窓の外には、車軸を流すように振る大雨。
照明が落とされた薄暗い教室に、咲の荒い呼気が染み込むように響いている。
彼女の
指先から流れる紅血は事の凄惨さに比べて少ない。しかし、咲の様子から見て、ひとかたならぬ苦痛があったであろうことは想像に難くなかった。
「蓮司……くん……」
ほとんど吐息のような呟きをこぼした咲に、僕はポケットから取り出したハンカチを差し出した。
「一応、濡れてないから使って。指は……保健室から絆創膏をもらったほうがいいかな。辛いなら僕が取りに行ってくるけど」
「……ごめん、なさい」
「え?」
咲のオニキスのように黒い瞳がさらに暗澹とした色を重ねて、目尻に涙を溜めた。
「ごめん……なさい……」
俯いて、まつげを震わせて、外の雨のような大粒のしずくをこぼす。
どのような気持ちによる謝罪なのか。苦渋は何に対するものなのか。僕にはそれを理解することはできなかった。けれど、咲が悲しんでいるという事実だけはハッキリとしていて、それを取り除こうと思った。――それが人として当たり前の行為だったから。
「どうして謝るの?」
「わたっ私……が……一緒にいると、あなたにっ……迷惑ばかり、かけて……しまう……から……」
嗚咽に遮られながらも、咲は必死に言葉を紡ぐ。
ふと、頭に重たい泥のような波が伝わってくるのを感じた。その発信源が目の前の少女だろうことは疑いようもなく、その正体が彼女の感情であることもまた然り。
これが電波か。たびたび似たようなものをうっすらと感じていたが、今回は手に取ったように存在を知覚できる。
「だからっ……もう……」
「いいよ」
僕は「どう答えるべきか」悩む過程を脇に追いやり、自身の考えを素直に述べることにした。自虐的に落ち込んでいるときに常識的な慰めはかえって逆効果だ。らしくない言い方も同じ。ならば、言葉は口でなく心に任せるしかない。どうせ彼女には嘘はつけないのだ。
「迷惑をかけてもいいから」
僕はハンカチで咲の涙を拭いながら、俯いた顔を持ち上げた。
「……っ」
咲は潤んだ瞳を躊躇いがちに泳がせていた。つんと高い鼻と頬を赤く染めて、乱れた髪が汗で張り付いている。
「けど……」
「放っておけないよ。辛いことがあったんだって知ってるから。それに、まあ……協力関係だし。まだまだ咲にはやってもわらないといけないこともある」
自分は今“どちら側”だろうか。善人の仮面を被っている蓮司か、罪人の仮面を被っている蓮司か。
「いくらでも自罰していいよ。そうしないと落ち着かないって気持ち分かるし。いっそすべてを拒絶して、このままひとりで生きていけば楽になれるっていうのもすごく分かる。だけど」
どちらだろうと、これは素直な気持ちだ。
「諦めないで」
「…………!」
咲の目が大きく開かれて、呆けたように固まった。
瞳にわずかな光が差し込み、
「あ……」
雨が、いつの間にか止んでいた。
部活は早退することになった。ジャージはずぶ濡れだし、靴はすっかり泥まみれになっている。これでは体育館を使うことはできない。予備を借りることも考えたが、咲を優先することにした。どうせ残ってもやることは筋トレだけだ。
美鈴たち三人組はすでに校舎からいなくなっているようだった。まあ、素直に待ってくれているとは微塵も考えていなかったが、明日からの対応を考えると少し憂鬱になる。まさか傷害沙汰は起こさないだろうと高を括っていたが、目論見が甘かった。どう説得したものか。
僕は濡れた路面を歩きながら、まだ雲が張っている空を仰いだ。
「家まで送ったほうがいい?」
隣にいる咲は、絆創膏を貼った指をじっと見つめていた。
「いいえ。そこまでする必要はないわ。もう十分に助けてもらったもの」
「まだ痛い?」
「そうね。
「そりゃよかった」
「ハンカチはちゃんと洗って返すから」
「お願いね」
「ねえ、蓮司くん」
「ん……なに?」
咲が暗々とした瞳をわずかに動かし、憚るようにこちらを
「前にも一度聞いたけど、あの日とは状況も変わったから、また訊ねるわ。どうして、私に構うの?」
「…………」
「協力関係、なんてすでに空事になっている状態よ。私はあなたと透くんを近づけるような情報も考えも与えられていない。そのはずなのに、あなたは雨に濡れてまで急いで私を助けに来て……どうしてなのかしら」
僕はそれに対する答えを持っているはずだったが、言葉が出てこない。脳内にある適した単語がぐるぐると回転して、僕の手からすり抜けていく感覚。理路整然とした文章を紡ぎ出せない。あやふやすぎる自身の感情と現状が、僕から声を奪っている。
