蓮司が母親と呼ぶ女性。
一目見て、綺麗な人だと思った。眼の形、瞳の色、まつげの長さ。鼻筋。つぼみのような唇まで瓜二つ。スタイルも良い。モデル顔負けで、手足の長さまで親子といった感じだ。
けれど、決定的に違う部分がある。
他人を見下しているかのような視線と、冷たい雰囲気だ。それは息子である彼に対しても同じで、感じ取れる電波には、みじんも愛情と呼べるものはない。
いままで、蓮司から母親がどういう人間かほとんど聞いたことがなかった。だが、こうして対峙してみれば分かる。蓮司は心の底から母親を憎んでいると。
「久しぶりに会いに来ちゃった。どう? ひとり暮らしは?」
軽薄な態度をとる母親に対し、蓮司は敵意丸出しで睨んでいた。
「おかげさまで。引き取るって言った親戚は権利だけ取って、僕をこの家に残したけどね」
「それはよかった」
「は?」
「だって、そうするようにお願いしたの、私だから」
……なんて言った?
私は蓮司とともに目を丸くして、言葉を失った。
我が耳を疑い、自分の常識を疑い、ぐるぐると考えが巡った末に、この母親の言ったことがおかしいということにようやくたどり着いた。
「なに言って……」
「この家を空き家にしたくなかったし、かといって親戚に住まれるのも嫌でしょう? その点、蓮司ならちゃんと掃除してくれるだろうし」
名案を語るように告げられる事実に、蓮司は呆然としているようだった。もちろん、私も。
母親が
この父親の血が染みついた家でたった独り過ごしていた蓮司が、いまどんな想いでいるのかは手に取るように分かる。
彼から送られてくる黒い電波が瞭然と告げているのだから。
「おかしいとは思ってたんだ。でも、そんなの聞き入れるわけが……」
「私の再婚相手がね、そこそこ大きい会社の人でね? 親戚の勤めてるところがそこの子会社だから、ちょっと頼んだら快く承諾してくれたのよ」
「そう……なんだ」
彼の口から諦めに近い声が漏れる。
「まあ、そんなことどうでもいいわよね。それより、そっちの子は?」
毛ほどもどうでもよくはないと言おうと思ったが、こちらに水を向けられたことに若干の動揺があり、私は声を発することができなかった。
いままで、いやこの瞬間さえ彼女の野放図な態度に、私は憮然たる気持ちを抑えられずにいる。常識の埒外にある存在を前にした人間がとれるのは、ただ唖然とするのみ。
「この子は同じ学校の」
「お名前は?」
「もう二度と会わないんだから知る必要はないだろ」
「ひどい。でも、美人な子ねぇ。もしかして、蓮司の彼女?」
「ただの友達だ」
「そうなの。よろしく」
と、握手のため私に伸ばしてきた手を、
「この子に触れるな」
蓮司が乱暴につかみ取った。
「あんたのような人間が触れていい子じゃない」
「ひどいこと言うわね……私はあなたのお母さんでしょう?」
「もっと早く聞きたかったよ。今じゃあクソほどの価値もないセリフだけど」
「乱暴な子になっちゃって……」
母親は悲しみと呆れを面に刷いたかと思えば、
「私の名前は大蔵舞子。姓は再婚先の名前よ。うちの蓮司がお世話になってます」
いま一度私に向き直り、恭しく腰を折って頭を下げた。
この傲慢と丁寧がカクテルされたような態度。その裏から発している電波は底抜けに明るく、常人ならば罪悪感を覚えるこの状況に一切の良心の呵責をないことをあらわしていた。
ハッキリ言って、怖い。どことなく、人の感性とは隔絶されたものを感じる電波だ。
「花島咲……です……」
「咲ちゃんっていうの? よろしくね~」
「母さん」
と、蓮司は警戒心を強めたまま、私を庇うように前に立った。
「いい加減、なにしに来たか言えよ」
「お話するのに、家にもあげてくれないの?」
「このまま立ち話だ。家には絶対あげない」
「足がむくれちゃう」
