この夏も、次の秋も、私になんの憂いも与えなかった。以前ならば家に閉じ籠り、外から聞こえてくる同世代の子供たちの声を羨ましく思っていただろう。
今の私はすでに鳥かごの中ではなく、その羨む声と同じ道を歩んでいる。透とありさ、そして蓮司と共に。
彼女たちに連れられ、見たことのない景色に心を躍らせる。
今日を惜しみ、明日に期待して過ごすこと半年。
楽しい日々は
うだる暑さから穏やかな秋風の移り変わりに寂しさを覚え、冬の到来を衣替えと一緒に受け止める。これもまた初めてのことだった。
この季節になり、両親は私の様子にやっと
心が削れるような毎日に怯えていたのは私だけではないのだ。また娘が良からぬことに巻き込まれやしないかと不安だったに違いない。ありさに対して不審に思っていたとして、誰が責められようか。
弟の恵だけはありさへの偏見もなく接していたが、それはたぶん私の人を見る目を信じていたからだろう。
「おおー! 今日も真っ赤な夕焼け!」
ありさがわざとらしく、茜色の空を仰いで言った。
透は見惚れている様子で「はい……」とこぼす。
山向こうに沈んでいく夕日は、街に明暗を落としこみ、みっつの影が伸びていく。けれど、私にとってはこの空がちょうどいい。昼間の太陽は輝きすぎて直視できないが、夕暮れの太陽はこうして眺めることができる。
「優しい色」
私がぽつりとつぶやいた言葉に、
「はい……っ」
透が嬉しそうにうなずいた。
同じ空を見上げ、同じ気持ちになり、同じ笑顔を浮かべている。
「……明日もいい天気ね」
「そだなー」
中身のない、ありふれた会話。根拠もなく浮かんだ予想。
大した意味などないことを口にすれば、大して意味のない言葉が返ってくる。これが友達、というものなのかもしれない。
たとえ違うとしても、私にはこれがいい。
身を焼くほどの太陽と、冷たさを感じる月のあいだで、ずっと過ごしていたい。寒ければ太陽に、暑ければ月にいつでも甘えられる私は、この世でも指折りの幸せ者だ。
そうして自分が何者なのかを忘れそうになった頃、悪魔はふたたびやってきた。
季節は冬。十一月。
「前にいた中学の友達から聞いたんだけどさ」
クラスメイトの女子が何気なく、私に言った。
きょうも私は蓮司の部活が終わるのを待っており、透とありさと一緒に教室に残っていた。いつものように雑談にふけり、ネットで面白い動画なんかを見せ合い、夕暮れの教室で意味のない会話をする。
その輪に、他のクラスメイトが混ざることはたびたびあった。誰が誘ったとかではない。彼女たちも暇で、ほかに行くところもなく、意味のない時間潰しをしたかっただけなのだろう。
「花島さん。小学生の頃、同じクラスの男子をさ……」
透とありさがきょとんとするなか、私はさーっと頭から血の気が引いていた。
「殺しかけたって。……それってホント?」
頭蓋の中身が掻き出され、空洞になり、風が吹き抜けていくような感覚。代わりに底から溢れ出た黒いものが頭蓋を埋め尽くしていく。
――……かけた。
女子は若干の怯えを見せながらも、いったん開いた口を閉じられないのか、話を続けた。
「なんか……なんだっけ? ど……毒電波? ってやつで」
「ど……? え……?」
透は水晶のような瞳を丸くして、首をかしげた。
ちょうど、私は彼女の髪を結ってあげている最中だったのだが、もはや手は完全に止まっていた。自分がどこまで編み込んだかすら覚えておらず、続きをおこなうのは不可能だった。
――殺しかけた。
反芻される言葉。
罪咎。
私を殻に閉じ込めていた、目を逸らそうとした部分。
「うちにもよくわかんないけどっ……なんかスゴく怖いって!」
女子の不明瞭な説明に、ありさの明眸が険しくなる。
けれど、ブレーキを見失った語りは場の雰囲気すら置き去りにして、ウワサとやらをすべて吐き出すつもりのようだった。
「元々、花島さんすごい不良で、タバコとか吸って、止めに入った女子の腕とか焼いたって」
――“殺し”かけ……。
