掃除機をフル稼働させるコナーが、テレビを見ている俺に振り返った。
「二月は逃げる、という言葉をご存じですか?」
「なんだそれ」
「日本にある言葉だそうです。年が明けてからの三か月間は行事が多く、あっという間に過ぎてしまうからだそうですよ」
「ふーん……ま、確かに言えてるな。あれからもう三か月か……」
天気予報を伝える気象予報士の頭上に表示された
変異体デモが終わりを告げ、早三か月。
デトロイトは空を厚く包むミルク色の雲から雪が舞い、毎日色のない世界が続く。そんな中、未だ各地からアンドロイドは安住の地となったジェリコに集い、日を追うごとに数を増している。比例して、先日ジェリコで見たのと同じ狂ったアンドロイドが、街中の人間やアンドロイドを襲う事件がぽつぽつ発生するようになり、メディアで取り上げられるようになった。
『それではニュースをお伝えします。『レビサロイド』が出現し、仕事を終えて帰宅途中の女性に襲い掛かり――』
ニュースキャスターが、件のアンドロイドの話題を一番に出した。
ジェリコで会ったRK900――ベルカとストレルカが新型コンピューターウイルスが発生したと話してたが、いつからか報道でも彼らを
『さらに市民の皆様にとって悲しい出来事をご報告しなければなりません。『
キャスターの口から飛び出した単語に、俺もコナーもテレビに注目した。
俺たちがジェリコに聞き込みに行った数日後、市内の工場で殺人、もとい屠畜事件が発生した。現場に駆ければ、人間とアンドロイドが食用処理された牛のように解体されて吊るされているのが見つかった。だが証拠は見つからず、残されていたのは、我が元へ来たれ、という青い血文字。人体展示がグレードアップしただけでなく、12月の事件と同様、警備主任の首が切り落とされて持ち去られていたことも判明。同じ手口、血文字から連続殺人だと断定し、俺たちは今も犯人の行方を追っている。
マスコミは視聴率の餌になる悲劇を嬉々として騒ぎ立てた。変異体が犯人という情報をどこかから仕入れた連中は、かつて海の向こうに存在した凶悪犯が『赤い切り裂き魔』と呼ばれていたのをもじり、『青い切り裂き魔事件』なんて勝手に名付けやがった。
報道によると昨日、アンドロイドの支援団体の事務所で、ゴミと一緒に捨てられていた職員たちが口にするのも憚れるような拷問を加えられた状態で見つかったという。事務所で保護されていたアンドロイドたちも皆、使い古した猫の爪とぎみたく全身をボロボロにされ、シャットダウンしていたらしい。
『レビサロイドにブルーリッパー……今、自由を得たアンドロイドに何が起きているのでしょうか?我々は早速、サイバーライフに取材を申し込み――』
原稿を読み上げていたキャスターの映像から、サイバーライフの店舗と思わしき清潔すぎる建物の映像に切り替わる。インタビューを申し込むリポーターと、見たことある白衣姿の男が映し出された。
「……アレックス……」
「お前、知ってんのか?」
「ええ。アレクサンダー・ウェイン……親しみを込めて、アレックスと呼ぶよう本人に言われました。サイバーライフ開発室室長で、RKシリーズの開発・製造を手掛けている、僕を造った人です」
意外なところでウェインとコナーが繋がっていたことに驚く。コナーは掃除の手を止めて、インタビューに応じるウェインの姿を見つめていた。
『我が社のアンドロイドは、今や命を持った人類の財産と呼べるでしょう。しかし一方で、皆様がレビサロイド、あるいはブルーリッパーと呼ぶアンドロイドが現れているのは悲しい出来事です。我々サイバーライフはアンドロイドのメンテナンス、サポート体制を増やして最善を尽くし、これからも皆様の安心が守られるよう努めていきます』
ウェインが当たり障りのない回答を伝えるとスタジオの映像に切り替わる。
コナーがテレビから目を逸らす。掃除機を片付け始めるコナーは、途方に暮れたように暗い顔を隠さずにいた。それもそのはずだ。今もサイバーライフに捜索され、先日のジェリコでの出来事も手伝い、廃棄に怯えた息苦しい日々が続いている。
――だが最近は一服の清涼剤を見つけたようだ。
翌日、玄関から鳴り響くブザー音。
ドアを開けると、ピンクのダウンを着たリタが犬のリードを手に立っていた。赤い首輪をつけた小麦色のゴールデンレトリーバーが、彼女の隣で行儀よくお座りしている。後ろにダウンジャケットを着たロベルトと、白いブルゾンを羽織った家事手伝いアンドロイドのソフィーもいた。
「ハンクのおじさん、こんにちは!」
「おう、リタか」
「コナーはいるかしら?」
後ろに振り返る。グレーのフーディーの上に黒いジップアップジャケットを着たコナーが、スモウの首輪をつけて現れた。紺のニット帽をつけると、ゴミ袋やご褒美用のエサを入れたショルダーバッグを提げ、お待たせ、と微笑みながらリタの前で屈んだ。
「それではハンク、行ってきます。お食事、ちゃんと食べてくださいね。この前みたいに、隠れてピザを食べてはいけませんよ」
「ははっ!コナーは厳しいな、ハンク」
「うるせぇ!さっさと行って来い」
彼らを見送ってドアを閉める。
家に一人でいるのはなんだか久しぶりだ。ジャズのレコードをかけ、キッチンに入る。
テーブルのトレーにはベーコンとアスパラの乗っかったイングリッシュマフィン、具沢山のコンソメスープとサラダ、ミニグラタン、コーヒーが置かれていた。ソフィーから教えてもらったと、最近はこうしてカフェに出てくるような洒落たものを作るようになった。
冷蔵庫を開ける。あいつが作った何種類ものおかずが透明のフードコンテナに入れて積み重ねられている。ピザをコンテナの後ろに隠していたんだが、なくなっていた。また勝手にカロリー制限をしようとコナーがどこかに移したようだ。
溜息交じりに冷蔵庫のドアを閉める。飯にするかと振り返ったとき、伏せていた写真が目に入る。
写真を手にダイニングチェアに座り、テーブルに写真を置く。
『パパ』
俺に微笑みかける写真の中の天使。
置かれているマフィンを手に取り、少しの間眺め、口に運ぶ。カリッとした食感を味わいながら、隣の椅子の背もたれにかけられているエプロンを見る。
後でこのマフィンの味はどうだったかまた聞かれるんだろう。俺の感想を吸収し、頭に全てインプットしているのはいいんだが、美味いと言った料理は3日連続で出してくるから辟易する。
……でもそんな小さなことが、最近心地よく思う。
あいつと共に暮らし始めて、一日ごとに増える違和感。朝、昼、晩、テーブルを彩る温かな色と匂い。どんなに遅く帰ってきても、明かりが灯っている家。愚痴でもなんでも、目の前で相槌を打ちながら優しく微笑みかける人――全て、俺の時間から脱落していったものたち。
「……コール……」
微笑むコールの顔に指先で触れる。
♪愛しい人よ、もう一度どこから始めよう
ここにあなたを見つけることができた幸せ 驚いて何も言えないよ
毎朝空虚な夜から目を覚ますんだ まだ昔の痛みが頭から離れなくて
しばらく話していなかったけど、世界は変わってしまった 最近は何曜日なのかも忘れてしまう
毎日淡々と過ごしてる どんな感じか分かるかい? どんな傷も受けてないし、気分を害することもない
だから話そう、いつもの調子を取り戻そう、元気にやってる?
