「ね、ねえ、あれ...。 ──さん」
「うわ、本当だ。珍しー......」
ある、少女が居た。
「あれ? ──さんって、いつぶりだっけ...?」
「どうだろ...。3 ヶ月半くらい?」
彼女は、どこにでもある地方都市の、普遍的な日常を生きる一介の中学生であり、
「うっわ、ちょ、見てみろよ...!マジでモデル顔負けっつう」
「...やべえ、真剣に可愛いよな。......声掛けてこよーかな...」
「ばーか。無理だろあんなん。ザ・高嶺の花って感じじゃん」
(やっぱり見られてる......。ちょっと、慣れないなあ...)
──そして、一つの芸術品であった。
その容姿は、造形的に美しく花の様に可憐だった。
透き通った肌。整った顔。薔薇の様に赤い目。華奢な体躯。そして若さという絶対的な特徴が持つ瑞々しさ、幼さ、神秘性、処女性を宿す。
少女の評判は、彼女が通う中学校は愚か、居住している界隈でも、或いは芸能界を探しても匹敵する者が居ないのでは──という程に、飛び抜けたモノであった。
(高嶺の花だなんて...。何も私の事を知らないのに)
人には持って生まれた人間性というものがある。
人間性とは、本人の意図せず、本人が何をするでもなく、衆目を集めるモノ。
それは言い換えれば、魅力であり、魅了であり、魅惑のようなモノだ。
例えば、特段何もせずとも人から惹かれる者。スポーツや学問、芸術に天性の才がある者。極論を言えば、醜い容姿や性格のせいで虐げられる者も。
愛されることも、憎まれることも、好かれることも、嫌われることも。それらはすべて人間性に起因する印象であり、だからこそ、その者を印象付ける特徴として抱かれる人間性とは、突出している何かであると言える。
つまりはその美相こそが、少女の人間性を最もよく表現するモノだった。
持って生まれた美貌は誰の目をも虜にし、その華奢でか弱い姿は誰からも同情を受ける。産まれして花顔雪膚たる彼女は正しく魔性を湛え、それは自身の意思とは裏腹に、他者からの印象を決定付けてしまう。
故に、それは一種の呪いであった。
否が応でも人から注目を浴びる。そして、浴びた分だけ様々な感情を抱かれる。
誰もが魅了されてしまう。少女の姿に目を奪われ、惑わせられる。焦点の合わない所を捉えて、そこに何故か惹き付けられる。
全然話もしていないのに。
私の事なんて何も知らないのに。
第一印象として最初から向けられている好意や好奇の視線は、例え様のない不安感を抱かせた。
少女は、さして注目を浴びたい訳ではなかったのだ。
ただ普通の同級生と同じように学生生活を過ごして、友達と遊んだり勉強したりといった些細な日常を願っていただけだったのに。
過ぎた美しさは逆に人を寄せ付けない。神々しいモノは、世俗とは隔離されて然るべきだから。
そんな感情を他者は勝手に抱く。望んでいないのに。話してすらいないのに、第一印象だけで、評価が決定してしまう。弥が上に、噂が噂を呼んで、気付けば飾り物の様な扱いになってしまっていた。
それは偏に少女の容姿が過度に美しい所為である。
誰の所為ではない。他者にそう言った印象を強く与えてしまう少女にこそ、理由が有った。ひとえに少女の持ち得る人間性、魅力、魅了、そして魅惑から成るものであったのだ。
◆
──ところで、佳人薄命と言う言葉がある。
その意は四つの文字が示す通り、美人はしばしば短命であるという観察から生まれたもので、蘇軾という著名な詩人によって作られた言葉である。
もちろん、これは統計的な傾向に過ぎず、誰もが当て嵌まる訳では無い。
また、時代背景として当時の生活水準は高く、医療も相当に発展していた。......が、少女の場合は、その例に洩れることはできなかった。
畢竟するに、少女の居場所は、長く病院であった。
先天性の内臓機能不全と、その影響で片脚が壊死した状態で産まれた。
受精卵が人として成形されるにあたって生じるデータの破損は、対外的な治療ではどうすることも出来ない。それは謂わば運命付けられた障害だ。だからこそ、少女は佳人薄命であると謳われて、それこそが少女の特殊性を一層高める結果となった。
