※この作品はR-18です。

夕暮れ時の世界にて   作:H117147

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妖精の園

 

 

 

 

 ──誤解を恐れず言うならば。

 世界の仕組みを知っていた。

 自身が異質な者である事を理解していた。

 現実と虚構の谷間に、迷い混んでしまっていた。

 

 

1

 

 暮れ泥む。

 

 薄紅色の夕焼けが空を染め、太陽が地平線に沈む寸前、世界は柔らかい光の中で息を潜めている。窓の外には果無の雲海が広がり、空の深い蒼が次第に夜の闇に溶け込もうとしている。

 

 三万フィートの上空。

 機内は静かだった。

 

 エンジンの甲高い唸りと、時折響く機体の軋み。それ以外の音は殆ど無い。ビジネス路線である為か、乗客の多くは眠っているか、各々の端末に向かって仕事をしている。

 雑音程度には響くエアコンの通気口から再循環される乾いた空気と体温で温まったレザーシートが些か不快感を催す。

 ふと視線を下に落とすと、窓から射す西日が膝の上で橙色の長方形を作っていた。

 

 ごく普通の、何の変哲も無い光景。

 

 長時間のフライトと出張明けの疲れにより、意識はゆっくりと沈む。

 微睡みに心身を寄せ、思考が徐々に重くなり、曖昧になっていく。

 

 改めて窓の外の雲海を眺めながら、目を閉じようとし──

 

 

 ──唐突に、空間を震わせる程の爆発音が機内を突き抜け、強制的に意識を叩き起こされる。

 そして同時に致命的な予感が脳裏を過る。

 

 ただ、確認の意味で窓を横目にすると、ジェットエンジンが炎を噴き、翼は折れ、機体が垂直に向こうとしていた。

 

 

2

 

 重力が狂い、身体が浮く。

 シートベルトが身体を締め付け、内臓が圧迫される。

 固定されていない荷物が宙を舞う。

 

 空が、海が、雲が、ぐるぐると回転する。

 上下の感覚が失われる。

 耳が痛い。呼吸が苦しい。

 世界が混沌に呑まれていく。

 

 客室乗務員の声が、歪んで聞こえる。

 酸素マスクが落ちてくる。

 だが、手を伸ばす余裕などある筈も無く。

 

 悲鳴と嗚咽と絶叫が木霊する。

 正に阿鼻叫喚たる様相。

 

 誰かが泣いている。

 誰かが祈っている。

 誰かが愛する人の名を叫んでいる。

 

 「神様、助けて!」

 

 「死にたくない!」

 

 声が、声が、声が重なり合って、まるで断末魔の合唱の様だ。

 ──その中で、俺だけが叫んでいない事に気付いた。叫ぶ相手が、居なかった。

 

 また強烈な衝撃。

 機体が大きく揺れ、天井のパネルが剥がれ落ちる。

 火花が散り、煙が充満し始める。

 

 酸素が薄い。

 息苦しい。

 視界が霞み、意識が遠のく。

 

 

 ──ああ、これが死か。

 

 不思議と、恐怖よりも、諦めが勝っていた。

 いや、諦めですらないのかもしれない。元々、この命に対して執着が無かった。失くすものが無い人間は、失う恐怖も薄い。ただ、こうして終わるのかという、妙に冷めた感慨だけがあった。

 

 而してあちこちで炎が誘発しているのかなど、嫌に呑気に構えていた刹那、

 命が尽きるその寸前に、──窓の外に何か悍ましいモノを見た。

 

 

 暗い海に一つ浮かぶのは、有る筈の無い人影。

 不気味と恐怖を象った様な異形が、手を、そこに付いた砲塔の様なものを、此方に向けている。

 

 それが何なのか、理解できなかった。

 ただそれは、人の形をしているのに、人ではなく。

 

 どのようにしてか海面に立つそれは、磁器の様に白く冷たい肌で、瞳は月光の様に鈍く光っていた。

 虚ろで、空洞で、何も映してなどいない。まるで深淵がこちらを覗き込んでいるような──、だが、確かに俺を見ていた。

 

 いや、この飛行機を、見ていたのだ。

 そして、砲塔を向けている。

 

 

 ──不意に、ケタケタ、ケタケタと笑い声が聴こえた気がした。

 

 

 それは機械的で、感情の無い、ただ音を発しているだけの様な笑い声。

 人の声を模倣しているが、人ではない何かの声。

 

 それが聴覚によるものなのか、脳が生み出した幻聴なのか、判別する余裕はなかった。

 

 ただ、確かに"見られていた"。

 

 俺達は、撃墜されたのだ。あの化け物に。

 あの異形に、狙われたのだと理解した。

 

 

 やがて、機体が分解し始めた。

 金属が引き裂かれる音。

 風が、轟音が、全てを呑み込んでゆく。

 

 隣の席の男が、窓の外に吸い出されていく。

 悲鳴すら上げる間も無く、消えた。

 ──さっきまでノートパソコンで作業をしていた男が、まるで最初から居なかったかの様に。

 

 

 視界が暗転する。

 意識が、途切れかかる。

 

 

 最後に思ったのは、意外にも、母親の事だった。

 

