりも鮮明で、克明で、"愛のある痛み"だった。だってこれは、私を、自分自身を、何もかもに苦慮した上でそれでも選択した、司令官からの贈り物だったから。
......不思議なものです。散々壊されては修復してきたこの身体が、病気で倒れるなんて。まるで人間みたい。──まるで、普通の女の子みたい。
この人の前でだけは"普通の女の子"になれる、などと......そんな甘ったるい事を本気で思っている自分を、誰か、嗤ってくれても良い。誰も嗤ってくれないから、自分で嗤うしかない。
思い返す。
──7月31日。
私が倒れた時の、彼の狼狽した瞳と、直ぐに立て直して対処に当たってくださった姿。
私を抱えて医務室へ駆け込んでいるとき、あれはまるで私たちが出会った時の再現のようで、創部の鈍痛も忘れるほどに懐かしくて、思わず笑ってしまいました。
その時の手の温度は、勿論覚えている。私の頬に触れた掌が小刻みに震えていたことも。
私を呼ぶ声が酷く掠れていた。でもあなたは表情にそれを見せることはなかった。
...ああ。この人はいつもそう。自分が壊れかけている事は蔑ろにするくせに、私が少し傾くだけで、全部を投げ出して駆けてくる。
3日前......8月1日は、頭痛が酷いのと、肩口を超えて左半身全てが余りにも痛くて、動けなかった。
あの日はずっと意識がぼんやりしていたけれど、目を開ける度に、隣に司令官が座っていた。書類を整理していたり、分厚い本──多分私の病状の文献資料を読んでいたり、ウトウトと眠っている時もあった。
何度か、私の髪を梳いてくれた。気持ちよくて満たされて、少し身じろぎすると慌てて手を引っ込めて。愛おしい人。何でもない、なんて素振りをしても、指先だけはいつだって優しくて。
...あの日、微睡みの中で、司令官から煙草の匂いがしないことに気づいた。私が病気だから、きっと我慢をしてくれていたのでしょう。熱で朦朧とした意識の中で、そんなささやかな気遣いが、現実と夢の境目を教えてくれた。
煙草を吸わない司令官は、少しだけ別の匂いがした。消毒用アルコールと、汗と、もっと奥の、剥き出しの匂い。この人の原液みたいな匂い。...それを嗅いだ瞬間、熱に浮かされた頭の片隅で、ああ、いけない、と思った。思ったのに、身体は正直に、彼の方へ傾いていた。
──病人なのに。熱で自制心を失いかけていたから? この身体は、あなたの匂いを嗅ぎ分けて、あなたの側へ擦り寄ろうとしていた。女としての妄想をしていた。まるでタガの外れた動物のように。
あの時、髪を梳いてくれた指先の記憶は、今も頭頂部にじわりと残っている。この人が触れた場所は、何日経っても熱を持ったまま。肌が、皮膚が、細胞の一つ一つが、この人の指紋を覚えてしまって、忘れない。
一昨日の明け方は、一番身体がきつくて、高熱にもうかされた。
額の汗を拭いてくれる司令官の手。何度もタオルを替えに立つ気配。氷枕の位置を直してくれる指先。──その度に目は覚めて、でも起きていると知られたくなくて、寝たふりをしていた。
...寝たふりの下で、私は司令官の指の動きを一つ残らず数えていた。肌の上を滑る指の速度も、タオルが汗を拭い上げていく角度も、氷枕の位置を直す時の掌の圧も。──全部、覚えようとしていた。病気になったことで、あなたにしてもらった初めての看病だから。私をこんなにも丁寧に介抱してくれた姿を心に焼き付けたかったから。
やがて、太陽が頂点に差し掛かった頃、肩口の抉れた部分が突然に再生し塞がった。──随分と痕を残して。
まだ熱はあったけど、動けない程ではなくて、かなり楽にはなった。いつもは瞬時に塞がる外傷の再生に今回相当な時間を要した理由は、私にも分からない。私たちには、もうそんなに時間が残されていないのかもしれない。
あの時...隣で、司令官が椅子に腰かけどうにか重心だけで支えるようにして眠っていた。
その姿を見て、熱とは別の何かが、お腹の底でちいさく灯っていた。身体は本当にしんどかったけれども、すっかり心はもう。
──ああ。この期に及んで。身体は痛んでいるというのに、心だけはいつも通りにこの人を欲しがっている。あなたを見ていると、私は直ぐに浮かされてしまう。ましてやいつもと違う姿を見せられたら、それだけで心が浮き足立ってしまって。
本当に私は単純だ。滑稽で、哀しくて、どうしようもなく本当。
「司令官」と呼びかける。
あなたは私の様子を少し窺い、「おはよう」と返す。
