「司令官は」
「...うん?」
「司令官は、私の事をどう思っていますか?」
いつかの事を思い出していた。
あれは涼やかな秋の夜。月が雲間に隠れたり顔を出したりしていて、その度に基地の庭先が淡く照らされたり翳ったりがやけに印象に残る、そんな夜だった。
基地食堂の裏手にある小さなテラス。と言っても、コンクリートの段差に板を渡しただけの粗末なもので、備え付けの椅子もない。二人で並んで腰を降ろすと、それだけで場所が埋まる。
玲玲と音を奏でる風鈴と鈴虫の響きに二人で耳を傾けていた折の事だ。風鈴は三日月が那覇の補給便で手に入れたもので、南部鉄器の黒い肌に、錆の匂いが微かに混じる。その音は涼しいと言うよりも、何処か寂しかった。
「三日月が思わせぶりなのは毎度の事だが、それはどういう意味で?」
秋の虫が鳴いている。一匹が鳴き始めると、呼応する様にあちこちから声が上がり、やがて島全体が虫の声に包まれる。
空気は湿度を帯びながらも涼しく、肌に触れる風には夏の残り火がほんの僅かに混じる。
普段は騒音のように響く波の音も、今はそれらの下に沈んで、時折思い出す程度に聞こえるものになっていた。
「いやだ。そのままの意味ですよ?」
とすん、と、俺の腕辺りにその小さな頭を預けてくる。
黒髪が腕を擽る。彼女の髪からは、いつも仄かに潮の匂いがする。海に棲む者の匂い。どれだけ洗っても取れない、身体に染み込んだ匂い。俺はそれを不快だと思った事はないが、その理由を考えると、少しだけ居心地が悪くなる。
彼女が何を考えているか、理解は付いていた。
愛と言うには浅ましく、恋と言うには渇き果て、情と言うには...些か遠い、俺達の関係。
繋がりは強い。縄の様に固く結ばれ、幾重にも結束された──ただ、それだけの関係。
名前を付けてしまえば或いは何かが変わるのだろうか。ただどんな名前もしっくりこない。恋人も、家族でも、戦友とも違う。──共犯者、と言うのが一番近いかもしれないが、それも何か違う。
「強くて、凛として、頼りになる、俺の艦娘だ」
「それだけ、ですか...?」
「...こういう魔性めいた事もしてくるのが玉に瑕だ」
視線を背けて嘯く。正直な所───
「...ふ、ふふふ。あは。照れているのですか? 可愛い司令官」
「...なあ、三日月」
「はい。何ですか、司令官?」
顔を見合わせた所、赫々の瞳が俺を覗く。
その色彩は深く深く、見た者を引きずり込む。
月明かりの加減で、紅が一層濃く見えた。まるで瞳の奥に、もう一つ別の灯りが点っている様に。
「......っ」
───正直なところ、この娘は、苦手だった。
率直に表現して、三日月は得体の知れない艦娘だ。その在り方も、過去も、境遇も、強さも。全て含めて俺には有り余る。手に負えないのだ。比喩でなく、余りにも強大な存在が人間の枠内に収まっているこの事実が、どうしても納得出来ない。
命が蠟燭の灯のように儚く直ぐに消えるこの世界で、30余年を生き延びた練度99の駆逐艦。紅い霧を纏い、妖精すら呑み込む少女。それが今、俺の腕に頭を預けて、鈴虫の声を聴いている。この落差が、いつまで経っても俺の中で折り合いがつかない。
「...お前は、俺をどう思っている?」
「好きです。お慕いしています。誰より、何よりも。私より貴方が好きです。きっと、貴方より貴方が好きです」
その癖に、まるで子供の様に、彼女は余りにも素直で純粋だから。その好意が、その真っ直ぐな想いが、その深すぎる紅玉の眼が、俺には眩しいんだ。
彼女の「好き」には、一片の打算も衒いもない。ただ純粋にそう思っているから、そう言う。それだけの事が、俺にはどうしようもなく重い。
「ふふ...このやり取りも、何回目でしょうね」
「俺も、三日月の事が好きだよ」
「ええ、存じ上げております」
三日月は目を伏せて微笑んだ。
その仕草はまるで俺の鏡写しの様に見えて、思わず凝視してしまう。
──いや、鏡写しではない。鏡は左右を反転させる。彼女の微笑みは、俺の言葉の裏側を正確に映している。俺の「好き」が、彼女の「好き」とは似て非なるものである事を、三日月は知っている。
