予報では例年より幾分早く梅雨入りしたのが誤報だったかの様に、とんと雨が降らない。
南洋を北上してくる台風の影響か、夕方になってどっち付かずの空模様になっているが、何れにしても台風は天災であるからして、シトシトと一定に降る"梅雨"のイメージとは程遠い。
窓の外を見れば、空の半分は鬱陶しい鈍色の雲に覆われ、もう半分には薄日が差している。その境界が風に押されて刻々と動いていく様は、島の天気が如何に移ろいやすいかを物語っていた。
湿気だけは確かに梅雨のもので、執務室の書類は端から微かに波打っているし、ペンを持つ手も何処か纏わりつく様な気怠さがある。
ところで、雨に対する印象とは何を思い浮かべるだろうか。湿気。蒸し暑い。靴や服が雨濡れして汚れる。靴下にまで浸水した日には、憂鬱極まりない。洗濯物も乾かない。身体が重い。頭が痛い。等々......。ネガティブな面を列挙すれば遑が無く、好きでない人の方が多い様に憶測する。
ただ、こんな暇な日常に在って、何となく雨について考えてみると、個人的にはそれなりの楽しみがあるんじゃないか。とも思ったりする。
紫陽花などは正に雨に映える花の代名詞だろう。
曇天の下、露の滴る紫陽花は、ふとして立ち返って見たら、どうにもこうにも見入ってしまう時がある。
雨粒を受けて重く頭を垂れる花弁は、どこか彼女の黒髪が海水を吸って重くなる様にも似ていて──いや、それは考え過ぎか。
まあ。何れにせよ、この島に紫陽花、生えてないんだが。
「禁煙ってさ。した方が良いと思うか?」
「え?」
本日も折り返しの時間に差し掛かった執務室、事務作業に勤しんでいた折。
司令官の唐突な問いかけに、思わずそう聞き返してしまいました。
彼に禁煙の意志など無い事は、この相談が既に十数回に及ぶ事からも知れた事でありましたが、それは基本的に私から振った話中での遣り取りであって、司令官から禁煙を話題に挙げたのは、今回が初めてだったからです。
ペンを止めて顔を上げると、司令官は椅子の背凭れに深く沈み込んで、天井の辺りをぼんやりと見上げていました。その手元では、無意識なのでしょう、煙草の箱がくるくると回されています。
「定例会で禁煙が話題になったんだけどさ」
「はい」
「何て言うか、最初から禁煙勧告みたいな?健康的にも良くない。嗜好品の需給も追い付かず、贅沢は節制すべきと言った観点から喫煙率の減少が急速に進む昨今、軍としての在り方を示す為にも"禁煙のススメ"が奨励されてんだよ。それで、禁煙月間なるものが設定された。再来月までの3ヶ月間」
「はあ」
「半強制なら此方の言い分を通す余地もなかろうもん。流石に腹をかいたから、絶滅危惧種は保護すべきでは?って煽ってやったら、絶滅しても構わん!って一蹴されてしまった。つまらん」
嫌に年配染みた話し方でボヤいた司令官は、遠い目でやれやれと溜め息を吐いた。方言が出ていますよ?
