世界が魍魎渦巻く深海の坩堝に堕ち、史的には44年の歳月が過ぎて久しい。
海から生まれた妖精と呼称される虚構は世界中でその数を増やし、世界に様々な影響を及ぼしている。
それは霧の様であり、靄の様であり、名状し難い何かだった。
世界中の海から、同時多発的に。音も無く、前触れも無く、ただ湧き出た。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、それだけの事が、世界を壊すには十分だった。
最初の報告は、南太平洋の漁船からだったと言う。
夜半の操業中、突如として海面が発光し、乳白色の靄が水平線の彼方から押し寄せた。漁師達はそれを季節外れの海霧と思った。だがその霧は、船底を舐め、甲板を這い、無線機に触れた途端──通信が途絶えた。
翌朝、漁船は無人で漂着した。乗組員の痕跡は何一つ残っていなかった。
同じ日、同じ時刻に。大西洋で。インド洋で。北海で。地中海で。
同時多発的に、何の前触れもなく、世界中の海からそれは湧いた。
妖精とは、感情の権化と定義されている。
何かを成そうと言う欲に忠実で、その為に行動し、世界を変革せしめんとする存在。
悪性の妖精、所謂深海棲艦と定義される其れにより多くの都市が沈み、多くの人が死に、多くの国が傾いた。
最初の一年で、世界の海運の九割が途絶えた。
港は封鎖され、造船所は焼け、灯台は次々と消えた。太平洋を渡る船は二度と還らず、海峡を護る砲台は沈黙した。島嶼国家は一夜にして孤島と化し、大陸沿岸の都市は潮と共に押し寄せる異形の群れに晒された。
海上封鎖と言う程、整然としたものではなかったが、致命的なのが海の中から神出鬼没に出現することとサイズが小型であることから捕捉を困難たらしめ、そして兎に角"硬い"ということ。対人兵器では到底通用ぜす、それ以上の兵装では狙いを定める前に攻撃される。
ゆえに、海の安全が毀損された。それだけの事が、文明を窒息させるには十分だった。
海運は途絶え、孤立した陸地の上で、人々は個々の生存を賭けた原始的な争いを繰り返した。
人類の滅亡が免れ得ないという厭世観が漂う中、しかし、殊の外に早く希望が発現する。
妖精の中から、人と手を取る者が現れたのだ。
共存共栄を望む彼等は、旧史の軍艦の魂魄を人体に固定し、戦う為の身体を得た。
人は彼女等を、艦娘と呼んだ。彼女達は、深海棲艦に対抗する力を持っていた。
爾来、世界は戦場である。
基幹産業やインフラは大部分を破壊され、殊更に現代人の居住環境は衰退する。
各国との交流は未だ万全に戻らないまま、それでも世界は今日も廻っている。
戦時であっても、人は生きる。
栄枯必衰の円環で万物は絶えず流転し、軈て否応なしに適応するものだ。
故に本質は変わらない。
世界は今も平穏で、理だけが変革したに過ぎない。
此処はそんな世界。
そんな普通の世界。
今も湧き出る感情達は、其の願いを叶える為に、又、箱庭を変えようとしていた。
目を覚ませと、呼ぶ声が聞こえ
不意に茹だるような熱気が身体を包んだ。
まだ微睡みにあった意識で、気色の悪い感覚を覚える。
それが寝汗による身体のベタつきだと理解した頃には、目は完全に覚めていて。
湿気た空気が喉奥に引っ掛かるような気怠さと共に、朝を迎える。
その湿度、季節に反し空は抜けるように蒼く、大海との区別すら曖昧になりそうな此処は。
曰く、南西孤島基地。正式には九州警備区南西海域圏第二司令部第四方面軍北大東要塞基地。
沖縄県は大東諸島。その中の北大東島に鎮座する、曰く付きの艦娘と提督が所属する、ショボくれた軍事施設である。
『三日月と司令官①』
───南西孤島基地の朝は遅い。
兵学校のようにけたましく起床ラッパがなる訳でもなければ、狸寝入りして上官に蹴り飛ばされることもない。
海鳥の鳴き声と海原の潮騒が自然と耳に入ってきたら、それはまだ心地良い微睡みの最中。
窓硝子を透かして差し込む朝の光は、珊瑚由来の白い壁に反射して、部屋全体を淡く照らす。天井の染みを数えるのが日課になりかけた頃、それは訪れる。
本格的な起床の合図は、そのタイミングを見計らったかのように。
