※この作品はR-18です。

夕暮れ時の世界にて   作:H117147

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 人は彼女を霧杳の海の支配者だと謂う。
 その薄紅色の煙と霞に抱かれれば、皆是余さず見透かされ、其の物を捉えるのだと。

 だが、違う。
 彼女は万物を受容するだけ。
 出来事に、物事に、世の機微から天変の習いに対して。何をも理解し、納得し、そして容認する。余りにも、純然に。

 だから、逆に囚われるのだ。
 その在り様は彼女の意志を見出だせない程に透明で、それ程に全てを吸収するから、人々は目を離せなくなる。

 魅了の本質とは、正に人を惹き付ける力の意。
 月は、自ら魅入られる為に何をする事もない。ただ其処に在る。それだけで他が魅入るに足る理由を得る。
 古今東西、那由多の歌に、詩に、物語になり、批評を浴び、学問として挙がり、論われ、称賛され、信仰され、蔑まれ、その全てを許してきた。

 畢竟するに、三日月とは、そんな存在だ。

 寛容な彼女は、無窮の心で森羅万象を受け入れる。
 人々は、否、万象は、その無何有の懐に、自ずから囚われる。
 一天四海を許容する三日月とは、斯くも魅力的で、心地好く、そして都合が良いから。

 人も、それ以外も、彼女を畏れる。恐れて尚、関心を注ぐ。魅入れば最早、逃れられない。
 紅い霧が立ち込める、あの海の少女からは。


 だから俺は忘れない。
 それでも彼女は月ではない。
 感情のある、一個の生命なのだと。




 『三日月と司令官②』




少女は霧の中

 

 

 

 ザァザァと海が音を立て、波が三日月の細い足に被る。

 

 いつの間にか暗雲に覆われた海は、墨汁の様に黒く染まっていた。

 潮の匂いが変質している。磯の清冽さは消え、代わりに鉄錆びた様な、或いは獣の体温を含んだ様な、生臭く重い気配が海面から立ち上っている。

 水平線は、もはや判然としない。空と海の境目が同じ色に滲み、世界の輪郭そのものが曖昧になっていた。

 

 時折吹く強東風が、その穢れた波飛沫を乗せ、容赦なく三日月を打つが、取分け意に介する事なく、慣れた風に先を往く。

 セーラー服の裾が濡れ、黒髪が塩気を含んで頬に張り付いても、彼女はその歩みを緩めない。

 永きに渡り此の海を往き来してきた足取りは、荒天の甲板を歩く水夫の様に、淀みがなかった。

 

 ──否。水夫とは違う。

 水夫は海を畏れ、敬い、その上を借りて渡るものだ。だが三日月の足取りは、まるで海が彼女の為に在るかの様だった。波が彼女を避ける。潮が彼女に道を譲る。踏み出す一歩毎に、足裏の下の海面が僅かに凹み、萎縮する。

 まるで海が怯えているような──。

 

 

 軈て、海が溶剤の如く粘性を持ち出した頃、三日月はその航行を止めた。

 

 足裏に伝わる海水の感触が変わっていた。水ではなく、何か──温い膠の様なものを踏んでいる感覚。海面が微かに脈動している。ドクン、ドクンと、生きている。此の海は、今、生きようとしている。

 粘性を帯びた黒い水面に、三日月の姿が歪んで映る。映った像は、三日月よりも少しだけ──ほんの少しだけ、笑っていた。

 

 三日月は首を傾げる。

 ゆっくりと、人形の関節を回す様に。角度が深い。首の骨が鳴りそうな程に深い。

 妖艶で不可思議なその仕草は、何処か──人間の可動域の外にある動きだった。

 

 

 「......」

 

 

 ───無音。

 

 

 張り詰めたような空気が場を占める。

 大海の央。一帯は海しかない。風も凪ぎ、コールタールを溶かした様な水は細波も立たずして、其処は兎角、静寂で。

 海鳥が消えていた。魚の気配もない。あらゆる生命が、この一帯から逃げ出している。残っているのは、三日月と、海と、産まれようとしている何かだけ。

 

 滅紫の様な、虫襖の様な、黒緑の様な、赤墨の様な───概して絵具を乱雑に混ぜ合わせた様な、混沌色の空と海が、三日月の前に拡がる。

 積乱雲の下に在る様な、深い樹海の中に在る様な。陽光が照っている筈の時刻でありながら其の場は斯くも暗く、澱み、沈んで。

 

