Gehenna(地獄)
これで、ちょうど100。
右手のフォークは削れて三又部分がほとんどない。
壁に縦線を刻むこの習慣を止めた途端、時間と正気がひっくり返って、自分という存在が逸脱していくのは火を見るより明らか。とにかく、目が覚めたら一番にやることは、キャビネットのフォークを握ること。
100本目の線を指先でなぞり、削りカスを落とす。アルファベットのIになりつつあるフォークを放ると、キャビネットの上で小さく跳ねて転がった。一歩後ろに下がって、これまでに刻んだ無骨なカレンダーに目を細める。
黄ばみや剥がれの目立つ白い壁紙の部屋は、ないない尽くしだ。若いときに不動産屋が立てまくったマイクロアパートみたいな狭さの部屋に、窓はない。時計もない。キッチンがないので冷蔵庫や調理器具がないのは当然だし、着替える必要がないから洗濯機なんぞもってのほかだ。そうそう、ここには扉――出入り口もない。一応、自家製カレンダーとは反対の壁の下に、10センチほどの仕切りがある。そこだけが『外』を臭わせる場所だった。
くたびれたベッドが仕切りの対角線上にあり、シーツはハリケーンの後みたいにぐしゃぐしゃになったまま。ベッドの横に分厚い液晶のテレビと、今じゃ化石扱いしかされないDVDレコーダー。片付ける場所も意味も無いので、床にはディスクとケースが散乱し、いくつかは自棄を起こした衝動に砕かれたまま。蓋つきトイレと、出は悪いが水もお湯も流れてくる小さいシャワーブースが部屋の隅にあるのは神のみぞ知る贅沢といったところか。パーテーションがなく悪臭が無休で漂うものの、鼻はもう慣れきって特に不便を感じなくなっている。どこかから入ってきたコバエが二、三匹、ドローンのように室内を巡回していた。
太陽に代わってペンダントライトが照らす薄暗い室内では今が昼なのか、夜なのか判別できる術はない。テレビを点けても映し出されるのは、幼児向けアニメーション、睡魔を促す退屈なドキュメンタリーと時報を知らせることのないもの。だからこのブタ箱の中に正しい時間など存在しない。
分かっているのは、体内時計の換算では100日――少なくともこのブタ箱に収容されて三か月以上が経過しているということだ。
「俺の名前は?――ハンク・アンダーソン」
「俺は何をしてた?――デトロイトの警官だ」
「ここはどこだ?――知らねぇ」
記録の次は、正気の予防。
他人と接点がなくなり一人でいると、顎や筋肉を使わなくなり、脳味噌が退化して会話がどんどん困難になっていく。昔、TVゲームにのめりこんで現実と虚構の区別がつかなくなったガキが家族にマシンガンをブチこんだ事件の担当になり、取り調べをしたときがまさにそうだったから間違いない。
だから俺は、独り言でいいから言葉をしっかり口から出すようにした。テレビから流れてくる映像と音声に文句をつけることも忘れない。亡霊がいるかのように壁やベッドに話しかける俺は相当イカれちまってるが、100日間、どこをどうやったって室内には俺一人しかいないのだから人目を気にする必要はなかった。
壁の仕切りの前に置かれていた金属トレーを持ち上げ、ベッドに置く。冷めたトースト2枚、カットされただけのレタスとトマト、ポークビーンズ、パックに入ったミルク。
以前のファストフードとアルコールで腹を膨らませていた生活に比べれば、健康的な食事だ。ここに閉じ込められてからは、時々スモウに食わせてたのと同じドッグフードがトレーに乗せられていることがある。人間らしい餌が出るだけ今日はマシな日になりそうだ。
ベッドに腰掛け、手づかみで食べる。最初はスプーンもフォークもセットされていたが、俺がカレンダー作りに使おうと何本かくすねてからは支給されなくなった。
「……俺はそもそもなんでここにいる?」
パンを噛みちぎりながら、毎日毎日問いかけた質問を繰り返す。
思い出せ。
100日前、俺は何をしていた?何があった?