あれほど自分が罪人であることを忘れないようにしていたのに。
戒めていたのに。
記憶の隅に追いやってしまっていた。
「それで問題になって転校……」
悪魔が囁く。
――おまえは人を“殺し”かけたのだ。
それをハッキリと自覚した瞬間、
「いたっ……!」
なにかが私から放たれ、先ほどまで口舌を回していた女子が頭を抱えて倒れた。
ハッとして我に返り、自分がなにをしたのかを察する。
「……ったあ」
幸い、頭痛は持続しなかったようで女子はすぐ起き上がった。
彼女の友人が肩を支えて、立ち上がらせる。
「や、やだ……どうしたの?」
「なんか今……急に頭、ズキッって……」
不思議そうに目を合わせる透とありさ。
偏頭痛とでも思っているのだろうか。そうではない。これはれっきとした人による害。
私の胸にわだかまる鬱屈した感情こそが禍因であることを知っているのは、蓮司だけだ。なにひとつ話していなかった彼女たちが知るところではない。
私の一番知られたくない部分を隠して、彼女たちと半年間過ごしてきた。嫌われたくなかった。あのときの蔑む目を彼女たちが私に向けたらと思うと、夜も眠れなくなるほどだった。
「花……島……さん。今……」
女子の口から、透たちの疑問の答えが吐き出される寸前、
「……ッ!」
私はわき目もふらず、スカートを翻して教室を飛び出していた。
「はなちゃん……っ!?」
背後から追いかけてくる、ふたりの足音。
近づかないで。
怖い。
また私、力を使ってしまったの……?
階段を駆け上がり、踊り場で足を止める。窓から差すのは夕暮れの優しい光だった。でも、私の黒ずんだ心を包み込むにはまるで不十分で、むしろ太陽にも月にもなれない私をあざ笑っているとすら感じてしまった。
「はなっ……はなちゃん!」
息せき切って駆けてきた透とありさが、階段の下で私を見上げた。
追いかけてこないで……。
段差に足をかけた透に、
「だめよ……」
私は彼女を遠ざけるために、両手を突き出した。
大切な太陽を、汚したくなかったから。
「近づいたら……だめよ。だ、黙っていたこと……謝るわ……だから……」
なにをどう言えばいいのか分からない。
どこから説明していいか分からない。
だけど、透たちが私と一緒にいてはいけないということだけはハッキリと分かる。
「だからもう……私なんかと一緒にいてはだめよ……私、本当に力があって……殺しかけて……」
説明になっているかも怪しい言葉を、泥の溜まった脳みそを絞り、吐き出す。
「だから……ダメ……」
透が歩みを寄せてくる。一歩一歩……私が張った壁など見えないかのように。そんなものは無いとでも豪語するかのように。
最初からそうだった。
彼女は私が作った壁をものともせず、心を寄せてくる。だけど、それは乱暴なものではなく、暖かな光が氷をゆっくりと融かすかのようだった。
だから私は自分の中にある物を忘れてしまった。氷に閉じ込めていたはずのものを置いていき、彼女の暖かさに甘えてしまった。
もう誰も傷つけたくない。
私は裁かれるだけの存在でいるべきだった。
不相応な夢を見てしまった。憧れてしまった。太陽に触れようとしても、蝋の翼すらない私には届くわけがなかったのに。鎖に繋がれた私には、そんな権利もなかったのに。
だから、私はこのままで……。
「はなちゃん」
太陽……透の手が、私の手に触れた。
「こんなに近くにいるのに……」
すっと体が近づき、彼女のまばゆい眼差しを……私は直視した。
「私たち、まだこんなに近くに……いるのに……離れるの嫌です……」
互いの十指が絡まり、離すものか、と強く結ばれる。
「私はまだ知らないことがたくさん……あるかもですが……でも……離れていかないでください。はなちゃん……」
透の眼目にうっすらと涙が溢れて、夕日できらめく。
「大好きです。はなちゃん」
うわべを脱ぎ捨てた、生の言葉。
それがすべて。
それが真実。
それこそ、私たちが育んできた感情。
罪とは関係なく、罰とは無縁だったからこそ辿り着いた透の結論。
大好き。