返事を求める咲の瞳が、諦めたように僕から離れて、
「分からない」
とっさに、情けない返答が口を突いて出てきた。
咲の視線が戻ってきた。やおらにまぶたが持ち上がり、彼女の大きな目が皿のように開かれる。
「分からない?」
「母さんのこともあって、僕は透以外の女の人に心を開いたことがなかった。さっきの美鈴って子たちの名前だって、思い出せなかったぐらい」
余計なことまで話している自覚があったが、これは精査したうえで出力できる類のものではない。
「昔から顔がどうとかでチヤホヤされることがあったからさ。そういう目で見てくる相手が嫌だったんだと思う。でも、咲はそんなことなかったでしょ?」
「ありさは?」
「魚谷? そういえば、あいつもそうだな。なら、これだけじゃあ咲の質問の答えにはならないか」
うんうんと唸って脳みそを雑巾のように絞って答えを出そうとするも、ぴったりと合うものは見つからない。咲が自分と似ていたからだとか、境遇に同情したからだとか、そういう部分もあるが、それがすべてではない。あくまで大きなパズルの中のピースのひとつでしかないのだ。
だから、パズルの全体像を把握できない現在、結論は「分からない」に落ち着いてしまう。
「ハッキリした理由なんか無いよ。無理やり例えるなら、それは“咲だから”じゃないかな」
「私、だから……」
「キミが僕にとっての例外のひとりだっただけなんだよ」
「…………」
咲は唇に手を当てて、遠い目をした。思案の沼に沈み、余人を意に介さないほど深い場所へと潜っているようだ。僕の言葉をどう咀嚼したものか悩んでいるのだろう。若干、頬が赤らんでいる気がする。
彼女は見つけてくれるだろうか。僕ですらぼやけて見えない真実を。いいや、真実なんか無いのかもしれないし、その可能性のほうが高いだろう。
家が見えてきて、僕はそこで咲と別れた。
「ちゃんと気を付けて歩かないとダメだよ」
「えぇ、ごめんなさい。ぼんやりしちゃって……」
「じゃあね、また明日」
「また明日」
◆
私は帰宅すると、胸に込み上げる熱い感情に身を焼かれながら、足早に自室に向かった。臍下で燻っている炉が、早く燃やしてくれと、まるで追い立てるように私を急かしてくる。
「咲、ただいま」
奥のリビングから顔を出した弟の恵が、訝しげに首を傾げた。
「今日は早いね」
「えぇ。そうなの」
会話も早々に切り上げて、階段を登る。
自室に飛び込むと、視界に入るのは黒と紫が基調のゴシック風な調度品たちだ。座卓、ベッド、机、カーテン。それらすべてが私の求めている色と意味を備えている。
大きな引き戸の向こうは恵の部屋に繋がっている。なぜこんなプライバシーが微妙に侵害されている気がする家を建てたのか少々疑問だが、もしかしたら私が首でも吊るのではないかと両親に思われていたのかもしれない。異変があれば隣にいる弟がなんとかしてくれるだろう、と。
考えすぎか。この家が出来たのは私が幼いころだ。そのときにはすでに電波に苦しんでいたが、まさか自殺を考えるような歳ではあるまい。両親がよほど心配性だったとしても、もう少し別の間取りを考えるだろう。
「ふぅ……」
逸る気持ちを抑えて、ベッドに腰かける。カバンは乱暴に放り投げ、清涼を求めてブレザーを脱ぐ。すでに体の火照りは高潮に近づきつつあり、呼吸が乱れることを我慢できない。
蓮司の声が頭の中で幾度となく反芻される。意思と関係なく、耳の奥で鳴り響く。
『迷惑をかけてもいいから』
『それは咲だから、じゃないかな』
『キミが僕にとっての例外のひとりだっただけなんだよ』
私をプラスの意味で特別視してくれる言葉が、情緒を崩し、思考を攪拌する。家族以外でただひとり、私の化け物を知りながら、それでもそばにいてくれる人。そんな存在があらわれて、私は完全におかしくなってしまったようだった。
「はぁっ……」
高ぶる熱に背中を押されて、私は疼きを訴える下腹部に手を伸ばした。下着ごしに指で触れた途端、電気のような衝撃が全身を走り、脳を焼かれた。背筋が震えて、太ももをこすり合わせる。
こういうやり方があることは知っていたが、試すのは初めてだった。してしまうのが怖くて、一線を越えてしまいそうで、戻れなくなるような気がして。今までにも何度かこんな気分になったことはあったが、そのたびに我慢をしてきた。しかし、それももう限界だった。抑えられない。
