ガキの時にした言動を大人になってから思い返すと、なんでそんなこと言ったんだとか、なんでそんなことをやったんだとか、意味不明で無性に恥ずかしくなる。枕に顔を埋めたくなる時がある。
別に深い意味があったわけじゃない。頭に思い浮かんだ言葉を、理性というフィルターを通さずに口から吐き出してしまう年頃だっただけだ。
しかし、それはれっきとした
自分もまたその例に洩れなかった。思考が感情に追いついていない未熟な子供だった自分の過去が、ふいに現在の自分に襲い掛かってくる。そのたびに昔の自分に会いに行って、ぶん殴ってやりたくなる。できるわけもないけれど、説教したくてたまらなくなる。なんでお前はそうバカなんだと罵りたくて仕方なくなる。
あの日もそうだった。
教室に、丸い円になるように並べられたたくさんのイスがある。余計なイスやテーブルは隅に寄せてあり、中央には子供が動き回れる十分なスペースができていた。
まだ幼い顔立ちが揃っている小学生の集まり。今から始まる遊びにウキウキとしていて、キラキラした瞳を浮かべている。その挙措には一片の憂いもない。
これからやるのはフルーツバスケットという遊びだ。
これに参加する者は円形に作ったイスのサークルに座り、中央にひとり立つ。そして、参加者をそれぞれいくつかのグループに振り分ける。モモ、グレープ、レモン、イチゴなど、フルーツの名前に配されるのが通常だ。自分がどのフルーツなのかを覚えて、ゲームスタート。
中央に立つ者に自分のフルーツを呼ばれた者たちが立ち上がり、別のイスに座ろうと走り回る。中央の者も同様に、イスに座ろうと走り回る。
この際、座れなかった者が次にフルーツの名前を呼ぶ役目をやる。
これを繰り返すのがフルーツバスケットだ。
必ず輪から弾かれる者が出てくる。そういうゲーム。
「おまえはリンゴっ! おまえはバナナ! さくらんぼっ! なしっ! ももっ!」
僕はイスに座る同級生をひとりひとり指差して、グループ分けしていく。当時からクラスのリーダー的存在で、こういう遊びや行事で仕切るのはいつも僕の役目だった。運動ができればすごい、小学生の間だけ通じる謎の価値観のおかげか、ほとんどの人間から尊敬と嫉妬の眼差しで見られた。
女子たちから「王子様」と呼ばれ、恍惚とした視線を向けられていたのを覚えている。体育の授業でサッカーをやると、ボールを蹴るたびに黄色い歓声が上がった。試合が終わると、女子たちがこぞって集まってきて、どこがすごかったとかかっこよかったとか、尋ねてもないのに聞かされた。
だけど、ただひとりだけ例外がいた。
ポワポワとした表情で座っている朗らかな女子。名前は本田透。
絹撚糸のように艶やかで美しい栗色の髪を腰に届くぐらい伸ばしており、両サイドにピンク色のリボンを結んでいる。猫のように大きくてまん丸な目と、つんとすました高い鼻。薄いくちびるはいつも笑顔を湛えている。アイドルになれそうなほどの小顔にはウェーブのかかった横髪がかかっており、さらに小さく見えた。白い肌はまるで粉雪が積もったように美麗。長い手足と、華奢な体は抱きしめればポッキリ折れてしまいそうだ。
間違いなく人目を引くだけの容姿を持っているが、本人の雰囲気と服装が彼女の存在を隠していた。まるでスーパーの安売りで売られているような、両胸に大きなポケットのついた安物のシャツ。下には星やハート模様のスカート。楚々たる容貌でありながら、地味すぎて誰も彼女には気づかない。
僕は彼女のことが前から気になっていた。