たまらなく、胸を打った。
「で、でも……わた、私は……!」
拒絶しなければならない。
彼女たちを傷つけてしまうかもしれない。許されないことをしてしまうかもしれない。
神がいるのならば、私のような罪人にこんな安寧を認めてはくれないはずだ。
「――おまえが決めろよ」
ありさが階段の手すりにもたれかかりながら、見上げていた。
「なんかいろいろ決めつけんなよ。おまえは離れたいのかよ?」
まっすぐ向けられる、信頼のまなざし。
金色の髪の奥から覗く瞳は、神や仏すらも一笑に付しそうな強さに満ちていた。
「……知りたいのはそれだけだよ」
――決めつけたりしないで。
耳元で囁いていた悪魔の声が消え、かつて父が私にくれた言葉が蘇る。
……あの頃。
帰る日、見上げる夕日は震えるくらい寂しく見えた。
その光に優しさなんて微塵も感じなくて、私を置いてどこかへ行ってしまう夕日を見送っていた。
不思議……いつの間にか優しく見えて。
伸びていく影がひとつじゃなくなった。
それだけのことなのに。
たった……それだけのことなのに……。
「一緒に……いたい……」
気づけば、私は嗚咽と一緒にそうこぼしていた。
「一緒にいたい……っ!」
溢れる涙を拭うことすらせず、哀願する。
透の涙と私の涙が、冷たい階段に落ちていく。
ぼやけた視界で、私は見た。
窓から降り注ぐ光。
階段を伸びていく、みっつの影。
重なる影。
ふいに、まぶたの裏で、あの日の恵の切実な祈りが映し出された。
祈るよ。
大切に思ってくれる人がいないなんて、そんなことあるはずがないから。
だから……。
「諦めないで」
大好きな人たちの声が、耳の奥で重なる。
私を支えてくれている。
「透くん……っ」
ひたいを寄せると、涙が堰を切ったように流れだした。
一緒にいたい。
三人で、いつまでも。
ふと、バタバタと慌ただしい足音が近づいてくるのを聞いた。
「咲っ!?」
飛び込んできたのは蓮司だった。部活のユニフォームを着たまま、冬場だというのに汗だくになり、血相を変えている。
「あ、あれ? 透と魚谷……三人でどうし……え!? ふたりとも泣いてる!?」
「おまえなぁ……」
ありさが呆れ顔で彼の肩を引っ掴んだ。
「いきなり飛び込んできやがって、部活はどうした!? っていうか、よくここが分かったな!?」
「え!? だって咲の声が……あっ」
「声ぇ?」
ふたりだけの秘密だったはずだが、これはさすがに誤魔化せまい。それに、もう隠し通す理由もなくなった。
それにしても、またしても私のために部活を抜け出してくるとは。そこまで気を遣わせていることがとても申し訳ない。
涙も乾き、私は階段を下りた。
「ごめんなさい、蓮司くん。こっちで解決したわ」
「それならよかったけど……なにがあったの?」
「そうね。説明が必要よね。あなただけでなく、透くんとありさにも」
「いいの?」
「えぇ。いいのよ。ありがとう蓮司くん。これまで秘密を守ってくれて」
それから、私は教室に戻り、彼女たちにこれまでの人生を語った。
ずっと秘匿してきた内側。そのせいで溜まった心の澱みを洗い流すように、ひとつひとつ吐露していく。
いじめ。殺意。転校。
そして蓮司との関係。もちろん、透に関する部分はぼかしたが、ありさはすべて見透かしているようだった。
今日に至るまでを話し終えると、
「お話してくれて、ありがとうございます。はなちゃん」
透はまた目尻に涙を浮かべて、穏やかに微笑んだ。
「私、全然知りませんでした。はなちゃんはどこか陰のある表情をなさるので、きっと過去になにかあったのだろうと思ってはいました。けれど、そんなにつらい目に遭っていたなんて。なのに私はお察しできず……お友達失格ですね……」
「気負わなくていいのよ、透くん。むしろ、助かっていたわ。私について知らないあなたたちだからこそ、こうして前を向いていけるようになったのだから」
「はなちゃん……! 私、これから電波について勉強します! まずはテレビについて調べた方がよろしいでしょうか!?」
