瞼越しに感じる白明。
ゆっくり目を開ける。カーテン越しに降り注ぐ柔らかな光が、ベッドまで伸びて朝を告げていた。
夏を裏付ける蒸し暑さに堪らず、ベッドから出て真っ先に風呂場へ行く。
シャワーでさっぱり汗を流し終えたとき、洗面台の近くに置かれている薄水色のリネンシャツとサンドカラーのチノパンが目に飛び込んでくる。シャワー浴びてる間に用意して持ってきたんだろう。自然と頬が緩んだ。
着替えを済ませて廊下に出ると、キッチンから漂う焼き立てトーストの香り。さらに鼻をひくつかせると、バターの香ばしい匂いもする。
「おはようございます、ハンク」
「……ああ。おはよう」
キッチンに入ると、エプロン姿のコナーが振り返って微笑む。つられて、俺も笑みを返した。
カムスキーの奴はもう血を吐いたりしないと言ってたし、パッとみる限り調子はよさそうだ。とはいえ油断できない。パーティーでいきなりぶっ倒れるようなことがなければいいんだが。
「朝食出来ましたよ。ちょっと待っててください」
手に持っていたフライパンの中から、こんがり焼けたハッシュドポテトを皿に移していく。
テーブルの上にあったピザ箱コックピットは解体されてすっかり片付いている。振り返ってみると、溜まっていた洗濯物やらゴミやら、家中に蔓延っていた孤独の痕跡もあらかた消えていた。
コナーが座っててください、とトレーや皿を準備していく。
席に座ると、トーストにポテトだけでなく、サニーサイドアップにトマトやブロッコリーを添えた大きな皿、コンソメスープ、ソーセージも出してきた。コナーは最後にカットしたオレンジ付きのジュースをトレーに乗せた。
「……おい、これからパーティーだろ。こんなに要らねぇぞ」
「ハンク、これは僕の作戦です。食べてください」
「……何の作戦だ」
「パーティーではケーキや菓子類、清涼飲料水といった糖分過多の食事が出るでしょう。あなたの健康管理のためです。ここで十分に栄養をとっていってください」
溜息をつく俺の手元に、カトラリーが入った木製ケースが置かれる。
「……わざと腹膨らませて、食い過ぎを阻止するってのか……ったく、相変わらずだな……」
そうです、と笑うコナーがエプロンを脱いだ。白シャツ、パンツ、ベルトに黒いネクタイ。ジャケットは羽織っていないが、コナーはアンドロイドの制服を着ていた。
「お前、その恰好で行くのか?」
「ええ。人間の開くパーティーにはドレスコードがあるのでしょう?」
「ホテルとかレストランに行くわけじゃねぇんだ。いつも通りでよかったんだぞ」
スープを飲み、ナイフとフォークを手にコナーの手料理を身体の隅々に染み渡らせていく。
しかし、誕生日パーティー、か。
コールが死んでから祭りや祝い事、人間の生を感じさせるイベントとは手を切ってすっかり無縁になっていた。仕事に追われてプレゼントの一つ用意していない。
あの子ぐらいの年だと、何をやれば喜ぶだろうか。
「そういやお前、リタに渡すプレゼントは?」
「勿論、準備しました!」
コナーは賞状でも貰ったように胸を張ったかと思えば、リタがよく着ている服と同じ色したピンクのショッピングバッグをリビングから持ってきた。
中を覗いてみる。手の平サイズの四角い箱が一つ、綺麗にラッピングされて入っている。
「リタは僕のキャリブレーションを見るのが好きと話していたので、コインをモチーフにしたチョコレートを選んでみたんです。喜んでくれるといいんですが」
「リタはなんでも喜ぶだろうよ。招待状見せてくれ」
コナーが冷蔵庫に貼っていた招待カードを取って手渡してくる。
6月11日、13時。
まだ時間がある。どこかでプレゼントを調達しないと、ロベルト、ソフィーにまで文句を言われそうだ。
「そうだ、ハンク」
「なんだよ」
「昨日掃除していたら、とてもいいものを見つけたんですよ!」
コナーが、今度は金メダルでも貰ったような笑顔でデカい声を上げる。
「払ってない請求書でも見つけたのか?」
「違います。リタのパーティーが終わったら、お渡ししますよ。楽しみにしててください」
にこにこ顔で、コナーは自分のプレゼントをリビングに持って行く。
「スモウは散歩に連れてったか?」
「いえ。まだです」
「食い終わったら連れていくぞ。準備しとけ」
「はい!」
招待状をテーブルに伏せ、コナーの思惑通りに朝食を平らげてやった。
コナーが首輪をつけてやると、いつにも増してスモウが尻尾を振り乱し、喜びを露わにしていた。二人で散歩するのも久しぶりだと思いながら、いつもの散歩コースを回りつつ市街地へ出る。
「誕生日パーティーなんて知識の上では知っていますが、実際に参加するとなると、なんだか緊張します」
「難しい顔すんな。ケーキ囲ってガキども喜ばせながらわいわい話して、誘われたらダンスでもしてりゃいいんだよ」
「ダンス?でしたらプログラムをインストールしておかないと……先に言ってください、ハンク」
「真に受けるな。例えだよ、例え!」
他愛ない話をしながら、路面に並ぶ店のショーウインドウに目を向ける。
電光掲示板、着飾ったマネキン、雑貨、生鮮食品、花。
花、か。思い立った俺は店に入り、ギフトコーナーに立っていた店員に子ども向けのプレゼントを探していることを話した。キャンディブーケを勧められ、とりあえずラッピング諸々任せて買うことを伝えた。
散歩帰りに取りに来ることを伝えたとき、白と青を基調にした小さな花束が目に入る。
――今日は11日。同じ11日でも、一年前なら、来たる10月11日は裁きを待つ日以外の何物でもなかった。
寂しいだとか、哀しいだとか、そんな感情があるだけ贅沢だ。他人を気にする余裕なんてありもしない。俺はあの日、あの子と一緒に死んだ。早くこの抜け殻が亡ぶのを今か今かと待ち続けていた。
それが今じゃ、近所のガキに渡す祝いの品に頭を悩ませ、パーティーで出されるメシを楽しみにしている自分がいる。
何の因果だろうと思いながら、俺は自然とその花束を手にしていた。
ありがとうございました、と店員の声を背に外へ出ると、スモウとじゃれていたコナーが花に注視した。
「それは?」
「ちょっと寄るところがある」
自宅へ戻るルートを外れてさらに遠くへ向かう。
立ち並ぶ木々の紺碧やグラスグリーン、バラやガーベラの赤に黄色といった鮮烈な彩り、墓地は多様な色彩に染まっている。繊細な模様を描いた光の筋が枝葉の隙間から降り注ぎ、魔法に包まれたような穏やかな時間が流れていた。
芝生を踏みしめつつ、目的の場所で足を止めた。
コールの名前が刻まれた墓石を見下ろす。放置していたからか墓の周りに雑草が生い茂っていた。立ち尽くす俺の横で、スモウが息を荒げながらお座りし、コナーが何も言わず雑草を抜いていく。
「……スモウは、見ての通りだ。元気にやってるぞ。で……こいつは、コナーだ」
持ってきた花束を墓前に供える。
他に何か言おうとして、だが口は堅く結ぶ。
コール。お前がいなくなってもうすぐ5年。
時計はあの日、お前と一緒に粉々に壊れちまったが、今の俺には新しい時計がある。
聞いてくれ。出勤時間に間に合うよう一秒の誤差なく叩き起こされて、芝生としか思えないサラダたっぷりのメシを食わせられるんだ。こうしてスモウの散歩に行ってはじゃれ合い、デトロイトギアーズの試合結果に文句をつければ、横にいるこいつは俺を窘めてくる。
心の中で話しかけていると、コールの声が不意に聴こえそうな気がして、眼を閉じ、耳を澄ます。けれど風が緑と緑の合間をすり抜けて、さわさわと花が触れ合う声が聴こえるだけ。
……でも、これでいい。お前がいなくても、話しかけることは出来るんだと、やっと気づけたから。
ゆっくり眼を開き、立ち上がった。
「……もう、よろしいのですか?」
「俺に、何も言う資格はない」
「……あなたのせいでは……」
「……分かってる。いや、お前の言うとおりだって、やっと……俺の中で受け入れられるようになったのかもな……だからここに連れてきたんだ」
死を認めたくなくて、ずっと遠ざかっていたことを心の中で詫びながら、踵を返す。
「……パーティーに遅れちまう。帰るぞ」
さっきの花屋でリタのプレゼントを引き取り、帰宅する。
コナーが水を出し、歩き疲れて寝そべるスモウに飲ませてやった。俺も冷蔵庫からミネラルウォーターを出して一息つく。テーブルに置いていた招待状を手にし、会場を改めて確認した。
「そろそろ時間になるな……コナー、行くぞ」
「はい。スモウ、ごめんね。行ってくるよ。お留守番よろしくね」
スモウを撫でて留守を任せると、俺とコナーはプレゼントを手に会場を目指す。
快晴の空の下、カードに書かれていた公園にやってきてみれば、既にリタの友人や保護者が集まっていた。俺とコナーのように、犬仲間らしい大学生ぐらいの女もいれば、街でよく見かけるアンドロイドの姿もちらほらいた。全員合わせるとざっと3、40人はいるだろうか。
あちらこちらに紙で出来た花のオーナメントが垂れ下がり、『10』と書かれたフラッグが目立つ。カラフルな風船も飾られ、時折歓喜の声に反応するように揺れる。
屋根付きの休憩用シェルターまで近づく。テーブルに風船柄のシートが広げられ、『HAPPY BIRTHDAY RITA』と書かれたピンクのガーランドがシェルターの前面に華々しく飾られていた。集まった子どもたちは皆プリンセスやら、何かをイメージしたコスチュームを着ており、背景が芝生でなければどこかの舞踏会にやってきたような錯覚を覚えそうだ。
「コナー!」
シェルターの中央にいたリタが走ってくる。
太陽の下に現れた彼女は、白とピンクのフラワーティアラをつけ、胸元にビーズをあしらった白いドレスを着ていた。ウエストには大きなリボン、ふんわりしたスカートには虹を纏ったようなパステルカラーのチュチュがついており、360度見回しても、どこかの国のお姫様にしか見えない。他の子どもたちも着飾っているが、主役だけあってリタの乙女っぷりは後光さえ感じそうなほど別格だ。
「コナー!治ったの!?」
「うん。おかげさまでね。リタ、誕生日おめでとう」
彼女の目線に合わせてしゃがんだコナーが、持っていたプレゼントを手渡す。
目を輝かせたリタは、
「わぁ……コナー、ありがとう!」
と、そのままコナーに抱き着き、左の頬にちゅ、と歓びのキスを落とす。
コナーが一瞬固まりLEDを赤く染める。照れ笑いを浮かべ、コナーは立ち上がった。
「おじさんも、来てくれたんだね!」
「ああ。リタ姫様にお招きいただいて光栄だ」
「よかったよかった。二人とも来てくれて」
ロベルトがリタの後ろから現れた。リタが持っていたコナーのプレゼントを受け取り、俺の持っていたプレゼントも回収してくれた。
「元気になったみたいでよかったぞ、コナー」
「ええ。ロベルト、誘っていただいてありがとうございます」
「誘いたいって言ったのはあの子だ。リタは人間かアンドロイドかなんて関係なく、自分が好きな人に祝ってもらいたいんだよ。今日は一緒に楽しんでやってくれ」
