"──── 古 手 梨 花 に は 罪 が あ る"
昭和60年7月、鹿骨市──北条沙都子は学校生活を無為に過ごしていた。彼女に付き纏うのは、目には見えない神様と話し、前世の記憶を語る謎めいた少女……古手梨花。とある朝、教室に血まみれの臓物が撒き散らされる事件が起きる。黒板には"オヤシロサマのタタリ"の復活を宣言する、不気味な数え歌……人から人に伝染し、人の心の闇が祟りを引き起こす情報の災害。犯人はヒトか?タタリか?奇妙な文様は不気味に告げる……「タタリヲジッコウセヨ」それは果てのない悪意と暴力が支配する、地獄の季節の幕開けだった──!ひぐらしのなく頃に、"オヤシロサマのお告げ"に導かれて、ふたりのせつなく残酷な夏が始まる……。

※Pixivと同時掲載です。

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ひぐらしのなく頃に零 縁刎し編

長いマキシ丈スカートのポケットからタバコを取り出す。

 

ウルトラマイルドと印刷された赤い包み紙。

一本を少しだけ引っ張り出し、くわえて引き抜いた。

 

指で包み紙を探ると、もう残っていない。舌打ちをして便器に投げ込んだ。

 

紙のマッチをちぎって擦り、火をつけて、煙を吸い込む。

ビターチョコレートっぽい少し甘めの、お気に入りのフレーバー。

 

「はぁ……タバコ切らしちゃった……お金もないのに」

 

もくもくと口から煙を吐き出し、私はそう独り言ちる。

放課後の校舎3階の端のトイレは教師の巡回もなく、喫煙場所にはもってこいだ。

 

だが、7月ともなるとトイレの個室はそろそろ蒸し暑い……。

紺色のもったりとしたセーラー服にくるぶしまであるスカートが暑苦しい。

 

……もう少し涼しい喫煙場所はないものか、と思う。

 

空調のある自宅が一番なんだろうけど……なんだか……家に帰りたくないなぁ。

 

かといってお金もないし、同じく暇してるであろうクラスの不良連中とは何だかズレていて、つるんで興宮の町を歩いたところで退屈なことには変わりはない。

 

彼氏でも作ればー、とクラスメイトの言葉を思い出す。

 

恋愛っていうのも私にはよくわからなくて、なんだかピンと来ない。

男の子を好きになったことないし、男が欲しい!なんて思ったことない。

 

昔は男をとっかえひっかえだったお母さんが、逆にうらやましいかも。

 

……なんだかなぁ。

 

考え事をしていたら、すぐに吸い終わってしまった。

吸い殻と一緒にタバコの包み紙を流し、個室を出て、ひとつ溜息をつく。

 

ふと目を向けた洗面台の鏡の中の、すみれ色の目と目が合った。

険悪でキツイ感じの目つき。紫のアイシャドウに赤いリップの少女が映っている。

眩い金髪を肩まで伸ばし、どこから見ても立派な不良、スケバンだ。

 

昔は金髪をガキっぽい幼稚な黒のリボンで軽くまとめていたっけ。

確かずっと前、まだ私が小さくて、あの村に住んでいた頃のこと……。

 

……そういえば、金づるといえばあいつがいたじゃないか。

 

「あの馬鹿チビ、まだ残ってるかな……」

 

私はドアを足で軽く蹴り開け、トイレを出て教室に向かった。

 

 

 

 

西日が差し込む放課後の教室はしんと静まり返っていた。

 

窓際の席に目を向けると、青い紫色の長くてさらさらの綺麗な髪が目に入る。

私は後ろからゆっくり近づき、その頭を強めにぱん!と音を立ててはたいた。

 

「痛いっ!」

 

「暗い顔して何読んでんのー?相変わらず根暗よね、あんた」

 

叩かれた少女は頭をさすりながら、明るい笑顔でうれしそうに振り向いた。

 

「古文書の写しなのですよ、沙都子……僕の神社のものなのです」

 

「別に聞いてないわよ。あんた金持ってんでしょ?ちょっと貸してよ」

 

「うぅ……でも……前の分を返してもらってないのですよ……あぐっ!」

 

がぁん!と椅子の脚を後ろから蹴りつけてやる。

イラッとしてついつい強めに蹴りを入れてしまった。

 

「そういうのいいから、さっさとしなさいよ」

 

「沙都子のお母さんも、貸さないでって言ってたのです……」

 

ごちゃごちゃとうるさいので、ごつっ!と強めにこめかみを小突いてやると、よっぽど痛むのか頭を押さえて涙目でうずくまった。

 

「古手……あんた、またチクったの?」

 

「チクってなんか、ないのですよ……」

 

「いや私のお母さんにチクってるでしょ、それ。っつーか、名前で呼ぶなっていっつも言ってんでしょ……イライラするなぁ」

 

「で、でも沙都子はボクの親友なのです……お名前で呼びたいのですよ……」

 

「もう一回殴られたいの?さっさと出すもん出しなさいよ、馬鹿チビ」

 

殴るマネをしてやると泣きそうな顔で慌てて財布を取り出した。小銭を出そうとするのでおでこに一発デコピンをいれてやると、千円札を引っ張り出して私に差し出す。

 

「最初っからそうすればいいのよ、ほんと間抜けだよね古手って」

 

さっと奪い取ってポケットに裸のまま突っ込む。

これでタバコ代くらいにはなるだろう。

 

「沙都子、おかねを何に使うのです?」

 

「うっさいな……何であんたにいちいち説明しなきゃいけないわけ?」

 

私が踵を返して歩き出すと、背後でせかせかと鞄に本をしまってぱたぱたと追いかけてくる音が聞こえた。本当にうっとうしいんだから。

 

「だから、いちいちついてくんなって言ってんでしょ」

 

「でも、でも……うぅ……みぃー……」

 

「はぁ……勝手にしなさいよ」

 

溜息をついて、私は早足で歩き出した。

間抜けのチビはちょこちょこと可愛らしく一生懸命後をついて来る。

 

こいつは古手梨花といって……私の……何だろう……サンドバッグ兼、財布。

チビで地味で暗くて、教室の隅で古くて汚い本を読んでニヤついている変態だ。

 

にぱにぱといやに明るく、気持ち悪い笑顔で私の後をつけてくる。

 

 

 

 

……階段を降り、靴を履き替え、校門から外に出ると、空はすっかり茜色だった。

 

私の自宅は……この町、興宮の外れの……平坂の山林にへばりつくように造成された新興住宅街の奥に建つマンモス団地だ。……この中学校からそう離れてはいない。

 

昔住んでいた村……雛見沢がダムに沈んで、その代替地として選ばれたのが興宮と雛見沢の間に位置する、平坂町のはずれの山林だったのだ。

 

村人の一部は多額の補償金を元手に遠方へ転居して行ったそうだが、それでも千数百人の人口を吸収するための住居が必要とされ……雛見沢に点在した商店も移転、ほとんど新しい町と同じくらいの規模の住宅街が生まれたのである。

 

その新しい町の中心には村から遷宮された古手神社が据えられ、信心深い老人たちから崇敬を集めている。よく知らないけれど、千年くらいの歴史があるらしい。

 

その神社の一人娘が……この古手梨花。

 

村では少し可愛いからといって男子を侍らせて調子に乗っていたので、園崎本家の魅音姉ェにビシッとシメられて女子全員から無視されるようになったアホだ。

 

私も村人の一員として、毎日無視するか小突いてからかってやるかで遊んでやっていたが、何時の頃からか……にらみつけてくるだけだった古手が、痛めつけられるたびに私を親友だと呼んでニヤニヤと不気味に明るく笑うようになった。

 

何でも本人によれば夢の中、前世の記憶で私と親友で一緒に暮らしていたのだとか。馴れ馴れしく名前で呼び、やたらとちょこまかとつきまとうようになった。

 

孤立とイジメのストレスで少し頭がおかしくなったのかもしれない。

 

バカチビの古手は嬉しそうにちらちらと振り返りながら、私の前を歩いていた。

真面目腐った膝丈スカートに白いハイソックスがなんだかきらきらと眩しく感じる。

 

古い木造の日本家屋が途切れて、新築の似たような様式のコンクリート造りの住宅が目立ち始める。このあたりが雛見沢地区の入り口だ。

 

「沙都子、おかね、何に使うのですか?」

 

「話しかけてくんなって言ってんでしょ、アホチビ」

 

角のタバコ屋のカウンターを叩いて、婆ちゃんに呼びかける。

 

「キャヒンのウルトラマイルド3つ」

 

「沙都子ちゃん、誰のお使いで来たんね?」

 

「……鉄ちゃん」

 

「鉄平さんのタバコはハイライツなんね」

 

「変えたんじゃない?いいから早くしてよ、婆ちゃん」

 

めんどくさいなー、お金は出すんだからパッと売ればいいだけなのに。

もう興宮まで降りて行ってまで買いに行きたくないんだけどな。

 

「沙都子、中学生はタバコを吸ってはいけませんのですよ」

 

「ちっ……黙ってろよ、根暗!」

 

親指であばらの間を強めに突いてやると、鈍い悲鳴を上げて古手はうずくまった。

いちいち本当に鬱陶しいヤツ。

 

「これっ!女の子が乱暴したらいかんっちゅうとろうが!」

 

「うっざいな……もういいわよ……」

 

「どこ行きよんね!梨花ちゃんに謝らないかんよー!」

 

タバコは諦めて、早足で歩き出す。

古手はぱたぱたと小走りでついてくる。

 

「うん?何なのです羽入?……ふむふむ、それはいい考えなのです!」

 

古手は宙に焦点を合わせて、ブツブツと一人で喋り始めた。

 

コイツの頭がおかしいのか何なのか、本人が言うには……オヤシロサマとかいう古手神社の神様と会話ができるらしい。オヤシロサマの生まれ変わりだから特別な力を持っているのですよー、とか言っていたが……全部嘘っぱち。

 

「うんうん、けむいのよりも、あまーいのがいいのですよ!」

 

村のジジババの言うところには、生まれ変わりの巫女はコイツの母親だったらしい。生まれ変わりの指定には複雑なルールがあって、古手梨花はそこから外れているとか。まあつまり……ただ目立ちたくてコイツが嘘をついているだけってこと。

 

しばらく歩いていると……その古手神社が見えて来た。

 

「沙都子、タバコはやめてお菓子にするのです!ボクと沙都子で、一緒にあまあまのチョコレートを買いに行くのですよ!にぱ~☆」

 

「ついてこないでよ」

 

「……お菓子屋さんには行かないのです?」

 

「あんたの家は、そこでしょ!」

 

神社の石段を指差して怒鳴る。

 

「でも、ボクは親友の沙都子とお菓子を……」

 

「親友、親友、ってうるさいのよ!あんた、頭おかしいんじゃないの!?」

 

びくっと震えて、じわっと涙目になって立ち止まる古手。

ふん、と鼻を鳴らして私は歩き出す。

 

名前で呼ばれ、親友と呼ばれるたびにもやもやしてイライラしてしまう。

胸が苦しくて、寂しいような悲しいような、不快な感情が呼び起こされる。

 

だから、私は古手梨花が嫌いだ。

 

……もう、ぱたぱたという足音は聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンモス団地は雛見沢地区の端っこ、真新しい板チョコみたいな四角い凸凹模様のコンクリで固められた擁壁に囲まれて、オレンジ色の光が差す夕闇の中に聳えている。

 

擁壁の上部から奥へ広がる原生林から、かなかなとひぐらしのなく声が響く。

……どこかの家の夕飯の匂いがする。あたりには、ほとんど人影は見えない。

 

このあたりには本当に旧雛見沢の村人しかいないのだ。団地には立派な公園もあるけれど、平坂の子どもたちですらこの団地に遊びに来ることはまずない。

 

友達を招こうとしたら断られてひどく傷ついた記憶がある。何故かは知らないけれど親から厳しく雛見沢地区に立ち入ってはいけないと言われているらしい……。

 

旧雛見沢村民のほとんどは昔からの小作農で、多くは山も土地もほとんど持たない貧しい人々だったから、一世帯あたりの補償額もそれほど多くはなかった。土地を買って、家を建てたらなくなってしまうくらいの額だった。

 

だから大半の村人、千人以上が……政府の用意したこの巨大な団地に押し込められるようにして暮らしている。でも、私に不満はない。

 

戦前のような木造でポットン便所の古い民家に住んでいた私は、新築の真新しく広いリビングやシステムキッチン、水洗トイレやユニットバスに目を輝かせていたっけ。

 

お父さんから、未だに雛見沢には井戸や囲炉裏で生活している家もあったと聞いて、よくもそんなとんでもない村に住んでいたものだと逆に感心した。

 

団地の真ん中には病院、タカノクリニックと……大きな人権センターの建物。雛見沢の昔の暮らしや知恵を学ぶ常設展示、大きな本棚が並ぶ資料室、他は事務室や会議室がある。……ここが何をするところなのかはよく知らないけど。

 

団地を抜けて山林に入ってしばらく道を歩くと、移転した園崎本家の豪邸に着く。

 

魅音姉ェがまだこっちにいた頃は頻繁に遊びに行っていたんだけどな。兄と一緒に鹿骨を出て行っちゃったから、今は本家に私と遊んでくれる人はいない。

 

それでも遊びに行けば……怖いけど本当は優しいばっちゃが、お菓子とお茶でもてなしてくれるだろうけど。私、ばっちゃのおはぎ好きなんだよね。

 

団地に入った私は、自分の住んでいる棟を通り過ぎて、別の棟の階段を上った。私の苗字と同じ『北条』の表札のついた部屋のドアに合いカギを挿して開ける。

 

むわっと複数のタバコが混ざった臭いが鼻と目を刺す。やたら酒臭い。

 

「お邪魔しまーす」

 

長くはない廊下を歩いて居間に入ると四人のオジサン、一人はお爺ちゃんかな?……が、顔を突き合わせて雀卓を囲んでいた。もくもくと霧がかったようにタバコの煙が充満している。

 

「おー沙都子、学校はもう終わったんね?」

 

土で汚れた薄いグリーンの作業服を着た金髪のパンチパーマのオジサン。

義理のお父さんの弟……叔父の鉄平さん。私は鉄ちゃん、って呼んでる。

 

昔はやんちゃだったらしいけど、今は真面目に園崎系列の土建屋で働いてる。

強面で麻雀とかパチンコ、競馬が大好きなのが玉に瑕だけど、いい人だ。

 

「うん、鉄ちゃんってばまた麻雀してんの?……玉枝さんに怒られるよ」

 

玉枝さんは鉄ちゃんの奥さん。ケチというかしっかりしていて、鉄ちゃんがすぐバクチで無駄遣いすることに怒ってる。

 

お酒も飲み過ぎだって。家が臭くなるから集まって麻雀なんてもってのほか、タバコはベランダで!って言ってたなー。

 

「玉枝はパートで遅ぅなるって言うとったん。それまではわしの天下やんね」

 

「鉄っちゃん、姪っ子ばっかり構っとらんと。鉄っちゃんのツモだぞ」

 

「ほい、リーチ」

 

「なんね。サトさん、あんたまたリーチかぃね……」

 

棚の中の鉄ちゃんの買い置きのタバコのカートンを探る。

水色の包装紙を見て、舌打ちをした。

 

鉄ちゃんのタバコ、臭くてまずいんだよね……。

 

「タバコもらうね、鉄ちゃん」

 

「沙都子ぉ、タバコはやめぇって父ちゃんに言われよるんやろが」

 

「いいじゃん、鉄ちゃんだって中坊んときもう吸ってたんでしょ」

 

「すったらん、沙都子がわしのタバコ吸うとったらすーぐバレよるやんね……兄貴にどやされて大変なことになってまうんはわしやろが……」

 

「いつまでも兄貴が怖い怖いって、それでもおめぇは男か、鉄!なあ?椿ぃ」

 

「おやっさんの言う通りじゃ、鉄ちゃんはほんに怖がりでいかんわ」

 

「なッ、何じゃいな、こんボケども、わしの兄貴は本っ当に怖いんね……怒らせたらダンプかブルで真っ直ぐ突っ込んできよるからのう……無茶苦茶をしよるんね」

 

「なんじゃそりゃあ、わはは!」

 

封を破って銀紙を開き、一本くわえた。

テーブルにライターがあったのでちょっと拝借。

 

鉄ちゃんもちょうどタバコをくわえたので、先に火を点けてあげる。

 

「お、沙都子はやっぱり気が利くんね……」

 

自分も火を点けて……一口吸うとやっぱり臭い。

でも、仕方がないので我慢する。

 

もくもくと煙を吐いていると、鉄ちゃんがビール瓶を振って言った。

 

「沙都子、ビールがもうないんね。こいつらの分も頼むわぁ」

 

「はぁい」

 

くわえタバコで台所に行って、冷蔵庫を開けた。

ビールを何本か取り出して、手が塞がったので足で閉める。

 

「鉄ちゃん、これくらいでいーい?」

 

「おぉ沙都子、ありがとやんね」

 

「ようできた姪っ子だのう……鉄ちゃんにはもったいないぞぉ。うちの娘なんか俺のこと昔っからクソジジイ呼ばわりで挨拶もせんちゅうのに」

 

うむうむと頷きながら、鉄ちゃんのお友達……椿さんが言った。

 

「もう、私のこと褒めても、ゴハンくらいしか出ませんよー?……ねぇ鉄ちゃん、今日玉枝さん遅いんでしょ?私が晩御飯作ったげよっか?」

 

鉄ちゃんはちょっと難しい顔……嬉しい顔と困った顔と厳しい顔が混ざったような……そんな表情をして、言った。

 

「沙都子、夜はちゃんと家に帰らんといけんね。姐さんがメシ作って待っとるやろ」

 

「だって家帰ったら、お父さんもお母さんもうるさいんだもん……」

 

「兄貴は娘のお父ちゃんとして、沙都子のことを本気で心配しよるだけなんよ。姐さんも沙都子のことを思って言うとるんね。沙都子はええ子じゃもの、兄貴や姐さんの気持ちをな、ちょこーっと……分かったって欲しいんね……な?」

 

はぁ、家に帰りたくないから鉄っちゃん家で暇潰してるのに。

鉄ちゃんまで私に説教するんだもんな……。

 

「おやっさん、鉄っちゃんが大人みたいなこと言うとるぞ!」

 

「本当にな、でっけぇなりしてまるで子供みたいな鉄がよぉ」

 

「お前ら、やがましかぁ!わしが何言おうが勝手なんね!こんダラズ!」

 

わはははは、とおじさんたちが笑った。

 

……灰皿にタバコを押し付けて消す。

 

「わかったわよ鉄ちゃん、ちゃんと家には帰るから……鉄ちゃんと皆さんのゴハンだけは作ってからでもいいでしょ?」

 

しょんぼりした表情で、上目遣いでお願いする。

……せめてもう少しだけ、心の準備をする猶予が欲しかった。

 

「おぉ、おぉ、沙都子さえちゃーんと分かってくれとるんなら、それでええんね」

 

「沙都子ちゃん、ありがとうな」

 

「若い女の子の手料理なんて、鉄ちゃんとこは贅沢じゃのう」

 