耳に届くメロディーに目を窄めながらしばらく写真を眺める。
神の元にいるお前に、もう一度会うことは出来るだろうか。
俺はお前を救えず、死の孤児にさせてしまった。せめて空の向こうにいる妻が息子を見つけてくれればいいが……。
死んだら地獄に落ちて、ムショにブチ込んだ連中とお仲間になるのかもしれない。俺は、裁かれるべきなんだ。裁かれるべきだと信じているのに、食事道具の一部のようにテーブルに置いていた銃がないことが今は気にならなくなっている。
エプロンを横目に飯を平らげ、写真を棚に戻したとき、携帯に通報が入る。
銃の発砲音に続き、子どもの泣き叫ぶ声がアパート中に轟いたという情報に、車に乗り込んだ。
現場のキッチンに、妻と思われる女と2人の子ども。皆、射殺されていた。寝室には自らの頭をぶちぬいた父親の死体。
男の傍らに散らばっている書類を見やる。飛び散った血や肉片を避け、書類のそばにしゃがみこむ。解雇通知だった。他には負債が書かれた請求書。さらにもう一枚。
『私はもうおしまいだ。やがて子どもたちは茨の人生を歩むだろう。だが、苦しみにこの子達を、妻を渡してたまるものか。家族は誰にも渡さない』
アンドロイドが台頭し、職を奪われていく人間が急増してからこういう連中が増えてきた。多くはレッドアイスで苦痛を紛らわせているが、中にはこうして悲惨な死を選ぶ者もいる。
キッチンに戻る。キャビネットに一家の集合写真が飾られていた。皆、ホームコメディ映画のポスターみたく、こちらに向かって笑顔を振りまいている。
今は、親の絶望に巻き込まれて子どもたちの顔は血塗れ。体温を失って白くなった頬に、涙の痕が窺えた。親に銃を向けられ、この子たちはどれだけ追いつめられただろう。
恐怖に歪んだ瞳――同じ瞳に見つめられたことを思い出したとき、急に吐き気がこみ上げてきた。
「警部補?」
「悪い、後を頼む」
応援に駆け付けた連中に現場の処理を任せて署へ向かった。
デスクに座ったときには大分吐き気も収まっていた。データベースにアップされたブルーリッパー、あるいはレビサロイドに関する報告に目を通しながら、事務処理を進めていく。
パソコンとにらめっこするのに飽きた頃、一息入れようと休憩室へ。先客のクリスとベンが、テーブルに置かれていた差し入れのドーナツを食べていた。
「ハンク、食べるか?」
「ああ。貰うよ」
テーブルの輪に入ったとき、ベンがドーナツの箱をこちらに差し出してきた。
「ハンク、お前ようやく懲戒フォルダとお別れ出来るようになったな」
「フォルダをこれ以上太らせたら、ボタンが弾けちまうからな」
チョコの乗っかったドーナツを選んで口に運んだとき、ちょうどギャビンとナインがセットで休憩室に入ってくる。ギャビンは俺たちの横を素通りしてコーヒーサーバーに紙コップをセットした。
「お前、ブルーリッパー事件の手掛かりはなんか掴めたか?」
「いいえ。各地のRK900とも連携を取っていますが、犯人に繋がる情報は掴めていません」
「……チッ……20万もお仲間がいるくせに、まだ目星つかねぇのかよ」
悪態をつきながらコーヒーを飲むギャビンに、ナインのこめかみは青いまま、特に反応を見せない。
じわじわ増えているレビサロイドへの対処、そしてブルーリッパーの手がかり――つまり、血で書かれたメッセージ――を見つけるため、アンドロイドに関する事件はナインが中心となって捜査を行なうようになってきている。必然的にペアを組んでいるギャビンも変異体の捜査に絡むようになっていた。おかげで夢にうなされたようにプラスチックプラスチックとぶつぶつ言いながら仕事してるもんだから、俺はギャビンのデスクを取調室に移動させたくてたまらなかった。
またうるさくなる前に、ここから去ってくれ。ギャビンの背中を視線でキツツキのようにつつく。
「そういや、お前コナーは見つかったのかよ?」
コナーの名前に反応して、ベンとクリスがドーナツからギャビンへ視線を移した。
「いいえ。現在も捜索中です」
「この前まで、お友達のところに隠れてたんだろ?早く見つけてここに連れてこいよ」
「……コナー、か……今頃、どうしてるんでしょう?」
ぽつりと呟いたクリスに、ギャビンもナインもやっと俺たちに気づいたようにテーブルへ注目する。
ドーナツを食べ終え、紙ナプキンで手の汚れを拭いたベンが俺に目を向けてきた。
「そうだ、ハンク。お前、コナーを探さなくていいのか?」
「警部補がジェリコで見つけた後、どこかに逃げたっきり……なんですよね?大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫だろ。あいつは俺の相棒だからな」
ベンとクリスが驚いて目を丸くした。
「……必ず見つけてやるさ」
心配する二人を意外に思いながら、ちらりとナインの様子を伺う。ドーナツを咀嚼する俺をじっと見つめている。
俺が匿っていることにまだ気づいていないようだが、会話や些細な挙動で見抜く可能性がある。ナインがいる手前、これ以上コナーのことを話題に出してほしくなかったが、ギャビンが鼻を鳴らした。
「テメェが説得しても逃げたんだろ?ここ来る前はお友達をたくさん産廃行きにさせてたんだってな。いざ自分の番になったらビビりやがって……へっ、笑えるぜ」
「お前の方が笑えるよ」
「あ?」
ギャビンが眉を吊り上げる。
「あいつにボコられたのまだ根に持ってんだろ?見苦しい嫉妬は止めとけ。それに事件の進展はなし、お手柄とはすっかり疎遠。結果の一つ出せねぇ可哀想な負け犬ギャビン君じゃ、昇進なんざ夢のまた夢だな」
「誰が負け犬だッ!」
煽ると、予想通りギャビンは真っ赤になって歯を剥き出し、チンパンジーみたいな顔してナインの胸に拳を叩き込んだ。
「俺は負け犬なんかじゃねぇ……コナーのやつ、絶対にゴミ箱に捨ててやる……」
自分に言い聞かせながらコーヒーを飲み干し、ギャビンは紙コップを握り潰す。