「静脈瘤ができるぐらい立たせてやるよ。さっさと理由を言わないと、赤色灯のついたタクシーを呼ぶぞ」
「乱暴ねえ……」
舞子は悲嘆をにじませた顔でため息をついた。
「私たちね、この家に引っ越そうと思ったのよ。だって、高校も近いでしょう? 旦那の連れ子がね……あ、女の子なんだけどね。そこに通いたい、って言うから、提案してみたのよ」
「あんた、よく言えるな」
「なにが?」
「事件があったのに、この家に住もうなんてよく言えたなって言ってんだよ!」
「事件……あぁ! あの男、殺したんですってね? 追い出す手間が省けたわ」
「ふざけんな!!」
ダンッ、と音をたてて、蓮司は塀を殴った。
よっぽど怒りに満ちていたのか、手加減のされていない殴打は、彼のこぶしを無惨に痛めつけていた。指から鮮血が溢れ、ポタポタと垂れ落ちている。
彼が発している電波はドス黒く澱んでおり、しかし火焔のように燃え滾っていた。矛先を向けられていないにも関わらず、私の頭を締め付けるようなこれは……紛れもなく、殺意だ。
「父さんをなんだと思ってるんだ!?」
「どうして怒るの? あなたを襲ったような男でしょう? ただのクズじゃない」
「誰のせいで……っ!! 父さんがおかしくなったのは、あんたのその言動のせいだろうが!!」
「死んだ人間のことじゃなくて、もっと未来を見ましょうよ。あなたはまだ若いんだから」
宇宙人がいるとすれば、こんな存在なのだろう。私は舞子を見て、そう感じた。
根本的にズレている。
会話ができているようで、できていない。
この人は自分が絶対の正義だと信じ切っていて、他人はそれに無条件で従うべきだと決めつけている。そのくせ、反対されても怒るのではなく、呆れを滲ませている。もしこんな人間と一緒にいたなら、頭がおかしくなってもしかたがない。
どうやって結婚できたのか不思議に思うところだが、現実というのは意外とフィクションをバカにできないことが起こるものだ。なにより、アラフォーだろう現在でもかなりの美形に見えるほど。世の男性が騙されてもおかしくはない。
蓮司はもう怒りを抑える限界のように見えた。肩を震わせて、両のこぶしを固く握っている。爪が皮膚に食い込んでいるのか、指の隙間から生血が見えた。
彼がこれだけ言っても、まるで影を
「パトカーだけじゃなくて救急車も呼ぶようにしてやろうか」
「あなたも新しいお父さんがいたほうがいいでしょう? 妹……というか、同い年の女の子も家族になるのよ? きっと楽しいって」
「家に一歩でも踏み込んでみろ。僕はためらいなく火をつけるからな」
「ほら、部屋だって空いてるじゃない? どうせひとりだと持て余してるんでしょうし……やっぱり子供は親と暮らすのが一番よね。安心して。弁護士と相談すればすぐ……」
「――帰ってください。蓮司くんが嫌がっています」
聞いていられなくなって、私は差し出がましいと思いつつも中言した。
正直、ビンタの一発でもくれてやろうかと思った。けれど、暴力的な行為は超えてはならない一線だ。理由はどうあれ、口舌の争いをしている内にこちらから手を出せば、悪いのはこちらになる。
私は一歩踏み出し、蓮司の隣に立った。彼の支えになるために。
舞子はキョトンと丸めた瞳を浮かべていた。
「咲ちゃん。これは私たち家族の問題なのよ?」
「いいえ。あなたと蓮司くんは家族ではありません」
蓮司がハッとして、こちらを向く。
舞子は相変わらず合点のいってない、もやのかかったような表情だった。
「どういう理屈でそう思うの?」
「蓮司くんを冷たく突き放したからです。それ以外にありますかしら?」
今回、私はこのまま黙っておこうと思っていた。だけど、できるわけがなかった。
蓮司が発している電波はずっと「母に対する期待」が混ざっていたからだ。ひどい裏切りを受けてもなお、いまの彼は心の隅で舞子に「母」を求めている。
