※この作品はR-18です。

夕暮れ時の世界にて   作:H117147

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 朝凪の、穏やかな海だった。

 波一つ無い水面が鏡の様に空を映し、何処までが海で何処からが空なのか、判然としない。
 水平線が溶けている。世界の境界が曖昧になる、この島特有の朝。

 そんな静謐の中に、少女の声だけが確かに在る。




凪の一日

 

 

 コンコンコン。

 

 「司令官、おはようございます。マルロクサンマル、少し寝坊気味ですよ?」

 

 微睡みのさ中、慣れ親しんだ声が聞こえて、意識が覚醒する。

 

 ...朝。

 天井の染みが、ぼんやりと見える。最近は目が覚めるまでに少し時間がかかる様になった。以前より身体が重い。それが何を意味するかについては──考えないようにしている。

 

 「ん......おう」

 

 「今日は良いお天気ですよ。風もなくて、凪いでいます」

 

 扉の向こうから声が届く。三日月はいつも、俺が返事をするまでは部屋に入って来ない。ノックの音と声で起こして、俺の覚醒を待つ。その律儀さが、毎朝、少しだけ申し訳なくなる。

 

 身体を起こす。関節が軋む。痛みはないが、可動域が狭まっているのを感じる。

 

 「入っていいぞ」

 

 「失礼します」

 

 扉を開けて入ってくる三日月。いつもの暗色のセーラー服。きっちりと結ばれたスカーフ。長い黒髪を後ろで一つに纏めている。巡回がある日は、いつもこうだ。

 

 何百回と見た筈の姿なのに、今朝はふと、うなじに目が留まった。

 纏めた髪の下、白いうなじに薄い痕が覗いている。

 

 「......今日も、それ、似合ってるよ」

 

 「ふふ、ありがとうございます」

 

 少しだけ、彼女の口元が綻んだ。

 言った拍子にその長いポニーテールが尻尾のように跳ねる。

 こちらの言い方が不器用だった事を、笑われたらしい。

 

 

 ◇◆

 

 

 朝食は、いつも通り食堂で。

 

 窓辺の定位置。向かい合って座る。今朝の献立は白飯、わかめの味噌汁、目刺し、漬物、冷奴。質素だが、整っている。

 

 「いただきます」

 「はい、召し上がれ」

 

 目刺しに箸を伸ばす。

 ──一瞬、指先が痺れた様な感覚があった。箸が滑りかけて、咄嗟に握り直す。

 

 ...塩気が舌に広がる。焼き加減が絶妙で、身が程よく締まっている。味噌汁は昨日より出汁が効いている。鰹を多めに使ったのだろうか。

 

 「味噌汁の出汁を変えたか?」

 「ふふ、ご慧眼ですね。鰹に枯れ鯖を足したんです」

 「枯れ鯖?」

 「ええ。前の補給便で入っていた鯖節です。本で読んだのですけれど、鰹節と合わせると奥行きが出るそうで」

 「成程......確かに、深みがある。これは良い」

 「えへへ」

 

 ...三日月の料理がこんなに上手くなったのはいつからだったか。

 着任した頃は、白米すら焦がしていた。味噌汁の味噌を入れるタイミングが分からなくて、沸騰した出汁に味噌を放り込んで、風味を全部殺していた。「本で読みました」が口癖だったが、本と実践の間には随分と距離があった記憶がある。

 

 それが二十年。

 今ではすっかり台所に立つ姿が板に付いている。

 

 この二十年で三日月が積み上げてきたもの。料理、洗濯、掃除、事務補佐、哨戒、浄化。全てが此の島の日常の為に。全てが俺と二人で過ごす為に。

 その事実は──重い。いつもの様に。

 

 「司令官? お箸が止まっていますよ?」

 

 「......いや。考え事してた」

 

 「朝から考え事は良くないですよ。味噌汁が冷めちゃいます」

 「そうだな」

 

 味噌汁を啜る。温かい。

 ──まだ、味が分かる。まだ、大丈夫だ。

 

 ふと、向かいに座る三日月が、湯呑みを持つ俺の手を見ていることに気付く。

 あいつは、常にああやって俺の指先を見ている。箸の運び、味噌汁を啜る速度、食べ物を噛む回数。全部、見ている。彼女が何を測っているのか──俺は知っている。彼女もまた俺に見られている事を承知している。互いに知っていて、互いに言及する事はない。

 

