それは天気予報にもない、急激で強烈な雨だった。
「っはー……ずぶ濡れだな」
「もう少し、早く切り上げるべきだったわね」
雪ノ下のマンションの部屋の玄関は二人分の雫を受けて黒い水たまりが広がっていた。いつも通り雪ノ下を家まで送り届ける最中に、猛烈な通り雨にやられたのだ。
「はっ、くしゅ!」
五月も半ばとは言え、夕方ともなれば気温は二十度を下回っている。盛大にくしゃみをすると、雪ノ下もブルっと方を震わせた。長い艷やかな髪も制服同様に重く濡れて、いかにも寒そうだ。
「シャワー、浴びて行って。制服、乾かしておくから」
「いやそりゃありがたいけど……。先にお前が入れよ。俺は大丈夫だから」
「何言っているの。あなたはこれから帰らないといけないのだから、先に」
「いやいやお前そんな身体丈夫じゃないだろ? いいから先に入れって」
「駄目よ。風邪を引いてしまうわ」
「いやだからそれはお前もだろ、ってかお前の身体の方が心配だし」
話が平行線を辿る間も玄関の床は濡れ続けて、雪ノ下の肩の震えは止まらない。こういう時は折衷案だ。あれ、でもこの状況の真ん中ってどうとるんだ?
「じゃあ……」
同じことを考えているのか、雪ノ下はそこで言葉を切ってその先を飲み込んだ。だから代わりに、その先を俺が引き継ぐ。
「……一緒に入るか?」
「……」
雪ノ下は返事をする代わりに頬を赤らめると、コクっと小さく頷いた。
バスルームにはもうもうと、湯気が立ち込めていた。先に入っていて、と放り込まれた俺は、先に熱めのシャワーを浴びている。
脱衣所まで一緒ではなかったのは残念な反面助かった。目の前で服を脱がれては、俺も理性を保てる自信がない。
実際のところ雪ノ下とそういう雰囲気になった事は、今まで一度もない。時折手を繋いだり肩を寄せ合ったりと、それはもう健全で初すぎるぐらいのカップル具合だ。
ただだからと言ってそういう目で雪ノ下を見ていない、という訳でも勿論ない。むしろ毎晩初エッチの妄想を繰り広げるまである。
──コンコン、とバスルームの扉がノックされる。
「……入るわよ」
「……ああ」
軽い音を立てて、バスルームの扉は開かれる。来てしまったか、ついにこの瞬間が。曇ってしまった鏡越しに雪ノ下の方を見ると、そこには──。
「え?」
その姿を鏡で見て、思わず振り返って直接二度見してしまう。雪ノ下は、きっちりとその身体にバスタオルを巻き付けていた。
「マジかよ、お前……」
「何を勝手に想像していたかは知らないけど、そんな簡単に貴方に裸を晒すと思った?」
呆れたようにそう言う雪ノ下に対して俺は、勿論全裸である。雪ノ下はふとその差に気づいたのか一瞬視線を下げると、頬を真赤にして思いっきり顔を反らした。ええぇ……何で俺だけ真っ裸見られてんの?
「その……しまって貰えるかしら?」
「無理だろ……。ってか見なきゃいいだけだし」
股に挟んで隠せってか。変態っぽさ全開だから絶対やりたくないな……。
俺は諦めと覚悟を決めて雪ノ下に向き合うと、勢いよく出続けるシャワーのお湯を彼女の肩にかけた。
「あつ……」
「あ、わり……」
早く身体を温めなければと思ってやったが、雪ノ下にとっては熱すぎたらしい。温度調節のハンドルを回していると、ふとバスタブに視線がいく。
「……風呂入れた方がちゃんと暖まれるよな」
「……ええ、それはそうね」
シャワーで身体の芯まで温めようとすると、それこそしっかりと長い時間熱いお湯を浴び続けなければいけない。そんな事も気づかないぐらい、俺達はこの状況に冷静でいられなかったらしい。
雪ノ下はしゃがみ込むとコントロールパネルを操作して、バスタブにお湯を溜め始める。ふと見えたうなじにドキッとして、思わず視線を反らした。
「あー……入れながら入るか?」
「そ、そうね……」
このままシャワーをどちらともなく浴び続けるよりは、そちらの方が手っ取り早いだろう。雪ノ下はしずしずと俺の方を見ないようにバスタブに入ると、その背中に俺が座る分のスペースを開けてくれる。
どっこいせ、っと俺もバスタブに入ると、シャワーのお湯を止める。最新式らしい給湯器は、かなりの勢いで湯船にお湯を溜めていく。
半分ぐらいお湯が溜まったところで、やはりその違和感に目が行ってしまう。湯船に浸かりながらバスタオルを巻いていいのは、撮影の為に特別に許可を得た場合だけだよ?
