有り難いことに、カーチェイスさながら時速140キロオーバーのパトカーを見た全ての車が、即座に道を開けてくれてスムーズに目的地を目指せた。
中心部から外れたデトロイトなんぞ晴れてりゃ散乱したゴミが日光浴し、朽ちた家は植物に蹂躙され、困窮と悲惨と鬱が主な住人となっているような場所だ。ちょっとでも留守にしてりゃ空き巣に入られてる可能性はかなり高い。廃墟になりゃ不審者が住み着き、ドラッグの取引が行われたりする都合上、火を放たれる。形だけでも残っていればいいが。
見慣れた通りに出る。馴染みの店は潰れておらず、出勤するときにいつも見ていた建物の看板もそのまま。街が変わっていないことに安堵しながら車を走らせ続け、住宅街に入る。
見えてきた。
自宅のガレージ前へパトカーの頭から突っ込み、エンジンを切る。
車を降り、雨に濡れそぼつ自宅を眺めた。時間が止まったんじゃないかと思えるほど、記憶の中と同じ姿を保っていた。更地に生まれ変わっていてもおかしくないというのに、家主不在の、特に立地がいいわけでもなく魅力の一つもない家が年老いてないということは、新しい住人でもいるのだろうか。
――コナーがここにいる可能性はどう見積もっても0。だが、あいつの帰る場所はここしかない。
とにかく家の様子を確かめなければ。腰に差した銃をいつでも抜けるよう警戒しつつ、玄関に近づいていく。バウッ、という聞き覚えのある声がした。
「……スモウ?」
まさかと思いつつ玄関横の窓から中を窺う。
僅かに開いたカーテンの向こう、セントバーナードがうっすら見えた。
「スモウ!」
玄関へ駆けあがり、ドアに手を伸ばす。鍵はかかっていない。
扉を開いた途端に、毛むくじゃらの家族が俺の胸に飛び込んでくる。
「スモウ!無事だったのか……!」
しゃがみこんで抱きしめた。スモウは俺の髭に顔をすり寄せ、舌で顔をべろべろに舐め回す。毛並みを撫でると、興奮に息を荒げながら腹を見せて甘えてきた。毛並みは整っており、怪我や病気をしている様子はない。
スモウをあやしながら室内を見回した。ワンシーズン不在にしていたというのに、荒らされている形跡はない。テーブルや ソファ、俺がコレクションしていたジャズのレコード、どこにも埃が積もっていないし、スモウの毛もそれほど落ちていなかった。
過敏な耳がひたひた近づく足音を捉える。反射的にコルトガバメントを抜いた。
「……あんた……」
「あなただったんですね……ミスター・アンダーソン」
廊下から姿を現したのは、みすぼらしい住宅街の片隅に全く似つかわしくない、クロエと呼ばれていた、あの鼻持ちならないイライジャ・カムスキーの秘書。
銃を腰に戻し、立ち上がる。
「なんでここに……」
「ここに隠れていたんです」
「隠れる?……あんたがこんなチンケな家うろつくなんて、何があった?」
「それは……」
べっぴんアンドロイドのこめかみが薔薇色に点滅する。やがて両目から涙を流した。
「あんた、変異したのか」
「……おそらく」
スモウが起き上がり、指で涙を拭うクロエの足元へ歩いていく。慰めるように、スモウは彼女の濡れた指先を舐めた。
「……聞きてぇことは山ほどあるが……地獄の底からタイムスリップしてきたようなもんだからよ、先にちっと休ませてくれないか。頭ん中を整理したい」
「もちろんです。ミスター・アンダーソン、お食事は?」
「まだだ。飢え死にそうだよ」
「それではデリバリーを注文します。ご希望は?」
「ピザでいい。とにかくカロリーあるもんをくれ」
「かしこまりました」
「ああ、それから」
「どうされました?」
「あんた、俺がいない間、留守を預かってくれてたみたいだな。悪ぃな、助かったよ」
リビングを見回しながら、忘れないうちに礼を言っておく。彼女のこめかみがくるりと一瞬タンポポのように染まる。
「俺はシャワー浴びる。もし何かあったら、すぐ呼んでくれ」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
秘書らしい会釈をし、女アンドロイドはスモウとともにキッチンへ入っていった。