 尚も、三日月は微笑み───

 

 

 「司令官っ、取れますか?」

 

 

 徐に、虚空へ向かって、否、付属のインカムに声を当てる。

 三拍程間を置いて、ザザと通信音が鳴った。

 

 

 『おう、聞こえてる。......随分と荒れてるな、そっちは』

 

 無線機から届いた声に、三日月はホッとしたような、柔和な笑みを浮かべた。

 先刻までの──あの得体の知れない笑みが、一瞬で消える。まるで被り物を替えたかの様に。

 不気味や不吉を体現した様な、この悍しい海の上で。

 この声だけが、此処と人間の世界を繋ぐ細い糸だった。

 

 

 「目的の海域に到着しました。正に出現する直前と言ったところです。司令官のご指示はいつも的確ですね。惚れ惚れ致しますっ」

 『ああ、賛辞は有難く頂戴しよう。だが此れが出来んでは素質に関わるからな。俺は君を在るべき場所へ導くのが仕事。そして此所から先は───三日月の仕事だ』

 「はい、司令官。心得ております」

 

 『......三日月。一つ、聞いて良いか』

 

 「何でしょう?」

 

 『この任務、お前は好きか?』

 

 少しだけ間があった。

 波が一つ、三日月の脛を叩いた。

 

 「好きですよ。とても」

 

 それは嘘の無い声だった。

 嘘が無いからこそ、司令官は黙った。

 

 耳に右手を宛がい、左手は胸をなぞる。

 その指先が鎖骨を辿り、喉元に触れ、顎の線をなぞって、唇に至る。自身の体を確かめる様な、或いは愛撫する様な、緩慢な仕草。

 交睫して俯きながら、高温多湿の風を受ける。

 長い黒髪の一本一本が其れに靡き、揺れ、万籟を奏で、そして収まる。

 

 『...近いな』

 「はい」

 『今日はかなり濃いぞ。やれるか?』

 「あは」

 

 素で、何を言うのだとでも言うように。

 その問いかけに対し、三日月は、ただ、一笑した。

 白磁の肌に浮かんだ微笑は、しかし嗤いにも近い。牙の無い口が、それでも何かを喰らう為に開いた様な、そんな笑みで。

 

 『愚問だったな。...頼んだぞ』

 「はい、抜かりなく」

 

 ...プツ。

 

 耳骨に響く声は、そんな機械的なノイズを最後に消えた。

 

 

 「......ふぅ」

 

 無線を終え、嘆息を一つ。

 ダランと手を降ろし、目を閉じ空を仰ぐ。

 耳を澄ませば、無音だけが届き、

 そして、眼前を見遣る。

 

 

 ──海が、煮沸している。

 

 周囲一帯、足下から、見渡す範囲内まで。泥を煮詰めた様に、ブクブクと沸き立っている。

 熱い蒸気が立ち上ぼり、霧となって、靄となって。

 

 眼前に、背後に、左右に。少女を逃がすまいと周りを囲い、その外縁を囲い、その外縁を囲い、幾重にも幾重にも、波紋状に湯立つ海。

 三日月の白い肌に、蒸気が纏わりつく。髪が湿気を吸って重くなる。睫毛に水滴が溜まる。けれど彼女は瞬きもしない。

 瞬きもしないまま、ゆっくりと──躰を抱くように、両腕を自身に回した。まるで、これから呑み込むものを予め抱擁するかの様に。

 

 其れは、事の前触れだ。前兆だ。予兆である。

 

 其れは何時だって海で産まれる。

 発端は何時だって海だった。

 生命の起源がそうである様に、此れもまた、海の落とし物に他ならない。

 

 

 「......ああ。ふふ。アハッ...」

 

 妖精。

 願いの権化。想いだけで出来た、曖昧な存在。

 深海棲艦に成るか、艦娘に成るか──その分岐の前の、最も原初の姿。

 剥き出しの感情が、今、海から産声を上げようとしている。

 

 そう、彼等は同胞なのだ。

 私と同じ。この三日月と同じ。願いの為に、叶えたい想いの為に、世界に産まれ落ち、その成就を目指す。

 

 然らば、諸手を挙げて、歓迎しよう。同族であればこそ、その繁栄を喜ぶのは当然の事。

 

 

 「はぁ......。あはっ。ふふふふっ」

 

 