当時はよく分からなかった。今なら分かる。初恋だった。他の女子と違って全然僕のことをちやほやせず、菩薩みたいに笑うだけの彼女のことが好きだったのだ。
好きな子にいじわるしたくなる時期だった僕は、この日も彼女にいじわるをした。
「本田はオニギリ!」
僕に意味不明なグループ分けをされていながら、透は間抜けな笑顔のままだった。
少しは疑問に思わないのか。おにぎりだぞ。なんでフルーツのバスケットにおにぎりが入るんだよ。
クラスメイト達は「おにぎりって?」と疑問顔だったが、誰も注意しようとはしてこなかった。相手はクラスの王子だ。わざわざ場の空気に水を差してまで逆らわないだろう。中には同調してクスクス笑う者もいた。
「よし行くぞー! リンゴ!」
ゲームは“おにぎり”を残したまま滞りなく進んだ。
みんながはしゃぐ中、透だけはニコニコと笑ったままイスから立ち上がることはなかった。誰も“おにぎり”と呼ばなかったからだ。当たり前の話だ。おにぎりは彼女しかいない。呼んだところでゲームが面白くなるわけがない。
みんながフルーツバスケットを楽しんでいる時、僕はできるだけ透の隣に座ろうと頑張っていた。彼女の近くにいるフルーツを指名して、立たせて、そこにすかさず飛び込む。だけど、もっと近くにいた誰かがそこに腰を下ろす。僕は頑張ったけど座れなかったという演技をして、また透の隣に座ろうとチャレンジする。
彼女のそばにいたかった。あの笑顔を独り占めしたかった。誰にでも向ける暖かな微笑みを、僕にだけ向けて欲しかった。
どうして普通に接することができなかったのだろう。
友達になってください、と言えば彼女は喜んで承諾してくれたはずだ。きっと誰よりも近くにいて、仲を深めて、いつか告白することだってできたはずだ。
ゲームが終わってからも、僕は彼女に地味ないじわるをし続けた。
落とした消しゴムを拾って、返さなかったことがあった。
「か、返してくださいっ! 返してくださいっ!」
小鳥が囀るように可愛らしい声だった。ずっと聞いていたいと思えるような、儚げで、優しい音だった。いつも艶然としている彼女の、まったく見せない一面を向けられることに僕は愉楽を覚えた。
「じゃあ取ってみろよ!」
僕は必死になって手を伸ばす彼女よりも高くに消しゴムを上げる。つま先立ちになって、透から逃げる。
「ほら! ほらっ!」
「うぅっ……お願いしますっ! 返してっ……くださいぃぃ……」
泣きそうになってまで取り返そうとする彼女を見て、仄暗い興奮が胸にわだかまっていく。ゾクゾクとした、得も言われぬ高揚感がつま先から脳天まで駆け巡る。もっと構ってほしい。近づいてほしい。僕だけを見てくれ。
しかし、彼女の目じりに一粒の涙が輝いた瞬間、背筋が凍ったように冷たくなった。
なんで僕は彼女をわざわざ悲しませているんだ?
自分の愚かな感情を制御できず、もっとも求めていることから遠ざかる。ガキだったとか、ただのいじわるだったとか、そんな生っちょろい表現に収めていいはずがないことをしていた。
これはイジメだ。
僕の心はスゥッと冷めていき、消しゴムを透に返した。さっきまであんなに楽しんでいた自分が心底バカに思えた。いいやバカだ。疑いようもないクズだ。
「あっ……ありがとうございます……」
透は目元を若干赤くしながら、ペコリと頭を下げた。長い髪がさらりと垂れる。
なんでお前が謝るんだ。お前はただの被害者だろ。謝るべきは僕じゃないのか。
「返してくれて……」
なんで罵らない? なぜ僕に感情をぶつけない?
むかつく。むかつくむかつくむかつく!
