雨の日は、私の恋路に特別な出来事が起きる日、だったりするのだろうか。
一つめは、私が楽郎くんの事を知った日。私の心が動き出した日、とも言える。その気持ちが恋であると知るまではそれなりに時間が掛かったけれど、それでもあの雨の日は特別だ。
(ああ、見ていますか、中学生の私。私は今、貴女が偶々見かけたその人と交際しているんですよ。灰色の日常が続くばかりと思っていた未来は、貴女が思うより随分と色鮮やかになりました)
二つめは、楽郎くんと、その……『初体験』を、した日。あの日以来お互いストッパーが緩んでしまったのか、この二ヶ月くらい、度々……えっと…………。
(ああ、見ないでください、中学生の私。私は、貴女が思い描いていた未来の姿から随分とかけ離れてしまったようです。でも今、そんな日々にも私は心から充実を感じています。何一つ問題はないので安心してください…本当ですよ?)
そして今日は、三つめになるかもしれない。ガラス戸の向こう側でバケツを引っくり返したような土砂降りの雨が降り、雷鳴が時折漏れ聞こえてくるリビング。私は馴染みないダイニングテーブルの椅子に、座りを正して硬直していた。
私の左隣にはサイドテールで私より背の低い少女――瑠美ちゃん。
向かいには、長い黒髪を後ろで結んだ柔和な雰囲気の女性――永華さん。
斜向いには、ゴツゴツした風貌ながら、目に楽郎くんと親しいものを感じる男性――仙次さんが座っている。
既に面識のある瑠美ちゃんは平然としているけど、永華さんと仙次さんは、目を丸くして私を見たり、お互いに見合わせたりしている。
右隣で立っている楽郎くんが咳払いして口を開く。耳まで真っ赤になっててかわいい。でも多分、私も似たようなものなのだろう。
「ごほん。あー……母さん、父さん。こちらが…俺の彼女です」
緊張に心臓が早鐘を打っているのを自覚しつつ、表面上だけでも落ち着いているように見せつつ立ち上がる。
「ご、ごごご紹介に預かりました、斎賀、玲っ……っと!申し、ます!!楽郎くんと、お付き合いを、させていただいて、おります!! ほ、本っ日は! お世話になります! よろしく、お願いしま、ます!!」
一歩下がってから上半身を90°倒してお辞儀。ああ、所作は頑張ってるのに舌が全く回らなかった。大丈夫だろうか。悪印象を与えていないだろうか。再び椅子に座り直すまで、私の頭の中は祈りでいっぱいだった。
「「ワーオ」」
息の合ったリアクションが返ってきた。
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元々は、楽郎くんの家に行く予定は無かった。
三年生は高校生として活動できる最後の時期ながら、来年度以降に向けた準備も進めていかなければならない。受験勉強など、その最たるもの。
そのため、今日は図書館で楽郎くんと勉強会をすることになった。お互い偏差値的には大きな問題はないが、出来る対策を怠っていい理由にはならない。
予め調べてきた数年分の過去の試験問題に挑戦し、採点しあって勉強不足な範囲を割り出せば、既に結構な時間が経過していた。
そこに甘酸っぱい時間は無く、淡々と目の前の問題に取り組んだだけではあったが、これはこれで学生の間にしか味わえない空気感で、私は嫌いではなかった。
楽郎くんと一緒に勉強が出来るだけでも、私は十分幸せなのだから。
そうして、私達にしては珍しく、ゲームよりも学業に関する話題が多かった帰り道、楽郎くんが私に切り出した。
「今日、父さんも母さんも帰るの遅いんだけど…うち、寄ってく?」と。
私は迷った。激しく迷った。
行きたい。とても行きたい。だが、この後、天気が大荒れになることを私は予報で見てしまっている。夕暮れの辺りから降り出した雨は次第に強くなり、夜には徒歩三十分の道のりを、とてもではないが歩いて帰れないような強い雨が、翌日未明まで続くのだと。