微動だにせずにいたナインがふと腕を後ろで組み、表情を崩さずギャビンを見据える。
「リード刑事、RK800の回収は我々の任務であって、あなたの任務ではない。あなたはご自身のタスクをクリアすることを第一に優先してください」
「任務任務ってうるせぇなッ!便所の芳香剤みてぇな血を流してる奴に言われたくねぇっつーの!」
ギャビンは紙コップをナインの胸元に叩きつけた。
人を無意味に疲れされる才能においては、少なくとも市警で奴の右に出る者はいない。疲れの総本山であるギャビンが任務第一ナインを相手に参っている様子に、少しいい気味になったところでギャビンがデスクへ帰っていった。
ナインが足元に落ちた紙コップを律儀にゴミ箱に捨てる。
「……ナイン、気にするなよ。ギャビンはいつもあんなだからな」
「ストレス値の高い人間とも、我々はコミュニケーションが取れるようになっています。リード刑事との捜査も何ら問題ありません」
気を遣って声をかけるベンに、ナインは無表情で答えた。
コナーも最初はそう話していたな。頭の中で、感情がすくすく育っているコナーと、喜怒哀楽が欠けたナインを比べてみる。こうして見ると瞳以外は同じように造られているはずなのに、溢れ出るオーラはまるっきり別人だ。
ナインは、ギャビンにどれだけ冷たくあしらわれていようと、ただのパターンとしか認識していないのだろう。ここに配属され2か月以上経ったが、何の感情も芽生えていないのは明白だ。ギャビンだけでなく俺たちにも淡々と接し、事件以外に興味を示さない。感情が芽生えてほしいわけではないが、生気を抑制されたナインと接していると、どうにも同僚として認識できず、妙な居心地の悪さが消えなくてもどかしい。
「そうだ、ナイン。聞きてぇことがある」
「なんでしょう?」
ナインがいつもの生真面目な顔を崩さず俺を見た。
「気になってたんだけどよ、この間ジェリコに来てた時、お前たちと一緒に手袋を填めたRK900がいたな。武器も携帯してたし、お前たちに指示を出してた。あの二人とお前は違うのか?」
「ベルカ、ストレルカですね。彼らは『Vタイプ』です」
「……Vタイプ?」
「ええ。我々RK900はシリアルナンバーごとに役割が違います。Vタイプは10から999のシリアルナンバーを持つRK900です。1000以降は『Pタイプ』。私もPタイプに当たります」
「君たちの中でも序列があるってことかい?」
クリスの問いかけにナインは頷く。
「はい。ベルカとストレルカは、デトロイト周辺で任務に当たる我々Pタイプの統括、管理をしています」
「お前のアンドロイドとしての上司ってことか。1桁の連中は?」
「Vタイプをさらに統括する『Dタイプ』にあたります。欠番もいますが……」
「ふーん……そうだ、あと一つ。ベルカが『アジン』って口にしてたんだが……どういう意味だ?」
「アジン?……ロシア語で『1』を意味します」
「おい、プラスチック!報告溜まってんだよ!さっさと戻ってこい!」
噛み犬めいたギャビンの怒声が廊下を突き抜けて響く。ナインは話を切り上げオフィスに戻っていった。
「ギャビンは相変わらずあの調子……大変ですね……」
「そうだな。むしろ……ナインだからこそギャビンと捜査するのを耐えられるんだろう」
「ああ。勲章物だよ」
最後のドーナツを口にし、自分のデスクに戻る。
パソコンのキーを叩きながら、向かいにある空っぽのデスクを見た。
ジェフリーに頼んでデスクを開けてもらっているが、もう一度あいつが俺の隣に並んで捜査する日は訪れるのだろうか。いつあいつは本当の自由を手に入れられるだろう。お前の本当の居場所は、狭い俺の家じゃなくて、ここにあるっていうのに。
先行きの見えないあいつの今後を考えながら、事務処理を進めて退勤する。
今日の無理心中現場の近くを通りかかったとき、ガキの冷たくなった顔が頭にカットインした。
……一杯飲んで忘れよう。
自宅と逆方向にハンドルを捌き、ジミーのバーに入った。
「よぉ、ハンク。久しぶりじゃねぇか」
「おう。一杯くれ」
いつもの席に座り、グラスに氷を入れたジミーがバーボンを注ぎ、軽くステアしてテーブルに置く。
乾杯を交わし、ぐいっと飲み干す。軽い口当たりの後、ほんのりとスパイシーな味わいが広がり、じんわり残るウッド感がゆっくり引いて胸を灼く。
ほぅっと一息つくと一人、また一人と増える店の常連たちが久々顔を出した俺に話しかけてくる。
ちびちび飲みながら二杯目を終えたとき、
「おい、ハンク」
「なんだ?」
「お迎え来てるぞ」
ジミーの視線を追う。
扉を開けて入ってきたニット帽姿のコナーが俺に気づき、席まで歩み寄ってくる。
「ハンク、こちらでしたか」
「……お前、なんでここにいんだよ」
「あなたの端末の位置情報を辿って来たんです。飲酒運転はいけませんから」
思わず携帯を取り出し、頭を抱えた。こういうとき、文明の利器は首輪になっちまって面倒くせぇ。
コナーがグラスに注視する。お得意のスキャンでもしてるんだろう。グラスを手に持ち、小さく振るって氷の音を聞かせる。
「……安心しろ。前みてぇにガンガン飲んでねぇよ。たまにはいいだろ」
「そうですね。あなたの呼気に含まれるアルコール量を計算すると、現在のアルコール血中濃度は0.05%を下回っています。ですが、これ以上飲まれると明日に響きますよ」
コナーがお開きだと言わんばかりにテーブルに金を置く。
まだ飲み足りないってのに。コナーにクレームをつけようとしたとき、コナーを挟んで隣に座っていた知り合いが気にかかった。水着姿の姉ちゃんでも見つけたような顔して、コナーを眺めているのだ。
「なんだハンク、最近顔見せねぇと思ったら……こんな可愛い顔した兄ちゃん、どこで拾ったんだ?」
「……お前、そいつに手ぇ出したら、ムショにぶち込むぞ」
