蓮司の家を飛び出した私は、遅れてやってきた心臓の激しいビートに汗を流しながら、呼吸を整えていた。鏡を見れば、きっと彼と同じように顔が朱に染まっていることだろう。
吐く息の白さを眺めながら、ノリノリで行為に及んでしまった自分に猛烈な後悔を覚えた。あれは完全に舞い上がっていた。調子に乗りすぎだった。
手にはまだ、あの熱い感触が残っている。どういう形で、どういう色で、どういうものだったのかをハッキリ思い出せてしまう。弟や父親のものすら見たことがない。創作物だって、本やイラストでモザイクのかかったものしかない。本当に、初めての経験だった。
そして、いままで見たことのない蓮司の表情。顔が真っ赤になって苦しそうだけど、もっと優しくいじめたくなるような愛おしい顔。呼吸を荒げて、目の焦点もブレて、でも頭の中は私のことでいっぱいになっている表情がまぶたの裏に投影されるたび、胸に熱いものが込み上げてくる。
「はぁ……」
真っ白なため息は、必要ないぐらいに昂ぶった心を少しだけ沈めてくれた。
暗くなった夜空を仰ぎながら、ひとりごちる。
「明日、顔を合わせられるかしら」
煌々と耀く月は答えをくれなかった。
◇
冬休みの到来に続いて、世間はクリスマス迎合ムードになっていた。
赤と緑のカラーリングがあちこちで見られ、お祭り行事としての騒々しさをいかんなく発揮している。これが当日になれば、さらに騒がしくなるのだろう。
そんななか、来年は受験を控えているということもあり、私を含めたいつもの三人は勉強会として私の家に集まっていたのだが……。
「ありさ、ここはどうすればいいのかしら」
「あぁ……それは……」
「う、うおちゃんっ! 数字の桁が増えて、ど、どうしたらいいのやら……分かりません!」
「それはさっきの……」
「ありさ、この問題なのだけれど……」
「こりゃあ……」
「うおちゃん!」
「んんんんんんんんん」
「ありさ」
「だあああああああああああああああ!! あたしの負担がでけえ!!」
ノートを投げ飛ばして怒鳴ったありさ。
もはや自身の勉強ができる状態ではなくなっているのだから、当然の反応だろう。
ここ数日。学校でも家でも遊びに行ったカラオケでも、ノートを広げない日はない。きょうも座卓を三人で囲み、予習をしている真っ最中だ。
……いや、正確に言えば予習をするはずだった。その前にまず復習が必要だと判断されただけで。
それもこれも私と透の学力を鑑みて、いまから始めなければ、目標としている高校の合格も怪しいと判断してのことだった。
「も、申し訳ありません、うおちゃん……わ、私……」
泣きそうな顔で謝る透に、ありさは疲れ切った顔でうなずいた。
「あぁ……分かんねえのはしかたねえよ……。っていうか、そのための勉強会なんだからな。でも、さすがにふたりを教えるのはキツイわ……やっぱ蓮司呼ぶか。あいつなら来るだろ」
十分に合格ラインの学力である蓮司が来てくれるならば大助かりだ。
ただ、家に入れるのが少し恥ずかしい気持ちがある。家族にどう紹介しよう。彼のことは恵にしか話したことがない。いきなり男子を招いたら、からかわれたりしないだろうか。
そんなことを考えているあいだに、ありさはさっさと電話してしまっていた。
「おう、いまから来い。あ? 勉強だよ勉強。おお……きょうサッカー部ねえだろ? 透もいるよ。あぁ。花島ん家な。すぐ来いよ。お菓子もな。じゃ」
ちょっと誘い方が乱暴すぎないだろうか。
電話の向こうでプリプリ怒っている彼の顔を想像して……少し面白かった。
数十分後。
「いらっしゃい」
「なにが、いらっしゃい、だ」
玄関に立っている蓮司は、呆れたように眉間を揉んでいた。コートを腕にかけ、中には暖かそうな青いセーターを着ている。
「いきなり家に呼び出しなんて……」
そうは言うものの、彼が肩に提げているショルダーバッグは傍から見てもパンパンだった。教科書やら過去門などを詰めてきたのだろう。嫌々言う割にしっかりしている。
「ありがとうございます、蓮司くん。わざわざ来てもらって……」
「透はお礼が言えて偉いね~」
蓮司は鼻の下を伸ばしてデレデレしていた。