 三日月が目を開く。

 見開く、と言った方が正確だろう。瞼の裏から現れた紅い瞳は、先刻までのそれとは明らかに質が違った。虹彩の紅が深く、濃く、瞳孔の黒が際立って、白目との対比が人間の限界を超えている。

 宝石などではない。宝石は光を反射するが、この瞳は光を吸い込む。見る者の意識を、感情を、存在そのものを──飲み込む。

 

 口角が上がる。

 ゆっくりと。ゆっくりと。蕾が綻ぶ様に。あるいは傷口が裂ける様に。

 人間がする笑顔の形をしているが、そこに含まれる感情の濃度が、尋常ではない。

 

 

 「うぅ.....、っく、ふふふ!」

 

 甘露の如く甘い笑みが零れる。

 妖艶に輝く紅の瞳は、目の前の異様な光景を焼き付け、捉える。一切を余さず、見逃さず。

 彼女の肌が──白磁の肌が、蒸気の中で仄かに発光している様に見えた。汗ではない。熱でもない。内側から滲む、淡い燐光。深海の生物が纏う、あの冷たい光に似ていた。

 

 何が楽しいか。何が嬉しいか。この笑いは何?

 ああ、喜ばしい。ようこそ。望む者達。

 

 

 「ああ! ようこそ、ようこそ! この素敵な世界へようこそ! 望む者が望む儘に叶えられる世界へようこそ。三日月は歓迎致しますよ、はいっ」

 

 両手を拡げ、満面の笑みを浮かべる。

 その姿勢は磔刑に処される聖者の様でもあり、獲物を誘い込む食虫花の様でもあった。

 服の裾が風もないのに揺れる。髪が──あの長い黒髪が、重力に逆らうかの様に、ゆっくりと水中の海藻の如くたなびき始めた。

 

 

 ──その光景は正しく異常で正常だった。

 

 海が沸騰する事も。瘴気が立つ事も。───彼女が平静を保って其れを見届けている事も。

 だが、此れこそが想定通り。こうなる事を知って、こうなる瞬間に立ち会う為にこそ、此処に居るのだから。

 

 故に黙って経過を見据え、来る帰結を待つ。

 

 ブクブク、ブクブクと、音を立て、沸き立つ。煮え立つ。黒い海が沸騰する。熱風が巻き起こり、蒸発した闇───暗い靄が、幾重にも、幾数も、漂う。留まる。霧散せず、不定形を成す。曖昧な塊が生まれる。そして、産み落とされる。

 それは一つではなかった。二つ、三つ、数十。数え切れない闇の胎児が、海の子宮から次々と剥がれ落ちる様に、這い出てくる。

 

 今此処に、事の起こりが成された。またこの世界に、願いの礫──妖精が誕生した。───或いは、してしまった。

 

 

 「うふっ、ふふふっ!ああ、良いですねっ!いつ見ても、願いだけの結晶とは、純粋で!透明で!単純で!我欲に忠実で!」

 

 少女は自身の気持ちの昂りを抑えきれずにいた。

 三日月は観測者。干渉者。常に何にも興味を抱き、あらゆる物事を許容する。

 

 その身体が微かに震えていた。

 歓喜の震えだった。指先が痙攣する様に開閉し、瞳孔は拡大と収縮を繰り返し、唇は半開きのまま吐息を漏らす。恍惚。陶酔。人間がこの表情をしていたならば、正気を疑われるだろう。だが三日月は、正気のままこの顔をする。正気であるからこそ、この顔になる。

 

 

 「ああ......振り向かせたい。振り向いてほしい。ねぇ、こっちを見てよ。三日月に、構ってほしいの」

 

 

 月は、物言わず、それでも愛されると言うのに。この三日月は、自ら愛し、そして愛されたいのだ。

 その為に動く。その為に在る。自我を持った、欲を持った、感情を持った存在。

 

 其れこそが、三日月の本質的な有り様。

 

 

 「貴方達の想いを、願いを、見せてほしいの。ね...?お願い。良いでしょう?」

 

 

 闇が揺れる。

 前も後ろも無い、表も裏も無い。ただ自身の欲の為だけに在る者が、確実に三日月を認識し、そして離れない。離れられない。

 

 不定形の闇が、三日月に向かって触手の様に伸びる。その先端が三日月の足首に触れた瞬間──闇が、竦んだ。

 怯んだのだ。

 この少女の中に在るものを──自分達と同質の、しかし比較にならない程の深淵を、感じ取って。

 

 だが三日月は逃がさない。

 