「おお、お巡りさんは怖いねぇ。なぁなぁ、兄ちゃん、俺と遊ぼうぜ」
知り合いは忠告を無視し、突然コナーの腰に腕を回して持っていたグラスを掲げた。
「お前も飲むだろ?」
「僕には不要です。飲めませんから」
「飲めねぇのにこんなとこに遊びに来たのか?ん?」
「……アンドロイドですので……」
「アンドロイドぉ?」
コナーは苦笑いを浮かべつつ、野郎から離れようとじりじり後ろに下がる。グラスをテーブルに置いた知り合いは、コナーをさらに引き寄せた。
「嘘つくなよぉ……ここはアンドロイドの入店禁止って書いてあっただろ?読めなかったのかぁ?」
「……あの、すみません、お水を出してあげてください。すぐに帰りますから……」
「つまんねぇこと言うなよ!おいジミー、もっと酒くれ!ついでにこの兄ちゃんの分も!」
真っ赤な顔してべろんべろんになっている野郎は、コナーを枕と勘違いしてるのか、抱き着いて頬ずりを始めた。
「……ハンク、始まっちまった。なんとかしてくれ」
ジミーがうんざりした様子で溜息をつく。
「お前、本当にプラスチックかぁ?いい身体してんじゃねぇか。せっかくだから俺と――」
野郎の手がコナーのケツに回ろうとする瞬間、腕を引き剥がし、捻り上げた。
「いててッ!」
「おい、手を出すなって聞こえなかったか?」
「なんだよぉ、ハンク……俺にも紹介してくれよぉ」
「お前は寝てろ」
捻っていた腕を離し、こみ上げてくる苛立ちに任せて野郎の頭を掴んでテーブルに叩きつける。一瞬静かになったと思えば、男は盛大な鼾を掻き始めた。
「悪ぃな、帰るよ」
「気にすんな。いつものことだろ。あとこっちでやっとくから、早くそのアンドロイド連れてってくれ」
「ああ。またな」
席を立ち、外に出た。凍てつく空気を全身に浴びて一度身震いする。しんしんと降り始めた雪が街に溢れる光を反射して、ほんのり輝いていた。
バーの前に停めてあった車に乗り、コナーがアクセルを踏む。
「すみません。助かりました」
「あいつ、普段はいい奴なんだが、酒癖が悪いからよ……ぶっ飛ばしてよかったんだぞ」
「アンドロイドの入店を禁止してるお店でしたし、あなたのご友人なんでしょう?手荒なことをすると後々問題になると思って控えていたんですが……」
「なんだ、ボコる気満々だったか。悪かったな、憂さ晴らしさせてやれなくて。お前ただでさえ引きこもってることが多いしな」
「仕方ありません。回収命令が撤回されるまでの辛抱です」
「ストレス発散したくなったら言えよ」
T字路に差し掛かったとき、コナーが自宅と反対方向にウインカーを出して曲がる。
「おい、こっちじゃねぇぞ」
「すみません。シミュレーションしたところ、パトロール中の警察官と遭遇する可能性が高かったので……少し遠回りします」
「分かったよ……ま、ちょうどいい息抜きだ。お前の行きたいところにドライブしろ」
どちらにせよ、今日の酒の量じゃ酔い足りず、眠れそうにない。
目を伏せ、コナーにハンドルを任せるまま窓にもたれる。車の心地よい振動に揺られていると、アルコールがゆっくり身体を巡っていい具合にうとうとしてきた。
眠りに落ちる直前、窓に頭をぶつけてしまい、瞼を開ける。エナジードリンクめいたネオンが続くストリートを窓越しに眺めていたとき、急ブレーキがかかった。
絶叫マシンに乗ったように身体が前につんのめり、勢いよく背もたれに引き戻されバウンドする。
「おい、いきなりなんだ!?」
「……人が飛び出してきたんです」
シートに思いきりぶつけた頭を摩りながら、フロントガラスの向こうを見渡す。街灯の下にいた人影が駆け寄ってきて、窓をドンドン叩いた。
「ハンクッ!?ハンクだろ!?ちょうどよかった!なぁ、助けてくれッ!」
「……ペドロ?」
顔見知りの声に窓を少し開ける。
「お前、どうした?」
「ひ、人が死んでんだ……ッ」
コナーと顔を見合わせる。すぐに路肩へ車を停め、外に出た。
「クラブで知り合いと会う約束してたんだが遅れちまって……慌てて来たら……み、みんな、死んで……お、俺、どうすればいいか、怖くなっちまって……」
「現場はどこだ?」
「こ、この道を真っ直ぐ行って……石畳になってる路地の一番奥だ……」
ペドロが震えながら方角を指差す。
「ハンク、行きましょう」
コナーが引き締めた表情を見せ、久しぶりに捜査アンドロイドらしい面構えになった。
来るなと止めても、強引についてくる気だろう。
「分かった。しょうがねぇ……コナー、行くぞ」
「はい!」
ストリートから離れ、裏手にある小路を進む。アスファルトから石畳に切り替わっている道を見つけ、さらに奥へ。
突き当りにはジミーのバーと打って変わって『アンドロイド歓迎』と小さなステッカーがある。あとは殺風景な鉄の扉があるだけ。ジェリコで再会したトレイシーたちはこういったところを出入りしているのかもしれないと思い、扉を開ける。
細い階段を降りていく。照明は落ちているが外のみすぼらしさとうって変わって、巨大なミラーボールとスクリーンがあり、ステージのLEDパーやレーザーライトがけばけばしい色をまき散らしている。ニューヨークとラスベガスを足して2で割ったような雰囲気のナイトクラブだ。広々とした踊りやすいフロアにはエレクトロ調のダンスミュージックが爆音で繰り返されている。酒に煙草、ドラッグ特有の甘ったるい匂いに混じって蔓延している血腥さに、顔をしかめた。
「ったく、見えねぇしうるせぇな……!電源はどこだ?」
「切り替えます」
レーザーライトを頼りに前に進んでいると、コナーが遠隔操作したらしく、ダンスミュージックが消える。
「ハンク、待ってください」
「あ?」
「足元に死体が」
フロアの電気が点いた瞬間、ガス室に放り込まれたような絶望的な気分になった。
消火器がごろごろ転がっていると思いきや、胴体から切り落とされた足や腕だった。一面、唐辛子を山のように敷き詰めたかのように見えるほど、真っ赤で夥しい死が耕されている。パーティー会場は、外科手術を受けて縫合を行なわないまま放置されたような死体で満員だ。