 ラジオからは、那覇局の定時報告。南大東島、晴れ。最高気温32度。波の高さ0.5メートル。台湾海峡方面、海上警報継続中。特記事項なし。

 

 特記事項なし。

 この一言が、この島の一日を決める。今日も穏やかな一日になる。

 

 

 ◇◆

 

 

 ───食後、執務室にて。

 

 午前の定型業務を片付ける。那覇への定期報告。補給物資の消費記録。海堡の稼働状況──変化なし。基地設備点検表──異常なし。

 

 書類に判を押す度に、同じ虚しさが指先に残る。

 だが今日は、もう一つ仕事がある。

 

 月次の燃料備蓄点検だ。

 

 通常は三日月が目視確認を行い、俺が記録を付ける分業だが、月に一度の本点検は二人で地下に降りる。地下貯蔵タンクの計器確認、配管の漏洩検査、通気口の状態確認。加えて、海堡群の接岸設備の遠隔モニタリング。

 

 面倒ではあるが、これだけは手を抜く訳にはいかない。

 足元に数千リットルの重油とガソリンが眠っている。引火点を超えれば、この島ごと大本営まで吹き飛ぶことだろう。

 本来、地下の密閉区画に入る際は地上に監視員を置くべきだが、この島にそんな人員はいない。二人で降りて、二人で上がる。それだけの事だ。──何かあれば、二人とも終わる。其れも、また。

 

 「三日月、準備は」

 

 「はい。点検用具一式、揃えてあります」

 

 三日月が執務室の隅に準備した点検キットを確認する。

 懐中電灯。記録用の防爆バインダー。温度計。湿度計。ガス検知器。防静電手袋。

 

 「よし、行くか」

 

 

 ◇◆

 

 

 A棟の裏手にある施錠された鉄扉。

 此処が、地下貯蔵区画への入口だ。

 

 重い金属音と共に扉が開くと、コンクリートの狭い階段が地下へと続いている。壁面は珊瑚石灰岩の切り出しがそのまま露出しており、湿気を帯びた独特の匂いが鼻を突く。石灰と鉄錆と、微かに──石油の匂い。

 

 「換気確認」

 

 「通気口、開放確認しました。酸素濃度......十分です」

 

 三日月がガス検知器の数値を読み上げる。此処での第一手順は必ず換気の確認だ。密閉された地下空間に可燃性ガスが滞留していれば、階段を降りた瞬間に意識を失う。

 

 階段を降りきると、通路は二手に分かれる。左が第一類貯蔵区画──ガソリン。右が第三類貯蔵区画──重油。

 

 「先にガソリン側から行こう。いつも通りにな」

 

 「はい」

 

 第一類貯蔵区画。

 厚さ30センチのコンクリート隔壁で囲まれた空間に、縦型の地下タンクが二基。容量は各一万リットル。タンクの表面は防錆塗装が施されているが、所々に経年の浮き錆が見える。

 

 計器盤に近付く。液量計。温度計。圧力計。三連のアナログメーターが、薄暗い中で微かに光っている。

 

 「液量、第一タンク......4,200リットル。第二タンク、3,800リットル」

 

 三日月が読み上げ、俺が記録する。先月比で微減。蒸発損を差し引いても計算は合う。漏洩の兆候なし。

 

 「タンク表面温度」

 

 「第一、24.3度。第二、24.1度」

 

 外気温より低い。地下だから当然だが、この温度が跳ね上がっていたら、それは何かが起きている証拠だ。ガソリンの引火点はマイナス40度。気化したガソリン蒸気に火花一つで──考えたくもない。

 

 「配管接合部の目視確認」

 

 三日月が懐中電灯を片手に、タンクの裏側に回る。彼女は身体が小さいから、俺では入れない隙間にも潜り込める。

 

 「接合部、異常なし。締め付けトルク──手触りで確認しましたが、緩みはありません」

 

 「パッキンの状態は」

 

 「劣化は......少し。前回の報告書にも記載しましたが、第一タンクのドレン弁周りが変色しています。交換時期かと」

 

 「了解。補給便で部品を発注しておく」

 

 記録する。こういう地味な劣化が、積み重なると致命傷になる。余程の事が無い限り、この島には修理の専門業者など来ない。全て自分達で判断し、管理しなければならない。そしてその知識や技術、資格もまた、否応なしに取得した。

 

 重油側の第三類貯蔵区画も同様に点検する。こちらはタンクが三基。容量は各二万リットル。重油はガソリンほど神経質にならなくて済むが、それでも漏洩すれば環境への被害は甚大だ。珊瑚礁の島だ。海に流れ出せば、取り返しがつかない。