私の性格を鑑みれば、一度足を踏み入れれば雨が降り出す前に帰れるはずはない。一応、迎えの車を手配することも出来なくはないが、そんな雨の中迎えにこさせるのも些か忍びない。
すなわち私の目の前にある選択肢は、「泊まるか、帰るか」の二つ。
明日は日曜日。泊まる事によって学業に支障が出るわけではないけれど、染み付いた常識と良識は朝帰りを良しとはしてくれない。
心の中の天秤は、時間をかけて少しずつ、右の皿が傾いていく。
やがて、決定的な傾きが訪れ、
「……きょ、今日は…このまま帰ろうかと…」
「あ、そう? 晩メシご馳走しようかとも思ったんだけど」
「やっぱり行きます」
『楽郎くんの手料理』という付加情報が、天秤そのものを左になぎ倒した。
そうして、あえなく楽郎くんの家にお邪魔した私は、帰りが遅いはずだった楽郎くんのお父様にお母様、そして瑠美ちゃんと対面し―――今に至る。
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最初に口火を切ったのは、仙次さんだった。
「『さいが』…? つかぬことを聞くけれど、我能さんを知っていたりは…」
「は、はい。私の祖父です」
「おお、やはり!はっはぁ……世界は案外狭いもんだな!」
「あらお父さん、知り合い?」
「おう。釣友だ!」
お祖父様のお陰で仙次さんの反応は上々。楽郎くんの言い方を借りるなら「初期好感度が高い」というべきか。ありがとうございます、お祖父様…。
仙次さんが身を乗り出して近づいてくる。その目にはやはり、彼を彷彿とさせる煌めきがあった。
「ちなみに玲ちゃんは釣りは好きかい?」
「え、えと……きょ、興味はありますが、経験は、その……」
本気の趣味人相手に嘘は通じない。見栄は張らず、本心をそのまま伝える。
お祖父様から何度か話は聞いていて興味はあったけれど、そんな時間は今まで無かった。
「ああ、良い良い。興味を持ってくれているだけでも十分だとも! …おっと、今日釣った分を早く調理しないとな! 今夜はニジマスの塩焼きだ!」
「良いわねぇ」
仙次さんが席を立ち、キッチンに向かっていく。その横顔は実に楽しそうで、永華さんはそんな仙次さんを微笑ましげに眺め、瑠美ちゃんは…見てすらいなかった。
(―――ああ、成程)
なんとなく、理解できた気がした。楽郎くんがあれだけ真剣にゲームを楽しめるのは、血もあるのかもしれないけど、この家族だからなのだと。
一見、それぞれが趣味に生き、てんでバラバラの方向に向かっているように見える。だが、彼らは誰一人として
趣味に邁進することは、基本的には前向きで、少なくとも当人にとって楽しい事。楽しい事に全力で打ち込み、人生を全力で謳歌している人が、輝いていない訳がない。
そんな人々に囲まれて育っていれば、否が応でも前を向く。自分の趣味は何なのか知りたくなり、一度見つければどこまでも突っ走りたくもなる。それを真っ向から否定する人は、ここにはいない。
だから、この家はこんなにも明るい。各々の世界を楽しんで生きている彼らの鮮やかさが、家全体に伝播している。
なんだか、涙が出そうになった。決して、
ただそんな中で、こんなにも眩い家庭があったのか、と。
自然が生み出す絶景でも、外国の町並みでも、名作映画でも同じこと。自分の知る世界とはまるで違うものを見た時、人はわけのわからない感動を覚える。
それは、人々の内にある『自分の世界』と『自分の知らない世界』が混ざり合い、『新しい自分の世界』が生まれることによる感動なのだと思う。
一陣の風と共に、それまでの価値観がまるごと塗り替わり、世界が広がっていく感覚。今私は、確かにそれを覚えていた。そう、あの雨の日の時のように。
「驚いたかしら。まぁ我が家はこういう感じの一家だから」
開いた口が塞がらなくなっていた私に、永華さんが苦笑しながら話しかけてくれる。い、いけない。驚きのあまり自分の世界に入り込んでしまっていた!