死体を見て胃液がこみ上げてくるのは久しぶりだった。呼吸するたびに鼻の穴だけでなく毛穴からも死の臭気が入ってきて身体の内側から腐り落ちていくような感じがした。腹の中で暴れる吐き気を堪えながら見上げる。ジェリコや街中で見たことあるアンドロイドたちが、電源コードに巻き取られ、天井からペンダントライト代わりに吊り下げられている。人間と同じくプラスチックの肌は切り裂かれ、皆、青い血を垂れ流して一人残らずこめかみの光は消えている。
殺戮現場に慣れてるとはいえ、不眠と神経症が手を繋いでドアをノックしそうな光景。ジミーのところでもっと飲んでおくべきだったと、今更後悔した。
「これは、もしかして……」
「青い切り裂き魔」
コナーが俺の言葉の続きを紡いだ。
鼻をつまみながら一歩踏み出す。文字通り足の踏み場がないので、死体を避けるだけで一苦労だ。検分もまともに出来ない。
思案顔のコナーは手を擦りながら辺りを見回す。まずは一番入口に近いところに倒れているパーティードレス姿の女の傍らにしゃがみこんだ。
「恐らくこの女性が一番最初に殺されています。犯人は入口からステージ側に向かって次々と殺害……パニックになり、会場にいた人たちはこちらへ殺到したのでしょうが……誰も逃げられなかったのでしょう」
シミュレーションを終えたコナーが壁沿いに歩き、隅にあった木製のカウンターに上る。手前に吊り下げられているアンドロイドに、皮膚機能を解除した手で触れた。
「シリウムポンプ損傷、頭部破壊……アンドロイドの再起動は不可。メモリーを見ることもできませんね」
皮膚機能を戻したコナーが苦い顔を浮かべた。ふとステージのDJが倒れている辺りを見つめる。
「……
「何?」
コナーの口から発せられた言葉に一度立ち止まり、振り返った。
「ブルーブラッドでメッセージが書かれています」
「……それって、アンドロイド特有の文字で書かれてるか?」
「ええ。サイバーライフフォントで書かれています――やはり、ブルーリッパーによる犯行です」
ようやく一番奥に設けられたステージへ辿り着く。
コナーも器用に死体を避けて隣に並び、壁面の見えない血文字に目を走らせた。
次いでターンテーブルのすぐ近くに倒れている女性DJの横に、しゃがむ。ぴっちりと身体のラインが出るシャツにジーンズ、アイスピック代わりになりそうなヒールを履いていた。女はずたずたに切り裂かれ、葡萄酒を頭から被ったように血濡れていた。
ふと、コナーがカッと見開かれた女の両目に手を伸ばし、触れる。静電気でも浴びたようにパッと手を離す光景をどこかで見たと思ったが、コナーは女の瞼をそっと塞いで立ちあがった。
「これは……ハンク、メッセージがもう一つあります」
コナーが俺に見えない何かを見つけ、スクリーンの前で立ち止まる。
「もう一つのメッセージ?」
「はい。『あなたが暗闇の中にいたとしても私はあなたを愛している(I Love you at your darkest)』……新約聖書、ローマ人への手紙5章8節ですね」
「また聖書かよ」
「ええ。でも、変です。聖書の記述を表すなら、『I Love
「……こいつ何が言いてぇんだ……俺たち警察をおちょくってるのか?」
舌打ちし、意見を求めて隣のコナーに顔を向ける。
何故かコナーの鼻から血が出ていた。
「おい、コナー?」
しかも以前ジェリコで見た、ぽたぽた落ちるレベルではない。だらだら垂れ流れて、床に点々と青い染みを作る。コナーは胸の前に持ってきた両手を見下ろすが、その手も微かに震えていた。
戸惑った様子でコナーは鼻に手を当てて、血を止めようとする。
「お前、どこかおかしいんだろ」
「……いえ、違います」
「何が違うんだよ!だったらなんでそんなに鼻血が出るんだ」
「プログラムは正常に……」
「身体が動きゃいいってモンじゃねぇんだよ!そうだ、お前ジェリコにいたとき、ウイルスに罹っちまったんじゃねぇのか?」
「僕は感染していません!」
コナーの手を引っぺがし、症状を確認しようと顔を近づける。
レビサロイドのウイルスに罹ってしまったら、ジェリコで見たように目が真っ青になるはず。今のところコナーの双眸は茶色いまま。鼻血もようやく止まったように思えた。
「お前、車に戻って休んでろ」
「……しかし……」
「倒れたら身も蓋もねぇんだよ。いいから休んでろ!」
どのみちコナーはどこかがおかしい。
コナーは現場検証を続けたがっていたが、無理矢理クラブの外へ連れ出し車のある場所へ戻った。
折しも、耳に入ってくるパトカーのサイレン。
「クソっ……!おいコナー、お前隠れてろ」
「……分かりました」
トランクを開けた。悪ぃな、と一言添えて仕方なくコナーを中に入れる。
コナーの足跡が僅かに残っており、バレないよう少しだけ車を動かして降りると、一台のパトカーが俺を見つけて後ろに停まった。中からナインが降りてくる。
「警部補、もう到着されていたのですか」
「ああ。ナイン、先にちっと現場を見たが……ブルーリッパーだ」
無表情のナインが僅かに目を鋭くした。
ナインと共に再び殺戮会場に向かう。ナインのこめかみは青いままだったが、フロアにぎっしり詰め込まれている死体の数に、何から手を付けるべきかしばし立ち尽くしていた。
ゴム手袋にマスクを装備した鑑識たちを筆頭に続々と応援が増える。人間がミンチになっている有様に、経験の浅そうな若い男が青褪めた顔をして外へ走っていった。
男と入れ替わるようにギャビンがフロアに降りてきた。
「……すげぇな。ここは人間処理場かよ」
顔をしかめたギャビンは、喉から胸の辺りをさする。毎日のように死体とご対面してるとはいえ、さすがにこの猟奇現場を前に吐き気を堪えているように思えた。