 意味などない。きっと過去の印象的且つ俺を縛る記憶がただ呼び起されただけだ。

 しようがない、本当に。自嘲気味なせせれ笑いが漏れ、

 

 ──そして、全てが、闇に堕ちた。

 

 

 

3

 

 ──意識が、戻る。

 

 やがて取り戻した明滅する意識の中、何時しか打ち上がっていた海岸にて見た、夕暮れ時の世界にて。

 

 幸か不幸か即死は免れたらしい。

 

 五感を澄ますと、橙色の光が水面に反射し、一定のリズムで寄せては返す波音が、あぁまるでまるで子守唄の様に、優しく、静かで、妙に心地よく響く。

 

 空気は生暖かく、潮の香りが鼻を擽る。

 海鳥の鳴き声が、遠くから聞こえる。

 

 

 ──砂浜には、自分の身体が無造作に横たわっていた。

 

 尤も、身体は一切動かせず、呼吸も浅い。脳だけは妙に覚醒しているが、だからこそ理解出来たのは、助かることは無いであろうただそれだけ。

 腹は抉れ、足はひん曲がり、自分の居る砂浜一帯はドス黒く染まっている。

 

 

 ああ、これは俺の血か。

 

 随分と、沢山流れたものだ。

 よくまだ生きているな。

 

 

 痛みはもう無かった。

 それが何を意味するのか分かっていた。

 

 神経が死んでいるのだ。

 身体が、もう終わりだと悟っているのだ。

 

 状況を俯瞰的に見て、何故生きているのか分からないと言う姿がそこにあった。

 砂に頬を付けたまま、横目に見える水平線が、やけに美しかった。死ぬ時に見る景色がこんなに綺麗だとは思わなかった。

 自然的で、原初的で、まるで絵画の中に在る様な──そんな事を思った。

 

 あの街の、モノクロの世界に比して、此処は鮮やかで、まるで普遍的な天国の様だと──。

 

 

4

 

 自身が厭世的であることは理解していたし、何の解決にもならないことも、前進も無い事を分かっていながら、それでも人生に嫌気が差していた。

 

 生まれてこの方、苦痛が人生の大半を占めていた。

 

 狭いアパートの一室。

 薄汚れた壁紙。割れた窓ガラス。

 酒瓶が転がり、煙草の吸い殻が床に散らばっている。

 カビの臭いと、酒の臭いと、煙草の臭いが混ざり合って。

 

 あの部屋の匂いは、今でも覚えている。身体の奥に染み込んで、どれだけ年月が経っても消えない匂い。

 今でも蘇る、空気そのものが腐った匂い。

 

 ──小さな頃の記憶とは、断片的で、曖昧で、しかしとても鮮烈だ。

 

 愛人を連れ込み色欲に爛れた母の姿と、憂さ晴らしで毎回俺に暴力を振るう男。

 痛みと嗚咽だけの記憶。

 

 堅気ではなかったその男共々、やれ薬物使用だ美人局だ脅迫だ等、犯罪行為が露呈した事によりあっさりと警察に捕まり、俺は保護施設に半ば強制的に入居させられた。が、そこでも境遇から苛めを受けた。

 

 「お前の母ちゃん、犯罪者なんだろ」

 「可哀想に」

 「近寄らない方がいいよ!」

 

 子供は残酷だ。

 悪意が無く、自制もない。

 

 周りの同情や腫物を触る様な目にも無性に腹が立った。それで自分の立場が変わるわけでも、幸福な家庭の子供に生まれ変われる訳でもない。ただ話の種になるだけだ。

 

 だから、人との関わりを極力避けた。

 

 表面上の付き合いだけを繰り返し、誰も俺の内側には踏み込まなかった。

 俺も、誰の内側にも踏み込まなかった。

 

 幼い頃に受けた仕打ちは、自身の人間性に深く傷を残した。

 それでも漠然と生きたのは、死ぬのも怖い。ただ臆病なだけだったからだ。

 

 酒と煙草に溺れ、無為に働き、それ以外は何もしない日々。

 

 何の為に生きているのか。

 その問いに、答えは無かった。

 

 或いは、いつか楽しいと思える日が来る事を期待していたのかもしれない。

 

 ──自分からは、何も良くなるように行動も出来ないのに。

 

 

 

5

 

 

 だから、この結末も、ある意味では相応しいのだろう。

 

 何も為さず、何も遺さず、誰にも惜しまれず。

 ただ消えていく。

 

 それが、俺に相応しい最期だ。

 

 

 満身創痍の中。無駄に思考だけが巡る。

 それにしても結局は終わり。

 もう死ぬのだと平静を取り戻した矢先。

 

 

 無虞に彼女は現れ、そんな俺に手を差し伸べた。

 

 

 足音が近付いてくる。

 砂を踏む、柔らかな音。

 

 しゃり、しゃり、しゃり

 

 規則正しい音、人の走る音。

 ──素足が砂を踏む音。軽い。小さい。子供か、それに近い体格の。

 

 そして、気配。

 誰かが、傍に立っている。

 

 視界の端に、影が映る。

 