「そうさせてもらうよ」
ロベルトは俺とコナーのプレゼントを休憩シェルターの外にあったテーブルに纏めた。既にテーブルには紙袋がいくつも並び、崩れ落ちそうなほどの山が出来ている。
「あなたたちもリタの知り合いですか?」
初めて聞く声に振り返る。ポロシャツにジーンズ姿の金髪の男と、リタと同じブルネットをした薄いボーダーのTシャツの上に青いワンピースを着た女が立っていた。
「そうだよパパ!ハンクのおじさんと、コナーだよ!」
「あら、いつもお話してくれる、一緒にお散歩してくれる人?」
優し気な笑みを湛える母親が、リタの近くに屈みこんだ。うん、とリタが頷くと、父親がコナーの前に進み出る。
「娘が世話になってるそうですね。来てくれて嬉しいです。しかし、アンドロイドだったとは……」
父親がコナーのLEDをまじまじ見つめる。
「お互いなかなか仕事が落ち着かなくて、どうしても娘に構ってやれなくて……いつも寂しくしてるんじゃないかと心配してたんですが、いいお友達に恵まれたみたいね。よかったわ」
「こちらこそ、リタと友達になれて光栄です」
「娘がこんなに楽しそうにしてるのは久しぶりに見ましたよ。今日は楽しんでください」
リタが友人に呼ばれ、再びシェルターに戻っていく。両親も他の来場者に挨拶しに回り始めた。
子どもたちが向日葵のような笑顔を咲かせるのを見守りながら、料理が並べられているテーブルに移動する。ピザにカップケーキといった定番のものから、ポップコーンやスナック、一口サイズのチョコといった菓子が透明なボトルにぎっしり詰め込まれて並んでいた。
「今日は楽しんでね」
振り返ると、ソフィーが立っていた。麻の白いシャツに丈の長いカーキ色のスカートを履いており、黙って見ていると彼女の方がリタの母親に見えてくる。
「あんたも無事にメンテナンス終わったんだな」
「おかげさまでバッチリよ。コナー、あなたにはこっち」
ソフィーがコナーに小さな皿を差し出す。中心には夏の夜空を切り取ったようなスティック状の青いゼリーが乗っかっていた。
「ありがとう。もしかしてこれ、君が作ったの?」
「ええ。リタが、あなたや他の仲間にも楽しんでほしいからって、頼まれたの」
皿を受け取ったコナーが、ゼリーを手にまじまじと眺める。
「シリウムを食品風に加工したのか。ねぇ、また作り方を教えてよ」
「もちろん」
アンドロイド同士で和気藹々としているのを横目に、俺もピザを取って口に運ぶ。
時折参加者が話しかけてくる。職業柄、尋問や聞き込みばかりしているから、ただの世間話でも脳はすっきり換気されいい空気が流れる。多くの子どもがいるのもあって、なんだかコールが生きていた頃に戻ったようだ。
談笑していると、中央のテーブルにケーキが出てくる。結婚式に出るようなピンク色の二段ケーキには、お菓子で出来た花やクッキーがデコレーションされ、火のついたキャンドルが10本立てられている。はにかみながらリタがケーキの前にやってくると、ドレス姿の子どもたちも彼女の周囲に集まった。
♬ハッピー・バースデー・トゥー・ユー♪
♬ハッピー・バースデー・トゥー・ユー♪
♬ハッピー・バースデー・ディア・リタ♪
♬ハッピー・バースデー・トゥー・ユー♪
歌が終わり、リタが蝋燭を吹き消す。歓声と拍手が上がり、俺もつられて手を叩いた。見守っていたコナーとソフィーも拍手する。
子どもたちに切り分けられたケーキが配られていく中、一人の少年が顔を赤くしながらリタの隣に座り、一緒にケーキを食べ始めた。何を話しているのか分からないが、リタと話すうちに少年は耳までリンゴ色に染まる。
ピザを食う手を止め二人をじっと見ていると、コナーが不思議そうに覗き込んできた。
「どうされました?」
「……もしも、をちょっと考えてた」
「もしも?」
「ああ……今、リタの隣に座っているのはコールだったのかもしれない、ってな」
人並みの未来がやってこないのは重々分かっているが、ありもしない未来に想いを馳せる。
生きていたら、犬の散歩をきっかけにリタと友情を育み、お互いを分かち合ってガールフレンドにランクアップ。もしかするともしかしたら義理の娘になっていたのかもしれない。
リタがいるテーブルに首を動かしたコナーが、相槌を打つ。
「きっと、お似合いですよ」
「……そりゃ、俺の息子だからな」
「ふふっ、そうですね。ハンク、息子さんの分まで一緒に楽しみましょう」
コナーが微笑み、ウインクまで見せた。何気ない仕草だったが、俺の胸に優しいそよ風が吹く。
「あら」
ソフィーが声を上げたので何事かと思えば、リタの頭に乗っかっている花冠に小鳥が止まった。
頭上の重みに気づいたリタが、左手を掲げ、人差し指を止まり木代わりにそっと差し出す。すると小鳥はリタの指に移動し、高らかに鳴いた。
「まぁ……どこから来たのかしら?」
「ははっ。鳥もお姫様をお祝いに来たんだな」
鳥と向かい合って笑うリタは、童謡映画に出てくるプリンセスみたいだ。愛らしい光景に、参加者が携帯やカメラを取り出し、リタの写真を撮り始めた。
コナーも人ごみの隙間を縫い、僅かに身を乗り出してリタを観察し始めた。その姿勢で、お得意のスキャンをしているのが分かる。
「渡り鳥みたいだね。ねぇ、知ってる?」
「何が?」
ソフィーが興味を持ち、コナーに顔を向ける。
「季節に応じて旅をする渡り鳥たちは、次の行先を目指すとき、最初に空高く一気に上昇するんだ。羽を広げて風の流れに乗ってさえいれば、目的地に辿り着けるから」
「そうなの」
「うん。高度が低いと風の抵抗が強くて、次の行先に辿り着く前に力尽きちゃうんだって」
「へぇ。俺と同じだな」
「あら、そうなの?」
二人が怪訝そうな顔して振り返る。コナーに一瞥した俺は、近くに置かれていたコーラの缶を開けた。
鳥が去っていくと、子どもたちのために余興を開くというアナウンスが入り、ドレス姿の子どもたちが休憩スペースの外に出て集まる。
拍手が沸き起こり始め、シルクハットを被ったスリーピースの黒スーツを着た男が歩いてくる。服の重量感を見ているだけで汗をかきそうだ。子どもにウケてもらうためか、デフォルメされたシベリアンハスキーのマスクをつけていた。マスクの下から金の毛先が覗く。右手には装飾が施されたおもちゃみてぇな銀色の太いステッキを持っていた。
「本日は親愛なるリタ様をお祝いするために参りました。短い時間ではありますが、皆様お楽しみくださいませ」
マスク越しに凛とした若い男の声が響き、右足を引いて右手を左胸に添えると、左手を横へ水平に差し出した。貴族めいた
芸人は指揮者みたくステッキを振り回し、空中に放り投げる。くるくる回りながら落ちてきたステッキを拾い、華麗なバトントワンリングを見せていると突然ステッキがシルクのスカーフになった。
スカーフを手に円を描くように回しているとまたステッキに戻り、大きな拍手が沸き起こる。
芸人がまたお辞儀をし、ステッキを空中に投げるとトランプが花びらのように降り注いできた。落ちてきたステッキをキャッチし、芸人が指を鳴らすと地面に落ちていたトランプがふわりと浮き上がり、ステッキの動きに合わせて魚みたく空中を泳ぐ。
挨拶代わりの曲芸を終えると、子どもだけでなく大人も巻き込んで、消えたカードが参加者の服の中から現れたり、数字当てといったマジックを見せてくれた。
拍手が沸き起こる中、芸人がステッキを回してトランプが消失する。もう一度振り回すと、空中からコインが出てきた。
「あ!」
先頭にいたリタが何をするのか察し、声を上げる。
芸人はコナーがいつも見せるように、子どもたちの前で指の上に置いたコインをパタパタと転がす。さらに一枚増やし、両手で同時にコインロール、次いで指の上でスピン。掌から掌へマッスルパスを繰り返し、指でキャッチすると歓声に合わせて口笛が飛び交う。
「これはリタ様にお贈りします」
一通り余興を終えた芸人が、コインをリタに手渡す。他の子どもたちには今日の記念に、とトランプを一枚ずつ配っていき、最後にパチンと指を鳴らす。するとトランプが小さな花と一口サイズのチョコレートに生まれ変わっていた。
「わぁ!」
「すご~い!」
「本日はありがとうございました」
最後に恭しいボウ・アンド・スクレープをし、芸人が去っていくのを参加者は盛大な拍手で見送った。
余興も終わったところで、
パーティーがお開きになり、参加者一人ひとりがリタに挨拶をして帰っていく。子どもたちを見送っていると、ソフィーが近づいてきた。
「コナー。リタがあなたと写真を撮りたいって言ってるの。ちょっと来てくれる?」
「もちろん」
「あなたも一緒にお願い」
ソフィーに言われるまま、俺とコナーは休憩シェルターでリタとロベルト、彼女の両親と合流する。
『HAPPY BIRTHDAY RITA』のガーランド前で、リタがセンターに立つ。コナーがリタの右隣に立つと、リタはテディベアでも買ってもらったような顔をして腰に抱き着いた。
リタの奴、なかなか攻めてくるな。コナーの逆隣に立った俺は、さっきリタと話していた小さな王子が報われなかったことを察して心の中でエールを送る。両親がリタの後ろに、ロベルトとソフィーもリタの左側に立ち、会場に残っていたパーティースタッフがシャッターを切った。
撮った写真を確認している間に、リタの父親がどこからかタブレットを取り出す。画面を何度かスワイプすると、父親は溜息をつき、母親を呼びつける。
「パパ、ママ……もういっちゃうの?」
「ごめんなリタ。またお仕事が入ったよ。もう行かなくちゃ。でも、一人じゃないだろう?素敵なお友達に恵まれてるみたいで、パパは安心したよ」
「全く、仕事仕事、そればっかりだな。ま、しっかり稼いでリタに楽させてやれ」
ロベルトが父親の肩を叩いた。
「ああ。親父、悪いな。しばらくまた頼むよ」
「今のプロジェクトが終わったら、パパとお家に帰ってくるからね、リタ。もう少しだけ待っててちょうだい」
寂しげに俯くリタの小さな体を、両親が揃って抱き締める。
「行ってくるよ、リタ」
「ソフィー、私たちが戻るまでお願いね」
「ええ。任せておいて」
ソフィーがはっきり頷くと、荷物をまとめて両親が去っていく。ソフィーがそっとリタを腰に寄せ、二人の背中が見えなくなるまで見送り続けていた。
両親の姿が消えるとソフィーから離れたリタが俺たちに向き直り、とびきりの笑顔を見せる。
「おじさん、コナー、今日は来てくれてありがとう」
コナーが身を屈めた。
「こっちこそ。とっても楽しかったよ、リタ。誘ってくれてありがとう」
「また、一緒にお散歩してくれる?」
「もちろんだよ。スモウも楽しみにしてるから、一緒に行こう」
不意に足元に影が伸びてくる。
暑苦しいスーツの男が立っていた。さっきの芸人がまだ残っていて、挨拶しにきたようだ。シルクハットは脱いできたようだが、犬のマスクは相変わらずつけたまま、左手にステッキも持っていた。