その後も、僕は透に地味な嫌がらせを何度も何度もおこなった。上履きを隠したり、給食を少しだけ量を減らして配ったり、シャープペンシルの芯を失くしたフリをして譲ってもらったり。
すると、同じように透のことをイジメようとするヤツがあらわれた。リーダー的存在が下に見ているなら、自分たちもやっていいだろうと勘違いしたクズどもだ。
「やっ……やめてください!」
ある男子が透のリボンを引っ張っていた。
「これはっ……お母さんが買ってくれた大事なっ……」
「うるせえ! でけえリボンしやがって! 外せよ!」
その行為にどんな意味があるのか。彼らにすら分かっていないだろう。ただ気に障っただけ。イジメる理由はそれだけでいいのだ。それが彼らの正義になる。
教室に帰ってきてその光景を見た瞬間、僕の頭は怒りで沸騰していた。
「放しやがれッ!!」
リボンを掴んでいた男子の顔面にパンチを叩きこみ、倒れたところを馬乗りになった。元より殴り合いでは後塵を拝したことはない。僕の不意打ちからのマウンティングに、この呆気なく
「テメェ、何してんだ!!」
「あっ……えっ?」
男子は痛みで涙を流しながらも、僕の行動に疑問符を浮かべていた。
「だって、お前が本田をいつも……」
「あぁ!? 言い訳してんじゃねえ!!」
人のことをとやかく言えたような立場ではないのに、僕は怒り狂っていた。許せなかった。自分以外の人間が透にちょっかいをかけることが、何よりも許せないことだった。
おぞましい話だ。透を守るような価値ある人間でもないのに、いまこうして正義の代行者を僭称している。
こぶしを振り上げて、このクズを殴ろうとした時、
「ダメですっ!」
その腕を透が掴んだ。
「それ以上は……もういいですから……」
「なんだよっ!」
「私、気にしてません! だから、だから……お友達を殴るのは……ダメです……仲良くしてください……」
ボロボロと涙を流しながら、頼りない両腕で僕の腕を抱き留めている。
気にしていないわけがないだろ。あんなことをされておいて、母親から貰った大事な物を乱暴に扱われて、悔しくないわけがないだろ。
それを口にすれば何かが変わったかもしれないのに、僕は臆病すぎて言えなかった。黙って、振り上げたこぶしを下ろすしかできなかった。泣いている思い人を前にして、これ以上殴る勇気は持てなかった。
それから、僕以外の誰も透をイジメなくなった。
学年が上がり、クラスが別々になってからも、隙を見ては彼女に絡んだ。会話するだけでいいのに、スカートをめくったり、水道の水を手で引っかけたり、ぶん殴られてもおかしくないことをやった。
中学も同じところに通えると分かった時は、本気で神様に感謝した。バカなヤツだ。この世に神がいるのなら、透からもっとも遠ざけられるであろう人間は自分だろうに。
きっと中学でなら自分は変われるだろうと根拠もなく思っていたのだ。
そんなことをする精神的余裕が無くなるなんて微塵も考えていなかった。
「クソッ!!」
父が食器を投げ飛ばして荒れていた。
原因は分かっている。母が浮気をして家から出て行ったのだ。相手はどこの誰かも知らない。だが、おそらく慰謝料やもろもろによって母の暮らしも最悪になるだろう。
母は出て行く前に僕に訊いてきた。
「一緒に来ない?」
……行くわけがないだろ。
父を裏切り続けて、子を欺いたようなクズがどうして親と言える。
「そう。それじゃあね」
粘りもせず、まるでたくさんの煩わしい荷物から解放されたような晴れやかな顔をして母は去って行った。
残されたのは家族の思い出と、悲しみと、怒りと、失望。
一緒に来ない? と訊いたのは、それが「母として最低限するべきこと」だったからだろう。
僕がうなずいたところで、本気で連れて行く気なんかさらさらなかったに違いない。
今までだってろくに世話もしてくれず、好き勝手やってきた母だ。
僕はそれからとにかく女嫌いになった。透以外の人間が醜くてしかたなかった。どいつもこいつも内側ではどんな思考をしているか。僕の容姿を見て寄ってくるような女達、汚らわしい。気持ち悪い。
透だけは違う。彼女だけは別だ。彼女だけは信じられる。
変化がそれだけなら耐えられたが、次におかしくなったのは父だった。
毎日のように酒に浸るようになり、何かにつけて殴ってくるようになった。巧妙にも痕が見えないところを、大人の腕力で振りぬいてくる。痣は服という紗幕に覆われ、衆目に晒されることはない。それが中学に上がってからも続いて、僕はできるだけ肌を隠す服を着るようになった。
虐待の事実を公表しなかったのは、父を嫌いにはなれなかったからだ。母に見捨てられ、僕が家事をしなければ次の日には死んでしまいそうだったからだ。仕事も手についていないようで、愚痴をこぼすのはしょっちゅうだった。