三日月。そうだ。俺は君から目を背けているんだ。
君の尽きる事のない好奇心に安心して、君の献身が不安で、君の想いを蔑ろにする事が居た堪れなくて。
「けれど、司令官は私を見てくれない」
風鈴が鳴った。
風が止んでいたのに、鳴った。
三日月の声の震えが空気を揺らしたのか、それとも、俺にはそう聞こえただけなのか。
「......」
「司令官の、イジワル」
その声は、責めている様で、責めていなかった。
諦めている様で、諦めていなかった。
ただ事実を述べただけの、透明な声だった。
──その透明さが、何よりも堪えた。
それでも、俺は三日月の手を取った。
月の導きに身を委ね、剰え、その光を独占している。
三日月は決して裏切らない。
正しく月が衛星として地球から居なくならない様に、恒常的に在り続ける。
互いに意識し、影響し、作用しあいながら。
「...此処で、こうやって過ごすのも......」
呟く様に、囁く様に、嘯く様に。
誰にとも向けず、自分に言い聞かせる訳でも無く。
ただ、言った。
「最近は、悪くないと思う様になってきたんだ」
「......はい」
「ただ、まだその感情は諦めと同義なんだ。まだだ。まだ俺の考えは変わらない。だから三日月、これからも俺の支えになってくれるか?」
幾度と確認しあった契約。
俺は俺の為に、三日月を利用する。
約束は果たしつつ、その想いは無為にして。
何度目かも分からない此の問いを、俺はまた口にする。毎回同じ答えが返ってくる事を知っていて、それでも聞かずにはいられない。自分の卑しさを確認する為の、儀式の様なものだった。
差し出した俺の手を取り、三日月は屈託のない笑顔を浮かべて
「──お望み通りに、司令官。貴方が三日月を離さないでいてくれるのならば」
いつもの様に、そう言った。
いつもの答え。寸分の狂いもない、いつもの答え。
それが契約の更新であり、同時に、彼女の祈りでもある事を──俺は気付いていない振りをした。
──闇を受け入れます。
光に打たれても、決して目を背けません。
凍て付く様な冷たい感情も。
焼け落ちる様な破滅的な想いも。
見るに堪えない悪性を吞み込んだ。
自身の在り様を分かっていたから。
いつだって何をも拒まないでいた。
元よりそんな考えなんて無かったけれど。
だけど、分からない事はこんなにも沢山あって。
だから、この世界が私にはとても眩しかった。
焦がれる。何をも知りたくて。
でもそれは、後発的な欲の一端に過ぎない。
もっと言えば、本当の願いを遂げる為の一片でしかない。
真に私を私足らしめる、たった一つの感情。
存在意義、その根幹は。
──誰か、私を、愛してくれませんか?
『三日月と司令官③』
五月晴れの空の下、数多くの海猫が、暢気に鳴いている。
温かな日差しが風光る長閑な景色を彩る。
海は限りなく穏やかで、水の色は群青を示す。
果ての無い蒼穹より、爽やかな一陣の風が抜けて。
先程までの光景が嘘の様だった。
空は何処までも碧く、海は何処までも凪いで、水平線の際が蜃気楼に揺らめいている。海面に散る光の粒が、まるで誰かが硝子の欠片を撒いた様に煌めいていた。潮の匂いも元に戻っている。鉄錆びた重さは消え、清涼な磯の香りが風に乗る。
詰まる所、当たり前の景色が其処には広がっていた。
しかし、それは齎された結果である。
この大海原に浮かぶ一人の少女の手によって。
三日月。
大東基地所属の駆逐艦。
彼女は柔く目を閉じ、死んだ様に波に打たれている。
仰向けに海面に浮かんで、両腕を軽く広げ、波の揺り籠に身を委ねている。長い黒髪が海水に扇状に広がり、陽光を受けて鴉の羽根の様に青く光る。
その体躯に一切の傷等は無く、表情は穏やかで、例えれば人形の様な。
──いや、人形よりも、もっと静かだった。呼吸をしているのかどうかさえ判然としない。ただ胸元のスカーフのあたりが、微かに、微かに、上下している事だけが、彼女がまだ此処に居る事を告げていた。