「それはちょっと違うわね」
「違うのですか!?」
「カニとエビぐらい違うわ」
「でもよー」
ありさが不満そうに口を尖らせた。
「蓮司だけは知ってたっていうのは、やっぱ引っかかるよな~。そのおかげで、花島も気が楽だったのかもだけどさ~」
「それもあるけど、私と彼には通じる部分があったのよ」
「なんだよそれ。まさか、こいつも?」
「いいえ、彼はただの人間よ」
「そんなセリフ、バトル物の漫画でしか見たことねえぞ。人の心を読める電波、ねえ。んでも、蓮司の反応からしても信じるしかないんだよな」
「納得してもらえたかしら?」
「まあ、その部分はな。でも、なんで蓮司にだけは話したんだ」
「それについて、彼の口から聞くべきね。私が勝手に語っていいことではないわ」
当の蓮司は部活に戻らず、頬杖をついて黙っていた。
練習を途中でサボってもなにも言われないのだろうか。サッカー部のエースだけあって、優遇されているということか。
「僕は……」
と、彼は透をちらりと見て、口をもごもごと動かした。
「僕はいいけど……キミたちからしたら不快な話かもしれないよ……?」
「微塵もよくなさそうな顔してるじゃねえか。話せ」
「魚谷って容赦がないね……」
「他人の言えない秘密ほど興味をそそられるもんはないだろ?」
「下世話!」
私に続いて、蓮司も訥々と語り始めた。
彼との協力関係についてすべて説明しようとすると、どうしても触れなければならない過去だったとはいえ、割とむごいことをしている気がする。
話が進むうちに、ありさの顔から余裕が消えていく。ポカーンと口を開けて、最終的には信じられないものを見るような表情へと到達した。
「……母親が浮気して出て行って、おかしくなった父親に襲われたから殺したぁ?」
要約すると、そうなる。
「だっ……いや、え? 待て待て待て。花島の話だけでもかなりレベル高かったのに、別ベクトルで闇深い話が飛んできたんだが」
透も衝撃的すぎたのか両手で口元を覆っていた。
「蓮司くん……あの……そんな悲しいことをお話させてしまって……」
「いやいやいやいや! 全然気にしてないから! それよりも、こんなことを話して……気持ち悪いよね、僕」
「そんなことはありません!」
透は身を乗り出し、真剣な眼差しを見せた。
「蓮司くんはとてもすごいです! 尊敬します! それに、やっと分かりました。あの日から蓮司くんの様子がおかしかった理由が……」
「覚えてたの……?」
「はい。ですが、そんなことがあったとも知らず、私は蓮司くんを遠ざけていました……すみません」
「悪いのは全部僕だよ。透が気にすることじゃない」
「それでも……」
と、話が堂々巡りになりそうだったところを、ありさが手のひらを向けて制した。
「とにかく! 事情は全部把握できたわけだな」
「あ、あぁ……」
「おまえと通じるところ、ね。あたしんとこの家族もさあ、母親が浮気して出て行って、親父が腑抜けちまったからなんとなく分かるよ」
「初めて聞いたな」
「透以外に話すのは初めてだしな。父親に関してはおまえを傷つけない言葉が見つからないけど、母親の方に関して言えることはあるぞ。めちゃくちゃ幸せになって、再会したときに思いっきり笑ってやれ。『僕はあんた無しでもこんなに立派に生きてるぞ!』ってな」
「ありがとう。魚谷」
復讐、と呼べるかも分からない提案。
けれど、それがもっとも健全な仕返しなのだろう。蓮司は父殺しという誤った選択肢をしてしまった。誰に頼ることもできず、追い詰められた末の結果だ。
いまは、私たちがいる。きっともう二度と同じ過ちは繰り返さない。
幸せになることが、蓮司に相応しい道なのだ。
「でもまあ、あたしとおまえは似てんだな。そこらへんは」
「だね。似てる」
「へへっ」
険悪だったように思えたふたりの仲が、互いの共通点を見つけて改善されたことを私は喜びたい。
けれど、少し胸が痛んだ。
私だけが知っていた蓮司の闇。私だけを頼ってくれた彼。私だけだった彼の仲間。
