此の手は大きくて、温かい
そっと触れる、それだけで私は泣いてしまいそうになる
枕元に座って、動かない身体を見降ろして
額に触れる掌の温度に、心が温かくなる
何時からだろう、この手が震える様になったのは
何時からだろう、この身体を少し重たく感じるようになったのは
ずっと、ずっと、壊れないと思っていた
壊れる事など考えもしなかった
だって私は──私は
...今は少し、眠っていたい
貴方の手が、こんなにも温かいから
──ああ、それは、私が冷たくなっているだけなのかもしれないのに
7月も終わりに差し掛かる昼下がり。
北大東島要塞の医務室は、夏の陽光が爽やかな風と共に差し込んでいた。
窓の外には、プルメリアやブーゲンビリアが色鮮やかに咲き誇り、その花びらが風に揺られ、音を鳴らしている。澄み渡る青空の彼方には大きな入道雲が悠然と浮かび、海は穏やかにさざ波を立てる。要塞の沖にある海堡群、そこに設置された数多くの固定砲台がその威容を示しているが、最近ではその砲声は聞かれず、静寂が続いている。
「ゼェ...ゼェ...」
医務室の一角で、三日月は喘鳴に近い呼吸音で息を荒げ、ベッドに横たわっていた。
前日の一件により感染症を発症し、高熱に浮かされ、その額には汗が滲んでいる。
玉のような汗が寝間着に貼り付き、苦悶に喘ぐその姿は、歴戦の猛者であることを忘れさせるような、まるで見目相応の年端もいかない少女のように、儚く弱々しいものだった。
医務室の静かな環境に、その苦しげな息遣いが響き渡り、外の穏やかな風景との対比が一層彼女の状態を際立たせる。
首元から肩にかけて巻かれた包帯から滲む緋色は毒々しい澱みを湛え、先夜の出来事を、色濃くそこに反映していた。
『三日月と司令官⑧』
三日月が倒れたのは、浴場での一件の翌日だった。
発端は些細なものだったが、執務室の窓から彼女が戻ってくるのが見えた時、何か違和感を覚える。
三日月は歩き方に癖がない。二十年間、毎朝同じ時間に巡回に出て、同じ時間に戻る。その足音のリズムは、もはや時計代わりだった。
だが今朝は、微かに──本当に微かに、右足を庇っている。常人には気づけない程度の差異。しかし毎日見ている俺には、それだけで充分だった。
執務室の扉がノックされ、数秒後に三日月が執務室に顔を出す。
普段なら「司令官。異常ありませんでした」と明朗快活に報告する彼女だが、妙に顔色が悪い。白い肌は元より蒼白い方だが、今日は違った。青白いのではなく、灰色掛かった、病人の色をしていた。額に薄く汗が滲み、歩く足取りに普段の安定感が無いのもその為かと直感した。
「どうした、三日月?」
「いえ...少し、頭が重いのと...あと、寒くて......」
彼女は明確に具合が悪そうに、悪寒を訴える。
俺は思わず瞠目した。
慌てて執務室の救急箱から乱雑に体温計を取り出し、熱を測らせると、39.6℃の高熱。
艦娘が熱を出す。
とりわけ三日月については特に、それは、普通では無い事だった。
艦娘の身体は、人間のそれとは根本的に異なる。
骨密度、筋量、免疫機能、あらゆる数値が常軌を逸して高い。通常の病原体では感染すら成立しない。風邪を引く事も、腹を壊す事も、本来は有り得ない。
それが、熱を出している。
39度台の熱。だが、それが三日月の身体で発生している事自体が、異常だった。
「すまん、三日月。少し触れるぞ」
「あぅ...し、しれいかん......」
そう前置き、即座に身体を寄せ背を預けさせると、三日月は小さく息を吐いた。
彼女の制服は濡れた様に肌に張り付いている。尋常でない汗の量。抑々、三日月が発汗すること自体、余りイメージが沸かない。
微かに鉄錆の匂いが鼻孔を擽る。血の匂いだ。制服の襟に、淡く褐色の染みが滲んでいる。
俺は徐にその胸元に触れ、制服の胸当てを外す。
抵抗する素振りも見せない三日月。いや、その余力もないのだろう。
そして襟をずらして肩口を見ると────
「こ、これは...」