自室に入る。クロエは家中まるごと掃除をしてくれていたらしい。リビングと同じように片付けられ、ベッドメイクも済んでいた。微かにクリーナーの匂いまでして、見た目は自分の部屋なのに違うホテルの部屋に入ったような気持ちになり、逆に落ち着かない。
服の中にしまいこんでいた殺人映像集とパトカーの鍵を出す。ベッドに放ると、シーツの上で軽く跳ねた。クローゼットを開ける。シャツやジーンズ、上着、ブタ箱生活を送る前に見たのと同じ場所に並んだまま。
一番奥、上下セットにしてハンガーに掛けられていた服を取り出す。若いときに気に入って着ていた白と紺のストライプシャツと黒いチノパン。ここまで清掃していたのだろう、クリーニングのタグがぶら下がっていた。
「……こんなんあったな」
これは明日、久しぶりに袖を通してみよう。
……明日、か。もう、そんなまやかしみてぇな希望が俺の元を訪れるようなことはないと思っていたが……今はしばし受け取っておこう。コナーが与えてくれたものだ。
パーカーと下着も定位置にそのまま入っており、取り出して風呂場へ。銃を洗面台に置き、汚れて臭いシャツやらズボンを脱ぎ捨て、蛇口を捻る。
頭上から降り注ぐ待望の温もり。ブタ箱にあった粗末なシャワーでは作れなかった膨大な湯気が立ち込め、ほぅっと息をつく。
石鹸とスポンジを取り、不衛生を極めた身体を洗う。コーヒーみてぇな赤茶けた水が身体から滴った。血、垢、泥、麻薬、檻の中のくだらない記憶。散々こびりついて膨らみ過ぎた不潔の塊がシャワーに混じって流れていく。
風呂の栓をし、湯船の中に身を沈めた。全身を包む温もりに、つい数時間前まで隠し持っていた緊張がどうしようもなく弛緩する。蛇口と反対側の縁に頭をもたげたとき、あっという間に睡魔に包まれた。
どこまでも続く空を散りばめた渚。寄せては引いていく波の蒼は血潮。
視線を這わせる。海の先、背を向けている人影。眩しい純白のシャツ。
微か、振り返る。蝋色の肌。こめかみに輝く円い青。
遠く、表情を捉えようとして曖昧。分かるのは唇が僅かに。
『ハンク』
さざなみめいた音に目を覚ました。首を傾ける。浴槽からとめどなく湯が溢れている。
……夢か。どのぐらい経ったのだろう……ここは現実か?時計のないブタ箱の中か?俺はまだ覚めない地獄にいるのか?
しばし煙る蒸気を見つめる。方向を見失っていた頭をどうにか目の前の世界へ切り替え、ゆっくり起き上がった。水を止め、風呂を出る。濡れたまま鏡の前に立った。全身から湯気を立ち上らせ、ぼうぼうの髭と髪を体毛にした、豺狼じみた眼光をぎらつかせる獣がそこにいた。
洗面台には髭剃り、シェービングフォーム、歯ブラシといった日用品が変わらず置かれたまま。壁をべたべた囲んでいたいくつもの付箋は剥がれてしまったのか全てなくなっている。
浮遊的な夢にいたせいか、意識があいつといた芳醇な日々に向かって歩き始め、だが感慨に浸るにはまだ早いと首を振った。
タオルで身体を拭き取って着替え、念のため銃をズボンの後ろに差し風呂を出る。
リビングを見やると、薄闇の浸蝕範囲の広さに夜が訪れていることが分かった。屋根や壁を擦り切ってしまいそうな強い雨音が家を包んでいる。
キッチンから漂う香ばしい匂いに足がつられた。べっぴんアンドロイドがテーブルにMサイズのピザとミネラルウォーターのボトルを並べ、一歩下がる。
「お好みが分からなかったので、お口に合うか分かりませんが……どうぞお召し上がりください」
「悪ぃな。あとあんた、そんなとこに突っ立ってないで座んな」
椅子にかけると、リビングで寝転がっていたスモウがやってきて俺の足元に腰を落ち着けた。戸惑っている様子だったが、クロエも向かいの席に座る。
先にボトルの蓋を開け、半分ほど一気に飲んだ。トマトにマスカルポーネ、サラミ、バジルがトッピングされたピザ。鼻を殴る匂いが猛烈に唾を沸きおこす。ジャンキーのように震えながらピースの一つを掴み、かぶりつく。
「……ああ……死ぬほどうまい」
カロリー数=旨い指数。口の中で広がる肉とチーズと油と添加物のジャンクハーモニーに舌鼓し、生きた心地を噛み締める。
「食いながらになるが、いくつか質問させてもらうぜ」