「見て。あの子。片脚だなんて、あんなに可愛らしい子が、可哀想に」
病院の廊下、車椅子で来院者とすれ違った時、そんな声を聞いた。
「あの歳で透析は辛かろうなあ......」
処置室で、カーテンの向こうから、不意に声が漏れてきた。
「折角の美人さんが、悲惨よね」
夜、病室に見回りで来た看護師の静かな憐憫が届いた。
「可愛いのに」
「若いのに」
「足が無い...」
「あんな幼い女の子が」
「しんどそう」
「大丈夫?」
「代わってあげたいけれど」
「学校にも碌に通えないなんて」
数多の同情と、好意的な声を聞いた。
皆、一見して少女を儚く思い、その可憐さに見惚れた。
目には見えないが重篤な病気と、目に見えて分かる片足の欠損。
美しいだけが、可愛らしいだけが理由ではない。その悲劇的な背景から少女は同情され、憐れまれ、寵愛を受けた。
───或いは腫れ物に触る様に、硝子細工を扱う様に、一輪だけ咲く美しい花を摘んでしまわぬ様に。
やがて、いつの日か、誰かが言った。
彼女は芸術品のようだ、と────
◆
慢性的な疾患は、入退院を繰り返す日々を少女に強いた。
本来機能しなければならない臓腑がその役割を果たさないという事は、その欠損に対する補完的な処置を外的に行わなければならないという事だ。対症療法は寛解を期待出来るものではなく、日常的に行わなければならない。
重い薬の服用や長時間の病院での拘束。先の見えない通院は、言わずもがな少女の心身に多大なるストレスを与えた。
(怖い......。私、これからどうなるのかな...?)
情報化社会に在って、自分の病気と言うのは直ぐに調べがついた。それは医師からの断片的で即物的な情報ではなく、もっと詳細で、将来的にどういった経過を辿るのかという展望や、それこそ同じ様な病気の人の事だ。
先天性の膵臓機能障害による1型糖尿病。それによる腎不全が少女の病気である。予後は然程良くはない。インスリンを分泌出来ないのであって、膵島移植以外には完治と言う概念の無い病気であったし、齢十四にして合併症を発症している事から、自信の病の深刻さはその胸に強く刺さった。
(どうして私が...何も悪い事なんてしていないのに)
死を理解出来る程度には少女も聡明であったが、到底納得できるものでもない。
自分の運命を恨まずには、憎まずにはいられなかった。
(こうなるくらいなら、最初から......)
産まれた時から片脚が無かったのは──或いは産まれる前に何度もするエコー検査で母親が自分の体内に宿す胎児の状態を知っていて、それでも産んだのは───誰の所為でもない。
少女の中にある、先天性の疾患に起因する症状が、必然的にそうであったというだけの事だ。
換言すれば、少女の脚は、"ただの"欠損ではなかった。
子供であっても、大人であっても、言い様のない絶望は等しく訪れるものだ。
(助けて...助けてよ、お母さん......)
少女の密かな祈りは、しかし現実の前には無意味だった。
病院のベッドで朦朧としながら見た天井の模様が、妙に脳裏に残った。
これは、これからも続くのだろう。
普通の少女として生きるには、余りに過酷な運命であった。
◆
時が経つにつれ、自身の身体が芳しくないことを突きつけられる。
まだ幼い時分にあって、それは簡単に受け入れられることではなかった。
(どうして私はこんな病気なの?どうしてこんなに辛い思いをして、痛い身体に鞭を打って、闘病しなくちゃいけないの?)
幼心に抱く疑問は尽きることなく、まるで無限の夜の闇が広がるかのようだった。
……でも、やらなきゃあっという間に死んでしまう。死ぬのは嫌だ。呼吸が止まることなんて想像もしたくない。……だけど、この"生きているだけ"の毎日に、何の意味があるの?
(なんで…なんで私ばっかりが……!)
悩み、憂い、嘆き、悲しみ、苦しんだ。
葛藤し、塞ぎ込む。答えなんて無い。
生きていることに意味を見いだせないが、じゃあ死ぬのかと言うと、それは怖くて、恐ろしい。しかし、私は健康な人とは違う。普通の人と同じ生活は送れない。普通じゃない。普通に生活できない私は、何?どうして私だけがこうなの?どうして?どうして?どうして!?