コンコンコン。
「おはようございます!司令官っ」
清涼な声が、静かな寝室を少しだけ震わせる。
可憐な少女だった。
腰ほどまである艶やかな黒髪を靡かせて、軽い足取りで男の元へ行き、告げる。
「マルナナマルマル!朝ですよ、司令官」
それは清水の如く、頭にも透き通ってくる音調で、男は今日も至上の朝を迎えれたことを感じながら、瞼を、───開かない。
「......司令官?」
「......ンガ」
「うーん......」
あどけなく、その小さな顎にその小さな手を宛がい首を傾げたのを一瞥。その時を待つ。軈てコホンと咳払いをし、少女は目尻を落とした淡い眼差しで、近付いてきた。
「失礼致します......」
チュッ。
「えへへ......」
「......おはよう、三日月」
「はいっ、おはようございます。司令官」
微かに香る柔軟剤、唇に残る柔らかな感触、温い余韻。
詰まる所、お目覚めのチュウ、おはようのキスである。
「いかがでしたか?良いお目覚めになりましたでしょうか?」
「至高僥倖、幸福の絶頂......と、言いたい所だが」
男、司令官はごホンと咳ばらいをしながら、
「三日月のしたい事はよく分からん」
「良いんです。私がしたいから、するんです」
「はっ。...まあ、何と言うか、いつもと違って新鮮で緊張した、かな」
「えへへ、私もドキドキしました」
そう言って、少女、三日月は見た目相応の笑顔を見せる。
その愛らしい仕草は、見惚れてしまう程に純朴さで満ちていた。
「私のお願いを聞いて下さって、ありがとうございます。司令官」
そう。
誓って言うが、これは俺が強要した訳ではない。
遡る事半日、島の近海に軽巡率いる4艘の深海棲艦部隊が低速航行中だと、三日月が捉えた。彼女がそれを感知する過程は所謂レーダー探知などとは一線を隔する。紅い霧──三日月が展開する知覚領域とでも言うべきものが、島の周囲数十海里に常時薄く張り巡らされている。その範囲に入ったものは、海流の揺らぎから生物の体温に至るまで、一切を三日月は把握する。彼女を特異たらしめる要素の一つ。ただ、彼女が「居ます」と言えば、間違いなくそこには何かが居る。
その旨、那覇の指令本部に報告すると、絶賛台湾沖でドンパチやってる最中の流れ者だろうとの事。専らウチは迎撃基地なので出撃は基本しないのだが、此度は出撃命令が出た次第であり、基地唯一の艦娘である三日月を出撃させ、結果として見事全敵撃破と相成った。
単艦、且つ駆逐艦一隻でなどとは無謀極まりなくも思えるが、こう見えて三日月は歴戦の艦娘で、43年と言う長き時間、深海棲艦と干戈を交え、生き残っていると言う古参中の古参だ。
加えて艦娘に宛てる等級指数、所謂練度に関しては99カンスト。天井である。練度については戦歴による大本営からの評価であり、1~99まである内の上限という事は、即ち歴戦の猛者である事に他ならない。
43年。
此処に流れ着いてから20年が経つ俺でさえ、その途方もない歳月の重さには想像が及ばない。彼女がその時間の中で何を見て、何を失い、何を諦めてきたのか──俺は詳しく知らないし、三日月もまた、多くは語らない。
とは言え、ここの所、大東諸島海域は深海棲艦の発生が少なく、稀にある戦闘も、こう言った迷い者の討伐くらいのものだ。地下の貯蔵タンクに眠る重油もガソリンも、暫く動いた形跡がない。台湾沖が激化すれば此処の備蓄も俄に意味を持つが、今の所は足元に爆弾を抱えて暮らしている様なものだ。
──そんな安全な此処は、石油備蓄基地と防衛拠点の裏側に、もう一つ別の顔を持っている。その為に俺も居たりするのだが、まぁそれはさて置き。
個人的な運用として、輝かしい戦果を挙げた者には、ご褒美進呈制度を取り入れている。今回は久々の戦闘だったので、何か俺に出来る範囲でなら何でもやるぞと大言したら、返ってきた応えが「おはようのキスを、しても良いでしょうか......?」である。
どこでそんな俗な事を覚えたのやらと心中で突っ込みつつ、断る理由もないので承諾。現在に至ると言う訳であるからして、けして俺がさせている訳ではない訳で。
