「けっきょく、振り出しに戻ったわけだ。いや、状況はもっと悪くなってるか。」
猫のようにくるりと姿勢を立て直してオレは地面に着地する。勢いを殺さずに転がって素早く立ち上がると周囲をぐるりと見回した。すぐさま森に向かって走り出したかったが、それはできなかった。もう包囲の輪はすっかり閉じていた。大半の 紐触肉腫達はすっかり上陸し終えていて、オレは湖を背に大量の 紐触肉腫に囲まれる格好だ。オレを触手の攻撃範囲に抑えようとジリジリと距離を詰めているところだったからだ。
(手間取ってる間にもうすっかり囲まれちまってる。この状況で邪魔なやつだけ倒しながら突破するのは途中で足止めくらった時点で終わる)
ならいっそ身体強化全開で包囲を飛び越えて一気に森に駆け込もうとも考えたものの、流石にそれはヤツラも許さないらしい。揃いも揃って触手を高く掲げてざわざわと触手を揺らめかせる。触手の森に囲まれて空は随分と遠かった。
(まあ簡単には逃しちゃくれないよな。この状況なら群れごと一撃で吹き飛ばしちゃえばいけるか?)
オレを中心にこれだけ密集してくれてるのはありがたい。刻印術でまとめてぶっ飛ばすには好都合な条件だ。流石にこれ以上 紐触肉腫が集まるとも思えないし、一気に吹き飛して宿営地までたどり着ければ乗り切れる。残りの魔力と使える刻印術の組み合わせを素早く検討してみる。さっき吊り上げられた時に上空から見た奴らの数、今の残された魔力を全部振り絞ってできる最大規模の刻印の構成。
(多分、今仕掛けるなら、いける。
問題は一撃放った後にオレがほとんど動けなくなることだけど…)
賦活剤は流石にもう使えない。あれは魔力回復が早まる代わりにかなり体力を消耗する。これ以上飲んだら身体の動きが致命的に鈍りそうだった。
(まあそろそろ誰かが迎えに来そうだから連れて帰ってもらおう。)
オレの水浴びがたまに長くなることはみんなよく知っている。だが今日のはそれにしても時間がかかりすぎだ。今頃そろそろ帰ってきても良い頃なのにと首を捻っている頃だろう。あるいはエリクあたりが様子を見にやってきているかも知れない。不本意だけど宿営地にはそいつに護衛してもらおう。
(とにかくやってみるか)
オレが覚悟を決めるのを待っていたかのように、触手の森が覆い被さるように襲いかかってきた。オレはコツコツと輝銀の棍で足元の岩を小突いてから、襲いくる触手の森を迎え討った。避けられないものに絞ってタイミングを狙い澄ました身体強化を乗せた一撃で打ち払う。
【【火炎】 爆裂】
銀の棍で小突いた先に刻印が刻まれていた。岩の表面に浮かび上がる刻印は爆裂する火球を発生させるものだがまだ発動させない。それ一つで 紐触肉腫数匹を倒すには十分な威力を持っているが、群全体を焼き払うには全然足りないからだ。
(一つで足りないなら二つ、二つで足りないならもっと増やせばいい。)
オレは触手の攻めのわずかな隙を逃さず【火炎】の刻印の周りを執拗に複製で埋めていく。大刻印を扱えればこんなに手間なことをしなくても良かったが、あいにく俺は戦士が本業で刻印術はついでに覚えたものだ。出来ることを積み重ねていくしかない。
(エリクの能力借りられてれば大刻印どころか古代刻印だって余裕なんだけどな)