 幻覚だろうか。

 死の間際に脳が見せる、最後の夢だろうか。

 

 だが、声が聞こえた。

 

 

 「──ああ!大丈夫ですか!」

 

 

 少女の声が、静かに響く。

 冷涼で、透明で、それでいて何処か寂しげな声。

 

 幻聴ではない、現実の声だった。

 

 

 「──ッ」

 

 俺は、必死に目を開こうとした。

 重い瞼を、何とか持ち上げる。

 

 そして、見た。

 

 夕焼けの光を背に立つその姿は、余りにも非現実的で、美しかった。

 

 暗色のセーラー服を纏った少女。

 中学生くらいだろうか。

 腰まで届く黒髪が、海風に揺れている。

 白い肌が、夕日を反射して淡く光っている。

 

 逆光で顔は見えない。

 だが、そのシルエットだけで、美しいと分かる。

 

 まるで、絵画の中から出てきたような。

 まるで、夢の中の存在のような。

 

 

 そして、その瞳。

 少女がこちらを向き、顔が見えた瞬間、息を呑んだ。

 

 紅い。

 深く、深く、紅い。

 夕映えに染まる水面反射の如く鮮明で複雑で眩暈を覚える色。

 ルビーの様に、血の様に、紅く輝いている。

 

 

 不意に、吸い込まれそうになる。

 引きずり込まれそうになる。

 

 その瞳の奥に、何か得体の知れないものが蠢いている気がした。

 深淵が、俺を見詰めている。

 

 これはまるであの時の──

 

 だが、不思議と恐怖は無かった。

 むしろ、安らぎに似た感覚。

 

 この瞳に呑まれてしまえば、楽になれるかもしれない。

 

 そんな、諦めにも似た安堵。

 

 

 「助けます。今、すぐに」

 

 長く艶やかな髪を靡かせ、天使の如き美麗な容姿に赫々の瞳を覗かせ、俺を動揺させないようにか、温かく、そして冷静に彼女は言う。

 傍に来るや反転し、氷の様な冷気を感じ取りながら、

 

 「痛いかもしれません。我慢してくださいね」

 

 「うッ...!」

 

 信じられない程軽々と、俺の身体を抱き上げる。

 まるで、子供を抱くかの様に。

 

 この華奢な少女が、成人男性を持ち上げている。

 それだけで、ああやはり彼女は普通の人間ではないのだと、理解した。

 ──だが、不思議と、それが怖くなかった。むしろ、人間でない事が、安心だった。人間に助けられるよりも、ずっと。人間は俺を助けた事がない。人間でないものが、初めて俺に手を差し伸べた。

 

 

 「走ります!」

 

 そしてやにわに衝撃を被り、彼女は弾ける様に駆け出していた。

 

 ──速い、人間の走る速度ではない。

 砂浜だというのに、滑る様に疾走している。

 

 風が頬を撫で、夕焼けの空が流れていく。

 波の音が遠ざかる。そして意識もまた同様に。

 彼女の腕の中で、身体が揺れる。その揺れが、不思議と心地よかった。冷たい腕なのに、抱かれている事自体が温かい。矛盾している。矛盾しているのに。

 

 

 「もう少しです! 頑張ってください」

 

 俺より小さい少女の声が、力強く響く。

 その声に、何故か涙が出そうになった。

 

 何時ぶりだろう。

 誰かに、こんな風に心配されたのは。

 何時ぶりだろう。

 誰かに、助けてもらったのは。

 

 

 「......ありが、と......」

 

 掠れた声で、俺は言う。

 少女は些か驚いた風に俺を見下ろし、

 

 「お礼なんて、」

 

 そっぽを向いて、微かに笑った。

 その笑顔は、優しく、そして何処か寂しげで。

 

 まるで、誰かに微笑みかける事に慣れていないような、ぎこちなさがあった。

 

 

 ──やがて、捉えた視界には、

 赤煉瓦の壁に、鉄格子の門を備えた建物と、

 明らかに銃器を構えて警備をしている者。

 

 なんだここはと思ったのもつかの間に、意識が、飛び掛かる。

 

 

 「──死に..たく....な

 「大丈夫です!」

 

 

 ──既に、死に恐れは無かったつもりだったが。

 

 彼女の声が、受容が、心に波を打った。

 嗚呼、元々無為だった俺に、明確な心配と希望を抱いてくれたから。

 生きたいと思ってしまった。

 今まで一度も抱いた事のない感情が、胸の奥から湧き上がってきた。

 

 

 ──人生の変革点に立っていた。

 

 俺も、彼女も。何もかもの。

 

 

 そして"物理的に"彼女によって救われたのだった。

 

 

 

6

 

 次に目を覚ました時、俺は白い天井を見上げていた。

 医療施設だと、直感的に理解した。

 

 消毒液の匂い。

 点滴の音。

 清潔なシーツの感触。

 

 ──窓の外からは、波の音が聞こえた。あの砂浜の波音と同じだが、今はもう子守唄には聞こえない。現実の音だった。

 

 身体は動いた。

 腰を起こし腹を確認する。包帯が巻かれているが、痛みは殆ど無い。

 足も曲がる。指も動く。

 

 生きている。

 確かに、生きている。

 

 

 ──何故?