「ごめん、ごめんな……!」
正気に戻ったお父さんが泣きながら謝ってくるのを見て「僕がお父さんを守るんだ」と決意した。
そんな日々が終わりを告げたのは中学一年生、七月の夜のことだった。
僕が台所でたまねぎを切っていると、
「なあ……」
後ろから父が抱き着いてきた。
声には乾いた唾液のように粘ついた気色悪さがあった。
女性を扱うような気味の悪い優しさで、ごつごつとした手のひらが胸や腹の上を滑る。尻には父の腰が当たっていた。固い物が押し付けられている感触があり、背筋を怖気が走る。
「お前……母さんそっくりだなぁ……」
「何言ってるの……お父さん……」
心臓が爆発しそうなほどの恐怖が襲った。振り返ることができない。父の顔を見たくない。なぜなら、耳元ではぁはぁと興奮したように荒い吐息を吐いている意味がなんなのか理解していたからだ。
全身を震わせている僕に、父は言った。
「……脱げよ」
そう言って、ズボンに手をかけてきた。
今まで築いてきた親子関係を水にするが如き、否、そのものの言動。
僕は慌てて叫んだ。
「やめて! やめてお父さん!!」
必死に抵抗するものの、父の手が服の下に入り込んできて地肌をまさぐってくる。気持ち悪い。吐きそうだ。脊梁に這い上るミミズのような悪寒。
「いいだろ……なぁ……親子仲良くしたいだけなんだ……」
「お願いだから……もうやめてよぉ……」
泣きながら懇願すると、
「蓮司!!」
父が怒鳴り、ゴッと僕の頭を殴り飛ばした。
「お父さんの言うことが聞けないのか!?」
床に背中を打ちつけて、痛みに呻く。視界が明滅する。勃然と発生した父の怒りに、ただただ戸惑う。
「大人しくしてくれよ。痛いの嫌だろう? な?」
意識が混濁していたが、服に手をかけられて、脱がされる感覚はハッキリとあった。下半身が開放的になり、生暖かい吐息が足にかかるのを感じた。
嫌だ。嫌だ。助けて。透。誰か。嫌だ。
それまでは何とも思わなかった父親の屹立した股間が、今はもうおぞましいグロテスクな怪物にしか見えていなかった。
「優しくしてやるからな……だいじょうぶだ……お父さんを信じろ……」
父のネットリと囁く声を耳にしながら、自分が手に持っている物に気づいた。
さっきまでたまねぎを切っていた包丁だ。それが怪しく煌めき、僕の視線は釘付けになった。この状況を打開する、おそらく唯一の干戈。
肛門に何かがぴとりとくっつく感触と共に、僕の感情は爆発した。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
包丁を振りかぶり、父の胸に突き立てた。皮肉を穿ち、胸骨を掠め、臓腑を刺し貫く。一度ならず二度、幾度となく鋩子で父を殺しにかかる。それはもはや抗拒ではない。
ただの殺人だ。
鮮血が舞って、身体が裂けて、血を浴びて、肉を抉って、赤い液体が床にこぼれて――
父親だった物に馬乗りになりながら、狂ったように刺し続ける自分を客観的に眺めていた。いつまでやってんだ、と僕は冷静なツッコミを入れていた。
眼下にある屍肉は乱雑に裂け、幾重にもなる谷のようだった。そこから赤黒い地下水が沸き上がり、脇へと血河となって零れ落ちる。生命の源はその自儘な働きによってフローリングを穢していく。
あれから五分間、疲れきった腕を何度も何度も振り下ろしていた。床から壁まで真っ赤なシミがついてしまっている。掃除するのが大変だ。
ふと、あの日イジメから透を守った時のことを思い出した。
振り上げたこぶしを止めてくれた彼女。
もしも透がここにいたら、僕を止めてくれたのかな。
「まあ……考えるだけ無駄か……」
僕は血にまみれた手でスマートフォンを操作して、警察に連絡をした。親を
「もしもし。父を殺しました。すぐ来てください。場所は――」
結果として、僕が裁かれることはなかった。
数々の虐待の証拠が刻まれた体と、裸になっていた父。出て行った母親。すべてが僕の正当防衛を証明していた。実際にそうであるかは別として。
優しい白衣のおばさんは言った。職業は何とか心理士って言ってたけど、忘れた。精神、肌感覚、神経、すべてが鈍磨していて、外界からの応答に反応する余力は残っていなかった。
「あなたは被害者よ。安心して」
僕は裁いてほしかった。
人を殺したのに、無罪放免なんておかしいだろ。
なんでみんな笑ってるんだ。誰か僕を罵れよ。人殺しって言えよ。
「おかしいよ……」
この世は狂ってる。違う。狂ってるのは僕だ。僕がおかしいんだ。みんなおかしい。消えたい。殺してくれ。
「助けて……」
社会の“法”という暖かさは、僕にとって霜烈な罰のように思えた。生き恥を晒せ、という。