悩んでいる時ほど、心が弱っている夜ほど、病状の酷い時が多かった。
泣きじゃくったから高熱が出たのか、高熱にうなされているから泣いているのか、その区別も出来ないほど朦朧とした。そんな悪い体調の時でも関係無く透析は行わなければならないが、その注射針はいつだって太くて、痛さから意識を取り戻した。寝込んだ日が続いた後のリハビリは地獄だった。瘦せ細った片足は簡単に浮腫み、剥離骨折を招き、その所為でまた寝込む日々が続いた。
──だが。
「痛い!歩けない…もう嫌だよ…!」
「頑張れ!今止めたら立つことも出来なくなるぞ!」
苦しみに倒れそうになっても、必ず奮起させられる。
「熱い熱い…!喉が渇いたよお!」
「水は…っ! 透析が終わるまで、が、我慢しないと…」
「だって無理だよ!死んじゃう!!しんどいしんどい…なんでなんでなんで私ばっかり……!!」
「お母さんがずっと一緒にいるから…!頑張ろ…? ね…? 手を、握っておくから……」
壮絶な痛みに耐えられるように、いつも誰かが側についてくれる。
少女が弱った、その都度、多くの人が少女に励ましをくれ、応援してくれた。両親も親戚も看護師も医師も、見ず知らずの人でさえも。少女の苦しむ姿を見て、色んな温かい言葉をくれた。
それには、感謝してもしきれないほど、日々を生きる原動力となった。病気は悲壮感こそ与えたが、決して孤独ではなかった。絶望という暗闇の中、一人で溺れそうになっていた時には、いつも誰かが隣に居てくれた。それがあったからこそ、今を生きる支えとなっていたと言って過言ではなかった。
「ううぅ……足が痛い……お腹が痛いよ……」
───しかし。それでも。どうしても。どうしても。どうしても───
どれほどの愛を受けても、支えを得ても。……決して、病気が治る訳でも、脚が揃う訳でも、ない。
どうやったって欠落した脚は戻らないし、生まれついて機能障害のあった臓器に回復という概念は無く、これ以上悪化しないように留めておくだけだ。
決定的に、絶対的に、それだけは確定していた。
病気は絶対に治らないし、両足が揃う訳でもない。それが分かっているからこそ、余計に悲しくて仕方がなかった。時には同情が、憐憫が、辛かった。憎らしいとさえ思ってしまった。
「可哀想に」
(うるさい……)
「可哀想に」
(うるさい……!)
「可哀想に」
「……うるさいっ!!!」
可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。可哀想に。
呪詛の様に、洗脳の様に、その言葉が、響く。鳴る。染み込む。打ち付ける。
いつもいつも聞かされる言葉。可哀想にという言葉が、どうしても、嫌いだった。
「憐れまないで!同情しないで!一度見ただけで私を知った気になって、勝手に判断しないでよ……!!!」
少女の叫びが宙に舞う。
いつだって彼等は心の底から心配してくれていた。その気持ちが、嘘偽りや建前や上辺だけのモノではないと、少女も分かっていた。
だが、優しさは、慈しみは、愛は。
時として、ゆっくりと、甘い毒の様に、心を蝕ませてしまう。
「私が可哀想だったら、何がどうなるというの!? もう放っておいて!構わないでよ……!!」
施しが辛かった。哀れみを受ける事が虚しかった。だって、皆、私を見て同じ顔をする。悲しそうな顔。泣きそうな顔。切なそうな顔。───不幸そうな顔。
だったらどうして、私に構うの?