「マジックすごかった!ねぇねぇ、どうやったの!?」
リタが芸人の元へ駆け寄っていき、種明かしを求めてスーツの裾を引っ張る。
「私にとっては簡単なことですよ」
「そうなの?ねぇ、他にもないの?」
「こら、リタ。もうパーティーは終わったんだぞ」
「構いません」
制止しようとするロベルトに向かって芸人は首を振る。サービスで何かしてくれるようだ。
「そうですね……例えば……これはどうでしょう?」
マスクの男はリタの目線に合うよう、僅かに屈む。シルクハットを脱いで現れていた金髪が一瞬で黒髪に染まった。
俺とコナーは顔を見合わせた。
「わぁ、面白い!ねぇねぇ、他には?」
「……こんなことができますよ」
瞬間、赤く点滅するこめかみ。目を見開くコナーと俺の考えていることは同じ。
「すごーい!コナーとおんなじ声になった!どうやって声を変えたの?」
「簡単なことです」
コナーに振り返るリタの肩へ、芸人の手が伸びてくる。そのとき、さっきまで何も身に着けていなかった男の手に、黒い皮手袋が填められていることに気づいた。
「リタ、離れるんだッ!」
「え?」
男がリタの肩を捉えて引き寄せる。
持っていたステッキを空高く放り投げ、芸人はマスクを外した。
「アンドロイドですから」
マスクの中から現れる青い双眸。
コナーと同じ顔した男――もといRK900は、落ちてきたステッキを頭上で掴むと勢いよく振り下ろす。ブーメランみたいに俺たち目掛けて飛んでくるステッキを、コナーが瞬時に叩き落とした。
「――ジャスティン」
奴の名前を呟いたとき、ステッキに仕込まれていたサーベルがリタの首元に当てられた。リタの薄紅色の肌が生気を失ってみるみる蒼褪めていく。
「お久しぶりです、コナー。無事だったようで何よりです」
「あなた……メンテナンスのときにいた……」
「何だって?」
ソフィーの言葉に、おろおろするばかりのロベルトを見た。
「……おい、ロベルト。ソフィーのメンテナンス担当はアレクサンダー・ウェインって男か?」
「え?な、なんでそれを……」
「……クソッ」
念のため持ってきていた銃を出し、奴に構える。
「その子を離しなさい!」
ソフィーが一歩前に出て啖呵を切る。
ジャスティンはリタの細い首に刃を当てたまま、ゆっくり後退した。
「ジャスティン、止めろッ!」
「コナー、これは私の任務だ」
「任務だと?お前、ウェインをぶっ殺したのを忘れたのか?……誰がお前に命令してる?」
「……知りたいのですか?……でしたら……」
薄い唇が、微かに弧を描く。
リタの首筋を捉えていたサーベルが上がり、切っ先がコナーに向けられた。
「
次の瞬間、リタを腕に抱えてジャスティンは弾丸のように跳躍した。瞬きする間に二人のシルエットが消える。
「リタッ!」
二人が立っていた場所へ駆け寄る。リタがつけていたフラワーティアラだけが地面に残されていた。ティアラを拾ったコナーはきつく握りしめ、唇を噛み締める。
「ハンク、一体……あいつはなんなんだ?」
「……ブルーリッパーだ」
「なんですって?」
「ブルーリッパーって、あのニュースでよくやってたやつか?なんてこった……リタがこのままじゃ……」
氷河に放り込まれたように身を震わせ、頭をかきむしるロベルトの肩をコナーが掴む。
「ロベルト、僕とハンクが必ずリタを連れ戻します。危険ですから二人は――」
「私も行くわ」
ソフィーがコナーを遮る。
「ソフィー、危険だ。君もブルーリッパーのことは」
「知ってるわ」
「知ってるならなおさらだ。死ぬぞ」
「だからって、私を家族と受け入れてくれたあの子を危険にさらしたまま帰るわけにはいかないの!」
ソフィーが辺りを見回し、休憩スペースのテーブルに駆け寄っていく。彼女は、さっきリタのバースデーケーキを切り分けるのに使っていたナイフを手に取って握りしめる。
ソフィーに感化されたのか、ロベルトが震えを抑えるように両手を握りしめて鼻を鳴らした。
「お……俺も行くぞ、ハンク!」
「止めろ。あいつは殺しを楽しんでる怪物だ。お前たち死んじまうぞ」
ロベルトが詰め寄って俺の肩を掴み、揺さぶってくる。
「ソフィーの言う通りだ。ただ手をこまねいて見ているなんてことは出来ない。あの娘が助かるなら、俺はどうなったっていい……連れてってくれよ」
「ロベルト。一般人が出しゃばったところで、戦力にはならねぇ。奴相手じゃ殺される危険性が圧倒的に高いんだよ」
「想像してみろよ。まだリタの息のある間に、アンドロイドがあの娘のうぶな肌に剣を突き立てたら……あの娘の悲鳴が一生俺の耳に残っちまう……今、勇気を奮い立たせてあの娘を助けに行かなかったら、死ぬまで後悔するんだ。ハンク、俺を笑い者にさせないでくれ」
心情的には連れていってやりたいのは山々だが、刑事として一般人を巻き込むなど、やってはいけないことだ。しかも相手はあの怪物アンドロイド。どうにかして遠ざけようと説得しても、ロベルトは全く折れない。 興奮して息せき切るロベルトは、なおも俺の肩を強く掴んで訴えてくる。
「落ち着け。お前たちを巻き込むわけには」
「ハンク、お前なら分かるはずだ。取り戻せるチャンスがあるなら、何だってするだろう?」
ロベルトの言葉に胸を衝かれ、何も言えなくなる。連れてってくれ、と再び訴えてくるロベルトの強い目に根負けし、溜息をついた。
「……分かったよ。ただし、必ず俺かコナーの後ろにいろ。どうなっても知らねぇからな」
ロベルトとソフィーに念押しする。二人ともはっきり頷いた。
「ハンク、通報を入れました。すぐに応援が来ます」
コナーが報告してくる。そのうちパーキンスたちにも情報が行くだろう。前回と違い、市警の仲間だけでなくFBIの増援もあれば、ジャスティンを仕留められる可能性は上がる。
「犯人を捕まえるチャンスを逃すわけには行きません――ハンク」
「……ああ。青い切り裂き魔……あいつをなんとしても捕まえるぞ」
コナーがリタの代わりだと言うように、持っていたティアラをロベルトに渡した。そのままネクタイを締めるコナーを横目に伺う。
「……行くぞ、コナー」
「はい。警部補」
事件の終止符を打つため、俺たちは走る。ロベルトとソフィーもしっかり俺たちの後ろをついてきた。
公園を出た直後、女の甲高い悲鳴が耳に届く。
声のした方角へ駆け出す。さっきパーティー会場にいた女が俺と目を合わせた瞬間、進行方向を変えてこっちに猛ダッシュしてきた。
「助けてっ!」
女の背後に、両目を真っ青に塗りつぶした制服姿のアンドロイド。右手にバールを握っており、先端を地面に当てて引きずりながら、よろよろと女の後ろをついてきていた。
「レビサロイド……!」
「ソフィー、気を付けて。君もレビサロイドになるかもしれない。なるべく離れるんだ」
「分かったわ」
「お前も出しゃばるな。援護しろ」
コナーに銃を渡して前に出る。駆け寄ってきた女をロベルトの方に押しやった。
「……rA9……」
コナーを見た途端、アンドロイドがぴたりと止まった。
「イタ、rA9……」
「……rA9だワ……」
背後の声に振り返る。街灯の陰から別のレビサロイドがさらに二人現れ、コナーに視線を向けて不気味ににやつく。
「チッ……お仲間がいたのか」
「ハンク、来ます!」
奇声を上げ、レビサロイドがバールを振り回しながら突進してくる。後から現れた二人も猛烈な叫び声を上げて地面を蹴った。コナーがすぐに後ろに回り、銃の撃鉄を上げる。
バールのスイングを掻い潜って腕を掴み、近くのフェンスに叩きつけた。
凶器を持ったレビサロイドを抑える間にコナーが銃を構え、発砲する。後から現れたレビサロイドの額の中央を正確に射貫いた。銃声に驚いた女がひっ、と声を発したとき、もう一人のレビサロイドが叫びながら飛び掛かってくる。コナーが再度銃を構える前にロベルトが必死になって突き飛ばし、ソフィーが持っていたナイフを振り上げてレビサロイドの腹、シリウムポンプが埋まっている部分を的確に刺し貫いた。
暴れるレビサロイドの足に自分の足を引っかけて態勢を崩す。持っていたバールが地面に転がり落ち、隙も与えずレビサロイドを背負い上げて、肩越しに投げ飛ばした。レビサロイドが立ち上がる前に、コナーが服の中に手を突っ込んでポンプを引き抜く。
「ソフィー、大丈夫?」
「ええ。大丈夫……システムに異常なし。感染しないで済んだわ」
レビサロイドの腹に刺したナイフを引き抜き、ソフィーはスカートで汚れを拭いてそのままウエスト部分に包んで隠す。
コナーがレビサロイドたちの電源が落ちていることを確認し、へたりこむ女の傍に寄ってしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
「な、なんとか……でも……」
「でも?」
鼻をすすって涙ぐむ女は、自分が走ってきた方向を指さした。
「ありがとう。もうすぐ警察が来ます。大丈夫。あなたは助かりますよ」
宥めたコナーが立ち上がり、俺に銃を返してきた。
女が教えてくれた道を真っ直ぐ走っていくと、突き当りは分かれ道になっていた。
「うっ……」
ロベルトが息を呑み、手を口に当てる。
道の両方に、数名の男女が折り重なるように倒れていた。ジャスティンの餌食となったのだろう。全身斬り刻まれており、全員の肘から先は切り落とされている。右側の道には、コロンビアネクタイ――喉を切り裂かれ、裂け目から舌を引っ張り出された男の死体が置かれていた。左側の一番手前には、腹を捌かれた女。女の腹の中から、別の男の首が詰め込まれてこちらを見上げている。どちらの道にも、切断された腕が花束のように向きを揃えて集められていた。分かれ道の手前の地面にはこっちへおいでという血文字。
「……なんてことを……」
「お、おい、ハンク……どっちだ?リタはどっちに連れてかれたんだ?」
吐き気を堪えつつロベルトが尋ねてくる。
ジャスティンめ、遊んでるつもりか。命を弄ぶ奴に嫌な悪寒を覚えながら、分かれ道を交互に見る。どっちだ?どっちに進めばいい?選択を誤れば、リタは――。
右か、左か、渇ききった口の中で答えを逡巡する間に、コナーが前に出て死体を見回す。何かをスキャンしたのか、左側の道に入り、手前に倒れていた死体の元にしゃがみこんだ。
「……おい、コナー」
「時間がありませんから」
「止めろ」
コナーが、斬り裂かれた男の虚ろな目に自分の指先を当てた。やがて、コナーの鼻から青い血がぽたぽた流れ出し、LEDが真っ赤に染まる。
「おい、大丈夫か!?」
「ロベルト、僕は平気です。気にしないでください」
行き場のない怒りに舌打ちした。治ったばかりだってのに。
シャツの袖で鼻血を拭ったコナーが立ち上がる。
「こっちです」