「カメラはハッキングされているようです。ジャミングによるデータ妨害の痕跡もある……」
死体を避けながら、ナインがステージに上がる。
「……我が元へ来たれ」
「ったく、またブルーリッパーかよ!このクソプラ、何様のつもりだ?」
「狂ってやがるな。人間もアンドロイドもシュレッダーしやがって……」
レッドアイスを売りさばく麻薬組織と血みどろ試合をしたときでも、ここまで皆殺しにされてはいなかった。
ブルーリッパーの異常性をまざまざ見せつけられる中で、ナインがスクリーンの前に移動する。
「……ブルーブラッド……」
「どうした、ナイン?」
さっきコナーが立っていた辺りにしゃがみ込んだナインが、床に手を伸ばし、指先を口に含む。
「何してんだ、クソプラ」
「ここに落ちている血は、RK800のブルーブラッドです。かなり新しい」
「コナーの血だって?」
立ち上がるナインの元へギャビンが足早に近づく。
……まずい。さっきの鼻血だ。
「間違いない……RK800は負傷している」
「あいつ、ジェリコから逃げ出したと思ったら、こんなとこに入り浸ってたのか」
「ええ」
間を置いて、それに、と再びナインが口を開く。
「この連続殺人は、RK800によるものではないでしょうか」
「……何?」
俺もギャビンもナインに注目する。
ナインがスクリーンを見上げた。
「ここにもう一つ血文字が記されています。あなたが暗闇の中にいたとしても私はあなたを愛している……新約聖書、ローマ人への手紙からの引用ですね。キリストが人類の罪を贖うために死んだという聖書の記述です」
「それもあいつからの置き手紙ってことか」
ギャビンがナインの隣に並び、何も見えないスクリーンに目を凝らした。
「人間は生まれながらの罪人である以上、神に許しを請わなければならない、というのがキリスト教の根幹にある。それを、そのまま我々アンドロイドに当てはめているのでは」
「アンドロイドの神様ってのは、デモのときにしょっちゅう見たナントカってやつだろ?」
「rA9です」
「ふーん……つまりあいつ、アンドロイドの神様気取って何人殺せるかスコア伸ばしてるってことか?」
ギャビンの問いかけに応えず、ナインは死体の海を見回した。
「RK800は捜査アンドロイド。現場に証拠を残さないようシミュレーションするのは容易いでしょう。我々の追跡を撒き、自由を求めて逃走を続け、その過程で殺害行為に手を染めた可能性は高い。それにRK800がジェリコでレビサロイドに襲撃されたのを、警部補も目撃しています。変異したRK800が感染している可能性は大いにある。血文字は、後継機である我々への挑戦も含まれていると考えられますが……レビサロイドとなってシャットダウンしないようメンテナンスの要求をしているのかもしれません。アンドロイドを襲っているのは、レビサロイドの兆候……そうでなければ、ジェリコにもサイバーライフにも訪れることができない今、アンドロイドを破壊するついでにブルーブラッドを奪っていると考えられます」
推理したナインが、カウンターバーに目を向ける。ギャビンがバーの中に入り、破壊されたブルーブラッドのボトルをまじまじ見る。
「なるほど、辻褄が合うな……あのクソプラが犯人なんて、面白ぇじゃねぇか。よし、ナイン、証拠をかき集めろ。あのクソプラとっ捕まえて、さっさとごみ箱に捨てるぞ」
「……了解」
ゲロ吐く手前だったってのに、ギャビンは急にやる気を漲らせ、現場を細かく点検し始める。
ナインの推理は違うと訂正してやりたかったが、喉まで出かかっていた言葉をなんとか飲み込んだ。下手に突っ込まれると芋づる式にコナーはサイバーライフに捕らえられ、死期が早まるだけ。
「おいギャビン、証拠はまだ何も見つかってねぇんだ。あいつが犯人って決まったわけじゃねぇんだぞ」
「じゃあ、あいつ以外にこんな芸当誰が出来るってんだ?」
クソ野郎の調子をすっかり取り戻したギャビンが、
――…
車を走らせていた。
突如、滑り込んでくる闇。
崩壊の音。
テールランプ。
ドアの隙間から滴り落ちる鮮血。
巨人が踏み潰したようにひしゃげた車とトラック。
全身のあちこちから聞こえる、材木を運ぶブルドーザーのような音。灼けるような痛み。
白いリノリウムの廊下。
ストレッチャー。
微かに開いた瞼、俺を見つめる凝り始めた幼い瞳。
ICU。
ベッドサイドモニター。人工呼吸器。電極カテーテル。
やがてアラビア数字。
変化しなくなる。丸い輪郭の中に青白い空虚。
0。
何度も、何度も、何度も、卵の形をしたその数字を信じなかった。
パパ
天使の声が聞こえた。
声の方角を探す。
血と組織で赤く汚れ、関節が木々の枝みたく散開した息子がいた。
――嘘だ。
――こんなの嘘だ。
首を振る。
息子はぐにゃぐにゃ何かに変貌していく。
残飯みたいに。あるいは、小さな子どもが見たこともない動物をイメージしながら描き上げた、でたらめみたいに。
目を逸らす。
目の前にあるのは、棺。
棺の中に、息子だった残骸。
打ち震えた。
――何故だ?
――神よ、どうして息子を見捨てた?
――教会に通わなかったからか?寄付しなかったからか?
――だとしても、お前は何故、俺ではなく、俺の心の四肢を劫略したんだ?
声もなく叫ぶ。
呼応するように、全てが暗黒に包まれる。
この闇が神の答えだというならば、見える必要などない。
ただ這いつくばり、水の中に沈んだグラスを探すように、手探りで死の切符を探す。銃は見つからない。なら、何でも構わない。
指先がバシャリと音を立てた。
水。いつの間にか蒼褪めた色をした水面がどこまでも広がっている。
――待っていろ。パパはお前を独りにさせない。すぐそこに行くから。
ゆっくりと頭からダイヴする。沈んでいく。どこまでも。底のない闇の中に。
……ク……
見回す。寒々しい暗黒。
……ハ……ク……
誰だ?
そこにいるのか?
ようやく息子の元に辿り着けるのか?