だが、それはまったく叶わず、いたずらに心を傷つけられているだけだ。
誰が見過ごせるだろう。
「これ以上は無駄に蓮司くんを悲しませるだけです。少しでも親心があるのなら、帰ってください」
「あなたにそんなことを言う権利はないでしょう」
「私は蓮司くんの友達です。それではダメですか?」
「つまり他人じゃないの。私はね、この子の実の母親よ?」
「血の繋がりしか誇れるものがないんですね」
「このっ……!」
突如、舞子がカッと怒りをあらわにした。
いままで息子のどんな言葉にものらりくらりとしていたというのに、他人による直球の嘲りが、彼女の逆鱗を刺激したのだろうか。
フッ、と舞子の腕が振りかぶられる。開いた手は狙いを私に定め、言葉による応酬を暴力で決着させるために動き出す。
それがスローに見えるなか、私は防御も取らずに呆然としていた。
明確な危機。
かつてのいじめが想起される。
殴られても、誰も助けてはくれなかった。おこなわれる暴虐を、亀のように縮こまることでしか回避する術を持たなかった。そんな鬱屈した日々に、思考は押しつぶされてしまっていた。
だから、私には避けるなどという機能は備わっておらず、いまこの瞬間、甘んじて攻撃を受け入れるほかに道はない。
そう思っていた。
「あっ!」
舞子の平手は、横から割って入った蓮司の頬を打った。
彼の赤く染まった皮膚に一筋の亀裂が走っており、そこから鮮血が涙のように溢れ、伝い落ちていく。舞子の爪が裂いたのだろう。
髪を乱し、目を伏せる蓮司。黙して、深いため息を吐いている。
「れ、蓮司くん、だいじょうぶ?」
「……うん」
「ごめんなさい。私を庇って……」
「気にしないで……」
私はハンカチを取り出して、血を拭った。綺麗になったところで、一文字に刻まれた傷痕に絆創膏を貼る。過去の経験から常備していたのだが、役に立ってよかった。
そして、母親は困惑と怒りをないまぜにした表情で、私をきつく睨んでいた。
「蓮司、付き合う相手はもっと考えて選びなさい。世の中には言っていいことと悪いことがあるのよ」
「五秒以内に帰らないと殺す」
「はい?」
カバンからハサミを取り出した蓮司は、刃の部分を舞子へと向けた。不意に表出した殺意に彼女はサッと蒼褪め、肩を縮こまらせた。
「……冗談でしょう?」
「父さんを殺したのも冗談だったらよかったのにな」
まさか、本気ではあるまい。しかし、彼から発している殺意の電波は強くなる一方だ。いまはまだ脅しの段階であっても、有言実行の覚悟が決まってしまう可能性は十分ある。それにあてられて、私も若干の頭痛を覚えた。
蓮司だって好きでこうしているわけではないことは、刃先の震え方からも読み取れる。父を殺した手で、今度は母を殺すかもしれない。そんな恐怖を身に浴びてでも、やらなくてはならないのだ。
自身の尊厳のために。
――でも、もしものときは私が止めなくちゃ。
私の細腕では彼を制止させることはできないかもしれないが、人殺しにさせるわけにはいかない。
「五、四……」
蓮司が数え始めると、舞子は素直に後ずさり始めた。
「わ、分かったわよ……でも、また来るからね。あなたは私の息子だから」
「三、二、一……」
とっくに背を向けて、早足で去って行った母親を見送る。彼女はちらちらと振り返ったが、立ち止まることなく、そのまま曲がり角へと消えた。
フッと殺意の波が消えると、
「はぁっ……」
蓮司がふらりとよろめいて、私は彼の肩を支えた。
精神的な疲労がピークに達したのか、明眸の光はくすみ、肌からは脂汗が滲んでいる。顔色もどことなく悪い。
「蓮司くん、家に入りましょう」
「あ、あぁ……」
どうにか玄関で靴を脱ぎ、部屋まで行こうとしたが、
「うっ……!」
