朝凪の、穏やかな海だった。
波一つ無い水面が鏡の様に空を映し、何処までが海で何処からが空なのか、判然としない。
水平線が溶けている。世界の境界が曖昧になる、この島特有の朝。
そんな静謐の中に、少女の声だけが確かに在る。
コンコンコン。
「司令官、おはようございます。マルロクサンマル、少し寝坊気味ですよ?」
微睡みのさ中、慣れ親しんだ声が聞こえて、意識が覚醒する。
...朝。
天井の染みが、ぼんやりと見える。最近は目が覚めるまでに少し時間がかかる様になった。以前より身体が重い。それが何を意味するかについては──考えないようにしている。
「ん......おう」
「今日は良いお天気ですよ。風もなくて、凪いでいます」
扉の向こうから声が届く。三日月はいつも、俺が返事をするまでは部屋に入って来ない。ノックの音と声で起こして、俺の覚醒を待つ。その律儀さが、毎朝、少しだけ申し訳なくなる。
身体を起こす。関節が軋む。痛みはないが、可動域が狭まっているのを感じる。
「入っていいぞ」
「失礼します」
扉を開けて入ってくる三日月。いつもの暗色のセーラー服。きっちりと結ばれたスカーフ。長い黒髪を後ろで一つに纏めている。巡回がある日は、いつもこうだ。
何百回と見た筈の姿なのに、今朝はふと、うなじに目が留まった。
纏めた髪の下、白いうなじに薄い痕が覗いている。
「......今日も、それ、似合ってるよ」
「ふふ、ありがとうございます」
少しだけ、彼女の口元が綻んだ。
言った拍子にその長いポニーテールが尻尾のように跳ねる。
こちらの言い方が不器用だった事を、笑われたらしい。
◇◆
朝食は、いつも通り食堂で。
窓辺の定位置。向かい合って座る。今朝の献立は白飯、わかめの味噌汁、目刺し、漬物、冷奴。質素だが、整っている。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
目刺しに箸を伸ばす。
──一瞬、指先が痺れた様な感覚があった。箸が滑りかけて、咄嗟に握り直す。
...塩気が舌に広がる。焼き加減が絶妙で、身が程よく締まっている。味噌汁は昨日より出汁が効いている。鰹を多めに使ったのだろうか。
「味噌汁の出汁を変えたか?」
「ふふ、ご慧眼ですね。鰹に枯れ鯖を足したんです」
「枯れ鯖?」
「ええ。前の補給便で入っていた鯖節です。本で読んだのですけれど、鰹節と合わせると奥行きが出るそうで」
「成程......確かに、深みがある。これは良い」
「えへへ」
...三日月の料理がこんなに上手くなったのはいつからだったか。
着任した頃は、白米すら焦がしていた。味噌汁の味噌を入れるタイミングが分からなくて、沸騰した出汁に味噌を放り込んで、風味を全部殺していた。「本で読みました」が口癖だったが、本と実践の間には随分と距離があった記憶がある。
それが二十年。
今ではすっかり台所に立つ姿が板に付いている。
この二十年で三日月が積み上げてきたもの。料理、洗濯、掃除、事務補佐、哨戒、浄化。全てが此の島の日常の為に。全てが俺と二人で過ごす為に。
その事実は──重い。いつもの様に。
「司令官? お箸が止まっていますよ?」
「......いや。考え事してた」
「朝から考え事は良くないですよ。味噌汁が冷めちゃいます」
「そうだな」
味噌汁を啜る。温かい。
──まだ、味が分かる。まだ、大丈夫だ。
ふと、向かいに座る三日月が、湯呑みを持つ俺の手を見ていることに気付く。
あいつは、常にああやって俺の指先を見ている。箸の運び、味噌汁を啜る速度、食べ物を噛む回数。全部、見ている。彼女が何を測っているのか──俺は知っている。彼女もまた俺に見られている事を承知している。互いに知っていて、互いに言及する事はない。
ラジオからは、那覇局の定時報告。南大東島、晴れ。最高気温32度。波の高さ0.5メートル。台湾海峡方面、海上警報継続中。特記事項なし。
