「ん...っ」
午後になって、久々に自分で立ち上がりました。
ふらつきはしましたけれど、壁に手を付けば歩ける。窓を開けると、潮風が頬を撫でていきました。
──久しぶりの外の空気......風が気持ちいい。
肌がしっとりと汗ばんで、その汗を、潮風が攫っていく。肌の上を何かが過ぎていく、その感覚だけで、身体の芯が甘く震える。──5日間、布団の中でしか空気を吸わなかった身体は、風の一吹きにすら、こんなに過敏になっていた。
「無理するなよ」
お隣で書類を整理されていた司令官に注意されましたが、その口調は怒っているのではなく、安堵が混じっているのが分かる。
ふと、司令官が書類を伏せて、伸びをした。
シャツの裾が少し捲れて、お腹が見える。──何でもない光景。何度も見た光景。なのに。
目を逸らせない自分が居ます。
臍の上の、薄く汗ばんだ皮膚。腹筋の浅い影。その下に続く、布に隠された部分。──視線が吸い寄せられる。顔を反らすふりをして、瞼を少しだけ伏せて、それでも視線の端で追ってしまう。
私が倒れてから5日間、ずっと傍に居てくれた。手を握ってくれた。額にも触れてくれた。髪を梳いてくれた。汗を拭いてくれた。──でもそれだけ。病人の私に、それ以上は。当たり前です。当たり前のことです。
......当たり前のことなのに。
足りないと身体が言っている。もっと欲しい、と。
いけません。まだ、身体が本調子ではないのに。こんな事を考えるなんて。
──でも。5日間も、この人の隣に居て。この人の匂いを嗅いで。この人の手に触れられて。看病という名目でしか肌を合わせられなくて。
積もるのです。積もって、重なって、私を捕らえる。
この人が私の額に触れる度に。この人の指先が点滴を直す度に。この人の掌が私の頬を包む度に。
全部、全部、身体が覚えていて。もっと欲しいと。もっと奥にと。もっと深くに──と。
皮膚の下で、澱が溜まっていく。看病の手が触れた跡。一つ一つの行為は清潔で義務的で冷静なものだったのに。積もると、こんなにもぬるく濁る。──この澱を、この人の手で、掻き回してほしい。底から。奥から。全部。ああ、甘い。甘い。甘くて胸やけしそう。
......私は、欲深い。
分かっています。昔から。欲に忠実で、我慢が出来ない。求め始めたら止まらない。それが私。
気付いた時から、ずっとそう。何も変わっていない。変われない。この身体が成長しないように、この心も、ずっと同じ場所で渇いている。
私は──淫らなのです。今やこの人の前でだけ、どうしようもなく。この人に触れられると、身体の奥から得体の知れない熱が這い上がってきて、頭の芯が蕩けて、何もかもどうでもよくなる。それが私の本質なのか、それとも私の中のものが望んでいるのか──区別がつかなくなってきた。
どちらでも良いのかもしれない。どちらでも、あなたに触れられたい事に変わりはない。
──夕方、廊下を歩いていると、調理室から物音が聞こえました。覗くと、司令官が立っていた。
不器用な手付きでお粥を炊いている。味見をする横顔。ああ。この人が私の為に料理をしてくれている。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
......同時に、お腹の底の熱が、また少し強くなる。
味見をする唇の動き。舌先が、ほんの少し見えた瞬間──視線が其処で止まる。
あの舌が、昔、私のどこを這ったのか。何度、その動きを受けたのか。記憶が一斉に肌の下で目を開ける。──身体が覚えている。頭ではなく、皮膚が、粘膜が、肉が、骨が。
この人の背中。広い肩。少し猫背気味の姿勢。袖を捲った腕。──ずっと見てきた背中。この背中に、何度抱きついただろう。この腕に、何度抱かれただろう。
その先も想像する。触れたらもう止められない気がするから。
──止められない自分が怖いのではない。止める気がない自分が、少しだけ、怖い。
いいえ。本当は、怖くなんてない。止める気のない自分を、私は密かに期待している。解き放つ瞬間を待っている。この5日間の澱をこの人の手で、底から掻き混ぜてもらう夜を。
「司令官」
「ん...ああ、三日月」
調理室の扉を開く。
振り向きざまに司令官は私の目を見て、言った。
「丁度出来上がったところだ、食べられそうか?」
「はい、いただきます」
頂いたお粥は、少し煮詰まっていた。
「......不味いだろ。三日月の半分も上手く出来ない」
「いいえ。とても美味しいです」
「嘘だ、味見したけどそんなに...」
「嘘じゃないです。──司令官が作ってくれたから」
「そ、そうか」
司令官は少し目を逸らして、耳の先が赤くなっていました。──可愛い、と思いました。不謹慎かもしれませんけれど。
「ふふ。司令官...照れているのですか?」
「からかうなよな...」
「からかってなんかいませんよ?」
私は少し顔を前に寄せ、司令官に眴せる。
少しして、あなたは僅かに視線を逸らす。
未だに私はあなたを掴まえることができない。あなたに私は囚われ続けている。
...いっそこの人の全部を、私の中に閉じ込めてしまおうか。そうしたら、誰にも奪われない。時間にも、運命にも、もうすぐ来る方々にも。
──ああ。こういう感情を、きっと人は愛とは呼ばない。執着と呼ぶのでしょう。いいえ、精神病の一種でしょうか。
分かっています。分かっているのです。この独占欲が、まともではない事くらい。