「蓮司くん……」
彼から受け取ったハンカチを取り出し、鼻にあてる。そばに近寄ったときに嗅いだ、心が落ち着くにおいが鼻腔を突き抜けて、脳漿を鐘のように打つ。それが引き金となって、指を下着の奥へと潜り込ませる。
産毛の林を抜けた先にある秘所はすでにしっとりと濡れており、下着にも影響を与えていた。蓮司のことを考えただけでこんなにも濡らす自分の浅ましさに羞恥を覚えながら、恐る恐る指を動かす。
「んっ……く……」
肺腑から迫り上がる吐息を噛み殺し、声を呑み込む。眼を閉じて、暗闇に意識を集中させる。
達するまでの詳しい方法は知らずとも、自身の体が明瞭に教えてくれた。まだわずかに皮を被っている粒のような肉芽に指先が触れただけで、経験したことのない痺れがやってくる。それに導かれて、深く快感の底へと沈んでいく。比例して、体温が高まっていく。
「ふっ……んくっ! フゥ……」
一個のビーズを弄ぶように、陰核を指先でゆっくりと転がす。円を描いて、優しく弾き、
彼の指が私の肩に触れて、胸に触れて、秘所に届く。そんな身勝手な妄想を繰り返す。そんなことをするわけがないのに、してもらう権利もないのに、求めずにはいられない。
顔でチヤホヤされるのが嫌で、だから女嫌いになったと告白した蓮司に、申し訳なく思う。初めて会ったとき、彼の顔を見て素直に「キレイ」だと思った。一目惚れ、かどうかは経験が無さ過ぎて判然としないが、それに近い感情が生まれたことは間違いなかった。もしも協力関係になくても、彼のことを頭のどこかで意識していたことだろう。
だから、私は美鈴たちとなんら変わらないのだ。蓮司が私を彼女たちと違う、特別な存在だという判断は誤りだ。
私は彼のそばにいたくて、信頼されたくて、透を利用している。美鈴たちと違う? その点で言えばそのとおりだろう。私は彼女たちよりももっと卑しい、最低の人間なのだから。
『咲……』
耳元で囁かれた呼び声を想起させて、妄想と自身の動きを一致させた瞬間、腰を砕けさせるほどのショックが起こった。
「フッ――――」
罪悪感さえも自らを昂らせる材料にしてしまえる自分が嫌だ。
自分の醜悪な呻きは空気に溶けて消えていく。
「ハァッ……はぁぁ……」
まぶたを開いて、わずかに落ち着きを取り戻す。横目にちらりと見えた鏡には、しどけない姿を晒した私の姿が映っていた。淫蕩にふけり、紅潮させた顔。口辺からはだらしなく唾液を漏らし、ハンカチに染み込んでしまっている。眼は靄がかかったように呆けていた。ぼんやりと鏡を眺めている自分。それでも、手は休むことなく水音を立てている。
鼻腔をくすぐる蓮司のにおいに脳漿を侵されながら、初めての自慰に集中していると、陰唇の深い部分にある血管や筋肉がギュッと収縮しているような感覚がやってきた。何かが解放を求めて暴れている。
「ふ……んんっ!」
バネと形容すべきだろうか。限界まで押さえつけられたバネの反発力が、私の体から飛び出そうとしているのだ。それを留める方法は、指で秘所を刺激し続けること。手を離せば、バネは私の体をどこかに連れて行ってしまう気がした。
陰核はすっかり固くなり、それこそ本当にビーズのようになっている。痛めないていどに、指に力を込めた。品性などない獣の如き暴挙。ただ快感を貪り喰らい、自分自身を辱める。
やがて、限界がやってきた。火照る
でも、もう抑えきれない。
スパートをかけて、最後の一押しを加える。体が強張り、呼吸が止まる。全身がひとつのかたまりになっていくような感覚。触らずとも分かるぐらい、乳首がぷっくりと立ち、
「ッ――――」
昂りが頂点に達した瞬間、指を離す。
「ンンン――――――――――ッ!!」
絞められた鶏のような甲高い悲鳴がこぼれる。
体の神経すべてを焼き切るような強烈な快感の津波に、私の意識は瞬く間に飲み込まれた。初めての経験である私を顧みない勢いで、
「うぅっ……く……んぅ……ッ!」
咽頭を絞り上げるような苦鳴。
尻から腰にかけて別の生き物のようにビクビクと痙攣し、その震えが起こるたび、ポンプのように脳髄へと快感の稲妻が駆け抜けていく。
足は針金を通されたかのようにピンと伸びてしまっており、わずかに痛みを覚えた。
数秒――数分にも思える――の時が経過して、私の体から力という力が抜けきった。汗ばんだ首筋に空気が流れ込み、ヒンヤリとした冷気を与えてくれる。火照った体には特に心地よいものだ。