オレは魔王戦の前に【継承】の能力でエルリックの刻印術をたっぷり仕込まれていた。魔王と古代刻印」で渡り合えたのは譲り受けた能力があったからで、けれどそれはあの一戦で使い切っていた。今やオレの胎には残っていない。それをぼやいても仕方がないので、能力の無さを手間で埋めるしかないオレは地道に小刻印を刻む作業を続けていく。
「ちくしょう、こっちは忙しいんだよ、少しは手加減してくれよ!」
触手の森のただ中にある岩盤のステージの上に立つオレを触手の嵐は襲い続けている。集中していれば完璧にかわす事など造作もない事だというのに、刻印を刻みながらとなるとそうもいかなかった。オレの身体は避け損ねて掠めた触手や吹き飛んだ地面から飛んでくる飛礫に打たれ少しずつ傷を増やしていた。全てを攻撃に回すため簡易神殿に回す魔力はとうに切っているので、いつもはなんでもない細かなそれが煩わしかった。
(それにしたって、こいつらなんだってこんなに集まってるんだよ?たとえオレが捕まったところで、晩飯にありつけるのは一匹くらいだろ?どうせありつけないんだから出遅れた奴らはさっさと帰ればいいのに)
間断なく攻め立て続けられるオレは何かに付けて包囲が解かれる妄想を思い浮かべ続けていた。それくらい疲労が溜まっていたのだ。一撃でもいいのを貰えば華奢な身体のは致命傷となる、そんな緊張感の中で刻印を刻み続けるのは想像以上に酷な作業だった。それでも休むことも許されず激しく動き続ける。
(ちくしょう、汗がうっとおしいっ 棍が滑りやがる…)
絶え間なく動かしている身体は全身汗を吹き出していた。すっかり暖まりじっとりと汗ばんだ肌からはほんのりと甘い香りが匂い立ちのぼる。水浴びの時に肌に塗り込めた香油が体温で温められて香りを放っているのだろう。その香りに煽られるように、 紐触肉腫達がざわめいたように感じた。
(おかしい、なんでコイツらこんなにぬるい攻めしかしてこないんだ?)
長い間触手の猛攻にさらされているうちに、オレは 紐触肉腫たちの動きに疑問を感じていた。正直なところ、もっと密度の濃い攻撃をしてくると思っていたのだ。押しつぶすような質量を押し立てた攻撃であればオレも魔力を惜しんで対処は難しかった。しかしヤツラはそれをしてこない。ただ嬲るように間断なくオレをなぶり続けているだけだ。まるでオレが疲れ切って動けなくなるのを待っているかのようだった。
(あいつら、なにを舐め取ってるんだ?)
やつらの行動が普通の捕食行動と違うことにきがついたからなのか、オレは変な動きをしている数体の個体に気がついた。岩にへばりついた何かを触手ですくい取っては消化口に運んでいるのだ。ともすると、 紐触肉腫同士でその何かを取り合っているようにさえ見える。闘いに火照った肌から立ち上る香油の香りとは別の匂いを不意に嗅いだ気がして、オレはすんすんと鼻を鳴らす。この香油の匂いに混じった甘ったるい栗の花の香りは…
「あぁあぁ?!! お前らっ、なんてもの舐めてんだよ?!!! やめろっ!!! 舐めるのやめっ!!!」
唐突にオレは、 紐触肉腫たちが何を取り合っているのかに思い至った。恥ずかしさに思わず顔を赤くして叫んでしまう。叫んだところでコイツラに言葉が通じるわけもなく、オレの目の前で 紐触肉腫達は撒き散らされたゼリー状の粘液を探し、運良く見つけた触手の持ち主はソレを消化口に運んでいく。
(こいつら、オレの、せっ、せーしたべてるっ!!!)