記憶を失くしてはならない。思い出せ。
忘れるな。決して忘れるな。思い出せ。
――頭を抱えながら冷め切ったコーヒーを一口飲む。
端末に表示されていた時刻を見ると、いつの間にか退勤時刻を過ぎていた。
聞き慣れた足音が近づいてきて、背後で止まった。
「進展はどうだ?」
「なんだよ、ジェフリー」
振り返らずキーボードを操作する。ディスプレイを覗き込んできたと思えば、ジェフリーはすぐに身を引いた。
「……なんだか、昔のお前らしくなったな」
「あ?」
「最近は昔みたいに何人もしょっぴいて、デカの勘が戻ってきてる……お前の懲戒フォルダが膨らまなくなったしな。きっと、お前の息子も喜んでるぞ」
顔をしかめ、キーを叩いていた手を止めた。
「……コールの話はするな」
「悪い。だが、昔会ったとき、あの子言ってただろう。俺たち警察は悪者を捕まえるヒーローだって。だからお前がまた昔みたいに駆けずり回ってるのを見て……ほっとしてるんだ」
「……そんなこともあったな……」
キーを再び叩き始める。
ジェフリーは俺のデスクに寄りかかり腕を組んだ。
「しかし、あの歴史的なデモから……もう半年以上経つのか。早いもんだな。あのときは大統領が歴史が永久に変わったと言っていたが……俺たちのやる仕事はさして変わらんな」
「ははっ、そうだな。舞い込んでくる事件を片っ端から当たって、報告書の山片付けて、その繰り返しだ」
再びコーヒーに口をつけて飲み干すと、ジェフリーは俺のデスクから腰を離す。
「俺たちの年で缶詰してたら、身がもたないぞ。もう上がれよ」
「……ああ。ありがとよ」
肩を叩いたジェフリーがお疲れさん、と一言添えて去っていく。
確かにもう頭の充電が切れかけてる。今日はさっさと帰ろう。
パソコンの電源を落として駐車場に置いていた車に乗り込み、自宅へ向かって走らせた――
「……くそっ……」
視界に自分で砕いたDVDの破片が目に入り、思わず
不味い飯を終えてトレーを仕切りの外に放る。屈んで部屋の外を確かめるが、今日も真っ暗で何も見えない。ごくたまに食事を運んでいるらしい誰かの足音がひたひたと聞こえてくるだけだ。
幾度も時間の消えた日々が繰り返され、過去は少しずつ意味を失い、そもそも過去があったのかどうかさえ不鮮明になり始めているが、俺はなんとか記憶を頼りに正気を保っている。
だって、俺は警察だ。髭は伸びて髪もぼさぼさ、くたびれて英雄らしい面影などどこにもないが、デカは真実を明らかにするのが仕事の一つだ。
『あの子言ってただろう。俺たち警察は悪者を捕まえるヒーローだって』
そうだ。真実を明かす前に、無味無臭の暇という毒に慣れたら、緩やかに死んでいくだけ。先はない。
「……やるか」
汚れたTシャツを脱いで床に投げた。
BGM代わりにテレビのスイッチを入れ、ストレッチ。
それからフロントブリッジ、プッシュアップ、クランチ、スクワット等々。液晶に表示されていた番組が終わってアニメが流れ出す。次いで俺がガキの頃見た覚えのあるレース映画がエンディングロールを迎える。世界遺産を紹介するドキュメンタリーのスタッフロールが流れて、なお身体を動かす。こんなの、警察学校でしごかれたとき以来だ。
大した量の食事が出ないから慢性的に空腹だったが、おかげで腹の贅肉は燃えて筋肉は安定したまま。噴き出る汗とアドレナリンが抑揚のない日々に埋没しそうな俺の意識を上に上に引き上げてくれた。
感動、達成、変化――生きていく過程を削ぎ落とされたルーティンの虚無に、飲みこまれないようにしなければならない。
「やらなきゃテメェに殺られるからな」
言い聞かせながら噴き出した汗を手の甲で拭う。呼吸を荒げながら壁に寄りかかり、束の間、頭を垂れた。
昔は、こんなのどうってことなかった。守る者のためだと――
『あなた……産まれてくる子のこと、お願いね』
臨月の前、ソファの上で腹をさすりながら微笑んでいた彼女は、悟っていたのだろうか。
陣痛が始まってから、彼女の分娩は三日三晩続いた。尻が断裂し、子宮がひっくり返ったという。難産によって彼女の体力は血とともに無常に流れていって。
新たな命の産声が俺の耳に届いたときには、彼女の灯火は消えていた。