「なんか、急に腹ぁ減って来たわぁ」

 

笑顔で手を振って、台所に向かった。

料理は嫌いじゃないから、少しは気晴らしになるだろう。

 

度々ここで料理する私のために、玉枝さんが用意してくれた黄色いエプロンをつけて食材を見繕う。ジャガイモ、玉ねぎ、人参の買い置きに、カレールーもある。

 

お肉はないけど、冷蔵庫にベーコンがあったからこれで代用できる。

男の人ばっかりだし、麻雀中だ。さっと食べられるカレーに決めた。

 

とりあえずまずはお米を洗って、花柄の炊飯ジャーにセットする。

ベーコンと野菜を切って炒め、水を注いでひと段落だ。

 

……出来のいい兄を持つと苦労する。

 

小さかった頃、兄の悟史は私の自慢だった。昔からスポーツ万能で興宮の野球チームじゃ三割打者。ここ一番の逆境で逆転ホームランを打つ天才だ。

 

それどころか、勉強もできるときている。ここに、誰にでも優しい正義漢の美少年、なんてついてしまったら……それは完璧超人だと言わざるを得ない。

 

何時の頃からか、出来のいい悟史に比べて沙都子は、と比較されるようになって……勉強嫌いで何の取り柄もない私は、家族のお荷物みたいに言われている。

 

兄は恋人の魅音姉ェと一緒に名古屋の進学校に入学。寮に下宿しているから家にはいない。以前は兄が庇ってくれたのだが、いない今となってはそれも期待できない。

 

家に帰れば叱られるに違いない。勉強しろ、このままじゃお前が行ける高校なんてないぞ、タバコを吸うな、髪を染めるな、兄の悟史に比べてお前は出来が悪い、悟史を見習え、将来どうするんだ、うんぬんかんぬん……。

 

家には居場所がないし、外にも、学校にも、どこにも居場所なんかない。

 

「はぁ……」

 

冷蔵庫から印刷のかすれたリターナブル瓶のジュースを取り出し、栓抜きで開ける。

そのまま口をつけて飲むと、身体に悪そうな赤色、ちょっと咳止めシロップみたいなストロベリー風味の炭酸が舌の上で弾けた。私の好きなフレーバー。

 

喉を刺す心地よい発泡と爽やかな甘みを感じてリラックスしていると、ふいに古手のあの紫紺の艶やかな長い髪が頭に浮かんでくる。アイツが髪を掻き上げて、細い指から落ちてこぼれて……さらさらと渓流のように流れて……。

 

……どくどくと胸が高鳴って、なんだかモヤモヤする。

やっぱ私、アイツのこと嫌いなんだな、と再確認した。

 

頭を振って下らない妄想を振り払う。

 

そうすると……胸にぽっかり穴が開いたみたいに空虚で、私はからっぽだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は学校に行くのが面倒で……少しそこらをぶらついてからわざと遅れて登校することにした。面倒だからといって、別に学校以外に行くところもないからだ。

 

廊下を歩いていると、様子がおかしいことに気づいた。とっくにHRが始まっている時間なのに、廊下に生徒がいて口々に私語を行い騒いでいるのだ。

 

「あれだろ?古手って、平坂の、雛見沢から引っ越して来た神社の……」

 

「……雛見沢が人食い村だ、ってひい爺ちゃんの話、マジだったのかよ」

 

教室に入ると、異様な光景が広がっていた。

誰も着席せず、古手梨花の席のあたりだけぽっかりと人波が割れている。

 

赤黒い真っ赤なぐちゃぐちゃの血まみれの内臓のようなものが、古手の席を中心にバケツをひっくり返したように広範囲に撒き散らされていた。

 

白っぽいひものような腸や、灰色でざらついたグロテスクなもの。

 

蜂の巣のような形の不気味なひだがびっしりとついたもの。

 

赤紫色のブツ切りになったぬるぬるした角切りの物体。

 

まるで脳みそのような、ピンク色のプルプルとしたもの。

 

一切合切が散乱し、肉屋の裏の汚れた排水溝のような臭気を放っている。

 

まるで、猟奇的な殺人現場のような有様だ。

 

クラスメイトはほとんど真っ青になっており、中には吐き戻している女子もいる。

 

古手を探すと、教室の後ろの隅っこでカーテンと暗幕をぎゅうっと抱き締めて、小さな身体をぶるぶると震わせながら声を殺して泣きじゃくっていた。

 

黒板には赤いチョークで、鳥居のような、人型のような、奇妙なマークが描かれている。その下にはびっしりと一面を埋め尽くすように小さな文字が描かれ……それは何かの数え歌のようなものの……繰り返しだった。

 

 

『一人に二人で石を投げ。』

 

『三んなで一緒に四返しだ。』

 

『五臓六腑を七里にばら蒔き。』

 

『八つ裂き園崎、はらわた九い。』

 

『十里に知らぬ者はなし。』

 

 

後ろの黒板には『オヤシロサマ』とやらの呪いの文句が大きく書き殴られている。

 

『古手梨花には罪がある』

 

曰く、聖地である雛見沢を捨てた古手家に綿流しを。

曰く、それを許した御三家に鬼隠しを、と。

 

……冗談にしては、流石に度が過ぎている。

 

黒板に書かれているように本当に何かの心霊現象であるとは思えないが、同時にただの子供の悪戯で片付けるには、手間がかかり過ぎている……と思った。

 

人の手によるものである、という想像が逆にこの場の不気味さを増している。

こんなことをここまで手間をかけて行う人間がいるということだからだ……。

 

「おい!お前ら、触るなよー!全員講堂に集まれー!行け、行け、ほらー!」

 

担任のハゲが声を張り上げ、廊下にいる生徒の背中を叩きながらやってきた。

 

『えー、只今より緊急集会を開きます。全生徒は講堂に集合してください、繰り返します。全生徒は講堂に集まってください、緊急集会です……』

 

何時間も人ごみの中で硬い床に立たされると思うと逃げてしまいたいが、こういうときにフケるとあとあと面倒なことになることはよく知っている……。

 

仕方なく講堂へ歩き出そうとすると、後ろから制服の裾を掴まれた。

古手のバカチビがしゃくり上げながら、私にくっつこうと必死にすり寄ってくる。

 

「……何よ」

 

「ひっ……ひっ……ひっく……さ、さと……ひっく……ひっ」

 

状況が状況だけにはっきり言ってコイツと関わり合いになりたくはなかったが、わざわざ振り払って衆人環視の中、悪者にされるのも面倒なので、好きにさせておく。

 

講堂についても泣き虫チビは私から離れず、担任も面倒なのか何も言わなかった。

 

集会とは名ばかりで、ただ集めただけで特に何か話があるわけでもなく、昼を過ぎるまで退出を許されず、ようやく始まった教頭の話もたいして中身はなかった。

 

警察の調べでは肉屋で売っているような牛や豚の内臓を赤いインクにまぶしたもので事件性はなかったこと、黒板に書いてあった内容を口外してはならないこと、軽挙妄動を慎み、興宮中生徒の自覚を持つこと、などが言い渡されて解散となった。

 

教室に戻ると、床は掃除され、インクがかかった机はすべて取り替えられており、黒板も水拭きを繰り返したのか、うっすらとも見えないよう念入りに消されていた。まるで何もなかったかのようだが……古手を見る目が異様なものに変わっていた。

 

以前は無視されるかたまにいじられキャラとしてからかわれる程度の扱いだったが……今は全員が異様な目で古手を見ている。犯人が生徒であれ、外部の変質者であれ……古手梨花がターゲットとされたことに疑いはないからだ。

 

流石にぞっとした私が古手を振り払うと、古手は絶望したような表情でそっと私から離れ、自分の席に戻った。そして、不安そうに縮こまる古手をチラチラと見ながら、誰もが事件のことを……くだらない、あることないことを口々に語っていた。

 

教頭が黒板の内容の口外を禁止し、すべての痕跡を取り除いたのは逆効果だった。

校内の事件に警察が介入したという大袈裟な事実も、それに拍車をかけた。

 

あの事件が心霊現象なのか、それとも人によるものなのか、人によるものであれば一体誰が、なぜ、どうやって?古手梨花や雛見沢地区の住民とは何の関係が?

 

そんな無責任な噂や好奇心が形を取るまで、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、黒板に例の鳥居のような人型のようなマークと共にこう書かれていた。

 

『古手梨花にタタリを下しなさい』

 

マークはかなり歪んでいるし、赤いチョークで描かれた文字は事件のものとは異なるし、かなり乱雑に書かれている。誰かの模倣による悪戯に違いはないだろう。

 

"タタリ"とは何なのか?具体性のない文でありながらターゲットだけは明確に指定されていることが漠然とした強制力を連想させ、不気味さを感じさせた。

 

初めは古手は自分の名と共に物騒な命令が書かれていたことにびくびくと怯えていたが、クラスメートたちがいつもの調子でイジリに走ったことで少し安心していた。

 

お調子者の男子が、タタリチョップなどと称して額を軽く叩いたとき……古手は笑っていた。たったそれだけのこと……それが……致命的だった。

 

次の日には古手梨花に対する"タタリ"の具体的な内容が書かれていた。

 

『机を廊下に出しなさい』『鞄を窓から投げなさい』『椅子を隠しなさい』

 

古手は嫌がらせに翻弄され、机を戻しては鞄を投げられ、鞄を持って戻れば椅子を隠され、まともに授業も受けられないありさまだった。おろおろと歩き回る古手が状況を理解していない教諭に怒鳴られた際はどっと教室が笑い声に沸いた。

 

こいつは抵抗しないし、しっぺ返しもないから、こいつには何をしてもかまわないのだ、という子供特有の残虐で冷酷な獣の価値観が、獣の掟が古手梨花を定義した。

 

『横を通るたび頭を叩きなさい』『下校までに10回転ばせなさい』

 

翌日、最初は遠慮がちに頭を叩いていた連中も、古手の反応が大きければ大きいほど笑いが取れることに気づいてからはどんどんエスカレートしていった。

 

転んだ古手が頭を机にぶつけて出血した際も、古手は自分で転んだのだと言い張り、誰も罰せられなかったことが決定打となった。

 

『水をかけなさい』『背中を蹴りなさい』『パンツを脱がせなさい』

 

翌日、水をかけられて泣き、背中を蹴られて咳き込む古手を、スケベな男子ではなく率先して女子たちが襲った。5、6人に囲まれ、スカートをめくられ下着を無理やり下ろされそうになった古手を、クラスの男子数人が止めた。

 

流石にやり過ぎだと声が上がり、その場は女子が謝罪して収まった。

 

……ように見えた。

 

『野村と土屋と岡村にタタリを下しなさい』

 

『パンツを脱がせなさい』

 

本来、古手梨花の名が入るはずの箇所に、昨日古手への暴行を制止した男子たちの名前が書かれていた。犯人は明白だったが、これは男子に対する踏み絵となった。

 

声を上げて止めれば次は自分がターゲットになるルールに気付いたのだ。

 

また、ターゲットとなった男子たちは一部の男子からは調子に乗っていると解釈され……誰も止められず……結局三人ともが下半身を露出する結果になった。

 

翌日は黒板の書き込み自体がなかった。なかったのではなく教諭に消されたのだ。その代わりに、鬼のような形相の担任のハゲがLHRで犯人探しを始めた。

 

昨日強制脱衣に関与した男子と、担任によって犯人とされた女子グループは、教壇の前に並ばされ、謝罪を強要された。こうして下らないいじめブームは終わった。

 

……ように見えた。

 

翌日、校内の複数の掲示板に『オヤシロサマのお告げ』という紙が掲示された。

担任のハゲを名指しして"タタリ"の実行を要請する内容のメモだ。

 

『授業前にチョークと黒板消しを隠しなさい』『黒板一杯に落書きしなさい』

 

他愛のない悪戯だが、担任のハゲは他のクラスでも全ての授業でこれをやられ、まともに授業を行えなかったらしい。

 

犯人探しをすれば授業が出来ず、かといって用具を持ち込み、落書きを消してから無言で授業を始めれば教室のどこからともなく笑いが上がり、担任が今笑ったのは誰だと怒鳴り始め、犯人探しになる。その繰り返しだ。授業が進むはずがない。

 

『車のガラスを割りなさい』

 

次の日、そんな"お告げ"が貼り出されたが、流石に誰もやらないだろうという予測は誤りだった。昼前には担任の自家用車のフロントガラスに、コンクリートブロックが校舎の窓から落とされ、ぐしゃぐしゃに砕け散っていた。

 

そのとき、学校を支配するルール、空気のようなものが……変わった。

本来枠外にあるはずの教師でさえ、ターゲットにして構わないと気づいたのだ。

 

担任が嫌がらせへの対応に追われている内に、古手への"タタリ"は再開された。

 

女子グループが中心となって、暴言や嫌がらせ、物品の隠匿や汚損、人目のない場所に連れ込んでの暴行が加えられた。一度外れたタガは元には戻らない。

 

泣きながらへこへこと謝り、サンドバッグのように叩かれている。

 

古手梨花は『痛めつけてもいい人間』の枠に入れられてしまったのだ。

 

それと同時に、教室外へ一旦出てしまった"お告げ"と"タタリ"も止めることはできなかった。生徒たちの目には担任教諭が翻弄される様子がよほど面白く映ったのか……"オヤシロサマのお告げ"が模倣されるまでそう時間はかからなかった。

 

私の教室で起こったことと同じことが、大半の教室で起こったらしい。

何人もの生徒が……第二、第三の古手梨花となって、はけ口とされた。

 

 

 

 

 

あれから1週間がたった今……。

 

既に"オヤシロサマのお告げ"は学校内のムーブメントでは収まらない。

興宮中学の誰かが…"オヤシロサマのお告げ"を校外に持ち出してしまったのだ。

 

興宮駅の伝言板や地域の掲示板を経て伝染し、悪性変異し、広がり続けた。

 

誰かがどこかの黒板や掲示板に"オヤシロサマのお告げ"をこっそり掲出すれば、それを読んだ誰かが"タタリ"を実行してしまう。妨害すればお告げに名前を書かれる。

 

はじめは面白がって参加していた連中はやがて恐怖から抜けられなくなる。

そして参加したいと思っていなくても名前を書かれる恐怖から逃れられない。

 

代行した人間を咎めても掲出する人間がいる限り根本的な解決にはならない。

掲出した人間を咎めても代行する人間がいる限り根本的な解決にはならない。

 

明らかにその"オヤシロサマのタタリ"とやらは実効力を持っていた……。

 

インクと臓物を撒き散らした犯人は……こんな事態を想定していたとは思えない。

 

ただ雛見沢に対する差別的な落書きを模倣した愉快犯だったんだろう。

臓物にしたって、根拠のない差別意識を面白おかしく具現化したものに過ぎない。

 

確かに古手は可愛くいじめがいがあるし澄んだ小川のように儚く汚しがいもある。

臓物を撒いた犯人が、美少女の古手をターゲットとした理由は分からなくもない。

 

だが、その後黒板に古手への"タタリ"を命じるお告げを書いた人物は別の人間だ。

 

そしてその古手への"タタリ"に具体性を持たせたのは更に別の人間で……。

 

次に"タタリ"は"タタリ"を止める人物を攻撃する能力を自然に獲得した。

 

誰か一人が作ったものではなく、誰か一人が止められるものではない。

既に"タタリ"は人の手を離れてしまった。

 

幼稚な獣の論理が、学校社会の構造がそうさせた。

おそらくもう誰にも止めることはできないだろう。

 

女子数人がかりで頭を小突かれながら髪を引っ張られ、今日何度目かの暴行のため、トイレに連れ込まれる古手梨花の泣き顔を見ているとそう思えた。

 

親友がどうとか羽入がどうだとか妄想を押し付けられることもない。

 

……もうつきまとわれることもなくなり、せいせいした気分だ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TIPS『昭和60年7月3日付読買新聞朝刊「興宮中校舎内に差別落書」』

 

2日、興宮警察署は、鹿骨市立興宮中学校内A棟3階教室黒板にて差別落書を発見したと発表した。

 

同日午前7時15分ごろ、生徒からの訴えを受けて担任教諭が教頭へ報告。直ちに警察に通報すると共に、同市平坂町雛見沢地区人権センターに連絡した。

 

センター長兼雛見沢地区連合町会長の公由喜一郎氏と他役員二名の到着を待って、教職員は警察と共同して現場を確認、午前11時ごろ、直ちに清掃された。

 

同落書は同地区連合町会長を含む同地区住民数名を名指しで差別、中傷するものであり、昭和30年代の雛見沢部落解放闘争や昭和50年代の雛見沢ダム開発に関わる住民への補償金支払い時に多発した差別落書事件と一部内容が酷似している。

 

筆跡鑑定では過去の類似事件とは関連がなく、興宮署では慎重に捜査を進める方針。

 

同日夕、雛見沢地区連合6町会を代表して雛見沢地区人権センター長公由喜一郎氏が声明を発表。内容は以下の通り。

 

「匿名による卑劣な犯行に強い憤りを覚えている。関係機関との連絡を密にして対応していきたい。雛見沢症候群の撲滅と同症候群の特性の周知による差別意識の撤廃、周辺地域との関係改善に後半生を捧げた故・高野一二三医学博士と雛見沢住民の努力を無にする行いであり、絶対に許されない行為。強く遺憾の意を示したい」

 

同市では先月、平坂町の雛見沢地区団地そばにて、同様の差別落書が見つかったばかり。公由氏は県や市に対し、警察による同地区の巡回警備の強化を求めると共に、犯人検挙への一層の努力を強く要請した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"オヤシロサマのお告げ"は興宮のみならず県庁所在地である穀倉の学校など鹿骨市中の学校に広まっているらしい。各学校の教職員らは必死に掲示物を撤去し、溢れかえる嫌がらせや校内暴力の対応に追われている。

 

登下校の最中にいきなり殴打される生徒がいても、教師すら誰も止めようとしない。

咎められないのをいいことに人目を気にすることなく、公然と暴力が行われている。

それはドキュメンタリー映像で見る動物同士の捕食風景のような異様な光景だった。

 

中学校や高校のみならず、小学校にも"タタリ"は影響力を持ち始めた。

すでに校内暴力の被害で入院した生徒もいれば、自殺を試みた生徒もいるらしい。

 

教室には空席が目立ち、立場の弱い生徒は草食動物のように固まって過ごしている。

その弱い生徒の中ですら、暴力や嫌がらせが頻発しているというから完全に異常だ。

 

生徒たちは自分を縛るものでありながら守るものでもあった枷や軛を喪い、廊下や教室には悪意と暴力が渦巻いている。子どもたちの世界は軋み、壊れかかっていた。

 

全校集会が開かれ、人権センターの講師を交えて『人が人らしく生きる権利』とやらを校長が語ったが、生徒はみんなそれどころじゃないのだ。自分が人らしく生きるために、他人から奪わなければならないというだけの話なのだから。

 

LHRはすべて道徳の授業に差し替えられた。視聴覚室で人権啓発ビデオを見せられ……大人たちの思惑とは裏腹に、映像と情報は謎だらけの"オヤシロサマのタタリ"を肉付けし、より神秘性やおどろおどろしいイメージを強めた。