 

 あの傷で、助かる筈が無い。

 これはまるで元から怪我など無かったかの様な、

 しかし現代医学にそのような技術は──

 

 

 「失礼します。 ...──! ああ...良かった。お目覚めですか」

 

 ノックの間、扉が開いたかと思うと声がして、顔を向けると、あの少女が居た。

 隣まできて、あの優しく、何処か寂しげな笑みを浮かべる。

 

 改めて見ると、やはり美しいという語彙でしか表現できない少女だった。

 整った顔立ち。白い肌。長い黒髪。

 そして、紅い瞳。

 

 ──蛍光灯の白い光の下でも、その紅は褪せない。むしろ、医療施設の無機質な白さの中で、彼女の存在だけが異質に際立っている。

 

 

 「ありがとう...。君のおかげで助かったようだ」

 

 確りと視線を合わせ、謝意を示す。

 

 「......!」

 

 彼女は、驚いた様に目を瞬かせた。

 3拍程度の静寂の後、少し上擦ったような声で、彼女は返した。

 

 

 「......いいえ。当然の事をしただけですから」

 

 

 それから...しばらく沈黙が続いた。

 だが、不思議と居心地の悪い沈黙ではない。

 

 穏やかで、静かで。

 まるで、二人だけの世界の様な。

 

 ──後に知る。これが、彼女の纏う空気なのだと。彼女の傍に居ると、世界から音が消える。多かれ少なかれ、そして良くも悪くも、彼女以外のものが意識から遠退く。

 

 

 「しかし、一体どうやって助かったんだろうか...」

 

 俺は有り体な疑問を漏らした。

 

 

 「え、それは」

 

 呼応して、少女は返す。

 まるで、何でもない事の様に。

 

 

 「私の身体の一部を、あなたに移植しました」

 

 

 

7

 

 

 再びの静寂が流れる。

 我に返り、俺は切り出した。 

 

 

 「──は?」

 

 「え?」

 

 「......いや、すまない。意味が分からないんだが」

 

 「い、意味と申されますと?そのままの意味ですが...」

 

 

 何か言いようのない違和感を覚える。

 話が根本的な部分で食い違っている様な気持ち悪さ。

 

 移植?それは理解する。それ程の大怪我だったと記憶しているから。

 だが、俺はなぜ何の後遺症も無く、痛みすらない程に回復しているのか。

 

 そして、移植と言うからには血液や臓器等を抜かれたのだろう彼女は、何故平然と今ここに居るのか。

 

 まるで現実離れして───

 

 

 「────うん?」

 

 そして不意に記憶が蘇る。

 現実離れといえば、飛行機が落下した時のアレは──

 明滅する視界。血しぶき。金属の軋む音。絶叫、爆発。

 悍ましいナニカが海の上に立ち、砲塔のようなモノを掲げて───!?

 

 

 「...ううッ──!!」

 「だ、大丈夫ですか!?」

 

 唐突に吐き気を催し胃酸が逆流しかかる。

 彼女が俺の手を握り、背をなぞってくれる。

 

 そしてその手は、驚く程に冷たかった。

 

 人の体温ではない程に。

 まるで深海の水の様な、氷の様な冷たさ。

 

 だが、その冷たさが、逆に思考を現実へと戻してくれた。

 

 

 「────ここは...どこだ。君は、誰なんだ?」

 

 おもむろに問う。

 間を置かず、彼女は回答した。

 

 

 「私は、駆逐艦三日月です。ここは...機密事項なので詳しくは説明いたしかねますが、海軍の施設になります」

 

 

 チク、チクと機械時計の秒針が鳴る。

 外は暗く、時間は、夜の9時を回っていた。

 

 

 

8

 

 幾許かの時が経ち、思考を整理し、心身に少しゆとりが出来た頃、彼女に覚えている限りの記憶を共有した。

 

 仕事の帰りに、乗っていた飛行機が墜落したこと。

 曰く、民間の航空機は厳正にルートを管理されており、墜落した情報など入っていないという。

 

 水上に浮かぶ、人間としか思えない何か悍ましいモノが居たこと。

 それは深海棲艦で間違いないと思いますと、彼女は言った。

 

 

 「深海棲艦......?」

 

 馴染みの無い単語に首を傾げる。

 

 聞くに、妖精という存在が24年前に突然世界中で発生し、奇怪な現象が起きるようになったという。それの一つに深海棲艦という文明を破壊しようとする存在と、それを撃退し、人類との共栄を目指す艦娘なる存在があるらしい。これ等全くの新たな未知の存在は、等しく妖精と定義された。

 

 そして、彼女もその艦娘の一人であるという。

 

 

 「妖精とは、人の感情が形を成したものです。喜怒哀楽...何かを為そうとする欲。そういった感情が、実体を持つようになったのです」

 

 三日月は、窓の外を見遣る。

 その横顔は、蛍光灯の光を受けて白く浮かび上がり、まるで此処ではない何処かを見ている様だった。

 