でも、止められない。止めたくない。この人が私だけを見て、私だけに触れて、私だけの名前を呼んでくれる世界が欲しい。それ以外は何も要らないのに。
「どうした...三日月?」
「いいえ、ご馳走様です。司令官」
──お粥を啜る度に、この人の味見の唇の記憶が、舌の根に重なる。同じ匙。同じ鍋。同じ湯気。間接的に、私はこの人を口に含んでいる。そう思った瞬間、匙を持つ指先に、ぞくりと甘い痺れが走った。
......ああ。もう。本当に、駄目。
◇◆
夜。
医務室の窓から差し込む月明かりが、布団の上に四角い光を落としています。私の手の上。司令官がずっと座っていたパイプ椅子の脚の傍。静かに照らす。静かに、静かに。
...月。私の名前にも入っているそれは、冷たくて、遠くて、でもいつでも変わらずに地上を照らしている。本物の月はこんなにも綺麗。対して私は月の影の方。三日月。殆ど欠けて、ほんの少しだけ光っている。
欠けた部分の、その暗いところに本当の私が住んでいる。光っている部分は、まがいもの。誰だって明るい方を見ようとする。私だって満月の様に完全で完璧で美しいものになれれば良かった。でもどうしたって私は底の方で暗く澱んで明るく光る事なんてできない。できないけれど、私はそんな私を愛してくれる人を求めて止まない。
「三日月、失礼するぞ」
布団に横になって、天井の染みを数えている内に、司令官が顔を出してくれました。
お風呂上がりのお姿。髪が少し湿っていて、石鹸の匂いがする。──その匂いの奥に、この人だけの匂い。煙草と、汗と、もっと奥の、言葉にならない匂いがある。
3日前の夜、枕に染みていたのと同じ匂い。あの時、熱で朦朧としながら、この匂いだけを頼りに現実にしがみついていた。──今はもう、はっきりと。
嗅ぐ度に、身体の底が疼いた。嗅ぐ度に、もっと近くに行きたいと思った。
この匂いは、私にとって阿片のようなもの。嗅げば嗅ぐほど深みに堕ちていく。それを知っていて自分から溺れにいく。
あなたに触れると、瞳孔が開くの。鼓動が速くなって、唇の内側が乾く。身体がはっきりと反応する。薬物の通り道と同じ所を通っている。私はあなたに薬漬けにされている。──ああ、もっと漬けてほしい。頭の天辺までも。
「司令官、今日も居てくださるのですか...?」
「そのつもりだが、良いか?」
そう言って様子を窺うようにする司令官を見た瞬間──口の中に唾液が溢れた。
お腹の底から熱い波が這い上がって指先が震える。胸が甘く疼いた。
5日間、ずっと積もり続けていたものが一気に、堰を切った。
身体の奥の、もっと深い場所で、何かが微かに蠢いた。
勿論ですよ。司令官。
ずっと傍に居てください。
ずっと傍に居させて...
「ありがとうございます。嬉しいです...」
司令官は少し困ったように笑った。
「礼なんかいいよ」
「良くないです」
私は布団の上で身体を起こした。
司令官がすぐに支えようと手を伸ばす。
その手首を掴んだ。
ぴくり、と司令官の身体が止まる。
温かい。まだ少し湿っている。
風呂上がりの熱がそのまま残っていた。五日間、ずっと触れていた手。
でも今は違う、看病の手じゃない、ただの、司令官の手。
その違いを意識した瞬間、また一段と身体の奥が熱くなる。
「......三日月、顔が赤いぞ。また熱が」
「......いいえ」
「でも」
「熱ではありません」
......そう言って、目を伏せる。伏せた睫毛の下で、紅い目が、灼けている筈。あなたに気づかれるように。私は気づかれないふりをしながら。
「...この5日間、お世話になりました」
「気にするな。当たり前のことだ」
「気にします。全部、覚えていますから」
「そんな、大層な事じゃない」
「......いやです。忘れません」
......少し声が甘くなった。自分でも分かった。分かっていて、止めない。
司令官も気づいている筈。でも、何も言わない。言えない。
この人はいつもそう、境界線の手前で止まる。
止まろうとする。だから──
──私から、いつも、あなたのもとへ
「......司令官」
「ん?」
「そちらの椅子は、硬いでしょう...?」
「いや...もう慣れたよ」
「慣れては、駄目」
ふ、と、小さく笑みが零れる。味蕾に絡む様に、甘くて苦い。
「......こちらに、来てください」
自分の太ももを、手で、二度叩く。遠い。遠すぎる。今夜は、あの距離は、耐えられない。
ああ。
この人が欲しい。
首筋の、あの脈打つ部分に、私も歯を立てたい。血が滲むか滲まないか、その境目の力で噛みたい。噛んで、痕を残して、この人の皮膚に私が居た証を赤く刻みたい。──病人の思考ではない。病人の癖に。でも止まらない。
5日間、ずっと傍に居てくれたのに。手は握ってくれた。額にも触れてくれた。──でも、それだけ。それだけではもう足りないの。
足りない。全然、足りない。もっと欲しい。もっと。もっと近くに。もっと奥に。もっと──
......この渇きは、43年前から変わらない。人の形をした深海の口。いくら注いでも満ちない器。それが私。
でも。この人だけが私を満たしてくれる。渇きを忘れさせてくれる。だから何度でも求めてしまう。何度でも、何度でも。
唇を、舌先で、ゆっくりと舐める。
下唇の裏側から上唇の際まで、ねっとりと円を描くように。自分の唾液が、自分の唇を濡らしていく感覚を、あなたに、見せる為に。
瞳孔が開いていく。紅い虹彩が、暗い部屋の中で、灼ける様に滲んでいる。
あなたにだけは、隠さない。