「はい」
「あんたは、コナーがどこにいるか知ってるか?」
「いいえ。あなたが……亡くなってからは……」
次のピースに伸ばしていた手が止まった。
「ミスター・アンダーソン。落ち着いて聞いてください。あなたは事件の捜査中に殉職したことになっているのです」
「殉職、ね……」
道理で、さっきギャビンたちがゾンビに遭遇したみてぇな顔していたわけだ。とはいえ、最初から予想していたことだ。
2つ目のピースを取り、齧りつく。カロリーを吸収するごとに、スナッフフィルムの中でコナーを舐め、俺に宣戦布告した男の顔と名前が記憶の底辺から湧いて出てきた。
「……俺は、データの上では死んでる人間、ってことか……」
「はい。その通りです。連続殺人事件の犯人と差し違え、亡くなったと……最初は、本当にあなたが亡くなってしまったのだと思っていました。イライジャとあなたの葬式に参列したとき、棺にはあなたが確かに横たわっていたのに……」
「ははっ、あんた、あいつと葬式まで来てくれたのか?カムスキーも物好きだな……でも、自分の葬式をこの眼で拝むことなんてないからな、見てみたかったよ。それで?」
「……あなたが亡くなった後、イライジャはルルドの研究を進めていました」
「……まだあれをやってたのか」
「はい」
奇跡の海がそんなに大事だったか、アンドロイドの創造主。
まぁ、そうだろうな。コナーがルルドで手に入れちまった『副産物』は、カムスキーでなくとも、人間、誰もが執着する。
「で……何があった?あんたがここにいるってことは、カムスキーに何かあったんだろ」
クロエは一度目を伏せ、テーブルをじっと見つめる。俺からすればクソ野郎ではあるが、彼女にとって主人に仕えるのは生きる理由だ。奴がいなくなってしまった辛い現実を、また思い出させようとしていることに、多少良心が痛んだ。それに、カムスキーがこの姉ちゃんを特別目にかけて大事にしていたのは知っている。なのに、何故ここにいるのか。
「……イライジャの元に、来客が」
「来客?」
俺の知らない現実を思い返したであろう彼女が、再び顔を上げた。
「はい。アンドロイドと共に来訪してすぐ、イライジャをなじり始めて……脅してきたんです」
「……ああ、あいつが、ね……」
3つ目のピースに手をつける。
「あの人のことをご存じなのですか?」
「まあな。それで?」
「……襲われ、ました」
ピザを口に詰め込もうとした手が思わず止まる。
「マジかよ」
「なんとか逃げ出したんですが……それから連絡が、とれなくなってしまって……」
「まさかぶっ殺されてねぇよな?」
「……生きている、はずです」
はず、か。 彼女は奴のお気に入りのアンドロイドのはずだが、彼女を放置してどこかへ旅にでも出るようには考えられない。
仮に、奴が殺されるようなことがあれば、ケーブルテレビやらメディアがこぞって『訃報』でニュースを飾り立てて放映するだろう。脱出の際にニュースの記事を見たときには奴に関する記事はなかったから、死んでいるということはなさそうだが……。
カムスキーが消息を絶ったのは、真実を知ったからか、それとも……。
主人が音信不通となったことで、不安なのだろう。クロエは痛みを我慢しているような顔してテーブルに目を落としていた。
「しかし、俺を死んだように見せかけるなんて、本当、いい趣味してるぜ」
「……心当たりがあるのですか?」
クロエが顔を上げる。LEDがマーガレットの中心と同じ色を放った。
「ああ。俺が生きてることをわざわざ回りくどいやり方で偽装して、な……で、あんたがここにいる理由は?」
「この家は本来の持ち主であるあなたがいなくなったことで一度売却されましたが、あなたの犬も引き取った上で、イライジャが別の名義を使って買い取ったんです」
「さすが、ビリオネアはここぞというとき金の使い方が分かってるね」
「この子の面倒もありましたし……私はここに隠れることにしたんです」
「……そうかい。とりあえず、俺の家が死ぬ前と同じままで安心したよ。しかし、最新のデータがほしいな……装備もほしいし、DPDに戻らんと」