「はぁっ……」
酸素を求めて口を開いた瞬間、ポロリと落ちるものがあった。ハンカチだ。私は無意識にこの布を咥えてしまっていたらしい。すっかりよだれで濡れて、見るに堪えない姿となってしまっていた。
貸してもらったものを余計に汚してしまうなんて。
「…………っ」
臍下に集中していた血液が、脳に戻ってきて、冷静さが鎌首を
良くしてくれた蓮司を出汁にして、自慰に耽溺している自分に嫌悪が募った。獣欲に促されたまま達した悪辣の徒を、できることならば体から切り離してゴミ箱にでも投げ捨てたかった。
鏡に映る私は下劣を窮める下女そのもの。乱暴に弄った秘所からこぼれる蜜は白く泡立ち、太ももまでも濡らしていた。下着だけでなく、ベッドのシーツも替えなくてはならないだろう。己の欲望の痕はそれほどまでに領地を広げてしまっていた。
おこないの愚劣さに目を背け、そばにあったティッシュ箱から紙を引っ張り出し、濡れた箇所を拭いていく。ひどく惨めな気分だった。まだ昼間だというのに、なにをしているんだ。
「……………………」
一息ついて、ふと弟の部屋に通じる引き戸が気になった。あの恵に限ってそんなことはないと思うが、盗み見でもされてはしないかという不安がふと込み上げたのだ。
まだ力が戻っていない足を叱咤して、なんとか戸口へとたどり着く。
「…………」
意を決して開いた――が、部屋には誰もいなかった。
ついでに廊下も確認したが、一階のリビングからゲーム音が聞こえてくる。どうやら思い過ごしだったようだ。
「こういう場面を身内に見られて羞恥で死にたくなる、なんていう話がネットにゴロゴロ転がっているけれど……」
自分の身に起こらなくてよかった、と私は胸を撫でおろした。今度からは家に誰もいないときを見計らってしないといけない。
そういえば唾液まみれにしてしまったハンカチ、ちゃんと洗わないと。
「蓮司くん、ごめんなさい」
この場にいない彼への謝罪は、壁に吸い込まれていった。
七月半ば。
太陽ははるか高い位置にあり、地上に灼熱を作り出す季節。夏真っ只中。
この時期の人ごみはまさしく煮窯である。人
もうすぐ夏休みも始まろうというこの時期に、
「夏祭りです~っ!」
透が大はしゃぎでそう叫んだ。
現在、私たちいつもの三人は放課後の教室で談笑をしている最中だった。
蓮司から、透たちに美鈴との一件――いくつか要点をぼかした内容――を話してくれた結果、彼女たちも一緒に残ってくれることになったのだ。もちろん、私は拒否したが、強引に押し切られる形になったことは詳しく説明するまでもない。
また迷惑をかけてしまっている、なんて思ってしまうことこそ、彼女たちに対して失礼だろうか。私への好意に曇りがないことは、電波でいくらでも察することができるのに。
「もうすぐ夏祭りですよっ! うおちゃん! はなちゃん!」
「楽しみだなぁ! ヒヒヒ」
ありさはニヤリと笑いながら、目に炎を灯した。
「去年は面白かった! 出店で景品を取りすぎておっちゃんが泣いてたし! またやってやるか!」
「おじさんが少々不憫に感じましたが……でも、うおちゃんとってもかっこよかったです!」
「フッ、透……あたしのことは的当ての神と呼んでくれ……」
「はい! うおちゃんっ!」
「呼べよ!」
「はわっ! す、すみませんっ!」
「にしても、夏祭りか。今回は三人で行くんだよな?」
「はなちゃんがよろしければ、一緒にお祭りがしたいです!」
楽しい話に誘われて、私は快諾した。
「いいわ。夏祭りなんて、家族とすら行ったことがないから楽しみね」
もちろん、人の集まるところに行くと電波による悪影響が懸念されるが、これはチャンスだ。――蓮司の役に立つための。
「それで、なのだけれど」
「はいっ」
「他に誘いたい人がいるのだけれど、いいかしら」
「どなたでしょうか?」
「……蓮司くん」
私の返答に、透とありさは言葉に窮した様子だった。女子の集まりに男子をひとり混ぜることにも抵抗があるのだろうが、透からすれば苦手な相手で、ありさからしたら信用ならない男だ。即答しかねるだろう。
三秒ていどの間があって、ありさが沈黙を破る口火を切った。
「いいんじゃねえの。透はどうだ? おまえが嫌なら断るが」
「私はだいじょうぶですよ。はなちゃんがお誘いしたいのなら、喜んでご一緒しますっ!」
私は安堵して「それはよかったわ」と呟いた。
これでもう少しは、胸を張って蓮司のそばにいられるだろう。