「いやまぁ、役特と言うか......」
「うふふ」
「しかし俺なんかのどこが良いんだか...。ま、三日月と俺しか居ないから仕方ないか。ははは...」
そう。この基地には、俺と三日月の二人しか所属していない。
念の為、今は、と補足しようか。
「むぅ。誰でも、良い訳では、ないですよ?」
「ああ、分かってる。ありがとうな」
「ふぁ......」
そう言って頭を撫でてやると、彼女は猫の様に身体をくねらせて、恍惚の表情を浮かべる。
三日月の受容に、俺も安心感を覚え、また撫でる。
───と。
此処までは、良い。
此処までは、まだ、普通の朝の風景の範疇に在る。
徐に彼女は俺の手を取り、頬に当て、呟いた。
「しれーかん...」
突に微醺を帯びた様な表情に変わり、きめ細かく艶やかな肌を薄い朱に紅潮させて、媚態を隠さず流し目を送ってくる。
赤く熟れた果実の様に頬を染めて、吐息を荒げて高揚させておきながら、俺の手を握る彼女の掌は、水の様に冷涼だった。
この落差を、何と言えば良いのだろう。
さっきまで子犬の様に甘えていた少女が、瞬きの間に、全く別の顔を見せる。纏う空気の質が変わるのだ。部屋の温度が二、三度下がった様な、そんな錯覚すら覚える。
ああ、こうなる事は、分かっていた事だ。三日月は直ぐに発情する。正確には違う例えを用いるべきだが、現状、この言い方でも間違いではないだろう。但し、彼女のそれは性欲と言うよりも──もっと根源的な、存在に関わる渇きの様なものだ。
「司令官、良いですか...?」
彼女は素直に要求する。
俺は目配せして、その要求を受けた。
「おいで」
「ああ、しれいかんぅ」
淀んだ瞳で目尻を落とし、やにわに迫る。
華奢な細腕を俺の首筋、背筋に添え、温い呼気が耳に届く。一拍程度に見詰めあい、今度は意識の下に、口付けをした。
「...っ、三日月」
「あ、んむ...んちゅ......」
互いの鼻先が交差し、互いの唇が触れる。互いの舌がその中に入り込み、唾液の交換が為される。
粘膜の触れ合い。淫靡な水音。チュプ、チュプと、鳴る。鳴る。鳴って、鳴り続ける。
俺を掴む手の力が少し増して、俺は三日月の後頭部に触れる。もっと強く、もっと寄せて、彼女を悦ばせる為に。
「ん......んっ、ふぁ、あふ......」
女特有の甘い香りが鼻腔を擽る。ねっとりとした、蜜の様な匂いだ。良くも悪くも、鼻に残る雌の匂い。
逆に彼女はどう思っているのか、ふと気になったが、些事として捨てた。エチケットは弁えているつもりだが、寝起きの男の口臭など想像に難くない。それでも自ずから求める三日月だから、きっと問題は無いと信じる事にする。いつもの事だしな、という事も加えて。
「ん......」
この行為に対して酷く俯瞰的に見ている自分が居た。慣れもあるかも知れない。勿論、こんな美少女とまぐわう事が嫌な訳はないが。しかし、ただ単純にこれは作業の様なものだ。俺は三日月の欲に応える義務がある。そう言う契約。三日月への報酬。仕事として割り切っている節があるから、嫌に冷静だった。
──いや。正直に言おう。
仕事だと思いたいのだ、俺は。
三日月は俺に何を求めているのか、俺は三日月に何をしているのか。線引きをしなければ、俺は、俺を保てなくなる。
口付けを交わす中、目を閉じて必死に俺を求める三日月の姿を観察していると、ああ、この娘は本当に純粋だなと思った。純粋で純潔で心に穢れの無い一輪の花に思えた。美麗な花。恭しくも強く、か細くも芯の通った花。
花はどんな場所で咲いても、花である事に変わりは無い。それがこんな絶海の孤島の誰も見向きもしない様な、落ちぶれた所でも。
だから、こんな高潔な魂に触れていると、俺は自分自身が後ろめたくなる。こうも真っ直ぐに俺を見ている三日月に対して、本当の意味で俺は彼女を見ちゃいない。こんな腐った人間。腑抜けた男。俺には何も無いのに。そしてそれを三日月は理解している。それでも俺を求めて離そうとしないから、余計に俺達は深みへと沈んでいく。
「っちゅ...、んぅ。しれ...かん。すき。すきぃ...」