過去が共有され、この場の全員が知ることとなった。蓮司は透という光を得て、ありさという仲間を得た。頼るべき人が増えたのだ。
なのに、この結果を望まない自分がいた。
これは嫉妬なのだろうか。
心のどこかで、私の暗い部分が鎌首をもたげる。
もしも話さなければ、蓮司はいつまでも私の物でいてくれたかもしれないのに。
ありえない、と笑い飛ばす……こともできず、じくじくと刺すように痛む胸に触れる。
「んじゃ、帰るか」
各々席を立ち、バッグを持つ。
「蓮司は制服に着替えないとだから、ここで解散だな」
「私は彼と帰るわ」
「おう、花島。ちゃんと送ってやれよ」
別れる寸前、透が言った。
「蓮司くん。もしも辛いことがあったら、なんでもご相談なさってくださいね。できる限り、協力しますから。だから、どうかひとりで抱え込まないでください」
「う、うぅぅぅぅ……」
案の定、蓮司はボロボロと泣き出した。
「ありがどう……どおるぅぅぅぅぅぅ……!」
「えぇっ!? そ、そこまで感激されるとは……あわわ……」
もはや滝のようになっている。
この様子だと、脱水するまで泣いていそうだ。
「ほら、帰るわよ」
「どおるぅぅぅぅまた明日ぁぁ~~~~!」
私は蓮司の襟首を引っ張って、連れて行った。
帰り道。
すっかり星も出始めた紫色の空を私たちは見上げていた。
肌に障る寒さで震えると、蓮司が着ていたジャケットを肩にかけてくれた。
「これで平気かな?」
「……ありがとう、蓮司くん」
彼のジャケットのにおいと、残っていた温かさに包まれた恥ずかしさで、カッと顔が熱くなる。
「蓮司くん、過去を知る人間が増えて少しは気が楽になった?」
「うん? まあ、少しは」
「期待していたほどではなかったかしら」
「だって、半年前に咲に知ってもらえただけで僕は十分救われたから」
蓮司は柔和に微笑み、歯の浮くようなセリフをあっけらかんと言ってのけた。
「僕には咲がいてくれた」
先ほどよりも顔の熱が高まる。
もはや彼の顔を直視などできず、視線を地面に落とした。
「そ、そう……それは……よ、よかったわ……」
「どうかした? 顔、真っ赤だけど……」
「なんでもないわ。本当に、なんでもないのよ。ちょっと、風邪気味かもしれないわね」
「ほんとに?」
瞬間、蓮司の手が私の前髪が持ち上げた。外気にさらされた私のひたいと彼のひたいがぴたりと触れ合い、熱を分け合う。
鼻先まで迫った彼の顔。吐息がかかる距離。あと少しで唇まで触れそうな、至近。
「なっ……あっ……」
思考は完全にショートして、声は言葉にならなかった。
「うーん。確かに熱いかも。きょうは早く帰った方がいいね。……あれ? 咲? さっきより顔が真っ赤なんだけど……」
「あ……だって、それ……」
「え?」
「ちかかった……から……っ」
どうにか声を絞り出す。
すると蓮司も自分がなにをやったのか気づいたのだろう。大慌てで離れた。
「うわ! ごめん! マジで! 僕、完全に無意識で……マジでごめん!」
「いいのよ……平気だから……」
「ほんとごめん。あぁぁぁぁ……やっちゃった……」
「気にしないでいいのよ。別に、嫌ではなかったし。本当に、気にしなくていいから」
ドギマギとした清算できない感情に私たちは揺られながら、歩みを再開する。
「女子……っていうか、他人にこんな馴れ馴れしいことはしないんだけどね。なんでだろ……なんでやっちゃったかな……」
もしかしたら、私が「してほしい」と心の底で願っていたから、なのかもしれない。その想いが電波に乗って彼を動かしてしまったのなら、悪いのは私だ。
根拠などはないが、そう説明したほうがいいだろうか。
でも、もう少しだけこのままがいい。慌てふためく蓮司が可愛いから。
と、そろそろ彼の家が見えてくる頃だった。
「……ん?」
玄関に誰かが立っている。
人影はこちらを見つけるなり、手を振ってきた。
「――あれ、お帰り蓮司」
隣にいる蓮司の顔が険しくなり、鼻頭に深いシワが刻まれた。
「……母さん」
「え?」