『ハンク……愛してるわ……』
手を握っていた俺にあいつはそう言い残して、分娩室に運ばれていったのを今でも憶えている。
――だから、彼女の命を受け継いだ
『パパ!』
仕事から帰ってくると、真っ先に天使が俺の腕の中に飛び込んできて、ぎゅっと抱きしめた。苦しいよ、ともがく小さな体をやっと離すと、天使は一日の疲れが吹き飛ぶ愛らしい笑みを浮かべた。
けれど仕事が早く終わって帰ったとき、コールの出迎えがなかったときがあった。
スモウもいない。何かあったのだろうか。
コールは自分の部屋にいた。処分したはずなのに、コールは家のどこかから妻が生前着ていた花柄のワンピースを見つけて、ぎゅっと抱き締めていた。時折、匂いを嗅いで、彼女の気配を頭の中に書き留めているようだった。
『ママ……』
時間の河に流されてしまった彼女の、一生見ることの叶わない笑みや声を想像して、あの子は泣いていた。スモウはコールの傍らに座って、小さな身体が叫ぶ心の悲鳴を共有していた。
この子には自分しかいない。なんとしてもこの子を守ってやらなければならない。天使を守る正義を胸に灯し続けること――それが俺の人生なんだ。
だからコールの胸にも、温かい光を掲げてあげよう。休みの日にはデトロイト・ギアーズの試合を一緒に観に行き、スモウを連れてアンバサダーブリッジの景色を眺め、日が暮れるまでヒーローごっこをする。9月23日に小さなケーキを買ってやると、パパも一緒に食べよう、と天使の分け前を貰い、互いにクリームで出来た口ひげを見て笑いあった。
5歳になったときの12月なんかは、サンタクロースやトナカイの描かれた絵本片手に、俺のところに来て何回も聞いてきたんだ。
『パパ、サンタさんってほんとうにいるの?』
『ああ。お前がいい子にしてるのを、サンタはちゃーんと知ってる。必ずここに来てくれるさ』
『じゃあ、サンタさんが、おうちでまよわないようにしなくちゃ!』
『ははっ!サンタが迷子にならないようにしてるのか!偉いな、コール』
クリスマスの直前、家の外壁からガレージ、廊下もキッチンも俺の部屋まで、あらゆるところをクレヨンまみれにしていた。もしもサンタが迷ってプレゼントを届けられなかったときのためにと、テーブルの下やらキッチンの戸棚の後ろやら、あらゆるところにサンタへの手紙をしたためてもいたっけ。
独り身の俺には後片付けは大変だったが、買ったプレゼントをツリーの下に並べて、サンタのフリして手紙の返事を書いていたとき、自然と口元が緩んだ。
この子はこれから、妻の分まで生きていくんだと、ベッドで眠る小さな天使にキスをして。
そう、あの子が俺の世界の
――なのに、天は、コールに
ハンク・アンダーソンという人間は、2035年10月11日にコールと一緒にトラックに潰された。
だが陽は登る。新しい日はどうしたって始まっちまう。
それから太陽が嫌いになった。新しい一日が始まることに耐えられなくなった。朝が来なければ、時が止まって、虹色の日々が続くような気がした。
現実は、色彩を欠いて濁った灰色の繰り返し。あっという間に酒とジャンクフードが慰みになり、残りの人生など、俺がガラクタになるまでのカウントダウン。
愛しい人は先に逝って。愛しい息子は、無垢なまま天に連れて行かれ。
天使には翼がある。翼があると最初から分かっていたのだから、もっと強く抱きしめておけば、息子は飛んでいかなかっただろうか?後悔だけが一日、また一日、募っていく。
何がヒーローだ。妻も息子も救えなかったクソは、このまま無様に死ねばいい。救われてたまるか。
ああ、誰か、メトロが滑り込んでくるとき俺の背中を押してくれ。車のエンジンを踏んで突き破ったフェンスの先へ落としてくれ。ロシアンルーレットのハズレを俺に引かせてくれ。
てめぇの正義と感情をてめぇで殺戮して、それでも痛みが足りねぇんだ――
「……よし……」
カレンダーの隣、トマトを投げつけたような赤黒い染みが一面に広がり、へこみと剥げが進行する壁と向き合った。
床に落ちたままの錆みてぇに変色した布切れを拾う。破いたベッドのシーツで作った簡素なグローブ。包帯のように手にぐるぐるしっかりと巻きつけると、左足を一歩出し、膝を軽く曲げた。