こういう時の司令官は、普段の寡黙が嘘の様に饒舌になる。寡黙と言うよりは無口。いいえ、もっと正確に言えば、言葉を慎重に選ぶ人なのです。だから普段は必要最低限の事しか言わない。──けれど、煙草の話になると途端に堰が切れる。きっと、此処だけが彼の"素"が出る場所なのだと、私は思っています。
ちなみに彼が愚痴を零すのは決まっています。
禁煙と航海中の揺れ。
軍属、況して海軍所属なのに司令官は船が苦手です。 まあ体質の問題もありますから?それについては置いておきましょう。
「つまり?」
「9月まで煙草が仕入れなくなった......」
本題はそのようです。
相当にショックだったのか、机に項垂れて突っ伏してしまっています。
眼鏡が少しずれて、額の辺りに髪がかかっている。
私達が所属している北大東要塞は沖縄県に属しているとは言え、本島からは200海里弱の距離があり、凡そ絶海の孤島と言って差し支えありません。防衛上、又は危機管理上の観点から南大東島、沖大東島を含む大東諸島全体が国によって接収され、海軍の管理下にあります。そして現状、島民は司令官と私の二人だけ。民間のお店もありませんから、輸送物資は半月に一回コンテナ船で輸送されてきます。つまり、私物のお買い物にあたっても必ず総務部を介する必要があり、お煙草の入手手段が閉ざされてしまった事になります。
「あああ...どうするか。どうしようか。どうしよう......」
ふふっ。司令官、子供みたいです。
「ストックはどれくらいあるのですか?」
「5カートン切ったくらいだ。明日にでも発注するかって矢先にこれだよ!」
いつになく饒舌な司令官。
三日月は煙草を嗜まないのでいまいち把握しかねますが、5カートンと言うと50箱。1000本は残っています。
ずっと仕入れなくなる訳でなし、そこまで焦る必要があるのかは、私には分かりません。
「充分では?そこまでお吸いになられましたっけ、司令官?」
「1日1箱くらい」
「2日で1箱にしないとですね」
「いや......何て言うか、そう言うんじゃないんだよ」
「え?」
眼鏡を外し、眉間に指を当て込む司令官。
端正なお顔を悩ましげに歪めるのを見ていると、そんなに退っ引きならない理由があるのかしらと考えてしまう。
「............................................................................................................................................................................................................................................................煙草...って言うのは......」
「は、はい」
たっぷり10秒くらいの間を置いて、司令官は口を開いた。
──あ、これは長くなりそうです。椅子に座り直して、姿勢を正しました。
「煙草と言うのは.........満ち足りた気持ちになるんだ。空っぽな俺と言う器に、意味を注ぐんだ。...そうさ、煙草を吸う時ってのは、満たされていかないと駄目なんだ。それなのに、残りの...残りの本数を気にしながら吸う煙草が旨いと思うか?否。否だ。煙草を吸う時は、その煙草の味、風味、芳ばしさ、煙に想いを馳せるものさ...。産地、どの葉、どこの会社、どんな巻き方、どう言ったフィルター。全て違う。その煙草毎に物語があるんだ。だから先ずは箱を視る。デザインを観察する。この絵には、この色合いには、このアートにはどう言った意味を込めたのだろうと、咀嚼し吟味する。喫煙の注意分も当然読む。ガンのリスクを高める?上等じゃないか。作用には副作用が伴う。旨いものにはそれ相応の理由があるものだ。甘い毒というのはそう言う意味だろう。だからそれを受容する肝要なる精神と、その覚悟を持ってビニールに手をかけねばならない。そうしてピリピリと神秘のベールが剥がされてゆき、その中の真の価値が異常に嗅ぎたくなる微香を伴ってお披露目されるんだ。謂わばラミネートは宝箱。煙草は宝物と言う事だな。開ける前から楽しい。