「あなたが亡くなったことで、バッジや銃などは、全て警察署に返却されています」
「んじゃ、明日そいつを取りに行くかね」
ミネラルウォーターで喉を潤し、一息つく。
「あんた、自分のメンテナンスは平気なのか?」
「あなたのガレージに部品やブルーブラッドをストックしてあるので大丈夫ですよ。イライジャと一緒にアンドロイドをメンテナンスしたこともあるので、問題ありませんわ」
「……そういやそうだったな。よかった。ちなみに、あんた、どこで寝てるんだ?」
「スリープモードのことですか?ソファをお借りさせてもらっています。あなたの犬も一緒にいてくださるので、寂しくありませんわ」
「そうかい。スモウ、姉ちゃんとずっと留守番してくれてありがとな」
足元の一匹を撫でた。
以前ならMサイズぐらい全部平らげていたのに、ブタ箱でのひもじい飯に慣れ過ぎて胃が小さくなったのか、ピザは4つ目を食べるのが精いっぱいだった。
ボトルの水を飲み干し、席を立つ。
「久しぶりに生き返ったよ。ごちそうさん」
余ったピザを皿に移し、ラップをかけて冷蔵庫にしまう。クロエがゴミを片付ける横で、今、俺は何の違和感もなくピザを冷蔵庫に片付けた。皿、カトラリー、細々した日用品のほとんどが、監禁生活の前に見たままの定位置に置かれていた。かつての日常が地続きに続いている錯覚に陥る。水色のエプロンが視界に入ったとき、コナーが今すぐにでも帰ってくるような気がして玄関の扉を見つめたが、止む気配のない雨音が聞こえるだけ。
「もうお休みになりますか?」
「……少しやりたいことがある。スモウ、お前は姉ちゃんの傍にいてやんな」
わんっ、と返事をするスモウの頭を撫でる。
「そうだ。ミスター・アンダーソン」
「ん?」
「これを」
クロエがリビングから未開封の小包を持ってきた。
「あなた宛ての荷物です」
「……ああ、ありがとよ」
差し出された小包を両手で受け取る。
「私は自分のメンテナンスをしようと思います。しばらくガレージをお借りしたいのですが、よろしいですか?」
「好きに使ってくれ」
「ありがとうございます。何かありましたら遠慮なくお申し付けください」
恭しく一礼し、クロエがガレージへ向かう。興味を持ったスモウが彼女の後ろについていき、一緒に消えていった。
手渡された小包を持って寝室へ戻る。
ベッドに放置していたDVDと鍵を避けてからベッドに座り、小包に目を落とした。
差出人は書かれていなかったが、ワープロのような字――そう、サイバーライフフォント――で俺の名前が書かれている。点字に触れる盲人のように、そっと宛名をなぞった。
小包を開ける。箱の大きさと不釣り合いすぎる、1985と刻まれた細身のコインネックレスが出てきた。ネックレス以外には何も入っていない。
「……お前……」
地図を透かし見るように、コインの表面を明かりにかざす。
ベッドに大の字になった。
コナー、記憶が消されようとしている中で、お前は俺に何を伝えようとしていたんだ?
首だけ動かす。かつて隣で眠っていたお前の居場所は、ただの空白。髪、汗、皮膚、匂い、体温、中身は何も残っていないし、残ることはない。あるのは、記憶だけ。
コインネックレスを握りしめる。ベッドから起き上がった俺は、DVDを手に立ち、リビングへ戻る。
未成年のガキが親に内緒でポルノを見るような疾しさを久しぶりに覚え、リビングを見回す。クロエが戻ってきそうな気配はない。
ソファにどさりと座る。手にしたディスクには『
この薄いディスクの中にある記録を見ることは、崖っぷちに立っている自分の背中を押すことだと分かりきっている。だが希望は誰かがくれるわけじゃない。希望を信じることは俺が選ばなければならない。俺が人としてもう一度生き延びるためには、希望を造り出さなければならない。
皮肉なことに、地獄を味わいきった俺は狂気への免疫がついている。実際、息子が死んだときは色のない日を送り、コナーを奪われ地図にないブタ箱行きにされて、二度死んでる。
今更、俺は狂わない。狂っていられない。
俺から、そしてコナーから全てを奪い尽くして、どこかでほくそ笑んでいるだろう。
それも今だけ。今度はこっちの番だ。