 「ああ、どうせ。ねえ。如何に同族とは言え、私達は相容れる事はない。願いの向かう先が違うのだから。でも、この世界は狭い。全ての願いが叶う事はないの。それでも我欲を通したければ、罷り通る他に無い。他の願いを押し退けて、自分を立たせなければならない。

 

 要するに、私は貴方達にとって、邪魔なのではないかしら?」

 

 

 笑む。笑う。クスクスと、楽しそうに。愉快そうに。

 

 自分の体躯を腕に抱きしめ、何かを押さえ付ける様に。少しウェーブがかった髪を上下に揺らしながら。

 その髪の間から覗く横顔は、もはや少女のそれではなかった。年齢が消え、性別が曖昧になり、人と人ならざるものの境界が溶けている。三日月の生きた歳月。その全てが、この一瞬の表情に凝縮されている。

 

 

 「私は貴方達を肯定します。でも、望む者。貴方達は、世界が望んでも、人間に望まれていないの。

 

 ......でも。だから。私は、貴方達を三日月の中に受け入れようと思います。感情の渦の中に。私の一部として。

 

 軈て深海棲艦になるか、艦娘になるのだろうけど、生半可なモノではないわ。撃滅されるか、迎合するかの、きっとどちらか。本当の意味での願いが成就する事は、確率的に難しい────」

 

 

 妖精は、たかが願い、想い、それだけで世界を変革する程の力を持つ。

 それは、偏に彼等がブレないからである。いつまでも、どこまでも、突き進む所まで、突き進むからである。

 

 生命には欲がある。何かを成したいと言う願いがある。しかし世界の支配者足る人間には、理性がある。あらゆる願いが等しく叶う事など不可能だという事を、人間は知っている。

 

 だが、妖精にはそれがない。思念の塊である彼等は、其れこそが存在意義であるからだ。願いがなくとも存在出来る生物とは違う。彼らは願いを叶える為にこそ、存在するのである。

 しかし、その凄まじいまでの強欲を、容易く受け入れられる程、世界は丈夫ではなかった。彼等の行進の軌跡には、踏み荒らされた道があった。

 

 

 尤も、それは、黎明期の話である。

 

 今や艦娘と言う防衛システムが構築され、妖精の発現は管理下にあると言っても良い。

 艦娘も深海棲艦も、物体として余りに曖昧な妖精が物理的に存在し得る為に生まれた、進化の形である事に変わりはない。

 だが、その中でも、人間の条理を受け入れ、縛られた範疇での願いを持つ存在が艦娘。それに到底当て嵌まらない強欲が深海棲艦になると定義されている。

 

 欲にも様々な種類がある。程度もある。破壊的な願いもあれば、平和的な願いもある。

 長い変革を経て、妖精も、世界がどこまで持つのか、どこまでであれば壊れないのかと言う事を理解し、順応し始めた。そうして生まれたのが、艦娘と言う存在である。

 

 故に、そう言った理性ある艦娘妖精にとって、深海棲艦は、容認出来ない存在だった。

 平穏の内に叶えられる、平和であるからこそ意味がある願いだと言うのに、深海棲艦はその見境の無い感情によって全てを破壊する。決して捨て置けない。

 

 艦娘の発現は、人間にとっても好都合だった。

 

 圧倒的な多勢により蹂躙され尽くした世界。今尚、跋扈する妖精。其れに拮抗し得るは、やはり同等の存在でしか不可能で。そして、艦娘にとっても深海棲艦に成る程の妖精は害悪だから、互いの利益の為、手を取り合う。

 

 

 想いはどうあれ、程度の違いはあれ、艦娘もまた、願いの礫である事に変わりはない。

 ただ、人間にとって、まだ"まとも"か否かと言うだけだ。

 

 

 無論、艦娘とて違いはない。

 人間がいた方が都合が良い。或いは今の世界であってこそ自分達にも意味がある。

 

 

 不安定な均衡の上に、今の世界は成り立っていた。

 

 

 「さぁ、おいでなさい。この三日月を乗っ取って、貴方達の願いを遂げる足掛かりにしてみせなさい。私は許容します。貴方達を受け入れたいの」

 

 では、妖精が、如何にして艦娘や深海棲艦に成るのか。

 

 今、進化の過程が起ころうとしている。

 

 

 "成れの果ての少女"は諸手を広げ、生まれたての彼等へ受容を示す。

 

 罌粟の花の様に鋼玉の宝の様に、譎怪的な程に幽玄な朱の瞳からは、一分すらも迷いは無い。

 

 渚に潮が満ちる様に、静かに歩を進める。

 自ずから、闇を抱く為に。

 その足取りは花嫁の様であり、首に縄を掛けられた罪人の様でもあった。

 

 そして、湿った風と共に。

 妖精と表現された数多の闇が、それに併せて三日月に向かう。

 

 

 増長する闇は、金切り声を上げ、唄う。

 

 この想いを、願いを、込み上げる感情を、感情を、感情を!