私では、あなた達を笑わせてあげることも出来ないのに。
「あなた達は私と違って健康で、私より幸せだから、上からの目線で私なんかに接してられる! どう思うかなんて知らないで! み、皆して私に元気な姿を見せ付けて!そんなの、ただの…!当て付けじゃない……!!」
不意に漏れ出た感情は、堰に罅を入れて、更に流れ落ちる。零さないようにしていたのに。気付かれないように蓋を閉めていたのに。口に出すことこそ何とか抑えていたのに。
...言ってしまった。八つ当たりをしてしまった。理不尽なことを、私の所為で。
その想いが如何に人を裏切るものであるかを、理解していたのに。
でも、言ってしまって、少し気の晴れた自分が居た。私はこんな人間なのだ。同情される程でも、可哀想だと思う様なものでも、ましてや愛される価値なんて一切ない、冷たい人間なのだから。だから、もう構ってくれる必要なんてない。
もう、みんなにそんな顔をさせずに済むのなら──
「……大丈夫だよ」
「──え……?」
「あなたが一番苦しんでいること、みんな知っている。そして、一番努力していることも」
それでも、光は届く。誰にでも平等に。暗がりの中、蹲る少女にも。温かな気持ちが、優しい感情が、彼女を包み込んで離さない。
「苦しいことがあったら、言ってもいいんだよ。我慢しなくていいんだ」
「……わ、私は! 先生……でも、こんなにも……!!」
「誰にだって、辛いことはある。時には酷いことだって思うものだ。言葉に出してしまうこともある。だけど、その背景には理由がある。それを理解してあげられないのは、私たちも悪いんだ」
一度でも抱いた思いは、決して消えることはない。消えてくれることもない。負の感情が浮かぶ度に抑え、想っては掻き消そうとして。
人の好意を少なからず邪に捉えてしまった事に対して、また自己嫌悪に陥ってしまう。
病気は、それ程までに、日常的に少女を苦しめていた。
そして、それゆえに。周囲は少女を責めない。断じない。理解しているから。どれほど少女が耐えているかを。どれだけの痛みに耐えているかを。その小さな身体で静かに耐える彼女の姿を、誰よりも近くで見守っているから。
生まれてからずっと。時には激しく、時には緩やかに。常に付き纏い、影の様に。
(ああ......)
目が眩み、瞳に涙が浮かぶ。
──同じくらいの年の子が元気に走り回る姿を見るだけで、その輝かしい人生を羨む。羨望に駆られることがあった。
走り回って、沢山笑って、いっぱい泣いて、時には喧嘩をして──、そんなごく普通の、当たり前のことが、私には出来ない。
きっと彼はこれから退院して、普通の子のように学校に行き、友達と遊び、成長するのだろう。
そんな当たり前のことすらが、どうしようもなく、遠く、眩しくて、妬ましい。
「出来ないなんて言わない。自分に負けないで。きっと君にも出来るようになる...」
「......ッ!」
無責任な励ましは、もう沢山だ。あなた達に何が分かると言うの。何も分かっていないのに、知りもしないのに。
私のこの身体で、この痛みで、何が出来るって言うの?
(それでも、いつも……私に手を差し伸べてくれる人がいる……)
考えなくてはならないことは、沢山ある。今日の透析は何時か。リハビリは出来るのか。食事制限は守れているか。体重が増えすぎていないか。体調が良いのか悪いのか。血液検査の数値は悪くなっていないか。
まだ、色んなことを一人で考えることが出来なかった時も、そのどれもを、周りの大人達が気に掛け、心を砕いてくれていた。
(こんな私のことを……)
(私なんかに……?)
決して、独りにはさせない。愛は常に傍に在った。確かに在った。それを知るとき、初めて、感情は涙と共に流れ出た。
(生きているだけで迷惑を掛けているのに、こんな……最低だ、私……)
自分なんて人の手が無ければ殆ど何もする事が出来ないのに。
そんな私に、彼らの気持ちを踏み躙るような権利がどこにあるの?
どうしてそんな考えが出来るの?どの口が、こんな事を......。
でも、それでも、もし私が他の人みたいに普通に生まれていたなら……。
そう考えると、やはり想ってしまうことがあった。どうして私だけがこんなにも普通と違うのかという、答えの無い疑問が。
「うう……うぁ…!うわあああん!!」
やるせない気持ちを抑えきれずに、不条理を恨んだ。
泣いて、喚いて、一通りの感情を吐き出した。
人目を憚ることもせず。
長い時間、そうしていた。
やがて、心が漸く落ち着いた頃。
──そして、不意に我に返った。
泣き腫れた目で、真っ赤になった瞳で、ふと自分の手を見た時、そこに残っていたのは、"欲"だった。
何がしたい。これをしてみたい。あれをやってみたい。
気付きは本当に些細なことだった。こんなことで時間を割いている暇なんて、あるのか?という単純な疑問だった。
そうだ。病気は病気だ。仕方の無いことだ。どうしようもないことだ。どうせ今のところ解決なんてしないのだから、それに悩んでいる場合ではないんじゃないの?