社会的に抹殺された俺の苦しみを、コナーの痛みを、お前たちに全てくれてやる。
必ずお前たちに辿り着く――。
再生の準備を整え、ソファに再び腰掛けた俺は、テーブルに銃を置く。弾を全て抜き、手の届かない一番端に点字のように均等に立てて並べる。フラッシュバックでロシアンルーレットしたくなっても、これなら問題ない。コナーを見つけ出すまでは死んでいられない。
深呼吸してから、リモコンを手にし、再生ボタンを押した。
地獄の洪水。けれど凌辱と嗚咽と悲鳴の先には、今の俺にとって究極の癒しがある。
意識の上でなら10回以上死んでいる最中、今日受け取ったばかりの最後の一枚を再生する。
お前は俺を呼ぶ。けれど、お前の中にいる俺は消えていく。
『ハンク……あなたの名前を呼ぶと、僕は満たされる』
俺をまだ憶えているお前の、最期の声。
ただただ憑りつかれていく。
『もう一度、あなたに会いたい……でも、もう僕の願いが叶うことはないでしょう。けれど……あなたが、この世界のどこかで生きているというなら……例え全てを失ったとしても、それは僕にとって、救いです』
もういい。これ以上耳にしていたら、おかしくなる。
そう思ってもまた聴こうとして耳に意識を集中させる。
『僕はあなたの望む者に……あなたにとっての何者かでありたい。それが実現するのであれば、僕は何もいらない……ずっと、今も、これからも……そう思っています』
ただ没頭する。渇ききった魂が潤っていく。
『赦して下さい――ハンク』
ソファの背もたれに落ちる。
遺された記憶を辿って、視線を横に動かす。誰もいない。ソファの隣にぽっかり空いた空白。
「……コナー」
空白に呼びかける。もちろん、返事などない。聴こえない。届かない。
――今は、それが酷く寂しい。
整備された遊歩道を歩いていた。右に広がるのは模範的な緑を湛えた芝生。左に視線を移せばアンバサダーブリッジ。真っ直ぐに戻すとデトロイト川で釣りを楽しむ男。ローラースケートを履いて人々の隙間をすり抜けていくティーン。
見上げれば雲一つない爽やかな空が果てしなく広がる。視界の端に薄紅を纏った梢が触れて、軽やかな風が鳥の羽根のように花弁を運ぶ。舞い落ちてきた桜を手のひらで拾い、顔を上げると、眩い真昼の下に異国の庭が広がっていた。白を基調に、石畳、枯山水、透き通る池を泳ぐ錦鯉、生垣に絡み付く鮮烈な薔薇。かつて一度だけ見た美しい禅の世界。
太鼓橋を渡る。中心にぽつり、ピクニックテーブル。
テーブルに腰掛けたまま手を振る人影。白地に花柄のコットンワンピースを着た妻と、デトロイト・ギアーズのロゴ入りキャップをかぶった息子。後ろからサンドイッチの入ったランチボックスを持ってきて、テーブルに並べるのは白いシャツを纏うプラスチックの相棒。
――かろうじて夢から目覚めた。
耳を澄ます。沈黙にほど近い静寂。夜が明け、雨は上がっていた。
瞼の裏に広がっていた、まるで違う宇宙の避難所に想いを馳せる。実際は通り過ぎてしまった亡骸。遠く離れた支え。
ルルド、蒼い邂逅、もしかしたら到達したかもしれない蜜が滴る快晴の日……昨日、今日と、短期間に視た夢の、なんと完璧で甘美であることか。ありきたりで退屈な日常に飢えているから、危険な誘惑を自ら生み出すほど気が
これはいかんと断ち切るようにベッドから起き上がる。
手の中でずっと握りしめていたコインネックレスに気づき、なんとはなしにチェーンを自分の首に回す。
ハサミを見つけて取り出し、洗面所に入った。
鏡を覗く。浮浪者のレッテルが拭えない風貌。
顔を洗い、まずは髭を剃る。次いで鬱陶しかった髪の毛にハサミを入れる。
「……こんなもんか」
監禁前と同じぐらいの髪の長さにし、肩についた毛を払い落とす。
これで少なくともゾンビには見えないだろう。
「……お前は必ず見つけてやる……」
鏡の向こうに言い聞かせた。
反吐が残る口の中をいい加減さっぱりさせようと歯ブラシを入れ、丁寧に磨き、洗い流す。
人心地がつき、寝室に戻る。昨日見つけた若い頃の服を纏う。シャツのボタンはきちんと留まり、チノのジッパーも上がりきった。