開ける前から夢に満ちている。素晴らしい。そんな珠玉の逸品をだぞ?口に含むのだと考えてみて欲しい。宝物を自分の体内に取り込むんだ。口をすぼめて煙草1本通すだけの隙間を作り、そして咥える。ジュワッ...と唾液がフィルターに浸透し、多少のエグみが味覚を刺激する。数秒程度そうやって口の中で転がして馴染ませて、いよいよ点火する。ゆたりと煙の温もりが先から降りてゆき...嗚呼、濃醇な香りが口腔に拡がっていく......。どうだろう...?唾液が、分泌されてこないだろうか?俺はした。ああ、そう言えば、三日月はゴロワーズと言う煙草を吸ったことがあるかい?あれは、秀逸な煙草だ。一口吸えばパリにすっ飛びそうなほど脳天をトリップさせる様な強さ迸る味わいと、肥沃な国土を湛えたフランスならではの黒煙草特有の芳醇な土の匂い。意外にも最初は軽くも、やはり吸えば吸うほど力を増す。だがその折で舌の先端にふとした甘味が走るから侮れない。アレは...だからアレは、短くなるまで吸わなきゃダメだ。短くなるまで吸えば吸う程......濃密な味の変遷が口全体に浸透していく。香りの序破急。風味の起承転結。まるで万華鏡......いや、虹...虹だ。虹の様な幻想的なグラデーションを一本に醸し出すんだ。そう。その、変化する過程で、俺はゆっくりと目を閉じる......。薄闇の中で煙をフカす。目を閉じた事で他の四感を研ぎ清ませる。すると次第に豊かな感覚は口腔から鼻を通り、眼窩を過ぎ、脳に達して、遂には髪の毛の先までを満たしていく。満たされていく。中枢神経は融解する氷の様に滴り落ち、俺の意識だけを茫漠な世界の中で煙の様に自由に揺蕩わせてくれる。ゆっくり......ゆっくり......ゆっくり......ゆっくり......空を昇るんだ......。嗚呼、ゴロワーズーーー流石花の都の国が誇る煙草じゃないか。ミュージカルの様に夢を魅せてくれる。リラックスした気分で微睡みに揺られながら、その瞼の裏には......そう、パリの街並みが宛らネガフィルムの色彩でノスタルジックに映っているんだ。パリの空の下、耳を澄ませばアコーディオンの哀愁漂う音色が奏でるシャンソンが聞こえてきて。シャンゼリゼ通りには薔薇が舞い、マドモアゼルが手を招いて俺を舞踏会に招待している。俺は開放的な気分に成りながらも何処か寂しい気持ちを抱いて、その手を取る。さぁ、ダンスパーティの始まりだ。......なんて、なぁ。そう、そう言うのを考えるのが楽しいんじゃないか。煙草はただ吸うんじゃない。全身を使ってあの小さな一本が内包するストーリーを読み解く事に嗜好を抱くんじゃないか。それなのに、吸う度に減っていく煙草に気を取られ、脳裏を過る。そんな状態で豊かな気持ちになれると思うか?間違い無く惨めな気持ちになるだけだぞ.....。そう思うだろう? いや、それは煙草に限った話じゃない。嗜好品を我慢する必要がどこにあると言う話だ。嗜好とは則ち贅沢だ。贅を抑制してどうする。質素に美を見出だすのは、そもそも論として贅沢が飽和している時だけだ。質素倹約節制我慢?ふざけるんじゃない。其れ等の言葉はすべからく貧相と言う語に換言すべきだ。只でさえ娯楽の無いこの島で、唯一の楽しみすら奪うと言うのか上層部は......?!嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼考えれば考える程腹立たしくなってきたし手も震えてきた...取り急ぎ一服しようしてから考えようさぁ三日月、取り敢えず外に行こうか......」
「は、はははあ...」
正に息を吐き尽くしたと言わんばかりに司令官は思いの丈を語らい、執務室の扉を開く。
司令官は本当にお煙草がお好きなようです。いえ、知ってはいたのですが、三日月は如何せん煙草を吸わないので、その辺りが無知なのです。
ですが、その楽しみ方は聞いていて少し興味があります。嗜好品と言うのは、多少の拘りがあるものですからね。司令官の人となりをもっと知れそうですよ!
──それに。こんなに楽しそうに話す司令官を見たのは、久しぶりの気がします。普段の司令官は、何処か遠くを見ている事が多いから。此処ではない何処かを。此処より前の何処かを。
でも、煙草の話をしている時の司令官は、ちゃんと此処に居る。此の島に。私の隣に。