「あ、い、いえ…! その、とても、素敵なご家族だと! 思います!!」
「ふふ、ありがとう。私からは特に言うことは無いわ。楽郎と、仲良くしてあげてね」
「そういうのって俺がいないところで言うべきじゃない?」
「はい! もも、もちろんです!!」
「うーん。本当に良い子ね…。楽郎、離しちゃだめよ?」
「っ……!」
仙華さんの、楽郎くんへの言葉に、心臓が急に跳ね上がる。一瞬で全身が緊張に強張り、楽郎くんの返答を一言一句聞き漏らすまいと神経を集中させる。
「……玲さんから手を離されない限りは?」
楽郎くんの言葉を、ゆっくりと、確実に咀嚼する。
『玲さんから手を離されない限りは』。それはつまり、『私が手を離さない限りは』ということ。
そんなこと、ある訳がない。ある訳が無いので、大丈夫。大丈夫なので、安心していい……。
「離されないよう努力しなさいって言ってるの。じゃあ私、カブトムシ達の世話してくるわね。お父さん、私の分はテーブルに置いといてくれたら後で食べるからー」
「おーう」
そう言って永華さんも席を立つ。ほ、本当に日曜日以外はご飯を一緒に食べたりしないんだ…。陽務家には、つくづく常識が通じないことを再認識する。
「ふうぅ……」
「あのー斎賀さん」
「ひゃい!?」
安堵に包まれ、少しずつ緊張をほぐす中、細く長い息を吐く私に横から瑠美ちゃんが話しかけてくる。し、しまったまだ彼女が残っていた!
…別にボスラッシュの類でも無いのに、なんでそんな考え方をしているんだろう私。
「な、なんでしょう瑠美ちゃん?」
「今日、泊まっていくんですよね」
「泊ま…っ、そ、そのつもりです…」
「ですよね。斎賀さんの寝る場所なんですけど、私の部屋で良いですか?」
「えっ!?」
いきなりの提案に心臓が跳ねる。ど、どうして急にそんな話に!?
「すげえ、瑠美がペン…天音永遠以外に敬語使ってる」
「お兄ちゃんうるさい。敬語くらいバイトでいっくらでも使うっての」
「そ、そんな。急に押しかけてきた身の上で、個人の部屋にお邪魔するのは流石に…!」
「いえいえ、私としても話したいこととかあるので、ついでですよついで! …お兄ちゃんも、良いよね?」
「ん? あぁ……まあ玲さんが良いなら」
「よし。…どうでしょう、斎賀さん? あ、そうだ。『玲姉さん』って呼んだ方が良いですか?」
「ぴっ」
「あっ瑠美お前!」
玲姉さん?
玲姉さん……?
玲義姉さん………!?
義姉さん………義理の姉………つまり楽郎くんのお嫁さんで………私、私………!!!
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「あれ、斎賀さん? もしもーし」
「まったく…瑠美。玲さんはこういう話題になるとフリーズする癖があるんだ。からかうのは程々にな」
「えぇ…難儀な人。……まあお兄ちゃんとお似合いなんじゃない?」
「お? 兄妹喧嘩するか?」
「冗談冗談。…似合いだと思ったのはホントだよ」
「ぬぅ……仕方ない。許してやろう」
「ちょっろ」
「あ???」
父は本来海釣り予定だったが、載せてもらう漁船の船長が
母は予想外の幸運で目当ての虫を捕まえられたので、早く世話したいがため帰宅時間を前倒しした。
ヒロインちゃんとサンラクサンの初体験については、投稿者の過去作「壊れるくらいに、離したくない」をチェックだ!