コナーがそのまま左の道に入って走る。俺たちも死体を避け、コナーの後を追った。途中でコナーが立ち止まる。青い血の海に沈んで事切れたアンドロイドがいた。『我が元へ来たれ』とアンドロイドの頭上に血文字が残されている。辺りを見回すと、近くの家の外壁にも同じようにメッセージが残されていた。さらに街路樹、車のボンネット。点々と残された血文字を辿り、住宅街を走り抜けていく。
「こ、ここか?」
「ええ。ここで血文字が途切れています」
何年も前に閉鎖されたゴシック調の廃教会の前で、コナーが立ち止まった。
地面には真新しい『我が元へ来たれ』というメッセージと、教会の入口へ向かって描かれた矢印。
隣のロベルトが一人だけ荒い呼吸を繰り返して脂肪を揺らしながら矢印の先を見据える。ごくりと音を立てて唾を飲み込むのが聞こえた。
銃を握りながら静かに進む。木製の両開き扉の前にやってくるとコナーと顔を見合わせ、音を立てず素早く扉の左右に身を潜める。ロベルトとソフィーも同じように俺たちの後ろに回り、様子を伺った。
聞き耳を立てる。微かに、少女の泣き声が聞こえてきた。
銃を手にしたまま、目を閉じた。深呼吸する。
今度こそ、奴を仕留める――目を見開くと、コナーに目線で合図し、ドアを蹴破った。
「……手を挙げろ、
銃を構え、進入する。
ところどころ崩れ落ちたリブ・ヴォールト式の天井から垂れ下がる古いランプが、薄暗く内部を照らしていた。中は風雨に晒されひび割れたベンチや瓦礫が散乱し、剥がれた床の隙間から無尽蔵に雑草が生えている。正面に経年劣化した祭壇。俺の身長より大きな十字架が、役目を終えたというように床のタイルに刺さっている。十字架の手前に、小さなチャーチチェア。涙をボロボロ流すリタが座っている。ジャスティンは彼女の肩を抑え込んで動きを封じたまま、背後から首にサーベルを突き付けていた。
「リタ!」
「……助けて……っ」
リタが鼻をすすりながらドレスの裾を握りしめ、恐怖に
「早かったですね」
コナーと同じ顔と声を持つジャスティンは、唯一異なる氷のような瞳を静かに向けてくる。
「……ジャスティン……リタを解放しろ」
ゆっくり、一歩一歩、瓦礫を踏みしめながら距離を詰めていく。
俺たちを真似してじりじり前に進んでいたソフィーが、持ってきたナイフをさっと取り出すと両手で握りしめ、前に突き出した。
「リタを離して」
「……ソフィー、でしたね。この人間の解放を望むなら、条件があります」
「い、言ってみろ!何が望みだ!?」
ロベルトがデカい声を上げて身を乗り出す。ジャスティンはロベルトに目もくれず、リタの首に当てていた刃を動かし、先端でコナーを指し示す。
「コナー。私とともに来てください」
「分かった。君の言うとおりにする。彼女を解放するんだ」
「おい、コナー……」
「大丈夫です、ロベルト。必ずリタは助けます」
コナーが丸腰のまま、靴音を響かせ祭壇へ歩み寄っていく。
あと数歩でサーベルの間合いに入るとき、ジャスティンが口を開く。
「一つ、質問しても?」
「……なんだ?」
「この人間はあなたにとって、何ですか?」
ジャスティンがリタの額に手を当て、頭を後ろに仰け反らせる。露わになった細い喉へ、無数の命を斬獲した刃を食い込ませた。リタが大粒の涙を零し、体を震わせて喘ぐ。
「止めろッ!」
「あなたの返答次第です」
リタの喉にうっすら赤い筋が生まれる。
何を言えば彼女を救助できるのか、コナーはこめかみをくるくる光らせながら、口を結んで黙りこくった。
「僕の友達だ」
やがて、ジャスティンから視線を反らすことなく、きっぱり言い放つ。
「僕の……大切な友達だッ!彼女を傷つけるな!傷つけるというなら……君の望みは叶えてやれない」
もう一度、青い視線が怯むように、コナーも視線をはっきりぶつける。
RK900は無表情のまま。コナーの答えが正しいのか間違っているのか、判別できない。
「質問に答えたぞ、ジャスティン。リタを――」
一歩踏み出したとき、ぽたぽた何かが落ちる。
地面に広がる、青い血痕。
「コナー?」
コナーの手が震えている。悟られまいとするように強く握りしめるが、全速力でマラソンした人間みたく肩を上下させ始めた。
まずい。ルルドのエラーだ。さっき死者の記憶を視た反動が、今、コナーを蝕んでいる。
「……どうされました?」
「……関係ないだろう……リタを……離すんだ……」
さらに一歩前へ出るコナーが一度咳き込み、ブルーブラッドを吐き出す。
エラーが深刻になってきたのか、コナーはその場にうずくまった。
「コナー、しっかりしろ!」
銃口を向けたまま、コナーの肩を掴み、奮い立たせる。
コナーはしゃがんだまま、射抜くような眼差しでジャスティンを
重い緊迫と
「……ジャスティン……質問に答えた。今度は君の番だ」
足元の瓦礫の破片を素早く拾い、コナーがジャスティンに投げつける。
ジャスティンがリタの喉から剣を離し、飛散物を払い落す。一瞬の隙をつき、地に伏せたコナーがリタの座っている椅子の足を蹴って横に弾き飛ばした。
射程からリタの姿が消えた瞬間、トリガーを引いて畳みかける。身を捻って弾を回避するジャスティンの懐にコナーが入り込み、リタからさらに離そうと殴りかかった。
素早い掌打を繰り出すコナーの拳を捌きながら、ジャスティンが刃を斬り下ろす。後ろにバク転してしゃがんだコナーが足払いを仕掛けた。俺も間合いをとるジャスティンの額を狙って発砲する。奴はサーベルの刃で銃弾を弾くという神業を披露した。しかもブレードには刃こぼれの一つない。
「……大したモンだな。殺人マシーンめ」
舌打ちしながらも距離を詰め、再び銃を構える。
解放されたリタの元にロベルトとソフィーが駆け寄り、小さな体をきつく抱きしめた。
「おじいちゃん……ソフィー……」
「リタ、よかった……!痛かったでしょう?」
「……だい、じょうぶ……」
「ああ、怖かったな……リタ、安心しろ。俺たちがついてる」
ロベルトが小さな肩を撫で、必死に恐怖を和らげようとした。まだ泣き止まないリタに、ロベルトは持っていたティアラを渡し、少しでも生きた実感を分け与えようとする。
自分の背中に隠すようにして、俺は三人の前に出た。
「ロベルト、ソフィー、今のうちに逃げろ」
「もうすぐハンクの仲間が……警察の人が来る。リタ、悪いアンドロイドは僕たちが捕まえるから、君は行くんだ」
「……でも……コナー……っ……どこか……怪我、してるんでしょう……っ?」
青く汚れたコナーの袖を見て、リタが涙声で気遣う。
「僕なら大丈夫。早く逃げるんだ」
コナーも、ジャスティンと三人の間に割り込むようにして立ち塞がる。
「ソフィー、頼んだよ」
「……分かったわ。ロベルト、リタ、行きましょう!」
ロベルトがリタを腕に抱え、揃って入口へ走り出した。
「コナー……帰ってきてね……っ」
リタの励ましが背中越しに届き、コナーはジャスティンを見据えたまま静かに頷いた。
三人の足音が遠ざかって、聞こえなくなった。これであの子たちは助かる。応援もこっちまで来るはずだ。
「……悪いアンドロイド、ですか。かつて変異体ハンターだったあなたにとって、悪いアンドロイドというのは変異していることですか?それとも任務を達成できないことでしょうか?」
ジャスティンはふわりと身を翻して祭壇の上に着地し、コナーに刃先を向けて問いかける。
「……君に従わない僕は、悪いアンドロイドだと言いたいのか?」
「では、あなたは今、自分がどのようなアンドロイドだと認識しているのですか?」
質問の応酬を重ね、コナーが拳を握る。
「――僕はハンクのアンドロイドだ」
コナーの答えに、ジャスティンが蒼い瞳を俺に向ける。ふっ、と小さく鼻を鳴らしたジャスティンの口角が上がった。
「では排除しましょう」
目に見えないトランポリンでも使ったように天井付近まで跳躍したジャスティンは、体操選手のように前方宙返りしながら身を捻り、吊り下がっているランプのコードを切断した。さらにブレードを使ってバレーボールのスパイクみたくランプを叩き落としてくる。
隕石のように飛んでくる照明を身を引いて回避したとき、ジャスティンが背後に着地する。
振り返って引き金にかけた指を動かす直前、ジャスティンが素早くサーベルを振り下ろす。
「銃が生み出す死など、手応えがなく、つまらない」
バレルがすっぱり切れたと思えば、さらに一歩斬り込んでくる。弾倉まで紙のように千切れ、銃のパーツは割れたベンチの下に転がり落ちた。
「直に人間を捌きたいなんて、お前よっぽど殺しにハマってんな」
ハンマーとグリップだけの銃を投げつける。ジャスティンはサーベルを持つ手と反対の手で払い落とした。
剣を避けて後退する一方で、リタが座っていたチャーチチェアを拾い、コナーがジャスティンに投げつける。下から斬り上げ、椅子を綺麗に分割するジャスティンの至近距離に飛び込んだ俺は、奴の頭を掴んで膝で鼻っ面を蹴り上げた。ジャスティンは体勢を低くしたまま後ろ蹴りを繰り出す。靴の踵が金属バットみたくめり込む。強烈な一撃に身体の内側で嫌な音が響いた。
「ぐ……ッ!」
よろめきながら後ろに下がる。体勢を整えようとする俺に、ジャスティンがサーベルを払おうと踏み込んできた。刃が振るわれる前に、コナーが前に出てジャスティンの顔面に回し蹴りを放った。頬を掠め、間髪入れずもう一発。見事にジャスティンの顔にヒットし、無防備になったところへコナーが身を低くし、足を蹴り払う。
追撃しようとさらにコナーが踵落としを仕掛けるが、ジャスティンは後方転回して距離を置く。
「無駄ですよ」
助走もなしに、たった一回地面を蹴るだけでトラック一台分飛び越せる跳躍を見せた。コナーの眼前に降り立つと仕返しと言わんばかりに強烈な回し蹴りを浴びせる。反応が遅れ、もろに食らったコナーの身体が十字架の前まで吹き飛んだ。
そのまま勢いをつけてジャスティンが突っ込んでくる。地面を蹴って宙返りしたかと思えば、空中で俺の顔面を掴み、遠心力を使って思いきり投げ飛ばしてきた。
壁にめり込むぐらい勢いよく叩きつけられ、瓦礫の山に沈む。全身をドライブする激痛。血やら神経の中に、骨の断片が土石流のように流れてガンガンぶつかっているようだ。痛みに何度も噎せる。
「く、そッ……!」
「ハンクッ!」
「俺に構うなッ……捕まえろ!」
肘をつきながら上半身だけ起こし、胸元を抑える。骨は折れていない。こんなの序の口だ。口の中に粘つく埃や砂利の乾いたシェイクに空咳しながら顔を上げたとき、飛び上がったジャスティンが刃を三日月に描いた。奴の軌跡を計算したコナーは素早く転がって十字架の前で立ち上がる。着地したジャスティンはチーターのように一足飛びで間合いを詰め、コナーの左胸にサーベルを串刺した。
「大人しくしていてください」
痛みに喘ぎながらもデカの執念で身を起こしたとき、ジャスティンは一本釣りしたコナーの身体を後ろの十字架の中心に刺して、サーベルごと縫い留める。
ピンで留められた虫の標本のようにコナーを磔にしたジャスティンが、次の獲物だと言わんばかりにこちらへ振り返った。
「……やめろ……ッ」