 「妖精の中でも、特に危険なのが深海棲艦です。憎しみ、怨恨、絶望、恐怖......彼らは負の感情の権化。だから壊す。屠る。全て、何もかもを。それに囚われている」

 

 「な、何の為に、そんなことを」

 

 「分かりません。本能、としか言いようがありません。彼らは、ただ破壊する為に存在しているのです」

 

 

 ──物憂げに漏れ出た様なその声は、微かな...本当に微かな共感と憐憫が混じっていた。

 

 彼女は真っ直ぐに俺を見詰め、続ける。

 

 

 「そして、それを撃退する為に生まれたのが、艦娘です」

 

 「艦娘......」

 

 「はい。人の願いが形を成した存在。この世界を守る為に生まれた、もう一つの妖精です」

 

 「艦娘というのは、どういう意味なんだ?」

 

 

 彼女、三日月は数瞬考える素振りを見せ、

 

 

 「近代の戦史はお詳しいですか?」

 

 「...え?第一次とか第二次世界大戦の?」

 

 「仰る通りです。旧大日本帝国時代に建造された、所謂軍艦ですね。その記憶を継承している存在。それが艦娘です」

 

 

 その意味を反芻するのに、俺は10数秒の時間を要した。

 

 「あのぅ...」

 「あ、ああすまない。軍艦というと、あの、戦艦大和とかの知識しかなくて恐縮なんだが...」

 

 ふふっ、と三日月は朗らかに笑った。

 初めて見せた、自然な笑みだった。

 ──その笑みを見た瞬間、少し、胸の奥で何かが動いた気がした。

 

 

 「有名な方ですからね」

 

 「その、軍艦の時の記憶がある、擬人化した存在であると?」

 

 「凡そご解釈の通りです」

 

 「娘というのは...?」

 

 「人間は人以外のものを女性に見立てませんか?姉妹艦、姉妹都市とか...」

 

 思わず頷いてしまった。

 特にこと創作の歴史については男主体だったから、作ったものを女性に見立てたというのは確かに何かの本で読んだ記憶がある。

 

 

 「特に船舶の場合は古くから母性的存在として捉える海事文化がありますね。その影響からか、私達は漏れなく女性としての身体的特徴を持ちます」

 

 「そして、君も、その艦娘の一人という訳か」

 

 「はい。改めまして、駆逐艦三日月です」

 

 

 よろしくお願いいたします、と、恭しく彼女はお辞儀をした。

 

 あ、ああ...はい、よろしくお願いします...と、脊髄反射的にそう返したのだが......

 

 

 しかし、絶句する、とは正にこの事だ。

 言葉が出ない。語彙を喪失する。

 この状況をどう整理しろというのか。

 

 どうやら、架空の物語にある様な戦争の只中に世界はあるらしい。

 

 年譜は自分の記憶と差異が無かった。決定的に違うのは、俺が生まれた年に超常現象が起こるようになり、魑魅魍魎が跋扈する世界によって適応出来なかった文明は衰退し、現在に至ると言う事。

 信じがたい話だが、現実にその状況下に自身が在る以上、俺が狂っていないのであれば、何か別の次元にでも落ちたと言う事になる。

 

 

 「いや、待ってくれ、君はその、艦娘...? 人間にしか見えないんだが」

 「見た目はそうですね。人間と変わりありません」

 

 「移植と言ったが──

 「はい、そこが決定的に違うところかもしれませんね」

 

 次の俺の言葉を遮るように、三日月は言う。

 

 「身体は、人間よりもかなり頑丈なんです」

 

 

 腕を上げ力こぶを作る所作は見目通りの少女らしい愛らしさを覚えるものだったが、確かに、俺を軽々と抱えて疾走していた記憶を思い起こす。

 

 その女学生の装いも、実際見た目についても仮初でしかない。

 艦娘とは人間の形であってヒトならざる存在。

 

 畢竟するに、彼女の身体は戦う為にあり、文字通り修復が効くと言う事らしい。

 

 

 「あ、あり得ない...とは言えないが、信じられない。俺の居た世界...とは、余りに乖離しすぎていて...分かってもらえないかもしれないが......」

 

 俺は、此の世界が所謂異世界であると訴えた。

 元ある世界に妖精などと言う幻想染みた存在は居ないし、海に人が浮かぶなんていうのは物理法則に反していると。

 

 「いいえ、分かりますよ。だって少なくとも24年前に世界が変革した。或いはしてしまった。その認識は私にもあります。そしてそれ以前の過去の出来事と、貴方が持つ知識との整合性は取れているでしょう?」

 

 「それは...」

 

 確かにそうだ。

 彼女と擦り合わせをした24年より前の出来事については認識通りのものだった。

 歴史上覚える限り過去まで遡り近代史にかけて辿ってみたが、双方相違はなかった。

 

 ただ今は、少なくともSF染みた世界であるのだ。

 過去に何がきっかけあったでもなく、まるで宇宙の誕生の様に突然世界の在り様が変わったとでもいうのか。

 

 

 「ああ..ははは...パラレルワールドにでも落ちたということか」

 

 思わず乾いた笑いが零れる。

 即物的に考えようにも、袋小路だ。

 

 

 「......それでも、確実に言えることは。貴方が此処に居るということです」

 