その褒め方がおじいちゃんおばあちゃんな気がする。
そのとき、奥の廊下でパタパタと走る音が聞こえてきた。リビングでゲームをしていた弟の恵が、ひょこっと顔を出してこちらの様子をうかがっている。
いつもこの家に来るのは透とありさだけだ。予想外の三人目の来訪者が気になって出てきたのだろう。
「咲、あの子は?」
「弟よ。名前は恵。以前、教えなかったかしら」
「そういや言ってたね。へー……そっくり」
「そうかしら。あまり似てないと思うのだけれど……」
「いや、似てるよ。ほぼ生き写しだよ」
以前、ありさにもそう言われたが、ほんとうに似ているのだろうか。たしかに可愛らしい顔をしているとは思うが、私のような暗い女に比べれば、恵の方が華があると思う。……さすがに身内贔屓がすぎるだろうか。
蓮司は腰を下ろすと、恵に視線の高さを合わせて、ニッコリと微笑んだ。彼が学友たちにいつも見せる外面の仮面だ。意識的にか無意識的にかはともかく、すぐさま人によって適した態度をとれるところが、彼のいいところだ。
「こんにちは、恵くん。僕はキミのお姉さんの……」
そこに、恵が彼にソッと近づいて耳打ちした。
「……咲の彼氏?」
「ブッ!! げほっげほっ……!! ……ち、違うよ。うん。お友達。お姉さんの、お友達。分かった?」
ベタなリアクションね。
「そうですか。いつも姉がお世話になっています」
ぺこり、と頭を下げた恵に、蓮司は笑みが崩れかけていた。
「姉がなにかご迷惑をかけていませんでしょうか」
「いやいや、こっちこそ助けられてばかりで……」
「例えば?」
「たとえ……ば……えっと……」
ちらちらと見ないでほしい。張本人である私に助け船を求められても困る。
弟の意地の悪い質問に当惑していた蓮司は、ややあって口を開いた。
「……僕の代わりに、怒ってくれた……かな」
母親との一件のことだろう。
あのとき、私があいだに割って入ったのは危機感を覚えたからだ。
あのまま蓮司が怒るがままにさせていたら、きっと取り返しがつかなくなっていた。彼から伝わる電波がどんどん荒くなり、そばにいた私だけでなく、彼自身をも自壊させかねない激しさを伴っていたのだ。
以前、一瞬だけ彼から向けられたことのある、おぞましい熱を持った黒い電波。
殺意。
その震えるような呼吸と、悪魔も射殺すような眼差し。
あのまま放っておけば、まず間違いなく蓮司は母親をなにかしら害していたはずだ。殺すまでいかずとも、それなりのケガを負わせていたに違いない。
だから、その怒りの一部を肩代わりすることが私の役目だと思った。
「キミのお姉さんはちょっと変だけど、いい人だよ」
「ちょっと?」
「ごめん。かなり変だね」
「うん。ですよね」
そんなところで意気投合しないで。
ふたたび私室に集まった私たちは、勉強道具とお菓子を広げると、さて誰が誰を受け持つかという選択に迫られた。
人には得意教科もあれば、苦手教科もある。教えることにも上手下手が存在する。どこに詰まっているかを確認する必要があるだろう。
「ちなみに、私は国語以外すべてダメよ」
「典型的なバカ陰キャじゃねえか」
「ありさ。それは言い過ぎよ。まあ、事実なのだけれど」
「認めんのかい」
「私、少女小説を読むのが趣味なの。あと少女漫画も」
その証拠に、本棚には淡い色合いをした表紙の本が詰め込まれている。小説と漫画で分けてあるが、もうそろそろスペースが限界に近い。処分するか、押入れにでも押し込む必要があるだろう。
フィクションは好きだ。登場人物たちから電波が出ていないから。
感情の揺らぎを敏感に受け取ってしまう私は、他者の考えが自らの意思とは関係なく流れ込んできてしまう。
その点、フィクションはいい。セリフ、体の動き、演出などから、登場人物の考えを推理できる。生の人間にはない虚構の感情が、私にとってはなによりも尊いものだった。内面が絶対に伝わらない世界とは、私がずっと求めてきた普遍的な在り方だ。
透が本棚の中からひとつ取り出した。カバーには躍る少女の姿が描かれている。
「私、この漫画持ってますよ! 小さいころから大好きなんです! 蓮司くんはこの漫画知ってますか?」