 

 「液量、第一タンク......18,500リットル。第二、19,200。第三、17,800」

 

 「先月比で第三が200リットル減か。蒸発損にしては多いな」

 

 「計器の誤差範囲内ではありますが......」

 

 「念の為、来月も注視しよう。記録に付けておく」

 

 三日月が頷く。この作業を二人でやるのは、ダブルチェックの意味もある。片方が見落としても、もう片方が拾う。

 

 最後に、通気口のフィルター状態を確認し、鉄扉を施錠して、地上に戻る。

 

 階段を上がりきった時、外の空気が肺に入った。潮の匂い。陽の匂い。生きている世界の匂い。

 地下に居る間は気付かなかったが、あの空間にはやはり独特の圧迫感がある。数千リットルの可燃物と石灰岩の壁に囲まれた、静かな緊張。

 

 「お疲れ様でした、司令官」

 

 「ああ。お疲れ」

 

 三日月が防静電手袋を外しながら、ふと空を見上げた。

 抜ける様な蒼穹。雲一つ無い。

 

 「......良い天気ですね」

 

 「ああ」

 

 地下の暗さから出た後の空は、いつもより眩しい。

 この島は──こんな危険物の上に在って、こんなにも呑気に晴れている。

 

 

 ◇◆

 

 

 ───午後。

 

 点検報告書を纏め終え、那覇への定時通信も済ませた。

 残った業務は特に無い。特記事項なし。今日も穏やかな一日。

 

 執務室の窓から外を見ると、三日月が基地の裏手で何かをしている。

 近付いてみると、彼女は竿を二本手に持っていた。

 

 「司令官、久し振りに釣りをしませんか?」

 「......釣り?」

 「はい。前の竿、折れたままだったでしょう?新しいのを補給便で頼んでおいたんです」

 

 ああ──そう言えば。以前はたまに二人で糸を垂らす事もあったが、竿が折れてからはもう随分やっていない。半年、いや9か月近く経つのか。あの時は三日月がアカジンを引き上げた拍子に、安物の竿が真ん中から折れたのだった。

 

 「わざわざ発注したのか」

 「ふふ」

 

 笑って誤魔化された。発注リストには載っていなかった筈だ。つまり、そういう事だ。

 

 断る理由もない。天気は良い。風も凪いでいる。任務は終わった。

 何より──三日月がこういう事を提案する時は、大体、俺に何かを伝えたい時だ。直接言わずに、状況を作って、その中で自然に零す。彼女なりの距離の取り方だった。

 

 「......まあ、いいか。久し振りだな」

 「はい。前は秋口でしたから、季節が違うと釣れる魚も変わるかもしれませんね」

 「そういうの調べてあるんだろ」

 「本で読みました」

 

 また、それか。

 

 

 ◇◆

 

 

 基地の東側、断崖の下に降りた先にある小さな磯場。

 普段は哨戒で通り過ぎるだけの場所だが、足場になる平らな岩があり、竿を出すには悪くない。

 

 潮の匂いが濃い。岩肌にはフジツボや海藻がびっしりと張り付いていて、裸足では歩けない。二人とも長靴を履いて、慎重に岩場を渡る。

 

 竿はシンプルな投げ竿。前のよりしっかりした作りだ。仕掛けは三日月が結んだもので、以前より結び目が確かになっている。こういう所にも、年月が出る。

 

 「餌は?」

 「さっき基地の裏でミミズを掘ってきました」

 「うっ...」

 

 そう言ってトレーに蠢くそれを憚ることなく見せてくる。俺は一瞬たじろいだ。

 何れにしても三日月は普段から手際が良い。餌の確保から仕掛けの用意まで、頼んでもいないのに全部済ませていた。──つまり、今日の釣りは思い付きではない。前々から計画していて、天気と任務の具合を見計らっていたのだろう。

 ああ、彼女らしい。

 

 「司令官、今日は場所を変えましょうか。前は西側でしたけど、東の磯場の方が潮通しが良さそうです」

 「任せる」

 

 糸を垂らす。

 潮の流れは緩やかで、仕掛けは真っ直ぐ沈んでいく。水が澄んでいて、珊瑚の間を小魚が行き来しているのが見える。

 

 

 「......」

 

 「......」

 

 

 暫く、無言。

 

 竿先を見つめる。微かに揺れるラインの先に、適度に意識を集中する。

 