この目で見た人はみんな壊れる。でもこの人だけは壊れない。だからこの目でこの人だけを、見る。他の誰にも見せない目で。
"目を伏せなくても良い"というのは、贈り物。他の誰にも渡さないし渡せない。この魅了の刃を、あなただけには剥き出しで差し出す。──切られて、ください。私の目で。
「しれいかん」
甘くて、湿って、喉の奥に纏わりつくような声が出る。
自分の声じゃないみたい。でも、これも私の本当の声。この人にだけ、聞かせる声。
......娼婦みたいな声。自分でもそう思う。でも構わない。この人の前でだけは、何にでもなれる。何にでもなりたい。
「そばに......来て、ください」
両手を拡げ、彼を招く。
五本の指を、ゆるく開いて。掌を、上に向けて──受け入れる形。招く形。この人の輪郭を、私の腕の中に、そのまま、はめ込む為の形。
「三日月...」
司令官は一瞬だけ黙って、それから──私の目を見ました。
20年の間に、何度もそうしてきたように。あなたは私の目の奥を覗いて、私が何を求めているのか、全部読み取ってしまう。その上で、普段のあなたは私を焦らす。だけど、今夜はもう、そうはさせない。
この人の目が好き。皆が恐れる私の目。皆が囚われる私の目を、真っ直ぐに見てくれるこの目。魅了の効かない唯一の目。だから怖くない。この人の前でだけ、全部晒せる。醜い部分も。飢えた部分も。底無しの渇きも。この澱んだ欲も。全部。
読まれるという事の危うさ。普通、人は他人に読まれる事を恐れる。でも私はこの人に読まれる事に、背筋が痺れる。私の本気を読んだとき、あなたは目を背けずに、抱きしめてくれる。......だから私は、もっと深い所まで読ませたくなる。もっと奥まで。もっと汚い所まで。暴かれる為に私は、この人の前でだけ、丁寧に汚れ続ける。
「......身体は、大丈夫なのか」
たった一度だけの確認。
やっぱり、この人は分かっている。私がこの声を出した時、この目をした時、何を欲しがっているか。これだけ秋波を送ればそれもそうかと思うけれど...
そしてあなたはいつも問いかける。あなたの問いかけに当然私は応じます。これがあなたなりのスイッチの入れ方だと知っています。
勿論...問わないでくれたらと思っている。あなたから強引に私を剥ぎ取ってくれたらと。
でも、問う。あなたは必ず、問う。──その優しさが私を更に濡らす。問う分だけ待たされる。待たされる分だけ積もる。積もった分だけ、決壊した時の水量が増える。
「......うん」
たった一言。
「...そうか」
「あ...」
それだけで十分でした。
布団の傍に膝を突く。何も言わずに手を伸ばして、私の頬に触れてくれる。
──ああ。この手。5日間、看病の為にだけ触れていた手が、やっと。やっと、別の意味で触れてくれる。
指先の圧が違う。温度が違う。冷たくて正確だった看病の手じゃない。──迷うように、確かめるように、熱を含んだ手。
......迷っている。病み上がりの私に触れることへの躊躇い。何もかもが愛おしく、気持ちよさに変換される。
首に腕を回す。引き寄せる。
額が触れた。鼻先が触れた。吐息が混じった。
──瞬間、頭の中が、しん、と白くなる。
あなたの匂い。
5日間、看病をされながら嗅いでいた匂い。
熱に浮かされながらしがみついた、あなたの匂い──今は、布団越しじゃない。直に。この人の肌から、直に。
何にも似ていない。何にも替えられない。この匂いを嗅ぐと、私の中の全部が、この人に向かって流れ出していく。止められない。止めたくない。
──溶けていく。私が私でなくなっていく。それが怖くない。この人の中に溶けるなら、私は喜んで私を手放す。
......手放したものを、この人が拾い上げて、また私に返してくれる。渡して、返されて、渡して、返されて。そうして、いつの間にか、私の輪郭とあなたの輪郭の境目が、ぼやけていく。──何処までが私で、何処からがあなたなのか、分からなくなる。分からない儘で、溺れていたい。
私から、唇を寄せる。
「ん......」
軽く、触れるだけ。
ぞくりと、甘い痺れが身体を抜ける。
もう一度。今度はもう少し深く、唇を押し当てる。司令官の下唇を、私の唇で挟む。吸う。微かな水音。
「..みか..づき..」
──呼吸が変わった。
あなたの規則正しい呼吸が、乱れてる。深い寝息とも、穏やかな日中の息遣いとも違う──熱を孕んだ、浅い息。
目を見合わせる。
お互いが熱を込めて、それを感じ取る。
私の顔を抑える手にいつもより力が籠っているのが分かる。
──あなたから、応えてくれている。
ああ。あなたも渇いていたのですね。あなたも、私と同じように。
......嬉しい。この人を渇かせていたのが私だと思うと、背筋がぞくぞくする。
あなたを渇かせた女──それが私。他の誰でもない、私。この事実を、胸の奥で、そっと、勲章のように撫でる。
「...ん......ぁむ......」
もっと。もっと。もっと深く。
私の舌が、彼の唇を割る。歯列を擦り抜けて、奥へ。彼の舌に触れた瞬間、背中から甘い痺れが全身に走った。
──温かい。この人の中は、温かい。私の中の冷たい部分が、少しだけ溶ける。
「ん、ちゅ......んぅ......しれい、かん......」
唾液が混じる。溶ける。境目が無くなる。
私がこの人の中に流れ込んでいく。喉が動く。嚥下する音。──ああ、ああ。私のものが、彼の中に。私が、彼の一部に。
嬉しい。嬉しい。大好き。頭がぐちゃぐちゃになるくらい、嬉しい......