思わず見えない声に向かって手を伸ばす。
ああ、早く。
誰か。
早く俺を殺してくれ――
「ハンク」
曖昧な景色。
腕を
何も掴めないことに気付いて落胆する手を、誰かが包む。
「ハンク、大丈夫ですか?」
声。くぐもって聞こえた。
心臓の発作を起こしたようにぜいぜい喘ぎながら、声のする方へ、かろうじて首を動かす。
「……コ、ナー……」
瞳の焦点がようやく働く。
震える手をベッドのシーツに寝かせ、心配そうな顔をしたコナーが俺の額に手を乗せる。ひんやりと冷たい。裏腹に、コナーのこめかみは火が燃えているかのように光っている。
「ずっと……うなされていました……」
コピー用紙のように白くなっていく息子の姿が、未だに頭蓋の中をリフレインしている。
毎日を蝕んでいた悪夢が、久しぶりに顔を出したのか。
「水をお持ちします。このままお待ちください」
コナーがぱたぱた寝室を出ていく。
風邪でもないのに咳き込む。目頭を抑えた。石を詰め込まれたように苦しい呼吸が続く。
ベッドが軋む。指の隙間から覗くと、コナーがタオルと水の入ったコップを手にベッドサイドへ腰かけていた。異変を察知したのか、スモウまでついてきてコナーの足元に座り込み、切実な眼差しを向けてくれる。
コップを置いたコナーが毛布を剥がし、汗ぐっしょりの身体をタオルで拭いていく。
「起きれますか?」
悪夢がまだ圧し掛かっているのか、身体が思うように動かない。黒焦げになった目玉焼きというのはこんな気分なのだろうか。あの日の痛みまで蘇ったように全身が熱い。
「……無理しないでください。このままで」
タオルを枕元に置き、コナーはコップの水を煽った。なんでお前が飲むんだと思った時にはコナーの顔が近づき、そのまま口移しに水を運んでくる。
唇を重ねられたことに一瞬驚いたが、注がれる潤いに痙攣じみていた思考が明瞭になる。口に残る水をなんとか飲み干すと、再び唇が水を与えてくれる。
飲み終える頃には体内で荒ぶっていた悪夢が鳴りを潜め、困憊した精神が多少持ち直した。
呼吸の方法を思い出そうと、大きく息を吸ってゆっくり吐き出す。数回繰り返して、呼吸が鎮まる。
「気分は、どうですか?まだ苦しいですか?」
「……いや、よくなったよ……くそっ……あんな現場見たせいだな……」
無理心中といい、人体輪切り展覧会といい、ツイてない。
緩く首を振ったとき、コナーの手がそっと伸びてくる。汗で額に張り付いたままの髪の毛を、一本一本指で丁寧に摘み、横に流す。
「……あなたのせいではありませんよ」
お得意のシミュレーションなのか、俺が今しがた沈没していた悪夢の正体を見破った。
「追い詰めないでください……」
「……分かってる……」
あの日、自分が死ねばよかったんだ。どうしてあそこで助けられなかったのだろう。どうしてまともな医者がいなかったのだろう。どうして赤い粉を吸わなきゃやってられないような悲惨な世界になってしまったのだろう。
あの子に見せたかったものがたくさんあった。与えてやりたかったものがあったのに。毎日救えなかった罪状を突きつけ、自分が早く滅びるよう急かしてきたのに。
築き上げてきた自責と自罰。かつてのように喉元までこみ上げてきて、きつく目を瞑る。あの日の幻影が瞼の裏でチラついた。
「でも……俺を赦すな……赦されていいわけねぇんだ……」
「僕も、きっと彼も――あなたが苦しんでいることを望んでなんていません」
コナーの掌が、俺の頭の内側にある傷口を塞ぐように、優しく額を包む。
肌に触れる微熱が、未だ絡み付いていた悪夢の四肢を
「例え赦せなくても……もう、あなたはあなたを傷つけないでください……」
コナーの切実な声が、ゆっくりと、胸の奥まで染み渡る。俺にとって終末を迎えた世界が、瞼の裏から静かに消えていった。
再び目を開ける頃には、ベッドの上で足を曲げられるぐらいの余裕を取り戻した。
「……お前は?」
「僕が何か?」
「鼻血出てただろ。もう平気なのか?」
「ええ。今は平気です」
額からコナーの手が離れる。
「ですが……ハンク」
「なんだ」
「あなたに触れていると……エラーが収まって、シリウムポンプの作動も正常になるんです」
「……やっぱりウイルスじゃねぇか……」
「レビサロイドではありませんよ」
「分かってる……あいつのモルモットなんか止めちまえ」
やっぱり、カムスキーにウイルスを仕込まれたんだ。だから調子がおかしくなって鼻血が出たんだ。黙ってなくていいのに、コナーの奴、よく我慢してたもんだ。
「また、出血するかもしれませんが……あなたが嫌でなければ……一緒に眠ってもいいですか?」
「……好きにしろ」
寝返りを打ち、ベッドを半分空けた。
「ありがとうございます」
コナーがタオルやコップを片付ける間に、スモウが俺のすぐ横に伏せる。腕を伸ばし、温かな毛皮を撫でた。
隣に潜り込んできたコナーが、毛布を被る。
コナーに背を向けて眼を伏せたとき、もぞもぞと胸元に腕が回ってくる。
「……あなたの匂い、体温……あなたのメモリーに触れていると……とても、安らぎます」
コナーが背中にぴったりくっついてきた。
背中越しに感じる微熱に、不思議とうとうとし始める。
「おやすみなさい、ハンク……よい夢を」
ゆりかごの眠りに誘う優しい声がした。
目覚めたとき、室内は薄暗かった。
まだ日の出も迎えてない。もうひと寝入りしよう。毛布を被ろうとしたとき、袖が思いきり引っ張られて寝入りを邪魔された。
「……なんだ、スモウか……」
スモウは袖を咥えたまま、俺をベッドの下に引っ張り落とそうとしていた。
「おい、スモウ、どうした」
ワン、と吠えたスモウは部屋を飛び出していく。
こんな朝早くに散歩か?コナーが連れて行ってるだろうに。
そういやコナーはどうした?
振り返って隣を見る。いない。
「……コナー?」
思わず鼻をひくつかせる。あいつがいつも俺より早く起きて飯を作るもんだから、朝起きると部屋まで漂ってくる朝食の匂いを嗅ぐのがもう癖になっていた。だが匂いもしない。
さすがに起き抜けの脳味噌も異変を察知してタイムカードを押し、ベッドから這い出した。
スモウを追いかけてキッチンに入る。
クンクン鳴くスモウの隣に、白いシャツにグレーのニットを重ね、黒いチノパンを履いたコナーがいた。ただし、床にうつ伏せになって。
「コナー!」
慌てて駆け寄り、抱き起こす。
LEDの光は点いているが、両目を閉じ、傍目には失神しているように思えた。身体を揺すってみる。コナーがハッとしたように目を覚ました。
「……あ……ハンク……すみません……朝食が、まだ……」
「お前なんでぶっ倒れてんだ!」
「大丈夫です……プログラムは正常に作動、してます……」
「だから動けりゃいいってモンじゃねぇんだよ!」
大丈夫、と言いながらコナーは噎せた。薄い唇から青い血が流れ出す。
昨日の鼻血といい、もうこれは異常事態だ。
「ハンク……僕は、平気ですから……」
「血を吐いてる奴のどこが平気なんだよッ!喋るなッ!」
コナーを黙らせ、一度ソファまで運ぶ。
慌てて身支度を整えるとコナーを担ぎ、車の後部座席に寝かせた。
アクセルを踏みこみ、車をブッ飛ばす。
フロントガラスの向こう、雪の隙間から伺えるモノリスのような屋敷。車を停め、未だ血を零すコナーを背負って走る。