「あんまり少女漫画には明るくなくて……どんな内容なの?」
「女の子しか入れない演劇学校が舞台で、そこでお友達と一緒にいろんな苦難を乗り越えていくのですっ! もしお話の世界に入れるのなら、この世界に行ってみたいです……」
「透が演劇かぁ……たぶん、可愛い役とか似合うんだろうなぁ。お姫様とか」
「そ、そうでしょうか……エヘヘ。で、でも悪い役とかやってみたい気もしますっ!」
「できるの? たとえば……そうだなぁ。シンデレラのいじわるな姉役とか」
「もしもそのような役ができるのなら、ぜひやってみたいです……が……いじめられるシンデレラさんが可哀想で、お姉さんを演じられないかもしれません……! 小さいころ、お母さんに絵本を読んでもらったのですが、お家でひとりお掃除をするシンデレラさんがとにかく可哀想で、よく泣いてました」
「やっぱ、透に悪役は似合わないかもね」
「で、ですが! そのときはこの漫画に出てくる女の子たちみたいに頑張って演じきります! どれだけつらくても前を向くことを、彼女たちから教わりましたから!」
「なら、透のバイブルみたいなものだね」
「はいっ! 興味がおありなら、いつでもお貸ししますよっ! お家に全巻揃ってます! お母さんも大好きなので、一緒に買いに行きました!」
「いいね。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
彼女のオススメした本はアニメ化もされている超人気少女漫画だ。とはいえ、男子でも引っかかりなく読める内容かというと疑問が残る。
女の子同士のいやにギスギスしたセリフや雰囲気。上級生のイジメ。そして、個人個人のドラマに重点を置いているため、物語にスピード感がなく「いつ演劇の話が見られるんだ?」という感想もたびたび見られる内容だ。
そんな欠点を補うだけの魅力がある作品だから、ハマりさえすれば問題はないのだが……。
「咲は、おすすめの漫画ってある?」
「え?」
蓮司に問われて、私はスパコンもかくやといった脳内処理を稼働させた。
あの漫画はどうだろう……いや、性的な描写が生々しくて気持ち悪いな。じゃあ、あれは……女の目から見てもヒーローキャラが鼻につく。なら、これは……。
どんどん深みにはまり、最終的に一冊の漫画を取り出した。
「これなんてどうかしら」
「これはなに?」
「主人公の女の子の胸が大きい」
「うん。男子はみんな巨乳ならなんでもいいだろっていう偏見が透けて見えるね。却下」
「待ってちょうだい。本当に大きいのよ」
「しつこいよ! だいたい、少女漫画の巨乳の大きさなんて――――デケェ!!」
内容をちら見せした途端、蓮司が叫んだ。
「興味が湧いたようね」
「違うって! ねえ! 透の前で僕を下品なヤツに貶めないで! 見てるから! あの子すごい純真な目で僕を見てるから!!」
「だいじょうぶよ。後で私から透くんに“蓮司くんだって思春期の男の子なのよ”って言っておくから」
「それただの追い打ちィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!」
「……おまえら」
ボールペンを握っているありさが、阿修羅のごとき人相で唸っていた。
その場にいる全員の体がすくむ。
「勉強しに来たのにいつまでも漫画の話してんじゃねええええええええええ!!」
怒りの雷が落ちて、雑談は即刻打ち切られた。
数学の問題集を黙々と解きながら、私は幼いころから抱えていた不安について考えていた。
英数理はここで教えてもらうとして、それ以外の暗記が必要な教科はどうすればいいのだろう。
元はといえば私の集中力が問題だ。教科書に書かれている熟語を見ても、まるで頭に入る気がしない。ノートに書いて覚えようとしても、次の日には記憶が薄れて、思い出すことすらしなくなってしまう。なにを忘れているかさえ忘れているというのは、あまりにも致命的だ。
いい覚え方はないか、とみんなにたずねると、
「覚え方? あるよ」
蓮司が手をパーに開いた。