 

当時の白黒の記録映像と音の割れたレトロなナレーションは不気味さを演出し、生徒たちはホラー映画でも見るような感覚で楽しみ、笑い合っていた。

 

……たかがビデオ一本で子供たちの残酷な性質が変わるなら、苦労はないだろう。

 

ダムに沈んだ旧雛見沢村は、明治以前は鬼ヶ淵村と呼ばれ……鬼の血を引く仙人の里として長く尊崇されていた神聖な村だったが、明治政府の横暴によって強制的に改名され被差別部落に認定、長く苦しい部落差別の時代に突入した。

 

雛見沢住民は、とある風土病によって凶暴性を持って周辺住民を襲うことがあり……これが鬼の血が混じる人食い村という汚名を着る原因となる。

 

戦中、雛見沢出身兵士に体調不調や精神の異常を訴える者が多く……旧日本軍の偉い医学博士がこの病気を『雛見沢症候群』と命名し、治療法の研究に乗り出した。

 

戦後、博士は雛見沢に居を移し……この風土病の全容解明と治療撲滅に全力を尽くした。とある患者が末期症状に至り助からない場合、自身を生きたまま解剖することに同意、この村民の自己犠牲によって病原体……脳内寄生虫の同定に成功した。

 

政府による資金、人材両面での積極的な支援、米陸軍医療本部第四〇六部隊医学研究所の介入、さまざまな人々が力を合わせて、昭和20年代終わりには根治療法を確立。

 

病原体の発生源である同村鬼ヶ淵沼の埋め立てと厳重な封鎖によって感染も終息。

昭和30年代はじめには最後の患者が治療され……撲滅が宣言された。

 

しかし、雛見沢出身者に対する世間の目は依然厳しく……明治時代に被差別部落とされ不可蝕民とされていた経緯も合わせて、有形無形の差別が色濃く残された。

 

風土病の撲滅は虚偽であるというデマや、雛見沢出身者と関わると感染する、雛見沢出身者は凶暴化して人を襲うという誤解が問題を複雑化させた。

 

雛見沢村民は激しく反発、地域住民や機動隊との衝突も発生し……時には血が流れ、多くの死人が出るほどの紛争……殺し合いにもつれ込んだという。

 

この差別問題に対して医学博士は風土病の特性と撲滅の周知を徹底し、古文書にあるオヤシロサマ信仰と人食い村の伝説を医学的に読み解いて迷信であると断じ、当時地域を支配していた差別意識との戦い、周辺地域と雛見沢村民の関係の改善にその後半生を捧げたのだという。

 

雛見沢出身者へのいわれのない差別・中傷は犯罪です。風土病は撲滅されています。差別のない住みよい社会をみなさんで協力して築いて行きましょう……。

 

ビデオを見終わった生徒たちの反応は当然と言えば当然だが……古手だけじゃない、雛見沢出身者の頭の中にゾンビ虫がいる、という話で持ちきりになった。

 

虫ゾンビになって本当に人を食ってたとか、そういえば古手へのいじめを止めようとした生徒は全員雛見沢出身だったとか、ゾンビ虫は感染る、だとか……。

 

祖父母から『園崎は人肉缶詰を売って儲けた』と聞いたと言い出す生徒も出始め……放課後までには「雛見沢出身者はゾンビ化する」という話が広まってしまった。

 

本当に風土病を恐れているわけではないし、撲滅されたことも十分理解してなお、面白いからという理由で"そういうこと"にしてしまおうという空気があった。

 

「ダム計画に村を売って大金を得た卑怯な奴ら」「平坂の住民たちはマナーのなっていない雛見沢地区住民に迷惑している」「固まって暮らしていて気持ちが悪い」などと……子どもたちは親の受け売りを口々に話し始める。

 

翌日には、"タタリ"のターゲットになりやすい属性として『雛見沢地区住民』が追加された。つまり……私も例外ではないということ。

 

何だか気分じゃなくなったから、古手へのイジメはやめていたけれど……クラスの女子たちの同調圧力が私にもかかり始めた。古手をかばうのは雛見沢のゾンビだからだなんて言われようものなら……大変なことになるだろう。

 

仕方なく、私も古手がトイレに連れ込まれるたびに同行する。手を出さなくても、ただその場にいて作り笑いを見せるだけで肯定の意を示し、仲間であると示せばそれで面倒が避けられるという仕組みになっているのだ。

 

トイレに連れ込まれる古手に私が近づくと、古手はふにゃっとした笑いを浮かべ……私に止めるつもりはなく、ただ参加し、傍観に徹するのだと理解した瞬間……何もかもを諦めたような、ひどい表情になった。

 

小突いて、暴言を吐いて、引っ叩いて……全部私がこいつにやっていたことじゃないか……なのに、妙に心がざわついて……作り笑顔を維持するのが精いっぱいだった。

 

急いでタバコに火を点ける。ビターチョコのフレーバーが妙に苦く感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくして……とある噂が、興宮駅西口の伝言板に書き込まれた。

 

『古手梨花はオヤシロサマの秘宝を隠している』

 

あっという間に尾ひれがつき、噂は驚くべき速度で伝播していった。

 

『秘宝があればタタリを自在に操れる』

 

『秘宝は途方もない価値があり高値で売れる』

 

『秘宝を身に付ければ志望校に必ず合格できる』

 

くだらない即興の都市伝説がどんどん黒板や掲示板に踊り、子供たちの口から口へと転がるうちに……荒唐無稽な噂は強い信憑性を持ち始めた。

 

……目撃者が出たのだ。

 

小学生の頃、古手が平坂の山林にある古い社に穴を掘り、何かを埋めていた様子を見ていた生徒がいた。真面目で浮付いたところのない男の子で……黙っていればいいのに、嘘つきと呼ばれ意固地になったのか、本当にあったことだと力説した。

 

社と言っても大きな神社のことではない。江戸時代以前、人食い鬼や仙人の村として畏れられていた雛見沢に周辺住民は貢物として金品や食品を捧げることで被害から逃れようとした。その貢物を安置するための祭壇がそれだ。

 

平坂の山林に大小合わせてもヤシロの数は百ヵ所を下らないという。当然、ひとつひとつ掘って調べるよりも聞いた方が早い……すべての興味は古手梨花に向いた。

 

「知らない」「そんなものはない」と言えばいいのに、あのアホチビは馬鹿正直にも「教えられない」と言ってしまったのだ。知っていると言ったようなものだ。

 

その日から、古手へのいじめは……もはやいじめとは呼べないものになった。

 

髪の毛を掴まれて引きずり回され、通りがかるたびに蹴りを入れられる。秘宝について知っているのに隠しているという事実が、暴力のタガを完全に外してしまった。

 

別にみんな本気で秘宝を求めているわけじゃない。ただ、受験や将来や人間関係だの何もかもが思い通りにならないつまらない生活の中で、古手梨花はそのはけ口としてどれだけ暴行を加えてもいい人間だと定義されてしまっただけだ。

 

もうお告げという回りくどい方法を使うこともない。

古手が暴力を受けるのはもはや日常の一部となりつつあった。

 

「──だーかーらっ、どこに埋めたか言えって言ってんでしょ!」

 

古手が蹴り倒され、消火栓の扉に激突して大きな音を廊下に響かせた。

 

連日の暴力で古手はボロボロだ。病気の猫のように髪はつやをなくし、手足はあざだらけ、制服も汚れてところどころほつれ、穴が開いている。

 

「言えないのです……ごめんなさいなのですよ……」

 

ぱぁん!と頬を張られ、古手はぶるぶると震えて縮こまった。

 

「ほんとコイツうざいわ……いい加減死ねよ」

 

「死ねって、アハハ、あんたやっばい」

 

「や、やめてほしいのです……仲良くしましょうなのですよ……!」

 

「いつまでも何言ってんのコイツ?頭おかしいだろ」

 

「こっち来いよ、古手、ほらっ!」

 

6人の女子グループ……私を含む……に囲まれ、引きずられるようにまた古手はトイレに連れ込まれる。私はシュミじゃねえから、と傍観に徹している。

 

女子トイレ奥の用具室の前で何度も小突き回され、トイレ用のぞうきんを顔に押し付けられて……とうとう古手は声を上げて泣き出した。

 

「泣いてんじゃねーよ、気持ち悪ぃーな!」

 

「ふぇぇぇぇん……ひっく、ひっく……うあぁぁぁん……」

 

こいつら暇だよね……と冷めた目で見つつ、タバコを吸う。もくもくと煙を吐くと普段はクソ真面目な女子生徒が私を少し怯えたような目で一瞥する。

 

私はコワモテでにらみを利かせる役回りということなんだろうか。動物みたい。

 

単純な奴らだなと呆れつつ、タバコをふかしていると……古手のスカートをめくって遊んでいたブサイクな馬鹿女が何かを思いついた。

 

「こいつ生理じゃん、気持ち悪っ」

 

「え、マジで?うわほんとに生理じゃん」

 

「キモッ……」

 

あっという間に5人がかりで古手は脱がされ、スカートをめくられて下半身を露出させられた。白いふとももが薄暗いトイレの中でいやに輝いて見えるようだ。

 

無理矢理股を開かされ、無様な中腰になって、いやいやとお尻を振って抵抗する。

 

「やめっ、やめてなのです、いやっ、やぁん……!」

 

梨花の大事なところ……ぴっちりと閉じた割れ目から飛び出した白い紐を引っ張られ、経血が染み込んだべちゃっとした赤黒いタンポンがずるりと抜き取られた。タンポンを手にしたブサイクがクソ真面目女に向かってそれを投げつける。

 

「ひゃっ、ちょっと!やめてよー!」

 

「きったなぁーい!古手のマンコに入ってたんだから虫が感染るっしょ!」

 

「マジで汚ねぇなぁー!ばっかじゃないの!?」

 

タイルの上に落ちたそれを一人が笑いながら拾い上げ、廊下に走って行った。

 

「古手のタンポン欲しい人~~~!」

 

「おいきったねーな!持ってくんなよ女子ぃ!」

 

「やめろって!投げんな!ゴミはゴミ箱に捨てろや!」

 

「古手がゴミ箱なんだから戻してやったら?きゃはは」

 

「なんかオヤシロサマのモツみたいだよね、きっしょ」

 

「おい、片付けろよ!もうすぐ昼休み終わんだろーが!」

 

「古手に片付けさせなよ!自分のものくらい自分でやれって!」

 

何故か馬鹿が持ち出したタンポンの責任は古手にあるということになり、パンツを脱がされてスカートの裾をウエストにねじ込まれ、半分尻を出した状態で教室にまるで家畜か何かのように追い込まれ、古手は自分の手でタンポンを片付けさせられた。

 

モツだ、モツだ、綿流しだ、綿流しだ、と囃し立てられ、古手は絶望した表情でぼろぼろ涙を流しながら床にうずくまっている。

 

めくりあげられた裾から除く尻やふとももは妙になまめかしく柔らかそうで……触れてみたいような、撫でてみたいような、もやっとした異様な感覚をおぼえた。

 

こんな状況でそんなおかしな想像をした自分を、心底汚いと思った。

 

教室には、笑顔と悪意と歓声と暴力が渦巻いている……。

 

きっとここは、地獄に違いない。

 

千年の昔……雛見沢の地の底から鬼が這い出し、好き勝手に地上で暴れまわったという、ビデオで見たオヤシロサマの伝説が……今ここに再現されているように思えた。

 

鬼は人に混じり、人として生活した。人は人を鬼であると疑い、疑心暗鬼となって罪を犯し、その罪を押し付け合って……やがて人と人で殺し合ったという。

 

掲示板の"お告げ"というかたちで誰かが誰かに罪と言うジョーカーを押し付ける。そのジョーカーを受け取りたくない誰かが"タタリ"という罰を実行し……また、見て見ぬふりをする。

 

……ここは、オヤシロサマの伝承にある通りの、鬼の世だ……。

 

それは、特別なことではない。

 

受験や就職……人を蹴落とし、負け組にならないよう、互いに相争う。しかし確実に誰かは敗北し、自己責任の名のもとにいわれなき罰を受けることになる……。

 

私たちが嫌う、ジョーカーを醜く押し付け合って、勝ち負けを決めては見下して足蹴にする大人たちの汚い社会といったい何が違うというのだろう?

 

それを強制されるのが嫌で、私たちは逃避し、反発しているんじゃなかったのか。

 

古手は尻を手で押さえて隠しながら、助けを求めるように教室を見回している。

その揺れる視線が、私をはっきりととらえた。古手は縋るような目で私を見た。

 

今この衆人環視の中で真っ向から反対の意を示せば……どうなるかは想像がつく。

放課後を待たず、私もあそこに這いつくばって尻を晒すことになるだけだろう。

 

どうしてこんなところに迷い込んでしまったのだろう?

 

どこで、誰が、何を間違ったんだろう?

 

古手はいったい何の罰を受けているの?

 

それを止められない私の罪は誰が裁く?

 

私が何も行動しないことを確認すると、古手は抵抗を諦めた。

いつまでもケツ出してんじゃねーよヤリマンと尻を蹴られ、顔面から床に転ぶ。

 

やがて授業のため教室に来た厳しそうな中年の男性教諭は、半裸でボロボロの古手を見ても興味を示さず、まるで何事もなかったかのように授業を始めてしまった。

 

こんな大人でさえ集団の不興を買って、オモチャにされることを恐れているのだ。

 

古手は白い尻に上履きの靴底模様の赤い痕をつけたまま、教室の隅にうずくまって震えながらすすり泣いていた。誰も気にも留めない。

 

……それは、異様な光景だった。

 

古手なんてどうでもいいはずなのに、どうしても目が離せなかった。

また目が合い、少しだけ……古手が卑屈に微笑んだ。息が苦しい。

 

その微笑みは……「気にしなくていいのですよ、沙都子」という意味だと分かる。

 

 

 

汗で張り付く、セーラー服。

 

 

ワックスが傷ついて汚れたリノリウムの床。

 

 

教室の後ろの、鉛筆削りの木と黒鉛の匂い。

 

 

破れて中身が覗く黒板消し。ニスが削れた机の色。

 

 

椅子を引く音、ページをめくる音。時計が秒針を刻む音。

 

 

 

世界を構成するすべてが迫ってくるような圧迫感で、まともに息もできない。

 

 

もう何をどうやっても、古手へのいじめに付き合う気にはなれなかった。

 

放課後まで私は、机に突っ伏して……寝たふりをして過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TIPS『昭和60年7月12日「適正指導に当たっての留意事項について(通達)」』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               昭和60年7月12日

                              教学指ハ8-4第37号

 

興宮中学校教員各位

                              鹿骨市教育委員会

                              教育長 XXXX

                              (公 印 省 略)

 

 

 

        適正指導に当たっての留意事項について(通達)

 

 

梅雨明け十日の晴天が続いています。皆様にはご健勝にてご活躍のこととお喜び申し

上げます。

 

さて、興宮中学校の教員の皆様におかれましてはすでにご承知かと思いますが、7月

はじめから問題となっております「オヤシロサマのタタリ」の影響で多発しているい

やがらせや校内暴力について、保護者の皆様から心配や不安の声が届いております。

 

本来は守られるべき学校現場において、このような事態が続いていることは当事者の

みならず、子どもにかかわるすべての市民が憂慮して然るべき事柄です。

 

今回、鹿骨市長を通じて、市長懇親会メンバーであり市政モニター会員の園崎顧問か

ら、興宮中学校の生徒指導に関しまして、非常に強い要望がありました。

 

黒板や掲示板の管理の徹底、生徒への指導の徹底、特に雛見沢出身生徒へのいやがら

せや校内暴力については可及的速やかに終息させるようにとのことです。

 

加えて、貴校に在籍している2年生徒、古手梨花へのいやがらせや校内暴力被害が一

切発生しないよう、特別、特例の配慮を行うように、くれぐれもお願い致します。

 

判断を誤れば、貴校のみならず市政と雛見沢連合町会のあいだに深い禍根を残すこと

にもなりかねませんことを、ご理解ご協力のほど重ねてお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

                              鹿骨市教育委員会

                              学校教育課指導係

                               担当 XXXX

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

放課後、熱い日差しの下、くわえタバコで帰り道を歩く。

 

興宮と平坂の境界にある交差点で、大きな紙袋を抱えた鉄ちゃんに会った。

派手な赤色のアロハシャツに綿パン、金ネクでほとんどチンピラそのものだ。

 

「鉄ちゃん、ま~たパチンコして来たの~?たまには私も連れてってよ」

 

「おー沙都子、大勝ち中の大勝ちよ!店でお魎さんと会ってのう、ふたり揃ってジャンジャンバリバリ吐き出させてやったっちゅうんじゃい!わしらは最強じゃんね」

 

「あはは、ばっちゃもパチンコ好きだよねぇ!そのおっきな紙袋、景品?」

 

「沙都子、お菓子とか好きやろ?食わんね?」

 

紙袋の中身を見せてくれる鉄ちゃん。

 

コーンフレークをチョコで固めたドーナツみたいな二個入りのお菓子や、大きな板チョコがたくさん、カラフルな糖衣のビスケット、砂糖をまぶした寒天ゼリー、チョークみたいなバナナフローレットに、缶入りのポテトチップスやミックスナッツ。

 

「う~ん、私はタバコのほうがいいかな……」

 

「こんダラズがぁ。タバコはもうやめぇって言われとるん。菓子にしときんね」

 

「わかったわかった、じゃ、これ貰うね」

 

タバコを投げ捨てて踏み消し、紙袋から大きな板チョコを何枚か抜き取ってスカートのポケットに入れる。一枚だけ包み紙を開けてかじりつく。それはべっとりと甘く、憂鬱な気分は晴れるどころか更に深まった。

 

一緒に団地に向かって歩きながら、暗い顔をしていると鉄ちゃんが言った。

 

「……沙都子ぉ、なんぞ悩みでもあるんかいね?」

 

「……わかっちゃう?」

 

「すったらん、暗ぁーい顔して……せっかくのべっぴんさんが台無しなん」

 

「べっぴんさんって……大袈裟なんだから、鉄ちゃんったら」

 

「どあほう。沙都子よか可愛らしい女の子はこの世におらんっちゅうんじゃ」

 

鉄ちゃんは、わけのわからないことを言ってうんうんとしみじみ頷いている。

どっちかっていうと、ガサツで可愛くない部類だと思うんだけどね。

 

「なぁ、沙都子……兄貴のこと、本当の親父とは違うと思っとるんかもしれん。でもなぁ、血が繋がっとらんちゅうたかて、わしらは本物の家族やんね」

 

「くすくす……そうだね、私たち家族だよね……ふふふっ」

 

赤い顔で私に言い聞かせるように語る鉄ちゃんが何だかおかしくて、笑った。

笑われてちょっと拗ねた顔の鉄ちゃんに、私は何でもないように言う。

 

「鉄ちゃん、"オヤシロサマのお告げ"って知ってる?」

 

鉄ちゃんは少しだけ難しい顔をした。何かまったく他のことを連想して、その話じゃないんだと思い直したように表情を変えて、答えた。

 