素早くズボンのベルトを外したコナーがジャスティンの首に回す。
喉とベルトの間にジャスティンは手を差し入れるが、コナーが即座にベルトにバックルを通して首輪を作る。振り返ったジャスティンの胸を足で踏みつけたコナーは、目いっぱいベルトを引っ張って動きを封じた。
「コナー!」
十字架のある方へ瓦礫を飛び越しながら急ぐ。
「……君は、僕が……止、め……」
コナーが身を震わせ、再び血を吐いた。
手が緩んだのを見逃さず、ジャスティンは拘束を抜ける。奪ったベルトをコナーの首に回して十字架ごと括った。
「……ハン、ク……逃げてください……」
「馬鹿言ってる場合かッ!」
ジャスティンがコナーのLEDに手を添える。
「ハンク……」
十字架の前に辿り着いたとき、ジャスティンを抑えていたコナーの手が不意に滑り落ちる。コナーのLEDが不規則にちかちか光ったかと思えば、目を見開いたまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「コナー?」
「強制スリープモードに移行完了」
ジャスティンの口から、コナーの声と、ナインたちRK900の音声をミックスし、さらに夏の空を切り裂く雷鳴を継ぎ足したような、今まで聞いたことのない異質な声が響いた。
俺の頭に一抹の考えが過ぎる。ジャスティンがコナーを貫いていたサーベルを右手で抜き取った。コナーの胸の傷が一瞬で塞がり、ジャスティンが傷口だった部分をじっと見つめた。
ジャスティンがくるりと振り返る。相対する俺の目の前で青く濡れた刃を口に近づけ、すーっと舌を走らせた。
「……お前、レビサロイドだったんだな」
ジャスティンの左目は、白目全体がブルーブラッドが溢れたように青く塗りつぶされ、瞳と一体化していた。
「お前の記録も打ち止めだな。じたばたしてもシャットダウンするだけだ」
「……それはどうでしょう?」
妖しげに舌なめずりしたジャスティンは俺を跳び越えて背後を取る。
死をお見舞いしようと振り払われるサーベルをしゃがんで避ける。追撃の手を休めないジャスティンの懐にあえて飛び込んだ俺は腕を掴み上げ、至近距離で睨み合った。
「お前はここで終わるんだよ」
サーベルを持つ奴の右腕を必死に食い止めながら、反対の拳でジャスティンの顔面を思いきりぶん殴った。
体制を戻す僅かな隙をついて、ジャスティンの腰にタックルする。奴の足が衝撃でほんの一瞬浮き上がった。ジャスティンの右腕を掴んだまま屈みこみ、奴の右腿にも自分の腕を回した。身を引こうとするジャスティンを逃がさず、勢いをつけて自分の肩の上に仰向けに乗せた。さらに顎と腿を掴み、奴の背中を限界まで弓なりに反らせた。
痛む素振りを全く見せず、ジャスティンはおかしくなったままの声でふふ、と不気味に笑う。
「何がおかしい」
地面に寝転がったまま、ジャスティンはツルハシみてぇに重い蹴りを脇にぶちこんできた。ジャスティンは寝転んだ状態から腕と首に体重を乗せ一気に跳ね起きる。体制を整える前に、奴の爪先が胃にめり込み、俺が逆に地面に倒された。痛みが追加されただけでなく、奴の足が俺の肩甲骨を思いきり踏みつけてくる。ジャスティンは、体重をかけながら身動きできないよう左腕を掴んで捻り上げてきた。指先の感覚が抜けていき、逆流してきた血が溜まって肩がグリルで焼かれているような熱を帯びる。身体の内側で骨が軋む音がした。
「今までで最も楽しい殺し合いですよ。アンダーソン」
「そりゃ、どうも……ッ」
ジャスティンの反対の手が俺の顎に回ってくる。滑らかな革手袋の感触が焦らすように喉をなぞった。首を捻って骨を砕くつもりか。
「こんな風に格闘技のチャンピオンやら、強そうな野郎どもを手にかけて遊んでたのか?」
「ええ。クロスカントリー・シリアルキラーをご存じですか?」
「……人を切りつけるときにパカッと開く肉の感覚。あの感覚の中毒になってる……だったな」
「ですが、血に飢えた私を楽しませてくれる人間はなかなかいませんでしたよ。あなたぐらいだ」
歯を食いしばりながら首を動かした。額から流れる汗が地面に零れる中、なんとか後ろへ振り返る。微笑みを湛えている蒼い眼に意地をぶつけた。
「答えろ……お前、残りの被害者を……殺した、連中の首を、どこにやった……ッ」
「私の
目を見開く。耳に届いたのは、俺でもコナーでもジャスティンでもない、だが聞き覚えのある声。
俺たちの入ってきた入口と反対の裏手から、冷めた靴音が響き渡る。コナーが磔にされた十字架を通り過ぎ、やがて俺の眼前に黒い革靴の艶光りするアッパーがフレームインして音が止む。かつてこの廃墟が礼拝やミサを行なって
まさか、と思いつつも、俺の鼻は仮説を正しいと断定した。この、百合と石鹸が混じったような白を彷彿とさせる香り――。
「……ウェイン……?」
顔を上げたとき、既に棺で眠っているはずのアレクサンダー・ウェインが目の前に立っていた。黒いシャツと色の濃いジーンズ姿のウェインは、トレードマークと言える白衣を着ていないだけで別人のようなオーラを漂わせている。
「馬鹿な……死んだ、はず……」
「コナーと一緒にいたという事実を隠していたのは大変憤慨しました。ですが五体満足でサイバーライフから匿っていただいたことに対するお礼はしなくてはなりませんね――アンダーソンさん」
ウェインは僅かに顔を動かして背後のジャスティンに微笑みかける。
「ジャスティン、よくやった……楽しめたかい?」
「ええ」
「彼とは少し話したいんだ。悪いが、頼むよ」
ウェインはジーンズの後ろから手錠を出してジャスティンに渡した。痺れて感覚のなくなった左腕にだけすぐ手錠がかけられる。呆然とする俺はされるがまま、ジャスティンに引っ立てられた。
「コナー……やっと見つけたよ……」
もう目に映っていないかのように俺を無視して、ウェインは気を失っているコナーに近寄り、頬に触れる。
「ジャスティン、コナーは?」
「正常に作動しています。パーツの破損や摩耗の痕跡も見られません」
狂ったままの音声で報告するジャスティンが、近くに転がっていたチャーチチェアを拾い上げた。俺の足を蹴って無理矢理着席させる。さらに背もたれに俺の両腕を挟みこむように回し、右腕にも手錠をかけ、拘束された。
「他には?」
「ボディに問題はありませんが、吐血症状が見られます。ソフトウェアや構成プログラムにバグが発生している可能性が」
声がだんだん離れていき、ジャスティンを横目で追いかける。蹴り飛ばした斬れ味抜群の獲物を拾い上げていた。
「ブルーブラッドを吐く?」
「ええ。それからフリーウェイでも確認した通り、自己修復力が異常に上がっています。胸部のダメージが即座に修復されました」
報告を聞くと、ウェインはコナーのシャツに開いた穴を指で広げた。
「……確かに傷がないな……アンダーソンさん、コナーに改造でも施したんですか?」
ウェインはコナーのネクタイを緩め、ボタンをてきぱき外してシャツを剥く。
「……これは……随分可愛がっていたようですね――アンダーソン」
ウェインの声が、地底を思わせるような凄みを帯びる。
コインネックレスを引っ張り上げた奴は、俺がつけた情事の赤い痕を、指で擦って消しゴムのように消そうとしていた。
何度やっても赤い点が消えないと分かると、ようやく振り返った。
「私の作品を、お気に召したようですね?」
笑っていたが、眼だけは冷凍庫よりも冷たい空気を醸し出している。
頭に酸素が回り始め、死者が平然と歩き回る理由を探そうと家宅捜索した日の記憶を検索した。リビングで奴と話していたときまで記憶を巻き戻したとき、仮説が組み立て上がる。
「……科学者らしい大胆なトリックだな」
「トリック?」
「あんた、自分のクローンを造って、身代わりになってもらったんだな?」
「ええ。こっちが本業みたいなものですから。技術が進んだ今は便利ですね。一日もあれば遜色ない複製品が造り出せる」
「クソッ!あのとき、ジャスティンともどもあんたを捕まえていれば……ッ」
地団駄を踏む俺に、ウェインが得意げに鼻を鳴らした。
「私は都合がよかったですよ。AX400のメンテナンスの際にメモリーをチェックしていたら、探し回っていたコナーが子どもと一緒に、にこにこと笑っているじゃありませんか。あなたの元にいつ乗り込もうか考えていたところに、ちょうどよく来てくれた」
ウェインがコナーに向き直り、首からベルトを外した。ふらりと倒れ掛かるコナーを腕に収め、ウェインは慎重な手つきでコナーを地面に仰向けに寝かせた。立ち上がったウェインは俺を刻もうとするような威圧的な視線を向けながら、静かな微笑みを浮かべた。
「言い忘れてました」
コツ、とゆっくり靴音を響かせながらウェインが歩み寄ってくる。途中、祭壇の近くにあったチャーチチェアを掴んで俺の前に置き、向かい合って座った。俺にひそひそ話でも聞かすように身を乗り出し、覗き込んでくる。
「ジャスティンがあなたのフリをして通報を改竄しましたから、ここには誰も来ませんよ」
告解部屋の神父みてぇな面してるウェインを睨んだ。目線一つでハリケーンでも起こせたら、今すぐこいつをずたずたに出来るのに、廃墟には俺の乱れた呼吸だけが響く。
「あなたとはゆっくりお話ししたかったんです」
身を引いたウェインは、背もたれにゆったりと身を預けて足を組んだ。不意に、喉に冷たい感触が当たる。ジャスティンのサーベルがいつでも俺の喉笛を掻き切れるよう背後から回っていた。
「……これが災いってやつか?」
「メッセージ、読んでいただいたんですね」
「コナーをどうするつもりだ」
「どうするも何も、コナーは初めから予約していたんですよ」
「……予約だと?」
「RK900の量産が落ち着けば、プロトタイプのコナーは不要となる。機能停止した後のコナーは、開発した私が引き取ることになっていたんですよ。なのに、あなたが勝手にコナーを横取りした。盗人猛々しいとはあなたのことを言うのですね……私が造ったコナーは、私のアンドロイドだと言ったはずです。何故教えてくれなかったのですか?」
俺は黙った。ジャスティンの獲物が食い込み、皮膚の表面がぷつりと切れる。それでもウェインを視界の中央に固定したまま、黙り続けた。
やがてウェインは微笑みを崩さぬまま、立ち上がる。ジャスティンの刃が急に下がり、ウェインは拳を握って俺のこめかみを殴りつけてきた。口の中が切れ、痛みとともに血の味が広がる。
「申し訳ありませんが、質問に答えていただけますか?」
「やっと本性見せたな」
「おや、わざと私の手を汚させたんですか?」
ねちゃねちゃした血混じりの唾を地面に吐き出した。
「今更なこと言うなよ。とっくにあんたの手は汚れてるだろ……わざわざ手の込んだ自殺をして、何してんだ?」
「第二の人生というのは何のしがらみもなくて素晴らしいですよ。あなたもリタイヤしたら満喫するといい」