もっと溶けたい...もっと混じりたい...この人の中に全部流し込んで、一滴も残さず、私という存在を。
──毒を、注いでいるのかもしれない。私という毒を。それでも、止められない。
......この味を、他の誰かが知ったら。この人の舌の感触を、他の誰かが。──駄目。考えるな。考えたら、壊してしまう。何かを。誰かを?
新しい方々が来る前に。この舌の味を、私の舌で、塗り潰しておかなければならない。奥の奥まで、私の唾液で、私の匂いで、私の味で、上書きしなければ──そんな考えが、ぬるりと頭を擡げる。嗤えるでしょう? あなたは、誰にも奪われない。分かっているのに、止まらない。
「...ぁん」
───。
背中に、手が回された。
やっと。やっと抱いてくれた。ずっと待っていた、この腕の中に。
そしてその手が、少しだけ、震えていた。
......ああ。この人も。この人も、我慢していたのだと。5日間、看病の手でしか私に触れなかったのは、触れたら止まれないと分かっていたから。
──私たちは、お互いの深淵を覗き込みながら、手を繋いでいる。どちらかが落ちれば、もう片方も引きずられる。それを分かっていて、手を離さない。
落ちたい、と、私はずっと思っている。あなたを道連れに。或いは、あなたが先に落ちて、私が引き摺られるのでも良い。どちらでも構わない。二人一緒に底に沈む、その瞬間の重力を、私は、もう、何度も夢で味わっている。
「っ、ちゅ......ふ、ぅ......」
唇が離れた。粘性の糸が、月明かりの中で微かに光って、切れる。
息が荒い。私の。彼の。──お互いの呼吸が、同じ速度で。
「......三日月」
掠れた声。冷静じゃない、揺らいだ、剥き出しの声。
──ああ。あなたの掠れた声。震えているの。
その声を、私の為だけに。他の誰にも聞かせないで。
「もう一回......して......もっと......」
今度は、彼から。
後頭部に手が触れて、ぐっと引き寄せられる。──その手の力。看病の手でも、確かめる手でもない。求める手。私を欲する手。三つ目の手。
──この手に壊されたい。この手に作り変えられたい。
「んっ......ん、ふ、ぁ......っ」
深い。さっきよりずっと。彼の舌が私の中に入ってくる。絡め取って、吸って、啜って。チュプ、チュプ。淫靡な水音。静かな部屋を満たしていく。
甘い。苦い。混じる、溶け合う。──私たちでしか作れない味、2人だけの退廃の味。
──この水音を、窓の外の波音が優しく覆い隠してくれている。だからもっと強く大きく、淫らに心をさらけ出せる。静かな夜の空気が、この音を溶かしてくれる内に。
「三日月...」
「しれ...かん...」
...司令官。司令官、司令官。
名前しか浮かばない。この人の事しか考えられない。この人の唇と舌と体温と匂いと、それだけで世界が全部埋まって、他のもの全部消えて、それでいい。それがいい。それだけでいい。それだけが欲しい。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと──
少しだけ、涙が流れる。
嬉しくて。苦しくて。愛しくて。怖くて。全部ごちゃ混ぜになって。あなたに出会うまで、ずっとひとりで。誰にも触れられなくて。触れたら壊してしまうから。近づいたら狂わせてしまうから。ずっと、ずっと、ひとりで──
──あなたと出会うまでの孤独をどのように表現しましょうか? 色々あったけれど、結局の所、飢えて乾いて狂わせただけの期間だったように思う。私は相思相愛になってくれる人がいてくれれば、それで良かった。私の意味の分からない特性は、ただ望みを遠ざけるだけだった。あなたと出会うまでの過去は、底無しに、際限なく、私を飢えさせた。そして飢えた私は、今こうしてあなたを喰らうように愛している。
愛する、という言葉は、この場合、言葉が足りない。私のしているのは、愛よりも、もっと、捕食に近い。噛んで、吸って、咀嚼して、呑み込んで、消化する。消化しきれなかった破片が、私の身体の中で、この人の形を保っている。──それが、私の愛。
この人だけが。
この人だけが壊れなかった。この人だけが狂わなかった。
だから。この人じゃなきゃ駄目。この人以外は要らない。この世界に、この人だけ居てくれたら、それで。
──それは愛でしょうか。それとも呪いでしょうか。......どちらでも構わない。名前なんて。
「......すきぃ......しれいかん......」
彼の胸に額を押し付ける。心臓の音。ドクン、ドクン。──この音。この音を聞いていたい。ずっと。死ぬまで。死んでも。
......この心臓が止まる日が来たら、私はどうなるのでしょう。──考えたくない。考えると、胸の奥が抉られるみたいに痛い。だから今は、この音だけ聴いていたい。この音は、私のもの。私だけのもの。
──もし止まる日が来たら。その日に、私も一緒に止まれるように、今、この音を、私の中のどこか深い所に、刻印しておきたい。契印のように。割符のように。
「......ああ...俺も」
「──!」
ああ。ああ、ああ!