......例えばあなたが他の誰かの看病をしている姿を、想像したくない。この手が私以外の額に触れるところを。この声が私以外の名前を呼ぶところを。──ああ、駄目。考えただけで、胸の奥が黒く濁る。本当に私は病気ですね。この人に対してだけ、どうしようもなく。
その日の夜は、夢を見た。
ゆっくりと、海の中に沈み、水面の光を望む夢。
懐かしい夢。あれは記憶。あれは希望。あれは導き。あれは焦がれ。あれこそが私の根源であり、そしていつか還る場所。
──そして、夢の中の深い深い底の方で。何かが、私の足首を優しく握っている気配がした。引き止めるのでも引き摺り込むのでもなく。ただ、握って、待っている。......懐かしい、握り方。
ああ、恋しい──恋しいの。
司令官、私は──
──そして、昨日。
司令官から、中将閣下の査察を聞かされる。
あの方とは司令官同様の長い付き合いだけど、私の過去に占める彼の割合は0に等しい。私の特性をある意味で最も理解し、適切に対応されてきた。
そして、久々に、新しく配属される方々の話も。
「......」
......3人。
この島に、私と司令官以外の人間が来る。
──嬉しいか、と問われれば......分からない。分からないけれど。お腹の底の、灯とは別の場所で、冷たい何かがちりと鳴った。
窓から差し込む朝日に目が眩む。
この島の朝は、いつも同じ匂いがする。潮と、緑と、土の匂い。少しだけ甘い。長年嗅ぎ続けている匂いだけど、飽きた事はない。
...でも。この匂いも、いつかは嗅げなくなるのでしょう。この島も、この朝も、この人の呼吸も──全部、いつかは。
──それなら、今。
今、この瞬間のこの人を、私は一秒残らず、胸の奥の小瓶に封じ込めなければ。呼吸の音も、髭の伸びた頬も、目の下の隈も。全部、全部、私の中に。失う前に。
...彼と出会う前の事を思い返す。あの頃の私は壊れていた、周りも。異常と日常の区別すら付かなくなっていたあの頃。今では、その自覚がある。
とっくに壊れて持て余されていた私を拾ったのがあなた。壊れたままの私を捕まえて離さずにいてくれたのもあなた。
壊れたまま愛し愛されることの、甘い残酷さ。退廃的で不可逆なこの関係。
甘い、甘い。全てが甘い。あなたと出会ってからの日々は、蜂蜜の様に粘っこく私の心にトロトロと注がれて、満たされてゆく。
「......んん」
「...」
司令官が、小さく身じろぎしました。
──呼吸が変わった。深い寝息から、浅い息に。
起きてしまわれる前に、私は目を閉じる。──寝たふり、です。
足音。椅子の軋み。司令官が立ち上がる気配。
そっと、額に手が触れました。体温を測っているのでしょう。その手は少し冷たくて、乾いていて、けれど、いつも同じ手です。
──この手。5日間、何度この手に触れられただろう。額に。頬に。腕に。点滴の針の周りに。
それは全て私の看病の為のもの。正確で、義務的で、冷静なもの。
......それなのに。
触れられる度に、身体の奥がきゅっと締まる。お腹の底で、熱が、じわりと滲む。太腿の内側がほんの少し疼く。
看病の手に欲情している自分が居る。それを恥じる気持ちと、恥じない自分と。どちらが本当の私なのか、分からない。分からなくていい。
恥じない方の私が、寝たふりの下でゆっくりと笑っている。この手が私の額を離れた時、その名残を、私は布団の中で舌先で唇の内側を舐めながら、噛み締める。
「...うん、だいぶ下がったな」
そう言って、輸液バッグを交換される。もうすっかり手慣れてしまった様子で、嬉しくも、逆に少し切なくもなる。あなたに苦労を掛けてしまったことが。
......切ない、と思っている半分の裏で、もう半分の私は悦んでいる。慣れてしまえ。この手付きが私の身体に馴染みきってしまえ。この手の記憶が、私という鋳型に完全に合わせて固まってしまえ、と。
司令官が部屋を出て行く足音を確認してから、目を開けました。
遠ざかる足音は普段の司令官のそれよりも少し速い。私の傍を離れる時間を、短くしようとしてくださっているのかしら。
...ああ...いじらしいなぁ。
...本当に、いじらしい。
この人は知らないのです。あなたが短くしようとするその時間の長さを、私が、1秒単位で数えていることを。数えて、惜しんで、それでいて、離れてゆく足音の速度にまで、思いを馳せている。
──だから離れてください、少しの間だけ。離れた分だけ、戻って来るあなたが、私の中で甘くなるから。