 

 三日月は、静かに告げる。

 

 

 「貴方が此処とは異なる世界から来たとしても、今、此処に在る事が現実です」

 

 

 此の世界の住人である彼女は、俺の主張を平然と理解し、その上で、話を前進させる。

 

 

 「私は、此の世界しか知りません。貴方の世界には、妖精が居ないのですね」

 「ああ...」

 「深海棲艦も、艦娘も」

 「居ない、筈だが...」

 

 「......そう」

 

 三日月は、少し寂しそうに微笑んだ。

 

 「では、私も居ないのですね。貴方の世界には」

 「それは...」

 

 その言葉に、何故か胸が締め付けられた。

 どう返せば良いのか分からない。

 

 どだい俺のような空虚な人間に他人の気持ちなど分かり得る筈もない。だが、自分が世界に存在すらしないと考えるのは、少しばかり恐怖がある。

 ましてや彼女は命の恩人だった。初めて、どこか胸を開いて話せた人だった。

 

 

 「でもっ」

 

 言葉に窮していると、それを察してか明るい表情で、

 

 「良いですね、あなたの世界は、平和なのでしょう?」

 

 羨ましいなあ、と彼女は視線を少し上に遣り、呟いた。

 

 「元の世界に、戻りたいですよね」

 「それは...」

 

 俺は、それに、ただ漠然と頷くしかなかった。

 

 あの意味の見出せない白黒の世界かと思っていたものは───しかし見る者の視点によっては実に羨望に満ちた輝かしく色彩豊かな世界なのだ。

 此の世界と対比すれば勿論そうだと、反論の余地などない。

 異形の存在が文明を滅ぼしにかかっている世の中で、死と隣り合わせの世界とでは。

 

 

 「あの、ご提案なのですが」

 

 「え、え?」

 

 思考の沼に沈んでいたところ、

 ぐいっと、彼女はその小さな顔を俺に寄せてくる。

 人と目線を合わせるのが苦手な俺は、思わずたじろいだ。

 

 

 「この世界に今居る以上、衣食住の手立てを考えなければなりません」

 

 「それは...その通りだな」

 

 「そこで、ですが」

 

 彼女はおもむろに俺の手を握り、言った。

 

 

 「──海軍に、入りませんか?」

 

 

9

 

 要約すると以下である。

 ・海軍であれば衣食住が保証される。

 ・その間、元の世界に戻る手立てを考えられる。

 ・彼女はその立場から軍に顔が利く。

 ・軍も常に人手不足で困っており、互いに利点がある。

 

 多少逡巡する気持ちもあり、二つ返事とはいかないまでも、俺はその提案を承諾した。

 何れにせよ生きてゆくには彼女に任せるしかない。

 俺はこの世界では存在しないものなのだから。

 

 「本当ですかっ」

 

 見目相応の、あどけなさの残る表情で嬉しそうにしている三日月を見て、俺は少し気が緩むのを感じた。

 

 ──彼女にとって、俺を傍に置ける事は、願いの1つの成就だった。

 

 

10

 

 彼女は艦娘と言う特別な存在の中でも、尚、特殊だった。彼女の特異的なキャリアは、わずか一介の影響力に留まらず、一声で人事側に掛け合い、一旦でもこの世界で生きる為に、身元不明の人間の戸籍を作り、軍に引き入れるという芸当を速やかに実施せしめた。

 

 今は身元不明者などさして珍しくも無い時世。

 戦時中という環境下ゆえに、大それた事ではないと彼女は言ったが。

 

 

11

 

 厳しい訓練の道すがら、彼女は率先して俺の手を引きもするし、留まらせようともする。

 

 彼女は常に俺と共に居た。

 その存在は、海軍に於いて特秘事項。

 公に所属を認められてはおらず、厳重な管理下に置かれている。

 

 詳細な理由・情報について、軍事記録や関係者、また彼女自身から得たとき、俺は二度程吐いていた。

 自分の身の上など下らなく思えるような境遇、考え得る限りの悪辣な環境において、しかし彼女は揺ぎ無く此処に有る。

 

 三日月にとって俺という存在は、漸く得た天恵であり、また許しのようだったのだろう。

 

 畢竟するに、彼女の匙加減一つでどうとでもなる極めて危ういバランスの上で、軍に於いても三日月を持て余していた所、俺というイレギュラーが現れた事により、事態が別方向に進展したのだ。

 

 

 軈て季節は巡り、3年が過ぎた。此の世界が冷夏である事に漸く違和感がなくなった頃、曰く付きの自身と彼女に、昨今解放された海域の小さな無人島に建造された基地が、宛がわれた。

 

 

 

12

 

 任務をこなす日々。

 大東基地は、所謂、問題のある艦娘を"最終評価する"場所だ。

 その言葉の意味は、全く、それ以上もそれ以下も無い。

 

 この施設に配属された艦娘は、主に遠征や護衛・後方支援等の任務に当たる。その中で対象艦の運動機能、任務生産性、態度、性格、希望等を、定量的そして定性的に見極める。時として彼女等の談を聴き、公私に渡ってケアをする。

 