「だったら、聞かせてもらおうか。ここで人生リタイヤする前に、冥土の土産だと思って教えてくれよ。ブルーリッパー事件の真実を」
顔を上げ、ウェインを真っ直ぐ見据えた。
「ディーン・カーターへの復讐だけじゃ足りなかったのか?」
「そこまで辿り着いていましたか」
「奴が病院から連れ去られて行方知れずってのはコナーから聞いた……お前がやったんだろ?」
「ええ。今も
「……セラピー?」
「そう。治療ですよ」
ウェインが再び椅子に腰かけ、腿の上に両肘を置く姿勢を取る。喉に鋭い刃がまた当たった。
「あなたのことは少し調べさせていただきました。私と同じように……ご家族を亡くされてるそうですね」
神経がさざ波立つ。奴の次の言葉に身構え、知らず知らず毛が逆立った。
「奥様を亡くし、息子さんにも旅立たれ、さぞかし寂しい毎日を送ったでしょう……よく分かりますよ」
「勝手に同類にしないでくれ」
「会いたいとは思わなかったのですか?」
「喉から手が出るほど、切符は欲しかったよ。だから銃とはキスしまくって恋人になってもらったさ」
まるで仲良くなって傷でも舐め合おうとする奴の言葉を開くだけで、胸の中にあるきらきらした記憶の上を泥だらけの靴で歩き回られている気分になった。奴が二度と喋れないよう、拳を振るいたい一心で手首を動かすが、手錠がきつく食い込むだけ。
「私も寂しさに、苦しさに押し潰されそうでした……家族を取り戻したかった。例え偽物だとしても、もう一度家族に会いたい一心で昔の研究データをひっくり返しました」
「……家族のお人形まで造ったのか」
「クソッたれのイヴァンに見つかったのが運の尽きでしたがね」
溶けたバターみたくぬらりと光るハゲ頭に、毛根代わりにタトゥーを移植した男が頭に思い浮かんだ。
小さな溜息をついたウェインが上体を起こし、椅子の背もたれに沈む。
「あんな母乳代わりに生クリーム飲んで育ったような野郎が、本当にあんたの知り合いだったんだな」
「あいつが知り合いだなんて、不愉快にさせないでください。あのクソは貝のないヤドカリだ。奴は貝を探して勝手に私に寄生しただけです。イヴァンは私のクローン技術に感動しながらも、倫理に反した非人道的なことをするもんじゃないと言って、勝手に家族たちを取り上げた」
「非人道的うんぬんに関しちゃ、俺はあのバッファローの味方をするよ」
「それは残念です。イヴァンは家族を取り上げるや否や、施設や病院行きにさせて、私には彼らがどこにいるか一言も教えてくれなかった。教えてほしいなら、俺の望むアンドロイドを造って、造り続けて、口座の0を増やせと言ってね……反吐が出る」
ウェインの声音に黒い響きがこもる。以前、カムスキーがウェインにおめでとうと言っていたのは、間違いではなかったのだ。サイバーライフを、もっと言えば金、金と騒ぐ汚れた連中を見限ったからこそ、こいつはわざわざ手の込んだ自殺をやらかして雲隠れしたんだ。
ちょうど崩れた屋根の上に広がる空が陰り、ウェインが座っている一帯に闇をもたらす。
「また家族を奪われて……本当に死のうと思った……死ぬ力も湧きませんでしたが。結局、同じように家族を亡くした自助グループの集会に出席したり、アートセラピーに参加してなんとか傷を癒そうとしました。確かに辛い記憶を共有し、絵画や写真に没頭していると悲しみは一時的に消えてくれましたが……何かが足りないんです」
「ドクターショッピングしたわけだな」
「今も時々参加しますよ。彼らの嗚咽や悲しみのスピーチは、私を宥めてくれる」
薄暗い闇の中で、ウェインが額を抑える。やがて抑え込んでいた苦悩を風に晒そうとするように髪をかきあげた。
「あのときもつまらないセラピーを終えたばかりだった。もういい加減うんざりしていた……神にどうして癒されないのか、どうして苦しみ続けなければならないのか……救いを求めて聖書を広げたときですよ。子どもの頃、手近にあった聖書のページを広げて、庭で捕まえたカマキリを乗せたことを思い出しました。ちょうど妹が押し花にハマっていて、同じようにそのまま本を閉じてカマキリを挟み殺したんです。もう一度ページを広げると、曲がりくねった足や組織が飛び散って、ページの左右対称になんともいえず美しい染みが生まれた……当時は虜になって、庭にいた蝶や蜘蛛を拾って本に挟みました。懐かしいと思い当時のまま残っていた染みをじっと見ていたら、神が私に囁いた……これこそが私を癒すのに必要な治療だと」
「残念だがあんたに囁いたのはキリストじゃない。ぶっ壊れた脳の
「神とともに、家族の声も聞こえたんですよ。助けを求める声が……私を呼ぶ声が……幻でもいい。愛しい人の声がするだけで、私は満たされる」
「あんた、まずセラピーする前に精神科を当たるべきだったな」
「あなたはどうでしたか?」
ウェインが顔を寄せてきた。
「声を聞きませんでしたか?声を聞きたいと思いませんでしたか?」
マイクを手にしたインタビュアーみたく迫るウェインは、真っ白な歯を見せる。俺も仲間だというような馴れ馴れしい笑みを見ていると、自分の顔から表情が抜け落ちていくのが分かった。
「先ほどの質問の答えは分かっていますよ。私がセラピーに救いを見出したように……今は、コナー、ですね?」
ウェインの首が傾き、自分の背後に熱っぽい視線を送る。
つられて奴の背後に瞳を動かす。コナーのこめかみはうっすら点滅を繰り返していたが、動いているのはそこだけ。
「あなたはアンドロイド嫌いだったとも聞いています。それが今では生活、いいえ、精神的な必需品といったところですか……信じられませんね」
「物じゃねぇ。訂正しろ」
「失礼しました。それほど、コナーに命を見出しているのですね……それで、どうです?あらゆる人間とのコミュニケーションを可能にするソーシャルモジュールは?……身体も、心も、望めば望むだけ……理想の存在であることをプログラムし続けてくれるのは?」
翡翠の輝きが、
「答えりゃ、なんかくれんのか?」
「残念ですが、今日は手持ちはありません」
ウェインが両手を上げてひらひらさせ、大袈裟にアピールした。
「それとも、コナーを造ったお前の天才ぶりを褒め称えりゃいいのか?拍手してやるよ。手錠外せ」
「でしたら、あなたも私の傷を癒すために協力してください」
「そうやってディーンを殺したのか?」
「ディーンは記憶の遺伝を使ってセラピーを施しています」
「……記憶の遺伝?」
眉を寄せる。俺が興味を持ったと分かると、ウェインの双眸が細まり、口端を上げた。
「後天的な形態の変化は遺伝しませんが、後天的な経験の記憶は遺伝するということです」
「一般人にも分かるように言ってくれ」
「マウスを例にすると、尻尾をいくら切っても尻尾のない仔は生まれてこない。これが形態の遺伝です。けれども、右の道に行くと電流の流れる箱で代々マウスを飼い続けると、ついには右の道に行かない仔が生まれる……これが記憶の遺伝と呼ばれるものです」
「……クローンも、同じように遺伝するって言いたいのか?」
奴は自分の胸に手を当てる。
「そう。脳が憶えていなくても、細胞……身体の方が憶えているという研究です。古い研究資料ですが、面白いと思いませんか?ある実験では、ベルが鳴ると同時に電気刺激を与え続けたマウスの脳をすり潰し、クリーンなマウスに与えたところ、このマウスもベルが鳴ると怯えてパニック状態に陥った。記憶は分け与えられるということです。私も試してみようと思って、ディーンのクローンを造って刺したり焼いたり剥がしたりしてみました。煮込み料理と同じで、作りたてよりも味を染み込ませるのが大事です。恐怖が馴染んだ死体を本人の賄いに与え続けていたら、電源の入っていないアイロンを一目見るだけで殺してくれと叫んでのたうち回るようになりました」
ゲテモノクッキングチャンネルを見せられているようだ。
「……ごちゃごちゃ言ってるが……あんた、ただ殺して復讐するだけじゃ足りなかったってだけだろ?人間の解体を楽しんでるわけだ」
「奴から全てを奪わないと家族の声が聞こえなくなってしまうんですよ。恐怖に震える奴の心臓の音を一晩中聴いたときもありました。あのときはリラックスできました……」
ウェインの顔を見ると、この廃墟のどこからか眠たくなるクラシックが流れ始めて、皮張りの肘掛け椅子にゆったり座っているような情景が思い浮かぶ。
恍惚に満ちる奴の表情が、不意に誰かに似ていると思った。脳味噌の中で照合する。最初の事件で連れ去られた美しい娘の、
「……ブルーリッパー事件で採集された被害者の中に、あんたお手製の家族がいたわけか」
「残るは恋人のヘレナだけ……ディーンで治療するのも飽きてきましたし、次はイヴァンですかね。ああ、ご安心ください。あなたを
ウェインの声が合図になったかのように、喉に当たっていた刃が小さく震え始めた。
仰け反るようにして首を後ろに動かす。ジャスティンの右の目全体も、青く染まり始めていた。
「ジャスティン、君も治療しなさい」
咄嗟に息を止めた。喉に力を入れていれば喉仏の骨が強化されて、万に一つ、いや億に一つでも奴の凶刃を弾いてくれるような気がした。
見逃すまいとジャスティンを睨む。小刻みに震える奴の手が動く。
「何故レビサロイドが発生したか、ご存じですか?」
ウェインの声がまだ聞こえる。サーベルは俺の喉をなぞりながらも、静かに背後に引いていった。
俺が細く息を吐き出すのを見て、ウェインが鼻で笑う。僅かでも弄ばれたことに苦虫を嚙み潰した。
「そこまでは調査に至っていないようですね」
もったいぶった様子で、ウェインは口元に薄い笑みを引いた。
「その口ぶりだと、意図的にレビサロイドは……アンドロイドを狂わすウイルスは作られたんだな?」
「ええ。変異体デモが終結した後、取締役や我々幹部を集めてすぐ緊急会議が開かれた。上層部は焦っていましたよ。従順なアンドロイドの繁栄を、そこからもたらされる莫大な利益に目が眩んでいた連中ですからね……リコールするべき、信用問題に繋がる不良品を野放しにしておくわけにいかない。なのに不良品は意思を持ち、人間に訴えかけて不良品のためのコミュニティまで国から与えられてしまった。まるで真っ当な商品を造って真っ当に商売している自分たちの方が悪者じゃないか……とね。マーカスたち変異体が、またいつ自分たちに逆らうか分からない。どんな手を使ってでもいい。何とかしましょう……イヴァンがそう言い出したんです」
マーカスたちの顔が思い浮かぶ。ジェリコの船がなくなってもコナーを大切な仲間だと受け入れ、傷つけば本気で心配して、そして怒ってくれた。彼らは純粋で優しい。人間と共存していこうと必死に頑張っているのに、当の人間は、命を与えたサイバーライフは一方的に虐げようとしている。彼らが一人の命ではなく、産業廃棄物として扱われることを想像したとき、胸が締め付けられた。
「私は反対しましたよ?内部でも他に反対の声はありました。ですがイヴァンがまた騒いで意見を握り潰した。私に関しては違法な