「おぉ、テレビで言うとったやつかいね。ガキん間で流行っとるっちゅうて」

 

「あれってどうやったら止まると思う?」

 

鉄ちゃんは真顔で即答した。

 

「あんなもん、すぐ収まるん」

 

「どうしてそんなことわかるの?」

 

意外な答えだった。

それは難しい話やんね、と言葉を濁すと思っていたから。

 

「喧嘩ぁ売るときはのぅ、相手見て売れえ、っちゅうごっちゃん。よりにもよっていっちゃんおっそろしい相手の顔に泥塗りよったんじゃ……ただでは済まんわぁ」

 

「なんで、どうして……?何の話?」

 

「沙都子、お前はほんに根はええ子なんね。すったらもん、手ェ出しとらんやろうが……絶対にあんなもん貼り出したらいけんかんね。数え歌も忘れェ。」

 

「う、うん……あんなつまんないことするくらいなら、寝てたほうがマシだしさ」

 

「山やら畑やら持っとったもんと差がつくんは当たり前なんね。妬んで御三家がどうのダムは間違いやっただの……終わってから今更何言うてん、つまらんわぁ」

 

いつになく真剣な目で語る鉄ちゃんのマジな口調に緊張する。

きっと本当なんだろう。鉄ちゃん、私にはあんまり嘘つかないから。

 

大人には大人にしか分からない事情があるんだろうと思った。

ダムがどうとかは大人の世界の話で、子供はほとんど何も知らない。

 

おうちが綺麗になって、暮らし向きが良くなった、分かるのはそれくらいだ。

 

相手って、あの最初の落書きに……魅音姉ェん家の名前が出てたことだろうか。

確かに冗談でも園崎本家に喧嘩売るなんて、正気の沙汰じゃないとは思う……。

 

……でも本当にすぐに収まるのだとしても……間に合わないんじゃないだろうか。

すぐっていつ?明日?明後日?来週?来月の話?きっと聞いても分からないだろう。

 

古手は……あの様子じゃいつ壊れてもおかしくないんじゃないか。

暴力が行き過ぎて、最悪……死んでしまうこともあるかもしれない。

 

……今すぐにでもやめさせなければ、間に合わないんだ。

 

「ねぇ、鉄ちゃん……もし、誰かがさ……金目のものを持ってるって思われてて……それが原因で追い掛け回されてひどい目に遭ってたら……どうすればいいと思う?」

 

鉄ちゃんはしばらく首を傾げて考えて……言った。

 

「そら、パチンコ当てたっちゅうのを玉枝に知られたときに使う手ぇしかないん……相手に財布ん中ぁ見せてやっての、わしは貧乏ったれじゃと教えてやるんね……もし本当に持っとるんなら話は簡単なん。それを渡してもうたらええんよ」

 

そうか、古手が本当にオヤシロサマの秘宝ってやつを持ってるならアイツから奪い取って人目につくところで見せびらかしてやればいいんだ。最終的には、教師にでも取り上げられればそれで話は済むだろう。

 

もし古手が持っていない、単なるいつもの妄想だったっていうんなら……私が脅して一日中、平坂の山ん中を引きずり回してやったけど見つからなかった、アイツは嘘つきのアホチビだったって知らしめてやれば一応解決するんじゃないか。

 

「うん、そうだね……それしかないか……ありがと、鉄ちゃん!」

 

古手は多分、下校を許されずまだいたぶられているに違いない。

私は鉄ちゃんに手を振って、学校へ向かって走り出す。

 

「おう、気ぃつけてんなぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すっかりバカどもに占領された私の喫煙スポットである3階端の女子トイレ。

近づくと、やはり中から複数の笑い声が聞こえてきた。

 

「私も暇だけど、ほんっと暇人だよね……こいつらもさ……」

 

どん、とトイレの戸を蹴り開けると、驚いた女子がこっちを見て、顔を確認するとまた古手いじりに戻った。いつものいじめメンバーが揃って古手を囲んでいるようだ。

 

古手の姿が見えない。一番奥の洋式便所に押し込まれているのだろうか?

嘲笑する声に混じって、何だか苦しそうな声が聞こえる。

 

「んっ、うっ……あぁっ……」

 

「えー、遅かったじゃん!ねぇ、北条も見てよコイツ、ぶっ、あははは!」

 

誘われるままに覗き込む。

 

「ちょっ、どんだけそこ弄ってんだよ、キッモ」

 

「めちゃくちゃ濡れてんじゃん、きったないなぁー」

 

古手が下着とスカートを脱がされ、大きく股を開いて……ピンク色の性器を広げて自分自身の指で刺激していた。とろとろと粘り気のある液体を溢れさせながら、音を立てて生々しい手つきで一点をねちっこく弄り続けている……。

 

「あぁ、はぁっ、んっ……んぅっ……」

 

なんだこれ、なんでこんなこと。

 

「あ、もうイくんじゃない?気持ち悪い、マジで死ねばいいのに」

 

「はやくイけって、イくまで終わんないよ?また便器の水飲みたい?」

 

……気が付くと、目の前にある頭に全力で蹴りを入れていた。

ばぁん!と開かれていた個室の戸板に激突し、跳ね返って床に転がる。

 

「ちょっと!何すんのよ北条!?」

 

食って掛かってきたブスは便器の水がどうとか言ってたっけ。

 

「便器の水が飲みたいんでしょ?飲ませてあげる。礼はいいからさ」

 

セーラー服の襟と髪の毛を一緒に掴んで、引きずっていく。

そのまま隣の和式便器に頭から突っ込み、銀色のレバーを踏んで水を流してやる。

ばたばたと暴れて鬱陶しいので、何度か勢いよく頭を踏みつけてやった。

 

もう一度水を流してやろうと頭から足を離したら、すごい勢いで横に転がってげほげほと咳き込み始めた。リアクション激しくて面白い子だなー。

 

「げほっ、げぼっ……北条ッ!あんた、お告げに名前書かれてもいいわけ!?」

 

「ボゲがぁ!タタリでも何でんやってみい!毎日便所の水飲ませたるん!お前ん家に火つけたるっちゅうんじゃい!お前の親兄弟まとめてブチ殺っぞぉ!?おぉ!?」

 

腹立ちまぎれにサッカーボールみたいに顔面を蹴り飛ばしてやる。

白い陶器の水のタンクに後頭部が激突、ぐわぁん!と音がして蓋がずれた。

 

便器ちゃんは頭を押さえてうんうんうなってる。コイツ状況読めてなさすぎでしょ。

 

別に、あんたがどこに名前を書こうが構わないわよ。

私の名前が出るたびに便所の水が飲めるってだけの簡単な話。

 

他にも3人くらいいたはずなのに、頭を押さえてうずくまる馬鹿しかいない。

あいつら、もう逃げちゃったの?別に遠慮なんかしなくたっていいのに。

 

大袈裟な痛がり方をしている馬鹿が妙にいらついたのでもう一回真正面から軽く勢いをつけて頭にヤクザキックを入れてやる。

 

どぉん!と背中からコンクリの壁に叩きつけられて、また大袈裟に痛がりはじめた。唾を吐きかけて、もう一発蹴りを入れる。

 

「何じゃいねおどれはぁ!なぁに、いつまでん痛がっとるん!?まるで私が悪いみたいやんね!?こんダラズがぁあッ!ぶちまけられてえかああぁああぁッ!!!」

 

な~んかスッキリしちゃった。最近、古手をいじめてないからストレス溜まってたのかも。よく考えたら何で私だけ我慢しなきゃいけないわけ?腹が立つのよ。

 

せっかく誰が誰にやってもいいルールになったんだから、早くやればよかったな。

 

どいつもこいつもお告げだのタタリだの言い訳ばっかりしちゃって、人間を殴ったり蹴ったりして遊ぶのにいちいち理由なんかいらないのよ、間抜けども。

 

「古手、大丈夫?」

 

お友達と遊んでひと段落ついたので、洋式の個室を覗き込んで声を掛けた。

古手はもう下着やスカートを身に着けており、何だか顔を真っ赤にして座っている。

 

「み、見たのですか……?」

 

「さあ?私あんまり目よくないから、よくわかんないわよ。未だにスーパーでブロッコリーとカリフラワー間違えるしね。どっちも嫌いだからどうでもいいけど」

 

「みぃーっ……」

 

こちらへ近づいてくる足音、あいつら戻って来たの?

振り向こうとした次の瞬間、いきなり首根っこを掴まれて顔を殴られた。

 

目の前がちかちかして顔が割れたみたいにずきずきする。

鼻がつーんとして、むっと鉄臭い嗅ぎなれた血の匂い。

 

頭がぐらぐらして、思わず膝がかくんと落ち、しゃがみこんでしまう。

 

「沙都子ッ!」

 

「うるぁぁ!なンやっとんでぁあいンじゃぬぇどぉぉおらぁっ!!」

 

見えるのは学ランのズボン、聞こえるのは男の声。

あいつら、彼氏か何かわざわざ呼んできたってわけ?

 

しゃがんだ私を、軽く中腰になって怒鳴り付けようとする男子生徒。

立ち上がりながらあごをめがけて思いっきり掌底を叩きこんでやる。

 

がごきっ!と嫌な音がして、馬鹿はあごに手を当ててうめいている。

これがいっちばん痛いんだって、前に魅音姉ェに教わったんだよね。

 

苛立ちのままに足の甲を思い切り踏み抜いてやった。

よほど痛かったのか、ひどい声を上げてバランスを崩した。

 

そのまま蹴り倒して転がし、個室の戸板で挟むように何度も何度も何度も何度も何度も何度も勢いよく蹴って閉め、両手で跳ね飛ばしてめちゃくちゃに叩きつける。

 

疲れて、息が上がって、私の気が済むまで繰り返す。

 

蝶番が半分外れ、戸板がひび割れて白い塗装の下から茶色い木目が見える。

もう一回助走をつけて踏みつけるように蹴ると、戸板が外れて音を立てて倒れた。

 

相手は半ば和式便器に頭を突っ込むように倒れて、ただうめいている。

まあ、男の子って頑丈に出来てるし、これっくらいなら平気でしょう?

 

「はぁ、はぁ、はぁっ……あらぁ、ごめんね、舌かんじゃった?」

 

「うぅぐうぅぁあぁぁ……!」

 

「私さぁ、何人もいた"内縁のお父さん"ってのにちっさい頃からボッコボコに殴られ慣れてるから、これくらいどうってことないのよ」

 

口を押さえて倒れたままうなり声をあげている。返事はない。

 

「ケンカんなったら相手が続けたくなくなるまでやれって叔父さんに教わらなかったの?……あぁそうそう、オヤシロサマで仕返しがしたいならご自由にどうぞ?」

 

がら空きの股間につま先を叩き込み、血の混じった唾を吐いてやった。

 

「村ん仲間ぁ何十人でん集めて、お前ん家族、必ず殺っちゃるんでぇのぉ!なぁにがお告げじゃ!タタリじゃ!あんじょうすったらん!ほんますらっしゃたったらん!」

 

売女どもの手駒がこいつひとりってわけじゃないだろう。

古手を守って戦うのは無理だ。さっさとこの場を離れたほうがいい。

 

私の後ろでぼーっと立ってる古手の腕を掴む。

忘れてたけど、こいつを拾いに来たんだった。

 

「ほら、行くよ!」

 

「わ、わ、わぁ、沙都子っ……ど、どこへ行くのです?」

 

状況が読めてないアホチビの腕をとっ捕まえる。本当にとろいわね。

女子トイレで寝てる変態をぴょんっと跨いで、トイレを飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ日は高く、十分に秘宝とやらを探す時間はあるようだ。

古手を連れて平坂に戻って来た私は、掘り返すための道具を探していた。

 

お父さんのシャベルなんて勝手に持ち出したらどれくらい叱られるやら。

鉄ちゃんは貸してくれるかな、ついて来ると面倒だけど、と考える。

 

「ちょうどいいわね、借りて行こうっと」

 

団地の花壇の傍にあったシャベルを引っ掴んで、古手についてくるよう促す。

古手は困惑しながら、ちょこちょこと小走りで寄ってくる。

 

「助けてくれてありがとうなのですよ、沙都子」

 

「あんた、オヤシロサマの秘宝だっけ?どこに埋めたの?」

 

「……沙都子、鼻血が出てるのですよ」

 

言われて触れると、べっとりと生乾きの血がついていた。

さっき殴られて出た血が、今ごろ落ちてきたのだろうか。

 

可愛らしい花柄のティッシュケースから引っ張り出したピンク色のティッシュで私の鼻を拭く古手。ティッシュからバニラとかイチゴみたいな匂いがする。

 

自分と違って使う小物もずいぶん女の子らしいんだな、と思った。

 

「そんなのどうでもいいから、どこに埋めたのよ?」

 

悲しそうな顔できゅっと口を閉じる古手。

絶対に言わないのですっ、と言わんばかりだ。

 

「平坂の林のどこの社?急いでるんだけどな、私」

 

「……………………言いたくないのです」

 

私は古手の手を、手の甲の側から四本の指を軽く握り、第一関節だけに負担がかかるように掴んで、ぐぐっと力を入れる。

 

「いぎゃっ、いだ、いだいのです、いだい、いだい!いだいいぃっ!」

 

ぎゅーっと握り込んで指の関節を極めてやると、予想外の痛みに古手が暴れ始めた。

お母さんの何番目だったかの彼氏に、いやというほど痛みを思い知らされた技だ。

 

大して怪我もしないし目立つ腫れも残らないので使い勝手がいい。

数分続けてやれば、女の子なら漏らして這いつくばるだろう。

 

「どこ?」

 

「いぎぃぃっ、はなっ、はなじでっ……!んぎゅううぅぅぅっ!!!」

 

古手の指が使い物にならなくなっても困るので、適当なところで放してやる。

はぁ、はぁ、と息をしながら、指をさすってうずくまってしまった。

 

「ほら、もう片方もやってあげようか?関節外れても知らないわよ」

 

俯き震えながら、古手は震える声で言った。

 

「どうして親友なのにいつも痛くするのですか?僕のこと、嫌いなのですか?」

 

助けに来てくれたんだって思ったのに……、と小さくつぶやく。

うっとうしいやつ。いちいちごちゃごちゃうるさいのよ。

 

「三番目くらいのお父さんだったかな……あんまり私のこと殴るんで、聞いてみたんだけど……『好きだから殴ってやってる』んだってさ……あはは」

 

「そんなの、おかしいのですよ……」

 

「かもね。今のお父さんも叔父さんも一回も私に手上げたことないもん……あんたのこと見ると胸がむかむかして……イライラすんのよ」

 

古手は溜息をついて、歩き始めた。

ようやく案内する気になったのだろう。

 

「沙都子、どうしても僕が埋めたものが見たいのですか?知っているのですか?」

 

古手は悲しそうな、探るような目つきで私を見ている。

知っている?何が?秘宝を持ってるってことを?そりゃそうでしょ。

 

「何が埋まってるかなんて知らないわよ。あんたは埋めた場所に案内すればいいの」

 

「でも、ボクはいやなのですよ……」

 

「あんたがどうしたいかは聞いてないの!さっさと連れて行きなさいよ!」

 

ふいに立ち止まった古手の背中をシャベルの柄で突く。

 

「んぐっ、痛いのです、痛いの、しないで欲しいのです……」

 

びくびくと怯えて涙声で呟きながら、早足で古手は歩き始めた。

私だって別にこんなことやりたくてやってるわけじゃないのに……。

 

ひやりと湿った風が吹き、どんよりと空が真っ黒に曇り始めた。

ごうごうと風が音を立て、前を歩く古手のセーラー服の襟や髪をはためかせる。

 

何にせよ、こんなことはもう終わらせなければならない……。

 

オヤシロサマの秘宝に、興味がないわけじゃない。

純粋に何が埋まっているか、知りたいとは思っている。

 

でも、何が出て来るにせよ……ただでは済まないかもしれない、と思う。

いじめグループをボコボコにしたせいで既に当初の計画は破綻してしまった。

 

私が短気を起こして、古手梨花を助けて周囲に暴行を加えたことで、もう既に彼女らのあいだで私は脳みその虫でゾンビになったと囁かれていても不思議ではない。

 

私が秘宝をどう扱おうが、古手へのいじめは止めることができないかもしれない。

 

だが、あいつらがまだ古手を辱めるというのなら私が相手になってやるだけだ。

誰が誰を祟ろうが構わないのなら、私がこの手でいくらでも思い知らせてやる。

 

なんなら鉄ちゃんにお願いして、相手を脅しつけてもらうことだって私にはできる。

 

相手が数を頼むなら、分校の同窓の連中なら私がひと声かければ武器を持って集まってくれるはずだ。魅音姉ェがいないのはちょっとばかし痛いけれど。

 

実際、興宮の連中にやられた村の子のために、相手の家に集団で踏み込んで木刀で寝込みを襲い、頭からドバドバ血が出るまでタコ殴りにしてやったこともあったっけ。

 

それでもまだやるってんなら……気は進まないが、園崎本家のばっちゃに泣きついたっていい。ばっちゃにはすごい力があるんだって魅音姉ェが言ってた。

 

一人の敵は全員の敵。そういう言葉が雛見沢にはあるんだってばっちゃから聞いたことがある。雛見沢の子はみんなばっちゃの子と同じなんだって……。

 

でもそれは、本当に何の手立てもなくなった場合の最後の最後の手段だ。

ばっちゃが本気で怒ったら、それこそ死人が出るまで収まらないだろう。

 

アスファルトで舗装された坂道から外れ、砂利道に入った。

ぽつぽつと雨が私の頬を叩く。こんな時に限って降ってくる……。

 

時折、古手がちらちらと振り返って、涙目で私の顔色を窺っている。

さっきの私の暴力が、よっぽど痛くて怖かったのかもしれない……。

 

「……沙都子、やっぱりいやなのです……もう帰りましょうなのです……」

 

「あっそ、別にいいよ?明日からあんたと一切口利かないから。それでもいい?」

 

古手は、真っ青になって、それからボロボロと涙をこぼして泣き出した。

やがて観念したのか……前を向いてよろよろと雨の砂利道を歩き始めた。

 

「羽入……はにゅぅー……沙都子が、沙都子がこわいのです……」

 

古手はまた、居もしない神様と喋り始めた。

何もない空間に向かってブツブツと語り掛けるさまは哀れだ。

 

「うんうん、そうなのです。羽入が沙都子にこらっ!優しくしてあげてなのですよ!って叱ってあげて欲しいのです……ぐすっ……ひっく……羽入、羽入……」

 

たまに本当に何かと話しているのではないかと思う人もいるらしい。

 

でも私はあれが古手の嘘、妄想なのだと知っている。

あの羽入とやらは古手にとって都合の良い話しかしないからだ。

 

本当にあいつを想う神様がいるというのなら、秘宝を隠せと指示するはずがない。

むしろ私と同じように差し出すか、秘宝が存在しないことを周知しろと言うだろう。

 

……人権センターの、常設展示のパネルに書かれていた伝説を思い出す。

 

その昔、鬼ヶ淵に降臨したというオヤシロサマは超常の力や神通力を持たず、地上に溢れた鬼に対し、人と話し合って仲良く共存するように勧めたといわれている。

 

しかし鬼も人も、人同士でさえ分かり合うことなどできず……。

 

争いの絶えぬ醜い地上に絶望し、自身の無力さに嘆き悲しんだオヤシロサマは、自ら鬼ヶ淵に身を投げて命を絶って、神となった……という話だ。

 

そして……この平坂に伝わる最も古い口伝によれば……オヤシロサマとは死と恐怖の祟り神などではなく、家庭円満や良縁を司る人と人との結びの神だという。

 

それが、祟りで人を脅し、人と人を争わせるなんて全くの真逆じゃないか……。

 

どうしてこうなってしまったのだろう、どうして人は争わずにいられないのだろう、どうして人はこんなにも弱いんだろう、どうして私はこんなにも醜いのだろう……。

 

相手を助けるために、これほど傷つけなくてはならないなんて……。

 

もし神様が、オヤシロサマとやらが本当にいるのなら……今すぐここに降り立って、獣の論理で争い暴れ続ける鬼たちをみんな殺してしまえばいい!