特記事項なし。
この一言が、この島の一日を決める。今日も穏やかな一日になる。
◇◆
───食後、執務室にて。
午前の定型業務を片付ける。那覇への定期報告。補給物資の消費記録。海堡の稼働状況──変化なし。基地設備点検表──異常なし。
書類に判を押す度に、同じ虚しさが指先に残る。
だが今日は、もう一つ仕事がある。
月次の燃料備蓄点検だ。
通常は三日月が目視確認を行い、俺が記録を付ける分業だが、月に一度の本点検は二人で地下に降りる。地下貯蔵タンクの計器確認、配管の漏洩検査、通気口の状態確認。加えて、海堡群の接岸設備の遠隔モニタリング。
面倒ではあるが、これだけは手を抜く訳にはいかない。
足元に数千リットルの重油とガソリンが眠っている。引火点を超えれば、この島ごと大本営まで吹き飛ぶことだろう。
本来、地下の密閉区画に入る際は地上に監視員を置くべきだが、この島にそんな人員はいない。二人で降りて、二人で上がる。それだけの事だ。──何かあれば、二人とも終わる。其れも、また。
「三日月、準備は」
「はい。点検用具一式、揃えてあります」
三日月が執務室の隅に準備した点検キットを確認する。
懐中電灯。記録用の防爆バインダー。温度計。湿度計。ガス検知器。防静電手袋。
「よし、行くか」
◇◆
A棟の裏手にある施錠された鉄扉。
此処が、地下貯蔵区画への入口だ。
重い金属音と共に扉が開くと、コンクリートの狭い階段が地下へと続いている。壁面は珊瑚石灰岩の切り出しがそのまま露出しており、湿気を帯びた独特の匂いが鼻を突く。石灰と鉄錆と、微かに──石油の匂い。
「換気確認」
「通気口、開放確認しました。酸素濃度......十分です」
三日月がガス検知器の数値を読み上げる。此処での第一手順は必ず換気の確認だ。密閉された地下空間に可燃性ガスが滞留していれば、階段を降りた瞬間に意識を失う。
階段を降りきると、通路は二手に分かれる。左が第一類貯蔵区画──ガソリン。右が第三類貯蔵区画──重油。
「先にガソリン側から行こう。いつも通りにな」
「はい」
第一類貯蔵区画。
厚さ30センチのコンクリート隔壁で囲まれた空間に、縦型の地下タンクが二基。容量は各一万リットル。タンクの表面は防錆塗装が施されているが、所々に経年の浮き錆が見える。
計器盤に近付く。液量計。温度計。圧力計。三連のアナログメーターが、薄暗い中で微かに光っている。
「液量、第一タンク......4,200リットル。第二タンク、3,800リットル」
三日月が読み上げ、俺が記録する。先月比で微減。蒸発損を差し引いても計算は合う。漏洩の兆候なし。
「タンク表面温度」
「第一、24.3度。第二、24.1度」
外気温より低い。地下だから当然だが、この温度が跳ね上がっていたら、それは何かが起きている証拠だ。ガソリンの引火点はマイナス40度。気化したガソリン蒸気に火花一つで──考えたくもない。
「配管接合部の目視確認」
三日月が懐中電灯を片手に、タンクの裏側に回る。彼女は身体が小さいから、俺では入れない隙間にも潜り込める。
「接合部、異常なし。締め付けトルク──手触りで確認しましたが、緩みはありません」
「パッキンの状態は」
「劣化は......少し。前回の報告書にも記載しましたが、第一タンクのドレン弁周りが変色しています。交換時期かと」
「了解。補給便で部品を発注しておく」
記録する。こういう地味な劣化が、積み重なると致命傷になる。余程の事が無い限り、この島には修理の専門業者など来ない。全て自分達で判断し、管理しなければならない。そしてその知識や技術、資格もまた、否応なしに取得した。
重油側の第三類貯蔵区画も同様に点検する。こちらはタンクが三基。容量は各二万リットル。重油はガソリンほど神経質にならなくて済むが、それでも漏洩すれば環境への被害は甚大だ。珊瑚礁の島だ。海に流れ出せば、取り返しがつかない。