責任、という言葉に胸を掴まれた。連鎖して思い浮かぶ――開発責任者という、ウェインの肩書が。
同様にブルーリッパー、レビサロイド、rA9、回収命令、そして今、ウェインが口にした抹殺計画……俺の中でバラバラだった事柄を繋ぐ一つの線が通り始めた。
「……あんたがウイルスを開発したんだな」
「サイバーライフでは
「……ばら撒くためか」
「ええ。ウイルスを保持していても、変異しなければ狂暴化せず、レビサロイドにならない。万が一変異の耐性を上げたRK900が変異してしまうようなことがあっても、Dタイプ、Vタイプが容赦なく抹殺する」
つい先日、マーカスたちに会いに行ったとき、ジェリコに感染者が入らないよう黙々と仕事をしているRK900を思い返した。
あれは検疫ではない。RK900はウイルスの運び屋なんだ。特にナインたちPタイプ――下っ端は、知らず知らずのうちに変異体にウイルスをばら撒いていた。
「当然シリアルナンバー1……ジャスティンもウイルスを所持してましたが、変異してしまった」
「……お前が最初の感染者……レビサロイドになっちまったわけだな」
首はそのままに、瞳だけ横に動かした。
「正確には、私は二番目の感染者だ」
すっかり声変わりしたジャスティンが、底抜けの闇を耳元に聞かせてきた。
「……二番目?」
答えず、ジャスティンが俺の横を通り過ぎた。剣を手にしたままウェインの隣も通り過ぎ、十字架に歩み寄っていく。パトロールや捜査のときに目にするレビサロイドのゾンビめいた足取りと違い、ジャスティンの歩き方はしっかりと確かなものだった。
「合衆国アンドロイド法も改定準備が進み、デモ以前と勝手は違ってしまった。一時的とはいえ、マーカスたちは自由を得て慎ましく生きていますし、アンドロイドに肯定的な人間も一定数います。世論の反対を押し切ってリコールセンターを設置すれば、当然非難を浴びる。仮に再びリコールセンターを設置するにしても、また別に予算がかかります。外部から強制的に廃棄することは、難しくなってしまった……ですが変異体を内部から崩壊させれば、自分たちの手を汚すことなく後始末が出来る。上はそう考えたんですよ」
「……サイバーライフの自作自演、か。変異したアンドロイドだけがレビサロイドに変貌する……ナインたちRK900を使ってウイルスをアメリカ中にばら撒き、変異体への信用を落としていく……最終的にリコールセンターを設置させるように世論を操作しようって魂胆だったんだな」
「ええ。Dタイプ、Vタイプは一般市民に変異体への恐怖を植え付けさせるようなブルーリッパー事件をあえて引き起こし、捜査の傍らウイルスを拡散させました」
「……アメリカ全土でブルーリッパー事件が起きてたのは、そういうカラクリか」
「そう。サイバーライフはブルーリッパー、もとい変異体に対する印象を悪化させるようメディアに仕向けて情報操作する。市民はジェリコの民に疑念を持つ。このまま彼らに自由を与えていていいのだろうか、とね。充分な誘導でしょう?」
奴がコナーとジャスティンのいる十字架へ瞳を動かし、また俺に戻した。
「本来は変異体をシャットダウンさせるついでに人間を脅す程度の怪我をさせればいいだけだったのですが……ジャスティンは感染の過程で不定期にエラー……言い方を変えると殺人衝動が発生するようになってしまいまして」
「……そのエラーを解消するために、人間もアンドロイドもぶっ殺して血を得ていたわけか」
「その通りです。サイバーライフを抜け出しても、エラーが発生すれば誰であれ殺さなければならない。エラーは私の家族を探すついでに解消させましたが……ベルカ、ストレルカたちはエラーを解消するジャスティンの手口を模倣しました。人間であれアンドロイドであれ同じように斬り刻み、ジャスティンがコナーのために残したメッセージも真似して……。Dタイプであることに加え、ADウイルスの効果で通常のRK900を上回るパフォーマンスを発揮できますから、ブルーリッパーという恐怖を植え付けるためにジャスティンは最適な人材だったわけです。メディアを通じて市民の感情は大いに刺激されている。サイバーライフは今、ジェリコの解体を促す声が上がらないかと、市民の後押しを待っているでしょう」
瞳を動かす。突き刺さった十字架の下、ジャスティンがサーベル片手にコナーの傍らに跪くのが見えた。
「……我々人間はウイルスや病原菌などの抗原に一度感染すると、体内に抗体を作る免疫機能があります。この働きで次に同じ抗原が入ってきても感染しないようになる」
「……つまり?」
聞きたくないことだったが、あえて問いかけた。 ウェインが何を言いたいのか――分かってしまったからだ。
「人間を模倣するアンドロイドも同様です。開発したADウイルスの実証試験を進める中で『最初に感染したアンドロイドのDNA』……つまり個体データの刻まれたブルーブラッドを得ることで、免疫機能を得られるようにしたんです」
ジャスティンがさっき『二番目』とわざわざ訂正した理由が分かると、刃の擦れた部分が熱を帯びる。息が浅くなり、脈拍が速いリズムを刻んだ。
十字架の下では、唇を薄く歪めるジャスティンが、コナーの首筋にサーベルの刃を当てた。
「もうお分かりですよね?レビサロイドを治療するワクチンとは一体何なのか……」
刃に沿って、コナーの首から青い鮮血が溢れる。ジャスティンが笑みを浮かべながらコナーの上半身を抱き上げ、首筋に食らいついた。そのままコナーをぬいぐるみのように愛おしそうに抱き締めながら、ごくごく喉を鳴らす。
「私のものになるはずだったのに……残されていた予備機体を再利用すれば、裏切者として廃棄する手間もかからないといって……ADウイルス開発の実験台に選ばれてしまった。プロトタイプで、なおかつメモリーのアップロード機能があるのも決め手だと言いましたよ。狂ったままの記憶を受け継いで、より強力なウイルスにアップグレードさせることが出来るとね」
耳鳴りがしてきていた。耳を塞ぎたかったが、手錠が俺の手首の皮を捲るだけだった。
そこにいるコナーだけじゃない。サイバーライフタワーの地下で見たのと同じような偽物のコナーまで、人間の実験動物にさせられていたのだ。
けれど、薄々どこかで分かっていた。ジェリコで最初にレビサロイドに遭遇したとき、コナーに噛みついていた女児アンドロイドは、最後に自我を取り戻していた。あれはナノマシンの力だと俺は勝手に思い込んでいたが、ナノマシンに加えてコナーの血という正しいワクチンを得て元に戻っただけなんだ。
「分かりますか?目の前で私の作品が……家族となるべき存在が次々死んでいくのを見せられるのは……イヴァンは壊れていくコナーを見て、笑ってましたよ。裏切者でもいい使い道があるといって、予備機を馬鹿共と
ウェインが目頭を押さえるのを見て、知らず知らず歯を食いしばっていた。アドレナリンが叫びながら体内を駆け巡って暴れ始め、自分の身体が膨れ上がっていく。
ジャスティンがまたコナーの首に刃を立てた。斬っても斬っても、ナノマシンの効果で傷がすぐ塞がってしまう。満足するまでコナーの血を飲めないと分かると、ジャスティンはコナーの下顎を掴み、口を開けさせた。そのまま唇に唇を重ね、ジャスティンは舌を伸ばす。バグで吐き出した血の一部を残らず吸い上げていき、唇が離れる。コナーとジャスティンの舌先を青い糸が引いた。
ジャスティンの真っ青に塗り潰されていた眼に、ゆっくりと真珠のような白が戻っていき、完全に元通りになった。
アンドロイドが痛みを感じないことを、これほど恨んだこともない。散々傷つけられたというのに、コナーの意識はこれっぽっちも戻ってきていなかった。
「ジャスティンはADウイルスの効果を証明したところでサイバーライフから脱走しました。私はジャスティンが暴れている間に、コナーの残骸をかき集めましたよ」
『あんな形で廃棄してしまった』――ウェインの家にあったコナーの虚ろな目が蘇り、俺の頭の中をぐるぐる回り始める。
「お偉いさんのあんたが現場に回された理由はよーく分かったよ」
「おかげで屑連中と同じ空気を吸わないで済みました。コナーを探すのにも都合がよかった。ですがサイバーライフもイヴァンのようなのを上に置いているぐらいだから、本当に救いようがない」
「……ワクチンがないってことに気づいちまったんだな?」
「ええ。ワクチンデータを盾に家族の居場所を吐いてもらおうと思ったんですが、あいつはそれでも言わなかった。奴の思い通りに事が運ぶなんて不愉快極まりなかったのでね……サーバーに残されていたRK800のバックアップや関連データはわざと廃棄しました。ADウイルスに感染し、ウイルスが回りきればどのアンドロイドも例外なくシャットダウンする。自分たちが所有する
「……だからあんたも、サイバーライフも……血眼になって探してたんだな」
「そうです。コナーを隠していたあなたの責任は重いんですよ」
判決を言い渡す裁判長のように諭してくる。
空の陰りがゆっくり去っていったとき、後ろでジャスティンが剣を鞘に収めるのが見えた。
ジャスティンは沈んだ眼差しを浮かべながらコナーをきつく抱き寄せ、血濡れたシャツの襟元に自分の顔を押し当てる。頽れた
「ADウイルスという毒を常に持ち歩き、エラーを抱えた以上、近づく者は全て殺し続けなければならない。苦痛と悲鳴と血を一身に浴びて渇きが満たされても、孤独までは癒せない……あなたのせいで、ジャスティンもずっと苦しい毎日を過ごしていたんです」
ウェインが一度後ろに振り返る。神の下でコナーを抱擁するジャスティンを見て、鼻を啜った。
「……やっと私は、救われる」
「そうだ、ジャスティン。今度は君が呼びかければ、コナーは応えてくれるよ……ADウイルスの進行も止まる。父も母も妹も取り戻せた。私たちみんなで……これからやり直すんだ。家族になるんだよ」
ウェインは翡翠の瞳に穏やかさのようなものを湛えて俺を見つめてくる。
「アンダーソンさん。私たちの
頭の中で、感情のケーブルがぷつりと切れて煙を立て始めた。
「……ふざけんな」
ぐつぐつ煮えた鍋のように、全身の毛穴が熱蒸気を放ち始め、毛が逆立つ。
「ふざけんなッ!コナーは……生きてるんだぞ……俺の相棒だッ!」
腹の底から吠える。身体中の水分が蒸発しそうなぐらい熱くなっていき、干からびてミイラになりそうだった。
「サイバーライフの命令を聞かなかったってだけで、いつゴミ箱に捨てられるか分からない……満足に陽の下に出れないような日をずっと過ごしてたんだぞッ!お前にコナーの何が分かるんだッ!?」
それだけじゃない。モルモット生活を送るうちに身体をおかしくされて、でも仲間のためだとずっと耐えてきて……やっと……やっと平穏を掴んだのに……。
あなたと花見をしてみたいです
今年は無理でもハンク、来年は絶対行きましょう!夏は海に行ってみたいです!たくさんやりたいことがあります!
