これは覗かれた深淵と過ごす少年の最期の数日間。
少年は真面目で平凡な子供だった。
「〇〇ちゃん?この成績は何なの?塾にも通っているのにどうしてこんな成績が取れるのか、お母さんに教えてちょうだい」
「ごめんなさい、努力が足りなかったみたいだから、次は上手くやるよ」
「この学校では丸刈り以外認めません、すぐに刈りなさい」
「はい、分かりました」
「〇〇ちゃん?どうして御本尊様に拝まないの?それは謗法というのよ?〇〇ちゃんは破戒僧になりたいの?」
「分かった拝むよ」
ルールがどんなに理不尽でもそれを守り、成績が悪ければ努力してこれを補った。
だが、それは内に思いを秘めることによって無理矢理に従っていたまでの事で、彼は少しずつ蝕まれていった。
最初に感じたのは疲労だった。
「お母さん、疲れたからもう寝るよ」
「まだ御本尊様に拝んでいないわ」
「明日はちゃんとやるよ、だから寝かせてよ」
その日、彼は初めて親に意見した。
その反応は激烈なものだった。
「だめ!拝まないと地獄に落ちてしまうわ!〇〇ちゃんの為を思って言っているのよ!後生だからそんな破戒僧のようなことを言わないで!!」
「でも…」
「でもじゃない!地獄に落ちるわよ!!」
狂暴に叫ぶ母親に恐れをなしてか、少年は拝み始めた。
とても疲れていた、とても眠かった、眠気に負ける度に彼は母親に怒鳴り付けられた。
そんな日が数ヶ月続き、彼はとうとうテストで赤点を取った。
母親は狂ったように怒鳴り散らしたかと思うと、縋り付くように例の御本尊様に拝み始めた。
その時少年は思った、あんなものにすがったところで何も変わりはしない、時間な無駄だ、愚かな女だ、と…
彼は自分の考えた事の鋭利さに驚くと共に、自己が母親を愚鈍と考えていることに気が付いた。
それからは早かった。
彼は学校のルールを下らないと考えることをやめなくなった。
状況に無力感と怒りを覚え、常に何処か苛ついているような雰囲気を隠さなくなった。
少年の脳は怒りと無力感が堂々巡りし、次第に疲弊していった。
そしてある時それは起きた。
少年の瞳は虚空を見つめた。
そんな現象が、場所と時間を選ばずに何度も起きた。
それを気味悪がって人は次第に離れていき、彼は段々といじめられるようになっていった。
いじめの話を聞いた母親は怒り狂い、少年を守る為と称して家に留め置くようになった。
そして彼はニートの如き生活を送らされることになった。
この歪んだ愛情を向けてくる母親なるものから離れる術を奪われたのは、彼にとって不幸な出来事だった。
したくもないのに拝まされ、おべっかを使わなければならない、これは少年にとってストレス以外の何物でもなかった。
それが嫌で、こっそり抜け出ては散歩をして、気を紛らしたが、バレては叱責を受けていた。
虚空を見つめる頻度が増え、母親は拝めば治るの一点張り、彼にとって負のスパイラルとなった。
「どうしてこんな目に合わなきゃいけない?どうして僕ばかり…」
返らない問いを夜毎夜毎に虚空に向かって問い続ける毎日、少年はほぼ無限に出来た時間の中で更に疲弊していった。
そんな日々が続いたある時。
「ねぇ」
声が、聞こえた。
「ねぇったら!」
何もいないはずの場所から声が聞こえる、とうとうおかしくなったのだと少年は悟った。
「ああ、そうか、こうしなきゃ見えないよね」
幻聴は何かを合点したと思うと、何かをし始めた。
いや、しているのは少年の身体だった。
また虚空を見つめる、すると、声の主が見えた。
「こんにちは!やっと私が見えたね!」
やけに黒黒とした格好の少女がそこにはいた。
少年は少女からどういうわけか目が離せなかった。
それはぞっとするほど美しい顔立ちからではないようで、少年が抱いていたのは恐怖のようだった。
「もしもーし?どうしたの?もしかして見惚れてる?いやーんえっち!」
「…ど、どうして僕には君が見えるの?」