「あのー、雪ノ下さん? お風呂でバスタオルはマナー違反だと思いません?」
「それは……そうかも知れないけれど……」
どれだけ脱がそうとしているんだ、とシラっとした目線が振り向きざまに刺さる。別に裸が見たいんじゃありませんよ? マナーの問題ですよ?
「ってか何で俺だけ裸……」
「わ、分かったわよ……」
雪ノ下はおもむろに立ち上がるとバスタオルを──外すことなく扉を開けて脱衣所に戻ると、バスルームの照明を消した。脱衣所からの明かりだけがバスルームを照らして、雪ノ下のシルエットが浮かび上がる。
身動ぎするような動作の一瞬後に、よく水を吸ったバスタオルが床に落ちた。雪ノ下は大事なところだけを隠しながら、バスタブの中に戻って再び俺に背中を向ける。あまりの早業と逆光のせいで、何も見えなかった……。
「これでいいでしょう?」
「あ、ああ……」
自分で煽って置きながら、今この状況は相当にヤバい。何がヤバいってもうそれは鬼ヤバイ。語彙力ゼロになるぐらいヤバババババイ。
目が慣れてくると濡れた雪ノ下のうなじと背中がすぐそこにある。やがて給湯が終わるとわずかな水音とお互いの呼吸だけがバスルームに響いて、十分前には想像もつかなかった非日常がそこにはある。
「なあ……」
俺が呼びかけると、びくんと雪ノ下の肩が震える。返事が届く前に、俺は意を決して言葉を続ける。
「ちゃんと肩まで浸かれよ」
「あ……」
そう声をかけると、そのままその肩を引き寄せた。俺の胸に細い肩を抱き寄せると、黒目が大きくなった雪ノ下と視線が合う。
「急に、何……」
「いや、そんな背筋しゃんとしてたら、全然温まれないだろ?」
未だ緊張しているのか、雪ノ下は腕で乳房を隠したままだ。抱き寄せたままその細い腕を撫でると、雪ノ下は意外にも無抵抗でその腕を下ろした。ぼんやりとした明かりの中でそのお湯の中にあるものが見えてしまいそうになって、俺は慌てて雪ノ下の乳房ごと抱きしめる。
湯船の中ではすらりとした白い脚が伸びていた。くびれははっきりと女性らしいラインを描き、この世のものとは思えない神秘さを湛えている。脱衣所から漏れる淡い光だけでも、十分に彼女の肌の肌理細かさが分かった。
「……比企谷くん」
雪ノ下が身じろぎすると、腕に当たっている乳首の感触で背中が仰け反りそうになる。
「見過ぎよ」
「あー、いや、うん。すまん」
ふいと視線を反らしたが、もはや今更何の意味もない。バクバクと早鐘を打つ鼓動が彼女に伝わらない事を、祈るばかりだ。
「それから」
雪ノ下はふと湯船の水面に視線を落とした。心無しか、さっきより顔が赤い。
「さっきからお尻に当たっているのだけれど……」
「……すまん」
これはもう、だってね? 生理現象だから仕方ない。抱き寄せる前にこうなる事を予測できなかった俺の単純ミス。思いの外、この状況に興奮してしまっているのだ。我が息子に悪気はない。
「先に出るわね」
そう言うと雪ノ下は俺の腕の中からするりと抜け出して、俺は今度こそ完全に見えてしまいそうな裸から目を反らした。今見てしまうと、本当に歯止めが効かなくなりそうだった。
「洗濯機の上に、着替えを置いておくわ」
扉の向こうに行ってから、雪ノ下はそう俺に告げた。パチンと明かりが灯ると、思わず嘆息した。
雪ノ下がまだそこにいるから、とかそんな事は関係なく。もう少ししてからじゃないと、出れそうにない。
* * *
着替えを終えてリビングに戻ると、雪ノ下はハンガーにかけてあった俺の制服を検分していた。
「なぁ……」
「出たのね。少し時間かかるけど、いいわよね」
俺の問いかけにかぶせるようにそう言うと、雪ノ下は俺の制服と自分の制服を持ってバスルームの方に戻ってしまう。まああんな事のあった後だから、無かった事のように振る舞われるのは何となく予想のつく事だった。むしろ今からほじくり回されたらそれはそれで辛い。
「二時間もすれば、着れるようになると思うわ。紅茶でいい?」
リビングに戻った雪ノ下は、俺の返事を聞く前にキッチンに向かう。多分、浴室乾燥機というヤツなのだろう。世の中便利になったものである。
「ああ……」
雪ノ下は紅茶を入れている間にアップにしていた髪を下ろすと、タオルドライに勤しんでいた。窓の外の雨は、もうすっかりと止んでいる。