蓮司は口を押さえるや否や、トイレへと駆け込み、激しく嘔吐した。胃の内容物どころか内臓まで吐くかのような声。涙をボロボロと流して、もう吐くものすらなくなって胃液すら出ない状態でも、彼はまだ落ち着かない。
背中をさすっていた私は、どう声をかけるべきか迷っていた。
嘔吐するほどの精神的な負荷だ。いままで抱えてきたストレスも多分に混ざっていることだろう。下手な慰めはむしろ悪化させかねない。かつての私のように。
けれど、こうして彼のそばにいてあげることはきっと正解のはずだ。
「げほっ……うぇぇ……」
「蓮司くん、お水は必要?」
弱々しくうなずいたのを確認して、台所からコップに水を入れて持ってきた。
蓮司はおぼつかないながらも喉に流し込み、いくらか落ち着いた様子を見せた。
「ありがと……咲……」
「いいのよ。あなたはよく耐えたわ」
「咲はケガ……してない……?」
「えぇ。あなたのおかげよ。だから、安心して」
彼の悲しみの電波を感じながら、できるだけ刺激しないよう言葉は穏やかなものを選んだ。
こうなっては安静にすべきだ。万が一にもぶり返すようなことがあってはいけない。
蓮司の部屋へと赴き、彼のベッドに寝かせた。呼吸がしやすいように第二ボタンまで開き、部屋の窓を開放する。入り込んでくる外気はとても寒いが、掛け布団を被せればいくらかマシだろう。
そうして見守ること数分。
彼が寝息を立てたのを見て、ホッと一息ついた。
「よっぽど疲れたのね」
思い出したくもないことを思い出しただけに留まらず、癒えかけた傷口を深々と抉られたのだ。その痛みにも耐えて、母親を追い返した。まったく、労に見合った結果ではない。
……ほんとうに不器用な人ね。
彼の前髪を指で梳きながら、寝顔に見惚れる。
「……とおる……」
蓮司は寝言をこぼすと、すがるように私の制服の裾を指でつまんだ。
少しだけ、胸がズキッと痛んだ。
「ごめんなさい。透くんはここにいないの」
「いか……ない……で……」
「だいじょうぶよ。私がそばにいるわ」
孤独になる夢でも見ているのだろう。現実がすでに悪夢だというのに、眠っても悪夢とは、神はどこまで彼を苦しめるのか。
手を握っても、表情が優れる様子はない。電波もまだ乱れたまま、愛を求めている。いまの蓮司は人肌を恋しがる赤ん坊のようなものなのだ。
どうすれば、彼を悪夢から解放できるのだろう。
「……………………」
私は少し逡巡して、制服のジャケットを脱いだ。襟首のリボンを外し、シャツを開く。あらわになった肌に冬の寒風が障る。ブラのホックを外し、上半身を裸にした。
乳房を晒して、蓮司の被っている掛け布団に潜り込み、彼の頭を胸に抱きしめる。彼の呼吸の熱をじかに感じながら、
母を求めて呻く彼に対して、自分ができることはこのぐらいしかない。寒さもある、羞恥もある。けれど、こうすることで彼が安らぐのなら構わない。ここまでずっと助けてもらってきたのだ。これでも恩を返し足りないぐらいだろう。
「ひゃ……っ!」
先端に冷たい感触があり、思わず声をあげてしまった。
蓮司の舌が飴を転がすように動き、胸が唾液で濡れていく。徐々に彼の口内の体温が私に乗り移ってきて、まるで浸食するかのようだった。
無垢な愛撫に刺激され、ピンッと固くなった先端から電流のような痺れが乳房を伝い、心臓から背中へと体を貫く。
「はぁ……あっ……」
私は初めての感覚に戸惑い、喘いだ。
自分で触れるのとはまるで違う、まったく思い通りにならない動き。ひとつひとつが新鮮で、未知で、おこなわれる行為にただただ身を震わせるしかできない。
淫蕩の音ばかりが鳴る部屋に、窓の外から子供たちの声が聞こえてくる。学校帰りだろうか。それともこれから遊ぶにでも向かうのだろうか。私は熱が溢れる肉体から、外へとできるだけ意識を逸らした。
「んっあっ……やっ……ぁ……」