 此の世界に来るまでも、来てからも、人との親密な関わり合いを恐れて回避してきた人間がそれを行うなど、自分でも滑稽な話だと自嘲してしまったが、一遍の臨床心理は軍属になってからの座学でインプットしていたし、事実に基づく数値化自体は、元々金融業界出身だったこともあり、得意だった。

 

 

 

13

 

 少なくない数の艦娘を見てきた。

 中には奮起する者も居たし、立ち直れない者も居た。人間と違って、裏表が余り無く、感情を隠さない彼女等に触れていると、とても眩しく思えた。些事に悩む自分が殊更に惨めに感じ、同時に少し解放された気がした。彼女等は常に戦禍に在り、生死の境目を征く。その精神は、どうなろうとも、高潔に思えた。

 

 だが、仕事は仕事だ。俺の感情を介さず、数字に基づいて評価を下す。それがどれだけ辛い宣告になろうとも。

 

 

 ──辛いと思う。

 

 自分にそんな感情があったのかと、ふと、思った。

 

 

 

 ああ、しかし。

 

 関係はないが、最近どうにも身体が重い。

 

 

 

 

 

拾四

 

 

 

 ......何かがおかしい。

 

 

 神経か何かの病気だろうか。

 最近、どうにも手足が痺れる。味覚も変だ。

 

 

 

 

 身体が重い...

 

 

 

 何かが、オかシli────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

縺倥e縺?h5繧

 

 

 飢餓飢餓餓飢餓飢餓飢餓飢餓飢飢餓飢餓飢

餓飢餓飢餓

    飢

餓飢餓飢餓飢餓

 苦しい嗚呼余りにも腹が減ってしようがない、気が狂いそうだ。 飢餓飢餓飢餓飢餓飢

 餓飢餓飢餓飢餓飢餓飢餓飢餓飢

餓飢餓飢

           餓飢餓飢餓

 苦しい嗚呼余りにも腹

ガ減ってしようがない、気が狂いそうだ。are俺南海同じこと言った?々々々々々々々々

 腹が、腹が、腹が裂けるほどに叫ぶ。喉が焼ける、胃が爛れる、何か、何かを、何かうぉ――喰わねば、喰わねば、喰はね!

 飢え、乾き、焦がれる。喉が焼ける胃が爛れる、ああナニカ喰わねばこの存在を維持スルタメノなにkkkkkkk......あ。

 

 手が震える。指先が爪が、爪が喉を探る。爪が皮膚を引き裂くたびに、痛みが歓喜に変わる。血の味が甘い。甘い、甘い、甘い。血と唾と砂糖と腐肉の匂いが混ざって、世界が一つの共同体になりました。

 

 嗚呼眩暈がするし呂律も回らないが俺は一切酔ってなどいないしまd埋ける筈だ。

 とにかく腹が腹が腹が腹が何もないいいい餓えいん軽くてまるで木の葉の様だ、オフピステはそうshiナ居ト危険が転がっておりイくファンダメンタrズが確かに優良でもオシレータがどれもいや確かにファンダは確かに全般的優良dと思料いたスィますがしかしがオターシレがどれもこれも高値圏やし信用倍率圧しッこモレタ兎に角終わってんzyやないかおいやめろやめろ!!」

 

 

 「...司令官?」

 

 「貸借よこ倍率もミロク彌勒弥勒よくみてなバいしバババババババルチック海運指数とBWETの相関性を検しょuウウuuウうヴヴヴヴヴ......」

 

 「司令官...!どうされました?!」

 

 

 目の前の影が全部おいしそうな肉に見えまする、壁のひびが骨の節に見え、靴底の泥が焼けた脂に見えまするぅぅぅぅぅl!。通り過ぎる猫の背中がローストに見え、通行人の笑い声が噛み砕く音に聞こえ、る。一木一草尽く食べるで俺いや、食べなければならない。食べるのだ食べるのだ食べるのだ。

 だからVLCC日額はシャドーフリートが全体の25%以上吸収による供給側構造的逮迫と需要側シフトと新造船不足にスリランカ沖の深海棲艦出現で人生オワタ状態ですよ、秋田油田を掘り起こすしかないでせうホンマに!

 故に考える葦である我、癪に障る財務分析だけでスンセル輩に対し大漁んアルゴ滅びの空売りストリームを投げつけて需給とは下衆をスクリームけてヤロうと思ふ。収益性指標、BSそひょう、固定長期適合率とDEレシオからROIオししシレーラ、3C4PSWOTPESTあれ順序ばぐったあとボラてれても診る、トレンドは出来高とローソク足とバンドを㎖均衡表#、ミクロ、マクロ、ミロク、彌勒、弥勒、弥勒。数字が踊る。数字が皿を満たす。皿が空になる。空になる。空になる。だから小型株は需給だってんだろ!手の!ひらの!上!!!それよりコモディティがぶっ飛んでえ!じゃねえかやばいコンタンゴすr銅

 