 

ビッグバンでも何でも起こして、イジメもタタリも私と古手のあいだのしがらみも、何もかもすべて取り払って、人と人とを結んでみせろ……!

 

どうせ居もしないくせに、偉そうに我が物顔で鹿骨に居座るんじゃない!

沈んだ村に帰って、ずっと眠っていろ!二度と現れるな!消えてしまえ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雛見沢に近づくにつれブナの原生林は密度を増し、とうとう本降りになってしまった雨を、覆い茂る枝葉がいくらか遮ってくれている。

 

森の中には戦前どころかそれ以前のものと思しき廃墟が点在する。屋根は崩れ土壁は脆く竹を組んだ骨組みを晒し、とても長い間誰も住んでいないことを伺わせた。

 

現在は平坂と呼ばれるこの地域だが、昔は雛見沢の入り口に当たるこのあたりは比良境と呼ばれていたらしい。人権センターの常設展示によれば、江戸時代以前の雛見沢、鬼ヶ淵の人々は鬼の血を引く仙人として敬われていたというのだ。

 

鬼ヶ淵は禁足地とされ、近づけば仙人に捕まって食べられてしまうとされていた。そのため俗世から離れて穢れを断った老人たちだけが住み、オヤシロサマではなく雛見沢の仙人たちを崇拝し、年に何度か麓から運び込まれた貢物を捧げたという。

 

そのお返しに神酒で万病を癒したとか長寿をもたらしたとか嘘くさい都合の良い伝説が色々と書かれていたが……間違いない。昔の雛見沢の人々は、周辺に住む人々から仙人や鬼の名前を使って食料や金品を脅し取っていたのだろう。

 

明治時代から始まった差別というのも、案外小難しい風土病なんかよりもその長年のカツアゲの恨みによるところが大きかったのではないだろうか……。

 

平らな石盤や石で組まれた奇怪な小型の祭壇のようなものが林の中にぽつん、ぽつんと見えはじめる。荒涼としたそのつくりからは、神聖さは微塵も感じられない。

 

仙人信仰における年に何度かの大規模な貢物とは別に、雛見沢から少し離れた手前の領域には、周辺住民の民間信仰として細かな個人的な貢物の奉納が行われていたとされる。これはその貢物を置いた社と呼ばれる構造物らしい。

 

大小合わせて100以上がこの比良境の山林に点在していることが分かっている。平坂磐境と呼ばれる雛見沢と平坂の境界を示す列石と合わせて、『平坂の組石と列石群』として鹿骨市の重要指定文化財として登録されている。

 

……逆に言えば、雛見沢がダムに沈んだ今、それくらいしかこのあたりには地図上に名前の付いた目立った観光スポットなどないということなのだが。

 

この社のどれかに、オヤシロサマの秘宝が埋められているという噂だった。

 

古手は獣道と化したブナの樹々の間を迷うことなくすり抜け、目的地へと向かって歩いていく。その様子から、幾度となく通った道なのだろうと分かる。

 

やがて、古手は崩れた石組みの前で立ち止まった。

俯いたままこちらを振り向こうともせず、雨に打たれている。

 

「古手……ここに埋まってるの?」

 

古手は答えない。

 

その社は完全に崩れており、石盤の上に組まれた屋根部分が崩落している。

石材の大きさから、おそらく大きめの犬小屋程度の大きさだったのだろうか。

 

一度崩落した石材をいくらか動かした跡があり、すぐそばにいくらかの石材が墓石のように不気味に積みあげられていた。

 

この下だろうとあたりをつけ、石を足でどかして掘り始める。

シャベルを突き刺した瞬間、古手が私にしがみついた。

 

「やっぱり掘らないであげてほしいのです……!」

 

「……そういうわけには、いかないのよ」

 

私は無視して掘り進める。

古手は私の腰に手を回し、震えながら鬱陶しくすすり泣く。

 

それほど深くもない浅いところで、シャベルが何かにぶつかった。

慎重に周囲を掘り下げて、何が埋まっているのか確認すると……。

 

「……何よ、これ……」

 

ボロボロに腐った毛皮と、白骨化して歯をむき出しにした何らかの小動物の骨だ。

骨はところどころへし折れ、頭蓋骨の一部は完全に砕けているようだ。

 

ぴたりと震えが止まり、すすり泣いていた古手が私から身体を離した。

 

「古手……?」

 

古手はその白骨死体の前に跪いて、謝り始めた。

 

「ごめんなさいなのです、にゃーにゃーさん、ごめんなさいなのです……」

 

「古手、どうしたの」

 

顔面を蒼白にして、古手は観念したように話し始めた。

 

何年も前、小学生だった私たちが雛見沢を立ち退いて平坂に引っ越してすぐの頃。

興宮の小学校には馴染めず、雛見沢の子供には無視され、古手は孤独だった。

両親は遷宮で移転したばかりの神社の仕事にかかりっきりだったという。

 

古手の遊び相手はこの……ちっぽけな野良猫一匹だけだった。

 

にゃーにゃーさんと名付けられたこの猫は……古手と追いかけっこをしたり、じゃれあったり、ひとりぼっちの古手にぬくもりを与えてくれた。

 

ある日、かくれんぼをしていたとき……木の根に足を取られて転倒した古手が猫が隠れていた社に衝突し、社が崩れて……猫は生き埋めになって血まみれで死んだ。

 

古手は懸命に石をどかして掘り出し、ボロボロになって死んだ猫を抱き締め、その凄惨な様子から、明らかに生きてはいないことに気づき……石や木の枝や手で必死に土を掘り、埋葬したのだという。

 

……ふと思い出す。

 

土や泥で体を汚し、血泥にまみれた手で私に近寄り、抱き着こうとした古手のこと。

あれはそう、確か……引っ越してすぐの頃だったように思う。

 

その日は朝から親にめちゃくちゃに叱られ、兄は魅音姉ェと一緒に出かけ、誰も相手にしてくれずむしゃくしゃしていた。そこに汚い古手がやってきて、抱き着こうとしてきたから……私はその泣きながら抱き着こうとする古手をどうしたんだっけ?

 

決まってる。突き飛ばして、何度も何度も蹴った。

汚い手で触るな、血まみれお化けのブス、何で寄って来るんだ、死ね。

そう言いながら、やめて、やめてと泣きむせぶ古手を何度も何度も……。

 

それでも力なく泣き笑いの表情で私に微笑みかけて、親友だから一緒にいたいのです他に理由なんてないのですって古手は泣きながら言ってたんだっけ。

 

……どうして?

 

「ねぇ、あんた……どうして私のこと、親友だなんて言えるの」

 

「……夢で、見たからなのです」

 

「茶化さないでよ。私はあんたの本当の考えを聞いてるの」

 

「茶化してなんか、ないのですよ」

 

「だって、私は……あんたを叩いたり蹴ったり、痛いことばっかりして……このにゃーにゃーが死んだ日だって、泣いてるあんたを何度も蹴って……」

 

「ボクは、沙都子が本当は優しくて素敵な子なんだって知ってるのです」

 

「それも夢で見た、って言うわけ?」

 

「沙都子、ボクは確かに……嘘や、誤魔化しばかりですけれど……これだけは本当の話なのです……夢で、この世界によく似た、異なる世界を見たのです」

 

古手はいつになく真剣な表情で私を見て、言った。

 

「その世界では、村はダムに沈まなくて……ダムに賛成だった北条家は村八分に遭って……沙都子は虐待されて……ご両親を亡くして、玉枝や鉄平にいじめられて……」

 

「……鉄ちゃんのこと、悪く言わないで……」

 

「分かってるのですよ……この世界の鉄平は良い人なのです……でも、その世界の鉄平は村八分でみんなにいじめられて……悪い子になってしまったのですよ」

 

……有り得る話かもしれない、と思った。鉄ちゃんは昔は乱暴者のワルで、働きもしないで恐喝や博打で生活していたんだって、お父さんから聞いたことがある。

 

鉄ちゃんとよく一緒に麻雀をしてる『おやっさん』って呼ばれてるおじいちゃんにいきなりぶん殴られて、お父さんとも喧嘩して、みんなと仲直りして、ばっちゃが仕事を斡旋して、家族や村のみんなが鉄ちゃんを支えて……色々なことがあって。

 

……そうやって、鉄ちゃんは今の鉄ちゃんになった。私はそう聞いてる。

 

また、虐待というのもあり得ないようでいて有り得るように思えた。

 

それまでのお父さんがみんな私をいじめるから、今のお父さんもまた私をいじめるのだろうと思って私は懐かなかった。

 

私が今のお父さんは大丈夫なのだと気づかなければ……やがてお父さんもまったく懐かない生意気な私に我慢できず私をいじめたかもしれない……。

 

「その世界では、私は……」

 

「可哀想な子だったのです……親の愛も知らず、村八分で園崎を筆頭にすべての村人にいじめられて……最後は悟史もいなくなって、ひとりぼっちで……」

 

もし村の敵としてばっちゃに嫌われていたら……とんでもないことになるだろう。

生きて息をしているだけでも奇跡だ。

 

「ボクのお父さんもお母さんも亡くなって、ひとりぼっちだったのです……それで、沙都子と一緒に神社の防災倉庫でふたりで暮らして……親友だったのです」

 

「そう、古手と私は一緒に暮らしてたっていうのね……」

 

「一緒にごはんを作って一緒に食べて、お弁当持って学校に行って、毎日いっぱい遊んで、お風呂に入って、一緒にねんこして……抱き締めた体温が暖かくて……沙都子はとってもいい子で、お世話を焼くのが好きで、素直じゃないけど優しくて……」

 

「……やめてよ、そんなの全部、あんたの妄想じゃないの……!」

 

本当の私は古手をいじめて、お金を取ったり叩いたり蹴ったり……およそ優しいとかとってもいい子だなんて形容されるような美点は何もない。

 

「妄想ではないのです!」

 

珍しく古手が語気を強めて鋭く叫んだ。

 

「古手……?」

 

「夢で見たことがもしボクの妄想だったとしても、全部嘘だったとしても、沙都子がとっても優しくていい子なのは変わらないのですよ」

 

「わけが、わからないわよ……」

 

「沙都子はお父さんとお母さんと悟史のことが大好きで、家族思いのいい子なのです。鉄平とお話するときの沙都子はとっても優しくて、お世話好きなのです。お友達がいじめられたら絶対に守るのです。相手をやっつけてしまうのです。どんなに世界が変わっても、沙都子の本当の部分は何も変わっていなかったのですよ」

 

古手は悲しそうに、かすれた涙声で付け加える。

 

「……ただ……ただ、それが……ボクの方を向いていないだけなのです」

 

「それならどうして、そこまでして……私と仲良くしたいだなんて……あんたをいじめて、痛いことや嫌なことばっかりする……嫌な子なのに……」

 

「夢かもしれない、妄想かもしれない、だけど……あんなに沙都子が可愛くて、優しくて、ふたりであったかくて……ボクは夢で見たように、ただ沙都子と仲良くしたくて……それは、そう思うことは、そんなにいけないことなのですか……」

 

私が答えに詰まり、しばらく黙っていると……古手はまた泣き始めた。

 

「にゃーにゃーさんは、きっと怒っているのです……ボクが殺してしまったのですから……きっといたいいたいで……ボクがみんなにねこさん殺しだと思われるのが怖くて……こんなところに埋めて隠して……きっと重くて痛くてつらかったのです……」

 

ぶつぶつと自責の言葉を呟き、幽霊のように雨の中座り込んで泣いている。

 

私たちが古手をいじめる前までは、古手は元気いっぱいでいたずら好きのやんちゃっ子で、根拠のない自信に満ち溢れた活動的な子供だったように思う……。

 

私が古手を傷つけて、一番仲良くしたい相手に拒絶され、暴力を受け続けて……苦痛と悲しみに苛まれ……こんなに臆病で陰気な少女に変わってしまったのだ。

 

「ボクが、ボクが殺してしまったのです……」

 

「古手……確かにそれはあんたのせいかもしれないけど、わざとじゃなかったんだから……もうごめんなさいってしたんだから、それでおしまいでいいじゃない」

 

「沙都子……」

 

「ね、もう泣かないで……。もう古手は二度と猫も人も不注意の事故で死なせたりしない。そう誓って、これからの人生を注意して生きればそれでいいのよ。だってもしそうじゃないなら、一度失敗したらもう前に進めないってことでしょ。もし過去の失敗を一生取り戻せないとしたら、人は何のために生きてるっていうのよ」

 

「ぐすっ……ふぅ、うぇぇぇぇん……」

 

古手の肩を抱き寄せて、頭を撫でてやる。

 

その髪はバサバサで、砂埃が混じっていて、受けた暴行の激しさを思わせた。

綺麗に洗って櫛を通せば、もとの清流のような髪に戻ってくれるだろうか……。

 

古手が泣き止むまで、しばらくの時間を要した。

 

それから、私はにゃーにゃーさんを丁寧に埋め直し、手を合わせた。

もうここに用はない。……私の考えはすべて間違っていた。

 

古手と一緒に、来た道を引き返す。

夏の夕立ちの森はほの暗く、でもどこか温かな感覚がした。

 

ぐるきゅう、と可愛らしい音がしたので古手を見ると、頬を赤くしている。

 

「あんた、おなかすいたの?」

 

「お弁当を捨てられてしまったので、朝から何も食べてないのです……」

 

ふと思い出してスカートのポケットを探ると、板チョコが二枚入っていた。

濡れて包装紙は脆くなっているが中身は問題なさそうだ。古手に渡してやる。

 

「これ、ふたつとも食べていいのですか?」

 

「うん、鉄ちゃんにもらったの」

 

歩きながら器用に包装紙を剥がし、ぱきぱきぱりぱりと食べ始めた。

両手で持って必死に食べる様子がげっ歯類みたいで少し可愛いなと思ってしまう。

 

あっという間に食べ終わった古手は、ちらちらと物欲しそうな目でこちらを見る。

 

「……もうないわよ」

 

「違うのです……あの、手を……繋ぎたいのです……」

 

なんだ、そんなことか……。

はあ、と溜息をついてぎゅっと手を握ってやった。

 

古手は嬉しそうに笑いながら握り返してくる。

 

「よかったのです……また頭をごっつんされるかと思ったのですよ……」

 

梨花がふにゃっとした笑顔でこちらを見ている……。

私がいじめに加わって、絶望する直前に見せた安心した笑顔が重なった。

 

「……ごめん」

 

「えっ」

 

「ごめんね……痛いことして……いっぱいいじめて……」

 

こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

雨に濡れて冷えた頬を、熱い涙が伝って落ちる。

 

「本当にごめん……痛かったよね、辛かったよね……悲しかったよね……」

 

もし、ばっちゃとか茜さんとか魅音姉ェ、鉄ちゃんや玉枝さん、私の両親に、同じように殴る蹴るでいじめられたら……たくさん痛いことをされて突き放されたら……私はこの子のように笑って好きだと言えるだろうか。

 

……きっと無理だ。

 

「私ね、あんたがトイレでひどいことされて、教室であんな、動物みたいに扱われて……止めようとしなかった……自分は関係ないって……揉め事になったら面倒だからって……それどころか一緒になって囲んで……うぅっ、えっぐ……ぐぅぅう……」

 

「沙都子……」

 

「私のどこが優しいのよ……。あんたは私を家族思いだっていうけれど、そんなことない。説教されて腹が立ったからってお母さんが作ってくれた食事をひっくり返してお父さんに投げつけたり、むしゃくしゃして近所の窓ガラス叩き割って回ったり、お菓子を万引きして警察に連れていかれたことだってあるんだもん……!」

 

「沙都子!」

 

「兄貴のことだって今は大っ嫌い!ヘラヘラ笑いながら何でも完璧にこなして見せちゃって、なんにもできない私を馬鹿にして……私から魅音姉ェも奪っていった!誰も私なんか気にしてくれない!どこにも居場所なんかない!友達思い?必ず助ける?はっ、そんなわけないじゃない。人を殴る理由になるからよ。むしゃくしゃするから誰でもいいから殴ってやりたいってだけなの!」

 

「沙都子ッ!!」

 

「何よ!嫌いなさいよっ!こんなどうしようもない私なんか、あんたみたいな真面目で可愛くて、優しい子に好かれる価値なんてないんだからっ!」

 

「いやなのです!ボクは沙都子が大好きなのです!本当に沙都子が悪い子だったらどうしてそんな風に謝ったり泣いたりするのですか!?それが沙都子がいい子だっていう証拠なのですよ!沙都子はいい子なのです!どうしてそれが分からないのです!」

 

古手に突然抱きすくめられる。鼻先や頬に古手の濡れた髪が触れる。

濡れた制服が少し遅れて体温を伝えてくる。甘い女の子の匂いがする。

 

「沙都子は僕を助けてくれたのです……お顔を殴られて……血を流してまでボクを……それが沙都子の本当なのです……沙都子はいい子なのですよ……」

 

「私、古手を助けられなかった。あんなになるまで何もしなかった。本当はもっと早く助けたかったの……でも怖かったの……人と違うことをするのが怖かった。人と違うことをして目立って、標的にされるのが怖かった!」

 

「誰でもそうなのですよ。そんなの沙都子だけじゃないのです!それでも沙都子はボクを助けに来てくれたのです!」

 

「手は出してないとか、ごちゃごちゃ言い訳しながら一緒になってあんたを囲んで作り笑いをして……私が弱いから……あんたをいじめたのも私が弱かったから……可愛いあんたをいじめたいって気持ちを我慢できなかった!」

 

「ボクはわかってましたのです。沙都子は本当は優しい子なんだってこと。いじめられている僕を見る沙都子は、ずっと辛そうなお顔をしてましたのですよ……優しい気持ちはちゃんと僕に伝わってたのです。掘り返しに来たのも、僕がもう狙われないようにしたいって思ってしてくれたのですよね?ぜんぶぜんぶ伝わってるのです」

 