まどろむ赤ん坊が親指を咥えるような動作で、蓮司はおもむろに吸いついてきた。歯が当たるも、噛む様子はない。ゼリーを崩さず舐めるかのように、舌先が優しく私のつぼみを弄ぶ。
それでもいい。いまは好きなだけ甘えてほしい。
「ふぅぅ……んぁっ……」
だんだんと私も興奮を覚え、下腹部が疼いてきた。手を伸ばしかけて、どうにか理性で抑え込む。
これは蓮司を安らかに眠らせるためのものだ。もしも自慰に耽ってしまったら、それは彼を利用して自分を慰めているという、下劣な行為に貶めてしまう。
そう頭で分かっていても、熱い情動が神経を焼き、喉の奥で卑声が躍る。
「ん……あぅっ!」
ひときわ大きな嬌声をあげてしまい、とっさに口を押さえた。
蓮司が目を覚ましはしないかと不安だったが、まだ夢の中のようだった。長いまつげのベールを下ろした彼のあどけない寝顔は、母性本能をくすぐられるほどに可愛らしく、ずっとこのままでいたいとすら思えた。
しかし、私はすでに余裕は失っていた。奔騰する肉悦に身悶えながら、獣心を檻に閉じ込めるので精一杯だ。遠からず訪れる結末は、この饗宴を中断するか、我慢ができなくなってしまうかだろう。
「れん……じ……くんっ……」
思わず呼びかけると、
「ぅ……さ……きぃ……?」
彼のまぶたが揺れて、わずかに瞳を覗かせた。
「んぅ……?」
「あ……」
覚醒の兆しを告げる電波を感じ、これ以上の刺激を与えないために動きを止めた。が、彼の視界いっぱいに映っているのは私の裸だ。少しでも変に思えば、そのまま目を覚ますだろう。
などと考えていると、
「さき……」
蓮司はどうやら寝惚けているらしく、うとうとした様子だった。
それでもわずかに私を認識はしているようで、乳房に手を伸ばし、感触を楽しむように揉んだ。羽毛のような触れ方で、表面を浚うように撫でる。
「あんっ……ふ……んぁ……」
「……ん? なんだ……これ……?」
「お目覚めかしら」
「え?」
私の返事が急激な覚醒を促したのだろう。蓮司は驚きで目を瞠り、ガバッと掛け布団を跳ね飛ばして起き上がった。
「なにし……サッッッッッッッッッッッム!!」
体を抱いて震える彼。被るものがなくばれば冷気にあてられるのは当然。
「咲はなんで裸なの!?」
「あなたがうなされていたから」
「なに言ってんの、この子!? と、とりあえず服着なよ! 風邪ひくよ!」
「あら、バカは風邪ひかないって言うでしょう?」
「バカって自覚あるの!? とにかく、窓閉めるからね!」
大慌ての蓮司は落ちていた制服やブラを投げつけると、窓をピシャッと閉めた。こちらを見ないように努めているのがおかしくて、少し笑ってしまった。
言われたとおりに服を着ると、蓮司はようやく視線を向ける気になったようだった。
「……咲、体冷えてない? コーヒーでも飲む?」
「ミルク多めでお願いするわね。砂糖はふたつ。あと、お菓子も」
「うん。いつもの咲だな。それが逆に怖いんだけど」
数分後、用意されたクッキーをガツガツ食べていると、蓮司は複雑な表情でたずねてきた。
「にしても、どうして裸に……?」
「あなたが無理やり脱がせたのよ」
「嘘でしょ!?」
「嘘よ」
「ンンンンンンンン! ほんとうのこと言ってもらえますか……?」
「さっきも言ったけれど、あなたが悪夢を見ているようだったから、私なりに落ち着かせる方法をとっただけよ。でも、迷惑だったのなら謝るわ。いきなりあんなことをされて、不快だったわよね」
「いや、不快というか……男としては眼福というか……とりあえず、咲が謝る必要は無いよ。僕のことを思ってしてくれたことだしね」
「はひはほほ、へんひふん」
「クッキー食べながらしゃべるのやめよっか」
不安はあったが、蓮司がいくらか気分を良くしてくれたことはとても喜ばしい。いくらか恩返しができたということだ。