もう、だめ。
その一言で。たったそれだけで。私の中の最後の何かが、決壊した。
女としての私が溢れ出す。太ももに粘っこい熱が垂れる。
溜まりに溜まっていた澱が、底を割って、一気に下へと落ちていく。身体の底が、熱い泥で満ちていく。
顔を離す。真っ直ぐに、彼の目を見る。紅い目で。隠さずに。
「嬉しい...ああ、もっと...触って...」
彼の手を取り、私のネグリジェの肩紐に手を掛ける。
司令官の目が、一瞬だけ揺れる。──でも、止めない。止めないでくれる。いつもそう。私が求めれば、この人は応えてくれる。私の為に。
──止めて欲しくない。止められたら、私は、壊れる。あなた以外の手によって止められた"私"の記憶を、私は持っていない。穢れた私に、あなたはあなたの意志で、それでも触れてくれる。
肩紐が解ける。服が緩む。月明かりが、鎖骨から胸元を照らす。──さっきまで二人の間を照らしていた光が、今は私の肌の上にだけ、落ちている。右肩から腕にかけての古い傷痕と、左肩口の新しい傷跡とが、白い光の中に浮き上がる。
何度も見せた身体。何度も触れられた肌。なのに、この人の目が、いつも少しだけ苦しそうに歪む。
その歪みが、好き。苦しそうな目で、それでも視線を逸らさずに、全部を見てくれる。──私を見る事があなたにとって優しい事だけでは無いと、分かっている。それでも目を背けないあなたの苦しみをこそ愛おしく思って、私は濡れる。 ......本当に、業が深い。
「......三日月」
──ああ。その声。
何度聞いても、その声で名前を呼ばれると、胸の奥が震える。
彼の手が、迷わずに肩に触れる。
指先が、馴染んだ手付きで傷痕をなぞる。何度も触れてきた場所。何度も唇を寄せた場所。──この5日間、この手は看病の為にだけ私に触れていた。今は違う。今は、私を求めて触れている。
その違いが、分かる。指先の圧が、速度が、温度が、全然違う。もう冷静じゃない。もう正確じゃない──熱い。
指が鎖骨を辿る。首筋に昇る。──ぞくり。甘い電流が走る。身体の芯から震え上がるように。
掌が、頬を包む。大きくて、硬くて、温かい手。親指が、涙の跡を拭う。
──ああ。好き好き好き好き。この手が。この指が。この人の全部が。
掌に、口付けを一つ。
掌の真ん中。生命線の走る窪み。──私の唇が、この人の運命の線の上に、湿った印を一つ落とす。この線の上を私は歩きたい。この線の続く先まで、私を連れて行って欲しい。行った先が何処だろうと構わない。私たちの願いの果てはきっとそこにある。
「...んっ」
布団の上に、横たえられました。
彼の影が覆い被さる。月明かりが遮られて、暗くなる。──暗闇の中に、彼の目だけ。
あなたの黒とわたしの紅。数センチ。
──この距離。たった数センチ。此処が、私の世界の全て。この数センチより遠いものは、私には要らない。この触れ合いの中で、呼吸をして、生きて、死にたい。
「...綺麗だな、三日月の瞳は...」
「...っ」
息が止まる。
皆が恐れる目。皆が避ける目。皆が壊れる目。
誰よりもこの目を恐れていたのは、本当は私自身だった。
生まれてからずっと誰をも狂わせてきた目。
──この人は、毒の花を見て、綺麗だと言う人。それがどれだけ残酷な優しさか、きっと分かっていない。
「......ずるい」
涙が止まらない。
さっきまで快楽で滲んでいた涙とは、違う温度の涙が零れる。
「ずるい人です、司令官は......」
...そんな目で見て、そんな声で名前を呼んで。
その言葉一つで、私は何度でもあなたの許に膝を折り、依存し、溺れていく。
首に腕を回す。引き寄せる。唇が重なる。もう口付けじゃない。もっと深い。互いの全部を重ねる為の。
「...ぁ」
彼の手が、私の服を胸元から滑り落とす。──或いは何度も繰り返してきた、この手順。なのに、この5日間の非日常が、感覚をとても鋭くしている。沢山看病してくれて、あなたに沢山触れられて。溢れた想いと、触れてほしくて触れられなかった部分が、全部今、皮膚の上で爆ぜている。
生地が、肌を擦って、滑る。──その摩擦一つ一つが、甘い。この身体の上を滑るのは、看病のタオルと、この人の看病の手だけだった。今、その上に、愛撫の手が重ねられる。看病の下に埋もれていた、本来の触れ方が、甦る。
「ん...」
右腕の付け根に、そっと唇が落ちる。
傷痕の上。軽く、啄むように。──いつもそうする。最初にここに口付けをしてくれる。あなたがつけた初めての傷痕。もう14年前にもなるこの傷痕。まるでこの傷が自分の罪であるかのように、祈るように、贖罪するように、いつも最初に。