 タンゴのリズムにあわせて言葉が千切れて飛ぶ。ああ、ああ、ああ、aA、7、ア、あアゐデンティティ崩壊を感じる。思考ga砂の如く崩れ、記憶ぐぁ胃の中で溶溶け蕩け時計溶け溶ける。昨日のパンの端っこが今の全宇宙だ。未来は一口先の力学量子だけ。過去は噛みオカンデしめた温度スーパーだけ。

 「やめろ」誰かが言う。やは三日月。誰も俺に指図するなああやめろ辞めろ!止め、病めるぉ。やあ三日月声が遠い。自分の声が自分を叩く。や三日月爪が喉を這う。喉の奥で何かが引っかかり、喉をかきむしる衝動が笑う。y三。日月。。笑いが出る、泣き声が出る、どちらも同じ味がする。ぬるり、ぬるり、ぬるり。手が動く。探して、掴んで、引き裂いて、舌で確かめる。温度があるか、まだ温かいか、まだ生きているか。温かければ許される。冷たければ罰だ。

 

 血が溶解し足は浮腫んで立ちくらむ。酷い仕手株を高値掴みしたような、気分 俺は罰を受けねばならない

 

 最後に残るのはただ一つの命令だけだ。喰え。喰え喰え喰え。世界はその命令のために回り、心はその命令のために砕ける。砕けた破片がまた喉を塞ぎ、喉を塞ぐたびに笑いが漏れる。笑いと血と空腹が一緒に踊る。止まらない、止められない、止められない──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────むしゃむしゃむしゃむしゃ。口を開けてものを食べてはなりません。ちゃんとごちそうさまをいうこと。食前食後の儀は必ず唱えましょう。はい、せえの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ごちそうさまでした」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

XVI

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドス黒い、血溜まりに、三日月が横たわる。

 

 

 だけど、三日月は、穏やかに笑う。

 

 

 

 

 

 

 ────自身の行為に。

     

        正面から向き合うのに。

     

 

     長い、 

 

         時間を、

 

 

 

                 要した。

 

 

 

 

 

 

 

 

17

 

 

 

 錯乱し廃人同然となった俺は彼女と出会った本土の研究施設に移送された。

 

 基地は一時的に閉鎖された。

 

 元より島での任務など何処でも出来る。

 

 島の維持防衛は三日月一人が担った。

 

 抑々が、彼女を隔離する為のものでもあったからだ。

 

 

 療養という名の下に様々な医学的処置がなされ、

 漸く心身ともに落ち着いた頃、1年が経過していた。

 

 

 ──1年。その間、三日月は一人であの島に居た。一人で海に出て、一人で悪性の妖精を呑み込み、一人で基地を守った。

 俺が錯乱している間も、彼女はずっと、あの島で、あの海で、待っていた。

 

 

 

 俺は残酷で抗いようのない問題を抱え込み、

 

 そして再び、大東基地へと帰投した。

 

 

 帰った時、三日月は基地の門の前に立っていた。

 あの時と同じ笑み。優しく、寂しげで、ぎこちない笑み。

 ただ一つだけ違ったのは、──その目に、涙が溜まっていた事だった。

 

 彼女は一言、おかえりなさいとだけ言った。

 

 

 

 俺は、その時、彼女の真意に触れた。

 

 三日月の事を、俺は──

 

 

 

 

 

18

 

 

 此の世界に来て11年の時が過ぎた。

 仕事には問題はない。

 だが、身体機能を維持する為の"食事"の間隔が、確実に短くなっている。

 

 三日月の臓器を移植され、初めて自分の身体の異変に直面したのが2043年9月。次が2046年11月。そして、今回。

 ──最初は数年に一度で済んでいた。次第に間隔が縮まり、やがて年に一度になり、半年に一度になり。

 

 

 此の世界に随分と順応した気になっていた。

 元の世界に戻りたいと言う気持ちが、希薄になっていたのも事実だ。

 

 

 彼女はその孤高の足跡を俺と共にする事を選び、俺は感情を停滞させた。それに気付いている筈なのに、それでも彼女は俺の傍から決して離れない。

 

 

 ──謂い様の無い不安を覚える。

 

 

 現実は、虚構の世界を内包する。

 

 しかし虚構は、現実に実体を持てない。

 

 この世界にとって、確かに俺は虚構であった。

 

 現実に生きる彼女を取り込む事でしか生きられない俺自身が、それを証明していた。

 

 

 

 

 ────では、仮に元の世界に戻れたとして、俺達はどうなる?

 

 

 

 

19

 

 時間だけが、絶対的に流れていく。

 

 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、壊れていく。

 君はそれでも尚、俺の手を離さない。

 溢れる想いは止めどなく紡がれる。

 君の興味の行く先が破滅だとしても。

 それを君は理解している。理解しているのに。

 

 俺は、この握られた小さな掌を、離せない。

 

 君の傷はかなり、増えてきている。

 あんなに直ぐに再生していた驚異的な治癒力は、見る影もない。

 

 何者にも永遠など無いのだ。

 

 此の世界の終わりは、どこにある?

 俺の行く先には、何があると言うのだろうか。

 

 

 此の世界に迷い込んでから、20年の歳月が過ぎた。

 

 

 ──俺も彼女も、外見には何の変化もないままに。

 

 

 

 

 『三日月と司令官⑦』

 

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