コーヒーを喉に流し込むと、私は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「蓮司くん、少し眠ったら多少なり頭がスッキリしたんじゃないかしら」
「まあね。まだちょっとムカムカするけど……」
「足りないようなら、いつでも胸を貸してあげるわ。一回、三千円で」
「お金とるの!? ちなみに、さっき眠っていたときに僕は咲になにかしなかった……?」
「おっぱいを吸われたわ」
「恥じらいを持てェェェ――――――!! 乙女!! オイ!!」
「まるで熟れた果実を味わうようにねっとりと……」
「どこから引っ張ってきた語彙だよ!? っていうかヤメテ! 羞恥心で死にたくなってきた! さっき閉めた窓から鳥になりたくなってきた!」
「もう片方の乳房を、いやらしく撫でながら……」
「ぐええええええ殺してくれええええええええええええええ!」
ジタバタと転がる蓮司を眺めながら、意外にも彼ほどの恥ずかしさを覚えない自分に驚く。
その根拠とするところは、私自身がさきほどの行為に後悔がないからだろう。こうして元気になった彼を見ているだけで、救われた気持ちになる。もちろん、おおげさに暴れる彼を見て、逆に冷静になっているというのもある。
「蓮司くんが望むのなら、またしてあげてもいいのよ。代わりに焼肉食べ放題に連れて行ってくれると嬉しいのだけれど」
「自分を安売りするのやめなさい……」
「どうしてもイヤなら、食べ放題だけありがたくいただくとするわ」
「それじゃあ僕がただ奢るだけじゃん!!」
「つまり、胸も欲しいと……」
「言ってない!!」
◆
「ということがあったのよ」
後日、学校。
私は透のいないところで、ありさにことのあらましを説明していた。この手の話ができるのは彼女ぐらいのものだ。透や両親は言うに及ばず、恵に話でもしたら遠回しにからかわれかねない。
ありさは呆れ切ったとばかりに深いため息をついた。
「なんだその背中がむず痒くなる話は。女子が攻めてきてんだから、男からガッて行くべきだろ! 押し倒せ!」
「ありさ、下品よ」
「堂々とさっきの話をしたおまえにだけは言われたくねえよ!」
「あら、失礼ね。一肌脱ぐ、という言葉があるでしょう?」
「そのままの意味じゃねえ! っていうか、おまえの行動はいつも突拍子もなさすぎんだよ!」
「これでもいろいろ考えているのだけれど……」
荒療治のおかげで、蓮司が母親との邂逅を引きずった様子は見受けられない。もちろん、ダメージがないというわけではないが、大きく波打つような電波を発することはなかった。
それでいい。彼はあんな母親のことは忘れて生きていくべきだ。もうすでに人並み以上に苦しんだ。反動で溢れんばかりの幸運が降ってきてもいいぐらいだ。
「でも、まあ……大変だったな。あたしでも、母親からそんな話されたら大暴れしてた。っていうか、する」
ありさは口端を上げると、ウインクした。
「頑張れ、花島。あいつを助けられるのは、たぶんおまえだけだ」
「……そうね。頑張らなくちゃ」
透のまぶしすぎる光では、蓮司の心の闇を払いきれず、さらに濃い影を生み出すだけだった。崇敬と依存が彼を支配している限り、透の暖かさはきっと逆効果になる。
私ならば、闇を持って闇を払える。同じものを抱えている間柄にだけ通じるものがあるように。
――だから、私だけを見てほしい。
日に日に増していく想い。
いつか爆発してしまう恋心。
以前の私なら絶対に否定していた気持ちだ。
透たちに胸の内を打ち明けてからは、なにごとも前向きに考えられるようになった。私でも光の中にいてもいいのだと確信できた。
晴れやかな想いとは対照的に、窓の外。
鈍色の曇天から降りくだる真冬の雪が、今年の終わりが近いことを知らせている。
もうじき、私たちは中学三年生。受験だ。