至極当然な疑問を呈す。
すると少女はニヤリと笑った。
「君は私、私は君なんだ。私は鏡に映った君みたいなものなんだよ。だから見えるのは当然なんだ、だって君だから!それにね、もう一つあるんだよ」
「な、なに?」
「ふふん、それはね!私が見てほしいって思ったからなんだ。なーんか急に熱視線を送ってくれるようになったからさぁ、今まで見向きもしてくれなかったのに突然に!嬉しかったんだぁ、やっと見てくれたって」
少女は感慨深そうに溜息を吐いた。
「分かってくれるかなぁ?すっごく嬉しかったんだよ?すっごく寂しかったんだよ?」
「何となく」
「うぅ~ん!君ってちゃんと説明すれば物わかりがいいんだね!私はそういうの好きだなぁ、大して手間がかからなくて」
手間がかからない、というところにカチンとくるものはあったが、少年は不満を飲み込んだ。
その様を見て、少女は苦い顔をした。
「それ、やめなね」
「え?」
「いま言葉を呑み込んだでしょ。呑み込まれた言葉はどんどん腐って、腹の中でイラつきに変わるんだ。そんな自分を害する行為をしてたら、いつか君が壊れちゃう」
少女は心配そうに少年を見ていた。
それが何だか嬉しく感じて、そうしない事を決めた。
「手間がかからない、って言われるの、なんか嫌なんだ。自分を扱いやすいって言われてるみたいで」
「うんうん、誰だってプライドはあるからねぇ、失礼だったね、ごめん」
「いいんだよ、別に」
「またまたそうやって…もっと素直でいいんだよ?ふふふ…」
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少女と少年は時間の限りお喋りを続けた。
少年には時間が山程あったから、食事と礼拝の時以外は自室で少女と話し続けられた。
少女の言葉に耳を傾けるのは心地良かった、少女は少年を否定しないし、いつも気にかけてくれた。
やがて少年は現実よりも、虚空を見つめた時に現れる自分の分身との会話の方が楽しいと感じるようになった。
「本当は礼拝だってしたくないんだ。馬鹿馬鹿しい、あんなものに祈ったところで僕は良くなったりしないんだ」
「うんうん、そうだね。君に必要なのは休息と遊びだよ。下らない空想上の上位者に祈るなんて無意味だよ!」
「そのとおりさ、だけど拝まなきゃいけない。あの女は僕のためだなんだって酷いことをしてくるから、自分を守るために付き合ってやらなきゃいけないんだ」
少女との会話は次第に愚痴も交じるようになっていた。
少年にはそもそもそれが出来るほど親しい友人がいなかった、皆カルトの信者の息子など気味悪くて相手にしなかったし、少年自身の性格も人を近寄らせなかったからだ。
「君は大変だなぁ。面倒な学校の連中から解放されたと思ったら、家にいる面倒な奴の相手をしなきゃいけないんだから」
「そうなんだよ、これなら離れられる場所があった時の方がマシだったかもしれない…君はいつも僕が欲しい時に欲しい言葉をくれるね」
「ふふん、なんたって私は君だからね!君の考えることはお見通しなのさ!」
この少女が自分以外には見えず、他人には言葉も交わせないだなんて少年には信じられなかった。
けれど少女は本当に見えないらしい。
「それにしても、君のお母さんはとんでもなくおかしな人だね。何でもかんでも拝めば治ると思ってる。私の存在さえ、あの人には病気か何かに映ってるみたいね」
「その話なんだけど…君のような存在は、お母さんや他の人にもいるのかい?」
かねてから疑問に思っていた事を、少年は問う。
「いるよ。でも、君のお母さんには私のような存在はいらないみたいだよ。だって、あの人には救ってくれると思ってるものがあるからねぇ」
「あの訳の分からない宗教か、反吐が出る…でもその理論で行くなら、君は僕を救ってくれるの?」
「そう望んだからこそ私はここにいるんだよ?私は何があっても、君が何を決断しても、ずーっと君の味方だよ」