紐触肉腫が口にしているのはオレの撒き散らした精子だった。オレが欲望とそして濃密な魔力をのせて解き放った粘液を探し出して口にしていたのだ。おそらく、こいつらを呼び寄せたのは濃密な魔力の香りだったのだろう。オレが節操なく撒き散らした精子が放つ魔力の香りに誘われて、水底に潜んでいたこいつらが大集合している。それがこの状況の真相だろう。そして粘液の周囲に残る香油の香り、それと同じ匂いをプンプン漂わせてるオレが近くにいた。”美味しい餌”をもっと味わいたいと 紐触肉腫達がオレを付け狙う理由がわかった気がした。
(こいつら、オレを捕らえてじっくり魔力を絞り尽くすつもりなのか…)
紐触肉腫たちの目論見に思い至り、さーっと血の気が引いていく。すぐに殺さず疲れるのを待つようなこの行動、間違いないだろう。たまにいるのだ、 紐触肉腫の中にも美食家なやつが 。こいつらは動物の体液を絞り出して摂取することで活力を得る生き物だ。触手で捕まえた獲物を消化口の上で力いっぱい締め上げ、新鮮な犠牲者の体液を味わい尽くすというのが基本の行動。けれど気に入った体液を出す獲物を生かさず殺さず拘束したままじっくりと味わい尽くす変異種というのが存在していた。
( 紐触肉腫に生殺しで絞り尽くされるのは絶対にいやだ!)
ある意味すぐに死ぬことは無いので生存率は高まるけれど、それは絶対に避けたい結末だ。襲いくる触手の嵐の向こうで、撒き散らされた魔力の残滓を未だに貪欲に探し回っている触手が見える。コイツラに捕まった果てにはどうなるのか。おそらく身体中を触手で身動きできないくらいに絡め取られて、死なない程度に絞り上げられ、ゆっくりと体液を搾り取られるのだろう。
(さっさと終わらせてしまうに限るぞ、これは…)
幸いなことに 紐触肉腫の群れを一撃の元に吹き飛ばすオレの渾身の刻印は完成しつつあった。触手の執拗な攻めの合間を縫って延々と描き連ねた刻印はまるで駆け出しの魔道士が無理矢理描き上げたような強引さだった。そこには洗練と効率の欠片もない。大刻印を使いこなす大魔道士様がこれを見たら腹を抱えて笑い転げることだろう。だけどこいつはしっかりとオレの期待に応えてくれるはずだ。
「【 方円】っと、これでおしまいっ」
最後の刻印を刻み込む。やり遂げた充足感など味わう余裕はない。 紐触肉腫に弄ばれる未来をさっさと吹き飛ばすのだ。オレは輝銀の棍を通じて、足元に広がる刻印の群れに魔力を流し込んだ。
【 方円【 複製……【【【 複製【【火炎】 爆裂】】 複製】…… 複製】】】
最初に起点となる【火炎】から一つの【火炎球】が浮かび上がる。それがやけくそのように書き連ねた 複製の刻印で急速に数を増していく。一つ、二つ、四つ、八つ、オレの周囲を埋め尽くすように増殖していく。
「覆い尽くせっ!!!! 爆炎陣!!! 」
無数の火球に号令をかけるように腕を一振り、それを合図に火球の群れがオレを包囲していた 紐触肉腫たちに襲いかかった。
--轟!
湖畔の静謐を掻き乱して轟音が駆け抜けた。夜に備えて巣に戻っていた森の鳥たちが一斉に飛び立つ。瞬く間に面を制圧していく火球の群れはそこかしこで爆発と閃光を弾けさせた。【火炎球】は所構わず、当たる側から破裂していく。轟音とともに撒き散らされる爆炎と閃光、それに巻き込まれたものに破壊をもたらす。爆炎に巻き込まれた触手が、触手を振り立てる肉塊が、焼きただれ引きちぎられて吹き飛ばされていく。爆発と閃光がおさまったとき、その場に立つものはオレ一人だった。
「ははっ、やったか? やったよな、はははっ」
一人岩の上に立ち、オレは力ない笑いを浮かべる。魔力も体力も限界でへたり込んだ勢いそのままに大の字になって寝そべった。
(あー背中がひんやりして気持ちいいや。もう指一本動かしたくない)
めまいと頭痛でくらくらする。息を整えようと肺が大きく空気を取り込むけど、肉の焦げる匂いが充満していて胸焼けがする。普通だったら食欲をそそられたかもしれなかったけど今はちょっと勘弁して欲しかった。
(ちょっとだけ、休ませてくれ)
俺は目を閉じる
正直言って不用意だったと思う
それでも、この疲労感には勝てなかった。