だから──ああ、不純な理由かもしれないけれど──私は司令官の喫煙を咎めた事がないのです。
「三日月?」
「はいっ、直ぐに!」
司令官に促され、急ぐ。
扉を開いて待っていて下さるそのもとへ。
些細な優しさって、良いですよね。
◆◇◆◇
「...結構風が出てきたな」
「そうですねぇ」
喫煙所は執務室のあるA棟の出入口のすぐ傍にあります。
喫煙所と言っても、庇の下にパイプ椅子が二脚と、空き缶を利用した灰皿が置いてあるだけの場所です。足元はコンクリートで、壁には「火の元注意」の札が風に煽られて傾いている。二人しか居ない基地に喫煙所の概念が必要なのかは些か疑問ですが、司令官曰く「けじめだ」との事。
北大東島は風の島です。土地は概ね平坦で海風を遮るものがありませんから、常に強い風が吹きます。
今日の風は特に強く、司令官の煙草の火が何度か消えかけていました。その度に身体を丸めて風除けを作りながら再び火を点ける姿は、何だか小動物みたいで、ちょっと可愛い。
ですが、東寄りの風はそれよりも強いです。台風が近付いている証拠でしょう。
水平線の端に、鈍色の入道雲が重たく腰を据えているのが見えます。まだ遠いけれど、確実に此方に向かっている。
「昔、台風で凄い経験をしたことがあるんだ」
「どんな経験なんですか?」
「仕事で大津に出張したとき、相当強い台風が上陸しててさ、琵琶湖の南っかわが干上がったのを見たことがある」
膳所の、橋が架かってるところの、丁度瀬田川になろうかってらへんのさ、と司令官は身振りを交えて解説してくれる。
「気圧差、ですか」
「後は南風がそれだけ強かったっつう事だろな。木は根っこから引っくり返るわ看板やら屋根やら吹き飛ぶわで大変な状況だったにも関わらず、蜆取りしてる人が複数人居てビックリしたのを覚えてる」
それはある意味逆境を楽しんでいますねと言うと、違いないと返して、司令官は鼻を鳴らした。
──"出張したとき"。司令官が此処に来る前の話をするのは珍しい事です。
ああ、聞きたい事は沢山あります。けれでも、司令官がぽつりぽつりと零すものを、私は拾い集めるだけにしています。急かしても、きっと、零してはくれないから。
「...三日月は本当に適切な返答をするよな」
「ふふ、禁煙の事です?」
ええ、そうでしょう。
話の流れからして、そこに繋げたいのかなと。
伊達に司令官を見ている訳ではありません。
目を細めて司令官に問うと、彼はそっぽを向いて言う。
「まぁ...多分遣りようによっては、調達くらいは出来るんだろうが......。まぁ、2日1箱くらいなら...。まぁ、耐え忍んだ後に味わう煙草を想いながら、まぁ、頑張ってみるのも、良いかもしれないな。うん」
まぁの多用が無意識だとすれば筋金入りの頑固者というか、いや、無理矢理理解はしたけど、納得はしてないぞって表情に出ていますよ司令官!
...うぅん。いや、私は司令官のお考えに同意しているのですよ。欲に忠実であれ。司令官もご存知の通り、私は艦娘ですから、そこを我慢したくない気持ちはよく分かります。
──ええ。本当に、よく分かるのです。
欲を抑える辛さも、渇きも、満たされない事の惨めさも。
だから司令官の「煙草は俺を満たしてくれる」と言う言葉が、羨ましかった。
私では、そんな根っこからの言葉を聞き出すことができない。
「ふふっ。したい事を我慢する事は貧相なのでは?」
「規則は、守らないといかんしなぁ」
「ですが、納得してないでしょう?司令官」
「クソッタレ上層部だ。日本海軍ってやつはジョンブルを倣ってるんだろう?だったら形だけじゃなくて、もっと余裕の本質を貴んでだな...」
ふぅ。と、吐いた煙は漂う事も無く、直ぐに風によって西へと運ばれていった。
その煙の行方を、私は目で追う。
白い筋が風に引き伸ばされて、薄くなって、空に溶けて、消える。何故だか、それがとても儚く綺麗に見えた。
「余裕、ですか」
「何事も。物事を性急に決めるとロクな事が無い。煽りを受けて俺もイライラしちまった。......で、煙草を吸ったら落ち着いてきて、思い出したんだがな」
「え?」
「残ってる在庫な。そう言えば、アメスピだったんだ」
「はい?」
Natural American Spirit.