 

 ──叶えなければならない!遂げなければならない!

 

 そう、そう在る。その為に生まれたのだから!

 

 

 

 

 ──同刻。北大東要塞。

 

 

 

 「...逢魔が時だな」

 

 

 静寂の執務室。

 

 窓の外、水平線の遥か彼方に、空の一角が黒く滲んでいる。

 此処からは、それは見えない。紅い霧の残り香が島の周囲に薄く漂っている事だけが、彼女が今もあの海に立っている事の証左だった。

 

 三日月から発信される情報の映すモニターの数値は、既に正常値を大幅に超えている。妖精の発生密度、海水温の異常上昇、磁場の乱れ──どれも、三日月が居なければ、此の海域一帯が深海棲艦の巣窟に変わっていた事を示す数字だ。

 発生密度の急上昇は、此処数ヶ月の台湾沖の激化と無関係ではないだろう。あちらで弾かれた深海棲艦の残滓が、潮流に乗って此処まで流れ着く。その度に、この島の地下に眠る重油とガソリンが、僅かに値打ちを増す。護るべきものがある限り、三日月は此処に居る理由を持つ──そう言う仕組みも併せ持つ。

 

 煙草の火を消した。

 此の時だけは、煙の匂いが邪魔だった。彼女が仕事をしている間は、俺もせめて、その空気に混じり物を入れたくなかった。理由は分からない。ただ、そうすべきだと思った。

 

 

 「─――そうだ。三日月。一切合切全て余さず君というモノの中に取り込んでしまえ。本質を魅せてやれ」

 

 誰にも届かない声で、囁く。

 無線は切れている。三日月には聞こえない。

 それでも口にした。口にせずには居られなかった。

 

 「妖精共、本物の感情の渦を見ろ」

 

 あの海で、今、三日月が何をしているのか。

 俺は知っている。報告書の上では"妖精の事前浄化"と記載される任務。発生した妖精が深海棲艦として物理的な脅威に成る前に、彼女が自身の中に取り込み、無力化する。

 

 言葉にすれば、それだけの事だ。

 

 だが俺はたった一度だけ、それを目の当たりにした事がある。

 

 あの笑顔を。

 闇に呑まれながら、嬉しそうに笑う三日月を。

 闇が彼女を覆い尽くし、その白い肌が黒に染まり、人の形が崩れかけても──尚、笑う。

 嬉しくて堪らないと言わんばかりに。新しい命を抱く母親の様に。あるいは、獲物を呑み込む大蛇の様に。

 あんなものは誰にも出来ない。唯一、彼女にしか。

 

 生きとし生けるもの全てにとっての天敵であるアレを、吞み返す。

 余りにも鮮烈に投射されたあの光景は、──今も消えない。

 

 窓の外を見る。

 遠くの空が、ほんの一瞬、脈動した様に見えた。

 ──始まった、か。

 

 

 

 

 

 

 ──同刻。妖精出現海域。

 

 

 

 

  ──ドクン

 

 

 

 鳴動する。

 

 

 

 

  ──ドクン ──ドクン

 

 

 

 

 粘つき、身に絡み、身体に重なる。

 

 三日月の足元から、闇が這い上がってくる。

 最初は足首を舐める程度だった。だが、すぐに脛を覆い、膝を越え、腰に纏わりつく。

 闇は温い。生まれたての獣の体温がある。そして──飢えている。

 

 

 捉える。囚われる。

 

 

 闇が三日月の身体に飛び付き侵食し──────、彼女はそれを受け入れる。

 

 足首から。脛から。腰から。胸から。首筋から。

 黒い泥の様なものが這い上がり、三日月の肌を覆っていく。

 白磁の肌が、指先から順に、墨を流した様に染まる。

 肩口を闇が通過した時、その下に在る古い傷痕──薄紅色の痕が、一瞬だけ浮き上がり、そして黒に呑まれた。

 