先の此の場は、絵画に描かれる地獄とはあの様な──絶望と表現しても良い。空も海も闇に満ちた悍ましい情景だった。
昼なのに暗闇で、海は煮え立ち、瘴気が立ち込め、剰え其れが随意的に憑りつこうとしてくる。
気質、霊的なナニカ、形に捉われない、掴み所の無いモノ。
あんなものを只の一介の者が何か出来る筈もない。否、誰にだってどうする事も。
「けふ......」
軽く嘆息を吐く。
小さな吐息が、海面に微かな波紋を作った。
爽やかな空の下。静寂の海に抱かれて。
波に揺られながら、三日月は微睡む意識の覚醒を待つ。
身体が重い。いつもの事だ。取り込んだ直後は、全身が泥を纏った様に重くなる。臓腑の奥で、数多の感情が暴れている。消化しきれていない。まだ、彼等は私の中で叫んでいる。
だが、それも時間の問題だ。軈て静まる。私の一部になる。いつもそうだった。
程無くして、上半身を起こした。
海水が髪から滴り、肩を伝い、胸元を流れ落ちる。滴の一つ一つが陽光に透けて、一瞬だけ虹色に光った。
「ふふ...」
腹部を柔く撫でる。愛おしそうに。
身に着ける暗色のセーラー服が、その白い手から滴る海水を吸って、少し色の濃さを増した。
手の平で、自分の臍の辺りを、ゆっくりと円を描く様になぞる。
ああ、今回は、結構多く、濃密だった。幾千か、万か、それとも。
数える意味はない。全部、私のものだ。
「...御馳走様でした」
その言葉は、暗喩でも比喩でも何ら無い、直接的な意味だった。
再度、腹部をなぞる。
胃をなぞる。
その中に有るものを、なぞる。
中国の故事にある仙人は、霞を食して生きると言う。
尤も、それそのものが三日月の栄養学的な糧として機能している訳ではないが、実態はそう。
───あの、身体に纏わりついた闇を、呑み込んだのである。
闇は感情。想い。願い。それを成し遂げようとする意思が形を成したものである。
世論として妖精と認識される、災厄の一種であり、
三日月の任務とは、其等を余さず排除し、浄化すると言うもの。
先程の情景や沸き立つ海こそが、噴き出す闇、妖精の為した業であり、少なくとも人類にとっては在ってはならないものであった。
浄化。
そう、浄化と呼ばれている。綺麗な言葉だ。
実態は、呑み込んでいるだけなのに。他の誰かが片付けるのではなく、三日月が自分の中に仕舞い込んでいるだけなのに。消えてはいない。消えた事はない。全部、此処に在る。
「司令官、とれますか」
『はい、どうぞ』
数拍と置かず、インカムに声が届く。
──いつも待っていてくれる。無線の向こうで、ずっと。その事実が、何よりも嬉しい。
「司令官、任務完了しました」
『ん、了解。問題なかったか?』
問題。
何を以て問題と言うのかにも拠るのだけれど。
取り込んだ妖精の中に、身を焦がす様な寂寥感があった。それはまだ、私の腹の中で震えている。あの子の寂しさは、少しだけ、私のそれに似ていた。
──でも、それは報告する事ではない。
「はい、何も問題ありません」
『良かった。では帰投してくれ。気をつけてな』
「承知しました───」
気をつけてな。
その一言が、どれだけ私を安心させるか、司令官は知らないのだろう。
いつもの事務的な一言。けれど、私にはそれで十分だった。
事務的なやり取りを終え、前を向く。
帰る場所がある。
あの島に、あの基地に、あの食堂に、あの窓辺の一卓に。
そして、あの人の隣に。
───不意に後方を振り返る。
穏やかな海。碧い空。何事もなかったかの様な水平線。
けれど、此処には確かに、さっきまで数え切れない感情が渦巻いていた。怒りも、悲しみも、渇望も、寂しさも。全部、今は私の中に在る。
海は何も知らない顔をしている。
三日月は数秒と見つめ、相好を崩し、呟いた。
「......おやすみなさい」
誰に向けたでもない。
今、私の中で眠りについた、彼等に。
そして彼女はその場を立ち去った。
帰る場所へ。待っている人の所へ。
海猫の声と、波の音と、五月の風に背中を押されて。