雪ノ下はいつかのように膝下まであるロングスカートに、ブラウスにカーディガンと休日のお嬢様スタイルだ。俺に貸し出された服はと言うと、グレーのスウェットの上下。うん、寝間着だ。
「おまたせ」
雪ノ下は再び髪をアップにまとめると、手慣れた所作で俺の目の前にソーサーと紅茶の入ったコップを置いてくれる。俺の横に半身ほど間を開けて座ると、彼女はその香りを楽しんでいるようだった。
「なあ、雪ノ下」
「何かしら」
「……何で俺の着替えが用意してあるんだ?」
カップを口につけようとしていた雪ノ下の動きが、ピタと止まる。俺の身を包むスウェットはサイズも袖丈も測って買いましたとでも言わんばかりにピッタリだ。
「……知らない」
雪ノ下は一口紅茶を飲んだ後にもう半身分の間を開けて座り直した。なんだコイツ可愛すぎて完全に俺を殺しにかかってきているじゃねぇか可愛いな。
俺はソーサーごと雪ノ下の方に身体一つ分移動すると、わざと生まれた隙間を埋めた。すでに一番端まで来てしまった雪ノ下には、それ以上避けるスペースはない。
「何よ……」
「なんでもねぇよ」
訝しむ雪ノ下は少し身体を硬くさせているようだったが、俺に他意は無かった。なんだかんだ雪ノ下には、意外と普通の女の子の部分だってある。一人暮らししていたらまぁ、そんなシチュエーションがくる事を何となく想像できるのだろう。既に用意されていた、というのが、俺の予想を超えていたってだけだ。
「別に取って食ったりしないっての」
雪ノ下の緊張をほぐそうとそう言うと、「はぁ」と彼女は俺に聞こえるように息を吐いた。
「……そうよね。キスだってまだなの、に……」
ポロリとそう言うと、雪ノ下は再びかたまった。何で言わなくてもいいことポロポロ言っちゃうんだろうこの子……。
「それひょっとして俺責められてる? 甲斐性無しとか?」
「な、何でもないわ。気にしないでちょうだい」
赤い頬は紅茶の熱さからではないのを、俺はよく分かっている。そういう初な反応はやめろっつーの。何かしなきゃって考えてしまうだろうが。
「なあ雪ノ下」
「……」
目だけで返事をすると、雪ノ下はまぶたをパチクリさせる。
「そのまま黙って目を瞑っててくんねぇ?」
「イヤよ今の流れでするわけないでしょう。もうちょっと雰囲気とか……考えてよ」
早口が段々と緩慢になり、最後は消え入りそうな声になっている。紅茶の水面に落とされた視線が、儚げに揺れている。
「俺にそれを求めるなよ……」
妙に気恥ずかしくなってこっちまで小声になってしまう。でも実際にさっき目を瞑られていたら、どうしていただろうか。
冗談だ、なんて言って切り抜ける事は出来なくもないが、多分後からメッチャ怒られるから多分その選択肢はないのだろう。今日は何だか色々起こりすぎて、何かが変わり過ぎている。ただ、通り雨に振られただけなのに。
「それにね、比企谷くん」
雪ノ下はそう言うと俺の方を向くと、ぐーっと俺をソファの真ん中の方まで手で押しやった。せっかく詰めたスペースは、強制的に再度空けられてしまう。
「私は、ちゃんと言ったわ。あなたからは、きちんと聞いていないけれどね?」
何の事だよ……としらばっくれれば良かったが、そうしたところで結末は何も変わらない。あの日の事を言っているのはすぐに分かってしまった。合同プロムのあの日、雪ノ下は確かに言った。たった一言で終わらない、語り尽くせない感情を、たった一言で言ったのだ。
「今それを言うのは、性格悪くないですかね……」
「あら、あなたほどでは無いと思うけれど」
小首を傾げる姿はいたずらっぽくて、いつの間にやら形勢が逆転している。
今か。今ここなのか、年貢の納め時は。まあいずれくる事は分かっていたけれど、下手に誰かに聞かれる可能性がある場所より、二人きりの部屋の中の方がハードルは低い。覚悟を決める時が来たようだ。
「あー、じゃあその、言うけど……」
「……はい」
俺の声色が変わったのが分かったのか、雪ノ下は居住まいを正した。いつも以上に背筋がしゃんとしていて、にわかに緊張感が部屋を支配する。
「お前が好きだ。雪ノ下」