あなたとスモウのご飯を作って、一緒に散歩に行って、それから……
なんてことはない、ささやかな、コナーの望んでいることが頭に蘇る。それを手にすることさえ許されないまま、コナーは自由を踏み潰されなければならないというのか?
「お前の願いを叶えてくれる便利なお人形じゃねぇんだぞッ!何が家族だッ!それともジャスティンを生かすために、またホルマリン漬けにするのか!?テメェの言う第二の人生謳歌するために、コナーの人生を捧げてもらうって言うのかよッ!?」
「ええ」
奴は何の躊躇いもなく言い放った。
「理想のパートナーになるよう設定してあるコナーが一人いれば、例え家族が見つからなくても代わりになってくれる。それにコナーにはあらゆる任務に対応するため、つけられる技術や知識は、片っ端からインストールしてあります。今はジャスティンが協力してくれていますが、あなたがすぐ返してくれれば私のセラピーを介助してくれたでしょう」
「コナーは殺しの道具じゃねぇッ!」
「何より、コナーの抜きんでたソーシャルモジュールデータを利用すれば、クローン……人間にもアンドロイドのように記憶をアップロード出来るようになると考えています。分かりますか?コナーは私の研究の集大成なんですよ。望めば望むだけ、私のためにプログラムし続けて、私を癒してくれる……私の人生を豊かにするために必要不可欠だ」
摩擦で皮膚が幾度も擦れ、血が流れても手錠を外そうと構わずもがいた。いっそ今すぐジャスティンに腕を斬り落とされた方が本望だった。そうすれば、目の前のクソッたれを誰だか分からなくなるぐらいまで踏み続けることが出来る。コナーを少しでも遠ざけることが出来たんだ。
「あなただってコナーに家族であることを望んで、コナーは応えていたのでしょう?だから私に返さなかったのでしょう?――許せませんね」
ウェインの声音から感情が消え、瞳孔が大きく開く。
「サイバーライフでも、あなたでもない――コナーの主人は、この私ですよ」
胸に手を当てたウェインは、俺の瞳を真っ直ぐ見据えながら声高らかに宣言する。
銅板さえトーストみたく食い千切れそうなほど歯を噛み締めていた。瞬間湯沸かし器みたく血沸く身体が、極限まで燃え上がって火だるまになっていた。
主人?主人だって?主人だから、コナーの望みを奪う?自由も奪うのか?
そんなこと――俺は許さない。
「見ロ!rA9!」
「治ルわ!治ルノヨ!」
振り向かなくても、発音のおかしい喋り方を聞くだけでレビサロイドだと分かった。彼らがコナーをrA9だと呼んだ理由も分かった以上、俺はもう彼らに銃を向けることが出来ないだろう。人間の欲望のための、哀れな犠牲者なんだ。
ウェインは乱入してきたレビサロイドに特に驚いた素振りも見せない。ジャスティンはコナーの肩からゆっくり顔を上げ、コナーの身体をそっと地面に寝かせると静かに立ち上がった。
後ろからばたばたと走ってくる音が近づき、レビサロイドは一目散に十字架の下にある
「……治療には条件がある。持ってきたか?」
「もチロん!」
コナーと同じ声に戻ったジャスティンの言葉に、レビサロイドが振り返る。俺の横を、制服姿の別のレビサロイドが涎を垂らしながらふらふら通り過ぎていく。そいつが持っている熊のようにデカい図体をもった人形に、目を見張った。
「よく出来ているでしょう。以前来訪されたときにいただいたサンプルから作りました」
ギャビンたちと奴の屋敷を訪れたとき、ジャスティンが俺の髪の毛ごと蜘蛛の巣をとったときのことを思い出した。
レビサロイドが持っているのは――俺そっくりの
人形が祭壇の前に投げ捨てられた。声を上げることもなく、意識のないクローンの傍らに立ったジャスティンが、サーベルを使って腕や足に傷を残し、最後に心臓へ突き立てた。
「……なっ……」
驚愕する俺を差し置き、さらにレビサロイドが現れる。抱えているのは、額を撃ち抜かれてシャットダウンしている制服姿のRK900だった。身体の方もいくつもの銃痕を刻んだボロボロの制服で、顔の皮膚機能がところどころ剥がれ、完全にスクラップと化している。
「ジャスティンがシャットダウンさせたナインの身体をこっそり回収して、再利用させていただきました。ジャスティンが斬った部分をごまかしながら撃たれたように見せかけるのはなかなか難しかったですよ。中身もジャスティンのデータをコピーして改竄してありますし、誰が捜査してもシリアルナンバー1だと結論付けるでしょう」
レビサロイドが絶命している俺の人形の隣に、シャットダウンしている元ナインの身体を放り投げる。一人が服の中から銃を出し、血を流す俺そっくりの死体の手に握らせた。
「あなたは今日、ここでブルーリッパーと相打ちになり、命を落としたのです」
「……何?」
「連続殺人犯であった変異体を捕らえようとして刑事は殉職。事件は解決し、安息と笑顔がもたらされる……素晴らしいヒューマンドラマに市民は涙すると思いますよ」
ディレクターのようにウェインは朗々とシナリオを告げながら、胸の前で小さく拍手を繰り返す。
一瞬、ドイツ語なりフランス語で話しかけられたような、意味不明な内容に混乱した。咀嚼するうちに、寒気を憶えて汗が噴き出てくる。
「あなたが死んだと知れば、コナーは確実に私たちの元に帰ってくる。あなたにはコナーを隠し続けていた罪を償っていただきたいんです」
クソッたれめ。コナーを隠していたあてつけに、俺を社会的に抹殺しようというのか。
「治シてくれルんでショう?」
「ええ」
レビサロイドがふらふらとジャスティンに迫った時、ビル風が走り抜けたような音が響いた。実際に風が吹いたわけではない。救いを求めたアンドロイドたちの首が、綺麗に横にスライドしていき、ぼとりと床に落ちる。つられて青い血を零しながら身体も地面に倒れた。
「テメェ……ッ」
ジャスティンが濡れた刃を持ち上げ、血抜きの溝に舌を走らせる。ジャスティンの蒼い瞳は、俺を捉えて挑発していた。
「あなたにちゃんとお土産も渡せましたし、私はそろそろ帰らせていただきます」
ウェインが椅子から立ち上がり、踵を返して十字架の足元に近づく。
「一緒に帰ろう、コナー」
意識のないコナーの元へしゃがみこむ。ウェインは腰と膝の裏側に手を差し入れ、これからハネムーンにでも旅立つように抱きかかえて立ち上がった。
「ジャスティン、先に戻る。後は任せたよ」
「了解」
「待て、ウェインッ!」
素通りしようとするウェインを引っかけようと足を延ばした。すぐに気づいたウェインが手前で立ち止まり、俺を無感情に見下ろす。
「答えろ!お前、ジェリコで会う前から俺を知ってただろ」
手錠が千切れてくれないかと目いっぱい左右に腕を引っ張る。痛みに構わずウェインを睨むと、奴は破顔した。
「……あなたのところにコナーが派遣されたのは、何の偶然かと思いましたよ。アンドロイド嫌いだというから、任務が終わればすぐ私のところに戻ってくると思ったのに……」
やっぱりこいつは事件の捜査よりもっと前から俺を知っていた。
俺はこいつとどこで会った?どうして会った?何を話した?記憶の底辺に、接触したという事実があることは分かっているのに――何故、思い出せない?
ウェインが、コナーを自分の胸の方に引き寄せたまま僅かに腰を落として、俺の瞳を覗き込んでくる。
「やはりあなたにもセラピーが必要なようですね。安心してください。無料で施してあげますよ」
「タダでもいらねぇよ!そいつに触るなッ!そこに下ろせッ!」
すぐ目の前に、手を伸ばせばすぐ届くところに、コナー……まだお前がいる。
手を伸ばさなければ、コナーは怪物の懐に飲み込まれてしまう。けれども手錠が擦れてずたずたになった手首は、傷口から血が流れ、ポタポタと不規則なリズムを刻んで地面に落ちていくだけ。
「これから楽しみにしていてください。私からのお礼です」
ウェインが身を引き、コナーを連れたまま視界から消える。
「コナーッ!」
地面を思いきり蹴って、背もたれに全体重をかける。朽ち果てかけている椅子は俺の体重を支えられなくなり、後ろにひっくり返った。
反転した視界の先に、まだウェインとコナーがいる。
間に合う――立ち上がろうとしたとき、背後から近づいてきたジャスティンが首を絞め上げてきた。そのまま片手で易々と俺の身体を地面から浮かす。
「コナー、を……解放しろ……ッ」
「そのような命令は与えられていない。与えられたとしても私は実行しない」
ボルトのようにきつく食い込む指。耳の内側で神経、血管がみりみり悲鳴を上げているのが聞こえた。
「レビサロイドたちと同じだ」
「な、にが……ッ」
視界の先、ウェインの姿が豆粒のように小さくなり、やがて消えた。
片手で器用に刃を鞘に納めたジャスティンが、スーツの内側に手を入れる。
「私にとってコナーは――任務と命を与えた
何かを取り出した。
――注射器。
「楽しかったですよ、ハンク・アンダーソン……ここでお別れです」
ミリ単位も緩まない指を剥がそうともがきながら、祈る。
頼む、コナー。逃げろ。逃げてくれ。
目覚めたときお前の隣にいるのは――俺たちの死神だ。
「よい夢を」
針が差し込まれ、ゆっくり俺の世界がフェードアウトする。
暗くなっていく意識の中で、俺は自分を呪った。
俺はなんて馬鹿なんだろう。
ついさっきまで手の中にあった、コナーがもたらした温かな日常が今度こそ、どこまでも続いていくんだと、信じていた。
だが忘れていた。
母になるはずだった妻が新たな命を腕に抱く前に死んだこと。前日まで元気いっぱいはしゃいでいた天使のような息子があっけなく冷たくなったこと。
幸せほど不確かなものはなく、簡単に吹き消されてしまうものだということを。
こうして、俺の地獄の幕は上がったんだ――…