一昨日の夜。此処に汗を拭うタオルが触れた時。それだけで、ここの傷が、ちりっと痛んだ。あれが始まりだったのかな。
...今、同じ場所に唇が触れている。タオルとは全然違う。湿って、柔らかくて、少しだけ吸われる。──この傷痕にはもう痛みはない筈なのに、この人が触れると、別の種類の痛みが走る。甘くて、深くて、もっとと叫びたくなるような。
傷痕は、物証。この人が贖罪したい過去の、動かぬ証拠。その証拠の上に、あなたは何度も唇を落とす。過去を書き換える事は出来ない。でも、過去の上に今を重ねる事はできる。重ねて、重ねて、重ねて、傷痕という過去の上を、優しい口づけで、塗り潰していく。
...そうしてあなたは、私の傷痕、私の肌に、想いを上重ねしていく。だからあなたが付けた傷痕は消えることなく残り続ける。私はそれが何よりも心地よくて。
「はう...ッ...!」
鎖骨を、舌先がなぞる。──甘い痺れが上半身に走り、背中が仰け反る。
いつもと同じ場所。いつもと同じ手順。なのに、身体が過敏になっている。何でだろう、病み上がりだから? 全部が全部新しく思えて気持ちいい...
舌先の湿った熱。私の皮膚の上に、湿度が線を引いて通り過ぎていく。その線の跡を、夜気が冷やす。熱と冷が交互に走る。──それだけで、息が、浅くなる。
掌が、胸の中央に降りてくる。
心臓の真上。──ドクン、と。彼の手の下で、私の心臓が跳ねた。
......恥ずかしい。今、どれだけ速く打っているか、全部伝わっている。
ねえ、司令官。寝込んでいた時、あなたが髪を梳いてくれた時。その手がここに触れたら...とか、考えていました。
病気の時にです。はしたないですよね。
ドク、ドクと胸が鳴る。
心臓をあなたの手に捧げている。この音、このリズム、この速度、全部あなたのもの。──もしこの手に力を込めて、握り潰したいと思ったなら、どうぞ、私の心臓をあなたの掌の中で潰してください。それもいい。全て、あなたに、差し上げますから。
「......っ、しれいかん......」
手が、肋骨を辿って、脇腹に滑る。くすぐったい。でも避けない。避けたくない。もっと触って。もっと。
──お腹に、掌が置かれました。臍の少し上。温かい手。大きな手。お腹全体が、彼の掌に包まれている。
「......ぁ」
──ああ。此処。此処に触れられると、駄目。頭が溶ける。お腹の中の熱いものがとぐろを巻いて、下へ、下へ、落ちていく。
ずっと燻っていた灯。あれが、今、彼の掌に吸い寄せられるように膨らんでいく。ずっと、此処で燃えていた。この人の手を、待っていた。
臍の下。子宮のあたり。子を宿す場所、この場所が、この人の手の下で熱くなる。──生理現象のない私には、子を宿す事は出来ない。私の身体構造は人間と変わりはないけれど、そう言った機能はない。だから代わりに、あなたを宿す。あなたの熱を、あなたの手の記憶を、あなたの呼吸の振動を、この場所に宿す。それぐらい強い繋がりが欲しい。
「んっ...!」
指先が、お腹の上をゆっくりと円を描く。臍の周り。腰骨の際。──焦らされている。分かっている。でも、この焦らし方もあなたの癖。──私の皮膚は、この人の指紋を、何層にも、刻み込んでいる。皮膚が入れ替わっても、その記憶は消えない。あなたが触れた跡が、ずっと残っている。私の身体はあなたで出来ている。
「......ん、ぅ......もっと......下......」
言ってしまいました...。
恥ずかしい。何度重ねても、こういう事を口に出すのは恥ずかしい。でも我慢出来なかった。身体が求めている。頭じゃなく、身体が。
──言葉にすると、決定的になる。私が、何を欲しがっているか、音として、空気の中に刻印される。"下"と言った。言った以上、もう戻れない......戻る気もない。もっと。もっと下。もっと奥。
彼の手が、ショーツの内を抜け、太腿に触れたとき──
──っ。
ビクン、と、身体が勝手に跳ねる。
肌と肌。布越しじゃない、直接の手。膝の少し上、内側の柔らかいところ。指先が、ゆっくりと、撫で上げていく。
太腿の内側を指が這う。布から解放された皮膚は、夜気に触れただけでも震えるのに、其処に、この人の掌の熱が、直接、乗る。
──皮膚と皮膚の間に、汗の薄い膜が滲む。その膜を押し分けて、指が上へ、上へ。
「ぁん......っ、......」
腰が浮く。自分の意思じゃない。脊髄反射の様に。
──気持ちいい。何も考えられない。考えたくない。もっと。もっと奥に。もっと深くに。この人の手で。この人にだけ。
太腿の、もっと奥。合わせ目のその手前で、指が、逡巡する。──ああ、其処で、止まらないで。此処まで来て、止まらないで。お願い、もう、焦らさないで...