SFNT社によって製造される煙草であり、その特徴は何と言っても精製過程で化学薬品が一切使用されていない100%無添加の煙草であると言うことに尽きる。
天然由来の葉は正に煙草そのものの味を極めてシンプルに伝え、ネイティブアメリカンが描かれた無骨なパッケージと相まって、アメリカの荒涼とした大地を彷彿とさせる様な、そんなワイルドな煙草である。
曰く、「燃焼促進剤が入ってないから、ゆっくり吸える」との事で。
因みにゴロワーズは、品薄で中々手に入らないようです。
ゆっくり吸える。
その一言を聞いた時の司令官の表情は、先程までの苛立ちが嘘の様に凪いでいて。
──ああ、この人は大丈夫だ、と思いました。結局、司令官はちゃんと自分の楽しみ方を知っている人なのです。煙草が少なくなるなら、一本一本をもっとゆっくり味わえば良い。それだけの事を、彼はちゃんと分かっている。
欲しいものが有限である事を、悲しむのではなく、その一つ一つを丁寧に愛でる。
......ああ。
それは、きっと。
私達の事にも、言えるのかもしれない。
『三日月と司令官④』
──パチン。
「ん、三日月?何やってんだ?」
「あら、貴方も来たのね。nightcapですわ」
食堂の照明は落としてあり、カウンターの上の小さなランプだけが点いている。橙色の灯りが三日月の顔を柔らかく照らしていて、昼間とは明確に違う、大人びた雰囲気を纏っている。
窓の外は既に真っ暗で、風の音だけが聴こえる。台風はまだ来ていないけれど、普段より風は強く、建物の軋む音が時折混じる。
「そうか...何呑んでるんだ?」
「梅酒をお湯で割って鰹節を入れてみたの。温もって良い気分......。貴方は?」
「まあ、この時間に食堂ってんなら、三日月と同じ訳だが」
「そう」
「ああ」
彼は棚からグラスを取り出し、何やら探している。
取り出したのは、化粧箱に入ったJack Daniel'sのボトルだった。いつの補給便で手に入れたのか、それに見覚えのないデザイン。
「って、あらあ、SinatraCenturyじゃない。珍しいBottleね、どう言う風の吹きまわ―――あぁ、AmericanSpirit?」
「良いセンスだと思わんか?」
アメスピとバーボン。いえ、テネシーウイスキーと言わないとかしらね。成程、今夜の司令官は気分が分かる。
昼間の禁煙騒動の余韻が、こういう形で出るのが彼らしい。
「うぅん、ImageとしてはPhilip Morrisだけれど。それもStereotypeかもね。嫌いではないわ。ねえ?」
「ん?」
「貴方のお部屋にお招き下さらない?雰囲気を出すなら音楽が欲しいわ」
「...そうだな。ここじゃ確かに些か味気無い」
食堂の小さなランプの下で、二つのグラスが並んでいる。梅酒の琥珀色と、ウイスキーの深い琥珀色。似ているようで、全く違う酒。
──なんだか、私達みたい。
「ふふふ、BGMは当然Fly Me――
「有楽町で逢いましょう」
「えええ......」
「今日は5月6日だ。流すにはまだ半月早い」
「んもう。そこを音楽と想像で補うものじゃあない?」
「梅酒呑んでるヤツに言われてもなぁ。ま、多少現実を残すくらいが酒に呑まれないコツなのさ。行こうぜ」
「あっ、待ってよお」
司令官の背中を追って、食堂を出る。
暗い廊下を、二つ分の足音が歩く。司令官の足音は少し重くて、私の足音はそれより軽い。その二つが交互に鳴る様が、何だか音楽みたいだなと思った。
夜の基地は酷く静か。
昼間は気付かない建物の息遣いが聞こえる。配管の中を水が流れる音、廊下を隙間風が走る音、そして遠くの波が岸壁を叩く音。
司令官の部屋に着いて、彼が古いレコードプレーヤーの電源を入れると、針がレコードの溝を拾い始めた。
流れ出したのは──結局、Fly Me to the Moonだった。
「有楽町じゃないのぉ?」
「気が変わった。今日は月が綺麗だ」
窓の外を見れば、成程、雲間から三日月が覗いていた。
"今の私"の名前と同じ、細い細い月。
「......司令官」
「ん?」
「私、死んでもいいわ...?」
「...ふ、さてな。まあでも、君の作る味噌汁は毎日飲んでるが、実に美味しいよ」
煙草の煙が、バーボンの香りが、古いジャズの旋律が、狭い部屋の中で混ざり合う。
私は梅酒の温もりを両手で包みながら、レコードの回る音に耳を傾けていた。
──ねえ、司令官。
この夜が、ずっと続けば良いのに。
煙草の煙みたいに、ゆっくり、ゆっくり、昇っていく様に。
でも、そんな事は言わない。
多少現実を残すくらいが、酒に呑まれないコツなのだそうですから。