壁を打つ。
殴る。
殴って、殴りつける。
コバエをぺしゃんこにしたとき、甲が裂ける。
血が流れても構わず続ける。
コールタールのような腐った衝動が湧きあがるままに、とにかく痛めつけ、繰り返す。
このブタ箱に光はあるが太陽はない。空気はあるが風はない。アンドロイドはこんな風に生きているのかもしれない。
――アンドロイド。
頭を過ぎった単語に、壁を殴りつける手が止まった。
あの日、晴れやかな空の下で模範となるべき時間が訪れていた。
花。静かな聖域。他愛ない会話。
だが血に彩られた惨劇が目を覚まして。
「……あいつをなんとしても捕まえるぞ」
「はい。警部補」
終止符を打とうと、俺たちは走った。
辿り着いた俺たちは死神と対峙する。無数の血が流れ、突き付けられた要求に、やがてあいつは拳を握る。
「――僕はハンクのアンドロイドだ」
交戦。青い血を流しながらも、あいつは常識外れの奴を追いつめようとした。
死神によって壁に叩きつけられた俺は全身をドライブする激痛に何度も噎せた。
「く、そッ……!」
「ハンクッ!」
「俺に構うなッ……捕まえろ!」
「大人しくしていてください」
胸を貫く一撃。ピンで留められた虫の標本のように、磔にされる姿。
点滅。動かなくなる身体。地底を思わせるような凄みを帯びた声。
「あなたの責任は重いんですよ」
やがて、有罪判決。
「……ふざけんな」
ぐつぐつ煮えた鍋のように、全身の毛穴が熱蒸気を放ち始め、毛が逆立つ。アドレナリンが叫びながら体内を駆け巡って暴れ始め、自分の身体が膨れ上がっていったのを今も憶えている。
「……生きてるんだぞッ!俺の相棒だッ!」
腹の底から吠えた。
――俺は許さない。
血を流しながら、俺は取り戻そうとした。
間に合う――だが死神は首を絞め上げてきた。そのまま片手で易々と俺の身体を地面から浮かす。
「解放しろ……ッ」
ボルトのようにきつく食い込む指。耳の内側で神経、血管がみりみり悲鳴を上げているのが聞こえた。
「楽しかったですよ、ハンク・アンダーソン……ここでお別れです」
ミリ単位も緩まない指を剥がそうともがきながら、祈る。
「よい夢を」
ゆっくり俺の世界がフェードアウトし――次に目を覚ましたときは、この牢獄生活の1日目が始まっていた。
ああ、思い出してしまった。
ガキの頃に、タイムズスクエアで口づけあう水兵と女性――勝利のキス――や、アメリカ国旗を立てる海兵隊などの写真を見た。全部モノクロで出来ていたから、かつて世界には色がなく、戦争から復興する中で色が生まれていったのではないかと思い込んでいた。
当たり前と呼べた日常が当たり前でなくなった今、この小さな火のない
「……くそッ!」
拳を壁にめり込ませる。
何度も、何度も。
『アンダーソン警部補』
堰を切ったように記憶が溢れてくる。
ジミーのバーで初めて会ったとき、忌まわしいプラスチックが目の前に現れたと思った。
任務任務口にして、俺の命令しか聞かないとほざく割に言う事聞きゃしねぇし、散々だった。
こちとら早くこめかみに引き金を引いて、戻らない過去に振り向いてもらおうとしていたのによ。
『すみません、ハンク……あなたを巻き込むつもりでは』
『あなたのせいではありません』
けど、僅か数日で、お前は歴史と俺の時計を変えちまった。
『僕はあなたのアンドロイドですよ』
行くあてのないお前が俺の家に住みついてから、俺の胸にまた陽が昇り始めた。
『ハンク。僕は……あなたと生きていけることが、嬉しいです』
いつからだろう。
もういない家族がそこにいるかのような、春のような平穏が心を潤していくようになったのは。
「……コナー……」
あいつの名前が唇から零れて、拳が止んだ。
テレビのスイッチを切って、ベッドに倒れ込む。胸の内側に耳を澄ませながら瞳を閉じた。
『ハンク』
記憶に焼きついた声が、失われた今日と明日の
家族とともに死んだ老いぼれの肉体に、もう一度ハンク・アンダーソンという命をくれたのは、お前だ。
そういえば、あいつに言った。
お前は生きていると。
――コナー、俺も生きている。
――今、お前をもう一度腕の中に抱きたくて、生きている。
「……死んでたまるか」