あくまでも。俺にとって、この行為は、その関係を再確認する意味しか持たない。
三日月は三日月で俺を求めるし、俺は俺で三日月を利用する。この行為は、そんな一端に過ぎないのだから。
「三日月」
「あ、司令官......」
数えて一分程が過ぎ、俺は彼女の小さな肩を押して、長い口付けを解く。
濡れた唇からは粘性の糸が垂れ、彼女はそれを愛おしげに舐め取った。
「物足りないか?」
「許されるならば、いつまでも......」
上目遣いに、紅い眸子が俺を覗く。
ジッと見詰めて離さない。
見詰め、見詰て、尚も見詰める。
俺の中を覗こうとする。
俺の本質を見据えようと。
俺の心胆を捉えようと。
だから俺は、目線を反らした。
「あ......」
彼女のその一瞬の──ほんの一瞬だけ、何かが剥落したような表情を、俺は見なかった振りをした。
「さ、起きよう。三日月は、俺を起こしにきてくれたんだろう?」
「.....は、はいっ。そうですね」
窓から見える景色は晴れ。
湿度は高いが、日中は良い天気になりそうだ。
───朝食は、基地のA棟に併設された食堂で取る。
食堂と言っても、元は20名程度が着席出来る規模の広間を二人で使っているだけなので、やたらと空間が余る。使わないテーブルや椅子は壁際に寄せてあり、窓辺の一卓だけが俺達の定位置だった。
壁には退色した安全標語のポスターが画鋲で留められたまま、もう何年もそのままになっている。「安全第一」の文字は陽焼けして薄橙に変色し、書かれた連絡先の番号は、掠れていてもう読むことができない。
三日月の作る朝食は、いつも丁寧だ。
今朝は白米、味噌汁、焼き魚、漬物、卵焼き。輸送の都合上、生鮮品は限られるが、それでも彼女は手持ちの食材で品良く整える。味噌汁の出汁は鰹と昆布から取るし、卵焼きには砂糖ではなく味醂を使う。拘りがあるのだろう。
「司令官、鯖がよく焼けましたよ。皮目がパリッとしていて、自信作です」
「毎回自信作だよな」
「毎回全力ですから」
何処で覚えたのかと以前に聞いたら、「本で読みました」と、あの屈託のない笑顔で返された。彼女についてはその特異な経歴から飲食なしでも活動に支障は無いらしい。とは言え、三日月は好んで食事をする。美味しいから、と彼女は言う。それ以上の理由は、聞かなかった。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
向かい合って食べる。
三日月は食事中、よく俺の食べる様子を観察している。箸の運び方、咀嚼の回数、表情の変化。それが嫌だとは思わない。ただ、たまに、品定めされている様な気分にはなる。
「旨いよ」
「ふふ、よかったです」
窓の外では、早くも気温が上がり始めている。
陽炎が基地の建物の輪郭を揺らし、遠くの海面がぎらぎらと光る。
食堂の隅に置いた小型ラジオからは、那覇局の天気予報が流れている。南大東島、晴れ。最高気温33度。波の高さ1.5メートル。台風12号の進路に注意。続いて、台湾海峡方面の海上警報。民間船舶の航行制限、引き続き継続中。
他愛もない情報と、他愛もなくはない情報が、この朝を埋めていく。
三日月が席を立ち、食器を下げる。
その後ろ姿を見ながら、ふと、思う。
彼女は俺の食べる姿を見る。俺は彼女の作った飯を食う。
それだけの事に、俺はいつも言い知れぬ重さを感じてしまう。
食卓を共にするという、ただそれだけの行為が、俺と三日月の間では、全く別の意味も帯びるからだ。
──いや、考え過ぎだ。
これは些末な問題なのだ。
少なくとも、彼女にとっては。
「司令官?」
「......いや。ごちそうさま」
「はいっ、お粗末様でした」
笑顔。
彼女はいつだって笑顔だ。
その笑顔が眩しい程に、俺は自分の影の濃さを知る。
食器を洗う三日月の後ろ姿を見ながら、煙草に火を点けた。
湿った空気の中、煙は思うように昇らず、低い所で漂って、開け放した窓から外に流れていく。
水音と、煙草の匂いと、遠い波の音。
これが俺達の朝だ。
明日もきっと、同じ朝が来る。
──その筈だ。
少なくとも、今はまだ。