「液量、第一タンク......18,500リットル。第二、19,200。第三、17,800」
「先月比で第三が200リットル減か。蒸発損にしては多いな」
「計器の誤差範囲内ではありますが......」
「念の為、来月も注視しよう。記録に付けておく」
三日月が頷く。この作業を二人でやるのは、ダブルチェックの意味もある。片方が見落としても、もう片方が拾う。
最後に、通気口のフィルター状態を確認し、鉄扉を施錠して、地上に戻る。
階段を上がりきった時、外の空気が肺に入った。潮の匂い。陽の匂い。生きている世界の匂い。
地下に居る間は気付かなかったが、あの空間にはやはり独特の圧迫感がある。数千リットルの可燃物と石灰岩の壁に囲まれた、静かな緊張。
「お疲れ様でした、司令官」
「ああ。お疲れ」
三日月が防静電手袋を外しながら、ふと空を見上げた。
抜ける様な蒼穹。雲一つ無い。
「......良い天気ですね」
「ああ」
地下の暗さから出た後の空は、いつもより眩しい。
この島は──こんな危険物の上に在って、こんなにも呑気に晴れている。
◇◆
───午後。
点検報告書を纏め終え、那覇への定時通信も済ませた。
残った業務は特に無い。特記事項なし。今日も穏やかな一日。
執務室の窓から外を見ると、三日月が基地の裏手で何かをしている。
近付いてみると、彼女は竿を二本手に持っていた。
「司令官、久し振りに釣りをしませんか?」
「......釣り?」
「はい。前の竿、折れたままだったでしょう?新しいのを補給便で頼んでおいたんです」
ああ──そう言えば。以前はたまに二人で糸を垂らす事もあったが、竿が折れてからはもう随分やっていない。半年、いや9か月近く経つのか。あの時は三日月がアカジンを引き上げた拍子に、安物の竿が真ん中から折れたのだった。
「わざわざ発注したのか」
「ふふ」
笑って誤魔化された。発注リストには載っていなかった筈だ。つまり、そういう事だ。
断る理由もない。天気は良い。風も凪いでいる。任務は終わった。
何より──三日月がこういう事を提案する時は、大体、俺に何かを伝えたい時だ。直接言わずに、状況を作って、その中で自然に零す。彼女なりの距離の取り方だった。
「......まあ、いいか。久し振りだな」
「はい。前は秋口でしたから、季節が違うと釣れる魚も変わるかもしれませんね」
「そういうの調べてあるんだろ」
「本で読みました」
また、それか。
◇◆
基地の東側、断崖の下に降りた先にある小さな磯場。
普段は哨戒で通り過ぎるだけの場所だが、足場になる平らな岩があり、竿を出すには悪くない。
潮の匂いが濃い。岩肌にはフジツボや海藻がびっしりと張り付いていて、裸足では歩けない。二人とも長靴を履いて、慎重に岩場を渡る。
竿はシンプルな投げ竿。前のよりしっかりした作りだ。仕掛けは三日月が結んだもので、以前より結び目が確かになっている。こういう所にも、年月が出る。
「餌は?」
「さっき基地の裏でミミズを掘ってきました」
「うっ...」
そう言ってトレーに蠢くそれを憚ることなく見せてくる。俺は一瞬たじろいだ。
何れにしても三日月は普段から手際が良い。餌の確保から仕掛けの用意まで、頼んでもいないのに全部済ませていた。──つまり、今日の釣りは思い付きではない。前々から計画していて、天気と任務の具合を見計らっていたのだろう。
ああ、彼女らしい。
「司令官、今日は場所を変えましょうか。前は西側でしたけど、東の磯場の方が潮通しが良さそうです」
「任せる」
糸を垂らす。
潮の流れは緩やかで、仕掛けは真っ直ぐ沈んでいく。水が澄んでいて、珊瑚の間を小魚が行き来しているのが見える。
「......」
「......」