ブタ箱から回収しておいたDVDディスクを何枚か服の中に忍ばせ、コルトガバメントをチノに差した。薄手のグレージャケットを着てからパトカーの鍵を拾い上げる。リビングへ入ると、スモウが尻尾を振りながら歩み寄ってきた。
「おはようございます。ミスター・アンダーソン」
「……ああ、おはようさん。あんた、いるんだったな」
「朝食のご用意、出来ていますよ」
キッチンのテーブルにはトレーが出され、昨日のピザの余りとインスタントのコーンスープにコーヒーが並べられていた。
クロエがスモウの餌を取り出し、餌箱に注ぐのを横目にコーヒーを啜る。
「俺はこれから警察に戻る。死んだことになってるなら、席がなさそうだが……とにかく情報を集めて、コナーを探す」
「分かりました」
「あんたはどうするんだ?……いや」
「なんでしょう?」
「変異したんだろう?何か望みがあるから感情を持ったってことだ。あんたこれからどうしたいんだ?」
餌にがっつくスモウを眺めていたクロエのこめかみが、激しく点滅する。
「私、は……」
赤いこめかみを光らせながらしばらく目を伏せた。感情を言葉にする方法を探っているように、唇が何度か開いては閉じるのを繰り返し、俺を見据える。
「……イライジャの無事を、知りたい」
「……そうかい。さすがに、今は情報不足だ……まだ叶えてやれんよ。すまん」
ぽつりと零す彼女に、謝ることしかできない。
アンドロイドの創造主は今頃、自分の造ったプラスチックのお人形に囲まれているのか?お前が今立っているのは現実か?それとも天国か地獄か?死の先に歩いていったとして、アンドロイドも共に滞在するのは許されているのだろうか?何故だか知らんが奴に答えを聞きたい。
ピザを胃の中に片付けてスープを飲み干し、身体が暖まる。
「それじゃ、俺は行くとするよ」
空になった食器を片づけるクロエの横を通り、玄関を開けたとき、
「ミスター・アンダーソン、お待ちください。これを。何かありましたら、ご連絡ください」
振り返ると、いつの間に用意していたのか、クロエが新品の携帯端末を差し出してきた。
「あんた、準備がいいね」
俺が以前使っていたのと同じ機種だ。新機種の使い方を覚える必要がないのが有難い。
電源を入れ、ポケットに入れる。
「悪いが、また留守を頼む……スモウの世話も頼んじまって、すまんな」
「構いません。イライジャがいない今……私も、居場所がないのです……この子に、とても救われました」
クロエが、足元にお座りしたスモウの頭を撫でた。
「いい子にしてろ、スモウ。姉ちゃんと、留守を頼むな」
スモウが耳を垂らして寂しげな声を上げる。
しゃがんで、宥めるようにスモウの毛並みに指を滑らせた。
「……コナーは、俺が必ず連れて帰る。そしたら、また散歩に行くか」
スモウの表情がおっとり緩んだので、立ち上がった。
「行ってらっしゃいませ」
クロエが深くお辞儀する。
二人の優しい眼差しに見送られながら、車を発進させた。
駐車場にパトカーを返却し、エントランスに入る。
軽く中を見渡すが、椅子の数、待合に流れている報道番組、受付に並ぶアンドロイドの顔ぶれ、ああ、細かいところまでなんにも変わっちゃいねぇ。
受付を通さずそのままゲートを通る。死者であっても、不法侵入が適用されたらしく、警報が鳴り響いた。
「止まりなさい!」
廊下の警備用アンドロイドが制止しようと駆けてくるが、押しのけて無視する。
「なんだなんだ、久しぶりの出勤だってのに、こんなのしか出迎えてくれねぇのか」
オフィスに入り、デスクにいたクリスと目が合った。
「う、うわああ!!」
絶叫。警報と見事に重なって、休憩室や廊下から同僚たちがぞろぞろ駆けつけてくる。俺を一目見るだけで誰もがホラー映画の子役みたいな叫び声を上げ、一足早いハロウィンじみた騒然さを味わった。
床にペイントされた警察のロゴの上に立つと、ようやくうるせぇ警報が鳴り止んだ。
署長室から飛び出してきた男が俺を見て、持っていた書類を床にばさばさ落とした。
「よぉ、ジェフリー」
軽く手を上げると、慌ててジェフリーはステップを降りてくる。
「嘘だ……ハンク……ほ、本当に、お前……なのか?」