 何を考えるでもなく、ただぼんやりと、海を見ていた。

 

 波の音。潮の匂い。隣に座る三日月の静かな呼吸。

 太陽が少し傾いて、岩場に長い影が伸び始めている。

 

 ......ふと、海面に映る魚影を目で追った時、また指先が鈍い。

 竿を握る手に力が入り辛い。朝のあれと同じだ。一瞬だけ、指の先が自分のものでない様な──遠い、感覚。

 すぐに戻る。だが、その一瞬が、以前より長くなっている。

 

 ──気のせいだ。暑さの所為だ。

 

 「...静かですね」

 

 「だな」

 

 「はい」

 

 「時間の大盤振る舞いだよな...釣りって...」

 

 「ふふふ」

 

 

 

 ◇◆

 

 

 ─

 ──

 ───静かでした。

 

 竿を持つ司令官の横顔を、私はそっと見ていました。

 

 糸を垂らしたまま、何も言わない。何も考えていない様な、全てを考えている様な、そんな顔。

 普段の執務室では見せない顔。肩の力が抜けて、眉間の皺が消えて。

 

 

 ──でも、私には見えていた。

 

 朝食の時、箸が滑りかけた事。握り直す時に、ほんの一瞬だけ指先が白くなった事。

 今も、竿を持つ右手の薬指と小指が、微かに──本当に微かに、震えている事。

 司令官は気付いていない振りをしている。そして私も同様に。

 

 前回の間隔を計算する。

 まだ、大丈夫。まだ──大丈夫の筈。

 でも、間隔は少しずつ短くなっている。少しずつ。少しずつ。砂時計の砂が減るにつれ、残りの少なさばかりが目に付く様に。

 

 ......考えるのは、やめよう。

 

 嬉しいのか、悲しいのか、分からない感情が胸の奥で揺れる。

 こんな穏やかな時間を過ごしている事が──こんな何でもない午後が在る事が、私にはまだ信じられない時がある。

 

 ずっと独りで、海の上を歩いてきた。

 戦って、呑み込んで、浄化して、また戦って。

 其の繰り返しの中に、こんな時間は無かった。

 貴方が表れてから────

 

 

 竿先が揺れました。

 

 「お、来たぞ...」

 「......あ、私のもです」

 

 二人同時に竿先が撓む。

 司令官が慌てて竿を引く。私も合わせる。

 

 「おいおい、結構引くぞ」

 「わ、わわっ......!司令官、これ、大きいです......!」

 

 糸が走る。リールが悲鳴を上げる。

 岩場に座ったまま、二人で竿を支え、糸を巻き取る。

 

 上がってきたのは──私の方が先でした。

 

 「グルクンです!綺麗......!」

 

 タカサゴ。青と黄色の鮮やかな魚体が、陽光を受けて煌めいていました。

 手の中でぴちぴちと跳ねる命。冷たい、海の温度。

 

 ──ああ。

 生きている。此の魚は、今、私の手の中で生きている。

 

 そして、司令官の方も。

 

 「......シロダイか。悪くないな」

 

 白い魚体を持ち上げて、司令官は少しだけ──本当に少しだけ、笑いました。

 その笑顔を、私は見逃しませんでした。

 

 「うふふ、司令官、笑ってます」

 

 「......笑ってない」

 「ええ? 笑ってますよ?」

 「......うるさいな」

 

 ふふっ。

 

 二匹の魚と、二本の竿と、二人分の影が、午後の岩場に並んでいました。

 

 

 「今夜の献立、決まりましたね」

 「...早速捌くのか」

 「勿論です。お刺身と、塩焼きと......あ、アラで味噌汁も作れますね」

 「豪勢だな」

 「気合が入ります!」

 

 

 竿を畳みながら、ふと、思う。

 

 こういう日が在ると言うことを。

 任務でも義務でもない、ただの午後が在ると言うことを。

 この人の隣で、魚を釣って、笑って、夕飯の話をしている、この一時が在ると言うことを。

 

 ──ああ、これが、日常と言うものなのですね。

 

 戦うことは知っていた。妖精を浄化することも知っていた。人を怯えさせることも、遠ざけることも。

 でも、誰かと並んで糸を垂らして、何も起きない時間を過ごすことは──知らなかった。

 

 司令官が教えてくれたのです。

 何もしない事の、豊かさを。

 何も起きない事の、贅沢さを。

 

 だから。

 この一日が──この凪いだ一日が、私にとっては、何よりも大切なのです。

 