暫く、無言。
竿先を見つめる。微かに揺れるラインの先に、適度に意識を集中する。
何を考えるでもなく、ただぼんやりと、海を見ていた。
波の音。潮の匂い。隣に座る三日月の静かな呼吸。
太陽が少し傾いて、岩場に長い影が伸び始めている。
......ふと、海面に映る魚影を目で追った時、また指先が鈍い。
竿を握る手に力が入り辛い。朝のあれと同じだ。一瞬だけ、指の先が自分のものでない様な──遠い、感覚。
すぐに戻る。だが、その一瞬が、以前より長くなっている。
──気のせいだ。暑さの所為だ。
「...静かですね」
「だな」
「はい」
「時間の大盤振る舞いだよな...釣りって...」
「ふふふ」
◇◆
─
──
───静かでした。
竿を持つ司令官の横顔を、私はそっと見ていました。
糸を垂らしたまま、何も言わない。何も考えていない様な、全てを考えている様な、そんな顔。
普段の執務室では見せない顔。肩の力が抜けて、眉間の皺が消えて。
──でも、私には見えていた。
朝食の時、箸が滑りかけた事。握り直す時に、ほんの一瞬だけ指先が白くなった事。
今も、竿を持つ右手の薬指と小指が、微かに──本当に微かに、震えている事。
司令官は気付いていない振りをしている。そして私も同様に。
前回の間隔を計算する。
まだ、大丈夫。まだ──大丈夫の筈。
でも、間隔は少しずつ短くなっている。少しずつ。少しずつ。砂時計の砂が減るにつれ、残りの少なさばかりが目に付く様に。
......考えるのは、やめよう。
嬉しいのか、悲しいのか、分からない感情が胸の奥で揺れる。
こんな穏やかな時間を過ごしている事が──こんな何でもない午後が在る事が、私にはまだ信じられない時がある。
ずっと独りで、海の上を歩いてきた。
戦って、呑み込んで、浄化して、また戦って。
其の繰り返しの中に、こんな時間は無かった。
貴方が表れてから────
竿先が揺れました。
「お、来たぞ...」
「......あ、私のもです」
二人同時に竿先が撓む。
司令官が慌てて竿を引く。私も合わせる。
「おいおい、結構引くぞ」
「わ、わわっ......!司令官、これ、大きいです......!」
糸が走る。リールが悲鳴を上げる。
岩場に座ったまま、二人で竿を支え、糸を巻き取る。
上がってきたのは──私の方が先でした。
「グルクンです!綺麗......!」
タカサゴ。青と黄色の鮮やかな魚体が、陽光を受けて煌めいていました。
手の中でぴちぴちと跳ねる命。冷たい、海の温度。
──ああ。
生きている。此の魚は、今、私の手の中で生きている。
そして、司令官の方も。
「......シロダイか。悪くないな」
白い魚体を持ち上げて、司令官は少しだけ──本当に少しだけ、笑いました。
その笑顔を、私は見逃しませんでした。
「うふふ、司令官、笑ってます」
「......笑ってない」
「ええ? 笑ってますよ?」
「......うるさいな」
ふふっ。
二匹の魚と、二本の竿と、二人分の影が、午後の岩場に並んでいました。
「今夜の献立、決まりましたね」
「...早速捌くのか」
「勿論です。お刺身と、塩焼きと......あ、アラで味噌汁も作れますね」
「豪勢だな」
「気合が入ります!」
竿を畳みながら、ふと、思う。
こういう日が在ると言うことを。
任務でも義務でもない、ただの午後が在ると言うことを。
この人の隣で、魚を釣って、笑って、夕飯の話をしている、この一時が在ると言うことを。
──ああ、これが、日常と言うものなのですね。
戦うことは知っていた。妖精を浄化することも知っていた。人を怯えさせることも、遠ざけることも。
でも、誰かと並んで糸を垂らして、何も起きない時間を過ごすことは──知らなかった。
司令官が教えてくれたのです。
何もしない事の、豊かさを。
何も起きない事の、贅沢さを。