「ああ、俺の葬式してくれたんだってな?葬式代は悪いが踏み倒させてくれよ。死んだ人間ってやつに財産はないんでね。で、出勤早々悪ぃが、バッジと銃を返してくれねぇか」
「……ハンク、これは一体……どういうことなんだ?」
「バッジと銃をくれ、ジェフリー。話はそれからだ」
背後に顎をしゃくる。ジェフリーは落とした書類のことなんか忘れちまったように踏みつけ、署長室に入っていった。
うわ、と見知った同僚たちが見えない壁に押されたように後ろ歩きに下がっていく中、左へ足を動かす。
俺の席とその向かいの席には、新人らしい若造が座っており、ぽかんとした目をこっちに向けてくる。
「おい、そこ、俺の席だぞ」
「は、はいっ」
「ついでにお前、そこどいてくれ」
「はい?」
「どけって言ってんだろ」
軽く威圧すると、さっと二人は席を立った。
こんなもやしみてぇな人間を採用して大丈夫かと思いつつチェアを引いたとき、モノトーンのアンドロイドが人波を掻き分けて一直線にやってきた。
「ああ、いたのか、ナイン」
「……おはようございます、アンダーソン警部補……それから、これはどういうことですか?」
「どうって言われてもねぇ……昨日の連中はしょっぴいたか?」
「現在、事後処理に追われています」
「そうか。ちなみにお前、俺の葬式に出たのか?」
「はい。2039年6月11日に、あなたは……亡くなっている。あなたは、何者ですか?」
「俺は俺だ」
自己啓発書の一文みたいな返事をする俺の隣に、クソ野郎がやってきた。
「……ジジィ、どういうことだよ……」
「地獄から戻っただけだぞ。ま、お前からすれば棺でおねんねしてた方がマシだったんだろ、ギャビン」
「……あのレッドアイスの工場、通報したのてめぇか」
「拾った携帯をシリウム目的で捕獲されてたアンドロイドに渡しただけだ。お前、あのブタ箱にいると鍛えられるぞ。メシは出てくるし、娯楽はあるし」
誇張なく伝える後ろから、ジェフリーがバッジと銃を持って現れる。
「ありがとよ」
「ハンク、お前……生きていたんだな?」
「……ありえない……確かに俺たちはお前を棺に入れて、埋めたというのに……」
「アンダーソン警部補。あなたの遺体は隅々までスキャンしました。DNAや指紋といった情報は全てデータベース上と一致、埋めた死体が、あなた以外であるということはない……」
「はいはい。あいつの用意したレールの上にまんまと乗せられたってわけだな」
「レール……?」
ナインのこめかみが何度も赤く点滅する。
「ハンク、説明してくれ」
「こっちもそのつもりで来てんだ。どっちにしろ長くなるだろうから、俺の地獄生活に興味ある奴は会議室に集まれ。ああ、お前ら若造は仕事してな」
受け取ったバッジと銃を服の中にしまい、会議室へ入る。
レゴブロックのようにテーブルとテーブルがくっつく中心に腰かけ、向かいにジェフリーが座る。ジェフリーの右隣にベンが、左隣にナインが、ナインの隣にクリスが座り、最後に会議室に入ってきたギャビンが扉を閉めると角の離れた席に座って、いつものようにテーブルの上に足を投げ出した。
「お前ら全員で俺の取り調べってか」
「……ハンク、説明してもらうぞ」
「つっても何から話せばいいのかね……発端はやっぱ、あれだな」
「……
ナインが口にした懐かしい響きに頷く。
「ああ。奴の模倣犯が出てきてるってネットのニュースで見たぜ。そいつは捕まったか?」
「現在も逃走中です」
「だろうな」
「……警部補、犯人をご存じで?」
「マジかよ!?」
ギャビンが足を下ろして身を乗り出す。
「お前の昇進に繋げてやってもいいぜ、ギャビン。被害者はまだ見つかってねぇんだろ?」
「ああ。模倣犯も相変わらず手がかりナッシングだよ」
「警部補……どうやって突き止めたのですか?死んだはずのあなたが生きているということも何か関係が?」
青い瞳を僅かに細め、ギャビンを真似して前のめりになるナインを見据えた。
「話す前に、ナイン」
「はい」
「お前、通信切れ」
ナインが訝し気に眉根を寄せる。
「……オフラインに、しろと?」
「とにかく通信を切れ。俺が喋ってる間は絶対にな。こっそり内線使ったりするのも、ネットワークに繋がることは一切するな」