「覚える単語を口ずさみながら、指を折るんだ。たとえば、この徳川将軍の覚え方。親指のときに、徳川家康。人差し指のときに、徳川秀忠。中指のときに、徳川家光。って感じにね。そうすると、指を折っただけで思い出せるようになる。よく言うでしょ? 手を使い、口に出せば覚えるって」
「なるほど……でも、六代目以降は?」
「それはもう片方の手を使えばいい。それでも足りないなら、折った指を開いて、十一代目からまた数えるんだ。書くよりも覚えやすいよ」
私は教えてもらったことを試してみることにした。徳川家康……徳川秀忠……。
それを十五代目まで三回唱えて、解答欄に書き込んでみた。詰まる答えがあれば、一から指を折って数える。するとどうだろう。物覚えが悪かった私でも、徳川十五代目までの名前を正確に書き込むことができた。漢字のミスはあったが、読みに間違いはひとつもない。
もちろん、これはほんの数分前に記憶したばかりのことだから忘れていないだけの可能性はある。数日たてばいくつか忘れるだろう。それでも、私にとっては快挙だった。
「すごい……ほんとに覚えてる……」
「でしょ? 前に読んだ小説に書いてたんだ。これなら、たとえ途中の部分を忘れてしまっていたら、忘れていることにも気づけるよね」
ありがたい。これなら、私でも覚えられるかもしれない。
彼の有用すぎる余技に感心して、ハッと気づいた。
……蓮司くん、私としか会話してないわ。
勉強会が始まってから一時間、彼はずっと私にかかりっきりになってしまっている。
どうしてだろう、と考えるまでもない。ありさが透に教える係を担っていたからだ。電波を読んだ限り、彼女に蓮司の恋路を邪魔するつもりなど微塵もなかった。ただ、このなかでは一番古い友人だから、自然とそうなってしまったのだろう。
ここはひとつ、こちらから水を向けてやる必要があるかもしれない。
「ありさ、ここの文章問題の解き方を教えてもらえるかしら」
「ん? あぁ、そこな。それは……」
ありさの注意がこちらに向いた。これで蓮司と透の会話も増えるはずだ。
そう思っていると、
「蓮司くん。ここの問題を教えてもらえますか?」
狙い通り、透は蓮司を頼っている。
あとは彼が頑張るだけだ。
「え、あ、うん! それはね、ここを……」
蓮司は遠慮がちに透に肩を寄せると、ガチガチに緊張しながらも教え始めた。
「なるほど……とっても分かりやすいですっ! ありがとうございます、蓮司くんっ」
「ははっ……役に立てたのならよかった。あ、次の問題気をつけてね。引っかけだから」
「は、はいっ! えっと……あ、分かりました! たかしくんは時速百キロで走っていらっしゃるのですね!」
それは人間ではない。
たどたどしいながら順調にやっているようだ。
ふたりの距離が少しずつ縮まるごとに胸が痛むが、どうにか抑え込む。こうなることを望んだのは自分だ。いちいち嫉妬してはダメ。慕情よりも彼に対する恩義を優先すると決めたのだから。
勉強よりもふたりのほうに意識が行きがちになっていると、
「そろそろ休憩入れるか」
ありさが持ってきていたお菓子を取り出した。
時刻は午後四時。勉強会を始めてから二時間ほど経過している。たしかに、そろそろ頭を休ませる頃合いだろう。小腹も空いてきた。
勉強道具を一時的に片づけ、座卓にお菓子を置く。各々、好きなように手に取って食べ始めた。
「そういえば、みなさんクリスマスはどうされるんですか?」
透の質問に、ありさは首をかしげた。
「あー、なんも考えてなかったなぁ。去年は家でパーティしたんだっけか」
「はいっ。とっても楽しかったです!」
「今年はどっか遊びに行くか。花島もいるし」
私はポテチを食べながら手を挙げた。
「蓮司くんも一緒、はどうかしら?」
「えー、やだ。夏祭りン時みたいに蓮司の囲いとか思われたら、屈辱すぎて首吊るわ。女が三で男が一だぜ? 傍目から見たら、そう思われてもしかたねえよ」
「なら、ありさ。だんそ……」
「それ以上言ったら窓から投げ飛ばす」
「男装してもらえるかしら」
「忠告したのに即言いやがったな花島ァ!!」
おもむろに立ち上がったありさを、蓮司と透が慌てて止めた。