────昨晩俺がつけた傷跡が悍ましく化膿し、真皮すら超え、かなり程度の悪い褥瘡或いは銃弾痕の如く穴が開いて、そこから黄土色の膿が垂れていた。
それは思わず呼吸をも忘れるような、
余りに、余りにも痛々しいものだった。
「...大丈夫ですよ、司令官......」
直ぐに回復しますから......。
浅い呼吸の中で弱弱しく発した言葉は、自分自身に言い聞かせる様で、──普段目を逸らさない彼女が俺に視線を合わせずに俯く様は、最早伽藍洞となった俺の脳裏を右から左へと通り過ぎる。
俺は正直に愕然としていた。
今までの行為について、はっきりと覚え、記録している。
この20年で23回。但し加速度的にその間隔は減衰しており、今や3か月周期だ。
だが、それでも彼女が倒れると言う事は今までになかった。
理由は、三日月の傷はたちどころに癒えるからだ。例え身体に傷を負っても、その部分からあぶくが立つようにして瞬時に新たな組織が再生構築される。それは彼女が持つ特異性の一種であり、昨晩もそうだった。訓練でも、戦闘でも同様で、不死身のような存在だと畏怖される謂れでもある。但し────
「大丈夫...? そんな訳あるか、これは大丈夫じゃない...」
──気になっていたのは、以前より傷跡が残る様になったと言う事。
...否、正確には"俺が付けた傷"が──、だ。
艦娘、妖精...深海棲艦......
元々が思念体とされる其れらはその出自から、精神面を揺さぶられた時、極めて大きく反応する事がある。
原動力たる欲の成就、逆も然り。
特に純正の其れは、見る見る内にその存在自体が縮減する時がある。
表向きに見えても、見えなくても、理由が分からなくても。
特に俺はそれを目の当たりにする機会が多かった。
────ああ、彼女は、望みを叶えようとしているのかもしれない。
「...とにかく処置をしないと。医務室に行くぞ」
「...は、はい......」
この基地の医務室の設備は最低限のもので、艦娘の診療に耐えうる代物ではない。
抑々艦娘が病気に罹る事を想定した設備など、凡そ何処の基地にも無いだろう。
抗生剤にせよ解熱剤にせよ人間用のものしかないが、用量を調整して投与するしかない。当然効くかどうかも分からない。
入渠ドック、というよりあの風呂に入る事による身体の修理・修復という概念についても、彼女には作用しない。
これもまた三日月故の、今となっては弊害でもある。
ただ、三日月の傷口は明らかに炎症、壊死までも進行している。
高熱を出していると言う事は創部感染は間違いなく、このままでは敗血症の劇症化リスクも高まる。
兎角一刻も早い処置が必要だった。
「ふふ......」
三日月を抱っこの要領で担ぎ上げ、足早に医務室へと向かう。
安心したように少しだけ笑う三日月は、羽毛のように軽く、か細く思えた。
廊下を急ぐ。基地の建屋は古く、床板が軋む音が足を進める度に響いた。窓の隙間から差し込む朝の光が、廊下の壁に縞模様を作っている。ところどころ壁紙が剥がれ、コンクリートの下地が露出した箇所を、いつだったか三日月と2人で補修したのを思い出す。
不意に腕の中の三日月が、俺の胸元に顔を寄せた。額が鎖骨に触れる。──熱い。服越しにも分かるほどの熱が、彼女の額から伝わってくる。
その体温の異様さと裏腹に、三日月の四肢は氷の様に冷たかった。指先が俺の襟を掴んでいる。その力は弱く、小走りでの振動で外れてしまう程のものだった。
「はぁ、はぁ...降ろすぞ」
到着した医務室の扉を肩で押し開け、ベッドに横たわらせる。
三日月は目を閉じたまま、俺の襟を掴んだ指を、暫く離さない。
その後、一先ず一呼吸置いた後、処置に掛かる。
まず創部の洗浄。生理食塩水で壊死組織を丁寧に洗い流す。三日月は顔を顰めたが、声は上げなかった。痛みに慣れている──いや、痛みを表に出す事に慣れていないのかもしれない。
次に抗生剤の静脈投与。用量は人間の成人基準を参考にしたが、三日月の体重は見た目に比してかなり重い。骨密度と筋量の所為だ。通常の三倍量を投与し、輸液のラインを確保した。