古手の背中に腕を回して、抱き締める。薄い肉と皮の下に、細いあばら骨が触れる。

すぐに壊れてしまいそう。どうしてこんなか弱いものを殴ったり蹴ったり、ものすごく痛むように強く突いたりできたんだろう……。

 

……これは、私が、すべてを懸けてでも、守らなければいけないものだった。

 

「ごめんね……もう絶対にいじめないから……痛いこともこわいこともしないから……お金もちゃんと返すから……ぐすっ……ごめんなさい……古手……」

 

「沙都子、お名前で呼んで欲しいのです……」

 

「り、梨花ぁ……ごめんなさい……私ぃ……」

 

「全部許してあげるのです。……でも、これからはボクにいっぱいやさしくしてほしいのですよ。仲良し同士ですること、ぜーんぶしたいのです……」

 

梨花は、私の耳元でそうささやいた。

 

「わかった、梨花の言うとおりにする……梨花に優しくしてあげるね……」

 

「沙都子がようやくボクの方を見てくれたのです……すっごくすっごくうれしいのですよ……にぱ~☆」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、またね」

 

雨はやみ、茜色に染まった曇り空。

古手神社の石段の前で別れを告げる。

 

「あ、それと……明日学校来んじゃないわよ?分かってるとは思うけど」

 

私は逃げたと思われたら腹が立つから、必ず行くけどね。

 

「……だから、その手を離しなさいよ」

 

「いやなのです。まだ親友の沙都子と一緒にいたいのです」

 

私のセーラー服の裾をぎゅーっと握ったまま梨花が離さない。

……なんなんだよ、こいつは……ものすごく恥ずかしい。

 

「あんたの家は、そこでしょ!」

 

「でも、ボクは親友の沙都子と一緒に……」

 

「親友、親友、って往来の真ん中で恥ずかしいのよ!頭おかしいんじゃない!?」

 

馬鹿チビは人の服を掴んでくっついたまま、にへら~、とだらしなく笑う。

通りがかる近所の人たちがまるで何か微笑ましいものでも見るような目で見てくる。

 

「はぁ、仕方ないわね……わかったわよ……」

 

「みぃっ♪」

 

もう雨はやんでいるし、寒くもないけれどこいつに風邪を引かれると困る。早めに着替えさせなければ。……そうなると鉄ちゃん家には着替えはないし、やっぱり自宅に連れて行くしかなくなってしまう。

 

早足で歩く。梨花は嬉しそうにぱたぱたと小走りでついてくる。

数分も歩けば団地の敷地内だ。シャベルを森に忘れてきたことに気づく。

 

ふと梨花を見ると、青あざだらけで髪はぼさぼさのびしょぬれで制服も泥だらけのよれよれでひどいことになっている。こんな状況を両親に見られたらどうなるか。

 

「ねぇ、古手……」

 

「り、か」

 

間髪入れずに訂正してくる。

めんどくさいなぁ、もうっ。

 

「梨花、そのボロキレみたいな恰好、私がボコったりシメたりしたんじゃないってちゃんと親に説明してよ?勘違いされたら、私が窓から放り出されちゃうんだから」

 

「わかったのですよ!沙都子に助けてもらったって言うのです!」

 

「ちょっと、それもだめだったらっ!転んだとか、そういうのでいいの!」

 

学校であんな大立ち回りやらかしたなんて知られたら大変なことになる。あいつらが気合い入った連中で女一人にボコられたなんて恥ずかしいこと先公にチクらなきゃいいけど……無理だろうな。どっから見てもシャバい卑怯もん揃いだったし。

 

階段を上がって、自宅のドアのカギを開ける。

ドアを開くと玄関に両親の靴はなく、代わりにスリッパがあった。

 

「どうぞ、上がって」

 

「おじゃましまーす、なのです」

 

短い廊下を歩いて台所へ。

テーブルの上にメモと千円札が二枚。

 

『沙都子へ。今晩はお父さんとお出かけします、出前を取ってね☆』

 

「へぇ、お父さんとホテルで朝までずっぽしコースか……ほんとラブラブだなぁ」

 

「沙都子のおうち、沙都子のおうち、わくわくなのです♪」

 

梨花がくねくねと気持ち悪い動きをしている。

 

「梨花、風邪引くからシャワー浴びてきな。バスタオルと服は用意しておくから」

 

「はぁい、なのです」

 

とてとてとお風呂場へ向かう梨花を見送り、さくっと着替えて手を洗い、とりあえず炊飯器にお米をさっさとセットしてしまう。梨花はお腹がぺこぺこのはずだ。出前もいいけれど、何かさっと作って食べさせてあげたい。

 

冷蔵庫を開けて、夕食の献立を考える。……梨花の好みがわからない。

思えば私はいじめてばかりで……梨花のことなんて、ほとんど知らないのだ。

 

腹ペコの梨花においしいものを食べさせてあげたい。明るく振舞っているけれどあれだけのリンチをしばらく受け続けていたのだ。疲弊しているに決まっている。しかも私は、空腹の梨花に無理矢理山登りをさせてたくさん泣かせてしまった……。

 

思いつかないのでとりあえず私の新品の下着と靴下をおろして、私の部屋着……ジャージとMIKEHOUSEの赤いトレーナーとバスタオルを脱衣所に置いておく。……ふと思い出して……生理用のナプキンも置いておいた。

 

梨花の制服を自分のものと一緒に洗濯機に放り込み、スイッチを入れる。

 

オレンジ色の灯かりと水音に思わず梨花の裸を……今日見てしまった、梨花の、見てはいけないところを……思い出してしまい、ぶんぶんと頭を振って忘れる。

 

とりあえず冷蔵庫から出した瓶のストロベリーソーダを開栓し、口をつけて飲む。

 

リビングの掃き出し窓からベランダを見ると、外はまた雨が降り始めている。梨花の制服と下着が部屋干しで乾くといいけど、まあ乾かなくても……しばらくは梨花が学校に行く必要はないのだから、問題はないだろう。

 

がちゃ、と梨花がリビングに入ってくるのと、炊飯器の炊きあがりを知らせる電子音が鳴ったのはほぼ同時だった。まずい、まだ何もできていない。……ここは結構飲食店からは遠いから、出前はそれなりに時間がかかるだろう。

 

「お風呂あがったのですよ、沙都子ー♪」

 

私の服は少し大きかったみたいで、だぼだぼで袖から手が出ていない。なんだかちっちゃな子どもみたいで可愛かった。可哀想な手足のあざもちゃんと隠せている。今日はひんやりしているから暑いということもないだろう。

 

念入りに洗ってリンスをしてドライヤーで乾かしたのか、梨花のきれいな淡いすみれと紺が混ざった不思議な色の髪は、もとのさらさらと流れる水のような、美しいものに戻っていて……心底ほっとした。

 

「それ、何なのですか?」

 

私の飲んでいるストロベリーソーダを見て目を輝かせている。

 

「ああ、梨花も飲む?ちょっと待ってね、新しいの開けてあげるから……」

 

とん、とテーブルに置いた途端、さっと素早く梨花が瓶を奪い、可愛らしく両手で持って、こくこくとおいしそうに飲み始めた。

 

「ちょっ!何して……もうっ……!」

 

間接キスだ、と気づいて頬が熱くなる。ぷは、と瓶から口を離した梨花が、目をいやらしく細めてにやあ……と笑った。こいつ……瓶を置くことを計算してっ……!

 

「親友のジュース、おいしいのです☆」

 

「はぁ、もう好きにしなさいよね……」

 

相手をしても時間の無駄なので、食事の準備に取り掛かる。

 

玉ねぎとハムをみじん切りにして、フライパンで炒める。ごはんを投入してケチャップと塩コショウで味を調えて、皿に盛りつける。

 

食卓に着いてにぱにぱと微笑みながら人のジュースを飲んでいる梨花。

時間を無駄にしてしまったし、さっさと仕上げて食べさせてあげよう。

 

ボウルにたまごを多めに割り、牛乳を少し。フライパンにマーガリンをひとかけ。

溶いたたまごをフライパンに流し込みかき混ぜ、スクランブルエッグを作る。

 

ケチャップライスに半熟のふわふわスクランブルエッグをたくさんのっけてまた上からケチャップを絞って出来上がり。スプーンを添えて梨花の前に置いてあげる。

 

「どうぞ、こんなものしか出来ないけど」

 

「いただきまーす、なのです」

 

私が手早く作ったオムライスもどき……名前はないけれど、名をつけるならスクランブルエッグライス……に梨花はぱくぱくと取り掛かり始めた。

 

「おいしいのです~、しあわせなのです~♪」

 

とりあえず嫌いな物ではなかったらしい。よかった、と溜息をひとつ。

よっぽどお腹が空いていたのか、もぐもぐと幸せそうに頬張っている。

 

リビングに制服と下着を干す。扇風機を首振りで当てておけばきっと乾くだろう。

梨花の女児用ショーツ、やけに子どもっぽくて逆に妙にいやらしい気持ちになる。

 

「沙都子はとっても料理上手なのです、すごいのです~☆」

 

「上手ってほど、手の込んだものは作ってないわよ……でも、ありがと」

 

ごはんはまだあるけど、自分の分を作るのが面倒だった。

 

戸棚からカップ麺を出し、開封して湯沸かしポットからお湯を注ぐ。

ふと気づくと、梨花が食べ終えて私を……いや、カップ麺を見ている。

 

仕方がないので割りばしとカップ麺を梨花の前に置くと、にぱ~☆と笑った。

いったいこの細い体のちっちゃなおなかのどこに入ると言うのだろう……。

 

砂糖菓子と薔薇の露しか口にしないような妖精みたいな容姿をしているのに、意外なほど食べるのだと思うと、頬袋を膨らませた小動物のように逆に可愛らしく思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食後、洗い物を終えて入浴を済ませて……換気扇の下で煙草を吸う。

梨花はおなかがいっぱいになったようで、幸せそうに私を見つめている。

 

時刻は夜七時ごろ。

 

「梨花、あんたはそろそろ帰らないと。神社まで送ってあげるから……」

 

すくっと立ち上がった梨花は勝手に受話器を取り、電話をかけ始めた。

 

「……あ、お母さんなのです?いま、沙都子のおうちにいるのです。今日はお泊りしたいのですよ?……はい、よかったのです……ありがとうなのですよ……あ、帰らないでそのまま学校へ行くのです。わかりましたのですよ、ばいばいなのです」

 

「ちょっ、梨花」

 

「ダメなのです?」

 

瞳を潤ませて、仔猫のように首を傾げている。

こいつ、ほんとに何なのよ……調子狂うわね……。

 

「別にダメじゃないけど……いやダメだけど、ダメじゃないけど……ああもう、そんなことどうでもいいわ……あんた、明日学校行くつもり?……正気なの?」

 

「はいなのですよ」

 

即答する馬鹿梨花。何考えてんの?

 

「ダメに決まってるでしょう。家でおとなしくお留守番してなさいな」

 

「ボクは学校に行きますのです。みんなと仲良くするために頑張るのです」

 

「……そんなことは絶対に無理よ」

 

人と人が仲良くするのは普通でも難しいことだ。

だというのに、あんなものが猛威を振るっている今は……。

 

「やってみなくちゃわからないのですよ」

 

「いや、その結果がアレじゃない……あんたって馬鹿なの?」

 

「でも沙都子とはこうして仲良くできたのですよ?」

 

「………………わかったわ。私も覚悟を決める……梨花がそうしたいのなら」

 

……もう何も言うまい。多少手間が増えるだけだ。

どうせ私は正面から登校すると決めていたのだから。

 

おもちゃを取り上げられた子供が何をするかなんて決まっている。

いや、獲物を取り上げられた野犬がどうするかの方が近いか……。

 

でも、梨花は私が命に代えても守ってみせる。指一本だって触れさせるものか。

 

こっくりこっくりと眠そうに船を漕いでいる梨花の手を取って、自室へ連れて行く。

梨花はちいさな子どものように、腕を引かれるままについてきた。

 

「ベッドを使ってちょうだい。私は床に布団でも敷いて寝るわ」

 

「僕は沙都子と一緒にねんねしたいのですよ?親友なら当たり前なのです♪」

 

ぽふんと私のベッドに寝転がって、梨花はぽすぽすと自分の隣を叩く。

 

「そう……なの?私聞いたことないけど……梨花はよく知ってるのね」

 

「ダメなのです?ボクは沙都子にいっぱいやさしくしてほしいのですよ」

 

梨花はまた瞳を潤ませている。可哀想で言うことを聞いてあげたくなってしまう。

でも間接キスといい電話のことといい、この子、分かってやってるんじゃあ……。

 

「お願いなのです、沙都子……一緒にねんこしたいのです~♪」

 

梨花が駄々をこねるとトレーナーがちらりとめくれて、裾から白いお腹がのぞいた。青い血管が透けるすべすべの白い肌を見ていると、胸がもやもやとして、いらいらとして、おかしな気分になってしまう……。

 

「……やっぱり、ダメだ私……」

 

「どうかしたのですか?」

 

小指をくわえて、上目遣いで私を見上げる。

 

「梨花のこと、大切にしたいのに、優しくしてあげたいのに……あんたのこと見てると、どうにかしてしまいたくなっちゃう……長い髪とか、おなかとか、お尻とか、脚とか……あんたの身体を見てると、私へんになりそうで……」

 

「あぁ、沙都子……♥」

 

「胸がもやもやして、いらいらして……悲しいような寂しいような気持ちになって……だから梨花のこと殴ったり蹴ったり痛めつけたり、悲しませてめちゃくちゃにしたいって思って……たくさん梨花をいじめちゃったのよ」

 

「……はぁ?」

 

梨花はいきなり真顔になった。

 

「……えっ?」

 

180℃豹変した梨花に驚き、思わず聞き返してしまう。

 

「……なんなのよそれ……私はいったい今まで何の苦労をしてたのよ……この子、鈍感とかにぶちんってレベルじゃないでしょ……北条家の性教育はどうなってんのよ」

 

「り、梨花ぁ……?どうしたの……」

 

梨花は難しい顔をして、ぶつぶつと独り言を呟き、しばらく黙考したあと……おもむろに体を起こして、ベッドの上で招き猫のようにおいでおいでをした。

 

近寄って中腰になると、悪戯っぽい表情の梨花の顔が近づいてきて……。

 

「な、なによ梨花……?」

 

あぁ、まつげ長い……綺麗な紫の眼……つくりものみたいにきれい……。

……なんて、思ってぼーっとしていると、いきなり唇を奪われた。

 

「ちょ、んむ……ちゅ、ちゅう……♥」

 

どこにそんな力があるのか、頬をがっちりと両手で押さえ込まれてしまう。

 

「ちゅぷ、んっ……りかぁ……何をっ……んちゅ、はぁ、やめ……♥」

 

喋ろうと動かした舌を舐められ、どうにもくすぐったくて喋れない。

はじめてのキス。母親のように、そのうち男とするものだと思っていたのに。

 

梨花の甘い舌が、私の舌に絡みついて、もう何も考えられない……。

 

「ぷは……りかぁ……これも、しんゆうならあたりまえのこと……?」

 

「まだそんなの信じていたのですか?うそに決まってるのです……ちゅ♥」

 

「うそつきの、ねこかぶり……あっ、やん……りかぁ、くすぐったい……」

 

背中やお尻を優しく撫でられ、梨花の指がくすぐったくて、へんなかんじ。

力が抜けたところを梨花にベッドに引き倒され、完全に組み敷かれてしまう。

 

梨花に痛い思いをさせてしまうのがこわくて、ぜんぜん抵抗できない。

あっという間に服やブラを半ば脱がされてしまった。すごく恥ずかしい……。

 

「沙都子、自分でシたことはあるのですか……?」

 

「え?したって……何を……?」

 

私がそう答えると、梨花は両手で顔を押さえ、ぶるぶるっと震えた。カワイイカワイイカワイイカワイイカワイイカワイイと小さな声で早口で呟き頭を振っている。

 

やがて梨花は熱に浮かされたように、赤い顔で私の肌に触れ始めた。私の胸をふよふよと弾力を確かめるように揉んだり、桃色の先端を指先で撫でまわしたり……。

 

「梨花、くすぐったいってば……んっ、うぅ……あ……あっ♥」

 

「沙都子はおこちゃまなのに、カラダは立派な大人なのですよ♥……僕が借りた下着、ガッバガバで付けられませんのです♥これはおしおきなのですよ、沙都子♥」

 

しばらく胸に触れて、飽きたのか脇をくすぐり、腰を撫でまわして……。

ついに梨花の手が下着にかかる。梨花の手つきに何だか不安になる……。

 

……女の子は、簡単にこんなことを許しちゃいけないような気がする。

 

「待って、梨花……こんな、女同士でこんなこと……おかしいわよぉ……」

 

「いじめられてる僕のおまたをこーんなねこさんみたいなギラギラのこわいおめめでジーーーッと見てた沙都子には言われたくないのですよ?えっちな子なのです」

 

「うぅ……だって、だって!すごく気になるんだもん……梨花のおまた……」

 

バレてた!バレてた……!恥ずかしくて顔が焼けそう。心臓がばくんと跳ねる。

見ちゃいけなかった……!私の馬鹿、変態……!梨花の心を傷つけた……!