 全身が黒く染まり、影も形も、全てが同じになる。

 

 ──だが、黒に覆われた中で、紅い瞳だけが消えない。

 闇の只中で、二つの紅が、爛々と輝いている。

 猫の目。梟の目。あるいは、深海の底で光る、棲姫の目。

 

 

 

  ──────ドクン

 

 

 

 溶ける。溶ける。

 

 溶けて溶けて溶けて溶けて、混ざりあう。

 

 

 

 来た。来た。来た。

 

 唯一つの望みの為に、何をも排斥しようと。

 

 

 数多の感情の大渦が、私という存在を攪拌し細分化し、混ぜ合わせようと。

 

 

 でも其は許されない。認められない。私が其を見逃さない。

 

 其がそう在る様に、私もそう在りたいのだから。

 

 

 

 だから私が全てを受け入れる。

 

 その衍盈たる想いを、離さない。

 

 

 

 だから。

 

 溶けて、溶けて溶けて溶けて、解け合うの。

 

 一つになるの。

 

 

 

 「貴方方の願いを聞きましょう。だから、私の願いも聞いて欲しい───」

 

 

 

 ──三日月の唇が動く。闇の中で、声が響く。

 だがその声は一つではなかった。幾つもの声が重なっている。低い声、高い声、嘆く声、怒る声、祈る声。

 全てが三日月の口から発せられ、全てが三日月の中に吸い込まれていく。

 

 

 今宵の宴は如何なる物か。

 

 饗宴は今開かれた。

 

 暗黒よりも暗い気配が蠢く。

 

 深海の感情が跋扈を始める。

 

 一木一層を嘲笑して。

 

 

 

 混く舞台の幕が上がる。

 

 普遍的な日常劇が。しかし何かの兆しも孕んだ何時も通りの物語が。

 

 

 

 ───さあ、心を晒け出しましょう。

 

 

 其の想いを覗かせて。

 

 

 私は何時でも貴方を見ている。

 

 

 もう誰も、此処から逃れられない。

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 












 縲?笏?笏?迸ャ髢薙??裸縺悟シセ縺代◆縲
   縲?縺昴?霄ォ菴薙r荳ュ蠢?↓縲?サ偵>豕「邏九′蜷悟ソ??迥カ縺ォ蠎?′繧翫?∵オキ髱「繧定侭縺?□縲
縲?陦晄茶豕「縲る浹縺ァ縺ッ縺ェ縺??よ─諠??辷?「ィ縲
           縲?縺ゅ℃縺ゅ℃縺ゅ℃縺ゅ℃蜉ゥ縺代※縺?d縺?蜻代∪繧後k蜒輔′遘√′菫コ縺悟キア縺梧カ医∴縺ヲ縺ェ縺上↑繧九≠縺ゅd繧√※縺上l縺帙▲縺九¥逕溘∪繧後◆縺ョ縺ォ




           縲?繝サ繝サ繝サ繝サ繝サ繝サ繝サ縺?縺ゅa














 ──瞬間、闇が弾けた。

 その身体を中心に、黒い波紋が同心円状に広がり、海面を薙いだ。
 衝撃波。音ではない。感情の爆風。半径数百メートルの海面が一瞬で凪ぎ、次の瞬間、巨大な波となって外縁に向かって走った。

 数秒の静寂。
 そして、闇が急速に三日月の中に取り込まれていく。

 三日月の身体へ、中へ、奥へ、黒が溶けてゆく。
 掃除機が塵を吸い込む──等と言う矮小な喩えでは追いつかない。黒い海が、空間が、空気が、この一帯に満ちていた全ての瘴気が、一人の少女の中に還る。

 そして足先から、指先から、元の白磁の肌が現れる。
 ──瞳だけが、いつもより深い紅に染まる。



 海は凪いでいた。
 先刻までの煮沸も、瘴気も、粘性も、全てが嘘の様に。
 穏やかな波が、何事もなかったかの様に、彼女の足首を洗う。


 三日月は笑う。
 疲弊の色は微塵もない。寧ろ、食後の満足に似た、穏やかな充足が全身に満ちている。
 

 腹の奥に、数え切れない感情が渦巻いている。
 怒りも、悲しみも、渇望も、嫉妬も、愛も、憎しみも。
 全部、私の中に在る。私の一部になった。

 それは重い。とても重い。
 けれど、その重さが、私が此処に居る理由。


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