名案だと思ったのだけれど、よくよく考えてみると人の心がない提案だったかもしれない。クリスマスにその
一旦ありさを落ち着かせると、蓮司は苦笑いを浮かべて言った。
「いいよ。僕だってサッカー部とかの付き合いもあるし。もちろん、咲の誘いは嬉しいけどね。クリスマスは三人で楽しんでくれ」
諦め、だろうか。彼の言葉の裏から伝わってくる、この電波は。
ならば、蓮司が透をデートに誘えば……そう考えたが、彼にそこまでの積極性があったなら、いまこういう中途半端な関係にはなっていない。
夏祭りのときのように、こちらで誘導しようか。となれば、ありさを引き離す必要があるかも。
などと、ポテチを頬張りながら心緒に沈んでいると、
「おいおい。咲、口汚れてるよ。ほら、ティッシュ」
「んむっ……!」
意識の外から伸びてきた蓮司の手が、私の口周りを丁寧に拭った。指が唇に触れる感触で、胸の奥に言いようのない熱が沸き上がる。
「これでよし。咲はさぁ、食い意地だけはあるよね。もっとゆっくり食べないとダメだよ」
ハハハ、と彼は楽しそうに笑った。
私は赤ちゃんかなにかみたいに扱われたことにひどく羞恥を覚え、カーッと顔が熱くなり、言葉を詰まらせた。
「えっ……あ、ありがとう……蓮司くん……」
人前でこんなことをされるなんて、面映ゆいどころの話ではない。
「なんかさぁ……」
と、ありさが頬杖をついて、私と蓮司を交互に見た。
「おまえらって、お互いに過保護だよな」
「「過保護?」」
「ふたりとも自覚ねーのかよ。しなくていいとこまで干渉して……親じゃねえんだから」
言われてみればそうかもしれない。
色恋沙汰などというのは、他人の手を借りる部分もあるものの、結局は本人が頑張るものだ。なのに私が一から百まで彼を手引きしようなどと考えていたのは、ひどくおこがましいことに違いない。
「口が汚れりゃ勝手に拭くだろうに。っていうかおまえも花島も、なんか距離感バグってんだよなぁ」
「それはまったく同意見だ」
蓮司が前のめりになって肯定すると、ありさは後ろに引いた。
「寄るな寄るな。さっそく距離感バグってんじゃねえか」
「あ、すまん……」
実際、ありさの言うとおりだろう。
私が蓮司に裸を晒したのも、体を委ねたのも、一般的な常識からすれば異常そのもの。彼の戸惑った反応は至極当然のことだ。私自身にはそこに至るだけの理由があったとはいえ、傍目には推し量れまい。付き合ってもいない相手と密な接触をしたと聞いたら、誰だって快く思わないだろう。
蓮司の気が済むまで、私の気が済むまで関係を続けようなどというのは、怠惰で破滅的な提案だ。非日常的な行為のあとで舞い上がり、思考能力が落ちていたゆえの言葉だった。
「私はそれでもいいと思います」
透の言葉が、私の思案を中断させた。
彼女は羨ましいものを見るように瞳を静謐に輝かせながら、言った。
「大切な人のことって、意識しなくてもずっと見ていてしまいますよね。だから、細かい部分も気になってしまうし、手を焼きたくなるのだと、私は思うのです。たとえそれが迷惑だとしても……。お母さんも、よく私なんかのことを気にかけてくれますが『そこまで気を遣わなくていいのに』って罰当たりなことを考えてしまったこともあります」
その朗々とした優しい声と言葉はすぅっと胸の奥に届き、わだかまっていた小さな闇を洗い流していく。
「だけど、それだけ大切なのですよね。好きな人には一秒でも多く幸せでいてほしいものなんだよ、ってお母さんも言ってました」
「透くん……」
「過保護でもよいのですよ。おふたりがお互いのことを大好きなら、目いっぱい大事にしてあげてくださいっ!」
「え?」
「え?」
「待って透くん。いまのはどういう意味で言ったのかしら」
「どういうって……おふたりはお付き合いされているのですよね?」
本日二度目の――それも本人による勘違いに、蓮司は卒倒してしまった。白目を剥いて倒れている。
「あ、あれ……?」
困惑する透。
まさか蓮司が自分のことを好きで、さっきの発言がクリティカルヒットしたなどということは彼女には知りようもない。
しかしながら、ちょっとかわいそうだった。