 

「だ、か、ら……ボクが見てしまっても……おあいこなのです☆」

 

混乱している間にするんと下ろされてしまう。

思わず手で隠すけど、あっさりと梨花にどけられてしまった。

 

「り、りかぁ……恥ずかしい……もうやめようよ……ね?」

 

「こんなにぐちょぐちょにしておいて何が「ね?」なのですか……沙都子、沙都子がもやもやいらいらするのは、ここをちゃんとしてあげてないからなのですよ?」

 

「ちゃんと、する……?」

 

「僕がちゃ~んとお世話してあげるのです。沙都子は目を閉じて、リラックスして、ボクのあんよやおしりやおまたのことをいっぱい考えているといいのですよ……」

 

梨花に恥ずかしい思いをさせた負い目もあるし、梨花がしたいことはなんでもしてあげるという約束もあったし……梨花に任せればいいという言葉に誘惑もあった。

 

「ん、おねがい……りか……」

 

脚を軽く開いて、梨花に恥ずかしいところをぜんぶ明け渡す。

梨花の吐息が、私の敏感なところにかかって、とっても熱い。

 

仔猫がミルクを吸うみたいにちゅっちゅと吸い、舌を這わせてくる。

 

「梨花ぁ、そこおしっこ出るとこだよぅ……きたないよ……」

 

「きたなくなんかないのですよ?沙都子はなんにも心配しなくていいのです」

 

指で広げられ、くすぐられ、舌でなぶられて……。

 

むずがゆいような、くすぐったいような、おかしな感覚。

 

「りかぁ、くすぐったい……なんかへんだよ、つらいよぉ……」

 

「くすぐったい、じゃなくて……それはきもちいー、なのですよ♥」

 

「うぅ、あぁぅぅ……きもちいー、梨花、きもちいーの……」

 

「ここなのですか?このあたりがきもちいー、なのですか?」

 

梨花が、いちばんくすぐったくてぎゅーってなるところばかりを撫でてくる。

きもちいー、がどんどん重なって、おまたのことしか考えられなくなって……。

 

つま先までぴーんと伸ばしてきもちいーのが限界で、つらいのを一生懸命我慢していると、梨花がくすりと笑った。

 

いちばん敏感なところを、ちゅーっと吸われて、おしりからあたまのてっぺんまで甘くて激しい電流が流れて、思考が真っ白に染まってしまう。

 

「はぁっ、り、かぁ……りか、りか……りかぁ……んぅーーーっ!♥」

 

「よしよし、沙都子はいいこいいこなのです……きもちいーになれてよかったよかったなのですよ……カワイイカワイイのです……なでなで、なでなで……♥」

 

いちばんきもちいーのがおさまってしまうまで、梨花はずっと私のきもちいーところを優しく撫でていてくれた。

 

陸でおぼれているみたいに苦しくて、はぁはぁと乱れる息を、必死に整える。

 

「……沙都子、もやもやさんとかいらいらさんはすっきりしましたのですか?」

 

言われてみると、胸に重苦しく圧し掛かっていたいらいらもやもやとしたものはすっかり消えていた。寂しさや悲しさは、幸せで温かな気持ちに取って代わられている。

 

ぼんやりとした頭を縦にこく、こく、と小さく振って梨花に応える。

 

しあわせいっぱいで頭がふわふわで、何かに、誰かに抱き着きたいと強く思う。

両手に抱く何かを探して腕を彷徨わせると、梨花がぎゅっと抱き締めてくれた。

 

「イっちゃったら抱っこして欲しくなるなんて沙都子はあまえんぼさんなのです♥」

 

「り、りかぁ……おむねがきゅーってなっちゃう……どきどきして、へんだよ」

 

「沙都子、それは"すき"とか"あいしてる"っていう気持ちなのですよ」

 

これが、そうなんだ……じゃあ、私は……。

 

「りかぁ、だいすき……あいしてる……♥」

 

目を真ん丸にして驚いた梨花は耳まで真っ赤になって、顔を両手で覆った。

しばらく苦しそうにみぃみぃとちいさく鳴いて、それから私にキスをする。

 

「ちゅ……沙都子、ボクも沙都子が大好き。愛してるのですよ……♥」

 

梨花としばらく抱き合い、それから一緒にお風呂に入った。

洗いっこは恥ずかしかったけれど、梨花の細い指が気持ちよくて……。

梨花のうっすらと脂肪のついた、細くてやわらかな身体の手触りが忘れられない。

 

……抱き合うと少し暑いから、ふたりで手を繋いで眠ることにした。

梨花のちっちゃな手、ほっそりしたきれいな指が心地よくて、とっても安心する。

 

「沙都子、今度、僕をぶったり意地悪したりしないで、いじめてめちゃくちゃにする方法を教えてあげますのですよ。今日はちょっと、お月様の都合が悪いのです……」

 

「そんな……私もう梨花のこと、いじめたりなんかしないわよ……」

 

梨花はしばらくぽかんと口を開けていたが、目を細めて、にやあ……といやらしく笑った。沙都子は純粋でカワイイカワイイのです☆と囁かれてますます混乱する。

 

「もう、梨花ってばその笑い方やめなよ……ちょっとこわいよ」

 

「沙都子が大人の身体なのにろりろりの無知っ子でカワイイのがいけないのですよ」

 

梨花は頭がいいから、たまに難しい言葉を使う。馬鹿な私にはわからない。

 

「知ってますですか?沙都子。ラッコさんは手を繋いで眠るのですよ」

 

「へぇ……どうしてなの?」

 

「潮に流されたりしないようになのです、海の上でねんこしますですからね」

 

「じゃ、梨花が流されないようにちゃんと握っててあげないとね」

 

ぎゅっと手を握り直す。

 

「沙都子、夏休みに水族館に行きませんですか?隣の県を横断しないといけないくらい遠いところにあるのですが……ラッコさんがいっぱいいるそうなのです」

 

「そういえば私、ほとんど旅行なんてしたことなかったな……電車でそんなに遠くまでなんてわくわくするわ……いいわね、一緒に行きましょうよ」

 

「恋人同士ふたりっきりで、泊りがけで行きたいのです♥」

 

「えっ、私たち恋人同士なの?」

 

「大好き、愛してるって言い合ったのですよ?他の何なのですか?」

 

「あー、そっか……そうだよね……ふふ、うれしい……」

 

「すっかり昔の素直な沙都子に戻ってくれてボクもうれしいのですよ」

 

「くすくす……梨花ぁ」

 

「沙都子……にぱ~☆」

 

梨花の笑顔を見ていると気持ちが落ち着いて、まぶたが重くなって……。

 

いつの間にか、眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を見た。

 

 

曖昧なイメージや難解で不可思議なものではなく、現実感のある夢。

まるで、本当に経験したことのように、はっきりと色鮮やかな……夢。

梨花と一緒にふたりで寄り添って生きていた世界の、幸福な夢だった。

 

 

沈んだ村の、神社の小さな倉庫の二階に住んで、笑い合いながら暮らしていた。

朝、目が覚めたら目の前に梨花のお顔があって、とってもかわいくって。

私がお味噌汁を作って、梨花が煮物を作って、ご飯が炊けて、ふたりで食事。

お弁当を持って、ランドセルを背負って、ぎゅっと手を繋いで、学校へ。

空が青くて、風が気持ちよくて、草の匂いがして、梨花がやさしくて……。

 

 

その私はひとり孤独で、頼るものが誰もいなくて、梨花に頼りきりで。

村総出で私をいじめる悪意に、梨花は立ち塞がって、私を抱き締めて。

梨花の笑顔が、握った手の暖かさが、抱き締めた身体の柔らかさが。

触れる何もかもが悲しいくらいに優しくて、切なくて、懐かしくて。

世界にたったふたりきり、お互いを理解し合って強い絆で結ばれて。

 

ここではない、どこかの世界で、梨花と私はまるで運命のように……。

 

 

……私は、いつの間にか泣いていた。

 

そっか、そうだったんだ……梨花はこの世界の夢を見たんだ。

梨花は私と、ずっとこんなふうに仲良くしたかったんだ……。

 

もっと早く私がこの世界の夢を見れていたら、ちがったのかな。

大好きな梨花に、長いあいだ悲しい思いをさせてしまった……。

 

 

─── 私は、もう二度と間違わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「沙都子、朝なのですよ」

 

「ん……梨花ぁ?どうかなさいましたの……?」

 

窓から差し込んだ朝の光に照らされた部屋。

梨花はぽかん、と口を半開きにして私を見つめている。

 

「わたくしのお顔に何かついていまして?おかしな梨花ですわねぇ……って」

 

おかしな口調に気づき、口に手を当てて困惑する。

間違った……夢で見た自分の口調で喋ってしまった。

 

「沙都子、まさか……まさかのまさかのまさかなのですか!?」

 

「な、なんのことよ……それよりさっさと支度しなさいよ、学校行くんでしょ」

 

梨花がまた目を細めて、いやらしく、にたあ……と笑った。

 

「な、なんのことでございますの……そんなことよりさっさと支度なさいませ、学校へ行くのでございましょう?さん、はい」

 

「……いやよ、そんなマンガみたいなお嬢様言葉、馬鹿みたいじゃない」

 

「いやでございますわ、そのような漫画のようなお嬢様言葉、お馬鹿だと思われてしまいますもの。さん、はいっ」

 

がつっ!と一発殴ってやろうかと思ったけど、もう梨花にそんなことはしないと誓ったんだった……大きくため息をついて、仕方なく繰り返す。

 

「いやでございますわ、そのような漫画のようなお嬢様言葉、お馬鹿だと思われてしまいますもの」

 

「かわいすぎる……ここに、ここに天使がいるわ……」

 

ふと見ると、ハンガーにかかった私の制服のロングスカートが、私が寝ているうちに梨花が勝手に裾を直したのか、とんでもないことになっていた。

 

校則通りの膝丈どころか、梨花よりも少し短いんじゃないだろうか。

特注のマキシ丈が台無しだ。

 

「ちょっと、何なのよこの娑婆いスカートは!」

 

「沙都子には絶対こっちのほうが似合うのですよ?沙都子の黒タイツもちゃんとおへやで見つけましたのです。さ、着てほしいのですよ」

 

仕方なく制服に着替えると、梨花が私の髪を黒いリボンで留めた。

姿見に映った自分の姿は……どこから見てもイモくてダサかった。

 

はぁ、と溜息をついて仕方なくメイクしようと鏡台を見ると、化粧品がすり替わっていた。私のスケバンメイクのためのアイシャドウも、緑色なのに塗ると紫色に変わるお気に入りの口紅も、何もかも梨花好みと思われるものに取りかえられている。

 

「沙都子、おかしなメイクはやめてほしいのですよ?沙都子はすっぴんでもとんでもない美少女さんなのに、あんなこわい厚化粧はしなくていいのです」

 

「あのさあ、あんたこれ一回家帰ったんでしょ?私の鍵勝手に使って……」

 

「……口調」

 

「梨花ぁ、わたくしのファッションに口を出すのはおやめなさいませ。わたくしにはわたくしなりの……」

 

ベッドに座った梨花に、ずんずんと歩み寄って抗議する。

ぺらり、と短いスカートをめくられ、タイツに覆われた内股に軽く触れられた。

 

ぱぁん!と思わず梨花の頬をひっぱたいてしまう。

梨花は派手に転び、ベッドでバウンドして畳の上にどすん!と落ちた。

 

「あっ、ご、ごめんなさいですわ!梨花ぁ、大丈夫ですの!?」

 

「み、みぃぃ~……ぐすっ、ふええぇぇ……いたいのです、しんじゃうのですぅ」

 

床に伏せたまま、頬を押さえて縮こまり、涙をこぼす梨花。

またやってしまった!もう痛いことしないって誓ったのに!

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

「……ひっく……恋人ならスカートをめくるのもファッションに口を出すのも当たり前なのですよ……おはようのちゅーもまだなのです……」

 

「わ、わかった、わかりましたわ!すべて梨花の言うとおりに致しますから!」

 

抱き起こすと、梨花はんー、と唇を突き出してくる。

仕方なく、ちゅっと軽くキスをしてあげた。

 

「やっぱり、運命だったのね……」

 

「どうかなさいまして?」

 

「なんでもないのですよ。にぱ~☆」

 

 

 

 

買い置きの菓子パンをくわえながら、団地の敷地に並ぶ物置のうち、ひとつの引き戸を開ける。ここがうちの物置だ。

 

使っていない家具や、お父さんの趣味や仕事の道具なんかに混じって……油が塗り込まれ鈍く光る木刀があった。以前、茜さんにもらったもの。

 

両手で握り込み、正眼の構え。

そのままゆっくりと切っ先を下ろし、下段に構えた。

 

息を長く吐き、逆袈裟に斬り上げ、下段を薙ぐように素早く切り返す。

 

刀を持ち上げ過ぎないことで疲労を防ぎ、また素早い方向転換が可能。

防御しにくい相手のすねや下半身を狙い続ける、一対多専用の喧嘩剣術だ。

 

「人間ってやつは頭ぁブン殴ったら簡単に割れて死んじまうからね、気ぃつけな」

 

軽く竹刀で頭をぶっ叩かれて、頭を抱える私に茜さんは言った。

 

「太ももは太い血管が通ってるからここも危ない。やるならスネさ。痛いよぉ~?」

 

振り上げられた竹刀を見て太ももを防いだら、スネに竹刀が入った。

 

「殺しちまうとあとが面倒だし、あんたも殺しはやりたかないだろ?」

 

スネを押さえ、転がり痛みに悶える私に茜さんはやさしく言った。

だからあんたに、あたし流の喧嘩用のやっとうってやつを教えるんだ、と。

 

「いいかい。剣ってのは殺すためにあるんじゃあない。仲間を守るためにあるのさ。道端のガンつけたつけないのくだらない喧嘩で使うんじゃないよ。村のもんがやられたら、あんたが戦うしかないんだ。剣術はそのためだけに使うんだね」

 

茜さんの一番弟子の魅音姉ェがいない今、その役目は私のものだ。

 

梨花のようなとびっきりのおもちゃを奪われた連中が黙って引き下がるわけがない。

四方八方敵だらけの学校……それでも梨花にだけは指一本触れさせるものか。

 

再度構え、敵のスネやくるぶしを意識して踏み込み、打ち下ろす。

 

もちもちとパンを頬張りながら、てこてことのんきに歩いて来た梨花が木刀で素振りをする私を見てぴょーんと垂直に飛び上がって目を真ん丸にして驚いた。

 

梨花は私に駆け寄り、必死に木刀を奪おうとするが、私はひょいひょいと避ける。

しばらく続けて諦めたのか、涙目で抱き着いて来た。

 

「だめなのです!沙都子、こんなもので人を叩いたら死んじゃうのです!」

 

「殺しはしませんわよ。ただスネや足の甲にヒビは入るかもしれませんけれど」

 

「誰かにお怪我をさせたら大変なのです!これは置いて行ってほしいのですよ!」

 

はぁ……現実が見えていないのか、それとも心底まで優しいのか……。

でも、これだけは譲れない。私は梨花を守らなければならないのだから。

 

「梨花、それでもあなたを守るにはこれしかないんですの。ご理解下さいまし」

 

「沙都子が誰かを痛くするたびに、沙都子の心が痛い痛いなのですよ。沙都子は本当はやさしくてとってもいい子なのです。だから喧嘩はやめてほしいのですよ」

 

「……梨花、状況を考えて下さいまし。やらなくて済むならわたくしもそうしたいですわ。ハクがつくにしても夏休み前にネンショー送りなんでごめんですもの。でも、そうは言っていられませんの」

 

「……羽入は、みんな仲良くしてほしいのですって言ってるのですよ?」

 

「相手にその気がなければ不可能ですわよ。今の学校にはルールも何もありませんのよ?生徒指導の鬼教師だって"タタリ"が怖くて黙ってるんですもの……そんな中でわたくしはあなたというおもちゃを狂犬たちから奪い取ったのですわ」

 

私にしがみつく梨花の肩を、片手でぎゅっと抱き締める。

 

「骨を取られた狂犬が何をするかはわかりますわよね?梨花が酷いことをされるのはもう耐えられませんわ……あの様子では、命の危険も……梨花こそ、分かってくださいまし。わたくしは命を懸けてあなたを守るつもりですのよ」

 

「ボクは……我が儘なのでしょうか」

 

「梨花がお優しいのはよく存じておりますことよ。どんなにひどい目に遭わされても相手を憎んだりしない。それどころか優しくして、仲良くしようとする。けして仲良くしたいと思うことは我が儘ではありませんわ……でも」

 

「それならっ……!」

 

「だからこそ、梨花のその優しさが伝わらない、梨花を傷つけようとする輩にはわたくしが盾となり、お守りする必要があるのですわ」

 

「そんなことはないのです、わかってもらえるはずなのです」

 

「分かってもらえなかったら、どうなさいますの?またおトイレのお水をお飲みになりまして?わたくしはごめんですわ」

 

「頑張ってわかってもらうのです!僕が頑張りますですよっ!」

 

梨花は両手を握り締め、ふんすふんす、と気の抜ける気合いを入れている。

 

「……ご勝手になさいませ。行きますわよ、梨花」

 

 

 

通学路で行き会った生徒の中に、梨花への"タタリ"に参加していたクラスメートもちらほら見える。先に殴るわけにもいかないのでじれったい。

 

ちょっとガンを飛ばしてやると、あわてて目を逸らして足早に去って行く。

 

「どうどう、沙都子、どうどうなのですっ」

 

梨花は私を猛獣か何かをなだめるように背中を撫でる。

いきなり襲い掛かるとでも思っているのだろうか……。

 

 

 

周囲に気を払いながら入った校内の様子は、昨日とはかなり異なっていた。

掲示板という掲示板が壁から取り外され、教室の後ろの黒板も撤去されている。

 

私たちのクラスには空席が目立ち、そのほとんどが"タタリ"を口実に梨花を痛めつけていた連中なのだと気がつく。

 

とりあえず梨花の席の隣が空いていたので机の上に膝を立てて座り、木刀を右手に持ったまま、周囲にガンを飛ばすことにした。

 

「……沙都子、おぱんつが見えてますのですよ」

 

……机の上に座り、木刀を床に突き立てて、周囲にガンを飛ばすことにした。

 

HRの時間になっても担任は来なかった。

 

しばらくすると、パイプ椅子を抱えた教頭がやって来て、黒板の脇に椅子を開いて座った。教頭は何を言うでもなく、厳めしい表情で教室を見回している。

 

木刀を持って机に座る私を見ても叱りつけるどころか咎めもせず、まるで私が目に見えないかのように振舞っている。理由はまったく分からない。

 

教諭がやって来て、何も言わずに一限目の授業を始めた。

 

何だか居心地が悪くなって、梨花も「めっ、なのですよ」というような表情をしていたので普通に着席することにした。梨花は何が嬉しいのか、私を見て笑っている。

 

教頭はそのまま席を立つことはなく……長らく目的が不明だったが、梨花が席を立ってお手洗いに向かった際に後を追い、女子トイレ前で待機したことでその目的が判明した。教頭は、梨花を監視していたのである。

 

教頭は他の教諭に食事を届けさせ、昼食の時間でさえ教室を離れなかった。

 

五時限目の現国で教科書を読み上げ、どもって言葉に詰まった梨花を雛見沢ネタで弄ろうとした生徒を、かなり強い口調……怒声でもって咎めたことで、より目的がはっきりした。教頭の仕事は梨花の警備だったのだ。

 

また、教諭でもなければ用務員でもなさそうなスーツ姿の真面目そうな男性たちが校内を歩き回り、壁や黒板を確認しては何らかの書類にサインをしている。

 

不穏な様子に生徒たちは困惑し、お互いに話したくて落ち着かない様子だったが、教頭がいる前で話していいものかどうかと休み時間でさえ沈黙を保っていた。

 

下校時間寸前になって、空席の主たちは真っ青な顔で教室に戻って来た。

 

がつん、と木刀を床に突き立て席を蹴ると、教頭が急いで近寄って来る。

 

「いや、北条くん。君も園崎顧問からきつく言い含められてはいるんだろうが、当校としても最善の努力を尽くして古手さんへの嫌がらせに対処しておってだね……」

 

脂汗を掻きながらしどろもどろに弁明する教頭のその言葉で、私は何となく状況を理解した。つまりこれは、この異常事態は、何もかもばっちゃの差し金なんだ。

 

いじめの主犯たちに一斉に詰め寄られた梨花は、少し怯えた様子で、それでも笑顔で対応した。彼らはほとんど涙声で梨花に謝罪し、平身低頭で許しを請うた。

 

梨花は笑顔で謝罪を受け入れ、私をチラチラと見ながら勝ち誇った様子だ。

しゃがみこんで震えながら泣き始めた女子生徒をやたら嬉しそうに撫でている。

 

「……まあ、そこのところをだね、君からもどうかくれぐれも園崎顧問によろしくお伝え願えないものかと……」

 

聞いてなかったけど、たぶん教頭が教室を見張っていることや、別室できつい責めを受けた生徒たちが謝罪に来たことをばっちゃに伝えて欲しいということだろう。

 