解熱剤は経口投与させる。水を含ませると、喉を動かして飲み込む。その嚥下の動きすら、何処か覚束ない。
包帯を巻き直し、額に冷却シートを貼り、一連の応急処置を完了させた。
「ありがとう...ございます...」
普段の様相からは想像もつかない余りにも弱く掠れた声で、それでも律儀に謝辞を述べてくる。
表現し難い感情を覚えながらも、それを面に出す訳には当然いかない。
俺は努めて安心させるように、返した。
「ああ、大丈夫だからな」
「すぐに、治しますからね...」
「うん、ゆっくり休んでな」
短い遣り取りを終え、この件について那覇の本部に一報を入れる。
──俺は二つの仕事を並行する事になった。
今は停滞しているが故に量は多くない執務と、彼女の看病である。
◆◇◆◇
──8月に入った。
台風が過ぎた後の島は、風が止んで嘘の様に凪いでいる。
日中の気温は辛うじて猛暑日を超えないが、湿度は常に80%前後。備え付けの扇風機は首を振り続けているが、其れは書類の端を微かに揺らす程度で、汗を乾かす役には殆ど立たない。
三日月の部屋は北側にあり、日当たりは悪いが、その分幾らか涼しい。
障子を少し開けて風を通すと、磯の匂いと、遠い波の音が入ってくる。
枕元に氷嚢を置き、タオルを替え、点滴の輸液を交換する。
三日月は日中殆どの時間を眠って過ごした。
時折薄く目を開けて、俺を見て、安心した様に微かに笑って、また眠る。それを繰り返す。まるで子供の介抱をしている様に、ある意味で緩やかな時間が流れる。
夜になると、三日月の呼吸が浅くなった。
日中は穏やかに眠っていても、夜半過ぎに熱が上がり、額に脂汗が浮かぶ。寝間着を取り替え、氷嚢を新しくし、包帯の染みを確認する。時折苦しげに身を捩る三日月の背を擦ると、少しして呼吸が落ち着く。
──日が跨いだ未明、三日月が譫言を言った。
「......しれい、かん......」
最初はそれだけだった。寝返りを打つ度にシーツや寝間着が大量の汗で皺になっており、その都度替えた。尋常ならざる代謝から、三日月の身体が必死に病魔と闘っていることを思わせた。
そんな繰り返しの中で、ふと三日月の手が宙を彷徨うのを見た。何かを探している。目は閉じたままで、意識は無い。その指先が俺の袖に触れた途端、安堵した様にふっと力が抜ける。
──それだけの事なのに、どうしようもなく胸が痛んだ。
2日目の昼間、執務室と医務室を往復した。報告書2通、補給申請1件。平時ならば1時間で片付く量だが、3回に分けた。三日月の傍を長く離れる事が出来なかった。
廊下の途中で自分の足音だけが響くのを聴く度に、この基地が2人きりである事を否応なしに実感する。応援を呼ぶ事は出来る。だが、三日月の傷を見せる訳にはいかない。あの傷の原因を説明出来る訳が無い。
二晩、殆ど眠れなかった。椅子に腰掛けたまま、三日月の呼吸音を聞きながら、断続的に浅い眠りを繰り返した。扇風機の首振りの音と、窓の外の潮騒だけが、夜の底に一定のリズムを刻んでいた。
夜明け前の最も暗い時間帯に、三日月の熱が40度を超えた。冷却シートを張り替え、濡れタオルで首筋を冷やす。その間もずっと、彼女の呼吸を数えていた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。──止まらないか、それだけを確認し続ける作業は、想像以上に神経を磨り減らすものだった。
「......司令官」
3日目の昼。医務室にて。
意識がはっきりしたのか、三日月が小さく呟いた。
俺は椅子に凭れたまま浅い眠りに落ちていたらしく、その声で目を覚ます。首が痛む。腰も軋んでいる。2晩まともに横になっていない身体に、齢相応のガタが来ているのを痛感する。──否、その程度がどうしたというのだと、自戒して。
だが三日月を見ると、昨日までの灰色掛かった肌色に僅かに血色が戻っていた。瞳の焦点も定まっている。峠は越えただろうか。
それだけの事で、身体中の強張りが少しだけ解けた気がした。
「ん、おはよう三日月」
「おはようございます...あの」
「うん?」