咳払いの後に、ちゃんと目を見てそう言った。それを雪ノ下は目を逸らさず、最後まで聞き届ける。
「……」
「いや無言は止めて? それ仕返し? 俺の時は固まってただけだからね?」
俺が言うと「ぷっ」と雪ノ下は吹き出した。今日一番の、それは幸せそうな笑顔で、思わず「てぇてぇ……」と呟いてしまうぐらい綺麗な表情だった。
「何だかキスしたくて、言わされているみたい」
「……お前……本当にキスするぞ」
「いいわよ」
思わぬ即答に一瞬固まってしまう。雪ノ下は自分から言ったクセに恥ずかしそうに目を伏せると、モジモジと俺の次の動きを待っていた。その仕草一つ一つが可愛すぎて、録画して置きたいぐらいまである。
「雪ノ下……」
そっと肩口に触れると、雪ノ下は何も言わずに目を閉じる。顔は真っ直ぐに俺の方を向いて、もう俯きも反らしもない。
心臓が飛び出しそうだ、と言う表現はこういう時に使うのだと思う。なし崩し的に一緒に風呂に入った時よりも、手に汗をかいている。
ゆっくりを顔を近づけていくとサボンの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。あれこれ、俺はいつ目を瞑ったらいいんだろう。
「……」
唇が触れる瞬間、目を瞑る。真っ暗のはずの視界は、何故だか真っ白に見える。
「ん……」
何秒そうしていたか分からない。雪ノ下の唇は想像よりもずっと柔らかくて、……熱を持っていた。
触覚と嗅覚で認識する彼女は、消えて無くなりそうな程に儚く感じられる。このままどこかに行ってしまわないように肩に添えた手に力を込めると、身動ぎした雪ノ下から唇を離した。
「……は……」
キスが終わっても息を忘れていたのか、雪ノ下は薄っすらと目を開くと唇に手を添えて息を吸い込む。熱の余韻を確かめるような仕草に、心臓が鷲掴みにされた気がした。
「……もう一回」
「へ?」
「もう一回、してもらってもいい?」
「あ、あぁ……」
あまりにあどけないお願いに三秒は固まってしまう。ふと顔を近づけると、雪ノ下は求めるように僅かに顔を上げて目を瞑る。
「ん……」
今度は少し顔の角度を変えて唇で雪ノ下の唇を食んだ。眉毛がピクリと動き、俺はその感触を頬で受け取る。
「はぁ……」
たっぷり十秒はそうした後、唇を離す。俺は放心してソファに背を預けると、雪ノ下は飛び込むように俺の肩に額を押し付けた。スウェットの胸の辺りが、震えを止めるように強く握られている。
何なんだ、キスっていうのは。こんなに神経使ってガチガチに緊張して、世の中のカップルはこれを自然にやってのけているというのが信じられない。慣れの問題なのかもしれないが、慣れる前に心臓が止まりそうだった。
「比企谷くんは、その……」
「ん?」
「私を、そういう対象として見れるの? というか、見ているの?」
相変わらずはっきりとは言わないけれど、雪ノ下の言わんとしている事は分かった。自分を性的な対象として、見れるかと俺に聞いているのだ。
さっきのバスルームでの事を思い出して貰えば分かりそうなものだが、それでも彼女は問うのだ。俺の答えは、もう決まっている。
「見てる。言い訳は何もできん」
「そう……。別にしなくていいのだけれど」
そこで言葉を切ると、雪ノ下は「はぁ」と溜め息にも似た息を吐いた。
「この前、姉から動画が送られてきたの」
いきなり何の話だ? と訝しんで雪ノ下の方を見ても、彼女は顔を上げようとしなかった。どんな表情をしているかも、全く見えない。
「動画って、何の」
「アダルトビデオ」
「は?」
何やってるんだよあねのん……。よりによってクソがつくほど純情で潔癖な雪ノ下に見せていいもんじゃないだろ……ってか何系の動画だったのだろうか。それによっては俺の今後の性生活が決まってしまうのでジャンルとプレイ内容を仔細に渡って教えて頂きたい。
「それを見た上で言うのだけれど」
「見たんかい……」
相変わらず顔は挙げずに、「んんっ」と雪ノ下は咳払いして続けた。
「私もあなたの事……そういう目で見てる」
にわかにスウェットを握り込む力が強くなって、俺はそれが心臓を掴まれたみたいに錯覚する。心臓が止まる前に、潰されそうだ。
雪ノ下の発言は、もうこのまま押し倒して貰って構わないと、そう言っているようなものだった。だけど俺はそれをしないし、出来ない。