病気は、少女を少しばかり急がせたのだ。寿命も。そして、考え方も。
(……出来ることは、しないと)
だから。だからこそ。時間が無かった。焦りがあった。恐らく他の人より長くは生きられないから。だから、時間を有意義に使わなければならないという想いが強く有った。
完治が望めないことは分かった。出来るのは現状維持に努めることだけ。しかし、いつ病状が急変するとも限らない。例え今は大丈夫であったとしても、それでも他の健康な人よりは間違いなく早く死んでしまう。
──で、あれば、やれることをやれる内に済ませておかないと、悔やんでも悔やみきれない。
だから、今この瞬間に、やりたいことをやるのだ。短い時間の中で、生きることを楽しむのだ。それが私の道だ。そう思った。
少女は、その年齢にすれば非常に達観した考えをしていた。
普通は、花盛りの青春を謳歌する年頃なのに。人生で最も自由な時期なのに。何も考えないで良いような期間なのに。
「──こ、こんにちはっ」
カラカラと控え目な音を立て、教室の扉を開く。
漸くそれなりに歩き方を会得した義足の方から、中に入る。
一斉に注目を浴びる。好奇。驚き。表情は皆一様に呆けていて。
幾許かの無言。静寂。
「あ...、──さん!大丈夫なの!?」
「元気だった?! ...ってちょっとおかしいよね...」
「うわー!会いたかったよー!」
「あはは...最近は少し調子が良くなったから。ありがとう」
その後、同性からのソ音調の声が押し寄せる。
少し耳鳴りがするが、余り気分は悪くない。
「...すげー。やっぱめっちゃ可愛いわ」
「久々に見たけど、若干痩せたっぽい?」
「いや、元々痩せてんじゃん笑」
「つか髪結構バッサリしたよな」
「...失恋?」
「おいマジか...!」
「男子!──さんが可愛いからって何でもかんでも噂すんな!」
『...っちょ!してねーよ!!』
男子の青臭い遣り取りも、何となく気持ちが良い。
過度な注目も、ありもしない憶測も、変に持ち上げられるのも、今は余り気にはならない。
望んでいた事の一つだったから、当然だった。
──普通の人の様に、普通の生活を送りたい。
今更気づいた。手を伸ばせば直ぐ傍にあった。
心構え一つで容易に叶う些細なそれは、少女にとっては遠い道のりだったが、今、ようやく大きな一歩として、踏み出したのであった。
◆
症状が軽い時は、医師や両親...多くの人に無理を言って、同年代同様に学校にも通わせてもらった。
趣味の読書やデッサンに延長して美術部の活動にも精を出し、身体に障害を抱える中でも心は健やかに、出来得る限りの生活を送ってきた。
しかし、そんな生活は長くは続かなかった。
涼風至り、蜩鳴く、夕映えの空の下。
そんな去る夏の終わり、病状が急激に悪化した。
普段よりも寧ろ悪くない調子で学校からの帰途につく道中、突如、深刻な下腹部の痛みを訴える。
痛みには慣れていたつもりだったが、それを超えて余りある激痛に苛まれた。
それは真に肺腑を抉り取られたかの様な、想像を絶するもので。
不意に上体が平衡感覚を失い、車椅子から受け身も取れずに崩れ落ちた。
......専門医から、聞かされていた事がある。
健常者に比べて貴方の内臓の一部機能が殆ど働いていないのは先天性であり、謂わばそれが貴方にとっての平常である。だからこそ、普通の人と同じ様な生活は送れない。そうしてしまうと身体は適応しきれず、拒否反応を起こしてしまう、と。
健常者が健常に過ごせる環境は、少女にとって負担が大きい。
しかし、その環境で産まれた以上は、其処が少女にとって唯一生きる場でもあるのだ。
制限化で、人間が食べる物を食べざるを得ないが、身体は徐々に蝕まれていく。
抵抗力の弱い身体は伝染病や細菌感染の恐れがある為、滅多に外出も許されない。だが、その所為で運動不足の身体は余計に細り、日光に当たらない生活は、弱視や発汗機能の低下を招いた。
繊細な硝子細工は美しく、同時に脆い。
丁寧に扱わなければ、容易く劣化してしまう。
だが、少女は人間であり、永遠と同じ環境で保管する物ではない。
だから綿で緩く絞める様な圧力でも、受け続ければ、何の拍子も無く砕け散る。
──思い出した。
そして悟ってしまった。
今が、今こそが、その時なのであると。
身近に迫って実感する死の感覚は、朦朧とした意識にあって尚、酷く鮮明で、思考を一色に埋め尽くした。
その、ただ一言「死にたくない」と言う思いだけが、辛うじて余喘を保つ。
しかし、それを声に出す、誰に吐露する事すらも出来ない。
想いに反して脳は意識を手放し始め、視界が暗転しかかる。
...ああ、未練が残る。想いが消えてくれない。
これまで、私は何をした?