「司令官、ずっと居てくださいますが...その...、お仕事は......?」
「後で纏めてやる。大丈夫だ」
「......そう。ごめんなさい」
「三日月が謝る事じゃない」
「......えへへ」
何が可笑しいのか、三日月は微かに笑った。
熱に浮かされた瞳の緋色は、何時もの艶やかさが鳴りを潜め、ただ淡く、濡れている。
「それより、体調はどうだ?」
「ええ、かなり楽になりましたよ。ほら、見てください」
そう言い、パジャマをはだけて包帯を解き、患部を見せてくる。
...確かに傷は埋まっていた。昨晩まで目を覆う様な挫滅創があったと言うのに。だだ、肉はケロイドの様に盛り上がり、紫斑が拡大している。
──俺が長年付けてきた傷の1つだ。彼女の身体の節々に、それら類の傷が幾つも残されている。やはり、昔ほどの目を見張る様な再生は、されなくなってきている。
だが、それに言及する事はない。
三日月があの行為に自身の存在価値を見出している事は重々承知している。
俺の醜悪な罪悪感・後ろめたさをも、彼女は呑み込む。寄り添い、受け入れ、そしてただ促す。最後に残るのは、絶対的に生きる上で行わなければならない行為、ただそれだけだ。
だから、その行いに俺が何かを言う資格など、持ち合わせていない。
「それにしても、司令官に看病される日が来るなんて、思ってもみませんでした」
「...俺だってお前が風邪を引く日が来るなんて、思ってもみなかった」
「......風邪、ですか。ふふ、そうですね。風邪ですね」
三日月はそう言って、布団の中で身を縮めた。
──風邪。
艦娘が感染症に罹るという事例が抑々無いのだから、そう呼ぶのは些か不自然かもしれない。だが、結局の所、他に呼び様も無い。
とは言え幾ばくかの安堵があった。
長年のキャリアの中で医療行為全般については座学と実習の全般を履修しており、知見としては持ち合わせていたので、その通りに対処したのだが、奏効した様だった。
則ち抗生剤と大量の輸液投入だが、実際あの傷が人間で4日と経たず埋まる訳が無いので、三日月の恒常性が機能しただけかもしれない。
会話の後、三日月がまた浅い眠りに落ちたのを見届けて、俺は台所に立った。
普段は三日月の領域であるこの場所に、1人で立つのはかなり久し振りだ。調味料の配置を把握していない。出汁の取り方もろくに知らない。
米を研いで、多めの水で火に掛ける。それだけの事に、妙な緊張があった。
鍋の縁で泡が弾ける音を聞きながら、三日月が毎朝この台所に立っている姿を思い出す。慣れた手付きで味噌汁を仕立て、魚を焼き、漬物を切り、その全てを俺に差し出す。──20年間、一度たりとも彼女はそれを欠かさなかった。そうだ、今は2人だが評価減の艦娘たちが多くいた頃だって彼女は厨房に立って、食事を振舞った。その事の重みを、今更の様に噛み締めている自分が居た。
出来上がった粥は、少し水が多過ぎた。だが、今の三日月にはこの位が丁度良いだろうと自分に言い聞かせた。
味見をする。──薄い。塩を足す。まだ薄い。三日月ならここで何かを足すのだろうが、それが何か分からない。結局、梅干しを一つ添えるだけにした。
湯気の立つ器を盆に載せ、医務室に戻る。途中、廊下の窓から射し込む光が盆の上の粥を照らし、白い粒が微かに光った。──些末な事が、妙に目に焼き付く。
「......三日月、入るぞ」
手が塞がっているため声掛けだけして部屋に入る。
「おかえりなさい」
また目が覚めていたようで、穏やかな声が返ってくる。
身体を起こそうとしたので、静止した。
「お粥...作ったんだが」
「あら」
三日月が少し目を見開いた。
「司令官が?」
「何だよ」
「いえ。嬉しいです。いただきます」
改めて身体を起こそうとして、手すりを掴む腕が震えている。
支えると、三日月は恥ずかしそうに目を逸らした。
「ああ、俺がやるよ。口を開けて」
「ふふ...ありがとうございます」
お粥を匙で掬い、息を吹きかけて冷まし、口元に運ぶ。三日月が薄く唇を開いて受け取る。