 

 ◇◆

 

 

 ───夕刻。

 

 基地に戻り、いつも通り三日月が食堂の台所に立った。

 

 釣った魚を捌く手際は慣れたものだ。出刃包丁を鱗に当て、尾から頭に向かって引く。銀色の鱗が飛散し、流しの底で光る。

 

 俺は食堂の定位置に座り、その背中を見ている。

 いつもの風景。いつもの後ろ姿。

 

 だが今日は──少しだけ、違う。

 

 あの磯場で、三日月は笑っていた。

 魚が釣れた時の、あの顔。グルクンを持ち上げて、「綺麗」と言った時の、あの顔。

 あれは──戦場の三日月でも、浄化の三日月でも、俺に甘える三日月でもなかった。

 ただ、嬉しかっただけの、少女の顔。

 

 ......ああ、彼女にも、こういう表情がある。

 

 その事実が、不思議と──温かかった。

 

 

 「司令官、お刺身の盛り付け、どうしましょう」

 「適当でいいよ」

 「適当は嫌です。ちゃんとしたいんです」

 「......じゃあ、大根の剣があると良いな。薬味は山葵より辛子が好みだ」

 「承知しました!」

 

 何気なく交わされるやり取り。

 

 日常とは、そういうものなのだろう。

 終わりが在る事を知っていて、それでも明日の献立を考える。

 有限を知った上で、それでも続くと信じる。信じようとする。

 

 「できました!」

 

 三日月が皿を運んでくる。

 グルクンの刺身、シロダイの塩焼き、アラの味噌汁。

 彩りは素朴だが、磯の香りが食堂に広がる。

 

 「おお......」

 「ふふ、自信作です」

 「毎回自信作だよな」

 「毎回全力ですから」

 

 ......このやり取りも、何回目だろうか。

 

 「いただきます」

 「はい、召し上がれ」

 

 刺身を一切れ、口に運ぶ。

 ──旨い。海の味がする。数時間前まで泳いでいた命の味。

 味噌汁を啜る。アラの出汁が効いて、いつもより力強い。

 

 味が、分かる。

 ──まだ、大丈夫だ。

 

 二切れ目。三切れ目。

 咀嚼する。嚥下する。胃に落ちていく。

 ......だが。四切れ目を口に入れた時、微かな違和感が舌の奥を過ぎった。

 薄い。ほんの僅かに──朝より、味が薄い。

 魚の脂の甘味が、舌の表面で弾かれる。届かない。奥まで沁みてこない。

 

 ......気のせいだ。疲れている。日中、地下に潜って、磯場を歩き回ったのだから。

 

 「......旨いよ」

 「はいっ」

 

 三日月の笑顔を見る。

 ──今日の三日月は、本当によく笑った。朝の台所で。磯場で。そして今、この食卓で。

 

 向かい合って食べる。

 窓の外は暮れなずむ空。橙色の夕焼けが海に沈んでいく。

 

 三日月が不意に箸を止めた。

 一瞬だけ──本当に一瞬だけ、彼女の視線が俺の喉元に落ちた。

 嚥下する動きを、追っていた。

 

 その視線に気付いた時、俺は既に五切れ目を呑み込んでいた。

 

 三日月は何も言わなかった。

 ただ笑顔に戻って、自分の味噌汁に口を付けた。

 

 ──その無言の所作が、何よりも雄弁だった。

 彼女は測っている。いつも。ずっと。此の食卓で、俺の身体の残り時間を。

 そして恐らく──次に何を差し出すべきか、既に覚悟している。

 

 

 凪の一日が、終わろうとしている。

 

 何も起きなかった。特記事項なし。

 朝が来て、飯を食い、地下に潜り、海で釣りをして、また飯を食う。

 ただそれだけの一日。

 

 ──だが。

 この"それだけ"が、何よりも難しくて、何よりも得難いのだと、俺達は知っている。

 

 明日もまた、同じ朝が来る。

 三日月が起こしに来て、味噌汁を作って、俺が煙草を吸って。

 

 繰り返される日常。繰り返される凪。

 その凪の下に、どれだけの深淵が沈んでいるか──それは、二人だけが知っている。

 

 三日月が食器を下げに立った。

 その後ろ姿を見ながら、俺はポケットの煙草の箱に手を伸ばし──止めた。

 

 今夜は、もう少しだけ、この味噌汁の余韻の中に居たかった。

 

 

『三日月と司令官⑤』

 

 

 

 

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