「分かった……。でもまぁ、焦ることはないしな」
本音を言えば、もう今すぐにでも押し倒したい。でも俺はそれをすべきではない。
何故ならば──俺はコンドームを持って来ていない。こんな展開予想もしていなかったし、いや買ってはあるんだよ? でも財布に忍ばして置いてうっかり誰かに見られよう物ならもう犯罪者扱い確定だ。それが奉仕部内で露見しようものなら雪ノ下まで巻き込まれ事故にあうまである。
「また今度、な……」
「ええ……。私も今度あなたがここに来るまでに、覚悟を決めておくわ」
そこまで言ってようやく、雪ノ下は顔を上げる。いまだにキスしたてのように、頬が赤い。
雪ノ下はゆっくりと立ち上がると、ふと飲みかけの紅茶に視線を投げる。
「まだ時間がかかるし、ご飯、食べていくでしょう?」
「ああ、頼んでいいか?」
「もちろん」
雪ノ下がキッチンに歩いていくと、さっきまでの甘い雰囲気は「ご飯」という直接的で分かりやすい魅力の前に霧散していた。
雪ノ下の作る飯は、まあ美味い。見た目も味も店レベルだ。将来の旦那が羨ましくなるレベル……とまで考えて、俺は思考を中止した。今そこに一番近いの、俺か。
* * *
「ごちそーさん」
「お粗末様でした」
俺は雪ノ下が食べ終わるのをまって、そう言うと手を合わせた。
家ではここまで丁寧にご馳走様を言う事はない。けれど自然とそうしてしまうぐらい、雪ノ下の作る晩ご飯は美味かった。全くどの面を切り取っても完璧超人だ。コミュ力以外。
「そろそろ乾いた頃かしらね」
雪ノ下はそう言って視線でバスルームを指す。気づけばもう夜の八時も近くなっていて、そろそろ干し始めて二時間は経とうかという頃合いだ。
「ああ、見て大丈夫そうなら着替えてくる」
「ええ」
俺がバスルームに向かうと、雪ノ下は席から立ち上がって後片付けを始める。この新婚感……プライスレス。
バスルームの扉を開けると、温かいがカラッとした風が頬を撫でていった。制服を確かめると上着はまだ半乾きだったが、カッターシャツはもう着れそうだ。
制服をハンガーから外しているとふとバスタブが目に入り、思わず目を逸らした。たった二時間ほど前の事が、今でも信じられない。
余計なことを考えてしまいそうで俺はそそくさと制服に着替えると、スウェットをどうしたものかと考える。簡単に畳んで辺りを見回し、洗濯機の蓋の上に置いておく事にした。
リビングに戻ると、カチャカチャと食器を洗う音がする。雪ノ下は袖をまくってただ食器を洗っているだけだが、それだけで絵になるのが困ったところだ。気づけばずっと見ていたなんて事が、度々ある。
「ちゃんと乾いていたかしら?」
水音の向こうから、俺の視線に気づいたらしい雪ノ下が声をかけてくる。
「ああ、大体は」
「もう帰る?」
「ああ、帰る」
ジャーと出ていた水道水を止めると、雪ノ下は洗い物を中断して手を拭いた。意外と奥ゆかしいというか、甲斐甲斐しい所がある。二人きりの時以外は一切俺を立てようとしないが、またそのギャップがいいまである。
玄関まで歩く間も半歩下がった位置にいるのも、貞淑な妻っぽくてむず痒い。出会った頃の雪ノ下は、むしろ率先して前を歩いていくタイプだった。誰が彼女をここまで変えてしまったのでしょう? はい、そうどうも俺です。
「じゃあな」
「ええ」
靴を履き終えて半身で振り返ると、おもむろに優しい重さが肩に乗った。唇に柔らかい感触を得た後に、ふわりとサボンの香りが遅れて鼻腔に届く。
「おやすみなさい。また明日」
「お、おぅ……」
顔を赤くした雪ノ下が目を逸らしたのに合わすように、俺は玄関に向かって歩き出した。「また明日な」と背中越しに言うと、重厚な扉を空けて外に出る。
「はあぁぁ……」
扉が閉まったのを耳で確かめると、思わずへたり込んだ。こいつ、マジか……反則だろ……一発退場のレッドカードもんだろ……。
額に手を当てながら立ち上がると、一度だけ扉を振り返った。まだ熱の籠もっている唇を一度覆うと、エレベーターに向かって歩き出す。
下向きの三角のボタンを押しながら、ふと考える。次にこのボタンを押す時は、一体どんな気持ちなのだろうか、と。