少年は少し考え込んだ。
もし、彼女が母の言う拝めば治る御本尊様とやらと同列の、自分が生み出した虚像だったとしたら、自分は自分に絶望してしまうだろうと。
少年にとって虚像に縋る行為は自分が最も侮蔑している存在と同格に堕ちることを意味した。
「大丈夫だよ、私は虚像じゃないから」
安心させるように、考えていることをピタリと当ててきた。
ドキッとして少女を見つめると、少女は微笑んで少年を包み込んだ。
「それは一部分では正解かもしれないけど、残りの九割九分は大間違いなの。私は確かに存在すること、それだけは言っておくよ」
「そうか、良かった…なら僕が君を好きだと思うのは、下らない妄想なんかじゃないんだ…」
「そうだよ!むしろもっと好きになってほしいな!それが君のためにもなるんだから!」
包み込まれた少年は、その言葉に安堵して眠りについた。
そして翌日
「〇〇ちゃん、寺院に行きましょう」
その提案は唐突だった。
黒い感情を抑えきれない、この期に及んでまだ拝めば治るなどと信じているのだ。
彼は変わった、少女との会話の中で、自分に嘘をつくことが毒だと知ったからだ
「ふ…ざけるなぁ!!」
故に激昂してテーブルをひっくり返す。
「てめぇの下らないままごとに付き合わされるのはうんざりだ!!てめぇの空虚な妄想に僕を付き合わせるんじゃねぇ!!」
「なんてことを言うの!私は〇〇ちゃんのためを思って…」
「寺で祈って何になる?こんなたかだか数千円のフィギュアに祈って何が変わった!僕のためを思って?そう言い聞かせている自分に酔っているだけだろうが!!僕の人生をめちゃくちゃにしやがって!!」
捨て台詞を残して、彼は玄関に向かった。
行くあてはある、彼は無限の時間の中で、自分の死に場所を探していた。
もはやこの世に1秒もいたくない、ここで終わりにすれば、少年は一心同体である少女と、今度こそ無限の時間の中で一緒になれると考えたのだ。
「終わりだ!全部終わりにしてやるぞ!」
彼は虚無を見つめながら、がむしゃらに終の場所に向かって走った。
「本当にいいの?ここで終わりにしちゃって」
いつになく元気のない声が聞こえる。
「良いさ!僕の周りには誰もいない!生きていても生き地獄が続くだけだ!ならば僕は一瞬の苦しみと引き換えに永劫の幸福な眠りにつくことを選ぶ!!僕の半身よ、君が半身だというのなら、最後までついてこい!!」
「あはは…いいよ、付き合ったげる」
抑揚の戻った声で、少女が妖しく笑う。
……………………………………………………………………‥……
ヒュウ…と風が駆け抜けるはマンションの屋上。
彼はここで最期を迎えることを選んだ。
「さぁ、行くか…」
覚悟を決めた表情で一歩一歩端のほうへと歩いていく、その動作に迷いはない。
「ねぇ、君は、自分を愛せた?」
「それはともかく、君は愛しているとも、だからこそ、守るために死ぬんだ。さぁ、一つになろう」
少年は少女を抱き寄せて
二人で下に落ちていった。
グチャ、という音を立てて、少年は肉のペーストに成り果てた。
かろうじて顔は残ったが、その顔は満足げだった。
「こんなの…悲しすぎるよ…私はただ、君に自分を愛してほしかったのよ…」
一人、誰にも認識されなくなった少女が呟く。
「君は半身として私を愛したんじゃなくて、私として愛してしまったのね…」
かろうじて生きている耳で、少年は聞いていた。
「最期まで、いてあげる。次の人生は、きっと素晴らしい両親と、友達に囲まれた人生だよ。だから、お眠りなさい。私もすぐ後を追うわ」
「な……、‥で……」
「半身だから、最期まで一緒なのよ、それに、私はあなたが好きだった」
「そ…か……」
少年は喜びと希望の中で死んだ。
その姿を見た少女は悲しげに笑うと。
「どうか私達の次の機会に、幸多からんことを…」
そう言い残して消えた。
しかし彼等は幸福の中で死を迎えた。
今は、それでいいのだ…