インターホンを無視し、エントランスのドアを蹴破った。
プールの部屋から現れたクロエがただならぬ俺の様子を見てすぐに引き返す。
「カムスキー!」
プールにはクロエと同じ顔したべっぴんアンドロイドが泳いでいるだけで、屋敷の主の姿はない。
クロエを追いかけてメンテナンスルームに入る。ルルドへ降りていく彼女の後ろ姿が見えた。
コナーを背中におぶったまま螺旋階段を駆け下りる。
「カムスキー!いるだろ!」
祭壇に立っていた人影が振り返る。眼鏡をかけたカムスキーは俺の背中に一瞥すると、何も言わず祭壇のコンピューターを起動させた。着替えさせる時間も惜しく、着の身着のままで青い泉にコナーを横たえさせる。
凪いでいた青い血が、少しずつ波打ってコナーをプールの中央まで運ぶ。 極小の機械の細胞がコナーに反応したのか、やがて水が仄かに光を放つ。
「……不具合が起きたのですね?」
「テメェ、眼鏡の度が合ってねぇのかよッ!?見て分かんねぇのかッ!?」
祭壇へ上がり、腰から引き抜いた銃を奴のこめかみに向ける。
「ウイルス仕込みやがって!さっさと元に戻せッ!」
「……ハンク……待って、ください……」
俺もカムスキーもプールを見る。
仰向けになったままのコナーの身体は青白い光に包まれている。鼻血はすっかり止まっていた。
「……見て、いただきたい、ものが……あります……」
「何言って……」
無音だったルルドに突如、爆音が反響する。
思わず耳を塞くが、壁に投影されていた滝の映像にノイズが走り、目を向けた。
光と音の洪水。ところどころブレているが、何故か昨日見た殺人現場のナイトクラブの映像が壁面に放映されている。
『きゃああ!』
『逃げろ!みんな逃げろッ』
『押さないで!止めて!』
耳から手を離すと、悲鳴に次ぐ悲鳴。素人がハンディカメラで撮影したように映像の焦点は定まらず、何が起きているか分からない。だが、そこかしこで絶叫が上がるたび、眩いライトの下で赤と青が噴水のように舞い上がる。
持っていた銃が自然と下に向く。隣のカムスキーまで目を丸くして映像に見入っていた。
降り注ぐ血の雨に足を滑らせて、人が何人もすっ転ぶ。立てない連中は這いつくばり、泣き喚きながら出口を目指した。絶叫が少しずつ止んでいき、土嚢を積むような音が響き渡る。
『嫌……そんな……どうして……』
女の声。手元に映るターンテーブルから、声の主は女性DJだと分かった。
DJが辺りを見回したときには、立っている人間も、アンドロイドも誰もいなかった。
――否、一人いる。
サイケなライトの下、夥しい返り血を滴らせる白黒の制服。微かに窺える灰がかった青い瞳。
「……ナイン……?」
こめかみを青く光らせるアンドロイドの姿に、思わず声を上げた。
だが、原色のライトの下で微かに映る手元は黒く、アンドロイドが革手袋をしていることに気づく。腰には見覚えのある――そう、釣竿入れのような――棒状の何かが提げられている。アンドロイドの手に握られているのをよく見れば――
アンドロイドがサーベルを持ち上げ、血抜きの溝から滴る赤と青に舌を伸ばし、すーっと舐めとった。
一度舌なめずりすると、血の海と死体を踏みしめながら静かに歩み寄ってくる。
ひっ、と震える声が上がる。女が腰を抜かすと、連動して映像もへなへなしゃがみこみ、アンドロイドを見上げて映す。
『止めて……来ないで!殺さないで……だ、誰にも言わないから……お願い……っ』
『残念ですが、それはできない。これは主より与えられた任務であり――必要なことですから』
不思議なことにナインたちRK900のいぶしをかけた低い声ではなく、コナーと同じ声で、アンドロイドは淡々と告げた。
手に持っていた刃が振り上げられる。
身を引き裂くような断末魔。血飛沫。そして闇。
映像がぷつりと消え、しばらく静寂が満ちる。
「……ハン、ク……ご覧のとおり、です……」
ぽつりとコナーが喋る声で、ようやく現実に引き戻された。
「あの、クラブで起きた、事件は……RK900、が……」
止まったはずの鼻血が再び溢れてきて、目を見張った。
「コナー!?」
「す、みま…せん……プログラム、に……負荷が……スリープモー、ドに……」
ルルドの光が一際強くなったかと思えば消え、再びコナーが瞳を伏せる。
慌てて祭壇を降りた。
「おい、コナー!」
プールに飛び込み、コナーをルルドから引き上げる。クロエが持ってきたバスタオルをコナーの身体に毛布代わりにかけた。LEDは点灯している。出血は収まっているようだったが、コナーは気を失っていた。
「なんだ、今の、って……」
「……網膜ですね」
「……網膜?」
既に仮説を導き出したらしい天才の一言に、祭壇を見上げた。
奴は空中ディスプレイに映るプログラムに目を奔らせながら、
「瞳孔から目に入った光が虹彩で調節され、ピントを調節する水晶体で屈折、透明なゲル状の硝子体を通過して、網膜の黄斑に焦点を結ぶ。そして、その光が視神経を通じて信号として脳に伝達され、像として認識される」
と、自分の瞳を指差した。
「いきなり理科の話かよ」
「ええ。人間の目の仕組みです。もう少し言い方を変えてみましょうか。人間の目は有機的なカメラです」
「……それがどうしたってんだ」
「視神経を通じて脳に伝達される情報は電気信号として脳に焼き付く……お分かりですか?コナーはこの脳に伝達され、保存されていた電気信号をデジタル化し、死者が最期に視た記憶を再生したんです」
瞳を差していた指をこめかみに当て、二、三度叩く。
「……は?」
「このルルドを構成するナノマシンが、コナーの全身を無数に流れている。極小のナノマシンが網膜に触れたことで、脳に焼きついた電気信号をデータスキャンの要領で読み取り、コナーの体内でデジタル化、物理演算シミュレーションプログラムによる補完も合わせて、死者の記憶を完全に再現したんですよ。死者の記憶さえ読み取れるというのであれば、生きている我々からも何の問題なく記憶を視れるでしょうね」
カムスキーの言葉を理解できなかった。理解しようにも、言葉を失うばかりの俺には理解するのに必要な脳の細胞を動かす酸素が全然足りなかった。
感覚という感覚が俺から遠ざかっていき、言葉の出し方を、喋り方をどこかに置き忘れたような白痴めいた頭で、なんとか耳に残る言葉を繰り返して意味を把握しようとする。
死者の記憶の再現――コナーが、人間の記憶を視れるだって?
「……馬鹿な……」
「変異のきっかけとなったソフトウェアの
ぶつぶつ呟くカムスキーは、空中に浮かぶディスプレイに映し出された文字の羅列に魅入っていた。
「……素晴らしい」
祭壇から降りてきたカムスキーが眼前にやってきて、コナーを見下ろす。
脳の周波数がずれた俺は全身の筋肉がなくなったように、動くことができなかった。
やがて意識を取り戻したコナーがうっすら眼を開け、ぼうっとした様子で俺たちを見上げる。
「コナー、君は人間にハッキングすることが可能になったんだ。素晴らしい進化だよ」
「……僕、が……人間、の……」
「そう、君は辿り着いたんだ――神の領域にね」
カムスキーは不気味に微笑む。眼鏡の奥に、不穏な熱が蠢いていた。