逡巡のその僅かな躊躇いも、愛しいけれど。この人が、私の身体の入り口で、なお確かめようとしている。その礼儀正しさが、余計に私を狂わせる。
「しれいかん......しれいかん......」
名前しか出てこない。他の言葉が全部消えた。
彼の手が、腰の辺りに掛かる。はだけた服の残りを、するりと。
──もう、何も纏っていない。月明かりの中に、全部晒されている。
何度も見せた身体。何度も触れられた身体──なのに。
「──綺麗だ...」
「...うう、恥ずかしい......」
彼の目が、私を見ている。髪、眼、水泡と紫斑の残った右肩の傷。薄い胸。細い腰。成長のしない、傷痕だらけのみすぼらしい身体──その全部を、真っ直ぐに。
恥ずかしい...恥ずかしいのに、見て欲しい。もっと見て、この身体の全部を。──何もかも、あなただけのものだから。
......この身体は、綺麗なんかじゃない。傷だらけで、痩せていて、子供みたいに平坦で。それでもこの人は、いつも同じ目で見てくれる。──その目で見られると、私も自身が綺麗なんじゃないかと錯覚してしまう、危険な優しさ。
この身体のみすぼらしさ、醜さ、傷の多さ、成熟しない未熟さ──その全部を、この人は、知っている。知っていて、逸らさない。知っていて、尚、触れる。──私は、見られている。最奥まで見られている。見られている事を喜んでいる。......痴態。そう呼んで構わない。痴態でいい。あなたの前でだけは、私は、どんな形にもなれる。
司令官が、自分のシャツのボタンに手を掛けました。
一つ。二つ。──ああ。この人が脱ぐのを、見ている時間が好き。不器用な指がボタンを外していく、その一つ一つが。
でも、
「......はやくぅ、じらさないで......」
小さな声で言いました。
彼が少し笑った。──その笑い方。困ったような、照れたような。何度見ても好き。
その息。笑った時の吐息。日中の穏やかな呼吸とも、さっきの荒い息とも違う、柔らかい吐息。この人の呼吸の中で、一番好きな音。
シャツが落ちて、彼の胸が見える。──私よりずっと広い。私の頭がすっぽり収まる胸。何度も泣いた胸。何度も心臓の音を聞いた胸。
ベルトを外す音。布が擦れる音。──全部、聞き慣れた音。なのに今夜は、一つ一つが鮮烈で。
金具の、低い音。革の、擦れる音。一つ一つが、遠雷のように、お腹の底に、響く。
──聞き慣れた音ほど、今夜は新しい。この5日間の非日常が、この人の所作の全てを、洗い直している。
「......っ、ぁ......」
彼の身体が、私の上に重なりました。
肌と肌。体温と体温。彼の心臓と、私の心臓が、布一枚隔てず、直接触れ合う。
──ああ。
この感覚。この温度。この重さ。この人の全部が、私に触れている。
また、涙が流れる。嬉しくて。嬉しくて嬉しくて。これが欲しかった。ずっと、これが欲しかった。看病の手じゃなく、点滴を直す指じゃなく、額の熱を測る掌じゃなく、私を抱き締める腕が。私を求める身体が。
こうしてこの人に重なられている時だけ、私の渇きが、ほんの少しだけ潤む。ほんの少しだけ、人間に戻れる気がする。
"人間に戻る"と、本気で思っている。この人の重さの下でだけ、私は、あの深い海の底からも、あなたと出会うまでの過去からも、解放される。私が私であるより先に、只の、女になる。......この、重さ。この、押し潰される感覚。その中で、私は、やっと、息ができる。
「しれいかん......だいすき......」
彼の頬に手を添えて、額を合わせる。鼻先が触れる。吐息が混じる。──二人の呼吸が、完全に重なる。
「......ああ。俺もだ」
その一言で、身体の奥で、何かが蕩けた。
──ああ。あなただけ。ずっと。ずっとずっと。──あなただけ。
この人の手が、私の腰を掴む。引き寄せられる。
あなたと私、向かい合って。そっとベッドに寝かせられ──身体の中心が、彼の熱に、触れた。
「っ──ぁ......」
息が止まる。
世界が止まる。
音が消えて、匂いが消えて、月明かりが消えて──この人の熱だけが、身体の真ん中にある。
「......っ、ん......ぅ......あ、ぁ......」
ニュプ...ヌプと、トロトロに濡れきった私の割れ目に入ってくる。
ゆっくりと。ゆっくりと。この人が、私の中に。
──痛い。少しだけ。最初はいつも少し痛い。でも、この痛みが好き。この人が私の中に居るという証だから。この人が私を選んでくれたという証だから。