その仕草は妙に幼く、普段の凛とした佇まいからは想像もつかない。
まともな料理とは言い難い出来だが、三日月は一口毎に「美味しいです」と言った。二口目は少し間を置いてから。三口目は匙を唇に当てたまま、暫く動かなかった。そして四口目で──、匙が止まった。
「......すみません。もう少し後で」
食欲も無いのだろう。俺は黙って器を引いた。
器の中には、大半が残っている。匙の跡が3つだけ、白い粥の表面に小さく窪んでいる。
──この程度の物すら、満足に呑み込めないのか。
その事実が、薬の効きよりも、傷口の経過よりも、余程雄弁に彼女の今を語っている気がした。
──俺の命を維持する為に要するあの行為により、今、立場が逆転していた。
三日月自身がその身を俺に喰わせる事によって俺は生かされ、そして欠損し空っぽになりかけている彼女に俺が捧げられるのは、たった匙一杯の粥でしかない。
余りに不格好で、どうしようもなく無力で、笑ってしまいそうになる。
そして彼女は永い時を経て、それすらも呑み込めない程に弱ってしまった。
「......ねえ、司令官」
三日月は布団に沈みながら、天井を見上げて言った。
「私、夢を見ました」
「夢?」
「ええ。暗い、冷たい海の底に居る夢。......息は出来るのだけれど、思うように身体が動かなくて。浮かび上がれなくて。ずっと、ずっと沈んでいく」
「......」
「でも、上の方に光が見えるの。揺れている、小さな光。......あれは何だろうって思って、必死に手を伸ばしたら」
三日月は布団の中から右手を出して、天井に向かって伸ばした。
細い指が、何かを掴もうとする様に、僅かに震えている。
「──届かなかった」
そう言って、手をゆっくりと下ろした。
その動作は酷く緩慢で、指先が空を切る様が、水中で沈んでいくもののようだった。
「......目が覚めたら、司令官が居ました。それで、ああ、大丈夫だって思いました」
三日月は笑っている。
だが、俺はその夢の意味を考えずには居られなかった。暗い海の底。浮かび上がれない身体。届かない光。──それは夢と言うには余りに生々しく、彼女の現実と重なり過ぎている。
43年間海の上に立ち続けた者が、海の底に沈む夢を見る。そしてその者が大丈夫と言える根拠は、目覚めた時に傍に居る人間──俺が、彼女をこうした張本人である事も、彼女は知った上で。
俺はその手を取った。
冷たい。──この冷たさは、熱があるから尚更なのか。それとも。
改めて実感するのは、俺の掌の中にすっぽりと収まるこの手の小ささだ。
この手が、俺を抱えて走った。この手が、俺に食を差し出した。
この手が、43年間、海の上で武器を握り続けた。
今、その手が、震えている。
俺には何も出来ない。精々多少の看病をし、手を握る程度しか。
それだけだ。──それだけしか、俺には無い。
「......寝ていろ」
「...はい」
三日月は目を閉じた。
握った手は、離さなかった。
──医務室の窓から、午後の光が差し込んでいる。
光の角度が変わり、三日月の寝顔に影が掛かった頃、彼女の呼吸がようやく深くなった。熱に浮かされた微かな呻きが消え、寝息だけが規則正しく響く。
手を握ったまま、俺はそこに居続けた。壁の時計の秒針が、無感情に正確な音を立てている。点滴の雫が、一定の間隔で落ちている。
三日月の寝顔を見下ろす。睫毛が微かに震え、薄い唇が僅かに開いている。額に張り付いた前髪を指で払うと、触れた肌はまだ熱を持っていたが、朝よりは幾分引いた気がする。
──この顔を、何度見てきただろう。巡回から戻る時の凛とした横顔。食事を作る時の穏やかな目元。浴場の後、俺に向ける申し訳なさそうな、それでいて安堵した微笑み。そして今、病に伏した無防備な寝顔。
どの顔も、同じ三日月だ。43年分の全てを背負った上で、それでも俺の前に立ち続ける彼女。
その重みに、俺はいつまで応えられるのだろう。
このまま時間が止まればいいのに。と、柄にもない事を思う。
ああ、
次に"食事"をする時が、
──────怖い。