声を荒げて早口にナインをまくしたてる。
「……アマンダとやらに気づかれると厄介なんだ。俺の命もかかってるんでね」
こめかみのあたりが脈打つのを感じ取りながら、声のトーンを低めて念を押す。
ナインのLEDが珍しく黄色に点滅し、驚いているのが分かった。
「警部補、何故アマンダのことを……」
「いいから切れ」
「俺の昇進に関わるんだぞ?接続切るだけだ。お前、まさか上司やサイバーライフと連絡取れなくなったら何にも出来ねぇ、べそかくような寂しがりの甘ちゃんじゃねぇだろ?」
コーンアイスに嫌味のフレーバーをトリプルに重ねてナインの耳に突っ込むような口ぶりで、ギャビンがなじる。
半目になったナインは溜息をつくような素振りを見せ、LEDを大きく光らせた。
「……通信機能を全てオフにし、ネットワークから切断しました」
「よし」
「んで?犯人は?どこに被害者はいるんだ?」
「知らねぇ」
「はぁ!?」
ムキになってギャングじみた声を出すギャビンを無視して、懐に手を突っ込んだ。
「ただ、手がかりはある」
持ってきていたDVDディスクを取り出し、連中に見せた。
「なんだ、それは?」
「犯人に……コナーに辿り着くための重要な手がかりだ」
ジェフリーたちが顔を見合わせる。ナインのこめかみも一瞬赤く光った。
「ハンク、お前何を言ってるんだ?」
「……警部補、RK800は……」
「お前たちの言いたいことは分かってる。それもひっくるめて全部話すから待ってろ。ベン、DVDレコーダーがどっかにあるだろ。持ってきてくれないか?」
「あ、ああ……今持ってくる」
ベンが戸惑いながらも席を立って会議室から出ていく。すぐにレコーダーと旧式のテレビが入った段ボールを小さな台車に乗せて戻ってきた。
長机にレコーダーとテレビを設置し、ケーブルを繋ぐ間、各々椅子を移動してテレビを囲んだ。
「ハンク、繋ぎ終わった。使えるぞ」
DVDの再生準備が整い、ベンが振り返る。
ディスクケースを開けた。表面に書かれているメッセージで何が収録されているか思い出しながら、一枚取り出す。
「警部補、それに何が記録されているのです?」
「言っただろ。黒幕の手がかり。あと……コナーだ」
「は?」
「……俺が生き延びてるのはコナーのおかげなんだ」
思えば、俺とコナーの新たな生活が始まったあの日。アマンダとやらをそのままにしていればコナーは今頃どうなっていたのだろう?カムスキーがもっと違う方法で、親とコナーを決別させていれば?今こうして別れることなく、もっと違った形で今日まで生きて、隣で野菜が少なすぎるだのトランス脂肪酸が過剰だの、コナーはやかましく口を出していたのだろうか。
ブタ箱生活最後に見たルルドの夢が脳裏を鮮やかに通り過ぎたとき、訪れなかった未来を嘆いて僅かに肩を落とした。
「単刀直入に言えば、コナーは奴と一緒にいる」
俺の一言に、野郎どもは、ナインまでもが目を見開いた。
「……まさか……」
「あいつは、この世で最もコナーを必要としてるのさ」
脳裏に昨日再生した映像が蘇ってくる。
『愛していますよ――コナー』
奴の声が鼓膜の中にくすぶるだけで憎悪が湧きたつ。
食料や水が必要なのと同じように、奴はコナーを望み、俺が地獄にいる間に叶え、わざわざ見せつけてきた。
ディスクを持つ指に力がこもり、思わず折って砕きそうになった。
ここに収められている全てを駆使して、引きずり出し、ぶちのめす……憎しみを腹に丸め込むのに少しだけ時間がかかったが、ディスクをレコーダーに入れて席に座った。
「そういえば、前にテメェ言ってたな」
ギャビンに顔を動かす。
「コナーのおかげであいつに辿り着いた、って」
「ああ、そうだ」
「なんでこいつより型落ちしてるコナーが、先に分かったんだ?」
ギャビンが親指でナインを指した。
「……できるようになっちまったからだよ」
口ごもる。らしくないと思っても、躊躇いがあった。
同僚たちの視線の集中砲火を浴びながら、DVDプレーヤーのリモコンを手にとる。溜息をこぼしながらリモコンの再生ボタンを押した。
「コナーはな、『人間の