痛みは──刻印。この夜、この瞬間、この位置に、あなたが居た、という事の、生理的な記録。この痛みを、私は、朝になっても、まだ身体の奥に残したい。残しておいて、明日、目覚めた時に、掌でお腹を撫でながら、確かめたい。......昨夜、あなたは、此処に居たのだ、と。
「......三日月......大丈夫か」
──ああ。この人はいつもこう聞いてくれる。毎回。何度繰り返しても。
こんなに優しくされたら、もっと狂ってしまう。
「......うん......だいじょぶ......もっと......奥まで......」
彼の額に、汗が浮かんでいる。眉間に、力が入っている。──この人も、我慢している。私を壊さないように。
......壊していいのに。壊して。全部壊して、新しく作り直して。あなたの形に。
──あなたは、壊さない。知っている。あなたは、壊さないでいてくれる。その我慢を私は愛する。その我慢が私を最も深く濡らす......壊してくれたら楽なのに、壊さない優しさの下で、私は、甘く、延々と焦らされている。
動き始めた。
ゆっくりと。深く。──波みたい。この島を洗う汐みたいに、寄せて、返して、また寄せて。
寄せるたびに、底の泥が、掻き混ぜられる。5日間、この身体の底に溜まり続けた澱が、今、この人の動きによって、底から、上へ、ゆっくりと掬い上げられていく。濁っていく。濁りの中に、光が差す。──愛とは、こういうものかもしれない。泥を清くすることではなく、泥ごと、受容する事。
「ぁ、......ん......っ、......しれい、かん......」
頭が、白い。何も考えられない。この人の体温だけが世界の全部で、この人の動きだけが時間の全部で。
──お腹の底の灯が、この人の熱に呼応して、燃え上がる。膨らんで、弾けて、全身に散っていく。指先まで。爪先まで。頭の天辺まで。
「あ、ぁ......っ、ん、ふ......っ──」
──その時。
快楽の波の底で、何かが、微かに、笑った。
冷たい。甘い快楽の裏側で、冷たい何かが蠢いている。
──身体の奥の、もっと深い場所。私の歓びに呼応するように、闇が、薄く、目を開ける。
......ああ。知っている。この感覚。
私が幸せになる度に、私がこの人を求める度に、あれは少しだけ強くなる。私の感情の振幅を糧にして、均衡の隙間を広げていく。
──愛する程に、あれが育つ。あなたを求める熱そのものが、闇の餌になる。私の幸福と、私の中の怪物は、同じ血管で栄養を受け取っている。切り離せない。切り離したら、私は、あなたを愛する力も、失う。
──怖い。
でも、止められない。止めたくない。この快楽を手放すことなんて。
......この瞬間、私は、悪魔と契約したような気分でいる。魂の対価に、あなたとのまぐあいを。もう何十回も何百回も求めて繰り返している行為。私の中の彼女もまた、あなたを求めて止まない。私は時々記憶がなくなることがある。私は取り立てられ続けている。業が、利子を生んでいる。
「しれいかん......しれいかん......もっと......もっと......」
しがみつく。爪が彼の背中に食い込む。
──この人を離したくない。この人を誰にも渡したくない。この世界ごとこの人を閉じ込めて、二人だけの檻の中で朽ちていきたい。
......ああ。やっぱり。私は病気だ。どうしようもなく。
爪の先に、皮膚の抵抗。もう少しで、破れる。──破れれば、血が滲む。滲んだ血を、私は、舐めたい。この人の血を、私の中に、取り込みたい。──けれど、傷つけたくない。ふたつの欲求が、爪の力加減の中で、拮抗する。......結局、力を抜く。抜いて、掌で、背中を撫でる。......今夜は、血は、いいのです。今夜は、愛の夜。傷は、また別の夜に。
「──っ、......ぁ、あ......ぁあ......っ」
波が、高くなる。
意識が溶ける。自分とこの人の境界が分からなくなる。
──闇が嗤う。私の歓びの裏側で。この幸せの代償を、いずれ取り立てにくるように。
嗤え。嗤って、見ていなさい。──私は、あなたの嗤う声さえ、この瞬間の愛に、添え物として、飲み込んでやる。闇ごと、愛し抜いてやる。この愛の中に、あなたの居場所もある。一緒に、此処に居なさい。一緒に、愛されなさい。そうすれば、あなたも、少しは、大人しくなるでしょう?
「──三日月....!」
「司令官──っ!」
窓の外で、雲が月に掛かる。
部屋が、静かに暗くなる。二人の輪郭が溶けて、境目が消えていく。
──ああ。この闇は、優しい。私の中の闇とは違う。この人と一緒の闇は、温かい。
──あとは
波の音と、虫の声と、二人の呼吸だけが、夜に溶けていく。
だだ、夜の闇へと────