だから。
この一日が──この凪いだ一日が、私にとっては、何よりも大切なのです。
◇◆
───夕刻。
基地に戻り、いつも通り三日月が食堂の台所に立った。
釣った魚を捌く手際は慣れたものだ。出刃包丁を鱗に当て、尾から頭に向かって引く。銀色の鱗が飛散し、流しの底で光る。
俺は食堂の定位置に座り、その背中を見ている。
いつもの風景。いつもの後ろ姿。
だが今日は──少しだけ、違う。
あの磯場で、三日月は笑っていた。
魚が釣れた時の、あの顔。グルクンを持ち上げて、「綺麗」と言った時の、あの顔。
あれは──戦場の三日月でも、浄化の三日月でも、俺に甘える三日月でもなかった。
ただ、嬉しかっただけの、少女の顔。
......ああ、彼女にも、こういう表情がある。
その事実が、不思議と──温かかった。
「司令官、お刺身の盛り付け、どうしましょう」
「適当でいいよ」
「適当は嫌です。ちゃんとしたいんです」
「......じゃあ、大根の剣があると良いな。薬味は山葵より辛子が好みだ」
「承知しました!」
何気なく交わされるやり取り。
日常とは、そういうものなのだろう。
終わりが在る事を知っていて、それでも明日の献立を考える。
有限を知った上で、それでも続くと信じる。信じようとする。
「できました!」
三日月が皿を運んでくる。
グルクンの刺身、シロダイの塩焼き、アラの味噌汁。
彩りは素朴だが、磯の香りが食堂に広がる。
「おお......」
「ふふ、自信作です」
「毎回自信作だよな」
「毎回全力ですから」
......このやり取りも、何回目だろうか。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
刺身を一切れ、口に運ぶ。
──旨い。海の味がする。数時間前まで泳いでいた命の味。
味噌汁を啜る。アラの出汁が効いて、いつもより力強い。
味が、分かる。
──まだ、大丈夫だ。
二切れ目。三切れ目。
咀嚼する。嚥下する。胃に落ちていく。
......だが。四切れ目を口に入れた時、微かな違和感が舌の奥を過ぎった。
薄い。ほんの僅かに──朝より、味が薄い。
魚の脂の甘味が、舌の表面で弾かれる。届かない。奥まで沁みてこない。
......気のせいだ。疲れている。日中、地下に潜って、磯場を歩き回ったのだから。
「......旨いよ」
「はいっ」
三日月の笑顔を見る。
──今日の三日月は、本当によく笑った。朝の台所で。磯場で。そして今、この食卓で。
向かい合って食べる。
窓の外は暮れなずむ空。橙色の夕焼けが海に沈んでいく。
三日月が不意に箸を止めた。
一瞬だけ──本当に一瞬だけ、彼女の視線が俺の喉元に落ちた。
嚥下する動きを、追っていた。
その視線に気付いた時、俺は既に五切れ目を呑み込んでいた。
三日月は何も言わなかった。
ただ笑顔に戻って、自分の味噌汁に口を付けた。
──その無言の所作が、何よりも雄弁だった。
彼女は測っている。いつも。ずっと。此の食卓で、俺の身体の残り時間を。
そして恐らく──次に何を差し出すべきか、既に覚悟している。
凪の一日が、終わろうとしている。
何も起きなかった。特記事項なし。
朝が来て、飯を食い、地下に潜り、海で釣りをして、また飯を食う。
ただそれだけの一日。
──だが。
この"それだけ"が、何よりも難しくて、何よりも得難いのだと、俺達は知っている。
明日もまた、同じ朝が来る。
三日月が起こしに来て、味噌汁を作って、俺が煙草を吸って。
繰り返される日常。繰り返される凪。
その凪の下に、どれだけの深淵が沈んでいるか──それは、二人だけが知っている。
三日月が食器を下げに立った。
その後ろ姿を見ながら、俺はポケットの煙草の箱に手を伸ばし──止めた。
今夜は、もう少しだけ、この味噌汁の余韻の中に居たかった。
『三日月と司令官⑤』