「わかりました。私からもばっちゃ……いえ、お魎様にお伝えいたします」

 

「そうか!そうか、分かってくれるか北条くん!いや、ありがとう!助かった……夏期休暇までは私もしっかり古手さんを見守っているからね!九月からはまた状況を見て判断させてもらうから、それはまた教委と相談して……」

 

いつもはあんなに偉そうな教頭がいち不良生徒の私ごときにこれだけ頭を下げて顔色を伺う様子は痛快というよりは不気味で、この町でのばっちゃの権力がどれだけのものなのか、裏ではどんな力が働いたのか、底知れない恐ろしさを感じさせた……。

 

それはおそらく……いや、あきらかに"オヤシロサマ"を上回る恐怖だ。

 

……梨花への暴行が特に苛烈だった女子数人は、下校時刻になっても戻らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TIPS『昭和60年7月16日付興宮タイムス夕刊「除草作業中に遺体発見」』

 

16日午前9時半ごろ、市内平坂二丁目宇喜田水道4号溝渠にうつぶせの遺体が浮かんでいるのを、除草作業中の男性(56)が見つけ、110番通報した。

 

現場は雛見沢団地前バス停の西約400メートルの住宅街の外れ。先月落書事件があった擁壁から数メートルの地点。

 

遺体は男性で年齢は不明。身長170センチくらい。着衣はなく遺体は腐敗が進んでおり、興宮署が身元の確認を急いでいる。

 

鼻や耳を切り取られ、複数個所に釘が打ち込まれ、腹部が切り開かれ、一部内臓を切除されるなどして遺体は激しく損壊しており、警察では何らかの事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を進める方針。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄ちゃんの言った通り、"オヤシロサマのタタリ"はあっけなく終わった。

 

梨花への暴力や嫌がらせは学校側の神経質ともいえる対応で完全に防がれたが、それ以外の"タタリ"が終結するまでには紆余曲折があった。

 

後日、教室から消えた生徒に関して教頭に訊ねると……連中はあの日警察に傷害容疑で逮捕され、家裁送致のち観護措置で鑑別所送りになったらしい……。他の加害生徒も別室でひとりひとり閉じ込められ、生徒指導教諭に詰問されたという。

 

テレビで聞いたところによれば、昭和30年代の反部落差別闘争の再発を恐れたという行政や警察によって、過敏ともいえる異例の対応が取られたのだそうだ。

 

掲示板や駅の伝言黒板の撤去、また落書きや"お告げ"が貼り出されるおそれのある箇所の警察や市職員による警備と巡回が強化された。校内を歩き回っていたスーツの人々がその巡回だったに違いない。

 

"タタリ"を恐れる空気も、掲示板に"お告げ"を貼ることが困難となり、現行犯で逮捕された高校生が放校という非常に重い処分を受けたことで雲散霧消してしまった。

 

噂では女子であっても半日以上ものあいだ厳しい取り調べを受け、強面の刑事らに囲まれて怒鳴られ、トイレにも行かせてもらえず前も後ろも垂れ流しだったとか。

 

またある男子生徒は刑事たちにありもしない"背後関係"とやらを吐くようしつこく詰められ、興宮署内の武道場に連れ込まれ、青少年への組手指導と称して何度も何度も投げ技をかけられ、泣いて謝ってもそれは続行されたそうだ。

 

一部の生徒はまったく行方が分からなくなり、大人たちが口をつぐんだことで、オヤシロサマの怒りに触れて鬼隠しに遭ったなどとまことしやかにささやかれている。

 

たぶん、その生徒たちは鑑別所や少年院送りになったのだろう……。

 

観護措置が取られなくとも、警察に逮捕、補導された生徒たちは雛見沢地区の人権センターでの長期の講習参加が義務付けられた。

 

その両親も人権センターで行われる"人権侵害の事実関係の確認"という名目の会議への参加を求められた。あくまで"任意"ではあるらしいが、園崎の招待を断れるような強い人間は、この鹿骨にはいないだろう……。

 

ばっちゃも茜さんも、お父さんも鉄ちゃんも多くを語らないが、昭和30年代の反部落差別闘争の時代には、よほどのことがあったのだろうと思う。

 

地元の暴力団員までが出張って、巡回し、興宮各所の掲示板を見張っているのだ。

誰が見ても、その厳重な監視体制が園崎本家の意向であることは明白だった……。

 

弱肉強食の獣の論理で行動する子供たちにも、どのような力が働いたのかはわかったらしく、また"タタリ"の"お告げ"の掲出という大元が絶たれたために"オヤシロサマ"は話題になることもなくなったのである。

 

夏休みが近いこともあり、話題は夏の遊びへと急速に移り変わっていった。

 

個々のいじめに関しても教員たちは園崎家の県議や市議による人事的な影響力を恐れるあまり神経質になり、その過剰なまでの取り締まりによってぴたりと止んだ。

 

……こうして"オヤシロサマ"は消滅した。

 

いや、何かきっかけさえあればオヤシロサマはすぐに戻ってくるだろう。

東から昇った日が、必ずまた西へ沈んで、世界が闇に閉ざされるように。

 

担任教諭が嫌がらせを恐れて古手への暴行にだんまりになったように。

私が古手への暴力をより容赦のない剥き出しの暴力で抑止したように。

 

ばっちゃが、園崎本家が、より大きな力による恐怖……いうなれば一種の"タタリ"の"お告げ"で捻じ伏せただけなのだから。

 

あれの正体は、神様でもなければ祟りでもない。

 

ましてや脳内寄生虫による精神病でもないのだ。

 

あれは人の心に、私の心に、人と人のあいだに。

 

はじめから、備わっているものなのだから……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TIPS『御八代様異譚』

 

 

 

 

 

そう、それは……辛かったわね、悲しかったわね……。

 

……梨花。お母さんが沙都子ちゃんのご両親にお願いするのは簡単よ。

うちの子に酷いことをさせないでください、近づかせないでくださいって。

 

私たち家族3人と、古手を敬い特別扱いしてくれる人とだけ仲良くしていればいい。

 

でもね、梨花……そうしたらあなたは、もう二度と沙都子ちゃんと仲良くなることはできないかもしれないのよ。

 

……よく聞きなさい、梨花。

人と人はね、本当に分かり合うことなんて絶対にできっこないの。

 

みんなの気持ちが通じ合って、心をひとつにして、争いをなくす、なんてことは……小説やドラマのような、架空のお話の中だけのものなのよ。

 

だって、私たちはそれぞれ感じ方も考え方も求める利益も違って、ひとりひとり別々に物を考えている他人同士なんだから……相手の気持ちなんて分かりっこない。

 

どんなに努力したって、相手の気持ちなんて絶対に分からないの。

 

私たちは一生懸命努力したわ……泣いて悲しむ、人間不信のあの子のためにね。

人と人が助け合い、争わず、お互いを尊重して共存する方法を、模索したのよ。

 

でも何もかもが失敗だった。村人同士でさえ分かり合うことができなかったの。

 

結局私たちは人食いの鬼と呼ばれ続け、呼ばれた名前のとおり、暴力と恐怖で相手を負かすことでしかこの地で生きる権利を得ることができなかった。

 

今でこそ御三家は和解しているけれど、昔は意見が食い違って喧嘩ばかりしてたわ。お父さんも私も若かったから、大いなる理想ってヤツに燃えたりしてね。

 

オヤシロさまはみんなで敵をやっつけろ、なんて言ってないって、みんな仲良く助け合おうって言ってるだけなんだって。お父さん、お魎さんに怒鳴ってねぇ。

 

今は自覚して抑えているけれど、お母さんは短気でヒステリックな女の子だったの。怒鳴り散らすばっかりで、話を聞いてくれた喜一郎さんはずっと困り顔だった。

 

あの子によく叱られたわ。落ち着いて相手の話を聞いて、優しく話しなさいってね。

 

お医者の高野先生もずいぶん私たちに味方して下さったっけ……村の大恩人である先生の話も、あの人たちは都合の良い部分だけを取り入れて聞き流した。

 

先生も暴力や殺人はダメだと言うだけで、法律を盾に民主的な方法で戦って、鹿骨の人たちを負かしてやり込めてしまうことはむしろ推奨していたわ。

 

圧力団体を結成すべきだ、御三家の者を地方議会に送り出すべきだ、とかね。

 

戦ってはならない、という話を真剣に聞いてくれる人は誰もいなかった。

でもそれも、村人にとっては当たり前の話だったのよ……。

 

昔は雛見沢出身者を雇う会社なんてなかったわ。

 

園崎がお金を出して、村人が事業を始めて、屎尿の汲み取りやゴミ収集みたいな誰もが嫌がってやりたがらない仕事を安値で請け負って。

 

……繁華街に関わる後ろ暗い仕事に手を染めて……そうやって一からすべてを切り拓かなければ、村人の生活すら成り立たなかったのよ。

 

買い物だって、村人だと分かれば塩一粒でさえ売ってもらえなかった。

……だから村には、小さくとも何でも揃う立派な商店街があったの。

 

一歩村を出れば囲まれて殴られることもあった。その傷がもとで死んだ人もいる。

私も興宮で頭に石をぶつけられて、何針も縫う大怪我をしたことがあるのよ。

 

警察は取り合ってくれなかった。それどころか逆に罪を着せられて逮捕された。

 

殺されそうになって、今生きるか死ぬかというときに、相手がやったことを忘れてみんな仲良くしましょうね、なんて話……聞いてくれるわけがなかったのよ。

 

……私たちが間違っていたとは思わないわ。

 

でも、実際に差別され迫害される村人と、村人を守ろうとするお魎さんにはどうやっても伝わらなかった。いえ、伝わっていたのかもしれない……。

 

それでもお魎さんや喜一郎さんが考えを変えることはなかったのよ……。

 

一人に石を投げられたら二人で石を投げ返せ。二人に石を投げられたら、四人で石を。八人に棒で追われたら、十六人で追い返せ。そして千人が敵ならば村全てで立ち向かえ。一人が受けた虐めは全員が受けたものと思え。一人の村人のために全員が結束せよ……って言ってね。

 

……そうやって雛見沢は鹿骨の人たちを打ち負かしてしまった。

雛見沢の人も、鹿骨の人も、警察の人も、何人も亡くなったわ。

 

今もその戦いは終わってない。私たちが移住して平坂に住み着こうとすることをよく思わない人も大勢いれば、ダムの補償金を妬んでいる人もたくさんいる。

 

雛見沢への不満や反感は今でもくすぶり続けている。

叩いてやり込めて黙らせてしまっただけなのだから。

 

何かきっかけさえあれば、すぐにでも大きな争いになるでしょうね。

また血が流れ、死人が出るかもしれない。私たちは失敗してしまった……。

 

あの子は失意のまま、泣きながら眠りについたわ。甘いものが好きな本当に優しい子だったのに、最後の言葉は悲しみと自分自身への呪詛で溢れていた……。

 

どうにかしてあげたかったけど、どうにもならなかったのよ。

 

千年の昔、ご先祖の桜花様が約束した、人々が力を合わせて協力し合い、互助の精神で助け合う理想郷を、私たちが見せてあげることは……ついにできなかったのよ。

 

でもね、でも、だからこそ……私たちは努力し続けなければならないの。

 

相手の気持ちを思いやって、相手と仲良くするためにはどうすればいいのか、相手の立場に立って、ずっとずっと考え続けなければならない。

 

その努力に終わりなんてないのよ。

 

だから、梨花……誰かと仲良くしようとすることを、どうか諦めないで。

 

私たちは結局、鹿骨の人たちの罪が許せなかった。鹿骨の人たちは私たちのかつての罪を許すことなどできない。許せなければ、分かり合うことはできない。

 

優しくて傷つきやすいあの子が、人間たちに求めていたものが一体何だったのか……梨花、あなたの母親になった今なら、私にもわかる気がするわ。

 

……愛よ。

 

相手を愛し、慈しむことだった。

相手の悪いことも良いことも含めて、すべてを受け入れること。

 

正面からすべてを受け止めて、相手の存在を認めて、どうしても変えられないことは諦める。すべてを諦めて、それでも前を向いて共に生きることだったのよ。

 

沙都子ちゃんは確かに梨花をぶったり意地悪をしたりするいやな子かもしれない。

でも、沙都子ちゃんはご家族や仲間想いの良い子なのは梨花も知ってるでしょう。

 

一面だけを見て、沙都子ちゃんを否定しないであげて。

根は良い子なんだと世界で梨花だけは、信じてあげて。

 

そうすれば、梨花には……沙都子ちゃんの真実の姿が、視えるはずよ。

 

ねぇ、梨花。あなたは御八代様じゃないから、直接話をすることはできないけれど……あの子は今も眠りながらこの地を見守ってくれている。

 

あなたと沙都子ちゃんだけでも……人と人が分かり合う姿を見せてあげて欲しいの。

 

……だから、あなただけは……沙都子ちゃんのことを、愛してあげてね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもちゃ屋の前の、紅白の縦縞デザインの自販機でいつものお気に入りのストロベリーソーダの瓶ジュースを買う。自販機の栓抜きで開栓し、口をつけた。

 

からからになった喉を、甘いイチゴ味の炭酸が冷たく潤していく。

 

夏休みはまだ始まったばかりなのに、とても暑い。

熱い日差しがアスファルトを溶かしてしまいそう。

 

私のワードローブの中身にいちいちケチをつける梨花に選んでもらった、デニムのサロペットは正直言って、本当に暑い。その下の半袖のブラウスも、少し生地が厚くて涼しいとは言いがたかった……。それになんだか、こどもっぽい。

 

梨花が可愛い可愛い、沙都子は天使なのです、と言ってくれるので悪い気はしない。

 

でもやっぱり自分の趣味とは違うというか、娑婆いというか……それでも梨花に遅い誕生日プレゼントにともらった白いスニーカーは、可愛くてお気に入りだ。

 

「梨花ぁ、もうおやめなさいませ」

 

「もうちょっと!もうちょっとなのです!」

 

梨花がかじりついている赤い自販機はジュースの自販機ではない。

100円でランダムでオモチャが出て来るガチャガチャ自販機である。

 

梨花はこのディスプレイに貼られた広告にある、ポータブルラジオがどうしても欲しくてたまらないらしい。私にはがらくたにしか見えないのだが……。

 

梨花はみぃみぃと鳴きながら、安っぽい南京錠やら得体の知れないゴムのマスコットのようながらくたを吐き出し続ける不甲斐ない自販機を叱責しているようだ。

 

ハイヒールに水色のギンガムチェックの膝丈スカート、青いリボンのついた真っ白なフリルブラウスの梨花は、上品なお嬢様然とした空気を台無しにしている。

 

着替えの詰まった鞄を私だけに持たせ、自分はハンドバッグのみを肩にかけている。

子どもに混じってぴょんすこと飛び跳ねては、自販機を叱っている始末だ。

 

「梨花ぁ、そろそろ電車のお時間ですわよ」

 

「みぃーっ!あと一回なのです!あと一回!」

 

飲み終わった瓶を店先のケースにねじこみ、私は歩き出した。

置いて行かれたことに気づいた梨花が涙目で追いかけてくる。

 

「何で置いていくのです!沙都子が冷たいのですよ!みぃっ!」

 

「水族館は逃げませんけれど、電車は逃げてしまいますわよ?もうそろそろですから興宮駅へ向かいませんと」

 

「沙都子、おててをつなぐのですよ」

 

梨花が右手を突き出して手を繋ぐことを要求してくるが、無視する。

 

代わりに左手で煙草の包み紙をおなかのポケットから取り出し、片手でくわえて引っ張り出し、片手で使い捨てライターで着火する。ひとくち吸って、煙を吐いた。

 

「けほっ、けほっ!けむいのです、どうしておててにぎってくれないのですか」

 

梨花の我が儘に答えず、煙草をくわえて黙っていると……ふいに目つきを変えた梨花が煙草を指でつまんで奪い、道路に投げ捨てて踏み消した。

 

「なっ、り、梨花ぁ、どうして捨て……んちゅ……♥」

 

抗議する私の唇を軽く吸って、口を離して、大人のような口ぶりで言い放った。

 

「どうしてって、キスするときヤニ臭いと気分が下がるのよ。禁煙なさいな」

 

「り、梨花のねこかぶり……ちゅっ……んぅ……はぁ♥」

 

またキスをされ、梨花のことしか考えられなくなる。

 

「ヤニ臭い口にはキスしてあげないわよ?いいの、沙都子?」

 

「うぅ……わ、わかりましたわぁ……」

 

おなかのポケットから煙草を取り出して、握り潰して路傍に投げ捨てる。

 

「いい子ね。素直な沙都子は大好きよ?」

 

梨花にお尻をくすぐるように撫でられて、腰や背筋がぞくりとする。

切なくなって、思わずまるでメス猫のように梨花にお尻をすり寄せてしまった。

 

「えっちなにゃーにゃーの沙都子も可愛いのですよ……そんなに慌てなくても、今晩ホテルでたっぷりねっとり沙都子のねこさんを可愛がってあげるのですよ♥」

 

「梨花ぁ……大好きですわ……」

 

「ボクも大好きなのですよ?にぱ~☆」

 

頭がぼーっとする。ちっちゃい梨花が好き。大好き。

まずいまずい、こんな道端で!と頭を振って正気に戻る。

 

……左手で梨花の右手を握って、やさしく手を繋ぐ。

 

「さ、行きますわよ、梨花ぁ」

 

「みぃっ♪」

 

梨花は笑顔で握り返してくる。とってもご機嫌のようだ。

 

 

私の指に絡みつく梨花の細い指に、遠い世界の記憶を思い出す。

 

 

いつかどこかの世界、青い水に沈んだ夏の雛見沢で。

 

草いきれのあぜ道をふたり歩いたように。

 

何度も繋いだその手に、しあわせとやすらぎを握り締めて。

 

……手を繋いで歩き出す。

 

 

入道雲の下、ひぐらしがなきやんだ。

 

季節が巡って……鹿骨にも、夏がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※IF設定的には、このカケラでは羽入はドライツィヒ変換、つまり村人たちに使ってみせたという超常の力を使用することができませんでした。また、ガントレットたる鬼狩柳桜も存在しません。神通力を持たない桜花の戒律は意味を為しませんでした。このカケラには話し合えば必ず分かり合えるというひぐらしにおける絶対法則がありません。人間関係において現実のルールが適用されている世界です。

※基本的な世界設定は原作、書籍、トレカTIPSなど公式設定に準拠していますが、カケラのパラメータの大本を大きく変更したため公式設定に準拠しつつ全く異なるパラレルワールドに突入しています。上記IF設定に加えて昭和30年代の部落解放闘争の推移と終結までの年数や高野一二三や古手家の関与、一部人物の生存、それによる登場人物の人格や行動指針の変動が発生しています。

※名無しモブ以外のオリキャラは登場していません。名ありキャラはすべて公式に存在するキャラです。

ふろく:難読雛見沢語翻訳「あんじょうすったらん!ほんますらっしゃたったらん!」(キムチ的解釈による意訳:そんなことには付き合っていられません!本当に付き合っていられません!)
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