精一杯生きてきたけど、何を成した訳でもない。
片脚の身体は私から尊厳を奪った。
単純に歩けないし、人と違う所為で心無い言葉をぶつけられる事もあった。
何より私の空白の片脚が、不随意的に知らしめてくる。お前の身体は人とは違う、普通ではないのだと。
内臓の不全は私に棘の枷を嵌めた。
厳しい食事制限と重い薬の服用は、露命を幾許か繋いでいたのかもしれない。だけど同時に副作用として、心身を徹底して痛めつける。
群発する頭痛。吐き気。痩せこけた体躯に、血行の悪い、病的な白い肌。
不意に眩暈がすれば、それだけで数日を寝たきりになって過ごす。
少しずつ、少しずつ、枯れていく様に、乾いていく様に、命が風化するのを感じて。
...何も、決して大望を抱いていた訳ではなかった。
人並みに、皆と同じ様に生きてみたかっただけ。
友達を作り、恋をし、家族を持って、幸せに生涯を終える。
時には仲違いしても、時には悲しい事があっても、乗り越えていける。
この身体の苦しみより辛い事なんて、何も無いのだから。
そう。身体は悪くても、脚に不自由があっても、人生に満足出来ればそれで良かった。
だけどそれも叶わず、此処で私は息絶える。
欠陥品の身体は、人生という荒波に耐えきれず、航海半ばで座礁する。
想いは、意志は、まだ進みたいと願うのに。
道がもう無い。進む先には崖がある。
私だけが、其処で置いてきぼりだ。
私だけ、最初っから、何も......。
閉塞する世界に夜の帳が降りる。
暮れ泥む想い、希望は絶望へと塗り替わる。
死ぬ、死ぬ、此処で、呆気なく、突然、終わる。
苦しい。辛い。
惨めだ。何も救われない。
こんな人生に意味はあったの?
こんな私に価値はあったの?
こんな想いで、不幸で、死んで......
───それで良いの?
焦り。其は行動の源泉。
否定は、肯定する為の欲を生む。
想いは渇望と成って、少女の最期を留まらせる。
分かっていた。抗えないと。
どうせ死ぬ。それはきっと覆らない。
でも、でも、でも。
こんな惨めな想いで死ねるか?
誰にも知られず、私の感情は伝わらない。
生きた証を、気持ちを、何も残せず死ぬなんて。
......そんな、そんな!
そんなのは嫌!
まだ死ねない!
まだ死にたくない!
このままで、この想いを抱えて!
何もせずに、何も起こさずに!
せめて、せめて!
私は...!
まだ......私は───!!
「───生きたいッ!!!!」
───今わの際の須臾、一生涯の最後の最後。
特別な間に、何かがそう叫び、声が少女を貫いた。
言ってない。
叫んでない。
もう見えない。
もう聞こえない筈なのに。
小さな、人形の様な、小人の様な。
ただ其処に佇んで、少女を見詰めていた。
酷く悲痛な表情で、彼女の気持ちを代わりに演じているのかと思う程に。
それを、少女もまた、認識して。
───ああ...
その姿を見て、何か、何処か、救われた気がした。
私の想いは通じていたのだと。
幻視かもしれない。妄想の類を見ているだけかもしれない。
でも、そんな事でも、今は良かったと思えるから。
最期に在って、最後に理性を取り戻し、それも直ぐに泡沫となって消えた。
未練こそあったが、其は次への希望として、緩やかに、穏やかに、絶望を捨て、少女は死に逝く。
来世はきっと、願いが叶いますように───。
これは、ある少女の記憶である。
今は遠く、しかし鮮明に残る、過去の物語。